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映画「銃殺 2・26の反乱」〜処刑

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2・26事件の映画は数多くあれど、彼らを裁いた法廷シーンを描いているものは皆無です。
なぜかというと、当時の軍法会議はマスコミには公開されず、
しかもその公判記録は戦後逸失して長らく詳細が不明になっていたからです。

しかし、当時からはっきりしていたことは、軍人15名に北一輝と西田税の二人を加えた
この17名が反乱罪における「首魁、あるいは群衆煽動の罪」を問われ死刑に処されたこと、
そしてその裁判が弁護人をつけず、審理は全て非公開、一審即決、上告を通さずの
暗黒裁判であったということです。

それにしてもこの異常な人数の処刑は一体何なのでしょうか。


安藤、そして栗原は死刑になる人数があまりに多いことに衝撃を受け、
磯部は最後までこの判決を恨んでいたといいますが、これは彼らに限ったことではありません。
事件が歴史の一ページとして語られるようになった今日の目で見ても、
その量刑の厳しさには、尋常でない、何か大きな力が働いていたらしいと窺い知れます。

この裁判には、まず民間人である北と西田は事件への直接の関与がないとして、
不起訴または執行猶予付きの刑が妥当だとされていたのを、陸軍大臣の寺内寿一が

「両人は極刑にすべきである。両人は証拠の有無にかかわらず、黒幕である」

と主張したため死刑に決まっています。
この公判で無期禁固となった元歩兵少尉の池田俊彦は、調査起訴した乞坂(さきさか)春平を

「匂坂法務官は軍の手先となって不当に告発し、
人間的感情などひとかけらもない態度で起訴し、
全く事実に反する事項を書き連ねた論告書を作製し、
我々一同はもとより、どう見ても死刑にする理由のない北一輝や西田税までも
不当に極刑に追い込んだ張本人であり、
二・二六事件の裁判で功績があったからこそ関東軍法務部長に栄転した
(もう一つの理由は匂坂法務官の身の安全を配慮しての転任と思われる)」(wiki)

と戦後厳しく糾弾しています。
池田は首魁とされた中でただ一人死刑を逃れた人物であり、
処刑された蹶起将校たちの遺志を伝えるべく戦後数々の著書を残し、
2002年に88歳で亡くなりました。

確かに彼らが革命成立後、総理大臣、陸軍大臣として真崎や荒木を立擁立して
新政府を立てることまで計画していたのだとしたら、この二人が全く法的に責任を問われず、
思想指導をしたという西田や北が処刑されたというのは、バランスからいっても全く不明瞭で
かつ不公平であったと言うしかありません。




映画に戻ります。

山王ホテルで拳銃自殺を図った安藤大尉が回復し、
他の将校たちが収監されている獄房に帰ってきました。



房への通路を歩く安藤に栗原、磯部が声をかけます。

このときに彼らは襲撃の際傷を負って入院していた病院で
兄に差し入れさせた果物ナイフで割腹し、頸動脈を突いて自殺した
所沢の航空兵大尉であった天野(河野)のことを讃え合い、

「さあ、これで皆そろった。公判で頑張ろうぜ!」

と檄を飛ばし合うのですが、その結果は前述の通りです。



磯野大尉は監獄で「行動記」という手記を記しました。
面会のたびに夫人に持ち出させて、それが後世に残されることになります。

「何にヲッー、殺されてたまるか、死ぬものか、
千万発射つとも死せじ、断じて死せじ、死ぬことは負けることだ、
成仏することは譲歩することだ、死ぬものか、成仏するものか、
余は祈りが日日に激しくなりつつある、余の祈りは成仏しない祈りだ」

「余は極楽にゆかぬ。断然地ゴクにゆく、
・・・ザン忍猛烈な鬼になるのだ、涙も血も一滴ない悪鬼になるぞ」

(『妻たちの二・二六事件』澤地久枝著)

佐藤慶の演技には、最後までこのような勁烈たる執念と怨念を吐き続けた
磯部浅一がまるで乗り移ったかのような鬼気迫るものが感じられます。

映画では公判の様子をまったくすっ飛ばして、厳しい量刑がでたことを字幕ですませ、
安藤大尉が判決に憤る彼らの声を聞きます。

「暗黒裁判だ!」
「俺たちの声を国民に知らせろ!」
「畜生、俺は地獄から舞い戻って軍首脳を皆殺しにしてやるぞ!」
「俺は銃殺された血みどろの姿で陛下のおそばに行って
 洗いざらい申し上げるんだ!」

最後の言葉は、一年後に処刑となった磯部が、7月12日にまず15名が処刑になるとき
その銃声をかき消す為に朝から隣の代々木練兵場で行なわれていた空砲による訓練と、
同じく音を消す為に朝から低空飛行を続けていた飛行機二機の爆音、そして
ときおり聴こえる「万歳」の声の合間に混じる実弾の音を鋭く聞き分けて(澤地)

「やられていますよ」

と悲痛な声をあげたあとに絞り出した怨嗟の言です。
自分たちの至誠を受けいれることを拒まれた天皇陛下に対し、彼がどのような思いでいたのか、
何よりもこの言葉が多くを語っています。



精一杯の心づくしの弁当を持って面会に訪れる安藤の妻房子。

蹶起将校は殆どが結婚してまもない若い妻たちを後に残して行きました。
許された僅かな面会時間にせめて自分の美しい姿を夫に見てもらおうと、
彼女たちは「毎日お祭りのように綺麗に着飾って」夫との逢瀬にやってきたそうです。

そして、雨の降るある日、おそらく6月という設定だと思いますが、
今日の面会が最後になる、と看守に言い渡され愕然とする房子でした。



実際に行なわれた7月12日の処刑第一組は、
安藤、栗原、香田清貞、竹嶌(しま)継夫、対馬勝雄でした。
処刑用の刑架は5つで、この日の受刑者は5人ずつ、朝7時から8時半までの間に
三回に分けて銃殺されました。



処刑執行のあいだ、刑務所の一室では家族が来て遺体の引き取り待っている、
という設定で映画では喪服姿の集団が映し出されますが、
実際では家族はこの日、

「御遺骸引取ノ為 本十二時×時
 東京衛戌刑務所に出頭相成度」

という通達を前日夕方に受けて駆けつけています。
報せを聴いてから徹夜で喪服を縫い上げた妻も、間に合わなかった家族もいました。

前にも言ったようにこの日刑場から聴こえる銃声を隠す為に、
陸軍は隣の練兵場で空砲による訓練を行ない、飛行機を上空に飛ばせていた程で、
ましてや遺族に銃声を聴かせるようなことはしなかったはずですが、
この映画では夫の命が奪われた瞬間を妻が銃声によって知る、
というシーンがラストとなっているため、あえてこのようにしたのでしょう。

 

あらゆる226の映画で何度もお目にかかった処刑場の刑架。
意識せずとも記憶に残ってしまうほど特殊な形状をしています。
刑架からわずか10メートルの位置に銃架があり、そこには
二挺の三八式歩兵銃が固定され、照準は前頂部に合わせられていました。



最初に眉間を狙って撃ち、その一発で絶命しなければ心臓部を狙います。
頭に巻かれた白い布の真ん中の赤い(白黒映画ですが多分)丸は 、
日の丸ではなく、刑執行者の為の照準なのです。

このとき、彼らがこのように陸軍の軍服で刑に服したというのは
おそらくこのときには既に全員が軍籍を返上した身であったことから
実際にはありえないと思うのですが、これは映画的な演出であろうと思われます。

家族に引き渡された遺体はいずれも白装束を着ていたといいます。
確か映画「大日本帝国」ではすでに死に装束のような着物を着て刑架にかけられていましたが、
家族が見た遺骸は時間を経て既に死後の処置を施され、せめてもの配慮か
血痕や銃痕を遺族が目にすることはなかったといいますから、
刑執行後処置とともに着替えを行なったというのが本当のところでしょう。
銃痕を隠す為には、遺体の額に白い布が巻かれていたそうです。 



最も急進的な首魁とされた栗原中尉。

香田が音頭をとり、天皇陛下万歳、大日本帝国万歳を
のども裂けんばかりに叫びました。
香田は

「撃たれたら直ぐ陛下の身許に集まろう。
事後の行動はそれから決めよう」

と言い、叫びの間には誰かの笑い声すら風に混じって聴こえたと言われます。





実際には磯部浅一の処刑は一年後に行なわれているのですが、
そこは映画ですので、安藤と一緒に処刑されたことになっています。
磯部は事件発生の時点ですでに一般人となり軍服を脱いでいましたから、
このように軍服のまま処刑をうけることはさらにありえません。

天皇陛下への恨みを最後まで隠さなかった磯部は、
やはり民間人である西田、北、自分と同じく軍を追われた村中と、
4人で死刑になっています。

この4人は刑に際して誰も天皇陛下万歳を叫びませんでした。

15名が処刑されてからの約一年の間に磯部が書いた手記には

「今の私は怒髪天を衝くの怒にもえています。
私は今は陛下を御叱り申し上げるところに迄精神が高まりました。
だから毎日朝から晩迄、陛下をお叱り申しております」

「天皇陛下 何と言う失敗でありますか 何と言うザマです、
皇祖皇宗におやまりなされませ」

「こんなことをたびたびなさりますと、
日本住民は陛下を御恨み申す様になりますぞ」

などという凄烈ともいえる天皇への怨嗟が書き綴られています。

このとき、真偽のほどは確かではなく、誰だったかも曖昧なことながら、
最後の瞬間、

「秩父宮陛下万歳」

と叫んだ将校がいたとされます。

秩父宮の存在とが226事件の関わりについてはかいつまんでお話しましたが、
最後の瞬間天皇陛下の御名ではなく、秩父宮を讃えて逝った将校には、
非常に消極的ながらも、自分たちと自分たちの行為を徹頭徹尾拒否なさったその方への
恨と怨嗟の気持ちがあったと考えられはしないでしょうか。


そして、もともと天皇親政は御自らのご意向ではなかったとはいえ、どうして天皇陛下は、
最終的には若者たちが見放された絶望感で「御恨み申し上げる」ほどに彼らを処され、
異例とも云える激しい御怒りをこの事件の関係者に向けられたのか。

このような考え方があります。

事件発生後、弟の秩父宮はすぐさま宮中に参内されましたが、そのときのことを

「(天皇に)叱られたよ」

と後日仰っておられたというのです。

元々この兄弟の間には親政の是否を巡って激しい議論があったこともあるといい、
実際にも蹶起将校たちが頼みにしていたのがまず秩父宮だったと言われます。

 「維新のあかつきにはいざとなれば秩父宮を立てるつもりだった」

という風評は火の無いところに煙は立たないの譬えどおりであり、
さらに資質的に豪放で外交的、リーダーに向いているという性質の弟と、
内向的で学者タイプの兄との間には齟齬のようなものが根本にあったとも云われます。


つまり、他ならぬ身内である弟宮の存在が事件の影にあったことが、
天皇陛下の異例とも云える激怒の根本の理由であったとは考えられないでしょうか。

 



蝉の声の中、刑の執行を待ち続ける家族の部屋から
その重苦しい空気にたまりかねたのかついと廊下に出る安藤の妻。
折しも刑場で菊の御紋のついた銃から夫の体に銃弾が放たれ、
その銃声があたかも自分の体を貫いたように、彼女はよろめきます。




ところで、この苛烈な死刑執行の判決を出した裁判においては、
全てが

「血気に逸った青年将校たちが不逞思想家に騙されて暴走した事件」

であるという前提の下に審理が進められましたから、
たとえば決起将校が革命成立後の新政府の首班に立てようとしていた
真崎仁三郎も、荒木貞夫も、誰一人としてその責任を問われることはありませんでした。

ただ、陸軍の皇道派はこれをもって一掃され、対立していた統制派の
東条英機らがこれ以降一層発言力を持つようになっていきます。
武藤章もその一人で、2月28日の段階で陸軍に東京陸軍軍法会議を設立し、
事件にはすべからく厳罰主義で臨むべしということを表明しました。

2・26裁判における異常なほどの死刑執行の多さはここから来ています。

青年将校たちの蹶起は、統制派の立場から見ると皇道派を一掃する
「カウンター・クーデター」(wiki)のありがたい奇貨であったともいえます。
真崎ら皇道派は彼らを利用する為に煽ったと言う面はあるものの、実際のところ
その制御に苦しみ、最終的にに暴走した彼らの行動は自分たちの首を絞めることになりました。

つまり蹶起によって最終的に利したのは、統制派の軍部であったということになります。
青年の純粋な熱と侠気だけでは、老獪な陸軍首脳部の黒さには
到底太刀打ちできなかったともいえましょうか。


この裁判で判決を下した匂坂春平はのちに

「私は生涯のうちに一つの重大な誤りを犯した。
その結果、有為の青年を多数死なせてしまった、
それは二・二六事件の将校たちである。
検察官としての良心から、私の犯した罪は大きい。
死なせた当人はもとよりその家族の人たちに合わせる顔がない」

と語り、ひたすら謹慎と懺悔の余生を送ったとされます。




安藤大尉が処刑を言い渡されたのは執行前日の夕方のことでした。
最後の夜、安藤大尉は家族への遺書、所感を書き綴り、それから
このような最後の句を残しています。


国体を護ろうとして逆賊の名

万斛(こく)の恨 涙も涸れぬあゝ天は  鬼神輝三


 

 


 

 


岩国基地の「ゼロ・ハンガー」

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岩国基地は海上自衛隊と米海兵隊とが共同使用していますが、
敷地内はとくに両者を厳しく分けるようにはなっていません。
自衛隊の食堂にはマリーンズが「本日の定食」を食べに来ていましたし、
公共部分に関しては殆ど何の制限もないように見えます。
勿論海兵隊の区域、とくにハンガーやシミュレータ室などには鉄条網で区切られ、
そこに入るにはゲートにIDを認証させなければならないようになっているのです。

それではたとえば我々が入り込んできゃっきゃうふふと写真を撮りまくった、
パイロットの更衣室やブリーフィングルームはどうかというと、
とりあえず自衛隊員やゲートのセキュリティテェックを受け身分がはっきりしており、
関係者と一緒であれば特に誰何されることもなく、入ることができるようです。 



ところで、そのブリーフィングルーム「中国の間」(笑)で、
ブラッドがブリーフィングでは本当にこんなことやるんだよ、とばかりに
模型の飛行機を使って実演してくれたのですが、
前回その写真を貼り忘れたので、追加情報ついでに貼っておきます。

注目していただきたいのはブラッドのかっこいい航空時計でも、
ばーん!とアカラサマに広げてあるブリーフィング資料ではなく、彼の持っている模型。 



この写真をアップしたときに、いつものように単純に「ひこうき」とだけ認識していたわたしは、
適当に「ファルコンが」などと一度は書いてしもうたのですが、
アップされたのを読み直したときにさすがにこれは違うわ、と思ったので即座に消しました。
しかし、消す迄の一瞬の間に読者の、特に大変うるさい親切な方に見られてしまい

「相変わらず大変に大らか、かつ、意味不明な機体識別」という愛の無いコメントついでに、

大変な情報(ってほどじゃないと言われそうですが)をいただきました。
つまり、ここに見える「ひこうき」ですが、

右端、ロシアが「原産(?)」のSU27戦闘機「型」、
(一瞬F15にも見えますが、良く見ると機体の最後部にちょこんと尻尾(^^)
が出ているのが判りますか?これが大きな識別点) その左続けて3機はF/A18戦闘機として、次の一番左端は、さかさに吊るしたスルメイカ、
・・もとい、確かパンダの国の国産戦闘機と思われます。

・・・・・・

パンダの国の

パンダの国の

パンダの国の

大事そうなことだから三回言いました。

うーん、これはどういうことかな。
もしかしたらアメリカがー、パンダの国を仮想敵国としているってことかしら。(ぶりっこ)
もしかしたらも何も、このブリーフィング室が「中国の間」である時点ですっかりその気、
っていうか、全然隠してないないみたいなんですけど。
  さらに。

SU27型機、スルメイカ戦闘機共、主翼には赤星が付いた国籍マークが描かれている様に見えますが?




写真拡大。
ボケていて
読めね〜(笑)。
いい加減にシャッターを押したのが悔やまれます。
きっとこの赤い文字で、海兵隊飛行隊の皆さんは何か面白いことを
やらかしてくれていたに違いないのに・・・・。
なんて書いてあるんだろうこれ。
ブラッドにメールで聞くわけにも行かないし・・・。

続き参ります。
  もっともSU27は半島の北側も、ロシアから何機かを買って配備している様で、
何れにしろ赤星ですが。 パンダの国では、SU27をライセンス生産している筈です。
建造中の空母にも、それの艦上機型を載せるとか言っております。 SU27はロシア「原産」なので、その模型がアメリカ海軍のこうした部署には有るのでしょうが、 スルメ戦闘機は、ちょっと、「ハッ」としました。

 なるほど。
さらに続編メールでは(行きがかり上さらしてすみません)

簡単にこの様なモノを写せて様々な意味で大丈夫なのでしょうかね?
「状況」が想定内での「話」で終れば良いのですが・・。

というこちらは正真正銘愛のあるご心配を頂いてますが、多分いいんじゃないかな。
そもそも隠すつもりなら関係者なら誰でも入れるブリーフィングルームに
でかでかと中国国旗など貼りはせんだろうて。

まあダメだったら消しますので、そのときには海兵隊憲兵隊の皆さん、連絡よろしく。

さて。

冒頭にでかでかと零戦の写真を挙げておきながらこのまま終わるわけにはいかないので、
話を続けます。

 

海兵隊のホーネットドライバーであるブラッドの妻のアンジー(仮名)
の運転で基地内を案内してもらっていたとき、彼女はこの前を通過しながら

「ここには零戦が格納してあるんだけど、夫が後で見せて上げるって言ってたわ」 

というので、全く基礎知識なくここに来て、こんなものがあるとは
夢にも知らなかったわたしは驚喜した、というところまでお話ししました。

これは、旧軍時代からあった掩体壕をそのまま零戦の格納庫として保存してあるのです。
岩国に海軍基地ができ、呉鎮守府練習隊が配置されたのは昭和14年(1939年)のこと。
練習隊は96名の訓練生と150機の零戦を有していました。

1943年9月には、海軍兵学校の分校が岩国基地内に設立され、その前年度大量に採用された
約1000名の士官候補生が常時訓練を行っていました。
一度このブログでお話しした小沢昭一氏の兵学校78期もこの「岩国分校」組です。


その後、本土空襲が激しくなりますが岩国もまた1945年、8月に米軍のB-29爆撃を受け、
その被害は製油所、鉄道運輸事務所、鉄道駅周辺に集中していました。



集中して掩体壕を狙ったものらしく、凄まじい銃痕が壁に残ります。



掩体壕の中の航空機(多分零戦)はいったいどうなったのでしょうか。



壁面には12.7 mm AN/M2機銃の銃痕と、20 mm 機関砲のそれが
はっきり分かる大きさの違いを見せています。



20ミリ弾が穿った深い孔は、当時のコンクリートが非常に粗い、
小石が混入した状態で生成されていたことがよくわかります。

岩国が最後に空襲に遇ったのは、終戦のまさに前日、8月14日のことでした。 



インターネットで岩国の零戦画像を検索すると、このガラス窓が全開され、
中に格納してある零戦が外に引き出された状態のものばかりです。
つまり、こちらの方が結構希少な画像であると言うことになりましょう。
この零戦は基本岩国基地に入ることができるなら、誰でも見ることができるそうです。

ところで、マリーンコーアの英語サイトは、この「ゼロ・ハンガー」を紹介する文を
このような出だしで始めているのです。

「1940年代初頭、多くの太平洋の空の要所は
単座式三菱零型戦闘機のプロペラエンジンに支配されていた」

うむ、なかなかかっこいいではないか。 
で、興味深く読ませていただいたんですが、零戦の歴史の中にこんな文章も。

「1940年に日本と交戦中であった中国の国民党の為に仕事をしていたシェンノート将軍は、
ゼロファイターがが空に現れる2年前に、その航空性能についての警告を米国に報告していた」

 クレア・シェンノート大将、フライングタイガースの件でこのこともお話ししましたね?

「彼の報告は一笑に付され無視された」

はい、その通りでしたね。
ところで、今この項を書く為に「零戦燃ゆ」を観直したのですが、
この映画の主人公は加山雄三演じる下川大尉でも、堤大二郎演じる浜田正一でも、
(浜田正一は杉田庄一がモデル) ましてや語り手の整備兵、水島でもなく、
零式艦上戦闘機そのものなんですね。

この映画ではシェンノート報告が無視された下りをこんな風に説明しています。

マニラの極東陸軍総司令部。
ブレリートン極東航空司令官とサザーランド参謀長が 

「ゼロファイターは台湾からやって来た。シェンノートの報告にもそうあります」

とマッカーサー司令官に報告する。
(このときサザーランドは台湾のことを『フォルモサ』と言っている)

「Well, that is a lot of Fxxk!(翻訳自粛)
自動車も満足に作れん日本人にロングレンジファイターなんぞ作れるか!」

と言い捨てたところにちょうど零戦が掩護する爆撃機がやってきて
派手に空爆を始めるのを見て驚くマッカーサー。

「我々は甘く見すぎました。新しい敵、ゼロファイターです」

とサザーランド。 一同愕然と空を見上げる。


さて、この映画「零戦燃ゆ」のときに制作された実物大の零戦五二型。
こ岩国のゼロ・ハンガーに格納されているのは、外でもないそのレプリカなのです。
ご存知の方はもうご存知でしょうが、わたしはこのときまで知らなかったの。 


われわれが基地見学に行くことが決まったときから海兵隊のホーネットドライバーである
ブラッドは、最初からどうもこの日本人家族をせっかくだから
基地内にあるゼロ・ハンガーに連れて行ってやろう、と思っていたようです。

思っていても前もって予約など一切していないあたりがアメリカ人ですが、
逆に、当日誰かに頼んでも何とかなると思っていた節があります。
絶対そういう融通の利かなさそうな自衛隊と違って、所詮アメリカ人の組織ですし、
パイロットでしかも大尉ならすぐいうことを聞いてもらえそうだし。(たぶん)




取りあえずハンガーの前に来てみたわたしたち。
鍵がかかっているのは当然のことですが、ブラッドはこの内線番号に
ここで電話をかけ始めました。
部署を呼び出して、ちょっと開けてくれないかと頼んでいます。



(電話中のブラッドと彼を見守る妻)

いや実はですね。
このときにブラッドが電話をかけ終わり、

「今誰か開けに来てくれるって」

とニッコリ笑ったので我々はわーいと盛り上がり、待ちながら
雑談をしていたんですが、電話を弄びながら話していたせいか、
ブラッドはよりによって何もカバーをしていないiPhoneをコンクリート上に落とし、
見事にガラスを割ってしまったのでした。

あーあ。

この日一日しかつき合ってないけど、ホーネットドライバーといってもアメリカ人、
しかも若い男。
見かけは強面なのに結構お茶目で粗忽さんだったりしたのが可愛かったです。


ところでそのとき、岩国基地の周りにも「米軍基地反対」「オスプレイ反対」みたいな
いわゆる基地の外の人たちは来ないのか、みたいな話になったんですね。

「しょっちゅうくるよー。そういうの」

ブラッドは苦笑いしていたのですが、そのとき何を思ったかTOが、

「彼女(わたし)は、そうやって日本からアメリカ軍を追い出そうとしている層は、
どこかでちゅ(ぴーっ)とうと繋がっていて、本人たちがそう思っていないながら
日米離反工作をさせられているというのが持論でね」

と言い出すではありませんか。
な、何を言うかな当の米国軍人を目の前にして。(動揺)

ところがブラッドは妙に真面目な顔になって

「あ・・・・そうなの?」

とわたしに聞きます。
ええまあ、みたいなことを答えたのですが、ブラッドはもう少し後になって
わたしに改まって

「あなたは歴史にも精通しているのか」

とか聞いていました。
日本に住んでいても案外日本人との付き合いがない米軍人としては、
リアルの日本国民からこのような意見を聞くこともなく、ましてやこういった考えは
彼に取って新鮮だったというか、もしかしたら少し驚いたのかもしれません。



ブリーフィングルームにあった戦闘機の模型や「中国の間」から、
日本に配置されている米軍人が、というかアメリカがパンダの国のことをどう見ているか、
うっすらと(実はそれどころじゃなかったけど)わかったような気がするわたしでしたが 、
米軍軍人であるブラッドも、一般日本人の中にもこういう考え方をする人間もいるのだと
もしかしたら初めて知ったということです。

これが本当の国際交流(笑)
 



そんな話をしたりブラッドがiPhoneを壊したりしていたら、車が来て
女性の兵が鍵を開けてくれました。
来たときちゃんと敬礼をしていたんですが、間近だったので写真に撮るのは控えました。

開けたらすぐ行ってしまうのかと思ったのですが、中に入って隅のデスクに座りました。
さすが大ざっぱなアメリカ人とはいえ、内部を見せている間放置できないらしく、
我々が見学し終わるまでここでじっと待つ構えです。

奥さんのアンジーはここに入るのが初めてだと言っていましたが、
ブラッドは基地祭などのときに零戦が出されているのを何度か見たことがあるそうです。


というわけで中に入ったので、次回は、展示してあった零戦と写真などの資料についてお話しします。 

 





 

岩国基地の零戦と「零戦燃ゆ」

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このエントリを作成する前に映画「零戦燃ゆ」を観直しました。
このときに見た零戦のレプリカが映画でどう使われていたか確認するためですが、
久しぶりに観て、映画としてはなかなか良く出来ている作品だと思った次第です。

零式艦上戦闘機の衝撃的なデビューから空の王者として君臨した黄金期、
それに続く斜陽と落日、そして終戦と「零戦一代記」を縦糸に、そして
戦闘機パイロット、整備員、そして製作開発、ついでに部品を作る工員、
という立場で関わる人々の戦争を緯糸にして構成された内容は、
アプローチと立体的な構成においてまず出色の出来と思われました。

映画の中から零戦が登場した部分をいくつかご紹介しますと、



台湾基地を出発する零戦。
列線にずらりと並んだ何機もの機体は壮観です。
この映画はこの映画用のレプリカを三菱重工業に依頼して作らせていますから、
ある意味レプリカといっても本家製作です。
まあ、エンジンは積んでいないので本物ってわけじゃありませんが。

そこで映画のデータを見ると、

「この映画のために、総工費7千万円で零戦1機を復元製作した」

と書いてあるのです。
はて。
この列線にたくさん並んでいる零戦はそれでは何?
今と違ってCG加工もできなかったわけですが。

主人公が飛び乗ったりするのは多分ここ岩国基地にある復元零戦だとして、
ラバウルのシーンでも結構たくさん零戦が(模型ではなく)出て来たんですが。



たとえばこのシーン。
あまりの辛さに海兵団から脱柵して逃げようとしていた浜田と水島を
通りがかりの加山雄三・下川萬兵衛大尉が連れて行ったのは、
試作機が置いてある格納庫。

映画「ハワイマレー沖海戦」について集中エントリを挙げたとき、
零戦試作機のテスト飛行映像が流用されていることを書いたのですが、
覚えておられますか?



これです。

このシルバーの試作機とされている零戦は、おそらく三菱が
塗装前に一度映画に出演させたということでしょう。
それはわかるのですが、これ。

 

「零戦燃ゆ」とは、まさにこの瞬間のことを指しているわけですが、
敗戦となったとき日本軍が、戦闘機を敵に渡す前に焼却処分するシーン。



まず、万感の思いを込めて水島がエンジンをかけます。



こんなところにしがみついて泣いている人が(笑自粛)



自分の手で引導を渡したい、と水島は自ら機銃の引き金を・・。

この後零戦はエンジンとプロペラの轟音を上げながら、
あたかも生きながら焼かれた殉教者のように業火に包まれていきます。

で、この零戦。

これって、本当に燃えているんですが、もしかしたらこの後、
「カーット!」
の声と同時に回りに待機していた消防隊が消火し、もう一度塗装しなおして
ここ岩国のゼロハンガーに持って来たのかな・・・・?


いや、物事は拘り出したら気になることばかりで全く困ったものです。



さて、ハンガー内はちょっとした博物館のようになっていて、このように
ブリッジを渡し、コクピットが見られるようになっています。
わたしも早速登ってみました。



シートは重量を少しでも軽くするために穿った穴が再現されています。



今これを見て初めて気がついたのですが、コクピットに明かりが点いてますね。
室内灯をつけると灯る仕組みなのかな。


このとき、監視がいるわけではないし、扉を開けてくれた海兵隊の女性兵士は
ここからは死角になってしまうところにあるデスクに座っていましたから、
もしその気になればコクピットに座ることも出来たと思うのですが、
なぜかまったく乗ってみることを考えつきもしませんでした。

たとえ一般公開されることはあっても、まず実際に乗り込むことは不可能なはずなので、
もしかしたら千載一遇のチャンスを逃してしまったかもしれません。
まあ・・・そうは言っても所詮レプリカだし・・・・。



カウリング部分。



この掩体壕は元からこういう零戦ぴったりサイズになっていたはずですが、
空襲の被害を極力受けにくいように非常に分厚い外壁になっているようです。
蒲鉾型のドームで、倒壊しにくいし、よく考えてあるなあと感心します。






なぜか救命落下傘も展示されております。
これは勿論旧軍のものではなく、海自の使用しているバージョンです。



なぜかここにも海自の落下傘が・・・。



ヤップ島沖から引き上げられ復元された五二型。
もしかしたらこれが小牧で見た零戦かも知れません。



写真右上、実際に飛んでますね。
これはおそらくゼロ・インタープライズというアメリカの会社が1994年に、
「里帰り零戦」として茨城県竜ヶ崎飛行場で飛ばしたときの写真。
当ブログ読者の中にはこれを実際に見られた方もおられたように記憶しています。

下真ん中の、二機が仲良く手をつないで飛んでいるように見える写真も
このときのもので、なんとゼロとP-51ムスタング。


Mitsubishi Zero Fighter & P51 Mustang 


このYouTubeの映像を見てなぜか鼻の奥がつんとしてしまったのは
わたしだけでしょうか。
 



このゼロハンガーの展示について、もう一日だけお話しさせて下さい。

 



 

岩国基地ゼロ・ハンガー〜「米英斬殲滅?」

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「岩国基地」と「零戦」で検索するとこの岩国基地のゼロハンガーが出てきます。
Wikipediaの映画「零戦燃ゆ」のページには、

「この映画のために、総工費7千万円で零戦1機を復元製作した。
映画の撮影終了後、この零戦は海上自衛隊岩国基地にて保存・公開されている。」

と書かれているのですが、これは間違いです。
このゼロハンガーはアメリカ海兵隊の管理下にあり、自衛隊は全く関わっていません。
この日基地を案内してくれた海兵隊パイロットのブラッドが管理事務所に電話し、
開けてくれたのが海兵隊の女性兵士であったことからわたしは判断したのですが。

もし自衛隊の管轄であったら、申し込みには予約が必要で、こんな簡単には
中に入れてもらえなかっただろうと思います。
自衛隊のこう言ったことに対する管理の厳正さに文句を言う気は毛頭ありませんが。



さて、冒頭の画像はここにあった零戦52型甲の操縦席詳細図です。
翼に仕込まれた機銃弾がどんな形で内蔵されていたのか、これを見て初めて理解しました。



この金色のプレートには、次のようなことが二か国語で書いてあります。


このビジターセンターは、日米両国間のたゆまざる相互理解と協力による
世界平和維持のために建設されたものである。
それはお互いの繁栄と世界平和を求める成熟した二国を築き上げるために
貢献した人々の証として存在する。

このセンターは昭和58年7月15日より昭和61年5月29日まで
米海兵隊岩国航空基地司令官を務めたドナルド・J・マッカーシー大佐の
提案および日米両国民の献身的な努力により実現したものである。


何とびっくり、なぜ米海兵隊基地に零戦があるのかというと、
基地司令の提案がきっかけでそのような事業が行われたらしいのです。

世界平和世界平和と短い文章の間に二回も世界平和がくるのがなんですが、
在日米軍としては、同盟国日本との連携をより緊密にするための友好事業の一環として
このような博物館を基地内に作ることしたようですね。

まあ、アメリカと日本の間の平和はともかく、その後のアメリカは少なくとも
世界平和に貢献しているとはお世辞にもいえない道を歩んで来たわけですが(笑)、
それはともかく、

「両国の友好と平和のために旧軍の名機零戦のレプリカを
かつてあったところに収めかつてのままに展示する」

というのはいかにもそういうことには心の広いアメリカ人ならではだと思います。
戦後のパージが酷過ぎて、「そこまでせんでもいいのに」というくらい
旧軍臭を排除することに異様に気を遣う自衛隊には逆立ちしても出来ないことを、
アメリカさんだとやってのける。そこにしびれる憧れるぅっ。


・・・・。

わたしはこういうときいつも自衛隊の姿勢を批判しますが、
自衛隊の方に誤解なきように付け加えると、その根本原因がどこにあるのかは
十分理解したうえで言っているのですよ。
そう、その原因がどこにあるのかが一番わかりやすく、かつ酷かった事件は、

「日本は決して悪い国などではなかった」

と論文に書いた航空幕僚長が解任させられた事件、あれです。
これをやってのけた(しびれないしあこがれない)時の政権与党が「保守」だなんて、
何の冗談なのかというくらいなのに、その後政権交代でメガトン級の売国政党がきましたからね。

そもそも左翼とは「国を売る」と同義の思想なのか?違うでしょ?



それもこれも手繰っていけば原因は、戦後日本にGHQが落としていった爆弾ともいえる
ウォーギルトプログラムであり、つまり戦争に負けたことそのものなんですが、
まあつまりこんな国になってしまったんです日本国というのは。

特に田母神事件以降、自衛隊関係者が保身のために口をつぐんで、その手の連中に
揚げ足を取られないように汲々としたとして、誰が彼らを責められましょうか。

そういえば2月の国会で維新の三宅議員がその当時の総理だった麻生財務大臣に

「きっとそのこと(田母神解任)を後悔しておられると思いますが・・・、
正しいことを言った人間をやめさせちゃいけませんよ」

と厳しい言葉を投げかけていましたっけ。
わたしは麻生さん好きですが、この点三宅議員と全く同意見です。



とにかく、ここのゼロハンガーは、アメリカ海兵隊のサイトによると

「世界でたった一つの、零戦を格納している掩体壕」

としてここにあります。




何やら時代を感じさせる案内看板。
ちなみに映画「零戦燃ゆ」の公開は昭和59年、1984年のことでした。
ですから当然ここにレプリカが来たのはそのあと、ということになるのですが、
海兵隊のHPや英語の資料を探しても、ここにいつこの零戦が置かれるようになったのか、
それについて書いてあるものは今回見つけることは出来ませんでした。

提案したマッカーシー司令官が在任中の昭和61年までであることは確かですが。



コクピットの横に上がれるようにつけられた足場の上から撮った写真。
後ろにアンジーがついて来ています。
ブラッドの方は何度も見ているらしく、向こうに見えるデスクで
鍵を開けてくれた女性兵士と雑談していました。

 


あまりちゃんとした展示ではないのですが、写真も多数あります。
右はちょうど付箋が見えませんが、政治家かな。
左は源田実。源田実も国会議員だったんですけどね。



航空長靴や雑誌の切り抜き、右の上段には、映画「零戦燃ゆ」のパンフと
スチール写真が並べられています。



零戦本などでこの写真を見たことがあるような気がします。



アップにしてみました。(大きすぎた)
手前の機も、その向こうを飛んでいる機のパイロットも、
カメラに向かって視線を向けています。

ソロモン海の上空で同航の九六式陸攻の機上から撮られたものだそうです。




神雷部隊「桜花隊」の写真もありました。



なぜかそこに山本長官機がブーゲンビルで撃墜されたときの写真が。


 
姓名不詳の搭乗員。



神雷部隊の生存者の手記『人間爆弾と呼ばれて』には、
この写真と同日の昭和19年12月1日撮影の写真が二枚掲載されているのですが、
この集合写真はそのいずれの写真とも違います。
場所も明らかに同じなのですが。

これは、連合艦隊司令長官豊田副武大将が神ノ池基地に視察に来訪し、
その際桜花隊員に短刀と、神雷と書かれた鉢巻きを授与したときの記念撮影。

わざわざこのために撮影用のひな段を作ったようです。

本に掲載されている写真とは違い、これには肝心の豊田大将はじめ
お偉いさんたちが全く映っていないので、隊員だけで撮られた非公式写真かもしれません。



昭和25年当時の岩国基地を上空から臨む。



真横から。



謎の手書き広告。

ハリアーなりホーネットの木の模型を製作します、というものですが、
そのわりにはそれがどのようなものであるかの説明がなく、
見本も無く、写真も無く、おまけに製作者の連絡先もありませんでした。

一本の木から彫り上げるという、もし本当なら凄い手間のかかるものだと思いますが、
だとしたら2万円は安い。
しかし、どんなものかわからないので興味の持ちようも無いという・・・。



何の説明もない日の丸寄せ書きが。

近床金二郎という人の出征に際して贈られた寄せ書きです。
右の方に

「米英 ?千滅」

という文字が見えます。
「?」としたのは「斬」の左側に「殺」の右側、という見たことの無い漢字だからですが、
もしかしたら、

「米英 斬 殲滅」

と書きたかった(つまり間違い)のかなあと・・・。

まあいずれにしてもアメリカ人には到底解読できなさそうで、良かったですね。




零戦の後ろにはこのように国旗と海軍旗を掲揚してくれています。
これも自衛隊なら・・・いやもう何も言いますまい。



ゼロハンガーの見学が終わり、基地を後にしました。
国旗掲揚台はちゃんとライトアップできるようになっているようです。

ブラッド夫妻は基地の外に家を借りて住んでいるのですが、ブラッドが

「飛行機の時間までうちでお茶でも飲もうよ」

と言ってくれたので、お言葉に甘えることにしました。
そのご提案があったとき、

「え!そんな・・・。お宅にまでお邪魔していいんですか?」

と勿論英語ですがそういう風に聞いたら、

「House is just house.」

というブラッドの返事が少し面白かったです。

お宅にお邪魔して彼らの結婚写真を見せてもらい、わたしは案の定、
彼らの愛犬に猛烈に歓迎されたのですが、その話はまた後日。





佐村河内事件を音楽関係者の立場から語ってみる。

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右手骨折のリハビリ期間ですが、イラストも久しぶりにやってみました。
復帰第一作が佐村河内ってのはどうよ、という声も(自分の中で)ありますが、
まあ、この程度の雑な絵なら無理もせずちゃっちゃと描き上げられるようになりました。
本当にデジタル絵画の技術とはありがたいものです。


さて、おそらく日本のクラシック音楽界空前絶後のスキャンダルといえる
この事件については皆さんもご存知のことと思いますので
ここで改めて説明することはいたしませんが、世にあふれる意見の中で
音楽が分かっていないと陥りがちな誤解があると感じたので、少しそのことをお話しします。

医者や弁護士、自衛隊もそうでしょうが、ドラマで描かれる特殊な世界は
ほとんどがその当事者から見ると「ないわー」ということだらけで、
所詮その中の世界はその中の人にしか完璧に理解できるものではない、
ということを、おそらく「中の人」たちは日々実感しているでしょう。

今回の事件における「ゴーストライター問題」についても、世間の人と関係者では
おそらくかなり考え方も見方も違っているものと思われます。


ジャズミュージシャンの隠語で「バイショー」という言葉があります。

バイショーとは商売のことで(ジャズ屋は何でもひっくり返す傾向にある。
トーシロ、シーメ、チャンバー、ビータ、ノアピなど。実に恥ずかしい)
彼らにとってはホテルのラウンジやパーティの仕事のことをさすのです。
プライドだけは高い彼らは、ライブハウスの「自分がやりたいジャズができる」仕事なら
安くてもいいが、バイショーならこれだけ貰わないとやってられん、という
不思議な価値観を持っており、わたしの昔の知り合いの音楽事務所の人は、

「なんなんでしょうねー。
これからホテルのラウンジに「ライブハウス」って看板かけようかしら」

とぼやいていたことがあります。


話が寄り道から入りましたが、今回の事件でゴーストライターであることを告白した
作曲家の新垣氏にとって、18年前から佐村河内のオーダーする曲は所詮この
「バイショー」であったということなのです。

クラシック、というか純音楽を志す学生というのは、好むと好まざるに関わらず、
音楽大学では無調の曲を書かなくてはなりません。
クラシックというのは文字通り「古い」ということであり、入学時に
古典の手法で曲を書いて入って来る音楽学生は、入学した段階で
すでに調性音楽の基礎はできているという前提で、そこから勉強を始めます。

わたしがまだ高校生だったとき、無調の現代音楽発表会のコンサートに一緒に聴きにいった
やはり音大志望の先輩は、ため息をつきながら

「大学入ったらこんな曲書かないといけないのか・・・」

と嘆いていたものです。
そんな彼はその後優秀な成績で卒業し、某音大の先生になりました。

つまり、新垣氏のような純音楽の書き手にとって、音楽を書くというのは
研究者にとっての実験のようなもので、古典の時代から連綿と続いて来た音楽の流れを
さらにとどまることなく新しい手法そして音を開拓するための挑戦なのです。

シェーンベルグが12音技法を創始したのが戦前のことで、日本の作曲家も
「海行かば」の信時潔はそのシェーンベルグの楽譜を日本に持ち帰っていますから、
つまり現代の、というかそれから80年後の「現在の」音楽というのは、
調性音楽をもう過去のものとしている、ということをまず前提にしていただきたいのですが、
その観点で、さらにこの新垣氏の実力から考えた場合、佐村河内の依頼した楽曲とは

「現代音楽を勉強した者になら誰にでも書ける」

というイージーモードでのいわば余技であり、純音楽、つまり自分のやりたい音楽では
「市場価値が無い」(つまり稼げない)現代音楽作曲家にとって、生活の糧を得るための
「バイショー」であったということなのです。

しかし、口ではそういいながら音楽をすることが好きでミュージシャンになったジャズメンが、
たとえバイショーの仕事でもいい加減にせず、それどころか案外楽しんでやってしまうように、
新垣氏は、間違いなくこれらの作曲の仕事を「楽しんでいた」はずです。
それが証拠に、

「売れる訳が無いと思っていた」

といいながら、その反面

「自分の曲が音になるのはうれしかった」

と言っているではないですか。

音大の講師としての給料、個人レッスンの礼金、そしてこういった「バイショー」である
編曲や作曲の仕事をして、純音楽家はむしろ自分の追求する音楽のために
それらのお金をすべてつぎ込む傾向にあります。

何かの弾みでコマーシャリズムに乗り、映画音楽などを任されるようになれば、
初志を忘れてそちらが「本職」になってしまう人もいるみたいですが、(例・三枝某)
おそらく現代音楽の第一線で頑張っている作曲家はそれを「堕ちた」と見るのではないでしょうか。

新垣氏が恩師の三善晃氏が亡くなったのでゴーストライターを告白した、というのは
恩師に「堕ちた」と見られるのが何より辛かったからだとわたしは思っています。



今回、佐村河内の会見をわたしは怪我療養中で引きこもっているのをいいことに、
全編ニコニコ動画で見ることが出来ました。
怪我をして良かったことの一つです。(もちろん冗談です)

その中で、佐村河内氏が新垣氏への非難と攻撃に終始し、ついには
「絶対訴えます。名誉毀損で」と言い出したときには驚きましたが、
氏の新垣氏批判の中で、新垣氏がギャラを釣り上げるために

「最初の金額提示には首を横に振り、二度目はうーんと首を傾げ、
三度目にニッコリと笑った」

ということをした、とあたかもそれが金に汚いような印象であるかのように
吹聴したとき、わたしは何かすごく腑に落ちた気がしました。
これは、音楽家、ミュージシャンに共通の

「仕事で金の話を直接してこなかった人種」

のありがちな反応だからです。

わたしの身内に法律関係者がいますが、わたしが音楽業界で仕事をしていた頃、
その契約のいい加減さに、ほとほと呆れていたものです。

「ギャラの契約書なんてないの」「ない」
「勤務に対する取り決めとか、判子を交わしたりとか」「しない」
「よくそんないい加減なギョーカイで問題が起こらないなあ」「よく起こってるよ」
「・・・・・」


特にジャズ系の仕事ではどんな仕事でもミュージシャンはあまりギャラについて聴かないし、
下手したら仕事に入るまでいくら貰えるのか知らないこともしばしばで、
逆にはっきり金額の提示を求めたり、交渉をする人が疎まれる傾向にあるといったら、
もしかしたら皆さんは驚かれるかもしれません。

クラシック系の仕事はその点まだちゃんとした上で行われることが多いですが、
それでも事前の契約書などほとんど交わさないのが普通です。
ギャラがいくら欲しいか、はっきりと言わないし言えない、というのは
どこかに「お金のために音楽をやっているのではない」というジレンマが
どんな音楽家にもあり、新垣氏もまたその一人であったということでしょう。



わたしは今回の事件を「詐欺」と見た場合、世間の人々の少なくない数が言うように
「新垣氏に責任がある」とは全く思いません。

ゴーストライターを使って芸能人や歌手が自分をよりたくさん「売る」というのが
この世界では常態化しており、その「下請け」には「バイショー」と割り切って彼らのために
曲を書いている無数の音楽家がいるのを、よくよく知っているからです。

ここで言う訳にはいきませんが、何人かの知り合いは「え、あの人の」といわれる
ソングライターのゴーストをしていますし、出版界にはもっと多くの「幽霊」がいるでしょう。

逆に言うと、自分の本当にやりたい仕事のためには「持ち出し」も致し方ない、
そんな芸術家たちにとって、それらの仕事は大事な「飯の種」なのです。



「世間では当たり前とされているゴーストライターがいたからといって、
それを責められるのはおかしい、佐村河内のどこが悪かったんだ」

と、むしろ新垣氏を責める人がいるらしいですが、今回の問題は、
プロダクションが「商品」として売っているソングライターのために
安定した作品を提供させるためにゴーストライターを使う、という構図ではなく、
最初から「ゼロ」の男が、自分では全く何もできないのに、100パーセントの
部分である新垣氏を使って作曲家を詐称していたことにあるのです。

新垣氏の誤算は、この稀代の詐欺師が、作曲家として自分を売り込むために
よりによって障碍者を詐称し、それを「障害にも負けずにそれを克服する物語」
が大好物の大衆に向かって売り、儲けようとするメディアが、その存在を
思ってもいなかったほど肥大させてしまったということだったでしょう。

一度転がりだした雪玉のような「聾の作曲家の物語」は、新垣氏の

「売れる訳が無いと思っていた」

という当初の予想を大きく裏切り、NHKのドキュメンタリーで佐川河内氏が
今見れば「どんな気持ちでこれやってたんだろう」と唖然としてしまうような
三文芝居をそれらしくドラマに仕立ててしまったことでよりいっそう神格化し、
もしソチオリンピックで高橋大輔がメダルを取ったら、佐川河内はもちろん、
新垣氏もはや引くに引けないところに追いやられてしまう所まで来てしまった。

「なぜ今告白したのか」

と佐川河内本人も、世間もそのように新垣氏を責めていたようですが、
新垣氏にすれば今も何も「一刻でも早く」しないと、手遅れになるというところだったのでしょう。



佐川河内は楽曲の著作権を手放す気はなく、その理由として

「緻密な設計図」

を書いたのは自分、つまり、創作への自分の関与を挙げたそうですが、
あの「設計図」を見て、わたしは声を上げて笑ってしまいました。

こんなもんで交響曲ができたら誰も苦労せんわ。

そして会見途中で、ある記者が設計図の中の謎の用語の中から指を指し、
「これはなんですか?ペンデュラム」
と尋ね、その答えが

「覚えてません。宗教用語だと思います」

だったのでもう一度笑いました。
ペンデュラムって・・・・振り子ですよね?


断言してもいいですが、新垣氏はあの、訳の分からない「設計図」とやらは
全く参考にしていないどころか、おそらく見てもいないと思います。

本当にあの設計図を渡していたら、ですが。

そしてこれもまず間違いなく、新垣氏は佐村河内のことを心の中で
何の素養も無いのに作曲家のふりをしたがるアホとして蔑み、
この設計図に書かれている、音楽関係者なら笑ってしまうようなあれこれの
小賢しい指示とやらも馬鹿にしていたに違いありません。

(わたしならそうすると思うけど、新垣氏は優しい方みたいなので断言しませんが)


もう一つ、わたしが佐村河内の小賢しさを笑ったのが

「調性音楽の復権を目指していたのにそれが半ばで挫折したのが残念」

みたいなことをのたまったときです。
前半で縷々述べたように、純音楽というのは、もはや人々が楽しみで聴く音楽とは
別の次元で発展し進化させる「創造者」「挑戦者」によって行われています。

調性音楽はこれら先端の音楽にとって、すでに「克服」されたものであり、
進化済みのものでもあるわけですから、もはやそこに復権などしようがないのです。

そもそも調性音楽とは現代に生きる私たちにとっての「普通の音楽」であり、
同時に「人々が聴きたいと望む音楽」であり、「売れる音楽」であり、
・・・・つまり、調性音楽のフィールドというのは、
最先端の音楽と棲み分けをしたうえで存在している訳ですから。

クラシック業界にとって「わかりやすい調性音楽」で純音楽の現場に斬り込むのは、
いわば竹槍で敵に向かうようなもので、負けるとわかっているから誰もしようとしない。
ただど素人である佐村河内だからこそ、こういうことを思いつきそれができたといえます。

その際、彼がただの素人なら単に討ち死にで終わることでも、佐村河内の場合は
「耳が聞こえない」というとんでもない(笑)障害があったとされました。

つまりこの障害あらばこそ、たとえ彼が竹槍を振り回していても許されたということです。



その音楽に純粋な学術的意味は無いとわかっていても、音楽家は皆
なんだかんだ言って、大衆と同じように調性音楽でないと駄目みたいなところがあります。
「現代音楽の仕事なんて嫌い」
とはっきり言うオケマンをわたしは一人ならず知っています。

もちろん純音楽を本当に好きで聴いている人もいるでしょうが、一般的に専門家ほど、
好き嫌いとは別に佐村河内作品のような既存の手法で書かれた作品は
「映画音楽みたい」「何何そっくり」などと馬鹿にするのが常です。
しかし本来なら「いい曲だけどまるでマーラーだね」と冷ややかに批評して終わるところ、
実はこれは聾者が頭をゴンゴン壁に打ち付けながら苦しんで作った曲だとなると、

「まあそういうことならいいんじゃないか。良い曲だし」

と、ペダンチックな態度を緩和するための言い訳を、そこに見出すことができたのでしょう。
戦前から連なる現代音楽の歴史を知りもせず、そういった「お目こぼし」を受けながらも

「調性音楽を復権することが出来ていた」

などと本気で思っていたらしい佐川河内とは、
どこまで怖いもの知らずのお目出度い奴だったんでしょうか。




さて、音楽関係者の立場から思ったことを書いてみましたが、
もう一つ、義手の少女バイオリニストについての記者とのやり取りで気づいたことを書きます。


神山記者「なぜ舞台上で義手つけろと言ったんですか?」 
佐村河内「そのほうが感動するでしょ」 
神山記者「目の前で義手つけると感動する?」 
佐村河内「・・・感動すると思いますけど・・・。感動しません?」


わたしはこのやり取りに慄然とするものを感じました。
世間の倫理的常識というもののスタンダードから言えば、
こういうことを平然と言える人間を、大抵の人は「鬼畜」と呼びます。

もし自分自身が本物の障害に苦しんだ経験があったら、おそらくは
このような非道なことは、たとえ心の底で思っていたとしても決して人前で、
ましてやこのような会見で口に出すことはできないでしょう。

にもかかわらず、佐村河内はそれを言った。しかも、あっさりと(笑)


彼の言い方はそれがどう思われることかについて全く疑問すら感じていない、
むしろ無邪気とも思える調子がありました。

会見最初に、障碍者を利用していたとされることについての弁明として

「闇に沈む人たちに光を当てたい」

と言ったこともそうですが、わたしはこれを聴いたとき、
この人間こそが精神の闇を抱えていることを確信しました。


まあつまり「そういう人」だったということで話が終わってしまうのですが、
わたしの着目は、むしろ彼がそれを全く悪いことだと思わず 

「感動しませんか?」

と無邪気に言い放った相手が、その障害を持つアーティストに実力以上の評価を与え、
健常者の優れた音楽家よりも宣伝し持ち上げて、今回のいくつかの番組のように
物語を付加してまで売ろうとする、マスコミの人間だったということにあります。

記者はこの質問に答えませんでした。

「ええ、(世間は)感動します。
障害者が奏でる音楽でもないと今時クラシックなんて売れませんよ」

これが、じつは佐村河内を持ち上げた(そして今落とそうとしている)マスコミの本音です。

佐村河内のこの問い返しを、肯定しても、否定しても、
マスコミは自分たちの日頃の姿と倫理的常識の二律背反に陥ることになるのです。

つまりあれは、自分たちが公開リンチで追いつめ非難している佐川河内という存在が
本人に自覚は無いながら鏡となって、メディアの姿を写し出した瞬間だったわけです。

あの会場に居並んだ、マスコミの「当事者」たちの中で、
この痛烈な皮肉に気づいた人間は果たして何人いたでしょうか。

 

 




 

映画「あゝ特別攻撃隊」〜古本屋の娘

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「ハワイ・マレー沖海戦」では、何日にもわたってエントリをアップしましたが、
今日のこの映画はサラリと流したいと思います。

その理由は、この冒頭の絵を見ていただければ何となく想像がつくように、
比較的この映画は「ネタ」に属するものであるからです。
「特攻 零」や、「八月壱拾伍日のラストダンス」ほどではありませんが、
わたしのような戦争映画ウォッチャーが観ると、思わず
「なわけあるか」
と声がでるか、思わず笑ってしまうシーン多数で、ブログ的には
「ハワイ・マレー」 とは語るスタンスすら別の次元。

しかし、当ブログといたしましては最近少し根を詰める話題が多かったので、
息抜きのつもりでお話ししていきたいと思います。



1960年、大映製作。

「今から十数年前、日本は戦っていた」

という冒頭のナレーションで思わずはっとするのですが(比喩的表現)、
この頃はまだまだ戦争が終わってその記憶が殆どの日本人に鮮明だったんですね。

だからこそ描けることもあろうかとは思いますが、さて。



昭和19年10月、埼玉県浦和高等学校の図書館。
主人公、野沢明(本郷功次郎)が、海軍士官のかっこいい軍服姿で訪ねてきます。
司書をしている山中令子(野添ひとみ)は、図書カードに書き込みをしている野沢をガン見。

ちょっとイイ男が憧れの士官姿で現れたのですから、
いきなり獲物を見つけたオーラ全開で目力フルスロットルの令子。
しかし野沢は気がつかないふりをします。
こんな露骨に見つめられたら気づかないはずないんですけど。

そして、この令子さんが・・・・・ケバい。

昭和31年当時において、まるで70年代を先取りしたかのようなつけまつげ、
そしてラメの入ったグレー系のキラキラ光るアイシャドウ。
日本が戦局も不利な昭和19年10月にこんな化粧をした女学生がいるか!

とわたしは映画が始まったとたん嫌な予感がしたのですが、その予感は当たり、
冒頭からこの派手なヒロインの大立ち回りが始まります。

まず、探していた本が無いと諦めて帰ろうとする野沢を引き止めて
職場を放棄し、家にダッシュ。
実家の古本屋の売り物を勝手に持って来て野沢に

「あの〜、この本ありましたあ!」

因みに彼女がカウンターを出て行ってから本を持って帰ってくるのに
かかった時間、わずか38秒。

どんだけ学校に近い古本屋なんだよ。



閉館間際にはわざわざ野沢のまわりをうろうろして自分をアピール。
野沢は彼女の意図を察してかカーテンを閉めるのを手伝います。

てか、閉館したんだからさっさと帰れよ野沢。



「あんの〜、よろしかったらその本差し上げます」

上目遣いでブリブリする令子。
実家の古本屋の売り物なのにいいのか。
ここで令子は衝撃的な発言を。

「うち古本屋なんです。坂の下の」

ということは38秒で学校を出て坂の下まで行き、
本を探して取って来て坂を上って来たのか。

ちなみにこのとき令子は自分がこの三月まで女学校にいた、
ということもきっちりアピールしますが、ということは19歳?

そりゃーはっきりいって厚かましすぎだ、
この厚化粧と妙にシナを作った物言いは、どう見ても30前後。
セーラー服との取り合わせがもはや不気味なくらいのミスマッチです。

「売り物をもらうわけには・・・じゃあ、お礼にこの羊羹を」

カバンから海軍羊羹を取り出そうとして、野沢は床に何枚も
自分のポートレートをばらまきます。

わざと・・・ではないと信じたい。



なんなんだよこのプロマイドみたいな写真は・・・。

案の定目を輝かせ一枚おねだりしてゲットする令子。
初対面の相手の写真をいきなり欲しがる方もだけど、
こんな写真を何枚も持ち歩いている野沢も野沢です。



さらに、野沢を一旦リリースしたものの、ここでだめ押しとばかりに
自慢の俊足で野沢に追いついて、相合い傘を強制する令子。



このはしゃぎっぷりをごらんください。
野沢にやった本がコメと抱き合わせでないと売らないものだったことを暴露。

しかし、時節柄男女がこんなことをしていていいのか?
しかも、

「こんど横須賀の海軍航空隊に入ることになったんです」
「じゃ、飛行機?」
「ええ、戦闘機乗りです」
「わああ!す て き 〜 !」


大声で騒いでいると・・・



「貴様のような女の腐ったような奴はサイパンにはいなかったぞ!」

いきなりサイパン帰りの海軍士官に見とがめられ修正鉄拳炸裂。

まあ、普通そうなるでしょうな。
未婚の男女が並んで道を歩くことすらあり得なかった時代に
傘を決してさしてはいけない軍人が、派手な女と相合い傘。

ところで、この時期「サイパンから帰って来た」って・・・。


昭和19年6月から7月のサイパンの戦いでは、 南雲忠一司令長官を始め
高級指揮官らは自決し、一部の日本兵は降伏。
事実上サイパン島の日本軍は全滅しています。

つまりこのとき日本軍は捕虜になった者を除きサイパンで玉砕したわけですが、
この野沢を殴った士官はどうやってサイパンから帰って来たのか。

・・・・もしかしたら幽霊かな?

その疑問はさておき、彼が実際サイパンで戦った軍人だったとして、
内地に帰ってくるなりこんなフザケたバカップルを見たらそりゃ腹も立ちましょう。
たとえ幽霊であっても助走付けて殴るレベル。

「野蛮だわ!
雨が降ったら傘を差すのが当たり前なのに」

幽霊が行ってしまってからまたもや大声で憤慨する令子。

「軍人は傘を差さないことになっているんです」
「まあ!じゃわたしがいけなかったのね」
「いや君がいけなかったわけじゃないんだ」
「ごめんなさい、あたしそんなことちっとも・・」
(野沢の前に立ちふさがり腕を掴む)
「いいんですよ」
「ごめんなさいあたし」
(さらにつかむ)
「いいんだ!」

げー、うぜー女ー。

「のざわさーーん!」

立ち去る男の名を大声で叫ぶ令子。
なぜ叫ぶ (笑)

もうわたし、映画開始早々ここで大笑いしてしまったのですが、
野沢も早々に彼女が「地雷女」であることがわかって、良かったんじゃないかな。



さて、場面は変わり霞ヶ浦第六〇一海軍航空隊。
野沢ら4人の予備士官たちが着任の挨拶をしています。
分隊長は岡崎大尉。
自分が京都帝大法学部卒だからって、着任した少尉たちの出身校を聞いたりします。
それはいいんですが、分隊長が予備士官で、なぜかその下に、
江田島つまり兵学校卒の小笠原中尉がいたりします。

そして岡崎大尉が小笠原中尉を紹介。

「江田島出の甲板士官だ」

これ、少し、いや大分変ですよね。
まず「江田島出の甲板士官」ってなんなのよ。
甲板士官というのは兵学校出つまり江田島を出た兵科士官のことなんですけど。

それに、小笠原中尉、ここでも甲板士官の必携である棒切れ持ってますが、
飛行隊の分隊士が着任挨拶の席にわざわざこういうスタイルで来るかね?


そして、分隊長の学徒士官風情が()兵学校出をこんな言い方で紹介するのがまず変。
そもそも予備士官の大尉に、兵学校卒の部下を持たせるというこの指揮系統も変。
分隊長が兵学校卒、分隊士が予備士官、これならわかりますが。

しかもこの京大卒の予備士官というのが全く学徒士官らしくない。
妙に偉そうで、特務士官風でもないし、どう見てもこれは兵科士官の役どころでしょう。

この分隊長をわざわざ予備士官にした理由は後半で明らかになります。


実際日本海軍のヒエラルキーと言うのは海軍兵学校卒が絶対で、
特務士官や予備士官の兵学校卒に対する指揮権は認められませんでした。

たとえば軍艦で艦長以下佐官が全て戦死してしまった場合、
たとえ少尉であっても兵学校卒は特務大尉の上に立つことになっていたのです。

この映画では、学徒である彼ら予備士官と、この兵学校士官との
軋轢と確執、そして最終的には和解(笑)がテーマとなっているので、
このような設定にせざるを得なかったようですが、
戦後たった10数年しか経っていないのに、すでにこのディティールの曖昧さ。
70年経った今日で戦争の描写がいい加減になってしまうのも宜なるかなですね。

写真は、ちょうどそのとき流れた関行男大尉らの特別攻撃隊出撃の報を大本営発表を聞く二人。

「海軍大尉関行男以下四名は、カミカゼ特別攻撃隊として」

「神風」は当初「しんぷう」と発音していたので、これも間違いです。
「しんぷう」は、特攻の設立に携わり、関を指名した猪口力平参謀の故郷の
古武道、居合いの道場である「神風流」から取られました。

戦後十数年にして、日本人は「しんぷう」という音すらピンと来なくなった、
とこの映画は判断したのでしょうか。



そして予備少尉たちを鍛える小笠原中尉。

なぜか飛行機の列線を歩きながら4人の乗っている飛行機(の模型)を睨み、
彼らを指導叱責するために着地地点に駈けていきます。
その様子を微笑みうなずきながら眺める予備大尉の分隊長。
なんかこれも凄く変な構図だぞ。
そもそも飛行隊の訓練って、こんなグループレッスンみたいに行なわれてたっけ?

・・ということをわたしが瞬時にして分かるようになったのも、
曲がりなりにもこの三年半、「軍」「隊」という文字を見ないで過ごす日はないというくらい
血のにじむような軍研究の日々を送ったおかげなのですが、(勿論冗談です)
もし三年半前にこれを見ても何も気づかなかっただろうなあ。
まあ、それより前だったらそもそもこんな映画観ようとも思わなかっただろうけど。

とにかくこの小笠原中尉のお小言というのが

「今の編隊飛行のざまはなんだ!
そんなことで戦争に勝てるか!」

せめてもう少し具体的にどこが悪かったか言ってくれなくては
直しようがないと思うんですが中尉。



そして「性根を入れ替えろ!飛行場一周!」と走らされる4人。

この映画に駆り出された黄色い飛行機を、さり気なくいつも画面に入れ込むという構図のため、
(もったいないから?)
飛行機と飛行機の間を走り抜けたりしています。



そして「そんなことで敵が殺せるか!」と走らされる4人。



「みすみす負ける奴に貴重な飛行機が渡せるか!」と走らされる4人。

命じた本人が指揮官先頭で自分も走っているのはいいとしても、
相変わらず具体性のさっぱりない精神論的叱責だけが繰り返され、
飛行機乗りなのに飛行シーンもなく、皆でぐるぐる走っているだけの毎日。

これはつまり、この映画の特撮監督が円谷英二でなかったから、ってことでOK?

しかし、あまりに予備学生の出来が悪いので、キレた小笠原中尉が彼らに命じたのは
なぜかツートン、無線打ちのテスト。
判定のための通信員をわざわざ呼んできて、彼らに無電を30秒以内に打てとかなんとか。
戦争が負けそうで明日にも特攻に行かねばならないってのに、
そんなことのために忙しい通信員4人も引っ張り出すなんてこの中尉、何様?


30秒経ったら、小笠原中尉、結果も見ずに



「ろくに通信もできんで、戦闘機乗りがつとまるかあ!
脚を開け!歯を食いしばれ!」

ぼかっ!ごすっ!どすっ!ばきっ!

・・・いやちょっとお待ち下さい。

あなた方の海軍飛行隊の先輩の、台南空分隊長だった笹井醇一中尉という方は
ガダルカナルで戦死後、全軍布告で「武功抜群」とその功績を讃えられ、
二階級特進しましたが、この方はツートンが大の苦手だったそうです。
こんな戦闘機乗りもいることですし、一概にそうとは言えないんじゃないかな。

そもそも飛行機乗りの技量を試すのにどうして飛行機に乗らせてあげないの?
もしかしてやっぱり、そっちの技量じゃなくて大映の特撮チームの技量の問題 ?

そんな彼らの毎日とはうらはらに、戦局はどんどんと悪化し、
ついにこの部隊にも特攻の令がくだることになるのですが、その前に
彼らは戦闘第三〇二航空隊に転勤となります。

ん?

第三〇二航空隊と言えば、厚木の?
なんだか分からないことだらけですが、こだわらずに参ります。

そのころ航空隊では、あの令子の魔の手が野沢に忍び寄っていました。
着任先を聞いていた令子が、繁く手紙をよこしていたのです。
あんな露骨ではた迷惑なアプローチを受けた上、恥をかかされ、
さぞかし疎ましく思っているだろうと思ったら、同期の林(野口啓二)が、
新婚の妻に

「あいつら一目見ただけで惚れ合っちゃったらしいんだ」

なんて説明しているじゃーありませんか。

野沢、それでいいのか?
というか、いつの間に惚れたのか野沢。




その林少尉のKA(ケーエー)。
昭和19年の物資困窮の折り、なんと差し入れに真っ白なクリームの乗った
デコレーションケーキを皆さんに差し入れるという剛毅さ。
吉野妙子という、恐ろしく演技の下手な女優さんがやっています。
ついでに言うとこの映画、演技のうまい人がはっきりいって一人もおりません。


ご存知とは思いますが、海軍軍人は奥さんのことをKAと言っていました。
関行男大尉が最後に記者のインタビューに答えて

「最愛のKAを守るために往くんだ」

と言った話は有名です。
ちなみに、わたしが連れ合いのことをTOとここで称しているのはこの変化形です。

この林少尉を演じているのは、野口啓二という俳優で、
「あゝ戦争シリーズ」(っていうのかどうか知りませんけど)、
「あゝ江田島海軍兵学校物語」で、主人公(らしき)兵学校学生を演じていました。
そういえばそのとき、この新入生を苛め倒していたのが、本編の主人公、本郷功次郎。
この黄金のコンビの稚拙な台詞回しの掛け合いといい、出てくる女優(しかも女学生)
の化粧が妙に濃いことといい、なんだかデジャブを感じたと思ったら、この映画だったのか。


ところで、この二人の会話でわたしはさらにショックなことを知ってしまったのだった。

「ときにあのメッチェン(女性)どうした?
堀川令子嬢さ。
・・・・手紙も来んのか」
「・・・・・うん」
「そうか・・・・ま、仕方が無いからあきらめるんだな。
つまりは十五の乙女の儀礼に過ぎなかったのさ」

十五の乙女・・・

な、なんだって〜!(笑)

写真をねだったり相合い傘を強制したり腕を掴んだりするのが儀礼かどうかはともかく、



これが、じ、じゅうごさい〜?
 


心の底から驚きつつ、続く。
・・・って、全然さらっと語ってないし。 



 




映画「あゝ特別攻撃隊」〜同期の桜vs歓喜の歌

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昨日のイラストに加え、今日の冒頭画像を見たあなたは、
おそらくちょっとこの映画を観てもいいかもしれない、ネタ的な意味で、
と思われたかもしれません。
しかし、くれぐれもわざわざDVDをAmazonで注文したりしないで下さい。
わたしがこうやって体を張って突っ込んでいるからこそ面白そうに見えるのであって、
実際の作品は決しておすすめ映画として紹介するほどのものではない、
ということだけ、頭の片隅に留めておいて下さると幸いです。


と、映画の制作者には失礼な出だしですが、昨日の続きと参ります。

15歳だというのにどう若く見積もっても28にしか見えない、
押しの強い古本屋の娘、令子からの手紙が野沢の元に届きます。

「本当に残念でした。
だって、野沢さんのお手紙が着く前に令子は田舎に出かけてしまったんですから。
出かけるとき令子はなんとなくもう一日延ばした方がいい気がしました。
(中略)残念でたまりません」

この手紙を読んで、ぱあああ:*:.。.:*(´∀`*)*:.。.:*:と顔を輝かせる野沢。
あんな目に遭わされて、好きになるか、野沢・・・。
それと、老婆心ながら忠告しておくけど、自分の名前を自分で
「令子」「令子」などとしかも連発するタイプの女にろくなのはおらんぞ。
きっとその自己主張の強さで身を滅ぼすタイプだから。←伏線



その日、レスに繰り出した野沢ら三人の予備少尉たち。
道すがら機嫌良くベートーベンの「喜びの歌」を歌います。

「フロイデ シェーネル グッテル フンケン トフテル アウス エリジウム
ヴィル ベトゥレーテン フォイエルトゥルンケン ヒムリッシェ
ダイン ハイリッヒトゥム!
ダイネ ツァウベル ビンデン ヴィーデル
ヴァス ディー モーデ シュトゥレンク ゲタイルト;
アンレ メンシェン ヴィルデン ブリューデル
ヴォー ダイン ザンフテル フリューゲル ヴァイルト」

日本人の第九好きは異常で、年末になると第九のコンサートが幾度となく行なわれ、
アマチュアでも第九を歌うために合唱団に入る人もいる昨今ですが、
このころのドイツ語というのはやはり「社会のエリート」インテリゲンチャたる大学生の
ちょっとお洒落な必須アイテムだったりしたんですね。

ちなみに、音楽大学というところは履修学生以外も合唱でこれを歌わせますから、
わたしは今でも完璧に最初から最後まで歌うことができます。

ただ、この映画の時代である昭和19年暮れは、日本は非常時とされており、
実際に彼らも学徒出陣していたように、とてもバンカラ学生が放歌高吟するような
ご時世ではなかったと言えます。



まだまだ娑婆っ気つまり娑婆の学生気分が抜けない彼らの歌を聞きとがめたのは
運悪く同じレスでいかにも場末の女っぽい酌婦と飲んだくれていた小笠原中尉。
エキストラを極力節約した作りのため、小笠原中尉はレスでも一人。

兵学校出は友達がいないっていう印象操作ですかね。

レスで早速「フロイデシェーネルグッテルフンケン」を始めた3人の前に
鬼の形相で現れたと思ったら、

「貴様ら歌うなら日本語で歌え!」

と一喝し、朗々と「同期の桜」を歌い出します。
何も考えずに高いキーで歌い出してしまった俳優の三田村元さん、
高音部で血管切れそうになって苦しそうです。
小笠原中尉が歌うのを反抗的に眺めていた野沢、ワンコーラス歌っても小笠原が
一向にやめようとしないため(笑)対抗して「喜びの歌」を歌い出します。

なにを小癪な!と目を剥いて小笠原中尉、一層無理なキイで声を張り上げ、
残りの二人が助っ人に入った「喜び組」(ん?)にワンマンバンドで対抗。
あまりの異様さにレス中の従業員や客が集まってきます。

しかし、こういうときに仲裁するはずの必ず怖いレスのゴッド(女将)も、
予備学生を叱りつけるはずの他の士官も、つまり誰も止めに入りません。

ちなみにここのシーン、これを書くため二回目に映画を観直したときに、わたしは
聴いているのがあまりに苦痛だったため、音声をカットしました。
いわばこの映画のハイライトというか前半のクライマックスなんですが、
だからってこういう無茶苦茶なシーンを長時間流されても・・・。

この部分はこの映画のテーマである

兵学校出身士官と予備学徒士官の対立

という構図を制作者は象徴的に表したかったのだと思います。
そして本人はこの件を令子への手紙で

「のどがひりひりして湿布をするやらうがいをするやら」

と報告しますが、どうやって収束に至ったかは語られません。



さて、航空隊本部に大本営から伝達を持ってやってくる将校が乗った車が、
猛スピードで野沢の老いた母の側を通り抜け、あたってもいないのに彼女が転ぶ、
といった具合に、こまめな「軍は悪」の印象操作を欠かさないこの映画ですが、
その車に乗ってやって来た将校の持って来た達というのが、

「戦況が悪化したから三〇二航空隊も特攻を出せ」

特攻命令、キター!(AA略)



基地司令官の横で眉根を寄せる浅野参謀(高松英郎)。
若い。
わたしには晩年の頑固爺さんみたいな顔の印象しかありませんでしたが、
若い頃は結構イケメンタイプだったのね。
参謀なのに参謀飾緒を付けていないのはご愛嬌です。

浅野参謀は、戦闘機に爆装すれば能力が半減すること、
掩護する戦闘機が付けられないと言うことを理由に特攻に反対します。

ところが、せっかく参謀がこういっているのに、なぜか京大卒の
予備士官である岡崎大尉が、

「万に一つも敵を叩く可能性があるなら行かせて下さい!」

と力強く言い切ったため、特攻は出されることになります。

岡崎大尉ェ・・・・・。

こういうときになぜ本来なら率先するべき兵学校士官ではなく、わざわざ
学徒士官である岡崎大尉にこのようなことを言わせたのか。
日頃から「娑婆っ気がどうたら」とか、「学徒には覚悟もない」とか、
さんざん兵学校卒から馬鹿にされていたので、国を守る覚悟は俺たちにもある!
と予備士官隊長としては反発心も手伝って、っていう意味なんでしょうか。

いずれにして予備少尉たちは、岡崎大尉の予備士官の意地みたいなものから
望まぬ特攻に行くことになってしまった、というようにも見えます。


さて、というわけで賭け将棋などして娑婆っ気満々の宿舎生活をしていた少尉たち、
本部に集められたと思ったら、いきなり浅野参謀から

「出撃予定時刻、明朝マルハチサンマル!」

と、何の心の準備もないままにあっさり特攻を命じられてしまいます。

特攻出撃は志願制でしたが、当時の「志願」が純粋な志願というよりは
「そういうことになっているから」志願せざるを得なかったというのが実際でしょう。
勿論、士官の中には、たとえば関大尉の特攻一番乗りを聴いて

「うちがやりたかったものですなあ」

と心から悔しがっていたという管野直大尉のような者もいましたし、
どんな状況でどういう地位でどういう戦闘をしていたかによっても様々で
一概にはいえないとは思いますが、多数の若者は、確固たる意思をもって特攻を志願するというより、
極めて同調圧力に弱い日本人らしく、


「皆がやるからには俺もやらなきゃ」

という状況に「国を守るため」という後付けの動機による補強で自分を納得させ、
特攻に行くことを受け入れたのではなかったでしょうか。
受け入れた後の覚悟については余人の慮るにも及ばぬ彼らなりの克服があったはずで、
これを以て彼らの意思を軽んずるつもりは微塵もありませんが。

さらに、毎日空襲が無差別爆撃を行い、大都市は悉く灰燼に帰し、子供ですら
「戦争で近々死ぬんだろうな」と考えていたような敗戦直前の日本の戦況にあって、
いつか必ず死ぬのなら、兵士として、日本の男として意義のある死に方をしたい、
という考えに至り、特攻を志願するものがいても全く不思議ではなかったと言えます。

とにかく、この映画のように、何の予告も気配もなかったのにいきなり寝耳に水みたいに、
「明日君特攻行ってもらうからよろぴくー」
というようなことだけはおそらくありませんでしたので念のため。


「こんなに急とは思わなかったよな」

といいながら荷物の整理をする先遺隊(野沢以外の三人)。
そこにたまたま林少尉の妻と野沢の母が訪ねてきます。



林の妻の泊まっている旅館で最後の夜を過ごす彼ら。
勿論明日特攻に往くことなどおくびにもだせません。



何も知らずに笑い転げる林の妻。



最後の日を、彼らなりの苦衷と煩悶のうちに過ごすのですが、



ここにも煩悶している人が。
第二次攻撃隊隊長として野沢と一緒に出撃することになった小笠原中尉です。

相変わらず友達がいないので、下品な飲み屋の女、ノブを相手に飲んだくれ。
野道で水が飲みたいと所望する小笠原に、ノブは(多分)川の水を口に含み、
戻って来てそれを口移しで飲ませようとします。

断固拒否る小笠原。
そりゃそんな水を飲むのは誰でも嫌だと思いますが、ノブは激高し、
「あんたなんか早く逝っちゃえ!」と捨て台詞を残して去ります。
そこに運悪く通りかかる野沢ら三人(笑)

よりによって野沢が愛とか青春とか演説しているのを小笠原は聞きとがめ、



「貴様の娑婆っ気を抜いてやる!」

といいつつ、実はノブに逃げられた腹いせに河原で野沢を殴る小笠原中尉。

さて、宿舎に帰って来た三人組。
そこに酒を持って訪ねて来た岡崎大尉が衝撃発言を。



「実は真っ先に特攻に志願したのは俺だ」

目を剥く三人。
岡崎大尉はおかまいなしに自分語りを始めます。

「俺は後二月大学にいれば論文もまとまり、教授のお嬢さんを貰うことになっとった。
そりゃ素晴らしいお嬢さんだったぞ。
ところが入隊命令の方が一足早かった。ふふっ・・。
だが俺は特攻を引き受けた。
俺が突っ込むことで・・いや、俺が死ぬことで少しでも日本が救われるならばだ、
俺の命は・・・・・・・、とまあ、考えたわけだ」


「まあ考えたわけだ」じゃねーよ。
自分だけが往くならともかく、部下も一蓮托生なのに、
そんなノリで俺ら下っ端が選択の余地もなく連れて行かれるんかい!

そういう目で見られているかもしれないのに、岡崎大尉、自分に都合良く
彼らの沈黙を解釈し、

「同じ予備学出の、同じ特攻で突っ込む貴様たちに分かってもらえば、
・・・・俺は本望だ」

いや、分かってもらえば、って何も説明してない気がするんですが。

気まずい雰囲気に耐えかねた野沢が「大尉の母校の歌を歌わせて下さい」と提案し、
4人で岡崎大尉の出身校、三校寮歌「紅燃ゆる」を歌います。
なんで全員がよその大学の寮歌を全部歌えるのだろう、などと言ってはいけません。



こちらは林少尉夫婦。
最後の夜だというのに、林はそのまま寝てしまいます。
未練を残さないためにあえてそうしたのでしょうが、
これで妻良枝は何事かを察知してしまったのでした。



そしていよいよ出撃の朝がきました。



行進曲「軍艦」に乗って帽振れです。
離陸していく零戦・・・・と言いたいところですが、座席が二つで二人乗ってる・・。

百里原から出た正統隊の特攻は、九九式艦爆に二人乗りでしたが、
彼らは戦闘機乗りという設定だから、二人乗りの艦爆で往くというのはありえないのですが。




これはどうやらT−6テキサンを二機だけ借りて来たらしく、
何度もその二機に滑走離陸させてそれを撮影しております。
ちなみにこのテキサンの機体は上から雑なペイントされているため、
地色の黄がはっきり見えております。

よく見ると、映画の前半で彼らがしごかれて飛行場を走り回っていたときには
この飛行機はまだ黄色かったので、その後スタッフの手で緑に塗られたものでしょう。
急いでいたのだとは思いますが、作業はもう少し丁寧にね。



夫の態度から彼が特攻に往くことを悟ってしまった妻良枝。
彼女は夫に殉じて自害するつもりで喪服を着て佇んでいました。



夫の乗ったテキサン、じゃなくて二人乗りの零戦(の模型)が
地の果てに消えたとき、彼女は喉を突こうとします

・・・・が、やはりどうしてもできません。
なぜなら彼女のお腹には新しい命が宿っていたからでした。
逝く夫に未練を持たせぬよう、彼女はそれを告げることをしませんでした。
夫を深く愛すればこそ、あの世までついていきたいのはやまやまですが、
また、どうしても夫の忘れ形見を自分とともに葬ることはできません。
彼女は死ぬのを諦め、地面に泣き伏すのでした。

(ということだとおせっかいながら解釈してみました)

さて、そしていよいよ我らが野沢少尉の出撃が決まります。
4人のうち3人がいなくなり一人になった宿舎の部屋に、
浅野参謀がやってきて、単刀直入に

「野沢・・・貴様には恋人が居るそうだな」

なんで参謀がそんなこと知ってるんですか。
そしてこれもなぜか、

「行って逢ってこい」

いや、それをいうなら「おふくろさんに会ってこい」でしょ?
一度会っただけで手紙のやり取りしているだけの相手より、
本人は普通母親に会いたくなるものだと思うがどうか。

しかし、映画のストーリーの都合上、野沢は令子に会いにいくのでした。
令子は女子挺身隊で軍需工場に行っており、野沢もそこに向かうのですが、
折しもB-29六機の空襲に見舞われます。

特攻シーンはもちろんのこと、この空襲シーンも米軍のフィルムが使われ、
やはり大映の特撮チームは何の仕事もしていないことがよくわかるのですが、
それはともかく、空襲による群衆の混乱のさなか、二人は都合良くばったり再会。

一度会って文通をしていただけの相手に、再会するなり抱きつく令子。
やっぱりこのコ、ちょっと厚かましくな〜い?


しかも令子、やっと避難場所が見つかったと思ったら、
爆音に託つけて抱きついたり、
「ほら、あなたの写真」といって野沢からゲットした写真を見せたり、
アピールに余念がありません。



「令子さん・・・!」

感激した野沢はまんまとその手に乗ってついその気になるのですが、
すんでのところで理性が働きます。

野沢「いけない!俺は馬鹿だ!
君にひと目会えたらと思って駆けつけた。
でもそれでどうなるというんだ。
俺は特攻隊だ。明日は死ぬ。
その俺がどうして、どうして人を愛せる!」

令子「いいんです!
特攻隊でも何でも、あたしはあなたが好きなんです」

何がいいのか、もう少し分かり易く説明してくれるかな。

「令子を愛して下さい!」

あ、そういうことね。
令子さんたらまだ15歳だというのに大胆〜。
今なら児童福祉法第34条1項6号違反で野沢少尉は懲役二年以下の罪に問われます。

だいたいまだ空襲続いているし、終わってからにしましょうよ。





「いけない!私をを苦しめないで・・私を乱さないで下さい」

必死の野沢。
自分でも言ってるけど、じゃー来るなよ。

「明日は死ぬ。だが俺は逃げない。明日は突っ込む!」

それよりこの女から逃げて飛行隊に帰ることが先決だぞ野沢。
と、エリス中尉もつい負けじと突っ込んでしまうのですが、
そんな野沢に業を煮やしてか令子、爆弾の雨が降り注ぐところにまろび出て、
案の定、



爆死してしまいます。

ほーらいわんこっちゃない。
こういうタイプは自分で自分の身を滅ぼすって最初に言ったでしょ?

驚いて駆け寄り爆心地に散らばる肉塊から令子の頭(らしきもの)
をいきなり拾い上げ(!)号泣する野沢。(´;ω;`)ブワッ


ここでこらえきれず爆笑してしまった、こんなわたしは鬼畜でしょうか。



さて、明けて次の日。
第二陣特攻隊の出撃です。


しかしそこに野沢の姿はありません。
勝手に上陸を許可した浅野参謀が気をもんでいると、
おりしも基地を急襲したグラマンの銃声を縫うようにして、
野沢はきっちり海軍5分前に間に合うように帰ってきたのでした。

しかし野沢、来るなり敵機の空襲真っ最中だというのに

「ちきしょ〜!」

とかいいながら勝手に飛行機に乗り込もうとします。



それを退避孔から見ていた小笠原中尉、

「待てー!野沢ー!」



飛行機は出撃前で既に滑走路に列線を組んでいるはずなのに、
なぜか草っ原を走りまくる二人。



指揮所からどんどん遠ざかる二人。



やっと飛行機にたどり着いた野沢、乗ろうとしますが、
小笠原中尉に追いつかれ、引きずりおろされます。

「何をするんだ貴様!」
「たたき落としてやるんだあいつら!」
「やめろ!」

小笠原が止めるのもごもっともです。
こんな状況で、しかも飛行機乗りとして全くダメダメな予備少尉が、
(かどうかは特撮がダメダメだったせいで全く描かれなかったのでわかりませんが多分)
そもそも単機で敵攻撃の最中離陸するなんて、正気の沙汰ではありません。



しかも恋人を目の前で殺されてテンパっている状態の野沢、
止める小笠原(上官)を、

「あんたに俺の気持ちがわかるか!」

と殴りつけ、飛行機の横で取っ組み合いの殴り合いが始まります。
ここで爆笑してしまったわたしは(略)

そこでこんどは小笠原中尉、

「俺は貴様に言いたかったんだ!
俺は貴様を殴った。
しかし、俺はきさまに愛情を」

・・・・なん・・・だって?

そうだったのか。・・ってそういう話?


しかしどうでもいいけど、なぜこの登場人物はどいつもこいつも
こういう非常時に重大事を告ろうとするのか。

案の定、非常時に野沢に迫って爆死した令子の例に違わず
小笠原の体も敵機の銃弾に貫かれてしまうのでした。

そこに、参謀のくせにやたらフットワークの軽い浅野参謀が脱兎のごとく駆けつけて、
銃弾に斃れた小笠原の体をいきなり乱暴に抱え上げ、無茶苦茶に振り回します。
やめてくださいしんでしまいます。

グラマンの編隊を追って母艦に特攻をかけるため、浅野参謀は飛行隊を即時編成しますが、
怪我をした小笠原中尉の機での出撃には、なぜか一人だけ着替えの済んでいない野沢を指名します。
すぐに飛べる乗員で一刻も早くグラマンを追いかけた方がいいのでは、と思うのはわたしだけかしら。
野沢が宿舎に帰り、悠長に飛行服を着ていると、包帯をした小笠原が来て

「野沢、貴様どうして志願したんだ」

どうしてって・・・最初から出撃することに決まっていたんですけど。
それに対して野沢、

「恋人は目の前で殺されました。彼女に会いたいのかもしれない。
彼女が殺され、目の前で基地がやられて私は戦争というものがわかった。
今こそかっと目を見開いて敵艦にぶち当たります!」

その意気や良し、といってやりたいところだけど、つまりこの人に取って
「復讐心」が戦う動機と意義だったってことなんでしょうか。
一見もっともらしい理由だけど、

「今まで特攻に全く意味を感じず死ぬのも嫌だったが、
目の前で知り合いがやられたから仕返しをしたい」

とつまりこう言ってるわけでしょ?

「国を守る」ひいては「愛するものを守る」という大義に殉じた
特攻隊員たちに取って、これはなんだかものすごい侮辱ではないか、
と思ってしまうのはわたしだけでしょうか。



そんな野沢になぜか小笠原中尉は狼狽し、

「貴様には恋人があった。
おれはそれを弱いものだと思っていた。
貴様には学問があった。
だが兵学校ではそれを許さなかった。
だから俺には何一つない。
それが俺を僻ませて、貴様たちに辛くあたった!
許してくれ!」

いやいやいやいや(笑)

これも随分兵学校出身者に失礼な話じゃありませんか。
だいたい、

「学徒」=「真理を追究する学究の徒」「兵学校出」=「無学な野蛮人」、

この単純なレッテル貼りは、戦後すぐに東大生協が中心となって作られた
映画「ああわだつみの声」でも顕著でしたが、これではあまりにも現実を単純化し、
ものごとを二元的に語りすぎです。

「わだつみ」では、その学徒の中にも帝大を頂点とするヒエラルキーが存在して、
「師範出」や「美大出」などの「下層」のものは蔑まれていたらしい、
という少々複雑な構造も描かれていますが、いずれにせよ兵学校や陸士出の
「職業軍人」を相対的に貶めるような描き方は共通しており、これもまた
戦後15年の間に日本に蔓延した「軍卑下」の風潮が現れていると言えましょう。

そんな小笠原に、野沢は実家の母への手紙や、令子が盗ってきた本を渡し、
小笠原は感激して

「ありがとう!読ませてもらう!」

などと言いつつ両者は手を握り合うわけです。
というか、小笠原中尉、いつの間にちゃっかり生き残るつもりになってるけど、
小笠原中尉も、怪我が治り次第特攻に往くことはほぼ確実なんだから、
野沢が形見を渡す相手としてはちょっとどうかと思うな。




そしていよいよ最後のときがやってきます。
小笠原に本、従兵に自分の財布を渡し、出撃していく野沢。
相変わらずたった2機しか映らないテキサンに二人で乗り込んで・・・。



見送る小笠原中尉の胸には、しっかりと野沢から贈られた本、
そして、彼の口から漏れ出たのは・・・

「フロイデ シェーネル グッテル フンケン
トホテル アウス エリジウム・・・・」




ちょっと待った(笑)

なぜその歌をドイツ語で知っている。
実は小笠原中尉、海兵時代は学問の世界に憧れ、ギョエテやショーペンハウエル、
そしてこのシラーを密かに読んでいたって設定だったのかしら。
しかし「兵学校はそれを許さなかった」から僻んで学徒士官苛めをしていた、と?

ここは小笠原中尉、何が何でも「同期の桜」で兵学校出の意地を見せて欲しかったのにな。
わたしが監督なら絶対そうする。
あるいは、出撃する野沢が「貴様と俺とは〜」と口ずさむとかね。
このころはまだ兵学校出もたくさん世の中にいたのですから。
同じ戦争を戦った若者たちに対し、全方向に配慮をする妥協点を、
映画関係者は徹底的に探っていただきたかったと思います。(適当に言ってます)



そして、野沢を乗せたテキサンは、綺麗にアスファルトで舗装され、
白い滑中央線までテープで描かれた滑走路を飛び立っていくのでした。

 
それにしても敵機の空襲から出撃までこんなに時間が経ったら、
グラマンは勿論、母艦はとっくにいなくなってると思うけど、野沢少尉、
この後ちゃんと特攻する目標を見つけることができたのか、それだけが心配です。


(終わり) 












横須賀米軍基地ツァー11〜横須賀海軍病院

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またまた間が空いてしまいましたが、
昨年の秋に参加した米軍基地歴史ツァーの続きです。

さて、ランチが終り、米軍軍人を囲んでのふれあいタイムもすんで、
我々はまたもや歩き始めました。
この頃には雨が降ったり止んだり、いずれにしても曇天に恵まれたため、
いずれの写真もどんよりと暗いものになってしまっています。

しかし、この海軍病院周辺は、なんというかこういう天気の方が、
趣と言うか、その歴史の重さみたいなものを感じさせて風情があると思い、
冒頭写真はあえてモノクロで加工してみました。 



「皇太后陛下行啓記念の碑」。

いくらなんでも暗すぎ?
この皇太后行啓記念の碑ですが、こことは別に、海軍病院の前にもあります。



あまり日頃から陽の当たらない場所らしく、辺り一面は苔むしています。
碑の向こうに見えている建物が、海軍病院。



このたびの御行啓は、昭和12年11月17日となっています。
この年号からして、この皇太后とは、昭和天皇のお后であらせられた
香淳皇后陛下であると思われます。

皇太后陛下の御行啓が行なわれたというのは、赤十字の関係でしょう。

日本赤十字社は、明治10年(1877)、西南の役の際、敵味方無く救護を行なう施設として
熊本の洋学校に設立された「博愛社」が前身です。
最初にそれを西郷従道が許可せず(内戦は政府と逆賊の戦いであるからという理由で)、
そのかわりに皇族の有栖川宮熾仁親王が中央にそれを諮ったことと、西欧では当時、
皇室がノブリスオブリージュの観点から赤十字運動に熱心であったため、
日本でも明治天皇皇太后の昭憲法皇后が積極的にこれに参加され、華族や地方の名家が
中心的な役割を務めることに鳴ったのです。

以後、皇太后陛下が名誉総裁を、そして皇族の方々が名誉総裁を務めておられます。

名誉総裁  皇后陛下
名誉副総裁 皇太子殿下・同妃殿下 秋篠宮妃殿下
      常陸宮殿下・同妃殿下
      三笠宮殿下・同妃殿下 ?仁親王妃信子殿下
      高円宮妃殿下

(日本赤十字社HPより)



えーと、マンホールかな?(←ボケ)

これは、方位板で、おもな都市の方角が示されています。



拡大図。
石に彫ってあるのは日本語で、金属部分は英字表記です。
占領されてからもしかしたら米軍のためにわざわざ付け足したのかな?
とも思ったのですが、いかがなものでしょうか。

これは今は将校クラブ、昔もおそらく将校用の建物であったところにあり、
全国各地から赴任して来ている海軍軍人が、この場所で故郷に向かって
頭を下げるために備えられたものです。

江田島の兵学校にも同じような方角指示板のある『八芳園』があり、生徒は故郷に向けて
頭を下げたものだそうです。




この辺りは、一応「日本庭園」と名前のついている一角。
この真ん中のしょぼい感じの木なのですが、なんとビックリ、



紀元二千六百年記念樹。
紀元二千六百年といいますと、昭和15年。
神武天皇の即位から数えて2600年目がこの年であったということで、
ご存知とは思いますが、このころに開発された兵器は悉く
この年を「零」としてこの前後から制式されているため、「零式艦上戦闘機」とか
「九九式爆撃機」「九三式酸素魚雷」と名付けられているのです。

ちなみに、現代の自衛隊の武器は西暦を制式にしているため、
93式、というと近SAM、即ち近距離地対空誘導弾に付けられていたりします。



済みませんねえ本当に画像が見にくくって。

この庭そのものが紀元二千六百年記念に作られたのですが、
そのきっかけ、というかこの植樹をしたのが、この人物でした。

The Last Emperor finale

ちょうど今日、移動の中の車でこの曲「ラストエンペラー」が流れて、
ちょっとした偶然を感じたので、貼ってみました。


愛新覚羅溥儀。

映画をご覧になった方はご存知でしょうが、陸軍によって満州国に設立された
傀儡政府の執政として担がれた、中国王朝のラストエンペラーです。

溥儀はこの年、日本を訪れ海軍病院を慰問しています。
海軍省の最後の医務局長は、保利信明中将でしたが、溥儀の訪問は
この保利が少将のころで、この人物がこのような史跡を残すことを計画したようです。

戦後、溥儀は東京裁判に出廷し、その姿は映画「東京裁判」に見ることが出来ますが、
このとき溥儀は保身のために偽証をしたことを、 

「自分の罪業を隠蔽し、同時に自分の罪業と関係のある歴史の真相について隠蔽した」

と、『我が半生』という自著で告白しています。




これは海軍病院は海軍病院でも、アメリカ軍が建てたもの。



御行啓の碑のすぐ側にこのような祠が遺っています。
昔はここにご真影が飾ってありました。
任地に発っていく、つまりここから戦地に赴く前には
必ず海軍軍人たちはここで写真を遥拝していったそうです。



勿論進駐軍が接収してからその痕跡だけがこうやって残されているだけです。

勿論、墓地や慰霊碑というものではなく、写真が飾ってあったにすぎませんが、
戦後のアメリカ軍は、もはや無用のものとなっても取り壊すことをしなかったようです。
取り壊すことが出来なかった、とでも言った方がいいでしょうか。

目黒の海軍研究所も、呉の海兵団跡もそうでしたが、アメリカ軍はどこかの国とは違って
建物はできるだけ保存して使い続け、そして、このような日本人が手を合わせていたものは
その価値や意味合いのいかんを問わず

「触らぬ神に祟りなし」

とでも言うべき配慮で、ほとんどそのまま残しているようです。
腐っても文明国家である限り、いかに戦争で負け支配された民族であろうと、
精神の蹂躙は彼らの中に激しい憎悪を蓄積していくだけであり、特に
この日本人という人種に関しては表面を押さえつけても決して根本では屈しない、
得体の知れない強さを持っていると彼らは思っていたのではないでしょうか。


このご真影の祠に佇んだ軍人のことごとくが、そののち戦地に赴き、
そこで斃れていったという歴史をもし知っていれば、
たとえその中ががらんどうになったとしても、取り壊すことには
誰しも畏れを抱くのが当然であろうと思われます。






アンビュランスの字がバックミラーに映ったときに正しく見えるようになっているのは
日本と同じ。
日本がこれを導入した方が後だと思いますが。

車体はトヨタですね。



これが旧横須賀海軍病院。
海軍病院は明治13年に開庁、関東大震災で建物は失われ、
今ここに在るのはそのあと作られたものです。

すなわち、戦争中、海軍軍人たちがここで治療を受けていた、当時のまま。

そういえば、「大空のサムライ」の写真版に、ガダルカナルで目をやられて帰国した
坂井三郎氏が、片目を包帯で巻き、病人衣を着、専用の帽子まで被らされて、
この建物の前で座っている写真が掲載されていましたっけ。

あれは、このソテツの前だったのかな、などとふと考えました。



建物は所々改装がなされているそうです。
勿論前面は舗装されていませんでしたし、スロープの付けられた入り口は
昔は車寄せになっていました。

建物に沿って植木が立ち並んでいますが、ここには何も無く、
入り口の向かって右側にももう一つ通用口があったそうです。



何度も塗り替えているに違いない壁ですが、レリーフはそのまま残されています。
アメリカ軍がここを使っていなければ、おそらく疾っくにこの世から無くなっていたでしょう。 



おそらくこの石段も昔のものであると思われます。



説明は全くありませんでしたが、構内には往時のままであると思われる
建物がそこここに点在しています。
これは、長官とか、偉い人の宿舎だったのではないかしら。(予想)



アメリカ人の物持ちのよさもここまでくると感心します。
雨が降って曇っているのでよりいっそうおどろおどろしい雰囲気の建物。
しかし、窓の様子などを見ても、現在も使用されているようです。



これも・・・。
病人衣を着た海軍軍人が暗がりに立っていた、なんて話は過去に無かったのかしら。




このソテツも病院ができたときからここにありました。
坂井三郎氏が座っていたのはこの前だったかも・・・。

当時は小さな植木だったソテツが、百年のときを経てこんもりとした大木になっています。



勿論この建物は病院として現役です。
それどころか、日本の医大をでた学生がインターンシップを取ることが可能。
なんでここを志願するのかって?
そりゃあなた、日本にいながらアメリカの医療施設で働けるからじゃないですか。
これぞ本当の国内留学。

この表示板には

「精神医学」「ソーシャルワーク」「薬物乱用リハビリ」

と実にアメリカらしいですね。 
岩国で薬物についての啓蒙ポスターを見ましたが、ここでも・・。

まあ、薬物と言っても、マリファナ、吸引剤、アンフェタミン、
ついでにアルコール中毒や喫煙製疾患なんかもこの範疇みたいです。



われわれのツァーは中から歩いてここに到達するので、ここを通り過ぎて
昔は横須賀病院の正門だったところにたどり着きます。




門柱は当時のままだそうですが、門灯は戦後つけられたもので、
昔はもっと門が狭く、反対側の門柱は撤去して作り直したようです。
門塀は塗り重ねた塗装で元々のレンガは全く見えません。



こういう、むかしの銘板を壊さずいまだに保存してくれているというのは、
本当にありがたいですね。
こういうのを見ると、アメリカ人に感謝してもしたりない気持ちです。

もし戦後日本が管理していたら「海軍」とつく銘板など、
あっというまに破壊されていたに違いありません。
戦後は他ならぬGHQに媚びて。その後はノイジーマイノリティの左翼どもに配慮して。



この「フラッキーホール」と書かれた建物は、
なんだってこのようにものものしく防備がなされているのでしょうか。
物干竿かと思ったら、これは、鉄条網。

 

ここにある旗、青が司令官在中の意味だったような・・・・。

時間が経って、説明を忘れてしまいましたorz

色々と物事にこだわって、寄り道しながらお話ししていくというのも、
ここまで間延びしてダラダラ進行すると、こういうこともあるわけで考えものです。


(といいながら最終回に続く) 


護衛艦「ふゆづき」引渡式及び自衛艦旗授与式に行ってきた

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落馬事故によって右手首を骨折し、一時は再起不能かと思われたエリス中尉ですが、
悪運が強かったと見え、今のところ順調に回復しています。
見た目は普通の人ですし、箸が持てないとか、ペットボトルが開けられないとか、
お釣りを受け取るときに手のひらが上に向けられないとか、
自分でもそういうことが起こるたびに不便さを感じる毎日ですが、
のど元過ぎればで、最近は怪我をしていることをときどき忘れてしまうくらいです。

しかし、実は、救急車で運ばれたERの外科医が当初

「私の奥さんなら手術は受けさせない」(!)

と言ったくらい、手の外科というのは、特に対象が音楽家の手術は難しく、
また誰にでもできるというものではないそうです。
今回は幸いにも手の外専門の名医という先生をご紹介いただいたおかげで、
一か月ギプス生活、という考えただけで気の狂いそうな日々を過ごさずにすんだのですが。


前置きが長くなりましたが、もし今回の事故での「不幸中の幸い」ランキングで
ベストをつけるなら、それはこの先生の手術を受けられたことかもしれません。
なぜなら、そのおかげで今回の

「ふゆづき」引渡式および自衛艦旗授与式

への出席をあきらめずに済んだからです。
(じつは時期的にぎりぎりで実に危なかったんですけどね)


しかしたとえ温存療法でギプスをしていたとしても、皆の制止を振り切って
わたしはこの式典だけには参加していたことでしょう。

以前、自衛官旗授与式の模様をほかならぬ自衛隊の中の方から教えていただき、
その様子をエントリにアップしたこともあるくらい、この一連の儀式には憧れており、
チャンスがあればぜひ一度はこの目で見たいと思っていたからです。

そしてそのチャンスがとうとうやって来たのです。

今までの自衛隊イベントには、自力で、あるいは自衛隊の方からの
篤志によるご招待で参加してきたエリス中尉ですが、今回はこの竣工式典に

正式招待客待遇

で参加する予定だったのですから、これは何が何でも行かねばなりません。


今回、東京音楽隊のコンサート(とついでにクラプトンのコンサート)を
怪我のため断腸の思いで断念し涙をのんだわたしにとって、この式典に参加する程度にまで
怪我が回復していたことは、まさに天佑神助というべき僥倖でした。



さて、この日完工した護衛艦「ふゆづき」は「あきづき型護衛艦」の4番艦で、
平成23年起工、24年8月22日に進水式を行っています。
その模様。



建造は三井造船。

今回は、三井造船からの関係協力企業団体に対しての枠でご招待です。
しかもご同行くださったのが、地元経済同友会並びに民間防衛協会の偉い方であったため、
またお話ししますが、その御威光の御相伴にお預かりすることになったのでした。


それにしても、この進水式の様子ですが、美しいですね。

・・・・天気が。

青々と抜けるような空、白い雲、翻る日の丸に極彩色のテープ、
そしてその空に放たれた無数の風船が、「ふゆづき」の前途を祝すかのように・・・。

だがしかし、その完工を記念すべき式典の行われた2014年3月13日、
三井造船艦船工場のある岡山県玉野市は、いや玉野市に限らずその日は、
全国的に本格的な雨と強風に見舞われることとなってしまったのです。

何日か前に週間予報を見たら、その日だけが早々に雨の予報。

「どうせ一週間先の予報なんて当たらないから」

と軽く考えつつ降水確率を見ると・・・・90%・・・?
気象庁のこのいつにもなく断固として確信に満ちた数字。
ということは「実は降水確率100パーセント」という意味でしょう。

足元以前に当方は手許がおぼつかないのに何たることか。


しかし前日、三井造船に直接電話をし現地の様子を聴いて安心しました。
なぜなら、招待客は控室からドックまでバスで送迎、
バスから降りて数歩歩けばテントのなかで式典見学、という楽々モード。

思い出せば去年の朝霞、観閲式予行で数時間冷たい豪雨の中傘もささずに座り込み、
終わってみれば手の皮が白くフヤけていて何時間も乾かず、さらには
バッグの中に溜まった水で携帯が水死したあの日のことを思えば、
たとえ手の怪我というハンディがあったとしても天国と地獄くらいの違いです。

いや、人間、いちどでも底を見ると強くなりますね。
その程度が「底」なんて甘い、と思われるかもしれませんが。





この日配られた記念写真(冒頭)のケースですが、
雪の結晶に三日月、で冬月。
気持ちはわかるがあまりにもベタではないか。

しかしそんなことはどうでもよろしい。
これを手にしたわたしは猛烈に感動していました。

まあもっともこの日一日中感激しっぱなしだったのですが、どういうことかというと、
かつてこの三井造船所で、そして他のドックで建造された幾多の戦艦、
その完工のたびに、造船会社はこうやって「完工記念祝賀」を行って来た訳で、つまり、
その数だけ(戦争末期に駆逐艦を急造していたときはどうだか知りませんが)
こういった記念のよすがが関係者に配られて来たのです。

それを今、こうやってわたしが受け取っている、という感動。


艦船の起工から完工までは3年かかるのが通常で、例えばこの三井造船では、
戦後から数えてこの「ふゆづき」が30隻目の建造にあたるそうです。
つまりそうそうしょっちゅう立ち会えるというわけではない行事。
「ふゆづき」の起工が決まったころにはこの世界に何の興味もなかったこのわたしが、
何のご縁かこうやってその行事に参加しているのですから。

「ふゆづき」は初代から数えて三番目に当たります。
初代「冬月」、あの坊ノ岬沖海戦で戦艦「大和」とともに出撃した駆逐艦が完工したときも、
やはり同じような儀式が行われたのでしょう。

そのとき見守った人々とまったく同じように、一つの駆逐艦の誕生の瞬間、
フネに命が吹き込まれる瞬間にわたしもまた立ち会っているという感慨に耽りました。



さて、というわけで、今日から何日かかけてこの日一日のことをお話ししていこうと思います。

進水式のときにはおそらくたくさんの人がつめかけ、一般にも公開していたので、
多くの方がこういったブログにそのときの様子を挙げていたのだと思われますが、
今回はこのお天気。
一般の見学者も艦首付近に傘をさして少しいたようですが、



少なくとも天幕の中にいた人々の顔ぶれには、このようなブログ媒体で
写真をアップしようとしているような雰囲気の方は一人もおられませんでした。

本稿はもしかしたらテント内幕から見た唯一の報告になるかもしれません。



前日夜から一人で岡山入りしました。
今回の造船会社、「三井」の名が入るホテルです。
まだ新しいホテルらしくきれいで、朝食もとても結構でした。

朝、待ち合わせの時間にロビーにいたら、制服姿の自衛官が
何人もチェックアウトしていきました。
後からわかったのですが、市ヶ谷からは制服組も私服もたくさん来ていたようです。

その日ご一緒させていただく方とロビーで会い、運転手付きの黒塗り車で
岡山市中心から40分ほど離れた玉野市まで山を越えていきました。

玉野は呉軍港からは離れているところですが、軍港から離れていて内海にある、
というこころが造船に最適であったようです。
軍港が空襲に遭うことがあっても、ここは離れていて被災しにくいという理由です。

当初、この造船所のある玉野には、昔男爵位を持っていた「塩田王」所有の塩田がありました。
遠浅地形と、山が迫っていてドックを作るだけの海深が両立しているという
希有な条件を備えていたため、この地が選ばれたそうです。

ご一緒下さったI氏は地元生まれの地元育ち。
某地場産業の会長で、また地元の経済同友会の要職にある方ですから、
こういった話始め、興味深い話題は尽きません。
夢中で話をしている間に、いつの間にか現地に到着していました。




三井造船前に到着。
車の窓ガラス越しに撮りました。




車から降りて、テントで受付をしました。
ところがここで問題が。
わたしの乗るバス、控え室、そして観覧席、そのことごとくが
当然ですがご同行のI氏とは全く別になってしまうことが判明したのです。

「僕たち別々になると困るんだけど、これ何とかしてくれない?」

恐縮するわたしを尻目に、I氏、まず受付の人たちに交渉。
しかし、現場の人間ほどそんな融通は利かせることができません。
わたしなどよりそういったことをよくよくご存知のI氏、
とっとと自分の待合室のある建物に行って、そこの一番偉そうな人に
何が何でもわたしの場所を作るように、有無を言わせず認めさせ(笑)
わたしは恐縮しながらおじさまばかりの応接室で小さくなっていました。



待機のための部屋に割り当てられたのは実にクラシックな雰囲気の社屋。
築数十年経っていそうな、木造の雰囲気のあるレトロな建物です。
ちなみに写真に写っているのはその隣のパーティ会場です。

部屋にはいるとソファが置かれ、人数分のお茶と会社資料が用意されていました。
わたしはここでデジカメに加え、望遠レンズを装着したニコン1をスタンバイ。

怪我の前になりますが、ここで「広角レンズが欲しいと思った」と書いたら、
読者のmizukiさんに一眼レフ並びに白レンズを勧められました。
あのコメントはわたしのような初心者にとって結構なカルチャーショックでした。

そしてニコン1と広角の相性の問題についてしばし考えこみ、やはりこれはボディ買い替えか?
と長考に入ったところで怪我をしてしまい、そこで話が終わってしまったのですが、
じつはそのとき広角レンズが欲しくなったのは、この引き渡し式に参加することになり、
岸壁にある護衛艦は望遠だけでは撮れない、と考えたからでした。

結局それどころではなくなってしまったので今回はソニーのRX−100を併用したのですが、
やはり遠いようで護衛艦は近すぎ、案の定あまりまともな写真は撮れませんでした。
艦上の自衛官たちの表情などはこのレンズでないと無理、というくらい寄せて撮れたのですが。


現地案内まで訳40分ほどあり、その間ここで準備をしたり、
二階にある三井造船の資料室を見学したりしました。
資料室についてはまた別の日にお話しします。


その後移動の時間となったとき、バスの人数に制限があるのにも関わらず、

「いや断じてこの人はわたしと一緒のバスでないと困る」

と三井造船の社員にI氏がだだをこねていたら(笑)同室のおじさんが、
(といってもおそらくI氏と同じ部屋だからかなり偉い人) 
「何だったらわたしが代わりにそちらのバスに乗りますよ」
と言ってくださったので、八方丸く収まり、
わたしは安心してI氏と同じバスに乗り込みました。

じつは歩いたって岸壁までは10分もない距離ですが、
今日は天気が悪いため皆おとなしくバスに乗って行きます。




向こうに海保の艦船も停泊しています。

当たり前ですが見渡す限りそこは三井造船の岸壁。
ここで働く社員だけで何万人もいて、玉野という町はそのほとんどが
就職先にここを選ぶという地元密着型企業です。

しかし、近年機械化とオートメーション化、さらにIT化が進み、
昔と違って社員の数は激減し、玉野市内の社宅はほとんどがガラガラだそうです。




バスが「ふゆづき」が係留してある岸壁に到着しました。
それにしてもこの窓ガラスの雨をご覧ください。



わたしが座ったのは(というかIさんの席は)ここ。
立っている人がいるところから向こうが式典の行われる中央ですから、
じつは特等席だったのです。



はい、ここですね。
テントの下には呉音楽隊、その手前が儀杖隊、
そして紅白の幕がかけられたラッタルの手前に艦長始め幹部、
士官の皆さんの順番で立っています。



左手には下士官と水兵さん、じゃなく曹士。
何となく右から左に行くにつれて立ち姿勢に緊張感が無くなっていくような・・。
というか、こうやって写真に撮ると、顔を動かしたりしている人は
圧倒的に若い曹が多かったのが不思議です。


ずっと緊張し続けていられるというのもすべて訓練の賜物だとは思いますし、
実際に見ている分には「だれている」とは全く思わなかったのですが。




いかに激しい雨の中、彼らが全身濡れそぼっているかがよくわかる画像。
しかしこうして見ると各人の制服の水のはじき方に大きな違いがあります。
一番右の隊員と一番左のでは、素材が全く違うように見えるのですが気のせいかしら。



わたしのいるテントからはこんなかんじです。
広角レンズが必要だと思ったわけがお分かりでしょう。


 
とりあえず望遠レンズで撮りやすかったウェポン(笑)

同じテントにいたおじさま方は、職種も様々ですから、
それこそこういう武装について関わっている会社の代表だったりして、
仕事の関係上護衛艦のことは隅から隅まで知っていたりする方もいたでしょう。

おそらく知識の幅はわたしを基準にしたとすれば(なんでわたしが基準かわかりませんが)
わたしより上とわたしより下は半々ではないかと何の根拠も無く思ったのですが、 
I氏は明らかにわたしより知らない方で、

「護衛艦っていうからもっと武器を搭載しているのかと思っていたけど、
あんな細細い大砲がひとつあるだけなんだねえ」

などとおっしゃいます。
するとわたしの右側の方が明らかにわたしより詳しい方で、

「護衛艦は昔と違ってああいう形の武器は搭載してないんですよ。
あそこの前にあるところから垂直にミサイルが出ます」

と、わかりやすくわたしの頭越しに説明してあげていました。
この「大砲」はMk. 45 Mod4 62口径5インチ単装速射砲。

5インチとは127ミリで、アメリカ製。
「あたご」型と同型で、DDとしては初めて搭載となります。

「長細い大砲」

というのは見た目の通りで、そのため最大射程は3万8千メートル以上、
さらに長距離誘導砲弾であるロケット推進のERGMを使えば、
その最大射程は110kmを超えるそうです。

そのかわり?発射速度は毎分20発で、オートメラーラ製の5インチの半分くらいだとか。


行きがかり上いきなり装備の説明をしてしまいましたが、
このときの隊員の様子をもう少し。



儀杖隊。
儀杖隊長はなぜか白のホルスターの短銃を装備しているようです。

儀杖隊の向こうには自衛隊のカメラマン、写真員と呼ばれる隊員がいます。
雨でも決して傘をささない彼らはこれしきの雨には慣れているのでしょうが、
やっぱり雨が降ってほしくないと一番願うのは写真員でしょう。
近くを通ったときにカメラを観察したら、レンズの上にテープで紙を貼付けたりして、
雨が少しでもかからないような工夫を凝らしていました。
彼らにとってカメラは武器のようなものですから、扱いも慎重なんでしょうね。

ちなみに彼らは写真を撮るのも「任務」で、

「誇りを胸にシャッターを切れ!」

がモットーだそうです。



女性の幹部がいますね。
この一団は士官、と今は言わず、幹部といいます。

昔の「士官候補生」が今の「幹部候補生」であるということに
うかつながら割と最近気づいたエリス中尉ですが、なんかねえ・・。

幹部候補生。

一般企業みたいであまりかっこよくないと思ってしまうのはわたしだけ?

「水兵」という言葉が使えなくなり、この階級を「士」として一士二士士長などと、
えらいのかそうでないのか自衛隊以外の人にはさっぱりわからない名称にしたので、
自動的に「士官」が使えなくなった、ってことなんですね。

わたしのような旧軍好きから見ると、

「青年士官」

という言葉だけで三割増くらい期待してしまうというか浪漫を感じるというか、
陸軍だろうが海軍だろうが、その響きに胸にアツいものを感じるのに(笑)

「青年幹部」

って・・・わけわかんないし。

「スマートな士官」

というとあるイメージがわくけど

「スマートな幹部」

ってまったくイメージすらわかないんですけど。

戦後になって失われた旧軍の用語で最も復活してほしいのがこの「士官」。

「鎮守府」「水兵」「駆逐艦」「戦艦」「攻撃戦闘機」が

「地方総監」「士」「護衛艦たるDD」「支援戦闘機」とは、

だんだん変わっていったとかいうのではなく、ある日突然使えなくなったので
仕方なくあれこれ相談して言葉を決めた無理矢理感が否めません。

まあもっともどんな言葉も60年以上使い続けていれば、
それなりの「言霊」というものが宿ってきているのかもしれないとは思いますが。




ちなみに、すばらしい姿勢の良さでしかも微動だにせず、最も衆目を集めていたのは
列の一番右にいた幹部、というかスマートな士官でした。

「ふゆづき」艦長北御門裕2等海佐です。

 

(続く)








 

 

護衛艦「ふゆづき」〜引渡式

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この日は少し小降りになったと思ったらまた再び篠突くような雨、
といった具合に一日中傘をささねばならない天気で、
人々はざあっとくるたびに

「うわ・・・酷いですね」
「せっかくの日なのに散々ですね」

と顔を見合わせては繰り返していました。
しかし、前項でもお話ししたように、決して傘をささない軍人たる自衛官たちは
こんな日でも(一部を除いて)微動だにせず、式典の間直立しています。

彼らの雨水を弾いている制服と染み込んでいる制服の違いは、実は
防水スプレーをどれだけふったかによるそうで、それでいうと
本日最も丹念にスプレーを制服にかけていたのは艦長の北御門二佐らしい、
というところまでお話ししました。・・・・違ったっけ。


彼らが直立不動で待機する間、我々招待された観覧者はバスでドックまで運ばれ、
それぞれ割り当てられた天幕の下の椅子に座り、約40分待ちました。

(その遥か前から隊員たちは整列していたことに注意)


そして1200(ヒトフタマルマル)、引き渡し式開始です。
式に先立ち、本日の引き渡し式ならびに自衛艦旗授与式の執行者、
そして主要出席予定者が黒塗りの車で入場してきます、

執行者は三井造船の社長(引き渡し式)、呉地方総監(護衛艦旗授与式)。



防衛省の代表として防衛大臣政務官の若宮健嗣氏。
若宮政務官は一般人なので傘を差し掛けられての登場です。



海上幕僚監部代表として海上幕僚長河野克俊海将。

この後の祝賀会でご挨拶し名刺を戴いたのですが、
河野は「こうの」ではなく「かわの」とお読みすることがわかりました。



防衛事務官で装備施設本部代表の鎌田氏(だと思う)。



ふと護衛艦上に背広の二人がいるのに気づきました。
はて、なぜ一般の社員がここに乗っているのか。

そうこうするうちに式典開始。
まずは防衛省事務次官による巡閲が始まりました。



わたしの席は丁度この写真の右にあり、何が起こっているのかは
左手の大きなスクリーンでないとわかりません。

もうすっかり(わたし的に)おなじみの「巡閲の譜」を呉地方音楽隊が奏でる中、
政務次官が巡閲を行っているわけですが、この栄誉礼、こういう場合は
「ふゆづき」の乗員ではなく、儀杖隊に対して行われるらしいですね。


わたしの隣に座っていたやたら詳しい方の弁によると

「どうも私、この巡閲に納得いかないんですよ。
だって、実行部隊で実際にフネにのる乗員じゃなくて儀杖隊を観閲するんですよ。
儀杖隊というのは、いろんなところから少しずつ集めて来たわけで、
この護衛艦の専属というわけではないのに、意味が無いんじゃないかと」

まあ、おっしゃることはよーくわかりますが、「儀式」ですから・・・。



その間ずっと敬礼を続けている「ふゆづき」艦長以下幹部。
この間、観閲官たる栄誉礼樹齢資格者に敬意を表するため、栄誉礼、
または頭中(右・左)の敬礼で答えているのです。

護衛艦の指揮形態は、艦長以下副長、分隊の長となります。
艦長の後ろが副長、その後ろが砲雷長、船務長、航海長、機関長、
補給、衛生、整備長。(順不同)

この敬礼している袖を見て思ったのですが、指揮系統の上から4人が二佐。

護衛艦は戦闘艦であるため、そのなかでも砲雷長と船務長が、
航海長と機関長よりも指揮系統は上になります。

航海長の後ろ(前から4番目)は雰囲気から言って衛生長かな?



ところで。

皆さんが巡閲を受けている間、その他起立を要求されていないときも、
こんな風に自衛官幹部と同じことをしていた陸自幹部あり。
わたしの前に座っておられました。

全員が企業関係省庁関係のこのテントに(エリス中尉除く)、
只一人だけどうして陸上自衛官がおられたのかわかりませぬが、
後から写真に写った階級章を見たところ、なんと陸将補殿でした。

陸将補殿はお一人でわたしたちの前に黙って座っておられましたが、
わたしとI氏、そして右側の方の雑談を聴いておられたようで、
何度か話に反応し(笑)、自衛隊の中の人しかわからないことが話題に出ると
振り返って気さくに教えてくださいました。

退場してバスに乗り込むとき、同じテントにいた人がこの方に傘を差し掛けて

「どうぞお入り下さい」

というのを滅相も無い!という感じで断っておられました。
案外世間の人って、自衛隊員がどんなときにも傘をささない、
ということを知らないみたいですね。



そしてその巡閲というもの、何をしているのかわからなかったのですが、
こうやって後からスクリーンを見ると、
儀杖隊員の間を若林氏とおそらく呉地方総監が歩いていますね。

巡閲が終わり、続いて護衛艦の引き渡し式に入ります。
今このとき、まだ「ふゆづき」は建造した三井造船の所有であるという印に



まだ社旗を掲げてあります。



それが降納されていきます。
本来ならばここで旗が翩翻と翻る予定なのですが、本日は雨天のため
旗が全くなびきません。
いったい何の旗を降ろしているのか、さっぱりわかりません。

このとき、音楽隊は聴きなれない曲を演奏し始めました。

「この曲なんですかね」

周りの誰かがささやいたのですが、わたしがふと

「三井造船の社歌じゃないでしょうか」

というと、みんな、ああ・・と納得していました。
たぶん正解だと思います。



この社旗を降納していたのが、先ほどから乗り込んでいたこの二人。
なるほど、誰かと思えば、旗下し係の社員だったのか。
わざわざ白手袋着用の上、自衛隊員でもないのに傘もささずご苦労様です。

ただし、ここには国旗も自衛艦旗も上げないので、そのかわり、
画面に見えている小さな8条旭日旗を揚げるようです。




そして、正確にはここからが自衛艦旗授与式の始まりとなります。

かつて自分でアップしたエントリに

「自衛艦引き渡し式は、造船所と防衛省の間で行われる儀式であり、
船を建造した造船所の社長から防衛省代表に引き渡される」

とも書いてあります。(笑)

この画像では、防衛省代表から艤装員長に護衛艦旗が授与されている瞬間です。



今この瞬間、艤装員長は護衛艦旗を受けて「初代艦長」となります。

ところで。

今回、望遠レンズでは護衛艦は写しにくかった、と書いたのですが、
望遠レンズならではのこんな瞬間も撮れました。



まだ観覧客がそろっていない頃、航海艦橋にちらちらと人影が見えていたので
思いっきりズームしてみました。



携帯で写真を撮っている人、あり。
なんか楽しそうでいいですね。

艦内帽も何も被っていないので、自衛官ではない可能性は高いと思いますが。



(続く) 





 

護衛艦「ふゆづき」護衛艦旗授与式〜艦長乗艦

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この当日、もし雨が降らなかったとしても、テントの中で行われる
防衛省の代表たる政務次官から初代艦長への護衛艦旗授与は
全くわたしのいる並びのテントから見ることは出来ませんでした。

しかしそれが終わり、護衛艦旗を受け取った艦長が、ラッタル付近の
こちらからよく見えるところに出て来てくれたので、写真を撮りまくりました。
私のテントでちゃんとしたカメラを持っていたのは只一人。
他は携帯で撮っている方が一人いただけででした。

一般に護衛艦の引き渡し式は公開しないようです。
ゆえにあまりそれについて書かれたものもないらしく、たとえば

「護衛艦旗授与式」

で検索すると、昨日アップした当ブログが最初のページに出てくるくらいです(笑)




それにつけても、艦船に命を吹き込み、護衛艦として船出するための儀式。
海軍海自ファンにとって、それが目の前で行われるのを見るのは冥利に尽きるというものです。

特に、護衛艦旗を受け取ったあとのこのような礼式は、
これこそ、当ブログがそのタイトルで標榜するところの
「ネイビーブルーに恋をする」瞬間でもあります。



艦長は受け取った護衛艦旗を高々と抱え上げ、それを副長に渡します。
副長というのは、護衛艦の上級指揮命令系統で言うと艦長の直下です。

副長、という官職名は明治時代から変わっていません。
「勇敢なる水兵」の一節にも、

副長の眼はうるおえり されども声は勇ましく 心やすかれ定遠は 戦い難く為し果てき

とありますね。



副長は一旦それを左で受け取り、



右手を一瞬添えて、



再び左手で抱え上げ、敬礼を交わします。

しかし、この日一日で敬礼を数えきれないほど見ましたが、
現在の海上自衛隊の敬礼は、昔の海軍軍人の写真に見る敬礼より遥かに
「陸軍寄り」になっている気がします。

というか、わたしの前に座っていた陸将補の敬礼と海自隊員のそれは全く同じに見えました。
つまり陸自の敬礼も昔の陸軍式よりは「海軍寄り」になっているということです。


よく考えたら幹部は同じ防大で学び、同じ敬礼をしているわけですから、
陸海に入ったからといって急に敬礼の仕方が変わるというのも変な話です。
自衛隊トリビアなどの本などを見ると、相変わらず

「陸自と海自では旧軍の名残で敬礼の方法が少し違う。
陸自は肘を横にまっすぐ、海自は肘をたたんで」

そしてご丁寧にも

「空自は陸自と同じやり方でする」

などと書いてあったりするのですが、今までの観察によると
陸式も海式も実際はあまり変わらない、というのが当ブログの結論です。


まあ、陸海でいがみ合っていた昔ならいざ知らず、現代の自衛隊では
そんな些細な違いはどうでもよくなったってことかもしれません。

旧軍時代、うっかり「海式敬礼」をしたため叱責され左遷までされた陸軍軍人がいましたが、
(註・陸軍潜水艦「まるゆ」の乗員)良い時代になったものです。



艦長から護衛艦旗を受け取った副長は左手で高々と持ち上げます。
なぜ艦長が持っていかないかというと、艦長が乗艦するのはいちばん最後。
全員が乗り込んだ後「艦長乗艦」という儀式があるからです。

このとき、音楽隊が行進曲「軍艦」を演奏し始めました。



副長を先頭に乗組員乗艦です。



手前は三井造船のカメラマンだと思われます。
このころ、雨脚はいっそう強くなり、ほとんど滝のように降っていました。



副長の後ろに続くのは航海長、次いで砲雷長だと思われます。



手の上げ方が角度までおそろしいくらいシンクロしています。
海自隊員にとっても護衛艦授与式はそう何度も経験することではないでしょう。
もしかしたらこれが初めて、という隊員の方が多いかもしれません。



「軍艦」に乗ってその場足踏みをしていた下士官、じゃなくて曹の行進が始まりました。

ご存知のこととは思いますが一応説明しておくと、
袖と制帽に金筋があるのが幹部、ないのが曹です。
昔は制服の形態からして違いましたが、今はそれ以外一緒です。

「下士官の軍服は士官のに比べてカッコワルすぎる」

という不満は戦前からあったといいますから、この「士官の下」を意味する
「下士官」という言葉をなくしたついでに制服も一緒にして、
自衛隊としては「軍隊の民主化」をはかったってことなんでしょうか。

あ、「士官」が廃止になったのは「下士官」の「下」に問題があったからか!




副長はラッタルを上がり、艦橋の右通路から姿を消しました。



多分この隊員だと思うのですが、この写真で先頭にいる女性の曹は、
姿が見えなくなってから号令をかけていました。

前席の陸将補どのの説明によると、隊列ごとに掛け声をかけることになっていて、
この女性が「一番偉いから」というわけではなさそうでした。




儀杖隊は乗組員が乗艦後、艦尾に向かって乗艦。
右手奥に護衛艦旗を揚げるポールが見えています。



「ふゆづき」はヘリコプターを一機搭載しますが、ここに飛行甲板があります。
飛行甲板に整列し、艦尾に護衛艦旗を揚げるための儀杖を行うのです。



乗艦した副長はすぐに護衛艦旗を渡し、同時にこの一士は
(彼の袖の階級まではっきりとわかりました。300ミリ望遠レンズすげー)
国旗を左脇の下に抱えて艦首にある掲揚ポールに向かっています。



そして国旗掲揚の準備。
まさか本人もここまで注目されていたとは思うまい。

艦尾では護衛艦旗も同じように用意されていたのだと思いますが、
わたしのいるところからは残念ながら見えませんでした。



そして、総員乗艦後、一番最後に艦長が乗艦します。
これは式次第のその2、「乗組員乗艦」の最後「艦長乗艦」です。

正確にはこの乗艦を以てそれまでの「艤装員長」は「艦長」となります。




艦長は乗組員が起立敬礼する中、ラッタルを上がり、敬礼をしつつ颯爽と進んでいきます。

前半の儀式でわたしが最も心が痺れた瞬間、それはこの「艦長乗艦」でした。
この新生艦の全責任を担う一人の男の背中は、決して気のせいではなく、
その重さを負う覚悟と誇りで輝くように見えました。

そのように感じたのは、海軍海自の比較的ミーハーに属するファンであるところの
わたしのみならず、周りの男性陣も一様にそうであったらしく、

「・・・・かっこいいですね」

とわたしが思わずつぶやくと、右隣と左隣が同時に

「いや、本当に」

と相鎚を打ち、気のせいか前の席の陸将補どのも賛同してくれているように感じました。
軍艦の艦長は男として生まれて一度はやってみたい仕事、と以前も書いたことがありますが、
この「艦長乗艦」の瞬間、北御門裕(ひろしではなくゆう、だそうです)二佐は
男としても自衛官としても船乗りとしても「冥利に尽き」たに違いありません。




わたしはそれまで間断なくシャッターを切り続けていたのですが、
北御門艦長が敬礼をしながら皆の間を過ぎる瞬間、
それを食い入るように見ていたため、ここから後の写真は撮れませんでした。

しかし、偶然ですが大事なシーンがこの写真には捉えられています。
この写真の画面右に写っている曹を見てください。
ホイッスルを鳴らしているのがお分かりでしょうか。

これは、艦長乗艦の儀式のときに鳴らされる笛を吹いているところで、
この間音楽は無く、ただ笛の「ピー、ピー」という音が響いています。



艦長乗艦が終わると、式次第は

「自衛艦旗授与者乗艦」

です。
先ほど偽装院長に自衛艦旗を授与した防衛省代表の若宮防衛大臣政務官が
乗艦し、自衛艦旗並びに国旗を掲揚、その後訓示を行います。

そういう決まりでもあるのか、ラッタルと護衛艦内では政務官も傘なしでした。



先ほどまで三井造船の社旗が揚がっていた掲揚ポールにも乗員が待機しています。

ついでに今回得た知識をちょっと披露しておくと(笑)、画面左側にある
たくさんの筒状のものですが、これは

チャフ・フレアランチャー。

チャフとフレアは全く別ものではないのか?
という質問を某知恵袋で見ましたが、これはそのどちらもが搭載されており
この名称はユナイテッド・ディフェンス社の商品名です。

制式名称はMk.137 Mod2。

わかりやすく言うと、これは自艦が攻撃された際、誘導されたミサイルの
命中を回避するための「デコイ」です。

「チャフ」は偽装のための金属で、旧日本軍ではアルミ箔を模造紙に貼ったものですが、
今でも原理は一緒で、アルミ箔を詰めたコンテナを空中に散布するものです。
これでレーダー誘導型ミサイルの目標を撹乱するわけですね。

ミサイルも当節は様々で、赤外線誘導型のものもありますから、そちらには
高熱源体であるフレアの出番です。
ただし、敵がどちらのタイプを撃ってくるかは来るまでわからないので、
チャフとフレアを併用して発射するわけです。

たとえミサイルを回避しても、どちらが効いたのかは最後までわからないままだってことですかね。



というわけで、そのとき国歌演奏のため全員が起立しました。
わたしはとりあえずこの小さな旭日旗を揚げるところだけ写真に撮り、
あとは国旗と自衛艦旗に敬意を表して大人しくしておりました。



この小さな「ミニ護衛艦旗」の正体はわかりませんでした。




全くわかりませんが艦尾の護衛艦旗も掲揚された模様(笑)



艦首のニ士水兵さんも恙無く掲揚し終わりました。

きりりと結んだ口元が凛々しいですね。
この隊員のご家族がこの姿を見たら、さぞかし誇らしく思ったのではないでしょうか。



ところで前々回挙げたこの写真。
この狭いところから見ている一団を「一般人ではないか」と書いたのですが、
過去の引き渡し式の報告をいくつか見るに、この人たちはどうやら

「造船会社の社員の家族」

であるらしいことがわかりました。
護衛艦乗員の家族、特に艦首に国旗を揚げる係の隊員の家族は、
息子のそんな姿をぜひ見たいと思うのでしょうが、式典の形式上
見物人を増やすわけにはいかず、どこで線引きをするのか難しいところでしょう。

というわけで「身内」である社員の家族に限り、このように
狭いところから顔を覗かせ合う形であっても立ち会うことが許可されたようです。


我が子が、我が夫が、三年の間心血を注ぎ、ときには困難を乗り越えて作り上げた船。
その船が今命を吹き込まれて旅立っていくのです。
その瞬間を目にするために豪雨の中傘をさして長時間佇んだ彼らの心の中には
夫への、息子への誇りが、この日の乗組員たちに負けないくらい強く刻まれたに違いありません。




(続く)




 









護衛艦「ふゆづき」自衛艦旗授与式〜「サイドパイパーの憂鬱」

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2014年3月13日に行われた護衛艦「ふゆづき」の引き渡し式、並びに
護衛艦授与式への参加記をお送りしております。

この連載が始まってからコメント欄にもいろんな読者のお話が寄せられ、
楽しく会話しながらいろいろと初めて知ることもあり、
まさに値千金のイベント参加であったと幸運にしみじみ感謝しております。

そして、まさにありがたいことに、外部の者が少し調べたくらいではわからない
様々な「中の人情報」によってご教示いただいていることもありますので、
コメント欄では紹介しきれなかったそれらをまとめてみました。

まず、わたしが当初インターネットで調べて「わからない」と匙を投げた
「小さな旭日旗」について。



全部写すことができなかったのですが、実は大変尻尾の長い旗です。
一応旭日様なので「小さな旭日旗」(笑)などと書いたのですが、
これは「旭日旗」ではなく指揮官旗のひとつで、「長旗」といいます。

指揮官旗とは、連隊旗含む部隊旗と違い、部隊でなく指揮官に授与されたもので、
離着任式の際含む指揮官の移動時には、必ず同行することになっています。

つまりこれが揚げられた=艦の最先任指揮艦が艦長であること、そして
艦長が艦を指揮していることを示します。

わたしは最初自衛艦旗のwikiページを検索して見つけることができなかったのですが。
ご教授者から同じページを送っていただいたので再び見たところ

ちゃんとありました。orz

「海上自衛隊の旗」という項の各種旗写真二段目の左から二つ目に。
でも、見ていただければわかりますが、これじゃわからんだろーWikipedia 。


旗つながりで艦首の国旗に付いても少し。

冒頭の二士水兵さん、かっこいいでしょう。
護衛艦旗掲揚は天幕に阻まれて撮ることができず残念でしたが、
この写真が撮れたのでいいとするか、というところです。

この艦首に揚げる旗は「国旗」と呼ばず「艦首旗」というそうです。
「艦首旗」について詳しい説明はこちら

このページの最後の質問に君は(笑わずに)答えられるか?!


質問・停泊中の自衛艦が艦首に揚げる旗は?

1、自衛艦旗 2、国旗 3、Z旗 4、何でもいい




もう一つ。

艦長乗艦の際吹鳴される「サイドパイプ」についてもお話ししておきます。

モノ知らずのわたしは「ぴーぴー」とか「ホイッスル」とか、
当事者からは噴飯ものの(本来の意味で)書き方をしたわけですが、
実際に聴いてもこの笛の音は「ぴー」というより「ほー」という感じです。
ホイッスルにある音の立ち上がりがない、「アクセントの無い音色」で、
これはなぜかというとこのサイドパイプという笛、ホイッスルとは機構が違い、
振動させるための「玉」が入っていないのです。



音の高低も音量も、すべて自分の口先八寸でやってしまわねばならず、
こう見えて、というか簡単な機構だからこそなかなか難しいもののようです。


送迎パイプは、1佐たる艦長、指揮系統上の1佐以上の司令(隊司令、群司令、艦隊司令官)
の他、将官の場合は指揮系統上になくても吹鳴されます。

このパイプが吹鳴されるのを聞くと、周囲にいる者は作業を中断し、
被送迎者に向かって敬礼を行うのだそうですが、今回、海上幕僚長や呉地方総監が乗艦した際、
サイドパイプが吹鳴されていたかどうかは残念ながら確かめることはできませんでした。

このパイプの起源は、帆船時代に作業を指揮するために吹鳴された様々な奏法であり、
帆船時代、外出から戻った酔いどれ船長を畚に乗せ、それを滑車で引き揚げる
作業指揮のために吹鳴されたパイプの名残だとも言われています。

送迎パイプは

ホー……ヒー……ホー……

と間を空けて吹かれ、それゆえ他の雑令などと比べると息が続かなくて大変だそうです。


海上自衛隊 サイドパイプ舷門送迎 掃海艇


ちなみにこの映像はコメント欄で「サイドパイパー下手」とかいわれていますが(泣)
 実際難しいので、舌や息の使い方のセンスによっては、全く使いこなせないまま
退官してしまう海上自衛官もいるとアンサイクロペディアにはあります。

出所が出所なので真偽は不明ですが、このYouTubeを見たらそんな気がしました。
このときのサイドパイパーさん、正直でごめんなさい。 

ちなみにアンサイクロペディアの「舷門送迎」の項には

” ホー……ヒー……ホー……(舷門送迎)

隊司令以上(要するにエロいエライ人)の乗退艦時に吹奏する。
なかなか息が続かなくて大変である。
ちなみに号令はなく、吹奏者以外は挙手の敬礼あるいは
「気をつけ」の姿勢で厄介者が過ぎ去るのを待つばかりである。”

とあります。
アンサイクロペディアの「号笛(甲)」のページ、お時間がありましたらどうぞ。




 

さらに、ご指摘の中でわたしが目から鱗だったのが

「自衛艦」「護衛艦」の使い分け。

インターネット検索しても「自衛艦旗」より「護衛艦旗」の方が検索数が多く、
かつて自分で「自衛艦旗授与式」とタイトルにつけたエントリが少数派であることから
どちらでもいいのかと思っていたのですが、あの「軍艦旗」は「護衛艦旗」ではなく
「自衛艦旗」と称します。

よく考えたら潜水艦にも掃海艇にも、タグボートやゴムボートにも(!)
揚げるものですから、「護衛艦」に揚げるときも「護衛艦旗」とはならないのだそうです。



さて、式次第に戻りましょう。
自衛艦旗授与者の訓示からです。



これは内部カメラでモニターに写し出されたリアルタイム映像。
場所は後甲板に繋がるヘリ格納庫です。

「あきづき」型は格納庫内に2機のSH-60を収納することができます。
床面にいろいろあって「足元がお悪い」感じがしますが、この部分には
ヘリの拘束装置が設置してあり、溝があったりするからです。

ついでに書くと、甲板はゆるやかに傾斜がついており、昔はこのことを
「オランダ坂」と称しました。
オランダ坂のように「なんとなく」傾斜があるのが護衛艦の特徴でもあるそうです。 



若宮政務次官の訓示は映像とともに流されました。
内容には最近の中国の動きを指して「尖閣」という言葉、
そして「竹島」という言葉がはっきりと盛り込まれていました。

つまり日本の国防の現状を述べるにごく当たり前の訓示だったと思いますが、
これ、民主政権だったらどんな内容だったんでしょう。
「竹島」はもちろん「尖閣」という言葉は出たでしょうか。


初代首相は自衛隊の観閲を拒否し(これ、今考えたら凄いことですよね。
自衛隊関係者はどんな気持ちだったかと思うと、胸が痛くすらなります)
第二代首相は一応形だけ観閲したものの、官僚作成の文章の丸読みで観客からの拍手なし。

官房長官は「日本は中国の属国だ」と公言し、歴代大臣の誰ひとりとして国会質疑で
「竹島は不法占拠されている」
という言葉を頑として口にしようとしない政権だったわけですが、
あの間、現場の自衛官たちはどのように感じていたのでしょうか。

さすがの民主党もそれまでの流れを無理筋で廃止することは出来なかったらしく、
たとえば「いずも」に国会で予算がつけられたのは福島みずほが内閣にいたとき
(ありましたねえそんな瞬間が)だと言いますが、
もし護衛艦の引き渡し式があの時期行われていたとしたら、民主党の政務次官は
果たしてそこでいったいどんな訓示をしたことやら・・・。

ちなみに本日の授与訓示者である若宮健嗣代議士ですが、
外国人参政権については

誰の為に日本国民の貴重な税金を使っているのか、
もしも、とある地方自治体で外国人が多数を占めてしまったら、
そこはもう日本国内であっても日本ではなくなってしまいます。
外国人に参政権を付与するなんて全く有り得ません。

という、日本の政治家としてごくごく当たり前の考えをお持ちのようです。
そして、ソーシャルネットワークの発言を追ってみるかぎり、自衛隊に対しては
理解だけでなく大変思い入れをお持ちのようでした。

本日そんな政治家の訓示を受けたことは「ふゆづき」にとって
たいへん幸先の良い出だしとなったのではないでしょうか。

民主党政権が終わり、あちこちから「観閲が安倍首相でよかった」みたいな
「中の人」からの心の声を聞いたこともあって(笑)よけいにそう思うのですが。



「ふゆづき」の左舷側から見て右手に設えられた「撮影用足場」。
黄色い旗を持った2曹をご覧ください。
この日、自衛官たちはレインコートなしで全員が雨の中立ち続けていたわけですが、
自衛隊といえども濡れることを必要以上に強制しているわけではないので、
写真員や誘導係などの任務に就く隊員はちゃんとコートを着て仕事していました。

黄色い腕章は「報道」とありますので、ほぼ全員がマスコミのカメラマンだと思われます。

しかし、カメラマンだけは腐る程来ていても、めったに自衛隊イベントは報道されません。
今回のこの式典の様子はちなみにどこのメディアが実際に伝えたんだろうと思って調べたら、
産經新聞は勿論、朝日も報じていたんですね。

朝日はまあ、国民にではなく中国に日本の国防についての実情を報告するという
大事な使命がありますから(もちろんイヤミです)当然かもしれませんが。



舷門近くで艦長始め式執行者を迎えていた面々。
先頭女性尉官(三尉)、士、曹、一尉と上甲板を歩いていきます。
このまるで「各階級一人ずつ選抜」みたいな顔ぶれは何だったんでしょうか。
前から三番目の曹は、艦長乗艦のときのサイドパイパーであることから、
彼らは「舷門当番」グループではないかと予想してみる。


ついでにここに写っている装備について触れておくと、
画面右側の黒い巨大なホース状のもの。
これはプローブレシーバーといい、海上給油用のホースです。
全く同じものが右舷にもあり、やはり同じように周囲の壁面には
目立つように白く塗装されたリングプレートやクリートがあります。

ちょっとだけ上部に写っているのは作業灯で、これは蓋がしめられるそうです。
彼らの足元の赤いものは消火ホースで、ホースは消火栓につながっています。



装備説明ついでにもう少し。
これは

N-AS-299空中線

といい、短波受信のためのアンテナです。
上部構造物には二本ついています。



こちらは艦橋両舷にある同じ空中線。
赤い「浮き輪」は救急浮標といい、各壁面ごとに備えられています。
グレーの護衛艦に赤いアクセントが映えて美しいですね。

三脚のように見えているのが

12.7ミリ機銃

の銃架で、架台は固定式で備え付けてありますが、
銃身は通常艦内に保管されているのだそうです。
ただしこれは「搭載武器」としてはスペックに上がってきません。
その理由は、海上自衛隊の場合、これは個艦設備ではなく拳銃や小銃のように
『搭載品』扱いになるためだとか。




アンテナつながりでもう一つ。
これは艦橋の前面(艦首側)なのですが、このR2D2の頭みたいな丸いのは
だいたいどこにあっても「通信関係」の装備だと思っていただければ
まず間違いは無いと思います。
(CIWSだけはこれと酷似していますが武器ですので念のため)

ここにあるのはヘリコプター用のデータリンク装置で

ORQ-1C-2 ヘリコプター用データリンク装置

といいます。
「あきづき」型に搭載されているヘリ用データリンクは最新のもので、
中身は極秘扱いのため?公開されていないそうです。

丸いのの上に槍のように見えているのはただいまぐるぐる回転中。

OPS-20C 航海用レーダー

です。



出航して右舷が見えてから初めて見えてきたものもあります。

これは後部甲板のヘリ格納庫の上部構造物ですが、右側の小さくて丸い「きのこ」。
これも衛星通信アンテナで、

NORC-4B インマルサット衛生通信アンテナ

と言います。
赤道上空の軌道上に静止している4機の静止衛星から、
電話、テレックス、データ通信サービスを受け取るアンテナです。

赤道上にある衛星なので、北極と南極に近づくとサービス圏外(!)になるそうです。

左がファランクスCIWS。
高性能20ミリ多銃身機関砲です。





この「あきづき」型の大きな特徴の一つは、まるでイージス艦のような
四角い(正確には8角形ですが)「多機能レーダー」、

FCS−3A 多機能レーダー

を搭載していることです。
「ひゅうが」にもおなじ四角いのがついていたのを説明したことがありますが、
汎用DDとしてはこの「あきづき」型に初めて搭載されることになりました。

イージス艦がミサイル防衛の任務で手一杯になったとき
このシステムを備えた「あきづき」型は「僚艦防空」をすることができます。

これまで「個別防空」であった防衛システムですがこのレーダーシステムによって
ローカル・エリア・ディフェンス、つまり艦隊全体を防御できるようになったのです。

たとえばイージス艦は、ミサイル防衛作戦中には通常の航空脅威、たとえば
低空でやってくる低空ミサイルなどに対しては防衛がお留守になってしまいます。
「あきづき」型は、そのイージス艦を守ることができ、イージス艦が防空任務で
抜けてしまった後の艦隊も守ってくれる頼もしい奴なのですね。



ところで、本文中の「サイドパイプ」のYouTube画面ですが、
二人の青虫ジャージ着用の男性が舷門送迎のときに起立しています。
そのことから彼らはおそらく自衛官であろうと思われますが、
それにしてもどうしてこんな格好でここにいたのでしょうか。


自衛隊 外から見ると謎多く げに探求のネタは尽きまじ



(続く)


 

護衛艦「ふゆづき」自衛艦旗授与式〜「海をゆく」と「海のさきもり」

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YouTubeで探しても音源はなく、楽譜もある現役自衛官から戴いたものだけで、
ここに公開する方法が無いので、思いあまって(意味不明)フィナーレで譜面制作しました。

「海のさきもり」

でネット検索すると、出てくる音楽はさだまさしの「防人の詩」だったりします。
次いで個人ブログが自衛隊員を防人になぞらえている文章が続き、
さらには「ちゅら海の防人カレー」なんかが出てきます。(-_-)

つまり、全く世間に知られていない楽曲なのですが、もしかしたら
「海をゆく」は自衛隊の音楽に詳しい方ならご存知かもしれません。

この二つの曲を本日タイトルで並べたのには訳があります。

この日の護衛艦「ふゆづき」自衛艦旗授与式においてどちらも演奏された曲であり、
この2曲が海上自衛隊における正式に制定された

自衛隊隊歌

であるからです。



艦長が自衛艦旗を受け取っていますが、この間音楽隊が演奏していた曲、
それがこの「海のさきもり」なのです。

今日は、この曲と、もう一つの海自隊歌「海をゆく」についてお話しします。


まず、この作詞作曲者を見てください。
作曲は言わずと知れた山田耕筰。
そして作詞は・・・・・。

江島鷹夫。

どなたにとってもおそらく見たことの無い名前でありながら、
「何か知っている気がする」と海軍好きなら思ってしまうこの字面。
これは間違いなく江田島、古鷹山にかけたペンネームで、作詞者は
自分の姓名を表に出すことなくこの格調高い詩を書き上げた「江田島出身者」でしょう。

データを探そうにも、山田耕筰の作品データベースにすら掲載が無く、
(山田はJASRACの社歌とやらまで作っているというのに)海自の隊歌の一つでありながら、
当の隊員たちさえも歌詞があることをほとんど知らないのだそうです。

そこで、少し今回のイベント内容から少し外れますが、この歌詞をここに掲載します。

 
1 あらたなる光ぞ
  雲朱き日本(ひのもと)の
  空を 富嶽(ふがく)を
  仰ぎて進む
  われらこそ海のさきもり

2 くろがねの力ぞ
  揺るぎなき心もて
  起(た)ちて 鍛えて
  たゆまず往かん
  われらこそ海のさきもり

3 とこしえの平和ぞ
  風清き旗のもと
  同胞(とも)を 国土を
  守らでやまじ
  われらこそ海のさきもり


譜面を読める方はぜひ歌ってみてください。
短いながら荘厳で「耕筰節」とでもいうべきどこで区切れるかわからないフレーズ(笑)、
さり気なく5度上5度をアクセントに混ぜ込んだ和音進行を含むメロディは、
さすが日本音楽界の巨人である山田耕筰の作品に相応しい品位と格調を備えています。
わたしにこの歌の存在を教えてくれた自衛官は、

”特に(歌っていて)「同胞を 国土を 守らでやまじ」のところになると、
ペルシャ湾や3.11の現場にいた隊員たちの笑顔が浮かび、咽がつまりそうになります。”

との思い入れとともに

海自は「軍艦」のみならずこの曲も伝統として
もっと大切にしてゆかねばならないと思います。

という言葉を楽譜に添えて送ってくださっています。


確かに後でお話しする「海をゆく」の「戦後民主主義的配慮で改悪された」歌詞と比べると、
その揺るぎない格調の高さといい、簡潔にして完璧な言葉選びといい、はっきり言って
「格が違う」とすら思えます。
こちらが志ある成熟した大人の作品なら「海をゆく」は児戯にも等しいとでもいいますか。

(あくまでも比較の問題ですので念のため)





さて、それでは3月13日の「ふゆづき」自衛艦旗授与式の様子に戻ります。

自衛官授与者である防衛大臣政務次官の若宮氏が乗艦後、
訓示の用意ができるまでの約20分ほどの間、
観客が退屈しないようにだと思いますが、呉地方音楽隊の演奏がありました。

こういうときにはいったいどんな曲をセレクトするのだろうと、
わたしなどはまわりのおじさんたちと雑談をしながら興味津々。
おそらくこういうのも音楽隊長が選んだりするのかもしれません。

まずその第一曲目は

「錨をあげて」” Anchors Aweigh” チャールズ・ツィマーマン作曲

1906年にアメリカの海軍兵学校で音楽隊長だった若い士官候補生によって作曲され、
非公認ながら米海軍の公式歌となっています。

 ”Anchors Aweigh”とは船の出航の際に、それまで降ろしていた錨を
船の上にあげる作業が完了したことを指揮官が承認するときに用いる言葉で、
たとえばわたしが観艦式で乗艦した「ひゅうが」でも、出航前に演奏されていました。

そして第二曲目。

「宇宙戦艦ヤマト」すぎやまこういち作曲

・・・・何も申しますまい。

わたしの周りのおじさま方は、誰一人この曲にぴくりとも反応しませんでした。
といっても黙っていただけなので、もしかしたら知らなかったのかもしれませんし、
知っていても仮にも会社なり団体なりの代表として招待されてここに来ている以上、
アニメソングに反応するなどということは彼ら「偉い人」の立場としては
女子供のようでちょっと恥ずかしい、という意識が働いたのかもしれません。

わたしは、なぜこの曲がここで今演奏されたのか、少し考えていました。

すぐにはたと思い当たったのが、初代「冬月」の戦歴です。
最初にも書いたように、駆逐艦「冬月」は昭和20年5月の坊ノ岬沖での海戦に

戦艦大和とともに

戦艦大和とともに

戦艦大和とともに

出撃しました。
このとき帰還した駆逐艦は出撃した8隻のうち半分の4隻。
幸運艦といわれた「雪風」、「初霜」、そして「涼月」、「冬月」です。


ご存知かもしれませんが、今回の「あきづき」型汎用 護衛艦はこれで

「あきづき」「てるづき」「すずつき」「ふゆづき」

の4隻が揃ったということで「ふゆづき」の一日前に三菱重工で竣工開始し、
この前日長崎の三菱重工造船所でやはり引き渡し式が行われた
「すずつき」もまた、天一号作戦の生存艦の末裔ということになります。

呉地方音楽隊の隊長がこの史実を踏まえて選んだのかどうかは知るべくもありませんが、
この日こんな音楽が流れていたことを話題にする媒体もおそらく無いだろうと思い、
あえてここでこだわってご報告しておきます。

そして問題の(?)三曲目。

「海をゆく」古関裕而 作曲

右隣の方が小さな声でこの歌詞を歌いだしました。
あれ、これなんだっけ。
一瞬思いましたが、最後の4小節で完璧に思い出し、わたしも小さな声で


「わーれーらー」

というところだけ唱和させていただきました(笑)

この曲は海上警備隊発足に際し隊歌として作られたもので、
御大古関裕而が作曲し、松瀬節夫という人が作曲しましたが
その後「世情にあわない」として歌詞が変更されました。

わたしの左隣のおじさまが今度は

「男と生まれ、って歌詞だったんですが女性隊員も入るようになったので
一般公募して歌詞を一部変更してしまったんですよ」

と教えてくれました。
一般公募で歌詞を変更・・・・・。
もしこの作詞者が西条八十だったら、自衛隊もきっとこんな無体なことはしなかったでしょう。


というわけで今回どこがどう変わったのか調べてみたのですが、驚きました。
一部、ではなく、「海を守る我ら」以外、全部だったんですね。全部。
たとえば、

「男と生まれ海を行く」→「明け空告げる海を行く」

はまあ、左の方のおっしゃったように「女性隊員もいるから」という理由ですから
これはまあいいとして、(よくないけど)

「若い命の血は燃える」→「歓喜沸き立つ朝ぼらけ」 

ってなんなのこれは。(呆)

もしかして往年の軍歌の軍靴の響きが聞こえそうだからって理由?
だいたい「歓喜沸き立つ朝ぼらけ」ってどういう意味ですか?
国防の任につく者が朝っぱらから歓喜に沸きたってるってどういう状況?

そして最も許せないのが

「香れ桜よ黒潮に 備え揺るがぬ旗印」→
「備え堅めて高らかに 今ぞ新たな日は昇る」

備えを堅めれば高らかに日が昇るってかおい?
(怖くてすみません)

だいたい「朝ぼらけ」とか「日は昇る」とか、なんだってこう無意味に太陽にこだわるのか。
「防人の意気」が高らかではなぜいけないのか。
「桜」という言葉の何がいけないのか。
旧軍調だからか?好戦的だってか?

無難な自然現象描写をしておけばいいってなテキトーさがありありで、
「何かから逃げてる」「何かに遠慮している」って感じ。
つまりつまらないんですよ。
腑抜けた、なんというか言霊の無い耳障りのいいだけの言葉を並べただけで。




というわけでここにはNHK の「みんなのうた」みたいな改悪新バージョンではない、
昔の歌詞で歌われているものを貼っておきます。 

「男と生まれ」が良くないというならそこだけを代えて、
あとは全部そのままでよかったのではないかとわたしは個人的に思うのですが。 



さて、文句はともかく、この曲が演奏されているときときわたしが

「去年武道館で行われた音楽まつりでこの曲をあの方が歌っていたんです。
ほら、今話題の」

と話をふったとたん、右と左が同時に

「三宅さんね」「三宅由佳莉さんね」

と我が意を得たりとばかりに反応し、ついでに前の陸将補殿までが振り返って(笑)

「三宅三曹ですね」

と周りが盛り上がったので可笑しかったです。

「彼女岡山出身なんですよね。岡山にだけ特別なメッセージをいれてくれたんですよ」

など、おじさまたち三宅さんにメロメロのご様子。
今や日本国自衛隊で幕僚長より有名な自衛官、それが三宅三曹だとわたしは確信しました。

曲は全部で4曲演奏され、最後の曲は・・・・・・えー・・・・・。

「ナショナル・エンブレム・マーチ」かスーザの

「Hands Across The Sea (海を越える握手)」

か・・・。
三宅さんの話が盛り上がっていて聴いていませんでした。
それにしても、(文句ばかりつけてすみません)これがスーザだったとして、
4曲のうち半分が敵国アメリカの曲というのはいったいどういうことか。
こんなときこそ、すべて日本人の手で作られた曲が相応しいのではないか。

海国日本を周辺国の脅威から守る、防人たる海上自衛隊の意気軒昂を謳いあげる曲が。 

・・・・え?

そこまでいうなら、どんな曲がこういう場にふさわしいんだ、って?
それでは最後に

”エリス中尉がもし呉音楽隊の隊長だったらこんなとき選ぶ行進曲”


1、太平洋行進曲

2、愛国行進曲

3、元寇

4、海を行く(旧バージョン三宅三曹の歌付き)



・・・・・・・駄目?



(続く)




 

護衛艦「ふゆづき」自衛艦授与式〜儀仗隊

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手首骨折後、そのためできなくなったことはたくさんありますが、
かえって時間にゆとりが出来たのに加え、万一のことを考えて家でじっとしているという、
活動的だったわたしにはありえないくらいの引きこもり生活。

事故後、タイプのスピードが落ち、集中力がなくなったため、ブログ更新は
二日に一本くらいががやはり無理が無くていいかもしれない、と実感していたのですが、
「自衛艦の引き渡し式」などというこのブログのテーマど真ん中のようなイベントに参加したことで、
思わず我を忘れてエントリ制作にのめり込んでいるエリス中尉です。

このイベントが終了したらまた二日に一度ペースにすると思いますが。


さて、艦内での式典が終わり関係者が退場する前に、
自衛艦旗を掲揚するため後甲板にいた儀仗隊が下艦してきました。



国賓を迎えるときのために日本には第302保安中隊という専門の儀仗隊がありますが、
こういう場合の儀仗隊は各艦の乗組員によってこのために編成された部隊です。

「頭脳明晰、思想堅個、体力優秀そして容姿端麗」

という厳しい条件で第302保安中隊は選び抜かれるそうですが、
式典のつど編成される臨時編成の儀仗隊は当該部隊の手の空いている隊員となります。

栄誉礼というのは、防大儀仗隊が音楽まつりで披露するようなドリルをするわけではなく、
「捧げ銃」をしているところを巡閲者が巡閲するという儀式なので、
日常自衛隊で訓練をしている隊員であれば即製できるのです。



儀仗隊の1個分隊の編成は、分隊海曹1名および分隊員8名となります。
この写真でも8人(先頭に分隊海曹)が1グループとして歩いていますね。



士を8人率いる分隊海曹が二人先頭に立っています。
右側が三曹、左側が二曹ですね。
左にもう一人海曹がいますから、これで三個分隊が揃ったことになります。



儀仗隊の整列場所には、儀仗隊長が待っています。

この儀仗隊指揮官は原則として2等海尉か3等海尉と決められています。
この隊長は2尉ですね。

自衛隊の礼式に関する訓令第83条第2項には、「甲武装着用品」として
こういうとき正式に着用する制服がちゃんと決められています。

それによると、指揮官は

白色の拳銃帯(専用ベルト)、白色の拳銃嚢(ホルスター)、
または儀礼刀および刀帯

を着用となります。
本日は儀礼刀ではなく拳銃の方を着用しています。
もしかしたら、ホルスターは何も入ってなくても(つまり空でも)いいので、
こういう天気の日には指揮刀は使わない、とかいう事情によるものでしょうか。

海自はたとえ雨でも大事な儀式に「拳銃持っているフリ」なんかしません!
ってことだったらごめんなさい。



この式典には一個小隊が儀仗のため参加していたということで、
一個小隊の編制は、4個分隊となります。

なお、指揮官以外の着用品は

◎ 常装冬服(第一種夏服)の着用品(冬略帽を除く)
◎ きゃはん
◎ 白色の手袋

とこれだけが決められています。
ただし、脚絆(ゲートルともいいますね。乗馬用語では”チャップス”といい、
わたしは黒と茶色違いで2本持っています。今度いつ使うかわかりませんがw)
は、部隊の長が着用を命じた場合に限るそうです。

 
なぜここで儀仗隊だけが移動したのかというと、今から護衛艦旗授与者が退艦し、
今一度栄誉礼の最後の「送迎」の儀式をして退席出するからです。




若宮政務次官が降りてきました。

 

前から三番目は、三井造船の取締役社長、田中孝雄氏。
前は社長秘書?・・・・よくわからないけど三井造船の出世頭に違いない。
一番後ろはプロレス上がりの政務次官SP。(違ったら本当にごめんなさい)


ここでする「送迎」とは

1、立会者は、受礼者を送迎者の隊列に誘導し、随(同)行する

2、送迎者のうち、幹部自衛官及び准海尉は各個に挙手の敬礼、海曹及び海士は
  指揮官の号令により頭右(左)の敬礼を行い、目迎(送)する

3、受礼者が遠ざかった適宜の時機に、らつぱにより「別れ」を令する (wiki)

という儀式です。
これもわたしのいるところからはほとんど見えませんでしたが。

 

これから「送迎」が行われるところだったかと思います。

列の一番左端は「曹」で、4人いるのがお分かりでしょうか。



さて、この儀式の間、護衛艦には全く人影がありませんが、
見えないだけで実はこの間、乗組員は濡れた服を拭き(当然)昼ご飯をかき込み(多分)
午後の出航に向けての用意で艦内を走り回っていたはずです。



この間を利用して?少しまた装備の説明をしましょうかね。

「ふゆづき」艦首部分。

甲板の上に見えている糸巻きのようなのは、以前読者から教えていただいたので
忘れもしない

キャプスタンのドラム(巻銅)

といい、揚錨機を構成するものです。
錨は既に上がっている状態。
ここからはよく見えませんが、錨はアドミラルティー型といわれるもので、
これは「こんごう」などと同じです。
錨の形も何種類かあり、このタイプは非常にシャープで現代的なデザインです。

 
現在艦首には「艦首旗」として国旗が掲揚されていますが、これは日没時と航行中は降ろします。



艦首から下がったところには「搭載武器三兄弟」(エリス中尉勝手に命名)が。
 
前から

Mk.45 Mod4 62口径5インチ単装速射砲=(次男)

Mk.41VLS 垂直発射機=(長男)

高性能20mm多銃身機関砲(CIWS)=(末っ子)

でございます。
VLSは「ヴァーチカル・ランチャー・システム」ですよ。
何の頭文字か何気なく聴いたら答えられなかった「ひゅうが」の海士さん。

勿論これだけでなく、わが「あきづき」型には、

4連装SSM発射筒

だの

3連装短魚雷発射管

なんていう百発百中という噂の武器を搭載しております。




こういうタイプのマストを「ステルスマスト」といいます。
「たかなみ」型まではトラス構造のラティスマストといいますが、
このラティスマストに対してステルスマストとは、四角柱で構成され、
そのためにレーダー反射角度がやや小さくなりました。



これは、この左側の8角形のアンテナを持つ

FCS-3A 。

「ひゅうが」艦上のこの多機能レーダーについて説明したことがありますが、
「あきづき」型はこのレーダーを搭載することによって、大型で重量のある
対空レーダーをマストに装備しなくてもよくなったため、マストが細いのです。



マストの各張り出しはすべて直線で構成され、
角を外に向けるような作りになっており、さらに
マスト全体が後方に傾斜するような形になっています。

これもステルスマストの特徴なのだとか。



右側の上部構造物から突き出た二本の釣り竿のようなものは、

ホイップアンテナ

といい、先端に向かって細くなる形状をしています。
ホイップって・・・whip、鞭みたいだからでしょうか。

アメリカで博物館となっている空母「ホーネット」にも
この手のアンテナがたくさんありましたが、この新鋭艦もそれこそ
いたるところにこの「釣り竿」が立っています。

根元が赤いアンテナは高圧用。
艦尾のホイップアンテナはヘリが発着艦するときには邪魔にならないよう
ちゃんと倒しておくことができます。



この縦長の構造物は

洋上補給装置。

柱状のものを「スライディングパッドアイ」といい、
補給時に補給艦からのハイラインを連結するために使用します。
わずかに内側に向かって傾斜していますが、これはステルス性のため。

右のラッタルを上がっていった上部構造物上にあるのは、

魚雷防御策(TCM−Torpedo Counter Measures)

投射型静止式ジャマー(FAJ)のランチャー、




FMJ(Floating Acoustic Jammer) と呼ばれます。

このランチャーで打ち出され、1キロ先で落下傘によって着水し、
着水したら海面をぷかぷかと(かどうか知りませんが)漂い、
そこで艦が発するエンジン音やスクリュー音を発生させることによって
音響ホーミング式の魚雷を誘引するのです。

つまり、魚雷の「ジャマー」をするわけですね。(スルー推奨)


 
さて、エロい人じゃなくて(前回エントリ参照)偉い人が黒塗りの車で行ってしまい、
午前中の式典は終了したので、われわれは祝賀会の会場に移動します。



誰もいない・・・・と思ったら



ラッタルを自衛官が一人降りてきました。
すでにレインコート着用です。
ちゃんと制服は着替えたんでしょうか。
あれだけ濡れたら、かえってレインコートを上に着るのは気持ち悪いと思うけど。

右手のおじさんは同じテントだった人で、物珍しそうにガン見されました。
まあ、300mm望遠レンズのニコンなんか持っているのは招待客ではわたしくらいだったし、
きっと「なんなのこの人」とか思われてたんだろうなあ・・・。 




バスの泊まっているところまで歩いて行きながら降リ向くと、
すでに旗旒信号のかかった「ふゆづき」のこんな角度が見えました。



式典の行われていたところを通り過ぎたら、足元にこんなカードが。
なるほど、合理的である。



調子に乗って海上幕僚長の場所でも記念写真(笑)

さて。


次はいよいよお待ちかねの祝賀パーティに潜入だ!


(続く)






 

護衛艦「ふゆづき」自衛艦旗授与式〜海自幹部の制服事情

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午前中の引き渡し式と自衛艦旗授与式が恙無く終了しました。
わたしたちはまたバスに乗って工場の門まで向かい、
門の向かいにある三井造船の迎賓館に相当する二つの建物のうち
控え室とは反対側の祝賀会会場に向かいました。

建物に入っていくなり、三井造船の女子社員がトレイに多量のタオルを乗せて持ち、
入ってくる人たちに配りまくっています。

「確かに凄い雨ではあったけど、またえらく用意のいいことだなあ。
ずっとテントの下で観覧していたのでタオルがいるほどではないのに」

その気配りに少し驚いたのですが、これにはわけがあったのです。
つまり、この祝賀会には、冒頭写真を見てもお分かりのように

大量の自衛官たちが出席していたから

だったんですね〜。

さて、昔々、海上自衛隊が帝国海軍だった頃、このような祝賀会場には
帽子掛けがあって一緒に短剣も吊ったのか、それともこの日と同じように
帽子をきちんと置くテーブルを作っていたのかは知りませんが、
さすがは三井造船、傘をささない彼らのために大量のタオルを用意し、帽子置きを設置し、
海軍の頃からの付き合いの深さをこんな形で見せてくれました。


と、こういう出だして始めたからには、最近コメント欄を賑わしている
「自衛隊制服問題」
について、現役幹部自衛官からいただいた情報を出さねばなりますまい。



今回お話を伺った自衛官によると、現在海上自衛隊では幹部自衛官の制服は
支給となっているのですが、少なくとも

1993年(平成5年)ごろまでは制服は支給されていなかった

そうです。
その頃は、幹部学校を卒業し任官したら、各自が注文して個々に購入することになっており、
その入手方法は決められていなかったので、こだわる人は好みの洋服屋に来てもらい、
誂えていたということらしいですね。

(こういう話になると俄然盛り上がってしまうエリス中尉です)

旧軍の昔、陸軍では、特に皇族軍人の若様たちが率先して

「軍服界の最新流行モード」

を作り上げたものですが、海軍にはそういった「ファッションアイコン」は見当たりません。
これは「海軍軍人はお洒落で当たり前」という風潮のせいではないかと思われます。

当時は洋服と言えば仕立て屋が誂えるのが当たり前の時代。
身だしなみをスマートに整えるのがモットーの海軍軍人のために、
横須賀、呉、佐世保といった旧軍時代鎮守府があり軍港だった町には、
軍服を仕立てる専門の洋服屋が複数ありました。

戦後それらの店は数こそ減ったもののいくつかは現在も存続し、
いまだに自衛官のオーダーメイド制服を作りつづけています。


先ほど「好み」と書きましたが、これらの軍港にあるいくつかの洋服屋は、
生地も、階級章の金モールも、金ボタンもシルエットも店によって違うので、
今でもこだわり派の自衛官は自分の好みに合う店で仕立てるのだそうです。

勿論同じ店でも値段によってピンキリで、ちなみにもし

「金に厭目はつけませんから全て最高級で」

というご要望があれば、

「生地は英国製のタキシードクロスにフランス製の金モール、
金ボタンの錨は立体的に組み合わせたものに金メッキを施したもの」 

という最高級仕様によるお仕立てで何とお値段はズバリ支給品の三倍! 
だそうです。

うーん、でもね。
これわたし、安いと思いますよ。

先日coralさまに教えていただいたところによると陸自の制服で2万5千704円。
海自の制服はダブルでもう少し高いのではないかということなので、
たとえば多めに見積もって3万5千円だったとしても、その三倍なら10万円少し。
下で紹介している宮地洋服店ではイージーオーダーで9万円だそうですから、
最上級テーラーメイドであれば20万円は行くかもしれません。

しかし今時まともなスーツを誂えたら、何十万とかかるのが当たり前で、
しかもブランド料が付加されたものや、一流企業の重役や政治家が銀座などで誂えるスーツは
100万以上ですから(by『部長 島耕作』)それだけの材料を使ってしかも誂えて、
20万くらい(かどうか知りませんが)で済むというのはリーズナブルでしょう。

そういった昔ながらの洋服屋さんと海自とに、
海軍時代からのお付き合いがあらばこその良心価格だという気がします。


とはいえ一流企業の重役や政治家と違い、自衛官は公務員ですし、
制服だけでなく靴やらベルトやら雨着やらの周辺グッズも買わなくてはいけません。
佐官以上ならともかく「若い少尉さんにゃ金がない」と歌にもあるように
今や幹部学校出たてで制服を誂えるのは、よほどのこだわりがある自衛官に限られそうです。


そして秋冬の制服もさることながら、こだわり派自衛官がさらにこだわるのは
夏の第二種制服の「白」。
黒も実は生地の善し悪しが怖いくらいわかりますが、白は色そのものの違いが目立ちます。


わたしがかつて呉の阪急ホテルで海軍士官コスプレ体験をしたとき、
第二種となぜか第三種軍服を着たわけですが、その第二種というのが何というか、
キャンバス地のような生成りの白で、そのせいか撮影の間暑くてたまらず、

「こんなテント地みたいなしかも詰め襟の服を、日本で夏に着てたなんて絶対嘘」

と確信したものですが、これは中田商店が製作した映画用の衣装だったからでしょう。
本物の海軍軍人は白麻やキャラコなどで仕立てたりしたのではないか、と思います。

現在海上自衛隊で使われている夏の第二種は奇跡的に旧軍時代とほとんど同じで、
違いと言えば胸ポケットの有る無しなのですが(無い方がいいと思いますけどねわたしは)
やはりこの色、というのも店によって全く違ってくるのだとか。

たとえばA店はわたしが呉で着た軍服のような黄ばんだような白、
B店は「青みがかった、まるで氷河のように冴え渡る」白と・・・。

ところで色とはまことに不思議なもので、一言で「白」といっても人によって
はっきりと「似合う白」「似合わない白」があるものです。

わたしは昔パーソナルカラー診断をしてもらったことがあり、今でも
インターネットの簡単なカラー診断をしたらそのときと全く同じ結果になりますし、
経験上思い当たる節があるので信頼できる結果だと思っているのですが、
それによるとわたしのタイプは「春」で、白はアイボリーが似合います。

もしわたしが自衛官になって夏服を仕立てることになったら、
氷河のように冴え渡る白は似合わない、という判断を踏まえてA店に行くでしょう。



話が横道にそれましたが、(めり軍曹殿、本稿はファッションタグでお願いします) 
その自衛官によりますと、平成5年以降は官給品が支給されるようになったということですから、
そのせいで軍港で商売をしていたほとんどのテーラーは店をたたんでしまったのではないでしょうか。


 ところで皆さん、冒頭の写真をもう一度見てください。

 

帽子が一つ無くなっていますが、これは祝賀会から一足先にに出航のために退出した
「ふゆづき」艦長の北御門二佐の正帽があった場所だと思われます。

この祝賀行事に参加した自衛官は少なくとも二佐以上なので、
ここにあるのは全て同じような通称スクランブルエッグといわれる正帽です。

左上の、他のと違い葉っぱの生い茂り方が密な()帽子がありますね。
これは将官用で、あとは一佐か二佐のものですが、見比べると、皆少しずつ
エンブレムの色や茗荷の形とか錨の部分の黒の割合が違うと思いませんか?

皆同じデザインなのに、こういう状況で取り違えが起こることがなさそうなのは、
自分の帽子ならばわかる程度に「個体差」があるからだと思われます。



自衛官氏によると、その支給されるようになった官品制服というのが当初酷いもので、
モールなどとても”金色”とは言えない粗悪品、おまけに制服のモールの上の桜も
とても桜には見えない、まるでタンポポのような刺繍(どんなんだ)だったため、
どうしてもそういうのに我慢できないその方は、

「 一度たりとも官給品の制服に袖を通したことはありません。
 タンスの肥やしにしています」∠(`・ω・´)

ということです。
しかしこれ・・・・・もったいないですね。
「自分で仕立てますから官品いりません」って支給を断るわけにはいかないんでしょうか。
タンスの肥やしにするくらいなら、外では着ないからぜひ譲って欲しい。(割と本気) 


とにかく帽子はこの写真を見ても少しずつ差があるくらいですから、
さぞかしそのころの官品は安かろう悪かろうで刺繍など雑だったんだろうと思います。
でも、いくら安く上げたくても、

「中国で自衛官の制服の縫製をさせる」(by れんほー)

これだけは、これだけはやめてくださいね。
悪用されないとも限りませんから。というか確実に悪用されますから。


帽子についても書いておくと、昔は呉と横須賀に軍帽を作る帽子屋が数件あったそうですが、
現在では、山本五十六の帽子を作ったことで有名な呉の高田帽子店だけが残っているそうです。

山本長官が中将時代に

「帽子を一つ作ってもらいたいが・・・」

と自ら来店したという話が語り継がれているようです。
ツッコむわけではありませんが、普通帽子は本人が行かないと作りようがないんじゃないかな。

官品の帽子は、黒いモールで覆われた黒の縁取り部分の内側の素材はプラスチックですが、
高田ではいまだに籐で編んだ手作りをしているそうです。

今度呉に行くことがあったらここでミニチュアの士官帽(中尉用)でも買ってきますかね。
また、

宮地洋服店という店

ではかつて呉で軍帽を作っていた「呉帽子店」の帽子を注文することができるそうですが、
帽子店そのものはもうすでに存在していません。
宮地洋服店のために職人さんが商品を提供しているようです。

今や軍帽を作る専門の帽子屋さんは高田帽子店だけになってしまったんですね。



ところで、この手前は河野海幕長でいらっしゃいますが、
パーティ会場でまじまじと近くで見ても、

全く制服が濡れた痕跡がなかった

のは不思議でした。
河野海幕長はこの向こうの若林政務次官とともに、
結構な時間外を傘なしで歩かねばならなかったはず。

約二時間豪雨の中で立ち尽くしていた北御門艦長ほどではないにせよ、
あれだけ雨に当たれば全身から水がしたたっていても不思議ではないのに。

きっと誂えるときに完璧に水を弾くような特別な加工をしたに違いありません。
・・・・それともアメダスしゅーしゅーが完璧?


ところで、宮地洋服店のサイトに通販ページがあったので、
もしかしたら、と期待してみましたが、やはり制服は自衛官でないと買えないそうです。
わかってはいましたが少々がっかりしました。

「タンスの肥やし」を欲しがってみたり、自衛隊の制服を手に入れてどうするつもりかと
あらためて聴かれると困るんですが。


 
(続く)




 


護衛艦「ふゆづき」自衛艦旗授与式〜海軍祝賀会料理

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祝賀会の様子をお伝えしようと思ったところ、いきなり入り口の
正帽置き場で「自衛官の制服」の話になってしまいました。
相変わらずの進捗状態ですが、このブログの特性と思ってあきらめておつきあい下さい。



まず、テントから祝賀会場に移動するためもう一度バス乗り場に向かいます。



音楽隊員の皆さんは客がぞろぞろと移動している間ずっと立ったまま。
楽器や楽譜は濡らせないので自衛隊といえども音楽隊は屋根付きテントの下です。




そのとき振り向いて「ふゆづき」を見ると、このような状況でした。
飛行甲板と格納庫です。
飛行甲板はヘリの転落防止のためにネットで柵が設けられています。

甲板全体は「オランダ坂」仕様で後ろ下がりの緩やかな傾斜があるのですが、
(柵の手すりを見ると後ろ下がりがわかる)ヘリの発着スペースだけは海面と平行なので、
この角度から見ると1メートルほど甲板と段差があります。

格納庫の中央に柱が立っていますが、これは「むらさめ」「たかなみ」型と同じく
折り畳んで跳ね上げ、開口部を広くすることができるのだそうです。
なぜ仕切りをわざわざ設けるのかわかりませんが、強度補強のためかもしれません。



格納庫の右舷側にあるこのガラス張りの構造物は、

LSD(発着艦指揮所)。

ここから着艦するヘリの管制を行います。



お見送りの間、手隙の乗組員は整列しています。
乗艦してすぐに雨着を着たんですね。
マストにはいつの間にか旗旒信号が揚げられていて実に美しい。


ところで格納庫の上にあるCIWSですが、何の略かというと

Closed In Weapon System  (武器ブロックシステム)。

うーん、案外略称って単純というかしょうもないというか。
敵味方判別装置のIFFアンテナが実は

Identification Friend or Foe(友達か敵か認識するの意)

であったのを知ったときには思わずかっくり(がっくりじゃなく)きましたが、
案外こういう名称って適当につけてるのね。 

 


どうもこれは報道陣のカメラ足場として専用に作られたようです。
式典が行われていたときには最上段にぎっちりと全員が登っていましたが、
今では全員下の段に降りて雨を避けています。

それにしても護衛艦の乗組員は艦内の美味しいと噂の「海自めし」を、
そしてわたしたちはゴーヂャスな祝賀料理をお昼に戴いたのですが、
この方達は果たしてお昼ご飯を食べることができたのでしょうか。

三井造船の手配で幕の内弁当くらいは出たのかもしれません。
あまり無下に扱ってるとろくなこと書かれませんからね。
まあ、この日の報道で自衛艦旗授与式の模様を仔細に伝えた媒体は
ほとんどなかったわけですが(笑)
 




と報道陣のお昼の心配までしながら、やっとのことで祝賀会場に入ることができました。
ちなみに写真は会場の方ではなく、向いの控え室のあった建物です。

この控え室で招待客の中でも「特別」に属する今回の同行者I氏が「その他おおぜい」組の
(といっても一応招待客だけど)わたしを無理矢理?自分の控え室に連れ込み、
バスを強引に一緒にし、あまつさえ見学の天幕の場所も三階級特進させてくださった、
という話をしましたが、この祝賀会場でもまた。

中は部屋が上座と下座の二つに区切られていて、特別室には本日の主賓が
挨拶をする壇があり(おそらく)料理も少しグレードが上です。

「え、わたしこんなところに入ってもいいんですか」

とうろたえるわたしを尻目にI氏は案の定いいのいいのとすたすた歩き、

「あ、この人わたしの連れですから」

の一言で関所の三井造船社員をあっさり撃破。
小さくなりながら部屋に入り回りを見渡すと・・



こんな感じ。
眼鏡の男性は玉野市長で、御入来を皆さん拍手でお迎えしているところです。
VIPおじさんと二佐以上の自衛官しかいないこの会場で、
はっきりいってわたし一人が完璧に「だれかにくっついて来た人」でした。


ところでこの会場ですが、ご覧の通り、まるで志摩観光ホテルの旧館のような趣のある建築。
I氏によるとここは大々的な空襲には遭っていないはず、ということなので、
もしかしたら三井造船が三井物産から分離独立し、株式会社玉造船所を
この地に設立した昭和12年からある建物かもしれません。

昭和12年と言えば7月に盧溝橋事件勃発後、三国同盟締結、
そして渡洋爆撃に続き南京攻略作戦が行われた年です。

産業界ではトヨタ自動車、日本通運が設立され、玉造船所は通州事件の二日後、
日本軍による天津爆撃の翌日である7月31日に開業しています。




こういう寄せ木の床などを見ても、東京裁判の行われた旧陸軍士官学校校舎と
全く同じ造りであることから、この時代の建物である可能性は大変高いと思われます。

5年後の昭和17年12月26日に玉造船所は三井造船株式会社と改称しました。
開戦一年目でミッドウェー大敗があったとはいえまだまだ日本はイケイケたっだので
造船会社にとってはかき入れ時ともいえ、そのときに建てた可能性もあります。

この翌年の昭和18年、三井造船は海中4型小型潜水艇呂号とともに、小型水雷艇、
掃海艇、水雷艇、駆潜艇などの小型艦艇を相次いで製造しています。

中でも、呂号44は当時の技術の粋を集めて作った三井造船の潜水艦第一号でした。



・・・・ということはですよ。

三井造船はこのころ、艦艇が完工相成るたびに、まさに

ここでこうやって海軍旗を掲げた祝賀会をおこなっていた

ということではないのでしょうか。



この「正帽置きシステム」はその頃からのしきたりだったりして・・・。
うーん、おらワクワクしてきたぞ。



美は細部に宿る。
こういうアールデコ風の装飾にも時代を感じますね。
花弁をかたどったランプが実にエレガント。



むむ、この丸窓は・・・。

やはり昭和初期のもので手作業による切り出しらしく、
わずかに丸窓の桟の継ぎ目がひずんでいます。
はめ込みガラスも当時のもののようですが、それにしてもこの形。
これは間違いなく船舶の窓をかたどっていますね。

磨りガラスに刻まれた意匠は真ん中に太陽の塔のような顔がキッチュです。



テーブルの上には完工記念の写真が置かれて自由に取るようになっていました。
わたしはもちろんここでアップするという大事な使命があるので、
ひとついただいたのですが、このあとここから直接ドックに戻ったので
持ち歩くのは結構大変でした。
見たところ周りの誰一人としてこれを手に取る人はなく、大量に余ったまま。

今にして思えば全部持って帰って当ブログの読者プレゼントにすればよかったかもしれませぬ。




この各テーブルに置かれた旗立ても、わたしはホテルでの宴会では見たことありません。
二本の旗をクロスさせて飾るというのは、外国からの賓客がある迎賓館でもない限り
ただの宴会場に用意はない(小さい旗だってそのたびにつくるわけにいかないし)
と思うのですが、この旗立ても拡大すると非常に年期がはいったものに見えます。

これももしかしたら旧軍時代からのものってことは・・・・。


さらにこのテーブルには美味しそうな唐揚げがレモンを乗せて置いてあります。
しかし、今にして悔やまれるのは出されたお料理を全てチェックしなかったこと。
わたしは何しろ目の前で行われていることを見逃すまいとそちらに全神経を集中し、
人々を観察するので手一杯だったのです。

そのうちまわりの方が話しかけてきて雑談していたのですが、その内容や
カメラを一時も離さない様子から当方の魂胆がわかったのか(わかるだろうなあ)
政務次官でも市長でもなく、おじさんたちは自衛隊の制服組のところに連れていってくれ、
そして一緒に写真を撮ったげるから並びなさい!とお節介焼いてくれたりしました。

だから料理のお皿を見てあるくどころじゃなかったの。



とりあえずここの料理についてお話ししておくと、
まず、

寿司!

よくあるネタは勿論、こんなところの寿司なのにシャコなんかがありました。
ご飯は少し固かったもののさすがに港町、ネタは新鮮で、
わたしはもっぱらこの寿司をせっせと補給しておりました。
同じテーブルにはローストビーフが乗っていて、これも一枚戴きましたが、
ちゃんとホースラディッシュが好きなだけ取れるようにつけ合わせてあり、
もしかしたら岡山市内の一流ホテルのケータリングかもしれないと思いました。

もちろん食べませんでしたが、部屋の向こうにはパーティ屋台が出ていて、
今写真で確認したら、天ぷらとうどんをサービスしていたようです。

うーん・・・・・天ぷら食べたかったかも。

帰るときに隣の部屋の料理を見たら、美味しそうなフルーツの盛り合わせ発見。
こんなものもあったのか。
というか、各テーブルごとに全然違う料理を出していたのね。
隅っこでじっとしていたのが悔やまれました。

地元経済界の大物であるI氏が挨拶回りにわたしを置いて出かけてしまったあと、
わたしは近くのおぢさま方と雑談をしていたのですが、そのうちお一人が

「陸自関係のこういうパーティにでるとね、だいたい弁当なんですよ」

とおっしゃいました。
おそらく陸海空自衛隊全てに関連する企業のトップの方なのでしょう。

「海自は弁当なんか出さないね。食べ物にはやたらこだわるからね」

「それはもしかしたら『伝統』というやつですか」

とわたし。

「海軍がからむと大抵飯は旨い、といういうことに昔からなってたみたいね」

しかし、この自衛艦旗授与式というもの、海軍もとい海自は三井造船から
フネを買った、つまり「お客様」です。
これらの御馳走はすべて三井造船の用意によるもののはずなのですが、
相手が海上自衛隊ということで接待する側もはりきって奮発したのかもしれません。

実際海自の「飯へのこだわり」は「伝統墨守・唯我独尊」のキャッチフレーズに違わず、
カレー一つとってもたとえば陸自が野外炊事機で屈強の男が汗の隠し味など加えながら
ひたすらガテンな作り方をしている(最後にコーヒー牛乳どばー)のに対し、海自というのは

ホールトマトタマネギ人参をワインやニンニクで4時間煮詰め一晩寝かせ
豚肉のブロックを赤ワインオリーブオイル塩胡椒カレーパウダーニンニクしょうが香辛料で
味つけし一晩味をなじませスープストックは鶏ガラひき肉ニンニクタマネギ人参そして
人参の皮しょうがリンゴセロリの葉パセリの葉ローリエを8時間煮込みそれを漉し
鰹と椎茸煮干しから出しただしを30分煮込み人参タマネギセロリニンニクローリエを
オリーブオイルで炒め軽く煮たソフリットというものを作っておきバナナとヨーグルトを
ミキサーにかけたものとコーンクリーム缶イチゴジャムブルーベリージャムはちみつ
パイナップル桃の缶詰をミキサーにかけたものを甘味として二種類用意しミルクを混ぜ
タマネギ人参ジャガイモかれーぱうだーガラムマサラナツメグオールスパイスシナモンを炒め
から煎りし鍋にガーリックオイルを入れ豚肉を炒め風味付けにブランデーを入れて
タマネギ人参を炒め和風だしをいれてさらに煮込みあくをとりのぞいてソフリットをいれ
バターとから煎りしたカレー粉をいれあらかじめ砕いておいた市販のカレールー三種類を入れて
ジャガイモ甘味料しめじの順に入れニンニクとしょうがをすりおろして入れ仕上げに
インスタントコーヒーを牛乳で溶き入れて最後に味を整えグリーンピースを奇数入れて供する。
(護衛艦の頃の『しらゆき』レシピより)

といった、美味しいことはまず疑いようはないけれど

家庭で作っていたら家計を逼迫すること必至

と思われるレシピのカレーを、しかも週に一回は食っているという

特殊な軍隊

なのです。
実に17年ぶりにそんな海自から護衛艦の建造を受注した三井造船が、その海自相手に
あだやおろそかなクイモノなど出すことなどがあるでしょうか。(いやない)

 


 
この向こうにあるお皿には何が乗っているのか、今元画像を拡大して
確認したところ、左の方には一人ずつ手に取ることができるような紙の船に
天盛りされた卵豆腐が二切れずつ乗っており、右はゆでたブロッコリーと一緒に
口に入れられるように一口大にした肉がやはり船にのっております。

これも改めて見るとやたらおいしそうです。
しかし、一人分の食べ物をこうやって船に乗せて供する宴会料理、
初めて見たような気がしますが、気が利いていますね。

船・・・・・・・やっぱり造船会社と海自だから?

 

(続く) 




 

護衛艦「ふゆづき」自衛艦機授与式〜祝賀会と ”敬礼アプリ”

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岡山県玉野市にある三井造船で行われた護衛艦「ふゆづき」引き渡し式
および自衛艦旗授与式は広報によると

12:00〜12:05 引き渡し式
12:05〜12:37 自衛艦旗授与式
12:45〜13:45 祝賀会
14:00〜14:10 出航見送り

という予定になっております。
この「12:05〜12:37」という数字がやたら細かく、しかしながらきっと
時間厳守の自衛隊(これは海自に限らないらしい)の行事であるからには
その通り行われたのに違いないと思います。一度も時計を見て確かめてませんが。


さて、前回は祝賀会で出されていた料理のことを(ついでに海自カレーのレシピを)
お伝えしたわけですが、今日は主賓挨拶から参りましょう。




防衛省代表として自衛艦旗授与を行った

防衛大臣政務官 若宮健嗣氏。

ご本人のHPを見たところ、実物より10歳くらい若くみえる写真でした。
政治家って、言動で年齢よりも老けてみられますよね。

内容は・・・・授与式で言っていたことをもう少し砕いて言った感じ。
まあ、普通でした。



ちなみに上座金屏風前で挨拶に来る人たちに挨拶をする若宮氏。
お辞儀の速度が自衛官の敬礼なみに早いので画像がブレております。
こういうシチュエーションで、己の一挙一動が一票につながると骨身に沁みているため
どんな相手にも全力でお辞儀をする、それが代議士の習い性というものかもしれません。



続いては三井造船株式会社取締役社長、田中孝雄氏。

何というか、目が全く笑っていない人でした(笑)
何を観察しているのか、と言われそうですけど。

田中氏の挨拶でわたしが心に残った一言は、

「海上自衛隊の皆様、ふゆづきをどうか可愛がってやってください」

というものでした。
手塩にかけて大事に育てた娘を嫁にやる父親のようなせりふですが、
これは艦娘を(と言ってもいい?)建造した製造者が、彼女を海自に嫁がせるわけで、
夫である海自には「可愛がってやってください」、そして娘の「ふゆづき」には、

「しっかりやるんだぞ。ちゃんと旦那様にお仕えするんだぞ」

と激励して送り出す父親と全く同じ感傷が込められた一言です。

この後の出航見送りのシーンで、「ふゆづき」を作り上げた三井造船の社員たちが
その船出を見送るシーンにこの言葉を重ねあわせ、感動してしまったのですがその話はまた次回。



三番目は玉野市の市長、黒田晋氏。
2005年の初当選から玉野市長を務め、三期目です。

「全国でも雨が少ない市として有名な玉野市の市長です」

と自己紹介し、会場はどっと湧きました。
岡山県の年間降水量は全国でもベスト3に入るくらい少なく、
日本全国の平均が1300mmのところ1000mm前後。
瀬戸内気候で温暖、さらには地震も少ないことから、震災後は

「岡山市に首都を移転すればいいのではないか」

という話があったとかなかったとか。
とにかく、「晴れの国」と言われる岡山であればこそ造船所もできたわけですが、
この日は繰り返しますがほぼ一日土砂降りの続くあいにくのお天気。
まあ、こんな日もあるよね、ってことで皆大笑い。

黒田氏は

「ふゆづきの活躍とここにおられる皆様方のご健勝を祈って」

万歳三唱をされました。



万歳三唱の瞬間、カメラを会場に向けるエリス中尉。
写真撮ってないでちゃんと皆と一緒に万歳しろと(笑)

もしかしたら海自制服組の「海軍式万歳」が見られるかも、と思ってのことですが、
わたしの横にいたのは海自隊員ではなくテントで前に座っていた陸将補どのでした。

ところで先般、海軍式陸軍式の敬礼が自衛隊に踏襲されているか、という話題で
当ブログはちょっとだけ盛り上がったりしていますが、万歳にも海軍式があります。

巷に言うところの「海軍式万歳」、つまり手を挙げない声だけの万歳は
当時からかなり特殊な状況(フネの上)でのみ行われて来たようなので、
わたしも海自の人たちが特殊な万歳をしていることを期待していたわけではありません。


実は今回この敬礼についても現役自衛官から

「現在の自衛隊においては規則上陸海空を問わず全く同じに定められている」

ということを教えていただいております。
規則は確かにそうですが、やはりそこに微妙な違いというものはあり、海自のそれは

やや肘を引き気味で敬礼する傾向にある

ということです。
ちなみにわたしがコメント欄で教えていただいた

海上自衛隊iPhoneアプリ「SALUTE TRAINER〜敬礼訓練プログラム」

によると(ダウンロード?勿論しましたとも)、

「肩と肘は水平を保ち、肘と掌は水平から45度を保つ」

となっています。
ここまでは陸自と変わらない(というか統合されたので同じ)なのですが、
「制式」で決められない部分に実は「海軍式」が残っているらしいことが
このアプリによって判明しました。

つまりどういうことかというと、正面から見るとほとんど同じ敬礼も
違いが出るのは横から見たとき。
つまり海自の敬礼は陸自、空自の(陸空は同じらしい)より

手を挙げたときの右ひじがやや前方に出る独特の形

となっているのだそうです。
そういえばこのアプリの広告、実際に観ていただければわかりますが、
海士の敬礼を海曹が修正するシーンで、肘を前方に直しています。

前述の自衛官も「肘を引き気味で敬礼することが多い」理由を

「狭い艦内で整列する場合など、肘を張ることができなかったことに由来する」

と言っておられます。
さらにアプリによると

「狭い艦艇にて敬礼するたびに自分の肘が壁にぶつからないように
右ひじ上腕部を右斜め前45度に出した形になった」

と懇切丁寧な説明。

なるほど。
以前正面から見た「海軍と陸軍の敬礼の違い」を絵にしたことがありますが、
陸空と海自の敬礼の違いはこれから横から見た図を描かないといけないのね。

というわけでタイムリーに目からウロコの情報を得ることができたわけですが、
このアプリ、いろいろとしかけがあり、敬礼プログラムの優秀者
(階級が上がる)には、なんと、

海上自衛隊からの入隊案内メールが届く

という、ありがたいのかそうでないのかわからないおまけ付き。
とにかくこの無料アプリ、大人気で、ダウンロード数はすぐに10万回を突破、
(三年近く前の情報なので今はもっと増えているかと)2011年の

カンヌ国際広告賞PR部門で銀賞を獲得

したという、海上自衛隊の「本気」を感じるコンテンツとなっています。
きっと審査した外国人の感覚としても、

「本物の軍人が真面目にやってる」

というところになんともくすぐられるものがあったんだと思います。



実はこの右にエリス中尉、左にI氏がいます。
呉地方総監の三木伸介海将。

三木海将は呉地方総監としてこの自衛艦旗授与式の執行者を務めました。
引渡式の執行者は三井造船の社長である田中氏、となっています。

ご挨拶のとき海将は

「わたし潜水艦に乗ってたんですよ」

とおっしゃっていたので後で調べたら、防大時代から熱烈な海自志望で
(防大では一年から年になるときに陸海空の要員に分かれる)
当初は陸自行きを言い渡されたのに「だだをこね」、
要望かなって最終的に潜水艦に配置されたときはうれしかった、とおっしゃっていました。

三木海将は呉の「てつのくじら館」の設立に関わったということですが、やはりあの
潜水艦をそのまま展示するということに関しては

「潜水艦の秘匿性」

やその他いろいろ問題にならなかったわけではなかったものの、
呉の発展につながることならと完成にこぎつけたという経緯があったそうです。

うーん、わたし「てつのくじら館」にいってその報告をここでしたこともありますが、
確かに潜水艦をあんな形で公開するというのは大丈夫だったんだろうか、と思ったし、
そう昔のものでもない潜水艦(あきしお)を公開しても大丈夫なのだろうか、
ということも確か書いた覚えがあります。

実際にあの公開にいたるまでは結構な困難があったようですね。
今度観に行ったら前回とは別のものが見えてくるかもしれません。
掃海艇についての展示ももう一度見たいし、また呉に行こうかな。



手前は河野克俊海幕長。



名刺いただきました。
なんとなく裏側の英語面をアップ。
こういうことをすると単なるミーハーがばれてしまうのだった。

ふむふむ、海幕長を英語で説明するとこうなるのか・・・。

CHIEF OF STAFF, MARITIME SELF-DIFENCE FORCE
MINISTRY OF DEFENCE

「チーフオブスタッフ」の「スタッフ」って、もしかしてこれ
・・・・・海将のことですよね?



手前は玉野市長。
若宮氏の向こうもずらっと制服。



三人並んだ制服は手前から海将、海将補・・二佐・・・

二佐・・・・?

おおお、この見覚えのある顔は

「ふゆづき」艦長 北御門裕二佐ではないですか!

こんなところにおられたんですか。
写真を撮っていながら全く気づきませんでした。
そうとわかっていたら制服が乾いているかどうか近くで確かめたかったのに〜。(しつこい)
サインももらいにいったのに〜。(わりと本気)

実は、祝賀会がおひらきになる少し前、 

「『ふゆづき』艦長の北御門二佐が、出航準備のため、
皆様より一足はやく退出いたします。
北御門艦長に暖かい激励の拍手をお送り下さい!」

というアナウンスがあり、皆さんでお送りしたのですが、



人垣に阻まれてお姿を拝見することすらままならず、
(というかこの祝宴に出席していることもこのとき初めて知った)
 非常に残念な思いをしたのでした。

さて、こういった面々の中にわたしはなんとまさかの知り合い
(というほどのものではありませんが)を見つけてしまいました。
何代か前の海幕長で、地獄に仏とばかり(ちょっと違う?)ご挨拶させていただきましたが、
先方が覚えてくださっていたのがうれしかったです。

さて、あっという間に一時間がすぎ、宴会はお開きとなりました。
そのとき、連れのI氏が、

「出航も見ていかれますか」

と尋ねてこられたのでわたしは思わず

「は?」

と目が点になってしまいました。

「あの・・・・会長はこのあとご予定がおありになるんですか?」

「いや、私は全然大丈夫ですが、雨も酷いしもう十分、ということでしたらと思って」

どうやらI氏なりのお気遣いだったようです。

そういえば知覧で特攻記念博物館に連れて行ってくださった方も、
とりあえず知覧に来た他府県からの人間を観光の目玉に一応案内する、
といった「とりあえず感」ありありで、

「観光だから3〜40分もあれば十分だろう」

などと軽く考えていたらしいのですが、運悪く連れて行ったのがエリス中尉だったため、
たっぷりその4倍の時間、館内のロビーでで待たされてとても気の毒でした。

好きだとは聴いていたがそこまで好きだとは、ときっと呆れられたと思います。


しかし、今回の式典、命を吹き込まれた護衛艦が海軍伝統の帽ふれの合図とともに
出航していく様子を見なければそれは何も見なかったのと同じではないですか。

「もちろん見ます」

当然きっぱりと答えたエリス中尉でした。


(続く)
 



 

 

護衛艦「ふゆづき」自衛艦旗授与式〜出航準備

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祝賀会場からいっこうにやまぬ雨の中、皆は岸壁に戻りました。
外に向かいながらテーブルの上を見ると、料理はほとんどが大量に手つかずのまま。
これはこのあと三井造船の社員が 総出で食べても片付かないのではないかというくらいでした。

わたしもそうでしたが、こんな祝賀会で本当にお腹をいっぱいにしようとすることは
皆さんあまり考えられないみたいですね。

  

バスに乗って先ほどの天幕まで戻ってみると、椅子が全て片付けられ、
全員が立って見送るようになっていました。
午前中の式典は前から三番目で、ここぞというシーンを撮り損なったので、
午後からは前列でおじさんの頭が写り込む心配もなく思う存分シャッターを押すことができました。

旗旒信号が曇り空と護衛艦のグレイをバックにとても美しいのですが、
このマスト基部のかなり大型の構造物は何かというと、

NOLQ-3D 電子戦装置

の一要素を構成する

ECM装置(電波妨害装置)

で、「あきづき」型には最新型が搭載されています。
探知した電波の分析、識別、記録を行い、
メモリーされた脅威電波に特徴が一致すると自動的に妨害を始めます。



マスト上部のこの部分には電子戦装置の

ESM装置
(無指向性空中線、固定型方位空中線×2種、通信波帯空中線)

といい、初期の探知と周波数、方向、発信地点を特定します。

NOLQ-3は三菱電機製で、平成3年度計画以降で建造された汎用護衛艦(DD)
およびヘリコプター護衛艦(DDH)に搭載されています。



長旗(指揮官旗)を揚げていたシーンですが、自衛官の左上にある
赤いバスケットゴールのようなものを見てください。



これは速力標といい「速力マーク」とも呼ばれるもので、
艦隊の航行や運動時において艦の速力を表示・指示するためのものです。

高さの組み合わせにより速力の基準値を表示し、回転信号標
(籠の下に少し見えている旗のようなもの)との組み合わせで細かい速力表示を行います。
上下位置の組み合わせで現在の速力を僚艦に伝えるので、速度ゼロの状態である今、
この速力標は下方にあるのではないかと想像します。

この速力信号標は海上自衛隊独自のものだといいますが、ということは
海軍時代から引き継がれた仕掛けであるということですね。




艦上にはすでに要所要所乗組員が起立しています。
乗艦してから着替え(着替えずに拭くだけ?)、ちゃんと雨着を着ています。




こちらは海曹。
海士のレインコートは襟元を見せないためにステンカラーですが、
曹以上はダブルカラーのダブル打ち合わせ。
いかなるときも着崩さず、きっちりとベルトをしめる着方が凛々しいですね。

この日は雨の少ないこの玉野市には珍しいくらいの大雨で、
確かに晴天の青空の下での式典を見れずに残念だったのですが、その代わり
こんな天気だからこそ見ることのできたシーンもあったのです。

激しい雨に全身滝に打たれたように濡れながらも、不動の姿勢で眉一つ動かさず立ち続け、
このような海の男の(女もいますがそこはそれ、そういうことで)儀式を粛々と行う
自衛官たちを見ることができたのはわたしにとって幸運であり、
さらにこの雨着で船縁に直立する彼らの姿には理屈抜きで胸に来るものがありました。

独断と偏見ですが、雨に濡れた女は「悲劇のヒロイン」めくけれど、
雨に濡れた男はひたすら絵になります。(女子隊員はそこはそれ、この場合男と同格ってことで)
まこと、「いいもの見せてもらいました」の一言です。



航海艦橋の脇にあるウィングに立つ航海長。
右側に見えているのは探照灯です。

航海長は三等海佐。
三佐は旧軍の少佐で船務長や砲雷長・機関長・飛行長といった配置に就きます。
また、指揮形態では分隊長として乗員のまとめ役としての役割も担っています。 

ちなみに防衛大学と一般大学を卒業した幹部は自動的に二佐まで昇進し、
二佐からは制帽の鍔にスクランブルエッグ(スクランブルド、じゃないのね)といわれる 
飾りが付くようになります。

「海自に入ったら皆憧れる」艦長職は一般的に二佐から回ってきますが、
三佐からは掃海艇の艦長、ミサイル艇艦長になることができます。 

ちなみに音楽隊長も三佐からの役職です。

航海長の双眼鏡の下にブルーのものが見えますが、これは役職によって色が違い、
当艦艦長である北御門二佐は、赤と青を用います。
青は個艦の幹部、曹士は白を使います。

ただし掃海艇やミサイル艇艦長であれば三佐でも赤青を用います。

旧海軍では尉官は青、佐官は赤、将官は黄色と決められており、
つまり旧軍時代からだいたいは受け継がれて来たもののようです。
(特に将官の黄色)

この色分けといい速度標といい、普通に受け継がれているものばかり。
探せばもっとあるでしょうし、先日からコメント欄で話題になったように
「士官室」「当直士官」などという言葉は普通に生きていますから 、
海自の「伝統墨守」は精神的なものばかりをいうのではないということがわかりますね。

さて、わたしたちが見学の位置に着いたときには、そこここに乗組員が立ち、
出航の用意が着々と進められているところでした。



甲板艦首後ろ少し寄りの5インチ速射砲の前では海曹たちが整列済み。
砲雷科ではないかと思うのですが、気のせいか先任たちはコワモテな風貌。
しかし女性海曹もいるようです。





こういうのが撮れると望遠レンズがあって本当に良かったと思います。

護衛艦の出航に際して象徴的なシーンが撮れたと自画自賛しているのですが、
艦首部分に佇むこの集団、どうも全員の役割がはっきり決まっている様子。
ただ立って見張りをしているだけでなく、視線の先が全方向を向いていますね。

インカムをしている海曹と艦首旗を見守っている海士以外は、
四方を「見張り」しているのだと解釈しましたがいかがなものでしょうか。

ところで、この一番右の海曹はコートの襟はステンカラーです。
・・・・ということは。

デザインは皆同じなのだけど、セーラー服の海士は全部ボタンを留めステンカラーに、
海士以上はネクタイを見せるためにテーラードカラーに、と決まっているのかもしれません。

決まりはともかく、実に合理的なデザインでよく考えられているのに感心しました。



さて、出航行事として、艦長以下女子隊員二名、海曹一名に花束贈呈。
この段階で公式行事は皆終了しています。
花束は艦長以外が受け取り、ここで初めて艦長が感謝の辞を述べました。



花束はやはり女性隊員が受け取った方が「華になる」ということでしょうか。



先ほどまでのラッタルは一時間の間に取り外されていますから、
彼らは舷梯から乗艦します。

 

花束の三人が乗艦した後、



一番最後に乗艦するのもやはり艦長です。
三人もそうでしたが、艦長は小走りと言ってもいいくらいの早足でした。



思わず見ほれてしまったほどの身のこなしのスマートさ。
もしかしたら日常的にそうなのかもしれませんが、
階段は一段抜かしで駆け上がって行かれました。


ちょうどこのときに「あゝ海軍」について書いたばかりで、
兵学校の階段を二段ずつ駆け上がることになっている生徒が、上級生に
呼び止められ、何度もやり直しをさせられていたシーンを思い出しました。

江田島の幹部学校では、今でも階段はそうやって上るように指導されるのでしょうか。



瞬く間に駆け上って三人に追いついてしまいました。(かっこよかった///)

さて、この後は出航のため、最後にこのハッチを閉めます。



というわけで、まずはここから降ろされている舷梯を今から収納いたします。
左側に立っているのは一尉で、腕章をつけています。

 

このハッチ以外ではみなもう起立して出航の用意は完了している模様。
ここから連続写真を撮ってみました。



黄色いメガホンがここの責任者の一等海曹。

護衛艦に乗ると、入り口に艦長と副長、そして海曹長の写真が掲げてあります。
海曹長とは艦艇や部隊ではCPOとして規律維持の役割を担う曹士の最高位で、
それに次ぐのがこの一等海曹となります。

勿論叩き上げの古参で、海曹長と共にCPOとして艦艇の規律維持に務めます。


ラッタルの手すりには丁寧にも紅白のテープが巻かれています。
いまからこの手すりを倒してフラットにしますよ。



下では三井造船の社員が通路と階段を片付け、降りて来た乗員が手すりを倒す準備。



「そこをつかんで倒すんだ!」

とベテラン海曹の御指導中。



倒して階段にぴったりとくっつけてしまいます。
こういうのもオートマチックではなく手作業でしてしまうんですね。

この舷梯、写真を見ると非常にわかりやすいのですが、舷梯は船体との接続部分で旋回し、
設置するときは引き出すときは皆が(6〜7人)下からロープで引っ張ります。

うーん。なかなか・・・・・原始的。

至れり尽くせりではなく、海自隊員が運用するからこそ「手抜き」の部分もあると見た。



一曹が「回せ回せ」と指示しているのは、
舷梯を引き上げるワイヤを巻き取る部分の操作。
下の二人はワイヤの設置を行っているわけですね。



設置完了し、二人も艦に乗り込みます。
後ろの隊員はワイヤをつかみ、その上を乗り越えて階段を上りました。



ワイヤの巻き上げはさすがに機械がやっております。
作動している間、一曹はピッピッピと笛を吹いてます。



惚れ惚れするほど美しく収納されて行きます。
完全に舷梯がフラットになったら同時にハッチが閉まって行くわけです。

ちなみに、ハッチの上に丸いものが二つ見えていますが、これは舷窓。
現代の護衛艦には舷窓はほとんどないのですが、艦橋構造物の下部、
01甲板のレベルであるここにはご覧のように舷窓が二つだけあります。

白い縁取りがなかなか可愛らしいですね。
舷窓を目とすると、今から口を閉じて行くわけです。



というわけであっという間に(本当に早かった)ハッチは閉まりました。
扉が閉じた後はステルス性の保持のために全くのフラットとなり、
遠目にはもはやどこがハッチだったかわからなくなってしまうくらいです。


いよいよ準備が整い、「ふゆづき」は舞鶴に向けて出航して行くことになりました。
これから待ちに待っていた「帽ふれ」が始まるのです。


(続く) 


 


 

護衛艦「ふゆづき」出航〜「帽振れ」

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2014年3月13日、岡山県玉野市の三井造船で行われた護衛艦「ふゆづき」の
引渡式および自衛艦旗授与式、ついに出航となりました。
出航の「帽ふれ」を見るのは勿論初めてです。
わたしがこのイベントに参加したのも、この一瞬を見んがため。

大げさですが海軍海自に興味を持ってからというもの、
それくらいこの「帽ふれ」には多大なる憧れを持って来たのです。






係留していたロープを引き上げ、いよいよ甲板も準備完了。
皆に出航に際して打ち振るための日の丸と自衛艦旗が配られました。



先ほどまでここに固まって立っていた隊員が一列に並びました。
女性隊員は三等海曹です。
最近、海自を会社に例えればこの三等海曹から「正社員」であるという文を読み目から鱗でした。

ちなみに海幕長が社長、海将が取締役としたら・・・・防衛省が株主で国民は監査役?



「帽ふれ」するのはこちら側の乗組員だけではありません。
反対の舷側にも人が立っています。
出航すれば右舷がこちらを向くからですね。

皆が左舷に立っていて、出航後岸壁に右舷が向いたとたん、皆が走って
反対側の舷に移動し、今度はそちらで「帽ふれ」をする様子を想像してしまいましたが、
そんなスマートでないことは帝国海軍の末裔たる海上自衛隊には絶対に起こりません。




艦橋のデッキウィングには艦長と航海長が出ています。
このウィングの構造は、風が吹き付けても吹き込みにくい仕掛けがしてあります。
左の方、つまり艦の進行方向側のオーバーハングして二重になっている部分がそれで、
前面に吹き付ける風の方向を変え、上に逃がしてエアスクリーンのようにし、
結果ウィングへの風の吹き込みを低減するのです。

また、艦橋ウィング下部のスリット状の切り欠きのような部分には舷灯が装備してあります。

舷灯は夜間の航行中に進行方向を他船に伝える重大な役割を持ち、
右舷は緑灯、左舷は赤灯となっています。
今見えているのは赤の側ですね。

舷灯の右側にもライトがありますが、これは作業灯です。




艦橋デッキの艦長。
二佐の印である赤と青の双眼鏡ストラップをつけています。
青のストラップも目立ちますが、これはかなり遠くからでもすぐわかります。
艦長の右にあるのは探照灯。

艦長の立っているちょうど前が台形の形の切り欠きになっていますが、
これは探照灯の光をジャマしないためです。



チャフ・フレア・ランチャーの前に整列する下士官。
レベル1にある舷窓が下にちょうど見えています。




さて、「ふゆづき」の前には資材置き場なのか、紅白の天幕をかけた部分が艦首付近にあり。
これは最後までそのままだったのですが、その陰で三井造船の造船工たちが・・・・ 



「ふゆづき」の乗組員へのサプライズで横断幕を用意しています。









恒例の行事なのかもしれませんが、舷に立っている乗組員たちにとって
きっと感激の一瞬でもあったのではないかと想像されます。

 

祝 勇猛無比 護衛艦「ふゆづき」の活躍をお祈りいたします!

                三井造船 玉野造船工場 一同




三年の間自分たちが手にかけ、今出航して行こうとする護衛艦。
彼ら工員たちの感激はいかばかりでしょうか。

横断幕を持ちながら、片方の手を振る工員もいました。

一つの艦を作った者、そしてそれに命を吹き込む者、両者の交歓は尊くすらあり、
この光景には思わず鼻の奥がつんとするほど感動してしまったわたしです。




激励の横断幕を前に、いよいよ出航の儀式がクライマックスを迎えます。




全員起立して微動だにしませんが、何人かの視線は明らかに横断幕に注がれていました。





そのとき。

「帽ふれー!」

掛け声がかけられました。
「帽ふれ」は出航となったときに自動的に始まるものだと思っていましたが、
号令による指示で一斉に行われるのだということを初めて知りました。




正帽を振る渋い海曹。
ところで前々回からわたしが帽子のことを「正帽」と書いているのを見て、

「制帽と間違えているのではないか」

と思い、訂正のコメントを入れようかどうしようか迷っていた方があれば、
どうぞご安心下さい。
これは「正帽」が正しいのです。
どういう理由かは知りませんが、海上自衛隊では「正帽」と表記することになっています。 


ちなみにこの帽子の持ち方、振り方にも正しいやり方があり、

鍔の上部を人差し指、中指、薬指で押さえ、親指と小指で鍔の裏側を押さえる

のが正規の持ち方だと言うことになっています。
しかし、この海曹もとなりも、どっちもその持ち方ではありません。
左の海曹は人差し指と親指だけ使っているように見えます。

もしかしたら古参なので、ベテランなりのアレンジをしているのかもしれません。 



しかしこの、実に初々しい二人の海士(かわいいですね)を見てください。
水兵帽なので、鍔ではなく本体を持っているのですが、 

 人差し指、中指、薬指で上部を押さえ、親指と小指で裏側を押さえる

という、まるで絵に描いたような持ち方のお手本をやっています。
おそらく彼らは入隊したばかりで、もしかしたら帽ふれも初めてかもしれません。
教わった通りに きちんと帽子を持ち、真面目に振っている様子は思わず微笑んでしまいます。

ところで、彼はレインコートをステンカラーではなく海曹がよくやるように開けています。
ということは着方は特に決められておらず、自分の好きなように襟を開けたり閉めたりしても
まったくかまわないのかもしれません。 



対してこちらは海曹ですが上まで留めてしまっている例。


映画の「帽ふれ」を見ると、大きく円を書くようにゆっくりとまわしています。
とくに将官を演じる俳優はそれをゆったりとするように指導されているようです。
敬礼も答礼の場合はかなりスピードが遅いですし、たとえば行進曲が、
「戴冠行進曲」や「威風堂々」など、王のために書かれたものはゆっくりであるように、
偉い人ほど「悠揚迫らざる」とでもいうべき佇まいが要求されてくるのかもしれません。


さて、この帽ふれですが、肘を曲げずに基本三回腕をまわして帽子を振ります。
このとき「ふゆづき」の乗員が何回回していたか、わたしは写真を撮るのに忙しかったので数えていませんが、
とりあえず観覧側にいる実施者の三木海将の「答礼」が済むまでは続いていたのではないでしょうか。



もうこのクラスになってくると、「肘をまっすぐ」などという決まりはどこかにいってしまっています。
改めて先ほどの海士君を見ると、一生懸命腕をのばしていて健気です。
しかし、このベテラン海曹たちの「こなれた」帽振れ、これはこれで粋ですね。
坊主頭の新米海士も15年後、潮気がつけばこうなってくる、と・・・。



まず艦橋上にご注目。
艦長はすでに姿を消しています。
出航に向けて航海艦橋に戻り、赤と青のカバーのかけられた艦長席にいるのかもしれません。

そして、航海長はまったく「帽ふれ」をしておりません。
隣にいる海士は振っていますが、航海長の視線は忙しく舷を右に左に動いているようです。
それも尤もで、このとき「ふゆづき」はちょうど岸壁を離れ、滑るように動き出しています。

この写真はちょうど全員が敬礼しているかのように見えますが、敬礼ではなく、

「帽—元へ」

の号令があったため、一斉に着用しているところなのです。




出航を見送る呉地方音楽隊の演奏は、もちろん「蛍の光」。
海軍兵学校では「ロングサイン」と呼んでいました。
海上自衛隊で何といっているかはわかりません。

ロングサイン、とはこの曲がもともとスコットランド民謡の

「Auld Lang Syne」(old long since、意訳ではtimes gone by)

という意味で、さらにこれを日本語にすると「過ぎ行きし昔」となりましょうか。
ジャズのスタンダードで

「As Time Goes By」

というのがありますが、これは「時の過ぎ行くままに」と文学的に意訳されています。
しかし、歌詞の内容は

「たとえどれほど時が過ぎゆきても人の世には不変のものがある」

それはたとえば男女の愛()というものなので、意訳題とは若干意味合いが違います。

ところで、出航に際してこの曲が演奏されるのは世界的な傾向ですが、自衛隊で、
というより海軍時代からこの曲が出航の際に使われていたわけは、
やはりその歌詞で歌われるこの歌の「真意」にあったからでしょう。

ただしそれは現在歌われることがなくなった部分です。

以前も「我は海の子」のエントリのコメント欄でお話ししたことがありますが、
戦後の「軍事色パージ」で、あらゆる歌の歌詞がカットされ、
都合の悪い部分は省略されたときに、「蛍の光」の3番と4番もまた歌われなくなりました。

しかし、新しく生まれ、海上自衛隊のフネとして今母港に向かう護衛艦を見送るのに
この幻の歌詞ほど相応しい内容がまたとありましょうか。


三、


筑紫の極み 陸の奥   つくしのきわみ みちのおく

海山遠く 隔つとも   うみやまとおく へだつとも

その真心は 隔て無く   そのまごころは へだてなく

一つに尽くせ 国の為   ひとつにつくせ くにのため


四、


千島の奥も 沖縄も   ちしまのおくも おきなわも

八洲の内の  護りなり  やしまのうちの まもりなり

至らん國に 勲しく   いたらんくにに いさおしく

努めよ我が背  恙無く  つとめよわがせ つつがなく





つづきます。



 

護衛艦「ふゆづき」出航〜「海のさきもり」

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何日もかけて3月13日に行われた護衛艦「ふゆづき」引渡式、ならび自衛艦旗授与式、
そして出航の様子をお伝えしてきましたが、今日で最後となります。 



さて、「帽ふれ」も済み、「ふゆづき」は滑るように岸壁を離れていきます。
三井造船の社員が持つ激励の幟は、この何分間かのためだけに準備されたもの。
たかがそれだけのために、ではない社員の熱い気持ちがこめられていると見た。

昨日今日、たまたままた用事で岡山に行っていたのですが、そのとき事情を知る方が

「商売だけでいうと造船工場自体は護衛艦の建造はあまり大きな利益ではない」

というようなことをおっしゃっていました。
フネそのものがいろいろな近代装備を搭載するための「入れ物」であり、
ステルス性やらなんやらでボリュームを減らすことが命題みたいになっているから?
とわたしは考えてみたのですが、それが正しいかどうかはともかく、
簡単にいうと、「時代が変わった」ということのようです。



しかしそんなうら寂しい事情とは全く関係なく、護衛艦が旅立つ儀式は
おそらく明治以降海外から取り入れたり国内で制定したりして、
大鑑巨砲の時代には形となったものを踏襲し続けて今日に至るのでしょう。

このような行事ひとつとっても、それは海軍創立の昔から積み上げられて来た
長く重い伝統のうえに成り立っているのです。
あらためて、海上自衛隊がその末裔であることの証左を目の当たりにした気がしました。


ところで、また思いついたので護衛艦のディティール紹介を。

見送りをしている社員たちのあいだに「ふゆづき」の艦尾部分が見えていますが、
左の方に見えている四角く切られた部分は、

TASS(Towed Array Sonar System)

と呼ばれる曳航式のアレイソナーがここに装備されています。
何を曳航するかというと、多数の聴音器を並べた長いケーブル。
潜水艦の音を探査し、位置や方角をそれで特定します。
なぜ多数なのかというと、水中での潜水艦からの音の伝わり方。
これが同心円状に伝播するため、その拾い方に差異が生じます。

そこで、長さの違うソナーを多数曳航し、おのおのの結果を処理することで
音源までの距離や方向を算出することができるというわけです。

100mから500m の深さを、4000〜5000mに亘って曳航されるそうです。





帽ふれも終わり、全員が起立したまま静かに「ふゆづき」は出航していきます。

ところで、今日やはりこのとき出席していた方とお話をしたのですが、
その方の近くにはリタイアした元海自自衛官がおられたそうで、その方によると
雨の中に2時間立っていて全身びしょぬれになった自衛官たちは、
乗艦から出航行事までの1時間の間に着替えをしているはず、とのことです。
ただし、

「下着まで変えるかどうかはわからない」

とのこと。
でも、あれで下のものを変えなかったら、せっかく乾いた上着もすぐに濡れてくる、
というレベルだったですからね。
ちゃんと全身着替えをしたのではないでしょうか。
したと言ってくれ。



ところで皆様、この「ふゆづき」に揚げられていた信号旗に注目された方はおられますか?

エリス中尉、一番上のは回答旗であろうと予想する、という程度しか知識がありませんが、
この下三種の組み合わせはわかります。

これは、UWIで、その意味は

「あなたの協力を感謝する」

何に対する回答かというと・・・やはり直接は造船社員の激励ではないでしょうか。
慣例的に出航のときに揚げられる信号旗であるとわかっていても、
どうしてもそういう風に考えたくなります。





さて、じつはこのとき、今日お会いした方はわたしとI氏を埠頭で探していたのだそうです。
しかしなぜかわたしは帰りを急ぐI氏に急かされるように(というか急かされて)
「ふゆづき」が岸壁を離れるなり埠頭を後にし、なぜか

「バスを待つより歩いた方が早い」

といいつつすたすたと歩き出したI氏のあとを小走りに(すごい早足の人だったので)
出口に向かって歩いていたのです。(号泣)

「だから最後まで見たいと言うておろうがあ〜〜!」

などとここまでつきあってくださった上、身分を三階級偽装していただいた
恩人であるI氏にこんなこと、わたしの性格上言えることではありません。
性格関係ないですか。常識の問題ですね。

とにかく仕方なく歩き出したものの、未練がましく立ち止まってはシャッターを切り、
また立ち止まってはシャッターを切りの繰り返し。
おかげでろくな写真が撮れませんでした。

Iさんのばかー!

写真は、歩きながら仕方なく撮った海保のフネ。
しかし、こうして見ると海保の白い船というのもかっこいいですよね。
コーストガードと描かれた青のペインティングも美しい。

三井造船ではこのとき海保艦艇を二隻ドック入りさせていました。




「ふゆづき」は艦首をいつのまにか岸壁から垂直に向けていました。
ここでもう一度、こんどは右舷に立っていた乗組員が「帽ふれ」をした模様。
左舷側はもう誰もいません。



初めて右舷側を見たわけだが。

こちらから見ると、ボートダビットに設置されている作業艇が見えます。
「あきづき」型はこの作業艇が一隻だけの搭載となります。



飛行甲板。



彼らが立っているのは第2煙突の前。
「あきづき」型はガスタービン4基を主機としているため、
煙突の壁面にはそのために換気口がたくさん設けられています。
画面左上の巨大な換気口がそれ。

6個の俵状のものは自動膨張式いかだ。
どのように膨張するのか見てみたいけど、乗組員はしょっちゅう訓練で展開させているんでしょうか。



格納庫の上にあたる部分に立っています。
後部にもCIWS(前々回直訳してみましたが、正しくは近接防御システムですよ皆さん)
が一基あり、それがここに見えていますが、こちらを22番砲と呼びます。
20mmの2番砲だからだそうです。
ということはこの勢いで行くと、前のCIWSは21番砲と呼ばれていることになります。

「ひゅうが」もたしかそうだったと記憶しますが、「むらさめ」「たかなみ」型は、
これは左舷寄りに設置されていました。

「あきづき」型は、艦の中心線上にあります。



歩きながらだったのでカメラを交換することができず(泣)、
どんなに引いても艦全体が写りませんでした。





なので、ここで初めてタグボートが「ふゆづき」を押していたことを知りました。
岸壁の前方からこれを撮りたかったのに・・・・・・(怨)

「ひゅうが」「くにさき」の出航・帰港は確か二隻のタグボートが出動していましたが、
今回は一隻でやっていました。





あれ?
全員が岸壁ではなく艦首を向いている。
誰に帽ふれしているんだろう。


向こうに艦船の陰が見えるので、もしかしたらタグボートにお礼を言っている?




この期に及んで最後に説明しておくと、「ふゆづき」と描かれた右側に
喇叭のような穴が二つありますが、これは

デコイランチャー。

デコイ、つまりおとりのことです。
ホーミング魚雷の攻撃を受けたとき、艦艇の推進音そっくりの音を出し、
魚雷にターゲットを誤認させて目標を外させるためのものです。

ここから魚雷によく似た自走式デコイを発射、デコイは迫り来る敵の魚雷に対して
音響的欺瞞を実施しながら自走することで誘引、誤爆を誘います。


ところで皆さん、この発射孔が喇叭型をしているのを見て、

「なるほど、ここから音を出すかららっぱの形をしているのか」

と当初一瞬でも考えたエリス中尉のことを思う存分笑ってくれたまえ。
ここから音を出してたらそもそも偽装にならないっつの。




ところで、当ブログと同じ写真が使われていることからお気づきかと思いますが、
冒頭のYouTubeは何を隠そう、わたくしことエリス中尉ことグーグルネームRaffaella Santiが
(画家のラファエッロの本名を女性形にしてみました) 初めてアップしたものでございます。

なぜ今までしたことのないYouTubeアップロードをいきなり思いついたか。
それは自衛隊儀礼歌「海のさきもり」がインターネット上どこを探してもなかったからです。


当初「海のさきもり」の譜面を製作してアップするにあたり、わたしも自分なりに
インターネットでこの曲がどこかで聴けないか検索してみました。
たとえ譜面が読めても、あの楽譜だけではこの曲の良さが全く伝わらないからです。


その後、coralさんが自衛艦旗授与式でこの曲が流れているYouTubeと、
またこの曲が収録されているCDを教えてくださったのですが、
それを見て、なんとわたし自身、それを所持していたことが判明しました。
そこで


「せっかくCDを持っているのだから、今回の画像を使ってYouTubeに投稿してみよう」

と考え、今までの写真の中から隊員の表情を捉えたものを中心に制作してみました。
いかがなものでしょうか。
(といいながら悪評価がつくのが怖いのでコメントも評価もできないようにした小心者である)



この曲は元々、ご縁を得て交流を戴いている現役海上自衛官から教えていただきました。
その方は、儀礼歌として自衛艦旗の授与並びに返納にも必ず演奏される曲でありながら、
歌詞があることを自衛隊員すら知る者が少ない、とそのときに書いておられました。

そして、

「行進曲『軍艦』と並ぶ海上自衛隊の歌として歌い継いでいかなければならないと思う」

と、いかにこの曲が海自の、とくに船乗りに取って象徴的な曲であるかが窺い知れる、
こんな一行が添えられていたのです。

しかしながら世間の関心はあまりこの曲に無いらしく、インターネット上では
ほぼ資料は皆無という状況。

「ならばそれをわたしがやる」

と、エリス中尉恒例の無駄な侠気を起こした結果が、この投稿となりました。

ところでこの話には後日談があります。
それは、今回の式典参加にご尽力下さった方とわたしを取り持った海軍の縁、
そして、その方にとって人生の師とも言える存在であった一人の元海軍士官が
この曲の作詞者である「江島鷹夫」そのひとであった、というという少し不思議な話です。



次回「ふゆづき」のお話の締めくくりとして、そのことを書いてみたいと思います。



続く




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