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エリス中尉、パープルハート勲章を授かる

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ちょっと息抜きの雑談です。
息抜きの雑談ついでにお礼を言うというのも失礼な話なんですが、
このエントリは読者の皆様へのお礼も兼ねております。

先日 負傷、もとい不肖エリス中尉が落馬して手首を骨折した際には、
常連の皆様には暖かいお見舞い、激励のコメントないし裏米(越前屋御主も悪よのう、ではない)
をいただき、まことにありがとうございました。

人の世の、うたかたもうたかた、所詮インターネッツの世界に仮の姿で
あれこれと愚にもつかぬエントリをほぼ毎日書き散らし続けているだけの存在に対し
このようにお気にかけていただけるとは、まことひとの情けが身に沁みまする。

というわけで、その読者のお一人でおられるある方から、エリス中尉、
このたび名誉の負傷に対してパープルハート勲章を叙勲せられたのであります。

当方に叙勲するからには相手はやんごとなき身分のお方であらせられると拝察しますが、
冒頭写真のいただいた勲章に刻印されたその神々しいお姿は、

・・・・・・ん?どこかで見たことあるぞ、と思った当ブログ読者の方、あなたは正しい。






しかも、この勲章は「海軍軍人」に対して授与されたものなので、ちゃんと錨のマークが。
これ、拡大してますが凄い小さいんですよ。
ちゃんと糸で縫い付けたのは彼の奥さん、じゃなくて皇后陛下でしょうか。

しかも勲章だけでなく、一緒に副賞として



ピアノを象ったのとかハートとか、



ペコちゃんのチョコとか、送っていただきました。
本当にありがとうございます。
この場をお借りしてお礼を申し述べさせていただく次第です。


ところで、わざわざこのこのやり取りをエントリにしたのにはわけがあります。
わたしは今回、お互いアドレスさえ分かっていればこのように
ものを送ったりできるサービスがあることを知り、心から驚いたのでした。

つまり、このブログを通じて知り合った方と、本名を知らせずに、たとえば、
「エリス中尉」「婆沙羅大将」のままでやりとりができるってことなんですよ。


メルアド宅配便



つまり、こういうことです。
「婆沙羅大将」が業者にインターネットで宅配を申し込む。
そのときに、婆沙羅大将は自分の住所と本名を登録する。
インターネット宅配業者が、エリス中尉のメールに連絡をしてくる。

「婆沙羅大将から品物が送られますが、受け取りますか?」

はい、と返事をしたら、業者に自分の住所、名前を教える。
業者はあくまでも婆沙羅大将から、ということで荷物を預かり、
エリス中尉を名乗る人間の住所に配達をする。

そんなことをしてくれる業者があるというのです。
お互いの名前を隠し合った状態でもののやり取りをする、というのは
一昔前では考えられなかったことなのですが、今ではインターネット上の名無し同士で
現実的なもののやり取りを行うというような場面も多く、このような需要が生まれ、
それに答える業者も出て来たということなのでしょう。

「HNファビアン三世こと山田恒男と申します」というような種明かしをせず、
ファビアン三世のまま相手に深紅の薔薇を贈るということが(どんなシチュエーションだ)
可能になったというわけですね。

何気にこれは人類が初めて得た通信の形で、わたしたちはその画期的な
歴史の転換点を見ることになった記念すべき世代といえるのではないかしら。

仮面舞踏会とか匿名の手紙とか、そういう限られた、あるいは一方向の匿名性ではなく
今や皆が普通に「本当の自分の名を名乗らずに生きる世界」に生きることができる時代です。
そのバーチャルな社会は実社会とは別に、しかしながら微妙に重なりながら存在し、
そこに仮の名を持つうたかたの存在同士が会話し、楽しみ、ときには憎み合ったりしているのです。

そこに生じているのは現実社会と全く同じ数だけの仮想の関係です。







ところで話は変わります。
怪我した当初は車の運転もできなかったのですが、先日久しぶりに運転することになりました。
注文していた新しい車が到着したのです。

これが・・・・・賢い。





初乗りの日、運転席から写真を撮ってみました。




これ、今度の車に搭載されているヘッドアップディスプレイです。
平常左の速度表示だけなのですが、このときはナビゲーションを試しています。
運転席左のパネルには地図が出ていますが、このように窓ガラスにも道順が映るのです。

このときは家族を乗せて走ったのですが

「すごーい」「かしこーい」「頭いい〜!」

皆の口から出てくる言葉は順番にこればかり。

だって、たとえばハンドルについているボタンをピッと押して

「電話をします」

と言えば

「誰に電話をしますか」

相手の名前を言えば、Bluetoothでベアリングした電話をかけてくれ、
全く運転を中断することなく会話ができます。
相手の音声は室内のスピーカーから流れ、音楽を聴いていれば
その音はしばしストップして通話を妨げないというのもすごい。
去年の冬、外で待っている息子に電話をしていて見張っていた警官に捕まり、
罰金を取られましたが、もうこんな悲劇とはお別れです。


まあ要するに車がコンピュータを搭載することができるようになったので、
パソコンでできることは車で何でもできるようになったというわけですね。

駐車するときはノーマルなリアビュー、つまり後ろの映像と切り替えて、
車を真上から見た画像(タイヤの上のカメラで撮った画像を合成してある)で障害物を検知できます。
変なところに思わぬ障害物のある某タイムズパーキングで、左車体をこする悲劇とはもうお別れです。

インテリジェントキーで鍵を出さなくてもエンジンがかかる仕様はもちろんのこと、
今までと違い鍵をバッグから出さずしてただドアに手をかけるだけで鍵が開き、
指で取っ手にちょんと触れればロックしてしまいます。
車から出るたびにいちいちバッグの中をかき回す面倒とはもうお別れです。




前の車を購入してから5年が経ちますが、この5年で、車の世界は
やはりコンピュータが人々の生活に普通に入り込んで来たのと同じく、
当たり前のようにコンピュータで全てが指示できるようになっていました。

「この5年は『走る停まる』以外の車のシステムが激変しました」

ディーラーのナカガワさんは言っていましたが、
中でもそれをひしひしと感じたのは、オートクルーズとセンサー機能です。

今までのオートクルーズは、夏にアメリカで乗ったメルセデスもそうでしたが、
一定のスピードを継続して出してくれるだけで、ブレーキを踏めばそのつど解除されるし、
問題は遅い車にすぐ追いついてしまうことで、前との車間距離をいつも注意しなくてはいけません。
よって渋滞の多い都市部の高速でこれを使うことはまずありませんでした。

しかし、今度のオートクルーズ機能は、前を走行している車をセンサーで感知し、
たとえば90キロで走っていても、70キロで走る前の車に追近づくと
前との距離を詰めないようにスピードを落とし、速度をぴったり70キロに落とします。
渋滞でうっかり前の車に追突してしまう、などという悲劇とはもうお別れです。
さすがにわたしもこれはやったことないですけど。




先日岡山で車に乗せていただいた会社社長は、実に慎重な運転をする方でしたが、
車間距離の空け方は、まるで最新式のセンサーでも搭載しているかのように広めでした。
(全国的にその業界では有名な会社の社長ですが車は10年落ちのホンダでした)
しかも、新車の機能に着いているリミッターでも使っているかのように、
どんな空いた道路でも90キロ以上は決して出しません。
その方に我が新車のオートクルーズ機能について話したところ、

「いや、たとえ車がなんでもやってくれたとしても過信しちゃいけません。
いきなりその機能が効かなくならないという保証はどこにもありませんよ」


たしかにクルーズ機能についてはわたしも心のどこかではそういう不安があるので、
いつも前方を凝視し、右足はブレーキの上に待機させている状態で走っています。

逆に自分で運転するよりもさらに注意深く慎重になっているのです。


さらに、わたしの車は声をかければこまめに返事はしますが、
少し自分のデータに無いことを聞かれると

「それをWikipediaでお調べしますか?」

挙げ句の果てには

「おっしゃることがわかりません」

と逃げられます(笑)
どんなにぼーっとした人でも、言葉が通じる人間なら理解できるような簡単なことなんですが。



実際の世界とバーチャルの世界が重なったり離れたりしながら存在し、
そのどちらもに自分が存在することがもはや当たり前のようになってしまった世界。
しかし、今のところ、コンピュータにできることにははっきりと限界がありますし、
その機能に全幅の信頼を置くことも憚られます。


ところで先ほどの話に戻りますが、くだんのパープルハート勲章は、
わたしにとってインターネットの中だけに存在する相手から、
エリス中尉というわたしのアバターに向けて送られてきました。

しかし今までバーチャル世界上で交流してきた実在の人物からのプレゼントである、
という前提あらばこそわたしはこれを安心して受け取ることができたのです。

バーチャルを泳ぐ存在もつまりは個々の実在の人間であり、だから我々は
その文章からその人間性を確かめ、好意を持ち、心を許すのです。
実際の世界で会話や行動からそれを計ろうとするのと全く同じように。


信じられないようで信じられるインターネット上のバーチャルな関係。
信じられるようで信じられないコンピュータ主導の世界。
逆もまた真なり、でしょうか。









 


自衛隊儀礼歌「海のさきもり」と元海軍大尉「江島鷹夫」

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つい先日。
わたしはまたもや「オで始まってマで終わる県」に行っておりました。
天候、またも雨。

全国でも三番目に降水量の少ないはずのこの県にしてこの高確率。
特に雨女というわけでもないのにこうもタイミングよく雨が降ると、
この県とわたしとの相性の問題かと思ってしまうわけですが、
だからといって雨が降って運が悪かった、とはわたしは思っておりません。

今回の訪岡でお会いした一人、Hさんはわたしを「ふゆづき」の引渡式、および
自衛艦旗授与式に参加させてくれた恩人というべき方です。
別の場所(わたしが本来いるべきだった三階級下の席)で式を観覧していたのですが、
この日の会合で式典のことを熱く語りだしました。

「あの、雨の中ねえ、自衛官たちが式の始まるまでの間の1時間半、
身動きもせずにじっと立ってねえ。
あれだけ濡れて気の毒は気の毒やったけど、実に感動しましたなあ」

この方はこういう感性といい、日本の国防や政治、国際関係、そして
教育のあり方や自衛隊に対する考え方、全てをわたしとほとんど同じ座標に身を置く方で、
一旦こんな二人が話しだすと、話が盛り上がって留まるところを知らないという仲なのですが、
やはり豪雨がドラマティックな演出ともなったあの出航には、同じような感動を持たれたようでした。

この話がでたのは、わたしたちが岡山市内のある小料理屋の一室で、
元陸上幕僚長と栄転する元幕僚長副官を少人数で囲む宴席を持っているときでした。

「ほら、この写真見てください。この濡れ方!」

H氏が自分のスマートフォンで皆に見せたのは式典の間起立する自衛隊員たち。
そのときに出席していなかった人々はそれを見て口々に驚きの声を上げます。
さらにH氏は続けて熱く語りました。

「それでね、自衛艦旗を受け取るときに、演奏されるのがね、
『海のさきもり』ちう曲なんですよ。
もう僕はあの曲が流れて来たとたん涙が出てきましてねえ」

わたしが「ふゆづき」の写真を用いた「海のさきもり」のYouTube投稿をして
三日後のことです。

「Mさん、このCD、よかったらどうぞお持ち下さい。
『海のさきもり』が収録されています」

Hさんが元陸幕長に鞄から出して献呈したそのCDを見ると・・・

わたしが持っているのと同じものでした。

コメント欄でcoralさまが教えてくれた、あれです。
そして、そのときそれを見たとたんわたしは全てを思い出したのです。
このCDはH社の社歌をブラスバンドのために編曲する仕事をした頃、
他ならぬHさんに貰ったものだったのでした。
そういえば・・・・・。


わたしがいろんな意味で変な汗をかきつつ、記憶をまさぐっていると、
H氏、わたしの方を振り向いて、

「このCD、差し上げましたよね?」
「は、はあ、戴きました。
実は今回の引渡式の写真をYouTubeに投稿したんですが、
『海のさきもり』を戴いたCDから使わせていただきまして・・・」


あれ、でもなんだか変だぞ。
なんでHさんにわたしこのCDを貰ったんだっけ。
Hさんは元陸幕長に説明していわく、


「実はこの曲を作詞したのが、うちの(H社の)亡くなった番頭さんでしてね」


そ・・・・・そうだったっ・・・・!!


「うちの番頭さんの作詞した曲が入っているので聴いてください」

と言って、Hさんはこの舞鶴音楽隊のCD、

「歴史的日本海軍軍歌集」〜海軍軍歌から海上自衛隊隊歌まで〜

を下さったのでした。
実は帰ってから一度だけ聴いたけど、全体的に流して聴いただけで、
どれが番頭さんの作品かはほとんど意識しないまま、ちゃんと聴かねばと思いながらも
エントリ制作やそのための資料収集の忙しさに紛れて、すっかり忘れてたんだった。 


そしてその約2ヶ月後のことになりますが、
わたしは、ちょうどH社の仕事をしていた頃ご縁ができた海上自衛隊幹部氏から、
まさに偶然なのですが、「海のさきもり」の楽譜を添付ファイルで戴いたのです。

そのときの説明で

「自衛艦旗の授与と返納の際使われる曲で、歌詞もあるが、
海自の隊員でもそれを知るものは少ない」

と知り、このこととこの歌についてをいつか記事にしたいなどと考えたのです。

その曲が、Hさんの言っていた「番頭さんの曲」であるとは夢にも気づかずに。



そもそも3月13日の「ふゆづき」引渡式および自衛艦旗授与式への参加は、
わたしが三井造船に関連する企業のある経営者(複数)との付き合いがあったことで、
そのご好意から可能になったことでした。


その中でも「海軍が取り持った」とでも言うべきがH氏とのお付き合いです。
H氏が筋金入りの「海軍好き」であることをきっかけに知り合い、
そのご縁でH氏の会社の社歌を録音する仕事をさせていただいたのでした。

そもそもどうしてHさんが海軍好きであったかというと、
それが他でもないこの「番頭さん」の存在があったからです。



タートルネックの上にダックスのトレンチコートをさらりと羽織り、
日活の任侠スターのような粋さと、ある種の凄みを持つこの人物、
これがHさんのいう「番頭さん」であり、ほかでもない「海のさきもり」の作詞者、
江島鷹夫です。



「江島鷹夫」とは、わたしがこの重大な事実に気づかないまま
エントリで「海のさきもり」扱ったときに多分そうであろうと書いたように、
「江田島」と「古鷹山」から取ったペンネームです。


終戦後、海上自衛隊の前身である海上警備隊が昭和27年の4月26日に創設され、
その儀式歌と行進歌が同年11月13日付けの東京日日新聞紙上で募集されました。

応募総数8,500余編の中から選ばれたのは、「海のさきもり」。
江島鷹夫というペンネームの元海軍大尉の手による作品です。

「海のさきもり」は山田耕筰によって作曲され、警備隊一周年記念行事として
翌年の昭和28年4月28日、日比谷公会堂において盛大に発表されたのでした。




江島鷹夫は兵学校73期。

第42期飛行学生として昭和19年8月練習課程を終え、実用機教程に進みました。
冒頭写真は江島鷹夫が兵学校三年のときの飛行訓練の合間に撮られたもので、
確信は持てませんが、前列真ん中が江島であろうと思われます。

全員が子供子供した幼さを残していますが、彼らは卒業と同時に実戦に赴き、
特攻隊長として散華した者もたくさんいました。
昭和19年10月25日、組織された特攻の第一号として戦死した70期の関行男大尉は、
直前の夏頃まで彼らの教官をしていました。
関大尉が教え子に残した歌は次のようなものです。

教え子へ

教え子よ 散れ山桜 此の如くに




江島が教練を受け配置されたのは偵察でした。
乗っていたのは「彩雲」。
偵察任務でフィリピンに飛び、敵戦闘機に追われて九死に一生を得たこともあったそうです。



わたしがH社を最初に訪ねたときに、明るく近代的なH社のオフィスに
大きな彩雲の模型があるのに気づきました。

「これは?」

よく聴いてくれた、とばかりに二代目社長が話してくれたのが「番頭さん」の話。
昭和38年(1963年)、創立して一年目のH社に入社した江島は、 同社が開発し、
今や誰もが日常生活で使用する、ある「独自製品」を開発する中心を担い、
同社の取締役を務めました。

わたしも当初驚いたのですが、このH社の独自製品は、皆さんの生活に普通に登場するものです。
工事現場、災害現場、そして勿論自衛隊でも使われている「あれ」です。
あんなポピュラーなものが一社によって作られているということにわたしは驚きましたが、
その成功の陰には江島鷹夫なる(ペンネームですが)一人の元海軍軍人がいて、
二代目の社長であるH氏を導き鍛えて一人前にし、現在のH社の隆盛の基を作っていたのでした。


それにしても・・・・・。

わたしが今回自衛艦旗授与式で「海のさきもり」について書いたこと、
現役自衛官の某氏から楽譜を戴いていたこと、そして何よりこの儀礼歌を
「大切に歌い継いでいきたい」という自衛官氏の言葉を受けてYouTube投稿をしたこと、
そして何より江島鷹夫なる人物が後半生を賭けて大きくしたH会社の社歌を、
縁あってこのわたしが手がけたこと。


これらが一度に明らかになったことで、全てが糸で繋がっていたことがわかったのです。

まあ、H氏からCDを戴いていながらちゃんとそのときに聴いておらず、
従って自衛官幹部氏が楽譜を送って下さったときにすぐに気づかなかった、
というあたりがちょっと、というかかなりかっこわるい、というか
H氏のご好意に対しても失礼でいずれにしても恥ずかしい話でもありますが。


「海のさきもり」は警察予備隊の創設に際して作られましたが、
このとき東京日日新聞によって同時に募集され、行進曲として採用されたのが
この間もお話しした「海をゆく」です。

「海のさきもり」が山田耕筰によって作曲されたのに対し、「海をゆく」は
こちらも大家である古関裕而が曲をつけています。


つまり、江島鷹夫のように一般応募で選ばれた歌詞が採用されたのですが、
ご存知のようにこの歌は冒頭の「男と生まれ海をゆく」の一文が
その後「時代に合わない」とされ、ここだけではなく全編が、50年記念の際
まるまる変えられてしまった、という話もすでにしたかと思います。

そもそも最後の「ああ堂々の自衛隊」の部分ですが、このとき制定されたため
当初は「ああ堂々の警備隊」となっていたのを、自衛隊発足時に「自衛隊」に変えたようです。
(ここは状況推理ですのでどなたか真相をご存知の方は教えて下さい)


新しくなった「みんなのうた」的生ぬるい新しい歌詞について、散々クサしたわたしですが、
そのときにも書いたように、江島鷹夫作詞のこの歌詞は、変更はされていません。


これは、「海をゆく」のように歌われることがあまり無く、あくまでも儀礼歌として
式典のときに演奏が行われるだけなので、チェックに引っかからなかったとも言えますが、
この歌詞の見事なくらいの普遍性と極限まで修飾を省いた言葉選びの巧みさに、
たとえ戦後軍色パージのやり玉に挙げられるようなことになったとしても、
「なにも変える部分はない」
ということになったのではないかと想像されます。

まるで軍艦旗をそのまま何も変えずに自衛艦旗とするしかなかったように。



H氏から断片的に聴いただけなので、江島鷹夫がどんな海軍軍人であったかとか、
どのような状況で戦争を生き抜くことができたのかはわかりませんが、
この歌の歌詞には、元海軍に身を置いた人間だからこそわかる
「防人の心」が簡潔なしかも格調高い言葉で言い尽くされているように思えます。

戦後、海軍が「海上警備隊」として蘇るということを知ったとき、
元海軍大尉江島鷹夫は、次なる世代の護り手に対し、海軍軍人であった自らの気概と
同胞(とも)と国土を守る意気軒昂あれかしという激励の気持ちを、
一語一語に全霊で込めることによって国を護る人の心を伝えようとしたに違いありません。




「海のさきもり」 江島鷹夫作詞

1 あらたなる光ぞ
  雲朱き日本(ひのもと)の
  空を 富嶽(ふがく)を
  仰ぎて進む
  われらこそ海のさきもり

2 くろがねの力ぞ
  揺るぎなき心もて
  起(た)ちて 鍛えて
  たゆまず往かん
  われらこそ海のさきもり

3 とこしえの平和ぞ
  風清き旗のもと
  同胞(とも)を 国土を
  守らでやまじ
  われらこそ海のさきもり




平成25年度防衛大学校卒業式〜帽子投げ

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防大生のご子息をお持ちの読者の方から、
「ニコニコ動画で防大の卒業式が放送されます」
という「親ばか情報」をいただきました。
何でも、式の当日夜にほとんどノーカットで流されるとのこと。
ちょうどうちにいてパソコンに向かっていることもできたので、
最初から最後まで時々写真を撮りながら見ました。



その方の当初のお話によると、去年起こった防大生の不祥事のため、
卒業式の帽子投げは自粛されるのではないかという噂もあったようです。

防大の恒例となっているこの帽子無げ(hat toss)、元はと言えば1912年、
アメリカの海軍兵学校の卒業式で始まった慣習です。
もちろん「もうこの帽子は必要ない」という意味が込められているわけですが、
わたしが思うに、最初は数人のお調子者がつい開放感から帽子を投げたところ、
乗りのいいアメリカ人の習性で全員がいえーい!と追随し、それからというもの
それを見ていた在校生が自分のときにもやるようになり・・、
という流れでいつの間にか定着した行事ではないでしょうか。

(あくまでも状況証拠による推理ですので本当のところを知っている方、
ぜひ教えていただきたく存じます)

一見お行儀の悪いこの慣習、勿論のこと戦前の海軍兵学校では行われませんでしたが、
この、それまでの厳粛な式典から一転してブレイクする、
いわば「ハレ」と「ケ」の対比を見るような演出がある意味日本人の感性にマッチしたのか、
防衛大学校のみならず一般の大学においても行われています。


わたしがこの一般の大学で帽子投げが行われているのを知ったのは最近で、
親族がとある学校での卒業式で帽子投げを目撃したという話を聞いたのです。

この一般大学で卒業生が投げるのは学帽、つまり卒業式のときにガウンとともに着用する、
いわゆる「アカデミックドレス」の四角い帽子です。

話が寄り道しますが、このアカデミックドレスでの卒業を行っているのは
日本ではキリスト教系の大学からはじまり、現在は国立私立問わず何校かあります。

最も早かったのが早稲田大学。
早稲田では1913年(大正2年)に制定され、大隈重信がそれを着て行進をしています。
面白いのは、アナポリスで帽子投げが始まったのとほとんど同じ年であることで、
勿論この頃の早稲田には帽子を投げるなどという文化はありません。

現在アカデミックドレスを着用するのはこの早稲田を始め、最近導入した
東大、阪大、東工大、千葉大などの国立大と、いくつかの私大です。

わたしの親族のひとりは卒業生ではありませんがアカデミックドレスを着る立場で、
式典の最後に皆が帽子投げをするのを眺めていたそうですが、わたしが

「どうして角帽投げないの?」

と聞くと、

「学生と違って、もし投げたら自分で拾いにいかないといけないから」

という返事でした。

それにしてもいつから学帽まで投げることになったのでしょうか。
アナポリスや防衛大の帽子投げは

「もうこの帽子とはお別れだ」

という象徴的な意味があります。
実際、防大生は帽子を投げてそこから走り去ったあと、各自が任官する陸海空の
新しい制服に身を包み、あらためて受閲をおこなうわけですから、
ストーリーとして?非常に理にかなっています。

しかし、この「学帽投げ」は・・・。

まず間違いなく防大の帽子投げから波及したものだと思いますが、
何らかの意味があるとしたらそれは「開放感」というくらいのものでしょうか。

決して非難するわけではありませんが、大隈重信が知ったらきっと怒ると思います。


さて、話を防大に戻します。
この象徴的な行事である帽子投げの実地が危ぶまれるとまで噂になったのは
防衛大学校で去年起きた不祥事が原因でした。
この不祥事とは・・・・・、


2013年9月、防衛大学校の学生5名が、実際はけがをしていないのに入院したなどと偽り
保険会社から保険金を騙し取ったとして詐欺容疑で書類送検された事件。

書類送検された5名は調べに対し「任官した先輩から教えてもらった」と述べたところから
組織的かつ継続的な犯行が行われているものとみて事件の徹底究明に乗り出した。
書類送検された5名は9月27日付で退校処分となったが、
学校側は学生の将来性を考慮するとして、氏名を公表しなかった。

先述の発言を受けて同校では卒業を控えた4学年を優先的に調査してきたが、
部内の治安維持を任務とする警務隊が2014年3月、新たに4年生5名を書類送検したことを
防衛省が発表したことから、同校はこの5名全員を退校処分とし、退校者は10名となった。

この5名の中に、先に退校処分された学生と同部屋で起居していた学生がいたことから
手口を共有していたと見られる。
なお、同校では今回の事件発覚以前にも同様の手口で退校処分を受けている者がいることから
長期間にわたりこの手法が継続しているものと見て再発防止のための調査委員会を設置、
調査を継続するとともに、今後は刑法上の公訴時効(7年)に満たない卒業生に対しても
捜査を拡大することを検討している。

その一方で事案を部内で短期に終息させようとする制服組と、
部外警察への引き渡しを含め徹底的な究明を図る背広組との対立が明らかとなっている。(wiki)


ご存じない方のためにwikiから引用するとこのような事件です。
事件が報じられたとき、案の定「心ある市民団体」(という名の左翼)らしき人たちが

「防大生を見れば詐欺師と思え」

などという酷い言葉で防大生全員が事件にかかわっていたかのようにこの事件を論じ、
野党もそれみたことかと鬼の首を取ったように国会でこのことを糾弾したそうですが、
ただでさえ鵜の目鷹の目で揚げ足を取ろうとする「反対派」に萎縮しがちな防衛省が、
こんな事件を起こした防大に対して、真意はともかく、当事者ならずとも
綱紀粛正を戒めているというポーズを世間に対して示そうとするのは当然で、
「帽子投げ禁止」
などという噂もそこから出て来たのかと思われます。


今年たまたま放映があることを教えていただいたのですが、このようなことがあった年度の卒業式、
防衛大臣、総理大臣、そして防大校長がどのように今年の式に臨むのか、
それらに対する興味もあってこの放送を見てみることにしました。



儀仗隊入場。



暗い講堂内の映像を、さらにニコニコ動画で放映されているものを
普通のカメラで撮った写真なので画像は無茶苦茶です。
ご存知のようにニコニコ動画はコメントが出るのですが、
今回はそれも写しておきました。

総理大臣臨席、栄誉礼に続いて国歌斉唱。
ちなみに国歌斉唱では、コメント欄でも皆が歌っていました(笑)

この後、卒業証書授与があったのですが、昔の「恩賜の短剣」はなくなり、
どうやら最初に呼ばれる「代表」が主席なのかなと思われました。

見ているといきなり画面にはラヴェルの「ボレロ」がかぶせられました。

「なぜボレロ」

とコメント欄では皆が不思議がっていましたが、実際はヘンデルの
「見よ勇者は帰る」(勝利を讃える歌)がずっと演奏されていたはずです。

ここのところはかつての海軍兵学校と全く変わっていないということですね。



そして卒業生の答辞。
この学生が「クラスヘッド」でしょうか。 

「我々の在学中、一部の心無い学生の振る舞いにより、
防衛大学校の威信が傷つけられる事案が生起しました。
我々58期生はこの状況を踏まえ、今一度原点に立ち返り、
防衛大学校学生としての理想像追求に努力して参りました」

と、いう一文が入り、やはりその問題についての姿勢を明らかにしていました。

「帽子投げ禁止」

などという懲罰などではなく、学生の自主的な反省と自戒を見せることで
事件への姿勢を表に示したもの、とわたしは解釈しました。

しかしながら、後にも述べますが、この日の模様を報道したメディアの関心は
全くそんなことには無く、朝日新聞を筆頭とした新聞は、ただひたすら
安倍首相の訓示の中に集団的自衛権の改正につながる「核心的な」言辞を
それこそ砂金を探し出すような熱心さで抜き書きすることに腐心しており、
はっきりいって「不祥事」などどうでもよかったのではないかと思われました。

こういった防大側の「反省の姿勢」は、わたしのように最初から最後まで
この式典を意図的に注視している人間にしか伝わらなかったということになります。
(新聞が全く触れないのですからね)


つまり、「防大生を見れば詐欺師と思え」などと言っている人たちは
おそらく防大の卒業式を最初から最後まで見ることなどまずないでしょうし、
帽子投げをしている映像だけをどこかで見つけては

「全く反省の色がない」

などと憎々しげに決めつけるのが関の山なのではないでしょうか。
こういう持論の人たちにとって、自分に都合の悪い事実は存在しないのです。

因みに、ちょうどこれを書いていた28日、
横浜地検が、詐欺容疑で書類送検されていた21歳〜23歳の元学生の男性10人を
起訴猶予処分としたというニュースが入ってきました。
地検は理由を明らかにしていないということで、またしても左な人たちがこれに噛み付き
大騒ぎしないかが注目されますね。





さて、このあと、陸海空要員の代表が幹部候補生として宣誓し、
一人ずつ安倍総理と握手を交わしました。
このときに、幹部候補生は任官するということでしょうか。
このときに宣誓されたのは勿論
「自衛隊の服務の宣誓」です。


私は、我が国の平和と独立を守る自衛隊の使命を自覚し、
日本国憲法及び法令を遵守し、一致団結、厳正な規律を保持し、常に徳操を養い、
人格を尊重し、心身を鍛え、技能を磨き、政治的活動に関与せず、
強い責任感をもつて専心職務の遂行に当たり、事に臨んでは危険を顧みず、
身をもつて責務の完遂に務め、もつて国民の負託にこたえることを誓います。


服務の宣誓は自衛隊法で

次の宣誓文を記載した宣誓書に署名押印して服務の宣誓を行わなければならない

と第39条ー第42条に決められています。



陸空海幕僚長からそれぞれの要員に賞状が与えられます。



そして、学生の代表が何事かを宣誓した後、



いきなり帽子無げ。
映像ではなく字幕をお楽しみ下さい。

















とにかく帽子投げが廃止にならなくて良かったです。

わたしは事前に、廃止にするしないはあえて発表せず、その場の「のり」で
当然のようにやってしまうのではないかと予想していましたが、やはりその通りでした。
「一部の心ない学生のために」一生に一度の行事に水を差せば、
命じた方も命じられた方も後味が悪いだけですからね。

さんざん挨拶でもそのことについて言及したので、
それ以上の責任を罪も無い学生たちに押し付けるのはいかがなものかと思います。 



帽子はどうなるのかとコメント欄では騒然となっていましたが、
どうやら後輩が拾って回収するようです。
あとでそれぞれの持ち主のところに返還されますのでご安心下さい。

明日は、この日の安倍総理始め各来賓の挨拶を中心にお送りします。




平成25年度防衛大学校卒業式〜安倍総理訓示

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この日のニコニコ動画をわたしは最初から画面で観ていたのですが、
途中で何度か「追い出される」はめになりました。
これはすなわち有料会員でないとこうなる、ということで、その度に

「今すぐ手続きすれば追い出されること無く観られます!」

という画面が出て来るのですが、そこはそれ、そんなお誘いは無視して
もう一度ログインすればまた再び見ることができるわけですから、
ここ最近で佐川河内の謝罪(じゃなかったけど)会見と、
今回の防大卒業式くらいしか観ていないわたしには必要のない脅しです。

しかし、追い出されたりログインしたりが頻繁になって来たとき、
ちょうど挨拶をしていた来賓の祝辞内容は聴くことが出来ませんでした。




防大校長、国文良成氏。

わたしは前校長の五百籏頭真ほどではないにせよ、この人物の適性については
少なくともその学者としての思想を見る限り「不適任」だと思います。

先日元陸上幕僚長とお話をする機会があったのですが、この方も

「そもそも防大の校長に民間人しかなれないと決まっているわけでもないのに、
第二代校長以外は全て学者であるというこの人選はおかしい」

と言っておられました。
学者がいけないのではなく、なぜ元自衛官、防大卒がなれないのか、という話です。
もちろん日本以外の国で、軍人以外が校長になるような士官学校はまずありません。

それもこれも前校長の五百籏頭氏などの金科玉条である「文民統制」の
歪な(と言わせてもらいますよ)呪縛から生じた制度であると思います。

つまり・・・、それこそこの五百籏頭氏の言動に顕著なのですが、極端な話、
こういう思想の人々にとっては、どうやら

「中国の覇権主義による侵略より、北朝鮮が核を撃ち込んでくる確率より、
自衛隊が暴走しクーデターを起こす確率の方が高い」

らしいんですね。
確か福田政権のときに日本は対人地雷の使用を放棄する条約にサインしましたが、
この「隣人の嫌がることはしない」というのが持論の、
要は自分の任期中に波風立てたくないだけが政治信条であった事なかれ主義の
似非平和主義者が、このようなお目出度い調印に踏み切った陰には
他でもないこの五百籏頭が暗躍()していたと言われています。

周辺国のどの国もこんな声明を出していないのに、日本だけがいい子になって(笑)
いざというとき海岸線を護ることになる方法の選択肢のひとつを無くし、
よりいっそう「攻めやすい国に」、つまり国防を一歩また手薄にしてしまったわけです。
先日、

「民主政権のときの観閲を受けた自衛官は気の毒だった」

と書いたのですが、実はこの福田元総理というのは、信条から

自衛隊の栄誉礼を拒否した

とんでもない自衛隊最高指揮官であったことをご存知でしょうか。
嫌々でも形だけでも、とりあえず菅直人は観閲を何度も行っていますし、
野田佳彦も、特に防大の卒業式には非常に真摯な様子で栄誉礼をしたと聴きます。
つまり民主党だから、自民党だから、というより、はっきりいって当人が

どの程度親中であるか

で、その政治家の自衛隊に対する態度が変わってくるのではないかと思うのですが
皆様はいかにお考えでしょうか。


その流れで言うと、元学長の国分氏です。
専攻、中国情勢。
李登輝元総統の来日を阻止しようとしたり、「作る会」の教科書に横やりを入れたり、
客観的に見て

「日本は中国を侵略した悪い国なので謝り続けねばならない」

という主張の五百籏頭氏と似たり寄ったりの人物で、
つまり自衛隊の幹部養成校たる防衛大学校の学長としては
はっきりいって全く相応しくない、と普通の感覚をしている人間なら考えます。


しかし、この人物が校長として訓示をする様子を今まで三度見てきましたが、
とりあえず防大校長としてそんなにおかしなことは言っていない、というか、
むしろ内容は至極ごもっともというかご立派というか、
もし何も知らなければ防大校長として適任なのではないかとつい思ってしまいます(笑)

この日は例の不祥事についての言及が行われました。
防大校長として当然のことでしょう。



続いて防衛大臣小野寺五典挨拶。
やはり防衛省代表として「身内」ですから、不祥事について触れました。
当然のことですね。



MITの先生だったかな。
わたしはこの頃人大杉で追い出されておりましたので
途切れ途切れにしか聴いていませんが、面白い話であったようです。
(コメントによると)
ただ、講義をするのと同じような抑揚でしゃべる方なので、そのせいか
後ろの小野寺大臣が死にそうな顔で眠気と戦っているのが悼ましかったです。 
小野寺さん、あなた疲れているのよ・・。

でもカメラの前で寝るな(笑) 




安倍総理訓示。

この訓示があらばこそわたしはこのエントリを起こす気になりました。

この日からしばらくの間、当ブログのT−33事故を扱った記事、
「流星になった男たち」へのアクセスが集中したのですが、
わたしはこの演説を聞いていたため、なるほどと思いました。
安倍首相の話を聞いてインターネット検索した人がたくさんいたのですね。

訓示の中で明確な単語は出ませんでしたが、明らかに
集団的自衛権について言及する箇所があったため、例によって朝日新聞は、

 「憲法解釈変更による集団的自衛権の行使容認が必要との認識を強調した」

といった部分だけを強調しております。
朝日の記事だけ読んだら、まるで憲法解釈のことばかり大声で言い募っていたように思えます。
少なくともわたしが聴いた限り「強調」はしていなかったですけどね。
まあ、この新聞が自分の報じたいことだけをあの手この手で強調するのは
いつものことですし皆さんももうよくその手口はご存知のことと思いますが。

それでは実際はどんなものであったか、聞き書きしてみましたのでご覧下さい。


<安倍総理大臣 訓示>


本日、伝統ある防衛大学校の卒業式にあたり、
これからの我が国の防衛を担うこととなる諸君に、心からお祝い申し上げます。
 
卒業、おめでとう。

諸君の、誠にりりしく希望に満ちあふれた雄姿に接し、
自衛隊の最高指揮官として心強く、頼もしく思います。

また、学生の教育に尽力されてこられた国分学校長をはじめ教職員の方々に敬意を表します。
日頃から防衛大学校にご理解とご協力をいただいているご来賓、ご家族の皆様には、
心より感謝申し上げます。


本日は、諸君がそれぞれの現場へと巣立つ良い機会ですので、内閣総理大臣、
そして自衛隊の最高指揮官として一言申し上げさせていただきます。

今日は22日。
15年前の11月、中川尋史(ひろふみ)空将補と門屋義広1等空佐が殉職したのは、
22日でありました。
まずは、諸君とともに、お二人のご冥福を心よりお祈りしたいと思います。

突然のトラブルにより、急速に高度を下げるT-33A。
この自衛隊機から、緊急脱出を告げる声が、入間タワーに届きました。

 「ベール・アウト!」

しかし、そこから20秒間。
事故の直前まで二人は脱出せず、機中に残りました。

眼下に広がる狭山市の住宅街。
なんとしてでも住宅街への墜落を避け、入間川の河川敷へ事故機を操縦する。
5千時間を超える飛行経験、それまでの自衛官人生のすべてをかけて、
最後の瞬間まで、国民の命を守ろうとしました。

2人は、まさに命をかけて、自衛隊員としての強い使命感と責任感を、
私たちに示してくれたと思います。

雪中松柏愈青青(せっちゅうのしょうはく、いよいよせいせいたり)という言葉があります。
雪が降り積もる中でも、青々と葉を付け凛とした松の木の佇まい。
そこに重ねて、 いかなる困難に直面しても、強い信念を持って立ち向かう人を称える言葉です 。

もちろんこのような事故は二度とあってはならない。
我々はそのために全力を尽くさねばなりません。
しかし国家の存立に関わる困難な任務に就く諸君は、万が一の事態に直面するかもしれない。

そのときには、全身全霊を捧げて、国民の生命と財産、日本の領空、領海、領土は
断固として守り抜く、その信念を固く持ち続けてほしいと思います。

そのために、どんな風雪にもびくともしないあの松の木のごとく、
諸君にはいかなる厳しい訓練や任務にも耐えていってもらいたいと思います。

厳しい冬の中でも、松の木の青々とした姿は
周囲の見る人たちをおおいに励ましてくれるものであります。
二月の大雪災害において、雪で閉ざされ、孤立した集落の人たちが、
昼夜を分たず救助に当たる自衛隊員の姿に、どれほど勇気づけられたことか。

昨年、豪雨被害を受けた伊豆大島でも、行方不明者の捜索を懸命に続ける自衛隊員の姿は
国民に大きな勇気を与えてくれました。

今ほど自衛隊が国民から信頼され頼りにされている時代は、かつてなかったのではないでしょうか。

諸君にはその自信と誇りを胸に、どんなに困難な現場であっても国民を守る、
という崇高な任務を全うしてほしい。
そして国民に安心を与える存在であってほしいと願います。

常に国民のそばにあって、手堅く存在する雪中の松柏たれ。
諸君にはこう申し上げたいと思います。

自衛隊を頼りにするのはいまや日本だけではありません。
マレーシアでは、行方不明となった航空機の捜索に協力しています。
フィリピンの台風被害では1200人規模の自衛隊員が緊中支援に当たり、
世界中から感謝の声が寄せられました。

ジブチや南スーダンでも、摂氏50度にも及ぶ過酷な環境のもと、
高い士気を保つ自衛隊の姿は、国際的にも高い評価を受けている。
冷戦後の地域紛争の増加、テロによる脅威、変わりゆく世界で現実を常に見つめながら、
自衛隊はPKOやテロ対策など、その役割を大きく広げてきました。

自衛隊の高い能力をもってすれば、もっと世界の平和と安定に貢献できるはず。
世界は諸君に大きく期待しています。

今日この場にはカンボジア、インドネシア、モンゴル、フィリピン大韓民国、
タイそしてベトナムからの留学生諸君がいます。
日本は諸君の母国とも手を携えて、世界の平和と安定に貢献していきたい。
ここでの学びの日々で育まれた深い絆を元に、
諸君には母国と我が国との友情の架け橋になってほしいと願います。


日本を取り巻く現実はいっそう厳しさを増しています。
緊張感の高い現場で、今この瞬間も士気高く任務に当たる自衛隊員の姿は私の誇りであります。

南西の海では、主権に対する挑発も相次いでいます。
北朝鮮による大量破壊兵器や弾道ミサイルの脅威も深刻さを増しています。
日本近海の公海上において、ミサイル防衛のため、
警戒に当たる米国のイージス艦が攻撃を受けるかもしれない。
これは机上の空論ではありません。現実に起こりえる事態です。

そのときに日本は何もできない、ということで本当に良いのか。
戦後68年間に亘る我が国の平和国家の歩みは、これからも決して変わることはありません。
現実から乖離した観念論を振りかざして、これまでの歩みを踏み外すようなことは絶対ない。
我が国の立場は明確です。

しかし、平和国家という言葉を口で唱えるだけで平和が得られるわけでもありません。
もはや現実から目を背け建前論に終始している余裕もありません。

必要なことは、現実に即した具体的な行動論と、そのための法的基盤の整備、それだけです。
私は現実を踏まえて、安全保障政策の立て直しを進めて参ります。


全ては国民と主権を守るため。
諸君におかれてもその高い意思を持って、いかなる現場でも現状に満足することなく
常に高みを目指して能動的に任務に当たってもらいたいと思います。


「唯、至誠を持ちてご奉公を申し上ぐる一事においては
人後に落ちまいと堅き決意を有している」

日露戦争の後、学習院院長に信任された乃木希典陸軍大将は、
軍人に教育などできるのかとの批判にこう答えたといいます。

「どんな任務が与えられても誠実に真心を持って全力を尽くす、
その一点では誰にも絶対に負けない」

その覚悟を持って、諸君にはこれからの幹部自衛官としての歩みを
進めていってもらいたいと思います。

その第一は、何よりも諸君を支えてくれる人たちへの感謝の気持ちです。
乃木大将は常に第一線にあって、兵士たちと苦楽を共にすることを信条としていたといいます。
諸君にも、部下となる自衛隊員たちの気持ちに寄り添える幹部自衛官となってほしい。
同時に諸君を育んで下さったご家族への感謝の気持ちを忘れないでほしいと思います。

今日も、本当に数多くのご家族の皆さんが、諸君の晴れ舞台を見るためにご参列下さっています。
私も最高指揮官として、大切なお子さんを自衛隊に送り出して下さった皆さんに、
この場を借りて心から感謝申し上げたいと思います。
お預かりする以上、しっかりと任務が遂行できるよう万全を期し、
皆さんが誇れるような自衛官に育て上げることをお約束いたします。

最後となりましたが、諸君の今後のご活躍と、防衛大学校のますますの発展を祈念し、
わたくしの訓示といたします。

平成26年、3月22日、内閣総理大臣 安倍晋三。 

 


学生たちが帽子を投げて講堂を走り出て行ってから場面は変わり
続いて観閲式の様子が放映されました。





彼らはそれぞれ陸海空の任官先の制服に着替え、
やはり陸海空に分かれて行進してきました。

陸自は「陸軍分列行進曲」。
海自は「軍艦」。
空自は「空の精鋭」。

空自は昔「ブラビューラ」で行進していましたが、平成になってから変わったそうです。
案外歴史が浅いんですね。
というか、ここだけの話ですが正直つまらないです、この曲。



この安倍首相の訓示を実際に聴いただけではなく、文字に起こし、
文章にしてあらためて思うのですが、この士官候補生に対する訓示には
かつて吉田首相が昭和32年の防衛大学卒業生に行った訓示、

君達は自衛隊在職中決して国民から感謝されたり
歓迎されることなく自衛隊を終わるかもしれない
きっと非難とか叱咤ばかりの一生かもしれない

御苦労だと思う

しかし、自衛隊が国民から歓迎されちやほやされる事態とは
外国から攻撃されて国家存亡の時とか災害派遣の時とか
国民が困窮し国家が混乱に直面している時だけなのだ

言葉を換えれば君達が日陰者である時のほうが国民や日本は幸せなのだ
どうか、耐えてもらいたい

この名文に通じる戒めが含まれています。

入間のTー33Aの殉職事故について触れたのは、たとえ平時であってもその訓練中、
自分の命と国民の命をはかりにかけるようなことになったときには、
ためらいもなく「身をもつて」国民の命を選び取るだけの覚悟を説くものであり、
吉田訓示の「 国民が困窮し国家が混乱に直面している時」だけではない、
自衛官に課せられた宿命ともいえる犠牲ー「事に及んでは危険を顧みず」という宣誓文の
表す覚悟にまで踏み込んだ見事な訓示ではなかったでしょうか。

しかも自衛隊員に覚悟を強いるだけではなく、自らの法改正への意気込みを語りました。
いつも思うのですが、いままでの首相のように9条には手をつけないということにすれば
おそらく安倍総理は朝日毎日NHKを筆頭とする左派メディアに「社是」で叩かれることなく、
特定アジアにヒットラーだの軍国主義だのと分かりやすく責める隙を与えることなく、
とにかく尻尾を出さずに過ごせば三年間の任期を乗り切ることができるにもかかわらず、
あえて自分がこの問題に手をつける戦後初めての首相になろうとしているのです。

訓示中にある乃木将軍の言葉

「唯至誠を持ちてご奉公を申し上ぐる一事においては
人後に落ちまいと堅き決意を有している」

これは、新自衛官幹部への餞であるようで、実は
自分の所信表明に対する意気込みだとわたしには感じられました。
(乃木大将の言う『ご奉公』が天皇陛下への言葉であることをあげつらい、
いちいち憲法改正反対と絡めて微に入り細に入りブログで非難している
民主の『一般人恫喝クイズ王』議員がいますが、 気にしないでいいと思います)

 

このような最高指揮官のもと、自衛官としての第一歩を踏み出すことのできた
今年の卒業生はまことに幸いであるとわたしには思えます。

 

この日は晴天で、彼らのこれからを祝福するような空の色が広がっていました。
卒業生の皆さん、そしてご父兄の方々、おめでとうございます。




 

 

元陸幕長の語る「我が国の防衛」

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陸自と言えば、昨日習志野駐屯地の桜祭りに行かれた方おられますか?
わたしはM24さまに教えていただいていたので前日まで行くつもりをしていたのですが、
当日一人で行くことを心配した家族に不安定な天気を理由に止められ、

「転んでまた手の骨を折る夢を見た」

とまで云われました。
確かに手を庇いながら傘をさし、さらにカメラというのはいかに覚悟のできた
(底を見たってことです)わたしといえども辛いものがあります。

「来年には治ってるから。お天気もいいかもしれないし」

といわれて、一年後に延期を決めました。
まあ、最近の時間の経つのは異様に早いので、一年なんてあっという間さ。 


さて、冒頭写真はわたしが聴講した講演会で登壇する元陸幕長です。
前回この元陸幕長が中隊長であったときの逸話を漫画化しましたが、
この人物がまだ若くて バリバリだった頃ならあっても不思議ではないと
(というか本当にあったんですが)思われませんか?

 

因みにこの後ですが、全員伏せの状態になってしまい、本人も
二発撃った後、どうやって引っ込みを付けるかを考えだした頃、
部下(小隊長?)があたかも銃乱射犯人の説得をするかのように腰を低くし、
手で「押さえて押さえて」のポーズをしながら

「ちゅうたいちょおお〜〜〜」

とささやき声で呼びかけつつそろそろと近づいて来て、 銃を奪い受けとったそうです。

という前日の「予習」によって聴講がいっそう楽しみになったわけですが、
さてどんな話が聞けるのでしょうか。



当日会場となったのは前日から泊まっていたホテルの宴会場。
宿泊には全く力をいれていませんが、この日のような経済界の朝食会など、
宴会や会合には重きを置いている模様。



宴会場から見える庭にはなんと人口滝まであります。
東京オリンピックに合わせて開業したそうですが、現在は前にも書いたように苦戦中。



ガーデンウェディングを行うために作ったと見た。



この日は前日ご一緒した元副官のK1佐は来ておられませんでした。
その代わり、かつての元幕僚長とK副官を思わせる陸自の2人組が。

わたしたちと同じく、経済同友会の朝食会が終わってから、
元幕僚長の講演だけを聞きに来た陸将補以上陸将以下の陸自幹部。
この陸将(ってことにしておきます)も、かつてバリバリイケイケだったときには
元陸幕長並の豪快な逸話の一つや二つありそうな雰囲気をお持ちでした。

副官はタバコの灰と吸い殻を始末するために携帯灰皿を持ちつつ近くで待機(多分)
海自と空自はどうだか分かりませんが、陸自の場合、
酒もタバコもやらんで部下の気持ちがわかるか!みたいなところで
どちらもガンガン、という隊長が多いような気がします。



主催者のお計らいで前列に席を取っていただきました。
今司会者が経歴を紹介しているところです。
以降、元陸幕長が語っているという設定で話を進めます。


【東アジアの戦略環境】

中国と台湾の問題、南北挑戦の分断、日本とロシアの関係、そして我が国の領土に関する問題。
今東アジアが置かれている問題の全ては、冷戦、そして第二次世界大戦の残渣と言えます。

まず竹島。
日本が敗戦後武装解除されているときに占拠され、その後サンフランシスコ講和条約で
否定されたにもかかわらず韓国が実行支配し領有権を主張しています。

北方領土問題も、日本が8月14日にポツダム宣言の受諾をしたとたん、
ソ連軍は上陸し、その後実行支配している。

台湾の問題も、終戦後、大陸で共産党に追い出された国民党がなだれこんできて、
日本を追い出した後に武力制圧のような形で支配した。

これ全て、遡れば日本が戦争に負けたことから始まっているんです。

中国の台頭というのは、中華思想に基づく膨張政策なんですね。
中華民族というのは「世界は中国のものでしかない」と考えており、国境なんて
便宜上引かれた地図上の決まりでしかないのだから、いくらでも修正されるべきだ、
そして我が領土は我が力の及ぶ範囲である、という考えです。

中国人は日本人と見かけは似ていても、中身は似て非なるものです。
話して分かる相手ではない。
道徳観念も価値観も、こんなに近い国でありながら全く違う。
厄介な隣人なんですよ。

もっとも、その厄介な中国人も中華街が作れない国もあり、
こちらはもっと厄介な隣人といえるかもしれません。(会場笑い)

彼らにとって膨張していくのは民族の本能であり、沖縄も尖閣もその膨張の先に
たまたまあるからやっているにすぎないんです。
その膨張の触手は、だから日本だけでなく中国本土の四方八方に及んでいます。


対して、最近は大国アメリカの力に陰りがみえてきました。
シリアやクリミアの件もそうですね。
あれは単にオバマ大統領の個人的資質の問題かもしれませんが、いずれにせよ
国防費の大幅な削減によって、軍事力は確実に低下しています。

そして日本はどうでしょうか。

経済力では世界のトップ3です。
しかし、にもかかわらず政治的影響力はほとんどないに等しい。
発言力がないんです。
実にいびつな国家といえるかもしれません。


東アジアはいまや世界の近代軍が集中する地域となっています。
米軍を除く通常戦力は

陸軍:350万人、海軍:250万トン、空軍:5000機。

核戦力のことをいいますと、米、露、中、北朝鮮に囲まれています。
中国の核がどこを向いて設置されているか、知っていますか?


【尖閣諸島問題】

冷戦時代、自衛隊は「仮想敵国」をロシアとして、特に北の護りを重点にしていました。
そのころはたとえ日本に政治的な影響力が全くなく、発言権がなくても
それは対して問題にならなかったのです。
しかし、今はそれではだめです。

冷戦時代の北日本に対する脅威と、今の尖閣地域での緊張は比べ物になりません。
わたしは戦後最大の危機であるという風にも思っています。


わたしは軍同士の交流で人民解放軍のトップと話したことが何度となくありますが、
向こうの軍人は尖閣のことを

「明の時代に中国人が見たから我が国のものだ」

なんてことを平気でいうんですよ。
日本人から見ると道理が全く通らない、話が通じない、これが中国人です。
法的な権利とかファクトではなく、とにかく「中国が一番」の中華思想なんです。
だから、

「今中国は強いから尖閣の所有を主張しても良い」

従って尖閣は中国のものである、こんな認識なんですね。
それではその危機とはどのようなことが予想されるか。
こののシナリオについてお話ししてみます。

例えば尖閣で日本と中国が衝突したとします。
そうなった場合、戦域を尖閣だけに封じ込めることは不可能でしょう。
戦火は瞬く間に中国全土に飛び火します。

(エリス中尉註:さらに中国は2007年、在日中国人に対して有事の際に軍務を優先し、
国と軍が民間のヒトとモノを統制する「国防動員法」 を制定している。
たとえば尖閣でことが起こった場合、現在日本に大量にいる中国人は、
日本にいながらにして破壊活動や軍事活動を開始する要員となる可能性がある。
この法適用は国内企業のみならず外国企業も含むので、現在中国に進出している日系企業は、
そのときには中国軍の意志一つで全ての財産や技術を没収されることになる。
工場施設はもちろん、日本の最先端技術も。
親族の法曹関係者からの最新情報によると、今中国、韓国から撤退するための法律相談が
大手弁護士事務所に引きも切らず持ち込まれているそうだ)

さて、もし尖閣にことあらば、沖縄には在日米軍の主力が集結することになります。
想定される最悪の状況は尖閣諸島が中国に奪取される、ということですが、
もしそうなれば日米同盟は危機的状況に陥ります。

 逆に言うと、

日米同盟が有効に機能することは、つまり
日米と中国の全面戦争が生起するということ

なのです。

しかし、実際はどうでしょうか。
戦後最大の危機であることには違いないですが、かといってこのようなシナリオは
現実問題として可能性はほとんどないといってもいいのではないでしょうか。

先ほども言ったように、尖閣問題は中国の覇権主義の延長にある。
膨張しながら手を伸ばしている、その先が尖閣であるからこのようになっているのであって、
果たして中国は日米を敵に回して全面戦争するほどの価値が尖閣にあると思っているか?

わたしはだから逆に計画された戦争は起こりにくいと考えます。
もし何かあるとすれば、それは尖閣諸島周辺に置ける不測の軍事衝突に
端を発するという形でしょう。

もし現地でそのようなぶつかり合いがあったとき、懸念されるのはまず中国側では
人民解放軍の、つまり軍の暴走です。
はたして中国共産党は、習金平は人民解放軍をコントロールできているか?
中国は文民統制など機能していません。
軍を政治がコントロールできるという政治体制ではないんですよ。

そして我が国の問題はそのときも世論が冷静であるか、ということです。
民主主義というのにも欠点はありまして、その一つが

「有事に際して世論が沸騰した場合、簡単に一つの方向になだれ込んでしまう」

ということなんです。
かつて日本が戦争に突入していったのだって「軍部の独走」 だけが原因じゃないんです。
そこには戦争を後押しし、政府を弱腰だと非難する、つまり沸騰する世論があった。

そして懸念の第三点目は、米軍の抑止力がそのとき機能するかということです。
もし中国側と日本側で戦闘行為が突発的に起こったとき、米軍は自動的に軍事介入するか?

わたしは絶対にそれはない、今の米軍は介入してこないと思います。

局地的に起こった戦闘が最悪の広がりを見せた場合、それは沖縄に飛び火し、
(なぜならそこに在日米軍がいるから)さらに日本全土に波及することになり、
アメリカにまで及ぶかもしれません。

機能的戦域は核戦争、サイバー戦争にまで至ることになります。



【尖閣諸島問題の本質】


尖閣問題は、日中両国の全体の関係から見ればそれほど大きな問題ではありません。
しかしながら領土問題には妥協はないのです。
島が小さいから、というだけの問題ではありません。

問題の本質は、領土問題ではなく、中国の中華思想に基づく膨張政策の始まり、
その象徴が尖閣であるということなのです。
つまり、中国という国が今まで通りである限り、この問題は終わることはない。
彼らにすれば膨張し自分の領土を広げていくという欲望に終点はないのですから、

いずれ日中の衝突は避けられないかもしれません。


日本と中国の関係は、いまだに「決着がついていない 」んです。
中華思想は「決着」「上下」を付け、その序列の上に自分があるとするものですが、
日本との間は今のところ一勝一敗です。

663年の白村江の戦い。(中国の勝ち)

このとき日本は唐・新羅連合軍に大敗しました。

(エリス中尉註:この敗北は、日本史上でも大東亜戦争後のアメリカによる占領を除けば
日本が外国の占領下に入る危険性が最も高くなった敗戦であったとされる)

1274〜81年の元寇。(日本の勝ち)

鎌倉武士も頑張ったし神風も吹きましたが、結局フビライが死亡したので
決戦が回避され、日本に勝ち星が上がりました。

1941年、日本敗戦。

しかし、これは中国と決着がついたわけではありません。
無条件降伏はしましたが、中国に負けたわけではない。
つまり、未だ雌雄を決した関係ではないのです。
中国が力をつけてきて、より先鋭化した膨張政策を進める中、

「日本との決着をつける時代だ」

と考えているとしても全く不思議ではないのです。


【当面の対応】


中国の狙いは日米の離反です。
しかし、実際に日米が同盟を解除することがあったとしても、
それは必ずしも日本の滅亡や中国の属国化を意味しません。
より自主的で米国にも中国にも依存しない大国日本の誕生になる可能性があります。

日米の絆は核です。
日本も核を持ち、中国、アメリカ、日本と鼎立するという構図も可能性としてはあります。
しかし、それは皆に取って幸せなことなのか?

軍事的大国になることは日本に取って幸せなことなのか?

そんなことは日本人は望んでいないでしょう。
沖縄の小学校では、自衛隊員の子供を入学させない、という話もあります。
理由は「人殺しの子供はうちの学校に入れない」です。
戦後一人の人間も殺していない軍隊なのにです。

こういう人たちは自衛隊は戦争をしたがっていると言いますが、
実際自衛隊ほど戦争が嫌いな集団はありませんよ。
だって、戦争になったら自分たちがまず死ぬんですから。
何があっても戦争は回避してほしい、そう心から願っているのが自衛隊員です。



それでは当面、どのように対応していけばいいのか。
まず日米同盟の強化でしょう。
沖縄の在日米軍の再編はいわば過去の遺物です。
そして、集団自衛権の行使です。
武力の行使と武器使用を法改正によってできるようにすることです。

武器といっても武器だけではないんですよ。
例えば自衛隊の持っている野外手術システム。
これは集団的自衛権の足かせで現行は使えないことになっています。

そして、大事なのは多国間協力です。
特に連携をはかっているのはインド、ベトナム、そしてオーストラリア、台湾。(韓国)。

(エリス中尉註:つい最近もオーストラリアのパースで豪海軍主催のシンポジウムがあり、
我が海自からも出席があったと幹部の方からお聞きしたばかりです)

安倍首相は就任以来精力的に世界を回り緊密な関係を構築しようとしています。
各自衛隊の質的な強化も進めていくべきです。

そして、戦いを自衛隊だけに丸投げしないことですね。

防衛産業の強化は勿論ですが、国民にも戦う覚悟を持ってもらいたい。
自衛隊は国防の尖兵ですが、いざとなると主力は国民なんです。
これは徴兵するとかそういうことではなく、今の軍事情勢に対して無関心でいないこと。
いざという時も大局に立った冷静な世論を構築するためにも。

敵対するだけでなく関係の宥和も必要です。

今もし何かが尖閣で起こったときに心配なのは、日中間にホットラインがないこと。
ホットラインの創設は提案されたこともありますが、今はストップしたままです。
当面、この創設に向けて努力することと、将来は人民解放軍と自衛隊で共同訓練まで行えればいいんですがね。

(エリス中尉註:中国主催の観艦式に海自を参加させなかったため、
米海軍がそれを不服として出席を取りやめたというニュースがあったばかりです。
リアルUSA! USA!状態で、佐藤正久議員も評価していましたが、それにしても中国、
なんというか、大国としてはかなり余裕がないというか、小っせーな、というか)


【靖国神社とケネディ大使】

ケネディ大使の「disappointment 」ね、
あれはもしかしたら日米同盟の崩壊の序曲になったかなと思います。
だって、あれは明確に

他国のナショナリズムの否定

をしたわけですからね。
靖国神社は墓じゃないんです。
魂を祀っている、つまり心の有り処と感謝の場を否定してしまったんですから。 
日本が独立した後、アメリカは靖国神社については表明したことがなかった。

(註:ブッシュ大統領は来日時に靖国神社参拝を主張したが叶わなかった)

こんなことを言えば日本国民が皆不快感を抱くくらいのこと、今まで
アメリカはわかっていたんですよ。
それが、中国韓国の大騒ぎに黙っていられなくなって口を出してしまった。

アメリカもなんというか、余裕がなくなっているなと思いますね。


【終わりに】 


国民が自国を守る意思を明確に世界に向けて示さなければなりません。
誇り高き国に生まれ変わるには自主憲法の制定が不可欠です。


わたしが自衛隊だから言っているんだろうと思われるかもしれませんが、
陸幕長として世界中の軍隊を見て来て確信しているのは、
日本国自衛隊の能力は世界でも最も優秀だということです。
アメリカ軍よりもわたしは上だと思っています。

しかも、強い軍隊であるのにもかかわらず常にその視線は「下から」で
国民の従僕であることを以て任じています。
こんな素晴らしい軍隊が世界のどこにありますか。

我が国は世界でも最も自由で、豊かな自然を持ち、安全でしかも美しい国家です。
こんな日本を、素晴らしい日本を少しでも良くして子孫に残すことが
今のわたしたちの責務であり義務であると思います。




(当日の講演に参考資料の文章を加筆し、筆者の補足を加えて構成しました) 

 





 

 



 

空母「ホーネット」見学記〜悪魔の囁き

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「天使のささやき」って曲なら知っているが、というスリーディグリーズな方、
本日タイトルにはあまり意味はなく、当エントリでのエリス中尉の
ささやかな告悔への前振りであると軽く考えていただければ幸いです。


さて、CV-12、空母「ホーネット」は、現在サンフランシスコのベイエリアである
アラメダの埠頭に係留されて歴史博物館になっています。
この、「キアサージ」として運用される予定だったフネは、ちょうどその時に
日本軍の攻撃によってCV-8であったホーネットが撃沈されてしまったため、
急遽名前をひきつぐ形でデビューしたという逸話を持ちます。

沈められてしまったから、というよりも、アメリカの場合軍艦の名前は
代々引き継がれるのが慣例となっており、このホーネットも8代目となります。
この代で以降ホーネットを引き継ぐフネはなくなったわけですが、それはおそらく
ホーネットというとどちらかというと戦闘機が主流となったためだろうと思います。
(おそらくそうですよね?)

ホーネットのことについては何度かお話ししてきたのですが、艦載機や甲板、
艦内の資料室のことばかりで、肝心のホーネット内部のことがまだでした。

今日は、この広い広い艦内をたった一人で探検したときの写真を
比較的淡々と挙げていきたいと思います。



平日のせいか、見学客がいないわけではありませんでしたが、
何しろ広大な空母の艦内、しかもほとんどどこでも自由に出入りできるとあっては、
ほとんどの瞬間わたしは人気のないこういった通路でたった一人。
ほとんど誰にも会うことがありませんでした。(伏線)



見学のため公開されているハンガーデッキより下はこの階層だけで、
この写真のEXITの文字の下の黒い部分がそうであるように、
下の階への階段はすべて遮断されていました。

入館してきた階をハンガーデッキ、ここをセカンドデッキといいます。

もちろん博物館ですからどこにいって灯りがが煌々としてとても明るいのですが、
一日の電気代だけでも大変なものではないかとふといらない心配をするほど、
くまなくどの部分も蛍光灯で照らされている様子がまた妙な不気味さでした。(伏線その2)

艦内は森閑として、そこが海の上だと全く思わせないような安定感があります。
ほんのときおり、めまいのときのようにぐらりと揺れる瞬間があり、
あらためてこれが今も海に浮かんでいることを認識するくらいです。



ガベージ・ディスポーザル、つまりゴミ捨て場。
日本の軍艦はスカッパーというゴミ捨て口から海に捨てていましたが、
アメリカの空母がどうしていたのかはわかりませんでした。
まとめて海に捨てていたのだと思いますが、コーラの瓶とかはどうしたんだろう・・。



立ち入り禁止の部分は鎖を渡してあります。
この公開されていない部分には当博物館の事務所があるのだそうです。



よくわかりませんでしたが、「トルピード・ショップ」とだけ解説にあったので、
おそらくかつてここで魚雷の調整をしていたのだとおもわれます。



ここは艦尾部分に当たります。
かつてここは艦載機を乗せるエレベーターが稼働するスペースで、
今はエレベーターが使用されていないので資材置き場と化しています。
「ひゅうが」の巨大エレベーター部分をふと思い出す雰囲気です。



ふと上を見ると・・・・おお、これが昇降するわけか。
ところでエレベーター壁面に書かれた

「NO SMUCKING」

って、何なんでしょう。
NO SMACKINGなら「平手打ち禁止」だけど・・・・・・。



これはハンガーデッキ階にあったロッカー。
かつてのものなのですが、よく見ると現在も使われています。
すなわち、手荷物をここに入れてコインロッカーのように使ってもよかったのです。
ところどころ貼られた紙には「ロッカー使用注意」が書かれており、
いくつかは誰かが使っていたらしく鍵が無くなっていました。

カギは持ち歩かずその場で売店のレジに預けるように、と書いてあります。



ホーネットとは関係ないと思いますが、天井から
翼のついたタンデム三輪車が吊られていました。

左に見える階段の上の部屋は、かつて偉い人がいるような場所でしたが、
今は展示室の一つとして、日系アメリカ人兵士の資料が展示されています。
わたしが訪れたとき、この展示室は完成してまもなくであったらしく、
ニューオープン!と書かれていました。



ハンガーデッキを艦尾の方から出ると、イスとテーブルがしつらえてあり、
ここで休憩できるようになっています。
 


ジュースを飲んでいるスタッフらしい人が一人いただけでした。
テーブルは昔からここにあったものでしょうか。



手旗信号をするデッキを見つけたので写真を撮りました。
ここへの上り下りは、奥のポールでするわけですね?
ここに立って手旗をするのもたいがいだけど、これを昇り降り・・・。
高所恐怖症なんて甘っちょろいことを言っている場合ではありません。

 

ペナントに見えるシースカウト、というのは実はスカウト運動のなかでは最も古く、
1908年から行われているものだそうです。
カヤック、カヌー、ボートなどの水に基づく活動について学ぶ団体で、
日本でも昔は兵庫県西宮市(今でもヨットハーバーがあります)を発祥としてありましたが、
現在は、「海洋少年団」の活動を残すのみとなっております。



艦橋の最も下の階にあるパイロット控室のようなところ。



ここでいったん甲板に出てしまいます。
また再び下におりていき、セカンドデッキへ・・。



セカンドデッキの一部には「マリーン・デタッチメント」の居住区があり、
海兵隊が警備や艦長の警護、囚人の監視(!)や儀仗を行うため、
出張(デタッチメント)しここに滞在していた名残があります。
床が赤いのはマリーンのカラーに敬意を表してのことかもしれません。

 

儀仗に使われるらしい木製のライフルが収納されていました。
もう使われることは無いのでしょうか。
それともホーネットでの儀仗の際には今でも使われる?



兵員の寝室・・・・なんですが、これ、最上段に寝る人は下段に足をかけて、
上にのぼっったわけですよね・・・・・靴を履いたまま?
アメリカ人は基本寝室でしか靴を脱ぎませんが、 特に常時非常体制の空母で
連中がわざわざ下で靴を脱いでこれを登っていくなどというのは考えにくいのですが・・。



と思っていたら、やっぱり(笑)
全くアメリカンってやつらはよお・・・・・。

旧日本海軍の釣り床も快適性にかけてはかなり辛そうですが、これも凄いですね。
時化の時はもちろん、こんな小さいキャンバス、寝返り打っただけで落っこちてしまうではないの。
おまけに天井までの距離が30センチくらいしかなさそうな最上段の閉塞感は半端ないですね。

みんなニコニコして楽しそうに見えますが。



ここは・・・なんだったか忘れました。
右側の紙に説明が書かれているのですが、ピントが甘くて読めません。



ランドリールーム。
こちらが洗濯機で向こうは乾燥機?



シーツの水切りとしわ伸ばしを同時に行うローラーと見た。
機械にでかでかと会社名が書いてありますが、「海軍御用達企業」であることを
宣伝にしているという感じですね。



仕上がった洗濯物はここに一時収納していたようです。
現役時代の洗濯物がそのまま置いてあるらしく、
ほとんどのものは黄色くなってしまっていました。



郵便取扱部署。
人影が見えたのでぎょっとしたのですが、マネキンでした。
この写真は小さな郵便物受け取りの窓からカメラを差し入れて
中を撮ったもので、実は外からはほとんど見えません。



艦内電話。受話器が外れないように固定されています。



使わないように「故障」の張り紙が貼られた便器。
艦内の洗面所は普通に使えるところがいくつかありました。



パントリー。
当時の什器機器がほとんどそのまま置かれていました。
雰囲気を出すためか果物のイミテーションまで・・・。

実は、この部屋、途中まで普通に入ることができたわけですが、
ふとわたしはそこにぞんざいに置かれたコーヒーカップに目を止めました。
美しいブルーのラインに「ホーネット」と描かれたカップ。
それは手を伸ばせば届くところにあり、その気になれば持って帰れます。

皆様に今ここで懺悔いたしますが、このときわたしは1万分の1秒の間だけ、
このカップを欲しい、と思い、今ならバッグに入れて持って帰れるかもしれない、
とその可能性を心の中でシミュレーションしたのでございます。

そこがたとえ何分佇んでいても、誰も通らないほぼ無人の空間だったことで
一瞬とはいえわたしの心の悪魔がつまらんことを囁いたのでしょう。
もちろんわたしは現実にそれを実行に移すなど、日本人としてありえない、
とその心の迷いを笑って打ち消したのでした。


今にして考えると、もしかしたらどこかに監視カメラがあったかもしれませんし。



見学客が座り込んだりしないように(部屋の外から見るようになっている)、
椅子を全部机に乗せた状態の士官用ワードルーム。
士官が食事をしたり、ミーティングにも使われたそうです。



艦内売店。
「オフィサーズ・ストア」となっていますから、士官専用です。
というか、このセカンドデッキはほぼすべてが士官用の居住区となっています。
ここより下の階層には下士官、さらに下に兵員用区画があるのでしょう。



一番上の段はコルゲートの歯磨きや歯ブラシ、タルクなどの医薬部外品、
二段目にはジッポーのオイルやマルボロなどのタバコ、そしてインク。
一番下は本で、黄色い本が「ナショナルジオグラフィック」、「アガサ・クリスティ」、
そして「ドゥーリトル隊」の本。トランプにゲームなどなど。

これは艦首部分にあるフォグ/フォームステーションのオフィス。



これがそのフォグ/フォームステーションです。

艦内で火災が発生した時、プロテインベースのフォームを吹き付けると
フォームは炎を包み込み、消火することができるのですが、ここは
そのフォームを製造するステーションの一つで、艦内にはいくつかあるそうです。



フォームは水と一緒にセットし火災に向かってスプレーするのですが、
それはなぜかというと、水はオイルや燃料による火災の場合もすばやく広がり、
フォームを炎の部分にいきわたらせることができるからです。

各ステーション(たくさんあるらしい)で製造された濃縮フォームは、
5ガロンのボトルにいれられラックに常に蓄えられており、
艦の隅々まで迅速に送り込むために、艦内にめぐらされたパイプは
バルブを開ければいつでもフォームが出てくるようになっていました。

特に気づきませんでしたが、艦内の「緑のパイプ」はフォームが通っているのだそうです。

我が帝国海軍では消火設備に炭酸ガスを使用しており、
そのためついでに艦内でラムネなんかも作っていて、海軍さんのみならず
世間の人々にも好評だった、という話はご存知ですよね?



さて、というわけで、ホーネット見学記、もう少し続けたいと思います。








空母「ホーネット」見学記〜ヒストリー・ミステリー

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空母ホーネットの艦内見学記、続きです。

ここで12ドル(だったかな)払うともらえるパンフレットには、
ホーネットの歴史としてこう書いてあります。

「USSホーネット、CVA-12、CV-12、CVS-12は第二次世界大戦以降に作られた
24の伝説的エセックス型空母のうちのひとつです」

このCVについて少しだけ説明しておくと、航空母艦(aircraft carrier)を意味します。
まずVは何かというと、フランス語からきていて、飛ぶという動詞のvolerのVなのです。
なぜここだけフランス語なのかわかりませんが。

んじゃCはキャリアーのCだね、と思った方、残念でした。
わたしもたった今までそう思っていたのですが、これは単に「craft」のCです。

とういうわけで、ホーネットは

CVA(Attack) 攻撃空母
CVS(Submarine) 対潜水艦戦支援空母

となります。 
ついでに

CVT(Training) 訓練空母
CVL(Little) 小さな空母
CVB(Big) 大きな空母
CVN( Nuclear-powered) 原子力空母

などという区分分けがなされています。
たとえば小さな空母のひとつにCVL「サイパン」というのがあるのですが、
ほかにも「イオージマ」だの「バターン」、「フィリピンシー」などという
母艦の名前を見ると、どうもアメリカというのは「勝った場所」をこうやって
艦船の名前につけることを好む傾向にあるようで。

「パールハーバー」とか「マレー・シー」なんてのが無いのでなるほどねと思った次第です。
まあ、マレー沖はアメリカ関係ないですけど。



さて、艦内の案内に戻りましょう。
機械室の真横で寝なくてはいけないかわいそうな人もいます。



このセカンドデッキは、ほぼ全域が士官用の居住区ですが、
同じフロアに医務室もありました。
「シック・ベイ」という通称が付いていたようです。
たとえばハンガーデッキ(ここから1フロア上)は艦首から向かって三つに分けられ、
それぞれを「ハンガー・ベイ1」「2」「3」と名付けていました。
この「ベイ」というのはフネの中での「エリア」に相当する呼び方のようです。

この医務室にもいろいろな面白い話がありそうだったのですが、パンフには

「セカンドデッキと医務室について詳しいことは、
”灰色の幽霊:空母ホーネットの物語”を読んでください」

とさりげなく宣伝してありました。(多分パンフ製作者の著書)
日本からは買えないので確かめようがなかったのですが、
アマゾンの感想には

「わたしはホーネットに実際勤務していた者だが、
この本はホーネットの真実を全く伝えていない!」

と酷評している人がいました。
まあ・・・空母でたくさんの人がいたわけですし、就役も戦前戦後、
期間も長かったわけですから、すべての人が納得するような視点、
というのもなかなかないのではないかという気がします。

何かを語るときにすべてにおいて言えることですがね。


そしてここは「医務室」というより、手術室をはじめラボまで持っている、
完全な「病院」だったそうです。



医務室のドクター用デスク。
ここで問診もしたのかもしれません。

ちなみに、第二次世界大戦中、ホーネットの乗員(艦載機パイロット含む)は
250人以上が戦死しています。

ちなみに、先代は日本軍に沈められましたが、このホーネットは
神風特攻による攻撃、日本軍からの爆撃は受けたことがありません。


非常の際点灯する赤ランプが非常に低い位置にあります。

 

まるでウォークインクローゼットのような物入れが作りつけられた部屋。
全ての引き出しには鍵がかけられるようになっています。



このあたりは、一部だけ階段で上がったり下りたりできました。
艦首部分で投錨のための施設があるところです。
巨大なキャプスタンがずらりと並ぶさまは壮観です。



上の段の小さな通路は、この梯子段以外に登る階段があります。
一人しか通過できませんが、たまたまわたしがここに来たとき、
中国人の見学客がいたので下でしばらく待ちました。



何をするものか全く説明なし。





前方補助のための緊急発電機室、とあります。

 

配置についている人名と、カジュアリティステーション、つまり被害箇所を
書き込む大きなノートでした。





意外と手仕事もおおいようで、日曜大工のツールみたいなのが並べてあります。



机の上に床材を貼るセンスが何とも。





というわけで、一通り艦内の特別展示以外の部分を見てきました。
ところで、これをご覧ください。



誇らしげにハンガーデッキに飾られていたホーネットの戦歴。

何も言いますまい。
こういうのをいまだに堂々と飾っているあたりがアメリカ人です。



特に大和への魚雷と爆雷について大きく書いているところを見ると、
やはりアメリカ海軍にとっても大和と戦ったことは「名誉」だったのか・・・。



ところで、話はがらりと変わりますが、ホーネットでは最少10人から、
一人25ドルくらい出せばパーティ会場として借りることが(貸切じゃないと思うけど)でき、
子供の誕生会などで借りた場合は、クルーが艦載機のシートに登らせてくれたり、
また食べ物は持ち込まなくても別注でランチボックスやピザを注文したりできます。

7月4日の独立記念日は勿論のこと、12月31日には夕刻からダンスパーティが行われ、
例年、年越しのカウントダウンパーティなどを大々的に催しているようです。
会場は前回の写真でお見せした士官用の食堂が使われ、また、
子供・少年対象ですが、なんと「オーバーステイ体験」(お泊り)もできます。

ホーネットも商売?ですから、このように何かと理由をつけて人を集め、
施設を維持する資金を少しでも稼ぐために、イベントをしょっちゅうやるわけですが、
それにしても子供の誕生日に、軍艦でパーティをしてしまうあたりがアメリカ人・・・。

しかも、HPによると、なんと今年の4月19日には

「Saturday, April 19, 2014 –
The Anniversary of the Doolittle Raid」

があるんですってさ。
ドゥーリトル空襲記念日を「お祝い」してしまうんですねえこいつら。
無神経もここまでくると、悪気も衒いもなさすぎてもはや馬鹿に見えるレベル。

まあ、これを「おかしい」と思うわたしたち日本人の方が、もしかしたら
世界的基準から言うと「おかしい」のかもしれませんが、
ことにわたしのように考える人間から見ると

「敗戦国にさんざん自虐史観を押し付けておいて自分はこれかよ」 

みたいな苦々しさを、この国の人々に感じる部分でもあります。

さて、このホーネット、そんな感じで「ビバ・あめりか!」なイベントが
施設維持のための小銭稼ぎにしょっちゅう企画されているのですが、
ちょっと毛色の変わったところでこんなツァーがあるのです。



「東京が空襲されて子供が死んだ日」のお祝いに行きたいとは日本人としては全く思いませんが
(アメリカ人に変装できるのならどんなことをするつもりなのか見てみたいけど)
これならちょっと体験してみたくなりません?

なんと、歴史的ミステリーツァー。

夜のホーネットを、霊媒師みたいな「語り部」とともに探検し、ついでに怪談話も聴いて
ただでさえ夏でも寒いサンフランシスコでさらに寒くなってしまおうという企画です。



ホーネットの受付のところにはこのようなショップがあり、
ここに最初行った時には「ゴーストハンター」というアメリカの番組の
「ホーネット編」というDVDが売られていたのです。

二回目に来たとき買おうと思ったらそれが売れてしまっていて、
ネットで探し当てたテレビ版をダウンロードで観ようとしたら、クリックした途端、
コンジットというマルウェアに侵入されてしまい大変な目にあいました。
息子に退治してもらいながら叱られたのは懐かしい思い出。



要するにこのミステリーツァーは、そのテレビ番組ゴーストハンターみたいな調子で、
「昔ここではこんなことが」などと脅かされながら艦内を探検するのです。



幽霊はともかく、ここで一夜を過ごすというのはやってみたい気がしないでもありません。
ツァーパンフにはこんなことが書いてあります。 

こんな体験ができます!

★ 本物のクルーのベッドで寝ます
☆ クルーがかつて食事をしたところで朝ごはんを!
★ 申し込みグループ単位でツァーを行います
☆ 普段の見学では見られないところで特別なアクティビティをします
★ スリルのあるフライトシミュレーター体験付き!

料金 一人100ドル(メンバーは75ドル) 

こういうのを見ると、パンフの言うところの「パトリオティック・イベント」である
ドゥーリトル東京空襲記念日も、この幽霊ツァーも、同じノリ。
なーんも考えずに要は楽しければいいやね。って調子でやっていますね。

つい肩をすくめて両手を上に向ける、彼らがしょっちゅうやるポーズをしたくなります。

ところで、このツァーで本当に幽霊が観られるのかはわかりませんが、
わたしは広い広いこの空母の中をほとんど一人っきりで歩き回り、
暗がりやら、かつて血まみれの人が息を引き取ったかもしれない病室の寝台やら、
そこに寝て次の日、飛び立ったまま帰ってこなかったパイロットのだったかもしれない
キャンバスベッドやらを見て歩いたわけですが、取り立てて不穏な空気は感じませんでした。

どちらかというと、写真を少しでもたくさん撮ることに血道を上げていたので、
たとえ暗がりに何か潜んでいたとしてもそんなものにかまっている暇はない、
とばかりにせわしなく走り回っていたわけですが、一度だけ「え?」と思ったことがありました。



立ち入り禁止になっているこの階段を何気なく見ながら通り過ぎてすぐ、
わたしのすぐ後ろで「がちゃーん」と大変大きな音がしました。
それはここに張り巡らされている鎖が立てた音だとは思いましたが、
そのとき艦体が揺れたようにも思えず、どちらかというとその音は

わざわざ鎖を持ち上げて叩きつけたような音

だったので、はっとして二、三歩戻り、写真を撮りました。

もちろん、これには何も写っているわけではありませんが(笑)、
この手前から階下に続く鎖がこのとき猛烈に揺れていました。

いや・・・ただ、それだけだったんですけどね。




 

 

女性パイロット列伝〜ブランシュ・スコット「空飛ぶトムボーイ」

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アメリカの航空博物館をはしごして、各々女流飛行士のコーナーがあったので、
それをもとにいくつかのパイロットを取り上げてみました。

アメリア・イヤハートに始まって、映画女優になったルース・エルダー、
スタント飛行のパンチョ・バーンズ、そしてフランスの「女性将軍」ヴァレリー・アンドレ。
黒人飛行士のベッシー・コールマンや、ソ連のエース、リディア・リトヴァク。

「女性だから、美貌だから」

というカテゴリーから 抜け出して純粋にパイロットとして有名だったのが
全員というわけではありませんが、少なくとも「黎明期に逆境をはねのけて挑戦した」
という女性たちであることは確かです。


 

いずれも女優さんのような雰囲気をお持ちの美女ばかりですが、
冒頭写真を含め彼女らは有名パイロットというわけではありません。

ここベイエリアには、今でも99s、ナインティナインズという女性パイロットのための
飛行クラブがあって、奨学金で後進の育成をしたり、互いの交流を深めたりといった活動をしているのですが、
この女性たちはその99s黎明期の創設メンバーだそうです。

冒頭画像はマリアン・トレース、下二人左からアフトン・レヴェル・ルイス、そして
フィリス・ゴダード・ペンフィールドのみなさん。

もしかしたら容姿端麗であることも入会条件だったのか?と思いましたが、
そういうわけではもちろんありません。

フィリス・ゴダード・ペンフィールドは、この会の創設メンバーですが、
わたしが昨年の夏滞在していたCAのパロアルトで飛行学校を経営していたゴダードと結婚後、
そのゴダードが飛行機事故で死亡したので彼の遺志を継いで
本格的に飛行の世界に脚を踏みいれたという女性です。

しかしどうでもいいですが、このころのアメリカ女性は今と違ってスマートですね。
やっぱり食べているものが全く違ってたのかしら。


このベイサイドには小さな飛行場がそれこそあちこちにあって、自家用車のように
飛行機を所有している人が利用していますから、女性のパイロットも多いのでしょう。

冒頭画像に描いたマリアンは、このクラブにいた関係で、初めてアメリカが
旅客機運行を始めたときに客室乗務員となった最初の女性となりました。
つまり、キャビン・アテンダント第一号です。

パイロット資格を持っていながら仕事がスチュワーデス?とつい思ってしまいますが、
昔はアメリカでも敷居の高い職業でしたし、「最初の」となるとなおさらです。

今の「Kマートのレジよりはちょっとマシ」程度の、アメリカにおける
航空会社客室乗務員の地位の低さからはとても考えられませんが。


さて、というところで本日の主人公です。



”空飛ぶトムボーイ” ブランシュ・スチュアート・スコット
(1885−1970)


昔むかしの少女漫画ではこういうメガネをかけたオバサンは、かならず
「そうなんざーます」
としゃべる金持ちマダム(あるいは教育ママ)と相場が決まっていました。 

んが、このざあますマダムが若かりし日「トムボーイ」(おてんば娘)と
呼ばれていたことがあろうとは・・・・。

男子三日会わざれば括目して見よといいますが、女性は数十年もたつと
別の生き物のように雰囲気が変わってしまうものですね。
「変わった」の意味はまったくちがいますけど。

それはともかく、このブランシュ・スコット、こう見えてアメリカで
単独飛行を成し遂げた最初の、ってことは世界でも最初ですが、
女性というすごい人なんざあます。


1910年、彼女はあの、グレン・カーチス(もちろんカーチスの創業者ですよ)に
採用されて、彼の飛行グループに加わり、宣伝のためのエキジビジョン飛行を行いました。

グレン・カーチスはもともとオートバイの分野でのエンジン製作の先駆で、
そのエンジンを航空機に生かすことを思いつき、ついでに飛行機の操縦を習い、
ちゃっかり

「史上初めての飛行機免許を取ったアメリカ人」

の地位を獲得しています。
ライト兄弟の初飛行は「公認」ではなかったからですね。

ライト兄弟は不満だったでしょうが、彼らが免許を受けたのは、史上

「4番目と5番目」

だそうです。
兄と弟どちらが先だったのかまではわかりませんでしたが。

そのせいだけではもちろんありませんが、カーチスとライト兄弟の係争は
その後飛行機の開発を巡って、法廷にまで持ち込まれたりして泥沼化します。
病気で兄を失った弟のオーヴィルは、その死因を
「心労によるストレスで、これはカーティスのせいだ」などと言ったりしたそうですが、
ここでは関係ないので割愛します。


ただ、第一次世界大戦がはじまり、その後当人たちが一線から退くと、
カーチス・エアロプレーン・モーター社とライト・マーチン社は合併して、
呉越同舟会社、カーチス・ライト・コーポレーションが設立されました。

ちょっといい話ですね。そうでもないか。


さて、スコット嬢はもともとパイロットであるカーチス本人に飛行機の操縦を習っていました。
カーチスは、女性である彼女を表に出せばさぞ宣伝になると思ったのですね。

彼の読みは当たり、スコットはたちまち「トップ・セラー・パイロット」となり、
週に当時の五千ドル(50万円)稼ぐ「稼ぎ頭」となりました。 

彼女のスタントの中で最も人気のあったのが”デス・ダイブ”、死のダイブで、
4000フィート(1.2km)上空からほぼ直角にダイブして地面ぎりぎりで機首を上げるという
非常に危険な技でした。

今の性能のいい航空機と違って(それでも危険ですが)、このころはバイプレーンですからね。
”Tomboy in the air"のあだ名はだてではありません。


ブランシュ・スコットが生まれたのは1885年。
彼女の父親は特許薬を製造販売して成功した実業家で、超資産家。
つまり彼女は正真正銘お嬢様だったんざあます。

当時、車を所有できる人間はアメリカと言えどもそういなかったという時代に、
しかも免許取得年齢に達してもいないころから、彼女は
娘に甘かった(に違いない)パパに買ってもらった自家用車を乗り回していました。

当時のおぜうさまですから、当然フィニッシングスクール(花嫁学校みたいなもの)に
通ったりもしているんですが、どうも彼女は根っからの「おてんば」だったようです。

それも、その辺を乗り回すというような可愛いものではなく、ニューヨークからサンフランシスコまで、
アメリカ大陸を自動車で横断した史上二番目の女性になったといいますから、筋金入りです。


ちなみにわたくし、東から西海岸に引っ越す機会にアメリカ横断を計画しましたが、
クルマそのものに不安があったのと、時間がなく、どう考えてもスケジュールが
一日中走り続けて、それ以外は寝て食うだけの一週間の強行軍であることがわかり、
運転するのがわたし一人で、息子がまだ二歳児だったため断念しました。

今にして思えば、あのときが気力的にも年齢的にも、時間的にも
そんな無茶をする最後のチャンスだったので、残念と言えばいまだに残念に思っています。

彼女の乗った1900年当時自動車の性能と比べれば、5年落ちのカムリとはいえ
現代の車はスーパーカーみたいなものですからね。 



さて、そんな彼女が当時の「はやりもの」であるところの飛行機に目を奪われないはずがありません。
で、その辺の飛行学校ではなく、カーチス直々に操縦を習っていたわけですね。

さすがはお嬢様、きっとパパが財界のつてでカーチスに

「ああ、きみ、うちんとこのはねっ返りがねえ、
飛行機乗ってみたいと言っておるんだが、ひとつ教えてやってくれんかね」

と頼んだりした経緯でもあったのではないかと思われます。

日銭を稼ぐ必要など全くないのですから、彼女がこの後スタント稼業に飛び込んだのは、
ひとえにおてんば娘の血がスリルそのものを求めたからでしょう。



カーチスが宣伝パイロットにスカウトしたのは彼女が美人だったから?と最初思ったのですが、
これを見る限り失礼ながら富豪の令嬢にしてはもっさりしていて、
あまり・・・・・・うーん・・・・・・・・・。

アメリカで最初に飛行機を操縦した彼女ぐらいしか他に適当なのがいなかったので
カーチスとしては選択の余地がなかったのか・・・・(失礼だな)。

そのへんは、航空黎明期ゆえ女性専用のお洒落な飛行服がなかったせい、
ということにしておきましょうか。
馬子にも衣装ということですし、その逆もまた真なりってことで。



まあとにかく、当時は「女性」というだけで珍しがられ、それだけで価値があった、
そういうことにつきると思われます。(さらに失礼だな)

しかし若い時はともかく、マダムになってからの彼女って、結構美人の面影ありますよね?
それに、



アメリカの切手になったこの肖像だって、結構な美人に見えなくもありません。



さらに最近こんな画像も見つけました。
まあ、こんなものを着ていたら大抵の女性はきれいには見えますまい。

6年スタント稼業を務めて彼女はあっさりと引退しますが、その理由は、
主に世間の彼女に対する「いつ事故を起こすか」というような好奇の目、
そして航空界の女性に対する排他的な体質に嫌気がさしたためだといわれており、
その時にこんな自嘲的な言葉を残しています。

「当時航空の世界に女の居場所なんてなかったわ。
エンジニアも、メカニックも、もちろん飛行家もよ。
多くの観客はわたしの首が折れる瞬間を観るためにお金を払ってたのよ。
『飛ぶフリーク』を見るためにね」

フリーク、という言葉は訳すといろいろと問題がありそうなので、
そういう言葉狩りに与するつもりはありませんが一応そのまま記します。

裕福すぎるほど裕福な家庭に育ち、さらに人のうらやむような「玩具」を手に入れて、
彼女は空にはばたくことで、より自由になるはずだった・・・。

ところが、実際は「空を飛ぶ女」というのは、彼女がかつて花嫁学校である
「フィニッシングスクール」で教え込まれた「あるべき女性の好ましい姿」とは正反対なもの、
というのが世間の、そして航空界にいる男たちの認識で、一歩中に入ってみるとそこには
「道を踏み外した女」への好奇と揶揄、そしてなにより反発が渦巻いていることに、
お嬢さんであった彼女は初めて気づき、その育ちゆえ一層傷ついたのではなかったでしょうか。 


飛ぶことをあっさりやめた彼女は、その後脚本家として、ワーナーブラザーズや
ユニバーサルスタジオの仕事をします。
あっさりとこんな仕事に就けたのは、彼女の家の力だったもしれませんが、
むしろこれは飛行家として売った名前が実質役に立ったということかもしれません。

そして、1970年、彼女、ブランシュ・スチュアート・スコットは85歳の・・・、
おそらく本人も満足であったに違いないドラマチックな人生を閉じました。


ところで、彼女はもう一つの「初めての女性」のタイトルを持っています。

「ジェット機に乗った世界最初の女性」

というのがそれで、その初飛行は1948年。
彼女を乗せたジェット機を操縦していたのはあの!名テストパイロット、
音速を超えた男、チャック・イェーガー。

イェーガーはその際、同乗者を63歳の女性ではなく、かつてのスタントパイロットとして扱い、
遠慮なくロールや急降下を繰り返したそうです。

彼女がそのあとどんなことを言ったか、残念ながら資料には残されていないようですが、
わたしとしてはTF-80Cから地面にすっくと降り立った彼女には、メガネをかけなおしながらこう言ってほしい。

「わたしが乗っていた飛行機なんかより、ずっと安定していて退屈だったざますわ!」

 

 

 

 


猫の友情

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わたしが日本を留守にし、餌の供給が滞っていた夏の間に、
「すずめ食堂」が近隣在住のクロネコに乗っ取られた、という話をしましたが、
その後も順調に猫の侵略は続き、テーブルの上にお米を乗せておいても
スズメは全く近寄らなくなってしまいました。

一度ベランダの手すりにこわごわとまって様子を見ていましたが、
やはり猫の気配があるのか、テーブルには近寄らず。

黒さんも(いつの間にか名前つけてるし)毎日来るわけではないのですが、
長いときには一日何時間もここで休み、毛繕いなどしてくつろいでいるので、
スズメどもはいなくなりスズメの代わりに閑古鳥が鳴いていました。

誰がうまいこと言えと。

寒くなってからはとんとお見えになりませんでしたが、この黒さん、
晩秋くらいまでは定期的に来てテーブルで寝ていたようです。
わたしが家に居るときもそのスケジュールを変えるではなく、
内側でわたしが作業をしていても全く平気。

一度、テーブルで寝ているときに煮干しを出してやると喜んで食べ、
少し頭をなでさせてくれました。



それはいつものように黒さんがお見えになっているまったりしたある午前中のこと、
タイマー作動によって掃除機ルンバが作動しました。
最近このルンバを、調整に出したところ、アップデートされて帰ってきました。
帰巣本能がアップしたらしく、帰れなくなってどこかでのたれ死に、
ということがあまりなくなったのはめでたいことなのですが、
なんだか前には言わなかったようなことをペラペラとしゃべるようになって、
かすかに

「しばらく会わなかった人がうざいキャラに変わっていた」

という感じがしないでもありません。

それはともかく、このルンバが黒さんの寝ているベランダ近くを掃除し始めてすぐ、



黒さん興味しんしん。



「ほおおおお〜〜」

って感じで熱心に眺めております。



前にやってきたときにはもちろんのこと、



去っていくルンバを、眼を丸くして見送っておりました。



因みに、先日TOがマンションの総会に出て、他の住人から聞いて来たのですが、
実はこのクロネコには「1号」と「2号」がいて、
野良猫なのだけど、近隣住民が可愛がってあっちこっちで餌をもらっており、
この辺の外猫状態なのだということがわかりました。
夏に撮った写真は雌でしたが、こちらは雄なのでもしかしたら別猫かもしれません。



その後、あの大雪の日に黒い毛に粉雪を乗せた黒さんがやってきたので、
つい哀れを感じ、(自分が怪我で弱っていたせいもあったかも)
煮干しをあたえ、それからというものちょくちょくおねだりに来ました。

わたしは怪我療養中で家にこもっていたこともあって黒さんが来るとき、
家にいる確率が以前とは段違いに増えたのでいつのまにかそうなったのですが、
ある日黒さん、友達を連れてきました。



これまた毛並みのよい大きな雄の雉子猫で、黒より若い感じです。



猫が同性の友達を連れて来て「餌を分け合おうとする」ということに
すっかり感激したわたしは、この雉子にも黒さんの顔を立てて?煮干しを振る舞ったところ、



二匹でやってきては我が家のベランダのテーブルでくつろいでいくようになりました。
雄同士なのに並んで寝転び、時折相手をなめ合ったりしています。
仲良きことは美しきかなと目を細めて見ていたら、先日、

黒さんの上にまたがり、首を噛もうとする雉子を目撃してしまいました。

君たち・・・・。






 

映画「あゝ海軍」〜「江田島健児の歌」

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骨折騒ぎの文字通り骨休めとして、しばらくエントリの製作を
休んでいる間、その代わりに映画を観まくりました。
戦争映画が中心だったわけですが、その中でわたしが個人的に
特に良作だと思ったのが「南海の花束」とこの「あゝ海軍」です。

監督は「あゝ海軍兵学校」「あゝ陸軍隼戦闘隊」の村山三男。
いずれもわたし基準でいうところの「ネタ映画」カテゴリなので、
実はそんなに期待していたわけではありません。
しかし経歴を具に見たところ、この人「氷雪の門」の監督でもあるんですね。

映画というのは演出、役者、配給元、スポンサー、それこそいろんな要素が
絡み合って一つの作品を形作っていくわけですから、同じ監督の作品でも
全部が全部同じ調子というわけではないとは思っていましたが、
この映画においてもっとも成功した理由と思われるのが主役の「平田一郎」に
二代目中村吉右衛門を登用したことだと思われます。

吉右衛門の演技についてはおいおいお話ししていくとして、さっそく
映画に入りましょう。



海軍旗が翻る映像と共に、いきなり行進曲「軍艦」。
1962年頃というのは、おそらく日本映画が堂々と「軍艦」を使うことができた
最後の時代だったのではないかと思われます。

この映画は戦争映画ですが、大東亜戦争の戦史でも海軍の歴史でもなく、
平田一郎という一人の青年の海軍軍人としての成長物語。
「あゝ江田島 海軍兵学校物語」がそうであったように、戦争を題材とした
青春映画(っていまどきありませんが)と言ってもいいかと思います。



ですから、特撮にはあまり力を入れていません。(笑)



晒すわけではありませんが、当映画特撮チーム。
人間形成がテーマのメインで、だから特撮は説明程度でいいや、
というわけでもないでしょうが、見るからにお金がかかってません。
こういうのは技術以前に予算の問題が大きいと思いますので、
彼らも与えられた範囲内で精一杯やってはいると思うのですが

・・・そんなに酷いのか、と言われそうなのでこれ以上言いませんけど。



一連のこの監督の海軍ものを見ていて思うのですが、この人は
海軍なり陸軍なり、軍隊組織の「様式美」というものにこだわります。
自身がそうだったのでしょうし、やはり世の中には軍隊を一定の角度からのみ見て、
そこに美を感じる感性を持つ層が今も昔も一定数いるということをよく知ったうえで、
そういう層に向けて映画を作っていたという気がします。

この海軍短刀や指揮刀を見てその造形美、機能美に感応するか、
それともただ人殺しの道具としてしか見ることができないか。

こういう議論は突き詰めるとそういうことだと思うんですが、
人殺しの道具としか見られない人と、そのものが持つ美のみを見る人とは、
そもそも同じものを見ても「視点が違う」のですから、分かり合えるわけがないのです。

そう思いません?



さて、舞台は岩手県のある旧制中学から始まります。
当時の公立学校は軍事教練といって、陸軍からの配属将校の指導下、

各個教練、部隊教練、射撃、指揮法、陣中勤務、
手旗信号、距離測量、測図学、軍事講話、戦史

などの教科を学ぶ勅令が出されていました。
履修すれば、陸軍では幹部候補生を命ぜられる資格が得られました。



「軍事教練より中学生は勉学すべし!」

みたいなビラを作ったとして配属将校に殴られる平田一郎。
主人公なのですが、わたしはこのシーンで思わず

「え?これが主人公?」

と画面を見なおしてしまいました。
顔の下半分が妙に間延びした馬面で御世辞にも男前とは言えず、
同級生の親友、本多勇(峰岸徹之介)と比べると花のないこと。

しかし、この最初の印象が最後には正反対になっていたことを
まずわたしは告白しなければなりません。
いやー、いいですよ。中村吉衛門。
わたしは歌舞伎を知らず、さらには吉衛門を吉左衛門と勘違いしていたくらい
この人のことはさらに何も知らなかったのですが。



家が母一人子一人で貧乏な彼は、成績優秀にもかかわらず
進学問題で悩んでいました。
彼が行きたいのは一高でしたが、病弱の母は

「お前を中学に上げるための借金もあるので、
中学を出たら役場にでも努めてほしい」

などというので、家では何も言いだせません。
村の金持ちのお嬢さんの家庭教師をして、
学費の足しにしているくらいなんですから。

平田、 お嬢さんの房代がわからないところを聴いても
家庭教師のくせに

「だめですよ、そうなんでも教わっちゃ」

とかいって、まともに教えず、自分の勉強をしたり本を読んだり。
夕飯を浮かすためにおにぎりを食いまくっております。


しかし、これまでのパターンだと、房代が平田を好きになるはずです。



かたや平田の親友、本多の彼女は色気たっぷりの人妻・・・・・

ではなく、家が貧しいので奉公に出される娘、延子。

本多が陸士を受けるのは、この婚約者のためでもありました。
陸士に入れば仕送りもできるから二年待ってくれ、というのを
延子は泣いて振り切り、行ってしまいます。



ある雪の日、平田の家に本多が陸士合格の知らせを持ってやってきます。
そしてなぜか

「俺だけじゃない、お前も海軍兵学校に受かったんだ!」

え?

いつのまに兵学校を受けていたのか平田。
兵学校を受けるのに母親に内緒というのは無理だと思うがどうか。
第一、最終試験は江田島に行かないといけないのに、
どうやって全く親に知られずにそこまで事を運べたのか。



こういう詰めの甘さが村山作品の特徴ですが気にせず参ります。
素直に海兵合格を息子のために喜んでやる母ですが、
実は平田はまだ母に隠していることがあったのです。
それは。

受験したのは兵学校だけではなかったのです!

おいおい。
それはいくら村山作品でも詰めが甘すぎないかい。

そのことは後に明らかになります。





昭和9年、平田は江田島の海軍兵学校に入校しました。
昭和9年入校というと、兵学校65期に当たります。

65期は大戦開始時大尉、戦地指揮官として多くが前線に行き、
終戦時は少佐、 艦長や航空隊指揮官として戦死も多かったクラスです。



65期あたりから兵学校の倍率は20倍になり、陸士と共に
「落ちたら一高、三高」というくらいの難関になりました。

しかし平田一郎のように成績優秀でも学校に行くお金のない家庭の子弟が 
陸士海兵を受けるという例は多かったのです。 

 

兵学校生徒になった平田一郎。
何かちょっとかっこよくなってる・・・?




分隊幹事の岡野大尉(宇津井健)。
こういう、厳しいが物わかりのよさそうな父親のような教官、
という役をやらせたらこの人の右に出るものなし。

その宇津井健の訃報をこのエントリ制作中に知り、ショックを受けました。
いい俳優でしたよね。

合掌。



分隊ごとに生徒間の廊下で顔合わせをしています、
一連の兵学校の映像はすべて江田島の術科学校で撮影されています。
兵学校ものは、本当にロケに困りませんね。

この映画は、明らかに兵学校以外のシーンにも(航空本部とか)
この校舎が使われています。



はい、ここでおなじみ「恐怖の姓名申告」シーン。

「1号生徒は貴様らの兄貴であーる!」

分隊監事は父母で上級生は兄。
しかしこの兄が・・・・・。

「ただ今から出身校姓名申告をしてもらう。
貴様からだ!」

 

こわい。

「鬼の1号生徒」を絵に描いたようなこの伍長を演ずるのは
平泉征。
やはり村山三男の「あゝ」シリーズ、「陸軍隼戦闘隊」で、
愛犬のシェパードと激しく顔をなめあっていた陸軍士官です。
あのときとは打って変わって顔が怖い。

あまりご興味はないかもしれませんが個人的にかなりウケたので
平泉征の歌を一応貼っておきます。
曲はともかく、間の手にはいる「ぎょええ〜!」みたいなシャウトがいかしてます。
森下生徒役の写真もちゃんと登場しますよ。



さて、地獄の姓名申告、平田生徒の番になりました。



いつもの調子で「岩手県立岩手中学出身・・・」と言いかけると、
「聞こえん!」「やりなおーし!」の怒号の嵐。



しかし、平田、臆する様子もなくむしろ挑戦的。

「なんなんだこの馬鹿どもは・・・」

みたいな表情をありありとみせるふてぶてしさ。
この理由は後でわかります。



起床ラッパと共に兵学校の1日が始まります。
ここで流れる曲が「いかに狂風」 。



寝床上げに始まって体操にカッター。

 

生徒館内の階段は2段ずつ駆けあがらないと指導が入ります。
上級生が気に入らないと、何度でもやり直し。



そんな1秒たりとも気の休まることのない兵学校生活ですが、
養浩館でのひと時は雑談も可。

サイダーを飲みながら、片山生徒が平田にこんなことを。

「おい平田、貴様一高も受けとったのか」


ちなみにこの「片山」の名は、入校式の時に「片山伸以下何名」と
呼ばれており、彼は首位の成績で入学したという設定です。

「本当か!」

あわてて図書館の公報を見に走る平田。
・・・・ていうか、今まで確かめもしなかったのかいっ。

これで謎が解けました。
平田、一高と海兵を併願しとったのです。
上級生の叱咤もどこか薄ら笑いで眺めていられたのも、どこかで

「俺は一高に行きたいが仕方ないからここに来てるんだ」

という「所詮」意識があったものと思われます。
しかしねえ・・。



平田、分隊監事に

「わたくしは第一高等学校に合格しておりましたので
今日限り退学させていただきます」

と言いに行きます。

「は?」

呆れる岡野大尉。そりゃ呆れますわ。
一高の合格発表も兵学校と同じころあったはずだし、
そもそも入学手続しないまま4月過ぎたら、いかにのんきな時代でも
入学する意思なしと見做されて入れてもらえないよ?
しかし平田、しれっと



「(遅れても)事情を話せば大丈夫だと思います」

大丈夫かなあ。
だいたい事情ってなんですか。
先に兵学校に受かったので取りあえずそっちに行ってたって言うんですか。

「あ、それから、郷里に帰るまでこの軍服貸してください」

今どき(大正生まれ)の若者は、という明治世代の声が聞こえてきそうです。 
兵学校生徒は入校と同時に来ていた服を郷里に送ってしまいますから、
軍服以外の服を持っていないわけですが、さすがに退校後着て歩くわけにもいきますまい。

というより、平田さん、あなたが一高に行けない原因って何だったですか?
お金がないからじゃありませんでしたっけ。
いったい学費どうするつもりなんですか。



そんなわけにいくか!貴様は海軍軍人になるためにここに来て、
宣誓書に署名したのではなかったか?
と岡野大尉に一喝され、すごすごと引き下がる平田。
そりゃそうだわ、万が一やめさせてもらったとしても、学費以前に
着て帰る洋服もないような人間がどうやって東北までの運賃を捻出するのか。



「しかし・・」「くどい!」


しかし、これで済んだわけではありません。



鬼より怖い森下伍長に呼び出されます。

「分隊監事から話は聞いた!」



それに対して汚いものでも見るような眼の平田。
こういうしれっとした態度がまた殴られる原因になるんだな。
当然、何発も猛烈な修正を受けます。



切れてひりひりする唇を口惜しさと悲しさに噛みしめていたら、
なぜか見回りの森下伍長、そっと平田のベッドの布団をかけなおしてくれます。



しかも平田の寝顔をじっと見つめて、
「悪かった。しかしお前のことを思って」なオーラ全開。



寝たふりをしていた平田ですが、森下が去った後じっと宙を見据えて何事かを考え、
そして次の日から・・・



俄然やる気をだしたのでした(笑)

なんでやねん。

一高に受かった嬉しさについ我を忘れて舞い上がっていたけど、
よく考えたら俺帰るカネだってなかったっけ・・。
そもそも、一高にいく学費が出せないからここにいるんだったわ。
やべーやべー、ついうっかり忘れてたわ。

ということを今更思い出したのかもしれません。
ついでに、3年間頑張って、森下伍長のような1号になって、
4号生徒をビシビシ殴ったる!
ついでに今みたいに布団もかけて優しいとこ見せたる!
と決意したのかもしれません。



森下が呆れるほど張り切り出す平田。
なんて単純な野郎なんだ平田。

 

そして彼らの兵学校生活が語られます。
流れる音楽は「江田島健児の歌」。



柔道、剣道、棒剣術、銃剣術、そして棒倒し。



そして「まわれ!まわれ!」という怒号の中行われる
「甲板清掃」。
清掃するのが甲板でなくても甲板清掃というのが海軍流。

ちなみに現代の海上自衛隊でもこの慣習は受け継がれており、
たとえ掃除をするのが室内でも「甲板清掃」というそうです。



そして瞑想の時間。
このあいだに要領よく睡眠をとることのできる生徒もいたようですが、
とりあえず平田は真面目にやっているという設定。



「至誠に悖るなかりしか!言行に恥ずるなかりしか!」

おなじみ、「海軍五省」。
まるで「映画で観る海軍兵学校生活」です。

ところがこれに続いていきなり「日本青年の歌」が鳴り響きます。
このブログ的に最近すごく聞き覚えがあると思ったら、

 

平田が在学中、2・26事件が起こったのです。

 

この事件を扱ったのは、主人公の平田と本多が貧村の出身で、
いずれもそれゆえに軍隊に身を投じることになったことから、
彼らの中にも事件に対する深い関心が起こったということを表しています。



今の世を憂う気持ちは一緒ですが、秀才の片山は平田を諌めていわく、

「気持ちはわかるが海軍軍人は陸軍のような直接行動には出ん!」

おっと。

これは脚本家のミスですね。
2・26に先立つ5・15で犬養毅らの政治家を襲撃したのは海軍将校たちだったことを
当時の兵学校生徒が覚えていないわけがありません。

このときに彼らが厳しく罰せられなかったことから、2・26の青年将校たちには
どこか処分に対する甘い展望もあり、それが実行を速めた面もある、
という説もあるくらいなのですが・・。

いずれにしても逸る平田を片山は「冷静になれ」ととどめます。
それはいいとして、片山生徒、脚が短いのになぜ無理矢理こんなポーズを取っているのか。

 

相和12年、満州事変勃発。
いよいよ戦時突入です。



「これからの戦闘の決め手は航空だ」

と講義する岡野大尉。

「戦艦主義との兼ね合いはどうなるのでありますか」

という質問には、

「戦艦主義、つまり大砲屋は日本海海戦の大勝利の夢を追いすぎている」

おおお、当時の兵学校教官がここまで言いますか。



ここでも平田、

「満州事変を早く解決して内政に目を向けるべきでは」

などと発言して、岡野大尉から「現在の立場をわきまえて云々」
とやんわりたしなめられております。

そんなある日のこと、平田は、母が危篤であるという知らせを受けます。



すぐ帰る支度をするように言われて電報を見せられ、
ショックを受ける平田。



しかし、彼はなぜか「帰りたくありません!」と決然と言い放ちます。
同室の士官たちが顔を上げて一斉に彼を見ています。

「なぜだ」



「逢えば私情に溺れます!
わたくしは今母の子である前に海軍軍人であろうと・・!」

そんな平田を

「変わったな・・・」

と涙ぐんで見つめる岡野大尉。
もし現代の映画なら、その平田を岡野大尉が叱り飛ばし、
無理やり帰郷させて、涙のシーンを入れ込んできたと思われます。

「今から八方園に行って、故郷に向かって手を合わせてくるんだ」



実は、このせつない走り方を見て、わたしは平田が大好きになってしまいました。

歌舞伎役者が映画的演技にも才能を見せるのは、
彼らが生まれたときから「演じる」ことを宿命としてきたことを考えても
全く不思議なことでも意外でもありませんが、彼の演技というのは
セリフ回しより以前にちょっとした手の使い方とか、こういった
健気な息子の母を思う気持ちが溢れださんばかりの走り方などに、
役になりきった俳優にしかできない計算の無さがあると思います。



それからの平田は、一層兵学校での鍛錬に邁進します。

 

さすがは歌舞伎俳優、真剣の太刀裁きは見事の一言。



そして、65期生徒の卒業式がやってきました。



平田一郎、堂々のクラスヘッドとして、短剣を拝受されます。



この授与式の一連のシーケンスを見ても、彼は所作が美しく、
おそらく映画のスタッフはこの撮影に関して、吉衛門に向かって
何の演技指導も要らなかったのではないかと思われました。



ヘンデルの「見よ、勇者は帰る」の流れる中、
恩賜の短剣を受ける平田を感慨深げに見守る岡野大尉。



「立派になったなあ。
一高に行きたいと駄々をこねた男とは思えないぞ」



再び「軍艦」の流れる中、卒業生行進。
どうでもいいですが、この軍楽隊の指揮が無茶苦茶で、全然リズムが合ってません。
音は後付けだったようです。

  

見送る岡野教官。巣立っていく平田候補生。

 

そして、兵学校の「正門」から「ロングサイン」の流れる中、
卒業生、いや新候補生たちはランチに乗って艦隊勤務につきます。
この後、彼らは遠洋航海で世界を回ることになるのです。

それまでの遠洋航海は、地中海コース、アメリカコース、豪コース、
ときには世界一周コースなどもあり、期によって違いましたが、
そういった豪華な航海ができたのはせいぜい63期までで、
彼ら65期は満州事変の影響を受けて内地航海半月のあと
遠洋航海は三か月に短縮となり、中国、台湾、タイに行っただけでした。

せっかく岡野大尉が「世界を見ることだ」といったにもかかわらず、
近場になってしまって、65期の平田はさぞがっかりしたことでしょう。

もっとも、70期にもなると、遠洋航海どころかランチから直接各艦に配乗し、
中には洋上で乗り組み艦に移った候補生もいたということです。

 

ここまで見て、この平田一郎という青年の顔つきが、最初から
がらりと変わってきているのに気づきます。
岡野大尉の言う

「いい顔つきになったな」

は、映画を観ている者にとっても全く同感です。

 

しかし、中村吉衛門演じる平田一郎の変化は、これにとどまらず、
最初「馬面の間が抜けた顔の青年」と見えた平田が、
海軍精神を体現するような士官に真に変身するのは、実は映画後半なのです。


(続く) 




 

映画「あゝ海軍」〜軍歌「元寇」

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本日画像の平田一郎さんが海兵64期である、という説明ですが、
65期の間違いです。
本文より先に画像を作成するもので、適当に書いたら一年間違っていました。
訂正しようにも元画像を縮小してしまったのでできなくなりそのまま掲載します。


さて、この映画にはいわゆる「軍人俳優」、戦争映画と言えば顔を出している役者が
お馴染みの顔をそろえていますが、中村吉右衛門はご存知のように歌舞伎役者で
この映画以外で軍人役をやったという記録は見つかりませんでした。
つまりこれが吉右衛門の「唯一の戦争映画出演作」であるようです。

しかしそういう映画に出慣れて、所作もすっかり身についている他の俳優と比しても、
たとえば恩賜の短剣を卒業式で拝受する一連の動きや、敬礼、遥拝、
どの所作を取っても引けを取らないどころか傑出してそれらが板についています。

それだけでなく、主人公の平田が、海軍軍人として立志の末、戦い、そして若者を導き、
最後には再び戦場に帰っていくという時間の経過につれ、見事に

「筋金入りの海軍軍人」

と変貌していく様は、全く見事としか言うほかありません。
しかし、この起用に、実はとんでもない?裏の話があり、今回資料をみる段階で
そのことを知ってしまいました。




それについてはおいおい触れるとして、映画の続きと参ります。

遠洋航海から帰り、郷里岩手の母の墓に参った平田。
なぜか平田が昔カテキョしていた地主のお嬢様が母の看病をしたそうで、

「あの子はお国に捧げた子だから呼び寄せないように言っていました」

と言った端から彼女は

「どうして帰ってきてくださらなかったんですか!」

となぜか平田を責めます。
それをいうなら「どうして帰ってあげなかったんですか」だろ。
平田も赤の他人に実の母を看病させて挨拶一言だけというのがありえません。



という矛盾を突き出すときりがないのがこの手の映画の特徴ですので、
適度にスルーしながら参ります。

村の護国神社に参ると、そこでばったり陸軍士官となった級友の本多が。



「俺は今麻布の第三聯隊にいる。226で決起した部隊だ。
先輩将校は国賊の汚名を着せられて死んだが、俺はやるぞ!」

「気持ちはわかるがなー・・・」

いつの間にか平田、諌める側になっています。
自分がいわれたことをそっくりそのまま本多に言っているのがおかしい。



平田が赴任になるのは大村航空隊。
それはいいとして、なんなのこの模型はorz



この映画は1969年大映制作ですが、 大映はこの頃田宮次郎の解雇問題など、
スターシステムの崩壊に繋がる御家騒動で社内はごたごたしていた頃で、
正直特撮の技術などに注意を払っている場合ではなかったようです。

映画の最初に出る吉右衛門のタイトルには(東宝)と但し書きがあります。
この頃大映はやはり歌舞伎の市川雷蔵をスター俳優として戴いていたのに、
なぜ市川でなくわざわざ他の会社から吉右衛門を借りてきたのかというと・・・。

実はこのころ雷蔵は癌を発症していました。

しかし彼は大映の頼みの綱というべき立場であることを自負していたため、
かなり無理をして療養もそこそこに現場復帰しようとしたそうです。

この「あゝ海軍」の平田一郎役は、当初市川雷蔵に決まっていました。
雷蔵はこの映画で海軍士官の役を演じることに大変意欲を見せ、
すでに関係者との打ち合わせも行っていたのですが、復帰がクランクインに間に合わず、
大映はそのため代役に中村吉右衛門を立てて撮影することを決定したのです。

そのことを新聞を読んで知って以来、雷蔵は仕事の話を一切しなくなったそうです。
彼が38歳で亡くなったのは、映画公開と同じ年の1969年7月のことでした。




映画に戻りましょう。

平田の赴任した海軍省の航空本部にて。
着任早々荒木大尉から、あの鬼の伍長、
森下が飛行機事故で殉職したと知らされます。



藤巻潤。
この海軍軍令部でのシーンには戦争映画でおなじみのスターが揃います。



左・荒木大尉(本郷功次郎)右・小西中尉(川口浩)。

彼ら若手将校たちは、アメリカが石油の禁輸したことを受けて
日米開戦の危険を憂うのですが、それでも

「手を出すのは陸軍だ。陸軍を止めるのが海軍の役割だ」

などとお花畑なことを言っております。



そして平田を呼び寄せた航空本部長の井口清美。
もちろん、井上成美がモデルです。
この森雅之がシブい。

元々わたしは森雅之、大変好きな俳優のひとりなんですが、
ここで井上大将を演じてくれてもうありがとうございました!って感じです。



井上成美がモデルですから、史実通り、
三国同盟を反対する井上に推進派が文句を付けに来ております。

「アメリカと戦争になったら負けるとは何事か!
閣下がそんなお考えなら死んでもらわねばならん」

井上じゃなくて井口本部長すっくと立ち上がって、

「わたしは軍人になったときから死ぬべきときは心得ておる!」



赴任一日目、井口本部長のお供でレスに行くことになった平田。
戦争映画ではよくレスでも軍服を着ている将校が出てきますが、
実際海軍軍人はほとんどがプライベートは背広に着替えたそうです。

この映画も、ちゃんとその辺をわかっております。

井口少佐がどこかに行ってしまい、暇を持て余した平田中尉が
箸袋を飛行機に折って遊んでいると・・・



いきなりエス(芸者)登場。
「ネイビーエス」(海軍芸者)っていうんでしょうか、やたら海軍事情に詳しく、

「山本長官も上京なさってご一緒で・・・それに米内閣下も。
皆さん身辺を狙われているのにまるで平気なご様子で」

と客のことをペラペラしゃべりまくります。
それはだめだろー、客商売として。
おまけに平田までが

「米内、山本、井内・・・・三国同盟反対トリオか」

おいおい、エス相手に何を言っとるんだ君は。
映画「連合艦隊」で、呉の芸者が「ミッドウェイミッドウェイ」と歌うように言うので

「なんでレスの芸者がミッドウェイなんぞ知っとるんだ」

と海軍士官が思ったという話は実話(わたしはその当人から聞いた)ですが、
ここのネイビーエスは単に口が軽かったってことでいいですか?



とかなんとかやっていたら、トイレから出て来て手を拭きながら入ってくる人が。



はっ!と固まる平田。
山本五十六司令長官ではありませんか。



ちなみに長官の胸ポケットから出ているのは、
たった今手を拭いていたハンカチです。
ポケットチーフでトイレに行った手を拭くんじゃねー山本五十六。
おまけに

「平田中尉、女を心底モノにするのは敵を倒すより難しいぞ」

ここは女関係で色々とあった五十六をちらりと匂わせる演出。

最近の五十六映画「聯合艦隊司令長官山本五十六-太平洋戦争70年目の真実-」
(長いんだよこのタイトル)では全く触れられなかった部分です。
「反戦軍人司令長官山本五十六」というタイトルの方が相応しかったのではないか?
というくらい、あの映画に於ける五十六像は、たとえば
自衛隊の海幕長ならこういう人物もありだろうけどなあ、というような、つまり
現代基準の好ましい軍人像に置き換えられていたと思うのですが、
とくにこの手の表現では「良き父よき夫」を強調しすぎて本人が見たら

「おいこりゃあ誰のことだ」

と言うこと必至の山本五十六になってしまっています。

別に、公認の?愛人がいたことわざわざ描かなくてもいいかとは思いますが、
あまりにも聖人みたいな五十六もどうなのよ、と。



というわけで五十六去りし後、
「ふう、緊張したー」とため息をつく平田。



そこに千客万来、飛び込んで来たグラサンの怪しい男。
なんと、本多勇陸軍中尉じゃないですか。



本多を演じる峰岸徹は、この映画では「峰岸隆之介」となっています。
峰岸は末期の大映がこの前年度1968年に得た希望の星で、
ごたごたが原因で辞めた田宮次郎に代わる看板スターとして期待がかけられました。

今見てもこの映画での峰岸の扱いにそれが現れていると思いますが、
いかんせんデビューしたばかりのスターでは、映画会社の崩壊を防ぐことはできず、
(他社のような多角経営化に舵を切らなかったという理由もありますが)
二年後に大映は空前の大型倒産をすることになります。



なぜか本多は憲兵隊に追われている様子。

「陸軍の不逞の輩を捕まえに来たのですが一名足りんのであります」

この際本多が不逞の輩の一味ってことでいいですかね。
もしかして三国同盟反対派を狙う刺客だった・・・・とか?
そしてこの憲兵、ぞんざいに

「あんたは?」

「平田中尉だ」

と平田が一言いっただけで憲兵はエビのようにしゃちほこばって

「失礼いたしましたッ!」

いや、あんたたちの探しているその不逞の輩とやらも、陸士卒の中尉のはずなんですけど。



平田もですが、映画も実にいい加減で、このとき本多がなぜ追いかけられていたのか、
全く説明せずにこのときの本多の行為の理由をスルーします。

なんで陸軍士官が不逞の輩なのか、もう少しわかるように説明してくれるかな。



「おう、ここ行こうここ!」

すべてをスルーして二人が飲み歩くうち本多が立ち止まったのは、場末の待合。
ところが丁度そのとき客を見送りに出て来た女が・・、



幼なじみで本多と婚約をしていたのぶ代さんじゃないですかー。



「なんでこんなところに?」



追いつめて彼女をなじる本多。

「こんな商売しているなんて!どうして死ななかった!
こんな商売するくらいならどうして首をくくって死ななかった!」



罵られたのぶ代は、その場で三階から飛び降りて自殺してしまいます。
本多に「死ね」と言われたからですね。

合掌。



片や平田の元にはいきなり地主のお嬢様出現。

「結婚しろと親に言われているのだけど」

などと見え見えの相談をしにわざわざやってきます。
ビンボーな学生の頃はともかく、今や恩賜の短剣で出世頭の海軍さん、
お嬢様のわたしにだって十分釣り合うわよね、とばかりに
脈があるか探りに来たのですが、本多とのぶ代のことがあったばかりで、
平田は冷たーく彼女の下心を見て見ぬ振りします。

そして、昭和16年12月8日がやってきました。

 

この映画は珍しく、真珠湾攻撃のシーンを航空機ではなく、
特殊潜航艇の攻撃を特撮で描いております。
この理由は「飛行機より特撮が簡単だったから」だと思うのですがどうでしょう。

そして、実写のつなぎでトントン拍子に戦況は進み(笑)、
勝ち戦だった当初からミッドウェー海戦を経て戦局は完全に逆転するというわけです。



平田は今や飛行隊長としてラバウル戦線におります。



平田部隊の予科練出身飛行兵曹、山下(露口茂)。
後の山さんですがこの映画でも山さんです。
絵描きになりたいと思って勉強していたのですが、
それどころではないと予科練を志願したそうです。

「しかし、最近また無性に描きたくなりました。
きっと靖国神社行きが近づいているのかもしれません」



うーん。

失礼だけど絵描きになるのはこれではちょっと無理だと思う。
芸術を甘く見てはいかんよ。



「燃ゆる大空」のメロディに乗って飛行隊長の平田大尉の戦闘ぶりが。
零戦五二型に乗って、グラマンを次々叩き落としていきます。



しかし、次々とやられていく僚機。
戦死する戦友も日を追うに連れ増えてきました。



隊長の平田は本部に訴えます。
「なんとか飛行機の補充をお願いします!」



「貴様の基地は避退基地であるからして」



「空母の艦載機を引き取ってはどうでしょうか」
「空母の戦闘力を半減させる訳にいかん」
「しかし空母が狙われたら戦闘力は削がれます!
ミッドウェイがいい例です」

「とにかく飛行機が足りんのだ!」



そんな折、ジャングルの中の指揮所にひょっこり現れる旧友の本多。



驚く平田。この人たちバッティング率高杉。



なるほど、陸海軍人を戦地で会わせるためのラバウル設定ですね。
本多はガ島作戦の打ち合わせで参謀のお供をしてきたとのこと。



さっそく一夜の同窓会が持たれ、平田は旧友に海軍の潤沢な食料を振る舞います。
がっつく本多。
しかし、我に返り、しばし箸を止めて涙ぐみ、

「こんなにうまい米の飯、みんなに食べさせてやりたい・・・・」



「指揮官が力をつけなくてどうするんだ!」

平田は彼を慰め、一緒に昔よく歌った「元寇」を歌います。


【軍歌】元寇

陸軍軍楽隊長だった永井健子が明治25年に作曲したもので、
サビなしA部分だけの行進曲ですが、その時代の作曲とは考えられないくらい
明るく伸びやかなメロディは、同じ作曲者による「歩兵の本領」と並んで
陸軍軍歌の傑作だとわたしは個人的に思っております。

この映画は音楽をすべて既存の軍歌ですませています。
JASRACの取り立ては今より厳しくなかったのでしょうか。
音楽担当は、「あゝ陸軍加藤隼戦闘隊」で独特のセンスを見せてくれた大森盛太郎。
本作品では、全編軍歌を適当に当てはめるだけの簡単なお仕事なのですが、
最も重要な場面でこの曲を使うセンスは評価したいと思います。

この曲は映画冒頭、岩手の 中学生だった彼らが行軍の際歌っていたもので、
それから10余年後、岩手から遠くはなれたラバウルで二人は 
今生の別にこの同じ歌を歌うのでした。



「昼間は土に隠れて、夜斬り込むんだ。
しかしこれでもう思い残すことはない」



本多の座っていたテーブルには彼が形見に置いていった万年筆が。
このシーンにはインストで「元寇」のメロディが流れます。゜゜(´□`。)°゜。



そして、かわいい部下の山下兵曹を空戦に失う日がやってきます。



指揮官は梅本少尉(成田三樹夫)。
特務士官という設定だと思うのですが、成田三樹夫の貫禄あり過ぎ。
当時この人34歳ですからねえ。

ちなみにこのとき吉右衛門はまだ25歳。
平田を演じるにはちょうど良い年齢だと思われますが、元々のキャスティングで
もし市川雷蔵だったら38歳でこの役をやっていたことになります。
いかに「化粧で何にでも変われる」と変幻自在の役者ぶりを讃えられていても、
38歳の兵学校生徒役はいくらなんでも無理だった気がしますが・・・。



ヘアスタイルがドクター・スポックな成田三樹夫。
激しい空戦を終えて帰ってきますが、山下兵曹の行方を見失ったと報告します。



夜の滑走路、山下の帰りを待ち続ける二人。



その後山下兵曹の遺品を持って来た整備兵小松が

「8人兄弟なので私が死んでも親の面倒は誰かが見ます。
心配いりません!」

と誇らしげにいうのを聞いて思わずぶち切れる平田。
そのころ、本多の隊も全滅したらしいという話を聞いたばかりです。

「馬鹿者!戦争は生き残った者が勝ちだ!」


この映画には、海軍甲事件も登場します。



平田の航空隊がブーゲンビルに赴く山本五十六の護衛をするという設定です。
レスで会ったことを長官が覚えていてくれたので感激の平田。

ですが、日本側の暗号は

 

ので、山本長官は戦死するというおなじみの展開です。

 

山本五十六役は島田省吾。
役者の鬼のような俳優で、現役最高齢の役者として96歳になるまで演技を続け、
2005年に98歳で亡くなっています。

この山本五十六、良かったです。少なくとも最近の映画の五十六役よりずっと。



平田は銃撃で負傷しましたが、飛行機を失わせないため、
「恥を忍んで」帰還します。



しかし、むざむざ長官を死なせた自責の念から、
自決しようと銃の引き金を引いたところ、
意外な人間が彼の自殺を止めます。



小松整備兵でした。

「隊長は嘘つきです!
勝つためには生き抜くんだっていったのは隊長です!」

そりゃそうだ。
これが本当の負うた子に教えられってやつですか。

小松整備兵を演じる酒井修は大変な熱演をしていますが、この役者、
大映の他の俳優に共通の(市川雷蔵、田宮次郎、川口浩)不幸体質を受け継いだのか、
その後お薬関係で身を持ち崩し、誰かの紐な人になってしまったそうです。

合掌。(って死んでなかったらごめんなさい)


それにしても、38歳の市川雷蔵、もし癌にならずにこの映画に出ていたら、
どんな平田一郎を演じてくれたのか・・・。

出演した映画、その数159本。
中にはあたり役の「眠狂四郎」「陸軍中野学校シリーズ」などもあり、
たとえ初めてでも、吉右衛門とはまた違う海軍軍人を見せてくれたと思うのですが。

そのおかげで我々は吉右衛門の軍人役を見ることができたとはいえ、本当に残念です。



(続く)




映画「あゝ海軍」〜「同期の桜」

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この映画は二日で終えようと思っていたのですが、前回ラバウル編で
字数が二万字の制限を超してしまったので、三部にわけます。

前回、軍歌「元寇」のYouTubeを貼ってみたのですが、
この映画に最初から使われている軍歌を列記してみますと、

「行進曲 軍艦」
「元寇」
「喇叭譜 君が代」
「喇叭譜 起床」
「いかに狂風」
「江田島健児の歌」
「行進曲 軍艦」(卒業式)
「空の神兵」
「燃ゆる大空」
「さらばラバウル」
「艦隊勤務」
「同期の桜」


音楽担当の大森盛太郎が軍歌だけ使っている訳ではなく、
ところどころオリジナルのストリングスなども入れていますが、
それでもほとんどが既存の軍歌です。

しかしまあ、こんな軍歌の流れまくる映画を作れたのもこれが最後で、
しかも下手なオリジナルよりずっとこちらの方が状況を説明するのに
的確なメッセージ性を持っているのですから、良しとしましょう。

この映画ははっきりと三部に分かれていて、
「立志編」では主人公が兵学校に入学し主席で卒業するまで、 
「激闘編」は航空隊長としての激戦地ラバウルにおける戦いの様子、
そして本日お話しする最後のパートは、平田一郎が兵学校教官として江田島に戻り、
そこで校長の井口やかつての自分のような生徒、佐川と出会い、
また再び戦いに戻っていく姿が描かれます。



もう誰も身寄りがいなくなった平田ですが、母の墓参りに
郷里岩手を訪れ、そこでばったり地主の娘、とし子に会います。
とし子は、子供を連れていました。



聞けば、彼女の夫は招集され戦死してしまったとのこと。
三歳の子供がいるというのに・・・・。

この映画に出ていた男の子は、現在48歳です。
DVD再発売になって、自分の映像を見たでしょうか。

 

「なぜ結婚なさらないんですか」

追いすがるように訪ねるとし子に、平田は

「軍人はいつ死ぬか明日をも知れん命です。
生きようとする道は選べません」

と答えます。

そして、昭和18年12月、平田は兵学校教官として
江田島に着任します。



外地で戦闘により負傷した士官は、しばしば平田のように
兵学校教官としての任務に就くことがったようです。
慰労と功労の意味も兼ねてのことと思われます。



校長は、井口清美、すなわち言わずと知れた井上成美がモデルです。

「あれからわたしも第四艦隊を率いて戦ったが」

などと言っています。
山本五十六、宇垣纏、出てこないけど話だけ出た米内光政と、
歴史上の人物が実名扱いなのに、なぜか井上大将だけは
井口という仮名扱いです。

井上成美大将は、1975年まで生きていましたから、この映画の公開当時、
1969年はまだまだ元気で、観ようと思えばこの映画が観られたはずです。

もっとも井上大将は自分についての戦後の世間の関心を誰よりも嫌い、
ひっそりと隠棲の晩年を過ごしていましたから、おそらく
自分が出てきそうな戦争映画など観なかったとは思いますが、
とにかくまだご存命中ということで、映画製作側は気を遣ったのでしょう。

森雅之は決して本物と似ていないながら、なぜか出て来たとたん井上大将だとわかり、
はまり役であると思いますが、この演技のときの目が、なんと言うのか
妙に澄んだ、透明な色をしているのが気になりました。

というのはわたしがこれまで見たことのある、病気や寿命で死の近づいた人は
みんな(といってもたいした人数ではありませんが)こんな目をしていたからです。

森は1973年、この映画の4年後死没しています。



実は平田をここに呼んだのは井口校長でした。
山本元帥の護衛に失敗し、多くの部下を失った責任を感じる平田は
第一線に戻してほしいと訴えますが、井口は「だめだ」と一喝。

「これより先は混戦苦闘につき戦のできる人間が殊に必要なり。
颯爽たる嵩励戦士と共に豪突、迅強の闘士を養成下され度く願い上げ候」

山本元帥が井口の校長就任に際して出した激励の手紙を読まれては
今の平田に断ることなどできましょうか。

まさかご存じない方がいるとは思えないので特に触れていませんでしたが、
海軍甲事件の護衛に兵学校卒士官が当たっていたというのは全くの創作です。
ちなみに、このときに護衛の零戦隊の隊長だったのは予備士官であった
森崎大尉であり、6人のうち5人の隊員は戦死、一人は手首を撃ち抜かれる負傷で
内地送還となり終戦まで生き残りました。


井上成美を兵学校の校長に推したのは嶋田繁太郎海軍大臣で、
兼ねてから海軍内の懸案だった「一系問題」(兵科と機関科の教育統合)
をやればいい、というのがその推薦の理由だったそうです。

ちなみに兵学校の校長というのは連合艦隊司令長官と同等の地位にありました。



観念した平田、鬼教官となって生徒を指導する覚悟を決めます。

しかしこうしてみるとさすが兄弟、松本幸四郎そっくりですね。

「ここを戦場だと思い覚悟を決めて着いてこい!」

しょっぱなからビシビシやります宣言する平田少佐を
覚めた目で見つめる佐川生徒。(長谷川明男)

なんだか、かつての平田生徒みたいなのがいるぞ。



古鷹山か、あるいは弥山登山の訓練シーンに会わせて
「艦隊勤務」が流れます。
平田分隊監事、なんとこの急峻な山を革靴で登って監督監視。

分隊監事は生徒と一緒に棒倒しをしたり、こういった行事も
基本的には一緒にやったようです。



座学で零戦の性能について説明する平田教官。
平田が兵学校学生のときに、岡野大尉が同じ航空座学で
九五式と九六式艦上戦闘機の説明をしていたころから、
既に10年経過したという設定です。



その授業でいきなり佐川が

「現在の戦況は果たして有利に展開するのでありましょうか。
圧倒的な物量を誇る米英に信念だけで勝てるかどうか」

と質問し、教室中が騒然となります。 



「貴様何のために兵学校に入って来た」
「立派な海軍士官になるためです!」



「立派な士官になるためには貴様には欠けているものがある。
それに気づくまで走ってこおい!」

一喝されて校庭をぐるぐる走る佐川生徒。



松の木の陰から平田の教官ぶりを見守る井口校長。



カッター訓練の最中心臓が弱くて倒れた生徒にも、平田は

「これが戦場なら命はないぞ!」

と全く同情しない鬼教官ぶり。
そんなある日、平田を訪ねて一人の老婆が学校にやってきます。



ラバウルで戦死した山さんこと山下兵曹(露口茂)の母親でした。
浦辺粂子が演じています。
粂子、このとき67歳。
せいぜい20代の山下兵曹の親にしては老けすぎてませんでしょうか。

「送っていただいたノートが六助の形見になりました」
「お母さんを描いた絵がありましたね」



ああそうそう、こんなね・・・・・え・・・・・?



えええええ〜?

「妙に若いじゃないか」という平田隊長の問いに対し

「もっとばばあなんですが、思い出すのは小学校の頃の母親で」

と山下兵曹、言い訳していましたっけ。
年齢もさることながら、全く似てないんですけど。目の大きさとか。

というか、スタッフにもう少し絵のうまい人、いなかったの?
一応「画家志望」って設定なのに、これでは酷すぎる。



南支戦線で英文学の学者であった父親を亡くした佐川。
彼と話をしていて、実は佐川もかつての平田のように
実は一高に行きたかったのだということを告白されます。

佐川が兵学校に来たのは、三年以内に戦争が終わるから、その間に
英語教育が廃止されていない唯一の学校で兵学校で英語の勉強をしろと
父親に勧められた、というのがその理由でした。



アンティーク調で素敵なコーヒーセットは、駐在武官の経験のある井上校長の
ハイカラ趣味でしょうか。



砂糖抜きのコーヒーを振る舞う井口清美。
校長室に平田を呼び出した井口校長は、単刀直入に沖縄への転勤を命じます。

軍人の転勤にただ場所だけあげて、赴任先部隊を全く言わないのは
かなり不自然な気がします。

沖縄に投入された海軍兵力は艦隊と航空ですが、平田の専門である航空であれば
宇垣纏中将の第五航空艦隊が転勤先であるという設定でしょう。
しかしながら海軍の航空隊は台湾か九州(第五航空隊は九州)にあったので、
井口校長の「沖縄だ」は普通はあり得ない公示です。

ここで沖縄を強調したのは、そこが激戦地で、おそらく平田少佐はこの後
そこで死ぬのだろうと観ているものにわからせるためであろうと思われます。



「ここで生徒を教えることは君にとって前線より辛かったはずだ」



「君が教えた生徒が学校を出る頃には戦争は終わっておる。
そのとき彼らは否応なく世間の荒波に放り出される。
兵学校教育の成果が本当に表れるのはそれからじゃあるまいか」

井上成美が言ったとされるこの言葉の真意を

「それは井上を買い被りだ。そんなつもりで言ったのではないはずだ」

と主張する、他でもない兵学校出身者の意見を最近目にしました。
しかし、実際に井上自身が戦後こう言っているのを、この出身者は
知らなかったようです。

「もうその頃になると、戦争の将来がどうなるかははっきり見通しがついていました。
仮に戦争に勝ったとしても、戦後海軍に残るのは一部の者だけで、
相当数は社会に出て働かなければならない。まして敗戦の場合はなおさらです。
生徒に対し、どうしてもまとまった教育をしておくのは今の時期しかないと思ったのです。

戦争だからいって早く卒業させ、未熟のまま前線に出して戦死させるよりも、
立派に基礎教育を今のうちに行ない、戦後の復興に役立たせたいというのが私の真意でした。
しかし、当時敗戦の場合のことなど口に出して言えるものではありませんでしたし、
また言うべきことでもありません」

 

兵学校教育参考館。
ここに一人で訪れる平田少佐の姿がありました。

 

今とほとんど変わりない展示物です。
広瀬中佐の遺書、写真、



佐久間艦長の遺言。
遺書の原本は確か火事かなにかで失われたため、戦時中から
ここには写真コピーが展示されていたそうです。



平田は自分の形見を残すために恩賜の短刀をケースに収めます。



後を追って来た佐川生徒。
後ろのプラスチック製のブラインドが気になるけど(笑)まあいいや。

「分隊監事は出陣なさるのですか」

 

それには答えず、佐川に、自分も学問がしたくて兵学校に入ったことを告白し、
親友の本多の形見の万年筆を渡す平田。

「これで思う存分勉強してくれ」



最後の日曜日、平田は分隊の学生たちを自宅に呼び、
せめてもの心づくしを振る舞います。



「遠慮なくやってくれ!」



何も知らない他の生徒たちは

「おい、鬼が笑ったぞ・・・」
「どういう風の吹き回しかな」



ただ一人事情を知る佐川だけは・・・

 

そして古鷹山で「同期の桜」を合唱。

 

場面は変わり同じ歌が「軍歌行進」の隊列によって歌われています。



たたずんでそれを眺める井口校長。

 

そして平田少佐が江田島を去るときがやってきました。

 

そのとき軍歌行進の歌が「江田島健児の歌」に変わりました。
平田少佐は、井口校長と敬礼を交わします。
ただ「ありがとうございました」という感謝の言葉のみを残して。



「江田島健児の歌」が流れる中、今一度その目に焼き付けるため、
立ち止まって赤煉瓦の校舎をじっと眺めた後、
平田一郎はおそらく二度と帰らぬ戦いに向かって、歩き出すのでした。



数々の戦争映画に突っ込んできましたが、何というのかこの映画は
海軍好きの「琴線に触れる」ものを感じます。
大東亜戦争の描き方にもいろいろありますが、この映画は「あゝ海軍」というより
「あゝ海軍軍人」というべきで、海軍軍人になっていった一人の男の軌跡に焦点を合わせ、
最後までブレることのない芯のあるストーリー展開になったことが評価できます。

確かに「私」を全く捨てて戦いに身を投じる平田少佐のような海軍軍人は観念的というか、
あまりにも理想的すぎる、という反発もあるかもしれませんが、それをおいてなお
こんな軍人は実際決して少なくはなかったのかもしれない、と思わせられる映画でした。


あなたの「海軍好き度」と、この映画への好感度は、わりと一致するかもしれません。



 


 

朝霞駐屯地地上展示〜男の装備愛、女の自衛官愛

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あれは平成何年のことでしたか(遠い目)。

というくらい昔に感じるのですが、去年の秋に行われた観閲式は、
朝霞駐屯地で行われた陸自主催。
大雨の中、傘をささずに石段に座り続けた予行演習から一週間後、
こんどは暑いくらい晴れ渡った本番に参加が相成りました。

そして経過は全て割愛し、恙無く観閲式が終了した、と思って下さい。
観衆の多くはセレモニーが終わるや否や出口に移動していましたが、
わたしたち(この日はチケットをたくさん頂いたので家族で行った)は残って
まず観閲場で行われた音楽隊の演奏を鑑賞しました。



米海兵隊音楽隊。
諸般の事情で小編成の部隊しか派遣できなかったらしく、
広い会場で音があまり伝わってこなかったのが残念でした。



自衛太鼓。
わたしはこのあと武道館で音楽まつりを観たのですが、
太鼓演奏を生で観たのはこのときが初めてでした。

(ところでこの写真の左から5人目の緑の人なんですが、
こんな髪型の自衛官がいるのでしょうか。それともトラ?)



東部方面音楽隊。

しかし、この、ヘルメットと迷彩での演奏は初めて見ましたが、
なんというかものものしいものですね。
遠くから見たらファゴットが銃にしか見えませんでした(笑)
チューバは弾除けになりそうですね。



観覧席から装備品の展示フィールドに移動すると、
国土防衛作戦の武器配置図を大きな看板にして立ててありました。
ここにはこのほとんどが展示されているということです。

今日はこの日見学した装備についてお話しします。

ただし、武器オタクもとい装備ファンの方々にははなはだ申し訳ない、
常に観客が写り込んでいる写真ばかりとなりますがご容赦下さい。



除染車3型(B)

この角度から見るとただのトラックですが、化学部隊に装備され、 
2500リットルの水槽を持ち、散布ノズルを搭載。
水や除染液を散布して地域の大規模な除染に使用します。
また、水の温度を45°くらいまで加温することができます。

 

化学防護車(装輪)(B)

あ、画面左下に虹が出ている(笑)

女の子と赤ちゃん連れのお母さん。
これは間違いなく自衛隊員の家族でしょう。
パパのかっこいいところ、見られたかな?

化学防護車も化学部隊の装備で、空気の浄化装置、各種検知、測定機材などを搭載、
放射性物質や有毒がk酢の汚染地域内で防護服を使用せずに行動できます。
車両の前面には中性子遮蔽板を装備してあり、原子力災害が起こったとき、
放射線発生源の偵察をすることもできます。



93式近距離滞空誘導弾

どの装備にも必ず隊員が見張りのために一名立っています。
右腕の腕章には「装備」と書かれてあります。

この隊員をアップして初めて知ったのですが、陸自の戦闘服、
名札が右胸にあるんですね。
左にあるのが普通だと思っていたのですが、何か理由があるんでしょうか。



男たちが群がっていた89式。
 



88式対艦誘導弾

愛称はシーバスター、というそうですがその名の通り、
対艦すなわち艦船に対する防衛兵器です。
四方を海に囲まれた我が国ならではの開発で、製造は三菱重工。
日本に取って初の純国産対艦誘導弾となりました。

写真はちょうど見張りを交代したところです。

そして向こうを歩いている女性ですが、なんとパンプスにスカート着用。
陸自隊員の彼氏に会いに来たんでしょうか。
広大な駐屯地に入って出て行くだけでも大変な距離で、しかも足元は不安定。
こんな日にいくらマフラー・スカートと同色でコーディネートしたからって、
新品の7cmヒールはさぞ後半脚が痛かったと思うがどうか。

まあ、彼氏が一目でも彼女を見ることができて「かわいいな」と思えば、
一日の苦痛を耐え忍ぶ甲斐もあるというものでしょうけど・・・。

ところで彼女の足元をチェックするために画像をズームしたとき、
ついでに初めてこの車体がタイヤ部分を設置させていないことに気づきました。(笑)
対艦砲を射出する際、タイヤだと安定できないくらいの衝動があるってことなんですね。




99式自走155mm榴弾砲

防衛省は広報向けの愛称を「ロングノーズ」としています。
隊内では「SP」とか「99式15榴」などと呼んでいるそうです。

いつも思うのですが、防衛省が考えた「愛称」というのを隊員が
そのまま使用している例を見たことがありません。
あくまでも「一般向けに親しみを持ってもらおう」というものなので、
自衛隊内部的にはピンとこないんでしょうか。

ところで、この「自走式」という名称、「戦車」とはどう違うのか。
見た目の境界はわかりにくいのだけど、と思った方はいませんか?

まず、装甲のことだけに限っていうと、

「戦車」は厚い、「自走砲」は薄い

という分かりやすい違いがあります。
自走砲の中には装甲を持たないものも存在するそうで、というのも
敵に近づいて敵の戦車や対戦車ミサイルなどの向かって来る戦地を駆け回る戦車は
当然ながら分厚い装甲が必要ですが、対して自走砲は比較的離れた場所から
砲弾を無誘導で、放物線を描いて敵地に射撃するというものだからです。

ですから砲塔も戦車は360°回転するのに対し、自走砲は前方への発射に限定されます。

まあ確かにこんな鼻の長い(ロングノーズ)なやつがぐるぐる回ったりしたら
安定が悪過ぎですぐに倒れてしまうかもしれん。




 10式戦車(ヒトマルしきせんしゃ)

男たちの10式に向ける熱心さは異常(笑)
この戦車がなぜ戦車好きの男たちの熱いまなざしを浴びているのかというと、
なんといってもこれが現在の自衛隊の最新式国産主力戦車だからでしょう。

開発は陸自防衛省技術研究本部の技術開発官によって行われ、
試作・生産は主契約企業の三菱重工業が担当しました。


10式、と名付けられたのに、制式化は2009年。
2010年には報道公開が行われただけです。
「入魂式」、つまりテープカット行事が行われたのも2012年ですし。
これは、「9式」としたら「旧式」みたいに聞こえてイマイチ盛り上がらないから?
と勝手にその理由を考えてみたのですがいかがなものでしょうか。

 

注目の10式は、戦車を動かすデモンストレーションがありました。



74式戦車

74式はこのように足場を組んで、上から見られるようにしてありました。
たしかに戦車を俯瞰で見る機会など滅多にありません。
わかってるなあ陸自。

見張りに立つ隊員はキョロキョロすることは厳禁。
よってなにか気になることがあった場合もこの隊員のように目だけを動かします。



見張りの隊員は、皆さんの質問にも答えなくてはなりません。

「弾、どれくらい飛ぶの?」
「それは秘密です」

というやり取りを一日に何回も繰り返す・・・んだろうなあ。 



1月の習志野駐屯地における第一空挺団の降下始めでは、
この偵察オートバイは本人も車体も偽装してCHから出てきました。

あのときは随分小型に見えましたが、こうして見ると大きいですね。
泥よけ?に付けられた桜がワンポイント。



やっぱり郵便屋さんの配達バイクとは性能も違いそうです。
ホンダのXLR250RとカワサキのKLX250が併用されてるようですが、
これは新型のカワサキの方だと思います。

オート隊員は日頃の訓練によってアクセルターンやウィリーをマスターし、
さらに隊内の競技会で技を競うことで腕を磨き、
災害派遣で荒れ地を走行するための技術を習得するのです。

ところで、自衛隊の装備、特に被服関係の質がよろしくないのは
自他ともに認める事実ですが、特にオート隊員は可哀想で、
昔は彼らの着用ていた革製のオートバイ服は雨に対して全く抵抗力がなく、
逆に水を吸って重くなり、体を芯から冷やしたものだそうです。
これも10年以上前の話なので、被服素材が格段に科学的進歩を遂げた今、
彼らの被服ももう少しましな仕様に変更されていると信じたいですが。 


遠隔操縦観測システム

面白いものみーつけた(笑)

無人機、偵察用のドローンですね。
ドローンと言えば!

韓国軍合同参謀本部は6日、東部の江原道三陟の山中で、
墜落した無人飛行機1機を韓国軍が発見したと明らかにした。
最近発見されたものでは3機目の無人機。

というニュースがありましたね。
北朝鮮から実は何十機も偵察機が飛んで来てたのに、韓国は気づかなかったんでしょうか。
おまけにそれらは大統領府の真上まで来て写真を撮っていたという・・・。 

 

そして、この話にはオチがあって、いままで飛来し、墜落した無人機のうちある通報者は

墜落現場で日本のキヤノン製のカメラを拾ったが、
水にぬれて使用できなかったため捨て、
カメラに入っていた記録用のメモリーチップは持ち帰り、
個人的に使用したという。
 

カメラは使用できなかったため捨て、メモリーチップは持ち帰り
カメラは使用できなかったため捨て、メモリーチップは持ち帰り
カメラは使用できなかったため捨て、メモリーチップは持ち帰り



メモリーチップを持ち帰るくらいだから、全くIT関係に疎い爺さんとかじゃないよね?
このおっさん、初期化する前にどんな映像が写っていたのか見たんだろうか。
見てないんだろうな。
キヤノンのカメラももし壊れてなかったら確実にネコババしてたんだろうな。



という、斜め上の話があったばかり。
この陸自の誇る遠隔操縦観測システムならおそらく墜落することもなかったと思いますが、
それより墜落したなぞの飛行体からめぼしいものをあさる国民って・・・・。



ここにカメラが搭載されているわけですが、韓国内で回収された無人機には
キヤノン製以外にもニコン製が搭載されていたものもあったとか。

もしかしてそれって、日本で在日工作員が購入したものじゃないんですか?

北朝鮮制作の「試作機」だったということだけど、そのための資料として
こういった公開イベントのときに写真を撮りまくり、母国の技術チームに送ったのでは?
そして、根幹技術のスパイはさすがにできなかったので、無人機は回収できず
韓国国内で墜落しまくっていたってことなんじゃないでしょうか。

これはやっぱり、特定秘密保護法案の整備の正しさが証明されるような案件ですね。
そしてこの法案に必死で反対している人の素性が窺えるような気がするのはわたしだけ?


それはともかく、この観測システムは富士重工業製。
3時間飛行することができ、新システムになってからはその行動半径は
百数十キロから数百キロとしているそうです。



90式戦車(きゅうまるしきせんしゃ)

90式もやはり上部から見られるように脚場を組んでくれています。
脚場は混乱しないように必ず一方通行で通過させられます。

90式の制式は1990年の8月6日。
この日にするのに何か意味があったのかどうかは分かりませんが、
とにかく90年の制式なので90式となったようです。

冷戦下、ソ連の着陸侵攻を想定して開発されたというこの戦車、
三世代戦車のトップクラスに比肩する性能を有しているとされます。



脚場から写真を撮ってみました。
主砲は44口径120mmです。

 

ハッチ横の砲塔上面にあるのは副武装で、

12,7mm重機関銃M2

もう一つの副武装は主砲と同軸にある機関銃です。
この機関銃は人間が手動で撃つものなので、向きを変えるのも手動でしょうか。

 

90式の見張り要員に熱心に話しかけている女性。
ピンクのジャケットにレースのバレッタ、なかなかの女子力()ですが、
カメラのゴツさといい(PENTAX)、ハウンドトゥースチェックの帽子に付けられた

第一師団の部隊章といい、

関係者親族でなければよっぽど熱心な自衛隊ウォッチャー?
まあ、こんなブログをやっているわたしが今更不思議がることもありませんが(笑)
世の中には自衛隊の熱烈なファン、しかも女性が結構いるもんなんですね。

当ブログへの反応を見ても、当方が女性であるせいか、むしろ女性の方が
自衛隊愛の熱心さにかけては上ではないかという気がします。
男性は自衛隊に身内がいるわけでなければ、どちらかというとその愛は
「武器・装備」に向けられているような気がします。



87式偵察警戒車

たとえば男性はこういう写真を決して撮らないと思うんですよ。
それにしても二人の温度差あり過ぎ。
隊員さんがおかんと一緒に写真を撮ってるみたいな仏頂面で

(●⌒∇⌒●)(´・ω・`) 

なんかこんな感じにみえます。
こういう光景をあちこちで見たんだけど、いまいちわたしにはわからない趣味。
自分と自衛隊員の写真を撮って一体どうするの、っていう。


・・・ん?

上の女の人、もしかしたら本当におかん?




冒頭写真は東京地本のゆるキャラ、トウチくん。
彼の正体は翼の先のグレーでもお分かりの通り(わかんないか)ゆりかもめなんだそうです。
ゴーグルをはめたら目がはみ出るのではないかとそんなことが気になるのはわたしだけ?
でも、かわいいですよね。
まーるいお腹から不自然に出た長い脚(中の人の体型にもよるけど)がチャームポイント。
彼となら写真一緒に撮ってもよかったかも。

それこそトウチくんと一緒の写真撮って一体どうするの、って言われそうですが。



(続く)


 




朝霞駐屯地地上展示〜防衛省指定装備愛称が現場で使われていない件

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前回出し惜しみした写真、「トウチくん」の後ろ姿です。

やっぱりこういうのを着ていると中の人は足元見えないんですね。
付き添いの女性自衛官が優しく丸い胴体に回した手に配慮を感じる。

このトウチくんですが、やはり地本の回し者じゃなくてキャラクターなので、
この一体で「陸海空」の全てを体現しているそうです。
いわく、

そのしなやかな翼は「空」を!(これはわかる)
しっかりしたその脚は「陸」を!(これもなんとなくわかる)
そしてその丸いボディは「海」を!(なんでやねん)

ということなので、トウチくんはその日の出撃場所によってコスチュームを替え、
あるときは空自、あるときは海自の制服(陸自の制服バージョンもあり)に
身を包んで各自衛隊イベントに降臨するのでした。

驚いたことに東京地本はゆりかもめの雌も飼っていて、名を「さくらちゃん」といいます。
この日はサイポン(埼玉地本)とか千葉衛(千葉地本)とか、
関東一円の地本から代表選手が送り込まれていましたが、各地本一体じゃなくて一匹?
一羽?という制限があったためか、「さくらちゃん」はいませんでした。




87式偵察警戒車

建設機械、重機機の小松製作所、コマツが製作しています。
この小松製作所という会社、建設機械のシェアは日本1位、世界でも2位。
世界的トップ企業の一つと言っても差し支えないくらいの会社なのですが、
この会社のルーツを遡れば「海軍」から始まっているのをご存知でした?

もともと石川県で銅山を経営していた竹内明太郎(吉田茂の実兄)が
小松町に「小松鉄工所」を開設したのが小松製作所の始まりです。
大東亜戦争が始まってから、海軍があるとき米軍のブルドーザーを鹵獲(ろかく)し、
日本でも同じものを作るために同社に研究開発のため送られて来たのが、
ブルドーザーと小松製作所の関わりの始まりだったのだとか。 

このような因縁があるからこそ、重機機器のトップメーカーとなっても
コマツは防衛省向けに

82式指揮通信車

96式装輪装甲車

軽装甲機動車

60式自走無反動砲

施設作業車

化学防護車

NBC偵察車 

などの装備を提供しています。
関連企業を含めて退職後の幹部自衛官の天下りが多そうです。

87式偵察警戒車は防衛省の愛称「ブラックアイ」。
しかし案の定現場では「RCV」で通っているそうです。

偵察車ですからペリスコープやTVカメラは勿論、微光暗視装置を搭載し、
車体と砲塔は圧延防弾鋼板の全溶接構造となっています。

定員は偵察員2名を含む5名。



軽装甲機動車

堂々とよそ見をするな隊員(笑)

諸元については上のコマツが防衛省に納入した装備の欄を見て下さい。
愛称「ライトアーマー」。
でも部隊内での呼び名は「ラブ」。

もしかしたらあれか?
お上の付けた愛称をそのまま使うのは沽券に関わるとかそう言う問題?

陸自と言えばジープ、というイメージがあります。
東名高速で御殿場に通っていた頃、三回に一回くらい、途中のPAにオリーブドラブ色の車が
停まっていて隊員さんが休憩していたものですが、 たいていはジープでした。

最近はジープに代わってこれが配備される動きが有るというのですが
使用部隊からは

「車体が大きくて重い」
「フロントガラス中央のピラーのためドライバーの視界が悪い」
「エンジンがうるさく、振動が大きく、椅子が悪いので疲れる」
「目立つのでコンビニに行けない」

などの不満がでているそうで・・・。
もっともジープもこれまたエアコンが効かないなど、不満点がないわけではないみたいです。
軍隊の車にラグジュアリーな乗り心地を求められても、って気もしますが、
まあ、隊員の気持ちはよくわかる。
平和な日本の軍隊では戦地における実用性より日々のストレスの方が問題だってことです。


これからは高速で自衛隊の車を見かけたら温かいじゃなくて暖かい目で見守ろうっと。



なんと、アメリカ海兵隊からの装備展示もありました。
さすがは同盟国じゃ。

海兵隊と陸自?と思われるかもしれませんが、我が国のマスコミは決して報じないものの、
両者は島嶼防衛に特化して共同で演習をしたりしているんですよ。
このページを見ていただければ分かりますが、訓練風景は全員が笑顔、
実に和気藹々とした感じです。
小道具のペルシャ絨毯に中国段通も加えてもらえると助かるかな。

この展示スペースではどうやら通訳として写真の女性隊員がつきっきりでした。



装甲移動車のようです。
型番などは写真を撮り忘れました。



暇なので三人でおしゃべり。
自衛隊の装備に立っている隊員と違い、実に適当です。



中を撮ってみました。
布の袋はマットやヘルメットが結んであり、各自の持ち物のようです。
こんなの持って歩くだけで大変だ。



ここにもいた、隊員と写真を撮りたがる女性。
軍人さんの方はちゃんと相手に体を傾けているあたりがかわいい。



銃の装備展示をしていたテント。
かつて銃弾の入っていない銃を市民に持たせたというので大騒ぎしていた団体が
ありましたが、全くこんな話を聞くとどこまで日本は平和ぼけしているんだと思います。

「自衛隊」が「憲法上存在してはいけない」というところに立っているから、
つまり銃などの武器も「日本にあってはならないもの」=「悪いもの」扱いなんですね。
彼らにとって銃は人を殺すためのものでしかなく、国民をいざというときに護るものとは決して考えない。
そもそも自衛隊に対してもそういう認識でしかないのですから。

そうやってただひたすら自衛隊とその「武力」を忌み嫌い、
そのくせ自分たちが災害にあったら便利屋よろしく自衛隊が来るのが当たり前だと思っている。
中には救難活動に対しても存在が違法だとして抗議する異常な集団すらいたといいます。

たとえ「そんな人たちも助けるのが自衛隊だ」と任じていても、
たとえ吉田首相の言った「諸君は日陰者」を任じていたとしても、彼らも人間。

「どうしてここまで自衛隊に悪意を向ける連中を助けなきゃならないんだ」

というような反発が渦巻く瞬間があったとしても誰が責められましょうか。

しかし、そういう「ノイジーマイノリティ」の声だけが一見喧しい日本でも、
だからこそ自衛隊の活動を知り理解してほしいと活動を続ける人たちもいます。

そのうちの一人、元自衛隊員の佐藤正久議員が靖国神社の講演会で語っていた
東日本大震災の一つの逸話をここに書いておきます。


”そのとき自衛隊員たちによって発見された幼い我が子の亡骸を抱きかかえ、
母親は優しくこう声をかけたのだという

 「今度生まれ変わったら自衛隊に入れてもらってたくさんの人を救おうね」

そこにいて彼らを見守っていた全自衛隊員はその言葉に号泣した—”




寄り道になりましたが、先ほどの写真は89式5.56mm小銃。
こちらは9mm拳銃です。
なにやら熱心な質問者に愛想良く答える隊員。



しかし基本的に皆さんひたすら陰のようにひっそりと配備についている風情。
この9mm機関けん銃(なぜ拳を平仮名にするのかなぞ)の前の隊員も、
まるで置物のように視線も動かさずに佇んでおりました。

こんな日だからといって自衛隊に好意的な人ばかりが訪れるのでは有りません。
いつぞや「民間人に銃を持たせた」と騒いだ左翼も、やはりこういうイベントで
何か糾弾の種がないか目を皿のようにしていて見つけたんでしょうし、
自衛隊側としてはそれを何より痛感していますから、この警備の隊員たちにも
さぞかしいろんな注意がなされているのではないかと言う気がしました。

ところで、この9mm機関けん銃ですが、防衛省なんとこの愛称を一般公募しています。
自分たちがかっこいい名前をいくら考案しても
現場で使ってもらえないのに業を煮やしたのかもしれません。

防衛省が当初つけていた略称はM9。
長野県にあるミネベアという会社が製作したので「M」とつけたようですが、
一般公募で採用された愛称はというと、

M9(エムナイン)。orz

これ・・・・わざわざ一般公募する必要があったんですか?
最初から防衛省愛称「エムナイン」でよかったのでは。
それとも、お上が押し付けると現場は反発して(たぶん)意地でも別の、
「ミネベア」とか「9mm砲」とかいう名前で呼ぶであろうことを想定し、

「上からではなく、国民の皆様が決めたありがたい愛称だから、使え」

というためにわざわざ一般公募したのでしょうか。


この、「防衛省公認愛称と現場での呼称の異常な不一致問題」に
今日もおそらく国民でただ一人、エリス中尉だけが深い関心を寄せております。



このような天幕も張られていました。

これは救護活動セットで、災害派遣時の応急処置および治療のため
必要な機能を有する装備です。
後方支援連隊衛生隊等が被災地において使用します。

構成品は治療機材、収容機材、後送機材、および保管用機材。

入ってみることにしました。



必要な道具がけが人のダミーとともに展示されています。
テントの中なのに、床面も完璧に覆われているのに注目。
テントには蛍光灯を吊り下げるための金具も最初から装備されています。

 

患者掌握板、として各負傷者の状況を書くボード。

なのですが、このとき例として書かれていた情報が・・・。

階段から転落
家屋から転落
高所落下

って・・・・・、なんで皆そろって高いところから落ちてばかりなんだよ。
これはおそらく展示のための「仮定」とはいえ「火傷」とか「建物と壁に挟まれて」
などという、具体的な記述は憚られたからかもしれません。
(どんな細かいことでいちゃもんを付けて来る基地の外の人がいないとも限りませんし)
それで、どういう状況かは全くわからないけど、皆が高所から一度に落ちる災害だった、
ということにしたのではないでしょうか。

苦労かけるねえ・・・・・全く。

中でも一番下の、高所から落下した人は重篤で、開放性気胸、
つまり胸壁が損傷されて穴があき,外界の空気が胸腔内に入ったということですから、
区分「赤」、つまりトリアージでいうところの

「生命の危険が有るが 治療を施せば延命の可能性がある」

のタグをつけられています。
(ちなみに軽症から緑、黄色、赤となり死亡者は黒です)

「処置」の部分に「3辺テーピング」と書いてありますが、
開放性気胸の場合最も適切なのがこの3辺テーピングで、なにをするかというと
損傷部に四角いビニール片をあて、そのうち一辺だけを残し3辺をテーピングで塞ぐというものです。

まるで医学の教科書のお手本のような症例が書かれていて、面白かったです。



というわけで高いところから皆が落ちる大災害が起こり(笑)
搬送されて来た負傷者の皆さん。
しかも落ちたのがなんでみんな陸自の隊員なんだよ!
とツッこんではいけません。
自衛艦にひっそりと吊られている溺者訓練用の「カイジ」(エリス中尉勝手に命名)
のように、彼らはあくまでもエキストラです。

これらは後送用、あるいは負傷者保護用の担架で、オレンジ色のは

釣り上げ用運搬具

人命救助システムの万能運搬具です。
倒壊した家屋や崖崩れ、狭い場所、高所への吊り上げや高所からの懸垂降下、
凸凹な地形での搬送作業など、様々な救助現場に対応できる安全な応急担架。

その向こうが

減圧固定担架

怪我人を担架に乗せたらその下側にある下布団部分(粒状のビーズがぎっしりと入っている)
の余分な空気を抜き(抜気)し、下布団部分を怪我人の体に合わせた形状に固定する担架です。

最近お米なんかの袋はガチガチで、ハサミを入れたら「ふしゅううう」となりますが、
その反対ですね。

これはちゃんと空気を抜かないと吊上げ時に中央から「く」の字に折れてしまうそうです。


そしてえんじ色の耐圧スーツみたいなのには

ショックパンツ

岩国基地に海兵隊のホーネットドライバー、ブラッドを訊ねていったとき、
彼の「洗濯していない耐圧スーツ」を息子が着せてもらったことが有りますが、
似ているのも道理、あの耐Gスーツを医療用に改良したもので、
この「ショック」は出血性のショックを意味します。

ショック状態を起こし血圧が降下した傷病者に対し、下半身の血液を特に重要な臓器
(脳、心臓など)へ送り血圧を上昇させ様態を安定させるために用いられます。

パイロットの飛行中のブラックアウトも下半身に加圧することで
脳への血流を確保するという仕組みですね。

写真の一番向こうはちゃんと写っていませんが

全脊椎固定具

見て字の通り、脊椎を固定したまま搬送するための担架です。




自衛隊朝霞訓練場装備シリーズ、続きます。


 




 

ネイビーメダルと先任伍長

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また無駄に画像を大きくしてしまったぜ・・・。

しかしこの大きさだからこそ詳細が確認できるのです。
 我らが海上自衛隊のメダルをご覧下さい。
旧海軍時代から伝わる桜に錨の意匠は何と美しいことか。

さて、陸自の装備展示報告を一日お休みして、今日は海自のお話。



といいつついきなり余談、というか余写真です。

桜と言えば。
京都でお花見をして帰って来てから次の週、
公園に最後の桜を見に行きました。



日本の国花は桜。
海軍の軍帽前章には桜に錨が制定当初からあしらわれていました。
大正3年の通達で詳しく制定されることになったこの前章の規定は、

台地は軍帽地質に同じで、錨身は打出金色金属、錨及び横杆は金繍、
錨座は黒天鷲絨、錨座円廊(内径7寸)は金線、桜葉及び帯は金繍、
桜花(径6分)は打出銀色金属、桜蕾は銀繍

となっていました。
現在の海上自衛隊の幹部自衛官の正帽帽章とは、錨座円廊(金色輪金)の輪の形状等が
若干異なるのですが、配色はほぼ同じです。



ところでこの桜に錨のメダルですが、自衛隊の護衛艦ごとに意匠が違う
「護衛艦メダル」とでも言うもので、実はある読者の方から頂きました!

ええ、パープルハート勲章を授与された感激も覚めやらぬうちに、
このような貴重なものをわざわざ贈って下さったのです。

この桜に錨の面は、全ての護衛艦に共通のデザインで、表面には
おのおのの艦のオリジナルな意匠が施されています。
こんな風に・・・・。



おーい何のフネだかまったくわからないぞー。

と思われた方、すみません。
このメダルにはある護衛艦の刻印がされていたのですが、
分からないように加工してしまいました。

いかなる経緯でその方が手に入れたのかも説明することができません。

この護衛艦のメダルは、記念メダルといい、

 「各級指揮官、先任伍長、部隊などが他の部隊との訓練などで
交流を深めたことを記念して、また、
上級者が部下などに労を多として進呈する」 

という役割を持つ海上自衛官独特のアイテムなのです。
つまり自衛隊の中でのみ流通するものなので、防衛省内や海自基地の売店では買えません。
(買えませんよね?)

このメダルを送ってくれた方が自衛隊と訓練などで交流を深めた、
というわけでもなさそうなので、おそらく指揮官、先任伍長クラスから
特別にもらった、あるいは交流を深めてその記念に授与されたようです。

その方のお手紙にもこのメダルについては

『先任伍長が名刺代わりに持っているもので、
他艦の先任伍長とのあいさつするときに交換するものだとか』

とありました。



今一度頂いたメダルの裏側をご覧下さい。

Presented By The Command Mastar Chief

と刻印されています。
つまり先任伍長を自衛隊では「コマンドマスターチーフ」と称しているようです。
この理由は後で説明します。 


とにかくその貴重なメダルのうちのひとつを「何個か頂いたから」ということで
わざわざこのわたしに送って来てくださったわけです。

ありがたや〜。

ところで、この先任伍長という言葉。
・・・・・気になりません?

「士官という言葉がなぜ無くなってしまったのか」

と個人的な趣味丸出して愚痴かたがたこのブログで嘆いてみたところ、さすがは当ブログ読者、

「士官という言葉は海上自衛隊でも生きている」

という例をたちどころにあげていただいた、ということがありました。
伍長という言葉も旧軍の階級ないし役職なのですが、このように海自では
残されて生きているんですね。


伍長、という言葉を遡ればそれは幕末、(遡り過ぎ?)新撰組で
組長の下に置かれた役職です。
新撰組発祥というわけではなく、もっと遡れば江戸時代(もっと遡り過ぎ?)、
5人組のことを「五中」といい、その長を「伍長」としていました。
語源は中国から来ています。

その後、明治の世になって大日本帝国陸軍では、下士官の最下級をいい、
(上から曹長、軍曹、伍長の順)
海軍では正式な階級ではなく、各部隊等の先任下士官等の職名又は俗称としての
「先任伍長」という言葉が存在しました。
陸軍の伍長は英語でcorporal、コーポラルといいます。

さて、海自の先任伍長という制度ですが、実はそんなに古くありません。
海自がこの先任伍長制度を採用したのは2003年のことで、それは

「規律及び風紀の維持に係る体制を強固にするとともに
上級陸・海・空曹の活動を推進し、
部隊等の任務遂行に寄与することを目的とした制度」

として「曹士の能力活用」という名称で採択されたものです。
空自は2008年から、そして陸自は先月2014年3月から正式運用しています。

呼称はこれも各自衛隊の伝統に(空自のぞく)準ずるもので、海自は
「先任伍長」、陸自は「上級曹長」とし、空自は「準曹士先任」としています。

空自の「どっちも取り」が何だかおかしいですね。

なんだって今更、旧軍の職名まで引っ張りだして来てこの制度を決めるかというと、
アメリカ軍や諸外国の軍との交流を持った場合、相手国の最先任曹長に対する
カウンターパートナーが自衛隊も必要だから、という理由によるものだそうです。


海上自衛隊におけるこの先任伍長の任務は

規律及び風紀の維持をはじめとする海曹士の服務の指導 部隊等の団結の強化への寄与 海曹士の士気の高揚等に係る活動の推進 上記に係る事項についての各部隊間における情報交換等の推進


で、自衛艦等、各部隊に置かれる海曹から選ばれた者が先任伍長になります。 
海自はこれを制定するにあたって米海軍の「マスターチーフ・プログラム」
を参考にしました。 

いただいたメダルの裏側、本来なら伍長の英訳はcorporalであるはずですが、
「コマンド・マスターチーフ」となっているのは、このアメリカの階級「マスターチーフ」
に準じているのですね。


海軍では伝統的に上級への意見具申は大いに歓迎とされていたところですが、
この先任伍長に負わされた役目の一つに「指揮官への意見具申」などもあり、
部隊の融和団結がそれによって期されるところですが、もともと本家のアメリカでは
この制度、

「徴兵制で士気が低く、反乱を起こしかねない水兵を監視する役目」

として生まれたといわれています。
我らが自衛隊には(徴兵という前提からして)ありえないことですが、
まあもともとはそういう「小隊ごとの看守のような役目」であったということです。

先任伍長には、責任感、統率力を始め知識、技能、統率力、そして分かるような気がしますが
「表現力」に優れた者が選ばれるのだそうです。
その護衛艦の先任伍長が誰であるかは、舷門から入ってすぐのところに艦長、副官とともに
顔写真がばーんと飾ってあるはずですから、すぐわかります。


この制度もメリットデメリットがあり、メリットとしては、たとえば
防大や一般大学の若い幹部を年配の曹が階級制度とは関わり無く意見具申できるため、
昔のような兵学校絶対の上下関係ではなくなり組織の柔軟性が期待されるという建前、
デメリットは、例えば定年退職間際になった先任伍長が組織のためとはいえわざわざ
意見具申などするだろうかということがあげられます。

ただ現状は(わたしも中の人間でないので本当のところは分かりませんが)
若い尉官は年配の上級曹に頭が上がらずペコペコしているという話もあり、
そういった士官が曹士を指導出来ないからといって先任伍長を置くのは
本末転倒であるとの意見も中にはあるということです。




さて、送っていただいたプレゼントの話に戻ります。
その包みの中には、

 

護衛艦ピンズや



護衛艦蒔絵シールも入っていました。
何も描かれていない、あるいは入っていないように見えますが、
これは写真ソフトで加工してこれも護衛艦名がわからないようにしたためです。

・・・・こんなの写真にわざわざ載せる意味ないですね。

こちらはもしかしたらその方がわざわざ購入されたのかもしれません。
こんどの自衛隊イベントにはこのバッジをつけていきますので、
もし見かけたら声をかけて下さいね!
(でもこれではつけていてもわからないか・・・)


さて、わたしがその出元を明らかにできないメダルの写真をわざわざ載せたのには
ちょっとばかりわけがあります。
実は、わたくしこのメダルを他にももっているのです。



またもや無駄に大きくてすみません。
これは、昨年海兵隊基地に行ったときに、ホーネット(レガシー)のパイロット、
ブラッドがおみやげにくれたメダルです。

護衛艦では前述のように交換されているということですが、それでは
アメリカ軍ではどのようなときに交わされるのでしょうか。



大きくてすみ(略)

実はこのときブラッドに教えてもらったのですが、
米軍の軍人は軍人同士会ったとき、掌にこのメダルを持っていて、
その手で握手をし、相手にプレゼントするのだそうです。

そして、ここからはブラッドではなくTOがどこからか聞いて来たのですが、
またその同じ軍人と会ったときに、もらったメダルを
また再び握手の際に掌に仕込み、また会えたことを喜ぶのだとか。

握手によるメダルプレゼントは相手が一般人であっても行われますが、
このときブラッドはこのメダルを二枚、普通にはい、とくれました。

せっかくなんだから握手で渡してくれよ・・・。

さあ、そしてわたしの海軍メダルコレクション、最後です。



これ!

まるでラスボスのようなオーラを持つこのメダル。
頂いた護衛艦メダルよりも一回り大きく、見ていただければお分かりでしょうが、
おそろしく細工が凝っています。
これは幹部学校長の某海将に、幹部学校訪問見学のときに頂いたものです。

昔から兵学校校長、海軍大学校長は艦隊司令に相当し、
この幹部学校というのは旧軍の海軍大学に相当するので、メダルもその分
大きくて手が込んでいるということのようです。

海上自衛隊の肩につける階級章は、海将補以上は金糸に銀糸の刺繍が施された
大変美しいものですが、銀糸刺繍の部分は、やはり「桜と錨」。
錨の下に、海幕長4個、海将3個、海将補2個の桜模様があります。

このメダルに見える三輪の桜は、学校長の階級である海将を表しています。



裏面のこの護衛艦は・・・・・・・

とボケてみましたが、これはどう見ても常識的に考えて咸臨丸ですね。

咸臨丸は1857年(安政4年)江戸幕府が海軍創建のためオランダから購入した船です。
1860年(安政7年)、日米修好通商条約批准遣米使節一行の随行艦として、
勝海舟艦長の指揮下わが国としては初めて太平洋を横断した記念すべき汽船です。(幹部学校HPより)

幹部学校には海軍軍人の揮毫や写真、絵画彫塑などの歴史的資料が保存されており、
そのうちいくつかの書を当ブログでも揮毫者と共に紹介させていただきましたが、 
この咸臨丸の絵画も勢古宗昭画伯から寄贈されたものから図案を取っているようです。



光ってしまってよくわかりませんがこの絵です。

メダルはこの「咸臨 航来」という絵画の咸臨丸が揚げている
日の丸の紅が鮮やかにそこだけ色付けがなされています。

咸臨丸の上に書かれた文字は「忠勇仁信知 」。
勿論孔子の「論語」からの五文字で

忠 (まごころ)

勇 (決断力) 仁 (思いやりの心)

信 (嘘をつかない、約束を守る) 智 (洞察力、物ごとを判断する力)


とあります。
幹部学校のモットーでしょうか。
ご存知のように論語にはあと4つ、「義」「礼」「謙」「寛」があります。



護衛艦同士や自衛官同士で交わされるメダルも、握手のたなごころに忍ばせ
相手に贈るメダルも、昔からの海の男同士の慣習からきた儀礼に違いありません。

一般人のわたしにはメダルを再び握手に交えるようなドラマチックな機会はありませんが、
もしできうるならばそのうちこれらをペンダントにでも仕立てて、
いつになるかはわからないまでも、再会のチャンスを待ってみようかと思っています。



ところで。

幹部学校の英語名が

JAPAN NAVAL WAR COLLEGE

だったって、皆さんご存知でした?



 

 

護衛艦カレーナンバーワングランプリin横須賀〜「自衛隊で海軍カレー」

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海自と言えばカレー、カレーと言えば海自。

伝統墨守、動脈硬化がキャッチフレーズ(ちょっと違う?)の日本国海上自衛隊が
帝国海軍の伝統を最も濃く受け継いだ 事柄の一つと思われるのが「カレー」へのこだわり。

「金曜日はカレー曜日」

というとあるカレーの宣伝は、もはやこの海自の習慣が一般にも膾炙し、
それを当たり前のこととして国民が受け入れているという現象の証左と言えます。

「海軍カレー発祥の地」から、いつの間にか「海軍」という名を取り去り、
「カレーの町」と名乗って海自からお株を奪った町、横須賀の「町おこし」と、
自衛隊への国民の関心と親しみを持ってもらうイベントを兼ねたこのカレーグランプリ。

実はこの「護衛艦カレーグランプリ」、今年で二回目です。

第一回目は佐世保だったそうです。
町おこしがどうのというのなら、佐世保はカレーじゃなくてバーガーだろ!
とつい突っ込んでしまうのですが、このイベントは海自主催で、たまたま今回
それがカレーの町横須賀で行われただけのことのようです。


ということは、来年は呉で再来年は舞鶴で行う、という具合なんでしょうか。



わたしがこのイベントをどうやって知ったのかというと、ネット上で

「自衛隊でカレーグランプリイベントがあるぞ!」

という投稿型スレッドが立てられたのを見つけたからです。
ふと思ったんですが、こういう宣伝スレってもしかしたら「中の人」が立てるのかもしれません。
前日にもだめ押しのようにお知らせのスレッド(自衛隊の広報ページが貼ってある)を見ました。

本当にインターネットというのは今や広告媒体として広告業を介するより
よっぽど確実で効果も絶大、しかもタダという、発信側には無くてはならない方法ですね。

地本のHPなんかを見ると、制作者があきらかに「ネット用語」を駆使しているし、
組織でか個人でかはわかりませんが、自衛隊も実はネットに
「斥候を送り込んでいる」
というのは間違いないことのように思われます。



さて、わたしは8時頃車で現地近くに到着しました。
以前横須賀基地の見学をしたときに駐車したところが
8時30分にオープンすることを調べておいたので、駐車場の前で
車を停めて開くのを待ち、それから列に加わりました。

そのときにはここ、ヴェルニー公園の端っこくらいのところまで
入場を待つ人の列が伸びていました。
右側が並んでいる列、左側はJR横須賀駅から列に加わるために歩く人たち。
自衛隊の入り口はどちらかというと横須賀駅に近いのに、
列がどんどん伸びていくので最後尾まで戻ろうとする人は大変です。

わたしの前にいた女性の2人組は、インターネットでプリントアウトした
参加護衛艦のカレーの中から自分たちの食べたいものを付箋に書いて、
ファイルに貼って持って来ているという準備の良さ。

うーん、みんなカレーが好きなんだなあ。

わたしの後ろの、カーキのジャンパーに自衛隊イベントで買ったバッジや
ワッペン?をたくさん貼っていた年配の男性は、道往く人に

「これ、何のために皆並んでるんですか?」

と聞かれて、

「自衛隊で海軍カレーを食べさせてくれるんですよ」

とさらっと答えていました。
やっぱり年配の方には「海軍カレー」のイメージなんですね。
聞いた方も同じような年代の男性で、

「ほーそうなんですか」

と普通に納得していましたが。



8時半から開門の9時までは同じ場所で30分立ち続け、
9時過ぎたら列が動き出しました。
やっと米軍駆逐艦の見える場所まで来ました。



そういえばこんなものを見学したこともあったわね。
戦艦「長門」の碑。



横須賀駅前で集合して来たとおぼしき「地本集団」がきました。
地本を通じてイベント参加を決めた「入隊予定者」かもしれません。

カレーを食べるのには普通に並ぶ列以外に「特別」の入り口がありましたから、
彼らはきっと優待待遇で待たずに食べられたのではないでしょうか。



噴水の広場まで来ました。
前にここには「カーティス・ウィルバー」と「ラッセン」が泊まっていたのですが、
今日は「フィッツジェラルド」(62)と「ステサム」(63)です。
ステサムは以前別のところに係留されていましたから、
特に係留する岸壁は決まっていないんですね。

ただ、ここには駆逐艦を泊める、ということだけ決められているようです。

ところで、この駆逐艦の横にはいつもなら海自の潜水艦が泊まっているのですが、
今日は二隻とも姿が見えませんでした。
会場内で近くにいたカップルが

「今日は潜水艦が見られたから良かった」

と会話していたので、おそらくこのとき訓練で港湾内を潜行していたようです。



わたしは潜水艦は見られませんでしたが、その代わり、
作業艇が航行するのを見かけました。
そして、画像を大きくしてどこの作業艇かチェックしてみたら・・・・



「ふ ゆ づ き」 でした!

舳先に立っている隊員が遠目にもかっこいいではありませぬか。
それにしても、何たるご縁か。
わたしは、あなた方が自衛艦引渡式とそれに続く自衛艦旗授与式の後、
三井造船の岸壁を出航していく瞬間に立ち会っているのよ。
その節は雨に降られて大変でしたねえ。

てな感じで、自衛艦として巣立っていく様子を見たせいで、
すっかり親近感を持ってしまっているわたし。
作業艇がいるってことは、「ふゆづき」はいま横須賀に寄港しているってことよね?




ここで列を振り返ってみました。
最後尾はもう全く見えず、周りの人たちの話によると、
もうすでに列は横断歩道の向こう側まで伸びているとのこと。
8時半から並びだしてこれだもの。

「あまり早くに並んで、朝からカレーを食べるはめになるのはちょっと」

などとちょっとでも考えたわたしが間違っていました。
 


ようやく入り口の看板が見えて来たときには、並びだして
すでに40分くらいが経過していました。
でも、これはまだ早く入れた方であったことが後で分かります。

敷地内に入ると、金属チェックと手荷物検査があります。
ゲートをくぐったとたんにまた列に並ぶわけですが、
列は折り畳まれたように荷物検査場の前でダンゴのようにになっています。

「うぜー」

並んで列を作り何かを待つということが何よりも嫌いなエリス中尉、
カレーのテントが見えもしないのにびっしりと人が並んでいるのを見て
早くも意気沮喪してしまいました。

「運営の手際が悪い」

などと、近くの人が愚痴っていましたが、そう言うことじゃないでしょ。
おそらく、海自の方もこんなに人が詰めかけるとは想定外だったと思います。
日頃缶詰くらいしか食べる機会のない護衛艦レシピのカレーを、
あれこれ食べ比べてお一人さまわずか500円。
これはおそらく材料費ぐらいの意味しかなかったと思うのですが、
わたしが思うにこれが安すぎたんじゃないかな。
1000円くらいにすれば、もう少し人が減らせたんじゃないかと思うんですが。

え?その値段だとまるで自衛隊が商売してるみたいじゃないか、って?

あなたは、この日ここに詰めかけて結局何も食べられなかった人の
めまいするくらい長い人の列を見ていないからそんなことが言えるんです。
昼前にすでに場内では「カレーはなくなりました」と言われていたのに、
まだカレーを食べるつもりの人が入って来ていたんですよ?


さて、わたしが敷地内で荷物検査を終えたのは10時前というところです。
停泊している護衛艦の甲板を望遠レンズで撮ったところ、



結構見学している人がいるではないの。

今だからこれだけ空いているけど、時間が経てば経つほど
カレーを食べ終わった人々が護衛艦見学になだれ込み(だってほかに見るものないし)
大変な混雑になるか、あるいは乗艦制限されてしまうかもしれません。

「決めた」

もうカレーはいいや(笑)
カレーはいくら写真に撮っても味が皆さんにお伝えできるわけじゃないし、
最悪食べられなくてもいいから、先に護衛艦見学をしよう。

「すみません、カレーじゃなくて護衛艦見学したいんですが」

列の近くにいた自衛官にこう声をかけてみると、ご丁寧にも
「こちらへどうぞ」
と列から外に誘導してくれ、

「ここをまっすぐ行くと(って、まっすぐ行くしかないんですが)、
『あしがら』と、左の奥に『こんごう』が泊まっていて見学ができます」

とさらにご丁寧に教えてくれました。
あごをしゃくって無愛想に

「あっち行って」

などという態度の悪い隊員はここには一人もいません。
当たり前か。
今や銀行やデパートの新人研修で自衛隊に体験入隊、というくらいですからね。
接客にかけては民間とはもはや基礎が違うのだよ、基礎が。


その理由は、元陸幕長もおっしゃっていたけど、基本的な「下から目線」の姿勢
 ・・・・・かな?



というわけで、まだがらがらの「あしがら」(シャレのつもりではありませんでした)に、
己の脳内でのみ鳴り響くサイドパイプに迎えられ、足取りも軽くエリス中尉は乗艦したのであった。
 

続く。

ところでエリス中尉はカレーを食べることができるのか。

 


 


 

護衛艦カレーナンバーワングランプリin横須賀〜「あしがら」乗組員の敬礼

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土曜日のカレーグランプリイベントの記事を少し検索すると、

「【悲報】横須賀のカレーフェスタに参加する方へ
最後尾が遂に横須賀中央駅に通じる大通りまで伸びました。
カレーはもうあきらめて下さい。
この分だとあと30分ほどで横須賀中央駅まで列が延びます」

などというツィッターが昨日は飛び交っていた模様。
その人の多さは「自衛隊も予想できなかったのではないか」
という わたしの想像通りだったようで、何でも警備の人が

「近隣からの苦情が来ています!」

とインカムで叫んでいたという話も。

この異常現象の理由は、どうやら世のカレー好きが

「海自+横須賀」

のコンボに沸き立ったことと、何と言っても

「艦隊これくしょん」

のブームが過熱化しているということにあると思われます。



ヴェルニー公園横のスターバックス裏に停まっていた車。
今日は「こんごう」の艦船見学もできたからねえ。
他府県からわざわざ自艦でこの日乗り付けた提督の気持ちはわかるよ。

この手のものが今人気であるというのは、自分自身のブログエントリが
「艦これ」関係スレッドに挙がったときの異常な閲覧数からも実感しましたが、
それを「痛車」にしてしまうというこのオーナーは筋金入り。

並んでいる列の周囲からは

「そのときに東郷元帥がさ」

とか

「島風と雪風じゃあどうのこうの」

などという戦後70年経った今日、平成生まれの若者のとは思えない会話が
しょっちゅう聞こえていましたし(笑)



このとき時間は9時半。
向こうにある青いテントがカレーの屋台です。
まだこのころはフェンス沿いに一列だけしか人が並んでいないことに注目。
わたしが帰るころにはこの列は5列くらいになって仕切られた通路を
行ったり来たりという状態になっていました。



そんな人たちに、各護衛艦の宣伝隊が出動して自艦のカレーをアピールします。
はたかぜのカレー、「はたカレー」(しゃれのつもり?)は、豚肉入り。
絵心のある隊員がポスターに東郷元帥みたいなのを描いたようですが、
神風型駆逐艦「旗風」は大正13年の起工ですから確かに伝統はあります。



コンテストは、500円でライスと周りに4種類のカレーが入れられるトレイが貰えるので、
それに自分の好みのカレーを4種類だけ入れてもらって味比べという形式。

4種類の一つに選んでもらわないことには票も入りませんからこうやって宣伝しているのです。



中には一緒に記念写真を撮る人も。
楽しそうで結構です。



しかしわたしはカレーに拘らっている場合ではないのです。

人があまりいないうちに艦船見学をしてしまわねば。



ほら、「あしがら」の乗組員たちも今なら暇そうだし(笑)



というわけで、昨日も書きましたが「あしがら」に乗艦。
脳内ではわたしだけに聴こえるサイドパイプの音色が(略)



因みに人が少なくて注目が乗艦者に集まっていたため、自衛艦旗への敬礼は遠慮しました。

右の方のカメラマンにはラッタルを降りたところで写真を撮られてました(笑)



「あしがら」の舷門からカレーに並ぶ列を望む。
この列を見てげんなりしていたわたしですが、何度も言うように
こんなのはまだまだ序の口だったんですね。



というわけで艦内見学です。
入ってすぐ右側にMk32短魚雷発射管が。
わたしも最初は知らなかったので一応説明しておくと、この短魚雷管は、
発射時にはぐるりと旋回してちゃんと海の方を向きます。
軍運用のものは「兵士が操作する」ということを前提にして、
手動の部分が多いのかもしれないと以前書いたことがあるのですが、
この旋回もまた乗組員が手動で行うのだそうです。



Mk.32は三連装型。
手すり柵には緑の安全ネットが貼ってありますが、これはむろんのこと
今日の一般公開のために対策したものです。
小さい子もたくさん乗ってきますし、親がちゃんと見ていないで何かあっても
責められるのはおそらく自衛隊ですから、念には念を入れて安全対策を行います。

3のついた魚雷に赤いリボンが結んでありますが、これもぶつからないように
安全対策として巻かれたリボン。



躓き防止に、床にある鎖をつけるリングにも赤いリボン。



到底ぶつかりそうにないようなところにまで結んでありました。



「責められるのは自衛隊」で思い出しましたが、プレジャーボートと「おおすみ」との衝突事件、
全くその後の報道が無くなりましたね。
ということはプレジャーボートが悪かった、って考えていいのかなー?



右側の先がカレーのテント。
画面右上に見えている白いテントが手荷物検査ゲート。
左上にも列が見えていますが、ここはすでに自衛隊敷地内です。
左手に地面に書かれた文字は航空機へのメッセージで

WELCOME YOKOSUKA

と書かれています。

 

通路で見つけた溺者救助用人形と救助用担架。
シャッターが甘くて顔がはっきり写せませんでした。
この日見た「こんごう」の人形も顔がありましたし、常日頃から海自艦艇が
「顔のある救援」を心がけていることがこんなことからも窺い知れます。

この人形に名前がついているのかどうか聞いてみましたが、
「名前はない」とのことでした。



巨大な艦船用のホース。
歩いている自衛官と大きさを比較してみて下さい。

そして、海の向こう側の塀沿いに見える人の列・・・。



このころ、カレーの列はまだ場内でも一列でした。
右側の誰もいない通路が「あしがら」見学用です。



チャフランチャーは4基持っています。

Mk.36SRBOCシステム
のうちのフレアー発射機はMk.137という型番がついています。
ご存じない方のために書いておくと、これは「デコイ」で撹乱用なので、
「兵装」ではなく「電子装置」に分類されます。



これを見るといつもチョコレートバーを思い出す、VLS、垂直発射装置。
対空ミサイルとアスロックミサイルが発射可能です。

アスロックミサイルは遠方の潜水艦を攻撃するためのものですが、
魚雷本体をロケットでまず近距離まで飛ばし、パラシュートで海中に落下した後は

潜水艦の後を追いかけていってヒットする

という・・・・・何それこわい。



VLSの向こうには年配の婦人と妙齢のお嬢様(眼鏡付)とが若い士官をつかまえて
何事かを熱心に質問なさっています。
まさかお見合い?
この幹部さんの様子を見ても、知り合いであることは間違いないように思うのですが。



「あしがら」は「あたご」型の2番艦。
20mm機関砲ファランクス・CIWSは2門装備してあり、このように
艦橋の真正面に設置されています。

 

なんというか、こういうところに鎮座しているCIWSは有り難みが増しますね。
ご本尊という感じで思わず「はは〜」と手を合わせてしまいそうです。



いつぞやホーネット博物館で見たトムキャットの積んでいた航空魚雷に
「レイセオン」と書かれていましたが、このファランクスCIWSもレイセオン製です。
レイセオン社はボストンにあり、州内の企業の中でも大規模で著名な会社の一つ。

「ファランクス」という名前がもうすでに中2病な響きなんですが、
「重装歩兵による陣形」 を意味する古代ギリシア語です。
実際にも中2だったぜ。 




写真を大きくしたのはこの20mm弾のベルトをお見せしたかったから。
何しろ1分間に3,000〜4,500発の発射が選択式で可能、
毎秒50〜75発ですから、おそらく発射時には銃弾を肉眼で確認することも無理。
このベルトも自動車の車輪並みの速さで回っていくのでしょう。



これは「あしがら」の兵装ではなく、隣に停泊していた「ちょうかい」の
オトーメララ127mm砲。
護衛艦は三隻並んで停泊しており、一番向こうは「くらま」でした。 

 

その「ちょうかい」の乗組員が和気あいあいと群衆を見物するの図。



こちらは「あしがら」警備の水兵さん。
風が強く寒い日だったのですが、特に甲板では
このようにセーラー服の襟がめくれてしまうほどでした。



風向計が絵になってます。
それにしても細いケーブルが多いですが、全て電線でしょうか。



「あしがら」は「あたご型」の2番艦で、搭載しているのは

Mk 45 5インチ砲。

5インチというのは127mmですから、直径13センチ弱の砲弾が1分間に16〜20発発射されます。



ちゃんと実物も展示されていました。



火を噴く砲身。
これは名称がやたら長いですが、愛称はないんでしょうか。

ところでこの説明にある

米国が開発中の新型爆薬(ERGM、ICM)を発射可能な唯一の

という一文が気になるなあ。

砲員は6名で作業にあたるそうです。



いかにも手で空けることができそうな小さなハッチが背面についていました。
近くに自衛官がいたので聞いてみたところ、これは内部清掃点検用だそうです。
発砲するたびに砲身の内部は摩耗するので状態をチェックし、
摩耗の度合いに応じて部品を交換する必要があるのだとか。

 謎のプレート「X」発見。



というわけで、甲板を後にします。
一人で来て写真を撮りまくるという物好きな女性も最近は珍しくないと思いますが、
やはりわたしの場合熱心度合いがあだになったのか、警備の隊員に見られてます(笑)

中国の女スパイを疑われたのかもしれん。



たしかに兵装を写真に収める人はいくらでもいるけど、
手すりから手だけ出してこんな写真を撮る人もあまりいないかと・・。

護衛艦が並列で停泊するときに間に挟む浮き。
もう少し小さなフネと並べるとき用の小さな浮きも内部にありました。



右舷側のチャフランチャーと扉二つ。
扉に付けられた防水・気密のためのレバーの数が凄い。



二つ向こうに泊まっている「くらま」の主砲、(っていうのかな)

Mk42 5インチ砲。

ここに停泊している「あしがら」始め、「くらま」も「ちょうかい」も
カレーグランプリ参加艦なのでここにいるわけですが、
「あしがら」はフルーツ入りビーフカレー、「ちょうかい」は特製シーフードカレー、
そして「くらま」は

「内閣総理大臣喫食カレー」!

2012年観艦式で総理大臣が食べたカレーというのを売り物にしているようです。
しかしながらわたしの記憶に間違いがなければその総理大臣というのは
民主党の野田佳彦ではありませんでしたでしょうか。

なんだ、野田か。

というか、観艦式でカレーなど食べていたのねあの泥鰌男は。

いやまあ民主党時代のことを無かったことにせよとまではいいませんが、
それをカレーのキャッチフレーズにするのはいかがなものか。
ちなみに「野田カレー」はビーフカレーだそうです。



最後に「ちょうかい」の甲板の日の丸に(心の中で)敬礼し、
甲板を後にしました。

このあと通路で熱心に掃除用のほうきを眺めていたら、

「何か気になることでもありますか」

と警備の自衛官に声をかけられてしまいました。
どうやらまたも不審がられたようです。

通路では「あしがら」グッズの販売もありました。
先日お話しした「先任伍長メダル」のようなものを売っています。

「売店ではこれは決して売っていない」

とエントリで言い切った以上、その真偽を確かめるために
裏側をチェックしたのですが、「マスターチーフ」の刻印はなし。
念のため販売している自衛官に

「これは先任伍長が持っているものとは別ですか」

と聞くと、一般用ですという返事でした。

 

「あしがら」はこのSSMを2基装備しています。



隣の「ちょうかい」の舷門には見張りが立っていました。
自衛官が行き来するので通行止めにはしていませんが、今日は公開していないためです。
わたしが通りかかったとき目を離した隙にラッタルを渡ってしまった見学者がいたらしく、
追い返されてきていました(笑)



隊司令旗が揚がっています。
編成上1等海佐をもつて充てることとされている隊司令について掲揚される旗で、
代将旗との違いは切れ込みがあるかどうかです。



後甲板に出ました。
173はこの後見学予定の「こんごう」、177は「あたご」です。

「こんごう」のカレーはチキンカレー、「あたご」は「普段のビーフカレー」(笑)
自然体で勝負というところでしょうか。
艦ナンバー102は「はるさめ」。
「はるさめ」の出品は「チキンスープカレー」。なんか技出して来た〜。

いわく

「他の肉類よりカロリー控えめの鶏肉を使い」!

「多めのバターでタマネギを炒め」・・・

カロリーを下げたいのか上げたいのかどっちだ。



そのときヘリの音がしたので上空を見ると、どうみてもOH−1が。
ただし塗装が赤白青のトリコロール。
近くにいた隊員にあれは何かと聞いてみると、

「報道ヘリですね。カレーグランプリの行列を空から撮っているんでしょう」

とのこと。OH−1って民間利用されていたのか。
それにしてもこの日のこのイベントの人の多さは報道になるくらいだったのね。

そういえばこのときTBSのカメラマンを見たけど、自衛隊のイベントをあの局が報道したのでしょうか。

 

「あたご」型はヘリコプターを搭載するための格納庫があるので、
離着艦のための管制用ブースがあります。
内部はクーラーも効くのだと思うけど、夏はなかなか辛そうですね。
ここにも足元注意用のリボンがつけられておめかし。



自衛官の正帽が外に置いてありました。
まあ、日本だから盗られることはないと思うけど・・。



ここで事件発生。
おそらく早くに来てすでにカレーを食べ終わり見学していた家族の、
小学生の女の子が甲板で戻してしまいました。

そのことが近くの自衛官に伝えられたとたん彼らは即座に状況開始。
それがマニュアルで決まっているかのように行動に無駄がありませんでした。

一人が女の子に駆け寄り、父親と一緒に背中をさすっている間に、
もう一人が走って折りたたみ式のチェアを取りにいき、
女の子をその場で椅子に座らせて、あれこれと気遣っている間にも、
どこから現れたのかもう一人がお掃除のセットを持ってやってきて、
汚物に掃除用の紙をまぶし、あっという間に床をきれいにしてしまいます。



わたしは近くにいて彼らがその「第一報」を受けたときの表情を
目撃したのですが、一人が「あっ」と一言言っただけで後は顔色一つ買えず
全員が無駄な動きももなく全てを迅速に運ぶ様子は見事というばかり。

家族に対しても非常に気を遣う様子が見て取れましたし、
何と言っても「不承不承」とか「事務的に」という雰囲気は全く無く、
「優しさ」という言葉しかそこからは窺えないくらいあまりにも爽やかな対応。



いざというときに全く行動にためらいがない、こんなところも
日頃最悪の状況を想定して訓練を恒常的に行っている集団の胆の落ち着き方というか、
底力の「氷山の一角」を見たようで、わたしは心から感心してしまったのです。

そして、続いてこんなことがありました。



わたしが「あしがら」を降りるとき、車いすで訪れていた参加者が退出するため、
 家族を先に降ろし、車いすに乗せたままの人をラッタルに乗せて、
二人の自衛官が慎重に、慎重に、ゆっくりと降ろす作業を始めました。


その作業の間、ラッタルは通行止めになり、ちょうど降りようとしていた客は
随分長い間皆でその作業を見守ることになりました。

ようやく車いすが無事埠頭に降り、ラッタルが通れるようになった後、
舷門の両側に立った二人の自衛官たちは、待たせたことに対するお詫びの意味だったのか、
そこにいた全員が降りてしまうまで、ずっと不動で敬礼をし続けていたのです。


(続く)








護衛艦カレーナンバーワングランプリin横須賀〜MDDG1.74「ちびしま」の本気

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さて。

何回もお伝えしているように先週末19日に横須賀地方総監部で行われた

「第二回護衛艦カレーナンバーワングランプリ」

は、その異常なくらいの人出がツィッターで報告され、ニュースになるくらい
注目のイベントとなったことは大変喜ばしいことです。
それもこれも「自衛隊カレー」の認知度と、昨今の「艦これ」の人気が相まっての結果。

わたしは朝からいたので「カレーが無くなった瞬間」を目の当たりにしたのですが、

「今から並んでも食べられない可能性があります」

と場内の列が声をかけられていたのは11時30分。

「カレーは無くなりました」

とその30m後ろの列集団が宣告を受けていたのは11時35分。

3時までの開催で「無くなり次第終了」という断りは最初からあったものの、
人の多さと当日の晴天で予想より早く無くなってしまったようでした。


しかし当日カレーを食べようとおもって来たもののその目的を失い、
しかしまあせっかく来たのだからあるものを見学していこう、ということで

生まれて初めて護衛艦の中を見た

という、自衛隊広報に取っては大歓迎の来場者は多かったのではないでしょうか。


わたしは最初からカレーを食べること自体目的ではなく、むしろ常日頃
一般市民と自衛隊の関係性についてこういったブログでお話ししている立場から、
これらの事象を観察することができさえすればそれで目的は果たせたとしています。


それにしてもこの日、わたしが「来て良かった!」と心から思ったのは、 
「あしがら」見学を終え、「こんごう」に向かって岸壁を歩いていく途中で
噂のあの護衛艦を見ることができたときでした。



護衛艦「ちびしま」(JS CHIBISHINA,  MDDG-1.74)

後ろに停泊しているのはDDG−177の「こんごう」ですが、こんごう型2番艦である
DDG−174「きりしま」の1/10番艦がこの「ちびしま」です。 
旧海軍には同名艦が存在しなかったため、これが初代「ちびしま」となります。 
ここで「ちびしま」のスペックを延々と紹介。
「ちびしま」も本気ですが、説明も本気でやります。
 

 
「ちびしま」は、中期防衛力広報計画に基づく0.72トン型護衛艦として、
海上自衛隊横須賀地方総監部の施設科のどこかの倉庫内で起工し、少なくとも
2006年以降に就役した後に横須賀地方総幹部広報に配属された海自の護衛艦である。

定係港は横須賀。

横須賀のサマーフェスタや観艦式、イベントには必ず一般公開される超人気護衛艦で、
その攻撃力はイベントごとに見る者のハートを確実に撃ち抜き、広報活動における
費用対効果の絶大なことにかけてはおそらく自衛隊一の優良艦であろうと言われている。

所属は「きりしま」が第4護衛隊群第8護衛隊(司令部:呉)であることから、
おそらく「ちびしま」もそうであろうと思われる。




ボートダビットに設置されている11cm作業艇。
作業艇の艦首には「ちびしま」と文字が入っている。
「あたご」型は作業艇を2隻搭載しているが、「ちびしま」は
1隻のみなので、「01」「02」などの艦番号は入っていない。

舵輪が艦尾近くにあり、推進のためのスクリューシャフトがないが、
これはガードで保護されているため見えないのだと思われる。



Mk15Mod2 高性能20mm多銃身機関砲CIWS

「ちびしま」には前後に2基搭載されている。



Mk. 32 3連装短魚雷発射管

型式はHOS−303と呼ばれ、Hは発射管、Oは水上艇用、Sは短魚雷、
そして300番台は3連装を示す。

3本の発射管が俵状に組まれているが、この形は本来
狭い艦上スペースでの搭載運用を可能にするためのものである。

しかし「ちびしま」の場合、艦の大きさに比して発射管の占める面積が広くなり、
おそらくこの通路を乗組員が通行することもできないと思われる。

さらに突っ込むと、発射管の右手に救助用の浮き輪が見られるが、
もしこの浮き輪を使用することができるような人体のサイズであれば
おそらくこの魚雷を操作することは物理的に不可能であろう。



艦上に乗組員の姿が見えているが、この人相風体は、
当方が防衛省のさる筋から得た情報によると

ピクルス王子とパセリちゃん

であると思われる。
共に海上自衛隊の夏服に身を包んでいる。だが待ってほしい。
これも防衛省からの情報によると、この二人は実は日本人ではない。
ピクルス王子は

パプリカ王国の王子であり自衛隊に留学している身分

であり、パセリちゃんというのも

ピクルス王子のガールフレンドで将来の王妃

だと言うのである。
王子の留学に国費でガールフレンドを随伴させるというパプリカ王国の姿勢にも
疑問を感じずにはいられないが、我々日本人に取って看過できないのは、
外国人留学生とその正式な妻でもない女性が我が護衛艦に乗っているという事実である。

ピクルス王子が先鋭護衛艦である「ちびしま」のイージスシステムやその他軍機を
パプリカ王国海軍情報部に流出させていないと一体誰が言えるだろうか。

パセリちゃんも、もしかしたら王子のガールフレンドとは隠れ蓑で、
もしかしたらハニートラップ要員であるという可能性もある。

国際交流も結構だが、平和ぼけの防衛省にはこの点一考を促すものである。



左舷に装備されている自動膨張式筏。
ここには6基収められている。
「きりしま」は両舷にこの筏を持つが、「ちびしま」は片減のみで、
これは積載人員が極端に少ないためであろうと考えられる。



艦橋部分。
前面にもCIWS装備。
イージス艦であるので、艦橋周辺に4基のAN/SPY-1フェーズドアレイレーダーを配置する。
イージスシステムの主たるセンサーとして機能し、最大探知距離は500 km、
同時に追尾できる目標数は200以上と言われているが、ミサイル防衛作戦の際には、
レーダーのエネルギーを集中させ走査することで、
1,000km以上の最大探知距離を実現するとされている。

CIWSの上部に見えるレーダー状のものは、何か分からない。



オトー・メララ 127 mm 砲(Oto Melara 127mm gun)

wikiにはオート・メラーラと表記してあるが、現役の自衛官によると
「オトー・メララ」と発音しているらしい。
わりとどうでもいい話だが、なぜ食い違っているのかは謎。
イタリア人にはどちらも通じると思うがどうか。

自衛隊では「ちびしま」の「こんごう」型、「たかなみ」型が搭載している。



向こうにある「こんごう」と画像が混ざって非常に分かりにくいが、
艦橋の上部構造物である。
丸い円盤のような部分はOPX−11 IFFで、敵味方識別装置である。
つまり、友達か(friend)敵かを(foe)認識する(identify)のである。
この「friend or foe」は、「敵味方」という軍事用語に属するもので、
決して不真面目に付けられた略語ではない。

「ちびしま」はその愛らしさを主兵器としている構造上、実質敵が存在しない。
従ってこのIFFにかかっては全てのものは「友達」と認識されるという特質を持つ。 

 

縮尺の関係上、オトー・メララの砲身は大変太く、
これがもしそのままの アスペクト比であれば、「ちびしま」の主砲は
46サンチ砲くらいに相当する。

艦首旗竿は予算の関係で省略。

首錨はシャンクと呼ばれる錨の上部をホースパイプに引き込んだ状態で
収納してあるので、「ちびしま」は現在投錨中ではなく航行中、あるいは
これから出航すると思われる。

艦番号は1. 74。

「こんごう」型は全長161m、全幅21mである。
「ちびしま」はそのおよそ1/100スケールなので、この艦番号となったと考えられる。



艦尾部分。
後甲板には艦載ヘリが間違って着艦してしまわないよう、 
 「 .74 」の表示があり、注意を喚起している。

アス比の関係でやたら巨大に見えるものが両舷に装備されているが、
これはスクリューガードである。
喫水線下でスクリューは艦の全幅からはみ出すため、
接岸時に岸壁に接触することがないようにガードを設けているのである。

「ちびしま」は、少なくとも一度、大掛かりな改造を施されている。
竣工当時、左舷側には階段が設けられ、床上20センチくらいの部分に
お立ち台があってそこで写真を撮るという構造になっていたのである。

ところが、海上自衛隊広報の読みが甘く、体重の軽いお子様たちや、
赤ちゃんを抱いたお母樣方だけではなく、家でパソコンばかりして
ろくに外にも出ず体重の増えるがままのオタクが、こんなときだけは自宅から出て来て

「ちびしま、萌えー」

とばかりに入れ替わり立ち替わり写真を撮ったりするのですぐに床が傷み、
横浜地方総監部補修科は、たちまち修理補修に追われることとなった。

その莫大な手間と修理費用に悲鳴を上げた海上自衛隊は、
「体重80キロ以上のおっさん乗艦禁止」
という規制を設けようとしたのであるが、「ちびしま」の、広報活動という
任務を鑑みた場合、差別をすることは本末転倒であるという結論に達し、
「ちびしま」に乗るシステムそのものを廃止することを涙ながらに決定したのである。 

(護衛艦「ちびしま」より)文責エリス中尉 
 



「ちびしま」の横には神奈川地本のテントがあり、ここではお子様向けに
制服を着て写真を撮るコーナーが設けられていました。



このように、後ろに撮影用の書き割りまで用意されて。



そして、この後ろで自衛官のコスプレをしたお子様が立ち、
親ばかが写真を撮るというシステムです。
「ちびしま」で撮れるとなればきっと皆そちらに行ってしまいますから、
海自の苦渋の選択(だったかどうかは知りませんが)は妥当だったかもしれません。



「おじちゃん。僕、上手に押せるよ♪」

誰だこのネームを考えたのは。
おじちゃんって、誰?



「しらせ」が持って帰った南極の石。
昭和基地の周りで採取された石で、およそ5〜10億年前に生成されたものです。
よく見ると、ガーネットや鉄を含んでいて、日本では見ることができない
貴重な石なのだそうです。

ペンギンが可愛い。
こまめに「萌え攻撃」を仕掛けて来るなあ日本国自衛隊というのは。



比較的年配の女性自衛官が説明していました。
彼女の前にあるのは「しらせ」の持って帰った南極の氷。



大きな氷の固まりが少しずつ溶けていっていたのですが、
自衛官に言われて氷に耳を近づけると、「プチプチ」と
はじけるような音がします。
これは氷が生成したときの、つまり1億年前の空気がはじけ、
1億年ぶりに大気に混じる音だという話でした。



このときはこの地本コーナーも暇だったため、係の自衛官も
向こうから近寄って来て説明をしてくれたりしました。

「どうぞ、模型も見ていって下さい!」

熱心に言われてつい熱心に写真を撮ってしまうわたし。
これは「ひゅうが」ですね。



「ひゅうが」と並べてなぜかカレーの模型が・・(笑)

この日、「ひゅうが」はドックに入っていて参加していませんでした。
それでせめてもの「模型によるカレー展示」でしょうか。

その代わりというか、大規模な演習前のため「いせ」が来ていて、
艦内で各艦上級幹部の会議などはここで行われたり、
自衛官が宿泊したりしていたそうです。



ちゃんと艦艇作業用?ベスト、猫耳付きヘルメット着用のネコ。



P3−C。

と何も考えずに書いたら、瞬時にして2つ訂正コメントが来ました。

P−1です。P−1。



1/200スケールの「ずいりゅう」。



「あしがら」「ちょうかい」「くらま」の自衛艦旗がきれいに
この日の風になびいています。
この日の横須賀はこのころは晴れていましたが、風が冷たく、
薄着をしていった人は震え上がるくらいの寒さでした。



カレーの列に並ぶ人々の横を、宣伝隊がうろうろ。
「おおなみ」のかれーは「プレミアムカレー」。



「くらま」の宣伝隊。
キャッチフレーズは「総理大臣喫食カレー」です。

へー、でも野田でしょ?

などと、前回書いてしまったのですが、何とわたしはたった今
この宣伝隊の写真によってそれが間違いだったことを知ってしまいました。

後ろの隊員が持っているカレーと、そして自衛艦旗のポスター。
これを拡大してみたら、旭日旗の上にはこう書かれているではありませんか!

「内閣総理大臣 安倍晋三

平成18年10月29日」


失 礼 し ま し た 〜 !

いやいや、野田さんではなく、第一次安倍内閣のときの観艦式だったのね。
道理でわざわざ「総理大臣喫食カレー」なんて名前をつけたわけだ。

「民主党の総理大臣喫食カレーなんて名前をつけて思い出させるんじゃない」

などと勝手に思い込んで不愉快になったりして、ごめんね。
それにしても、どうしてこのような誤解を招く名前を付けるのか。
「安倍総理喫食カレー」では自衛官の「政治に関与せず」との「服務の宣誓」に
コードが引っかかるからかしら。


こうやって宣伝隊が安倍ちゃんのサインを皆に見せて、わたしのような
早とちりをした人の誤解を解いたせいか、「くらま」カレーは見事銀賞を射止めたそうです。

おめでとうございます。



カレーの宣伝隊ばかりではなく、防火隊も出動。
カメラを向けると、見えやすいように幟を向けてくれました。

走り回っているせいか、こんな格好でも全く寒くないようです。
若いって素晴らしい。



彼女もカメラを向けたら「羽ばたきのポーズ」を決めてくれました。


「チキンカレー」の宣伝をしていたのは「こんごう」です。
この女性自衛官はこの偽装?がツィッターで拡散され、

「可愛い」「癒された「体張っているな」「おつかれさまです」

などとつぶやかれて人気でした。
しかし誰ひとり突っ込まなかった彼女の、いや、おそらく海上自衛隊の壮大な
「釣り」に、釣りと知りながらわたしはあえて釣られてみるのですが、


ニワトリに水かきはない。



続く。
 



 

護衛艦カレーナンバーワングランプリin横須賀〜「こんごう」乗艦

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護衛艦「あしがら」に続き、護衛艦「ちびしま」を見学したわたしは
続いて「こんごう」に向かいました。
冒頭画像は「こんごう」で遭遇した「巡回」の腕章を巻いた自衛官。
インカムに両足に巻いたベルト(銃ホルダー?)がかっこいいっす。
写真を撮らせてもらったあと、心に感じたままに

「かっこいい!」

と口にしたところ、さわやかに

「ありがとうございます!」

とお礼が返ってきました。
最近独身のときには照れ、恥じらい、相手に勘違いされないかというためらいから
まず言えなかったこの手の褒め言葉が遠慮なく口を突いて出て来るようになりました。

これも一種の成熟、いや老成?・・・もしかしたら単にあつかましくなっただけ?



ところでこの日、わたしは当初自衛隊の中に知り合いがいる方から

「一般公開以外の艦に乗せてもらうかもしれないので、ご一緒しませんか?」 

とお誘いを受けていました。
そういう「特別扱い」が大好きな(笑)わたし、この願ってもないお申し出を
二つ返事でお受けしたいのはやまやまでしたが、涙をのんでお断りしました。

というのも、いつもは

「自衛隊イベント?ふーん、一人で行ってきたら?」

という態度の家族が、「カレー食べ比べ」と聞いたとたん文字通り食いついて来て、
家族で行く予定になっていたからでした。

ところが前々日になってわたしが確認すると、TOは

「あ、手帳見たらその日なんちゃらクラブの親睦旅行入ってたわ」

じゃ息子と二人か、と思ったところ、前日になって

「カレー食べたいけど並ぶんだったらパス」


 「・・・・・」  (ー_ー#)


そんなことなら最初から行かないと言ってくれてると助かったかな。



さて、というわけで「こんごう」に乗艦するところからです。



なんだか今風ではない、温泉旅館の屋号のような看板が。
「こんごう」はこんごう型の1番艦で、就役は1993年、もう11年前ですから、
そのときに作った看板が古びて貫禄がついてきたのでしょう。

旧海軍の「金剛」は初代、二代目とも英国に発注されたものですから、
戦後になって建造されたこの三代目が、初の国産「こんごう」となりました。

因みに初代「金剛」は、1890年、日本で座礁したあのエルトゥールル号の
生存者を乗せてトルコのイスタンブールに「比叡」とともに航海をしています。



舷門で乗艦者をお迎えする乗組員たち。
ちょっとこの敬礼をしている士官と下士官をアップにしてみます。



右が幹部、左が海曹なのですが、海曹が首から下げているものに注目。
これは

サイドパイプ

ではありませんか!
こんなときにも万が一偉い人(隊司令以上)が乗って来た場合、
舷門送迎の「ほーひーほー」をやらなくてはいけないからですね。



以前、サイドパイプについて書いたときに、このYouTubeを
紹介したことがありますが、この映像に対し、

「サイドパイプは地本の偉い人に対して吹かれたのではないか」

というコメントを頂きました。
この機会に訂正させていただきますと、サイドパイプは

海上自衛官と総理大臣、防衛大臣等将官に相当する政務官にたいしてのみ

吹鳴されるものなので、たとえ陸上幕僚長が乗って来るようなことがあっても
その対象ではないため吹かれることはありません。

このときは掃海艇「のとじま」に、地本の公用車の支援を得て帰還した、
第41掃海隊司令に対して吹鳴されたとのことです。



さて、「こんごう」の上甲板です。



休憩中、カレーの列を眺めながらたそがれる「あたご」乗組員。



甲板は少しずつ人が増えて来ています。
かつて「ちびしま」に乗って修繕科に悲鳴を上げさせたに違いない人もいます。
(前エントリ『護衛艦ちびしま』参照)



左の隊員のいでたちは作業艇に乗るための装備でしょうか。

それにしてもこのグレーのエアベストとヘルメット、
付けている人のスタイルがいいせいか妙にかっこ良く見えますね。

首回りが防護されているので乗馬の安全ベストにも使えそうだなあ。
まあ、わたしがやったような手首の骨折は全く防げませんけど。



先日、謎の文字「X」について書いたところ、

「艦内閉鎖記号といい、合戦準備すなわち哨戒配備になると
これの書かれたハッチは常時閉鎖となる」

とさっそく読者の方に教えていただきました。
続いて今度は「Y」が発見されました。

先般の謎の「X」の文字の下には

(整) 射撃

(閉) 同上

という表記がされていました。
射撃、つまり合戦準備のときに閉じる、という意味でしょう。

それではこの謎の「Y」は?



むむっ。機密の匂いがする。

おそらくこのドアも「X」と同じく「何か」のときに「閉じる」わけですが、
その「何か」を表す部分ににわざわざシールを貼られている・・・・。
しかも、ドアに2カ所ある「Y」はどちらも同じ部分が隠されています。

ここに一般国民の目から隠さねばならない重要な言葉が書いてあったのでは?

・・・・・考え過ぎ?



思いっきりアオリでオトーメララを撮ってみました。

この艦載速射砲システムは、砲塔内は無人ですが、下部(つまり下の階)に、
揚弾ホイスト専用の給弾員が最低2名は必要なのだそうです。
弾込めを今日でも人力でやってしまっているってことですね。
1分間に45発も、こんなかんじのが



(これは「あしがら」の5インチ砲の砲弾で、大きさはこのオートメララと同じ)
発射されるんじゃ、弾の補給も大変ではあるまいか。

と思ったらやっぱり、

「最大発射速度で発砲する場合、8名が配置される」

ということです。
前回この画像を挙げたときには気がつかなかったのですが、
この右側の金色のは薬莢なんですね。

薬莢はこの砲身下部の排出口より排出されます。



多足類みたいにこのまま動き出しそうに見えるのはわたしだけでしょうか。



オートメララの解説ビデオ。
英語ですが、図解が分かりやすいのでぜひ見てみて下さい。
発射のとき

「チンクエ、シンコ、クヮトロ、トレ、ドゥエ、ウノ、フォーコ!」

で発射しているのがイタリアンな感じです。って皆イタリアンですが。
「フォーコ」は音楽用語でも「コンフォーコ」(火を持って、激しく)
というのがありますが、これは英語の「ファイアー!」に相当します。

しかしなんかイタリア語の号令って、しゃきっとしませんなあ。
これがドイツ語なら

「ジックス、フュンフ、フィア、ドライ、ツヴァイ、アインス、フォイヤー!」

うん、かこいい。
じゃーフランス語は?

「シス、サンク、キャトル、トロワ、ドゥ、アン、フュー!」

 うーん全然だめー。



「こんごう」の横に係留されていた「あたご」の5インチ砲。
「あしがら」は「あたご型」の2番艦ですので、同じです。



さらにその向こう。
実はこの艦名を確かめるのを忘れたのですが、このタイプ
(おそらくコンパット・オトーメララ76mm)を搭載しているのは
「あさぎり」型か「むらさめ」型(等)なので、きっと

「はるさめ」か「むらさめ」か「あまぎり」のどれか

だと思います。全然特定できてませんけど。



アスロックの向こうに私用(かどうかはわかりませんが)電話する幹部発見。
携帯電話での通話は特に禁じられてないんですね。



カレーの列を眺めながらたそがれる隊員その2。



「こんごう」は、艦橋の窓に海将補旗を貼っていました。

「当該職にある指揮官たる将官が乗艦する際にマストに掲揚したり」

ということになっているので、海将補がこの日乗艦していたのでしょうか。


冒頭写真の隊員と同じ制服だと思われます。
こういうとき熱心に質問をしているのは年配の男性が多いですね。



子供を座らせて記念写真。



「こんごう」の甲板から下を見ると、このときにはすでに列が
三重くらいになっていました。
ここを三回往復するということでいいですか?



会場にはカレーの匂いが立ちこめています。
しかしいろんな意味でこのイベントは、今の日本のひとつの象徴だと思いました。

軍港に、このあとの大規模訓練が真の目的とはいえ集まった軍艦が、
艦の威信をかけてカレーの人気コンテストに腕を競い合い、
さらに国民は大挙して押し寄せ、しかし混乱もなく整然と、列を作って
1時間も2時間も、実に楽しそうに一皿のカレーのために並んで待つ。

このような現象を全て満たすイベントが行われている国が世界のどこかに存在するなら
きっとその国は平和なのに違いない、と誰もが思うでしょう。

この列を眺めながら、そんな日本に生まれたことを感謝したわたしでした。



さきほど見学した「あしがら」の隣の「ちょうかい」。
停泊中作業艇は降ろしておくんですね。



お約束、隣の艦との間を写真に撮って・・。



展開式の救助筏。
これは乗組員に聞いたところ「水に落ちれば展開する」とのことでした。
先般の韓国でのフェリー船事故で、展開したボートが2つか3つしかなく、
そのうち一つは船長が乗って脱出したというのは、我々日本人に取ってショックな事実でした。

見知らぬ誰かを救うために、自分の脱出を遅らせてその結果亡くなった、
あのTー33のパイロットたちの話に、防大の卒業式であらためて首相が触れたように、
わたしたちはそういった自己犠牲を尊いと思い、彼らのようにできるかどうかはともかく、
自分の与えられた任務を全うすることを当然という教育を受けて来ています。

ですから、自分たちの退路を確保するために300人もの乗客を足止めし、
船内に閉じ込めたまま、自分たちのためだけに救命ボートを展開して逃げた韓国人たちに

「やはり我々とは根本的な何かが違う」

と薄ら寒い不快感を感じた日本人は多かったのではないでしょうか。

全く同じ日に隣の国で起きていたこの地獄図のような事故と、対照的な、
あまりに対照的なカレーの列を見て、わたしはまたもこの言葉を思い浮かべました。

「日本人に生まれて来てよかった」





暗い通路で画像がぶれてしまいました。
「ミズヲカケルナ」となぜかカタカナで書いてあります。
担架かな?



イメージフォト「護衛艦の朝」。

朝起きたらまず体操、それから掃除を行います。
ここに用具がきちんと整理整頓されて収納してあります。

少し分かりにくいですが、左のボンベは窒素で、
オイル火災のときの消火用です。



通路を出ると、隣の艦の舷門をラッタルでつないだ部分が見えてきます。
おとなりは「あたご」。
長いラッタル用だけでなく、接続ラッタル用の小さな艦名幕もちゃんとあります。



舷門がつながっているからといって入っていけると思う人が
後を絶たないので、常時二人が見張りに立っています。



そこで左上を見ると、ハープーンミサイルが。
写真を撮り忘れたので『あしがら』の90式対艦誘導弾SSM−1Bの写真をどうぞ。



公開用の説明板はどの護衛艦も用意してありますが、
「ハープーン」のロゴがちょっと訳ありなので写してみました。
このロゴを右から左に銛が撃ち抜いている意匠ですが、「ハープーン」
というのは「捕鯨の銛」という意味なのです。

メルヴィルの小説「白鯨」が生まれたように、アメリカでも昔は捕鯨が盛んだったんですね。
ちなみに小説「白鯨」で、最後にエイハブと白鯨の「モビィ・ディック」が死闘を繰り広げ、
その結果銛を白鯨の背に突き立ててエイハブ船長が沈んでいったのは、他ならぬ

日本海( JAPAN SEA)

だって皆さん知ってました? 

 

護衛艦「ちびしま」でも説明したHOSー302がこちらにも。
説明しているのはあのパプリカ王国のピクルス王子です。
 
この写真を見て、近くにいたおじさんが

「うわ、これ撃ったらこんなのが飛ぶの?!」

と心から驚いていました。
まあ、武器ですからね。


「さわらないでね(はーと)DANGER」

と書いてあります。
ロックとかあると思うんですが、案外簡単に解除できてしまうものなのかもしれません。



「危険ですから登ってはいけません」
こちらもあくまでも丁寧口調です。



後甲板に出ました。
隣の「あたご」の後甲板越しに「いせ」が見えます。
このとき海自は訓練のために横須賀に集結していたのですが、
幹部会合や会議は広い「いせ」で行われたそうです。
そしてこういうときも各艦乗組員は自艦で寝起きしますが、
それ以外の自衛官は皆この「いせ」に宿泊していたのだと聞きました。

そして、この「カレー頂上決戦」以外にもこういうときには各艦対抗で
サッカーなどの試合をしたりするのだそうです。



一番手前は補給艦「ときわ」、その向こうが先日「ふゆづき」と一日違いで
自衛艦旗授与式を行った「すずつき」です。

これだけの護衛艦が一堂に会している様子が見られただけでこの日は満足でした。



撮られているとは夢にも思わず埠頭を歩く自衛官たち。



艦番号116は「てるづき」。
「あきづき」型の2番艦で、もともとここ横須賀が定繋港です。
向こうに停泊しているのは全く同型艦なので、これが「ふゆづき」でしょうか。
シンクロニシティが半端なく美しいです。


「あきづき」型の新鋭艦、「すずつき」も「ふゆづき」も、
訓練に参加するためにここに寄港していますが、この「てるづき」含め。
「あきづき」型は4艦とも今回のカレーグランプリにはエントリしていません。

「あきづき」と「てるづき」も2012年、2013年就航と新しいフネですが、
「すずつき」「ふゆづき」はさらに、まだ就役して一ヶ月の護衛艦です。
新しい護衛艦の乗組員というのは、色んなところから寄せ集められて来たばかりで
ほとんどの隊員同士が初対面に近く、最初は新学期のクラス状態なのだそうですね。

つまり名前と顔が一致していない状態の1ヶ月を過ごして来たわけですから、
当然ながらまだ本艦のオリジナルカレーをどんなものにするか、などということを
話し合う時間など物理的にも全くなかったということになります。



このイベントの後、冒頭でも触れた「中の人と親しい方」から聞いたのですが、
新しく自衛艦ができるとき、乗組員をどうやって決めるかというと、
(幹部は上が決めるのだと思いますが)曹・士は副長が声をかけて集めるのだそうです。 
勿論全員ではないと思いますが、これは責任重大ですよ。
どんな人材が集まるかによってフネの空気そのものが変わってきてしまいます。
雰囲気に始まって士気の高さにも大きく関わって来るのですから、
スカウティングはいわば「フネの運命を決める」ともいえます。

そう考えると副長というのは重責を負っていますね。


「こんごう」のデッキには、折りたたみ式のリヤカーがありました。
これも折りたたみ式であると思われます。
どう折り畳むかというと、底が山形に折れ、平たくなります。



「こんごう」の後甲板から「あしがら」「ちょうかい」を望む。



VLSの発射孔は、実はさわれます(笑)
因みにわたしはこの蓋を持ち上げられるか試してみましたが(試すなよ)
勿論びくともしませんでした。

後から考えると「あしがら」の乗組員に見られていたのはそのせいかもしれません。
 




謎の物体。
赤だから非常用の消火設備か何かかもしれません。



蛍光色のヨット発見。
これはアスロックの標的として使用するデコイです。
VLS(ヴァーティカル・ランチング・システム)の的ですから、
何十キロも先に浮かべておいて、その周囲に到達すれば「当たり」。
ピンポイントで落ちなくても、艦船というのは大きなものですから
「デコイを中心に(たとえば)80m以内で命中」という風に考えるそうです。

しかし、時々(というか結構ある、と説明の隊員は言っていた)このデコイに
ピンポイントで当たることもあるのだそうで、このヨットの船腹に大きな凹みがあったので、
わたしは

「これ、当たったあとですか」

と聞いたのですが勿論違いました(笑)
もし直撃したら粉々になってしまうそうで、結構な消耗品なのだそうです。

うーん、クリーンヒット、デコイ粉々がしょっちゅうあるとな。

自衛隊、さすがの練度といってもいいですか?
それともこのミサイルがそういうもので、誰がやっても百発百中なの?




「こんごう」の艦上を歩いて後甲板まで来たら、
カレーのテントがちょうど真横に来ていました。
こりゃーどう見ても4往復縦隊ですね。



地本の人らしき隊員が写真を撮っていました。

というわけで、一応見学できる艦艇は見たし、
そろそろカレーの列に並んでみようかな。

しかし間に合うかなあ。




続く。









護衛艦カレーナンバーワングランプリ〜カレーあきらめた

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というわけで、「あしがら」「こんごう」の見学を終えました。
 


下艦する見学者をお見送りする乗組員。

 

ラッタルを降りながら、テントの屋根を撮ってみました。
「むらさめ」と「はるさめ」の幟が見えます。
いずれも「必勝」「VICTORY」という文字が見えますが、こういった幟は
艦対抗のスポーツ試合やコンペティションがしょっちゅう行われるため、
どこの艦も当たり前のように常備しているものらしいですね。

ところで、音楽まつりなどで活躍している「自衛太鼓」などの装備、
太鼓やユニフォーム、幟といった備品は、全て隊員のポケットマネーだと
元自衛官に聞いたことがあります。
航空祭で人気のバイクを改造した「ジュニア」シリーズの制作費もそうですし、
ジュニアシリーズで備品のほうきを加工して使ったら大問題?になったことがある、
という話もありました。

「国民の税金を使って」と何かごとに目くじらを立てる人々に配慮して、
自衛隊のこうしたグッズは全て隊員が自費で賄っているのかもしれません。

そのかわり、というのか、たとえば駐屯地まつりで自衛隊員がやっている
出店の収益などをそういった用途に回すという説もあります。



このテントの両側に各艦のカレーコーナーがあるので、
好きなカレーをよそってもらいながら通り抜けるという仕組みです。



降りてすぐのテントを後ろからこっそり撮ってみました。
記録係の自衛官が写真を撮っています。
「天霧」と漢字で書かれた(!)いなせな法被を着た自衛官が
「天霧カレー」(カレーも漢字表記)をよそっています。
右側のかなり年配の自衛官は、晴れ着の余りぎれで作ったような
豪華な法被を着て、よそったカレーの皿に「あまぎり」というシールを貼る係をしています。

多い人で8種類のカレーを食べますから、艦名が分かるように各カレーにネームをつけるのです。



大きな賄い用の寸胴は空になったようです。
でも、底に残っているカレーで一皿くらい食べられそう。
今ならちょっと味見で指つっこんでも誰も見ていないし・・・・いやいや(笑)

ちなみに「あまぎり」のカレーはビーフカレーで、
第一回グランプリで銀賞を受賞しました。

少し前に「しらゆき」のカレーレシピを紹介したのですが、
一般的に護衛艦のカレーはなんだかんだと材料を多数多種類投入します。
これは一度に大量の人数分を作るからこそできる調理なんですね。

だからこそこんな機会でもないと味わうことのできないカレーばかり。
この日のイベントへの入場者が記録的な数だったのもうなずけます。



ここは「ライス配食コーナー」。
ライスは一皿500円で、周りには4種類のカレーを入れることができる
特製のお皿に盛られて販売されています。
一人2皿注文することができ、2皿で900円。



ちゃんと専用トレイを制作した模様。
ここにお皿と飲み物をセットして運べます。
素晴らしい。
参加する人が便利なように持てる知恵を結集して考え抜かれたこのシステム。


読者のみね姉さんもこの日参戦しておられ、2皿8種類を完食したとのことですが、
多少量が多くてもできるだけたくさん味わってみたい、と考えることは皆同じ。
ほとんどの人たちが2皿コースを選択した結果、

開始後2時間半で売り切れてしまった

ということなんですね。
ここらあたりいかに知恵を振り絞っても想像が及ばなかったということのようです。

まあ、この悲劇が来年以降のグランプリにどう生かされるのか、
自衛隊ウォッチャーとしては興味深く注視して参りたいと思います。



カレーを配るテントまでたどり着いたら、その入り口にはこのように
写真入りの各艦カレーの紹介があります。
1商品(つまり一皿?)購入ごとに投票券を一枚受け取り、
自分の気に入ったカレーを一つだけ名前を書いて投票するという仕組みです。

さて、わたくしエリス中尉はこの後カレーを食べられたのか?

結論から言うと、NOでした。
「食べられた」に一票を投じて下さったM24さんには大変申し訳ないのですが。

おそらくですが、護衛艦から出てこのときすぐに並べば食べられたのだと思います。
しかし、なぜかいざとなるとどういうわけかその気にならないわたし、
「別にお腹空いてないし〜」と、ばかりにこんどは
売店の物色にかかったのでございます。

昼になってからやっと入場したときにはときすでにおすしじゃなくてカレー、
じゃなくて遅し、食べたくても食べられなかった人には、チャンスをみすみす逃して、
いったい何をしにここに来たのかと肩をつかんで問いつめられそうですが。



だってお土産やでネタ探しする方が楽しいんだもーん。

ほら、たとえばこんなTシャツなんかどうですか?

防人 俺が守る お前を守る

演歌調です。
誰が買うんだろう。



なんと、くまモンが陸自戦闘服を着ている!
うわー、くまモン陸自バージョン、欲しいなあ。 
よし、カレー作戦は撤退したからその分お土産に全力だ!

攻撃目標変更、前方二箇所の民間自衛隊グッズ売り場!

「とつにゅうう〜!」
(ぱっぱらっぱらっぱぱ〜ぱっぱらっぱらっぱぱ〜〜〜)←脳内に響く進軍喇叭





ー20分経過ー 




はあ、まいったまいった。
最後に買い物したとき、お店の人に「持てますか」って聞かれるくらい買ったわ。

それではすることもしたし見るものも見たし買うものも買ったので

撤退〜!



そこでちょうど最後尾まで歩いてきました。
ふと「今並んだら食べられるんだろうか」と思い、列最後尾に付いてみました。
ちょうどそのとき、やって来た案内の自衛官が、

「このあたりの方はお並びになっても食べられない可能性があります!」

と周囲の人々に向かってアナウンスしました。
それを聞いたとたん反射的にあきらめて歩き出すエリス中尉(笑) 



向こう側の通路にはまだあんなに人がいるというのに?



それを聞いても一か八かで並び続けている人たち。 
この人たち、食べられたかなあ・・。



そしてこの写真を撮り終わった直後。
この後ろに並んでいる人々に向かって、案内員が

「カレーは終了しました!」

と初めて宣言しました。
それでも不思議なことに人々は列を崩さず、次々と並び続けています。
もう一度

「今から並んでもカレーを食べることはできません!」

とアナウンスがありましたが、その隊員に向かってじいちゃんが

「そんなこと言わないで食べさせてよ〜せっかく来たんだから」

と文字通り食い下がっていました。
じいちゃん、そんなこと整理係の隊員に言っても無理だよ。

とにかくこれを聞いても皆全くあきらめようとしないのです。

日頃あきらめが良すぎるわたしにはどうも理解しかねる現象でしたが、
さすがは日本人、カレーが無くなったと聞いても怒りだしたりするでもなく、
どこかの国なら暴動になっていそうなこの状況でも皆楽しげに並んでいます。

なぜ並ぶ(笑)



そのまま手荷物検査場までやってきました。
この辺りにはまだカレー終了のお知らせは届いていません。
ちょうどお昼にカレーを食べることになるので間に合った、とばかりに
先を急ぐおじさん、御愁傷様です。



手荷物検査場の横は球技グラウンドになっていました。
朝わたしがここを通ったとき、サッカーをやっている隊員たちがいましたが、
あとから聞いた話によると某艦の副長もいたそうです。

グラウンドの奥に巨大な石碑があり、

「英魂照海正気集」

とあります。
揮毫したのは

横須賀地方総監 海将 北村謙一 

だそうです。
北村海将が地方総監を務めたのは1970年から72年までの間。
まだこのころは自衛隊にも海軍出身者がいて、北村海将は64期ですが、
好奇心から64期のハンモックナンバーを調べたところ、
北村という生徒はおらず、その代わり「吉本謙一」なる生徒が三番にいました。

「英魂照海〜」の出所は調べても分からなかったのですが、

「優れた気で海を照らし、正しく気を養う者たち」

つまりそれこそ海上自衛隊、っていう意味じゃないかと思います。
適当ですけど。
どなたかこの言葉の原典をご存知でしたら教えて下さい。



振り返ってみましたが、まだ列は全く崩れていません。
デートでやって来た二人は

「どうする?」
「でもカレー無いって・・・」

相談中。
まあ、ここまで来たんだから護衛艦の中でも見ていけばどうですか?



カレーを食べ終わった人はこの左側から出て来ていました。
何があったのか見るために通ってみれば良かったかな。

この右手の自衛官は1佐。

『2佐から1佐への昇進の壁は厚い』

と以前書いたことがあるのですが、1佐になれるのは防大でも同期の45%です。
「2佐」というと艦長職のイメージが強いですが、1佐は隊司令や大きな艦の艦長など。

陽焼けしているし、この日集結したどこかの艦の艦長だと勝手に決めつけてみる。



艦長「もうあの辺の人たちはカレー食べられないみたいですよ〜」
相手「この人出・・・今年は何があったんでしょうなあ」
艦長「艦これ」(ぼそっ)
相手「えっ」
艦長「えっ」

(想像です)



というわけで門のところまで戻ってきました。
この錨ですが、係船浮標(ブイ)用のもので、

「四瓲(トン) 昭和十三、一」

と本体に表記されています。
係船浮標とはこのようなもので、

(wiki)

船舶が停泊するために設けられる繋留施設のことで、
これに鎖やロープなどをかけることで船舶を固定させます。
この方式での停泊を「浮標係留」といい、この錨はそのためのものです。
普通の錨と違ってねじれているのはそのためのものだからですね。

ちなみに船舶が錨を用いて船舶を固定することを「錨泊」と呼びます。

 

なぜたかが、といっては何ですが、浮標のための錨が飾られているのか、
由来は全く分かりませんでした。

どなたがご存知の方がいたら(略)



横須賀地方隊が開隊60周年記念のときに行われた植樹。
植樹したのは当時の横須賀市長と総監部のトップであった
三木伸介海将補・・・・・ん?

わたしこの方存じ上げてまーす。
ちゃんと名刺も頂いております。
「ふゆづき」のパーティでおじさんたちにけしかけられ一緒に写真を撮り、

「わたしは潜水艦に乗っていたんですよ」

とちょっとだけお話もお聞きしたんだったわ。
全く世間は狭い。
というよりわたしがその狭い世界に首突っ込んでるだけなんですけど。



錨の前で記念写真を撮っている姉妹。
手前の子は、「かいじょうじえいたい」の紙の帽子に、
わたしももらった護衛艦うちわを手にしてご機嫌です。

ちゃんとカレーは食べられたかな?



門を出ます。



しかし、中に入ろうとしている人の列はまだまだ、まだまだ長く伸びています。
誘導の係員もいるのに、どうして「カレーは無くなった」って教えないんだろう・・。



基地を出たところに停まっていた車。
フロントガラスのところに何か書いてあるので見ると



横須賀市の公用車のようです。
しかしなぜ英語なのか。
これに乗って来たのはおそらく日本人ではないと思うのだけど、
米軍軍人なら海自が迎えにいくような気がするのですが・・・。




ヴェルニー公園の端からは、カレーをあきらめた人、知らずにたまたま来た人が、
ここから護衛艦の写真を撮ったり、基地内の人の多さに驚いたりしていました。


(続く)

 






 


 

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