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護衛艦カレーナンバーワングランプリ〜イベント開催における海自の真意

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先日、この日横須賀で見た護衛艦「ちびしま」について詳細に記述したところ、
読者のmizukiさん(セカンドライフ住人。oui oui主宰)から、
(たぶん)その功績にたいしなんと「ちび大和」を寄贈していただきました。
エリス中尉、これで名実共に夢にまで見た一艦の艦長となったのでございます。

そういえば「ちびしま」の主砲も大和と同じ46サンチ砲で、現代の護衛艦にしては巨砲、
すなわち小艦巨砲であるという点で「ちび大和」と同じ。

本ブログプロフィール写真をしばらく「ちび大和」で飾らせていただくことにしました。
本日画像はmizukiさんのオリジナルをモノクロにして往時の雰囲気を出してみました。
 



さて、カレーグランプリ会場を後にして、ヴェルニー公園沿いの歩道を行くと、
ロープで通行止めされたこんな埠頭がありました。
この岸壁からボートなどの乗艦することもあるのかもしれません。
先ほどまでいた「あしがら」と隣の「ちょうかい」が見えます。
「ちょうかい」の向こうの「あたご」は角度の関係で全く見えません。

そして、敷地をほぼ全域に渡って埋め尽くすカレー難民の群れ(笑)

 

ズームしてみました。
わたしが敷地内にいたころはこの付近には誰もいなかったはず。
カレーの列があれから伸びることは考えられないので、これはおそらく
「あしがら」の見学の順番を待っている列だと思われます。
やはり護衛艦上が過積載にならないように、入艦制限をしているのでしょう。

カレーが食べられなかったのでせめて護衛艦を見ようと
ここでも粛々と並ぶ日本人。






道の向こう側に見えるコンクリの塀は、「日米歴史ツァー」の説明によると、
かつてここが海軍工廠と横浜鎮守府の敷地であった時代、周囲を囲んでいた塀で、
横須賀駅から降りて海軍の敷地内にはいるには門衛のいるゲートを通ったのだそうです。
現在ヴェルニー公園になっている部分も全て軍港であったため、仕切られていたんですね。
雷蔵さんのレクによると、このあたりは海軍時代は錨地で岸壁はなかったとのことですが。


さて、わたしがここを歩いていたそのころ会場に続く路上では・・・。

その日この地から発信されたツィッターによると、この列は一時立体交差点を超え、
CoCo壱番屋の前を通り過ぎてさらに折り返していた。
彼らが場内でカレーが食べられると信じていたときには、たとえその前に列を作っていても
見向きもされなかったココイチであるが「カレーがなくなった」という情報が伝わってから、
民衆はその鬱憤のはけ口を求めて店内になだれ込み、今度はココイチに列をなしたと云う。
(横須賀軍港カレーの歴史・『自衛隊とカレー』第三章・護衛艦CGの阿鼻叫喚より)


このころ、時計は11時40分を指していました。
列は全く途切れることなく、それどころかヴェルニー公園から「横入り」
しようとする不逞の輩()もいたようです。

というのも、ハンドマイクを持って整理に当たっている自衛官が

「ヴェルニー公園からの列への割り込みはしないでください!
この列は後ろの方から続いています!
ルールを守ってお互い楽しく休日をすごしましょう!」

と演説していたので知ったのですが。
最後の

「ルールを守って楽しい休日云々」

は全くその通りだと思い、この自衛官氏の気の利いたアナウンス自体には
大変感心したのですが、それはともかく、それよりわたしはどうして彼らが
今から並んでもカレーを食べることはできない、ということを皆に知らせないのか、
この時点ではどうにも不思議で仕方ありませんでした。

おそらくそのことを何度も告知すれば、ヴェルニー公園からの「横入り」もないでしょうし、
何割かはあきらめて並ぶのをやめたであろうと思うからです。

基地から出て彼らと逆方向に向かって歩きながら、

「カレー、もうありませんよ」(ぼそっ)

ともしここで並んでいる人に告げたらどうなるかなあと考えたりしたわたしでした。


しかし、今にして思うのですが、もしかしたら自衛隊はこのイベントに
「素」でどれくらいの人が集まるのか取りあえず知るべく、
あえて告知をしなかったのではなかったでしょうか。

カレーが無くなったことを知らされずに並んでいた人々にすれば面白くないでしょうが、
その数を把握するのも今後の戦略上データとして必要なことと判断したため、
自衛隊はギリギリまで発表を遅らせたのでは・・・。



案の定、自衛隊にはカレーを食べ損なったかなりの人数が クレームの電話を
じゃんじゃん入れたらしく(笑)HPには当日の夜から


今回のイベントにおきまして、早朝から足を運んでいただいたにもかかわらず、
混雑による入場制限のため、会場内へ入場できないなど、
ご不便をお掛けいたしましたことを深くお詫び申し上げます。
以後は寄せられましたご意見を活かし、安全でより良いイベント開催となるよう、
改善させていただきたいと存じます。

とお断りが掲載されていました。 
さぞかし多かったんだろうなあ・・・「寄せられましたご意見」。 

ただねえ。

営利団体や商業施設ならば責められることでも、それが自衛隊ともなれば
別の観点から考えるべきではないかという気もするんですよ。

そも、このイベントの目的と云うのは決してカレーを売って儲けること、じゃないのでね。
何を目的にやっているかというと、このHPの最初にもこうありますが、

この機会を通じまして、艦艇乗組員の食を支える”給養員”という存在やその技量、
また艦艇での日常生活を身近に感じていただけたものと思います。

自衛隊について国民の皆様に知ってもらい理解を深め親しみを持っていただこう、
とまあこれが主眼なんですよ。
つまりカレーがなくなったからといって、中にも入らずとっとと帰られては
本来の自衛隊の目的からいって本末転倒なわけ。

だからこそ並んでいる列に運営はそれを伝えなかったのでしょう。

ただ、日頃お客商売から「お客様は神様」扱いされるのが当然と思っている一般人で
この辺りのことを理解した人間はあまりいなかったんじゃないかな。

HPからは海自の「寄せられましたたご意見」の多さとその調子に
なにやら少し困惑しているらしい様子が窺え(笑)そのように思った次第です。



左から「あしがら」「ちょうかい」「あたご」。

各艦の舳先のシェイプ、艦そのものの大きさの違いがよくわかる角度です。

歩道は基地に向かう人の列が続いていたため、わたしは途中で
ヴェルニー公園に降りてそちらを歩くことにしました。
ここにもたくさんの出店のテントが貼られ、皆列を作って並んでいます。

ここでも並ぶか・・・。

何のためにならんんでいるんだろうと見てみれば、こちらもカレー。
地元の海軍カレー本舗が、「一口100円カレー」をしていて、
その列に人々が並んでいるのでした。
一口と云ってもご飯茶碗軽く一杯くらいにカレーをかけたくらいはあり、
小腹の減っている人にはちょうどいいかもしれません。

それを横目で見ながら通り過ぎ、物販テントに来たとき



戦艦「三笠」のTシャツが売っているのに気づきました。



写真がボケてしまってすみません。
艦これの三笠さんを宣伝に使っているあたりが、経営者、
本日の客層を良く把握していると見た。
というか、本人も「そういう人」か?

わたしはここで「三笠」Tシャツを自分のために一枚購入しました。



ふと港湾に目をやると、米軍艦船のこちら側を見たことのある遊覧船が。
わたしが去年参加した「軍港巡りツァー」のフネです。
この寒いのに、表の観覧席は満員御礼の模様。
おそらく本日の解説員は本日の大イベント、カレーグランプリに付いて説明した後、

「自衛隊のカレーが食べられなかった皆さん!
ぜひ、帰りに横須賀名物海軍カレーをどうぞ。
ちなみにお土産にはどこどこ社の海軍カレーがおススメです」

とさり気なく宣伝をしたのに違いありません。
わたしが乗ったときにも、ある横須賀地元の海軍カレーの会社が
解説員に商品名を宣伝をさせているらしく、特定商品名を連呼していました。



米海軍の「フィッツジェラルド」と「ステサム」のところまで戻ってきました。



我が海上自衛隊の潜水艦は哨戒を終わったのか帰って来ています。
(朝は姿がなかった)

向こう側に繋留されているのは全て米軍艦船。
「マスティン」「カーティスウィルバー」「ラッセン」・・
そんなところでしょうか。

赤い幟には「よこすか」という文字が見えますが、
「MO」がなんの語尾なのかちょっとわかりませんでした。



さて、わたしはここで空いているベンチを見つけ、腰をかけました。
そういえばカレーを食べていないわたし、さすがにお腹がすいたので
ここでちょっとお昼ご飯にしようと考えたのです。

そのときに目の前には「100円カレー」の列が伸びて連なっていました。
皆ほんとうに並ぶのが苦にならないんだなあ・・。
全くわたしのような諦めの良すぎる根気のない人間には驚異です。

日本が超デフレにでもなって食べ物を買うのにも並ばなくてはならなくなったら、
わたしみたいなのはあっという間に生存競争に敗れて餓死してしまうんだろうなあ。

ここからなら護衛艦も見えるし、ランチにはぴったり。

何を食べたのか、って?



かじりかけの歯形が付いたものなんかアップしてすみません。
これは、場内の売店の「横須賀海軍カレーパン」です。
パッケージ4個入りをお茶と一緒に買っておいたので、ここで一つ食べてみました。
 
お味については明日ご報告するとして、写真のピントが靴に合っているので
全くイベントとは関係ないですが、この靴の話をしますと、

 

これはアメリカで買ったタニノ・クリスチーのブーツです。
日本ではあまり知名度がないメーカーですが、わたしは昔からこの
イタリアの手縫いの職人が作る靴に大変憧れていて、

「いつかはタニノのロングブーツを履いてみたい」

と思っていました。
ヨーロッパではチャールズ皇太子の御用達であるという話もあります。
ローマに行ったとき、千載一遇のチャンスとブティックを訪ねてみたのですが、
そのときには運悪く気に入ったブーツが(夏だったせいか)なく、
積年の願いは叶いませんでした。

その後すっかり忘れていたのですが、去年の夏、ボストンのニューベリーで
素晴らしく状態の良い中古のものを見つけました。
アメリカのブティックでも勿論初めて見たのですが、飛びつくようにして購入。
それが大当たりというか、大変履き心地も良く何時間歩いても疲れないので、
このようなイベントにも活用していると云うわけです。

わたしがタニノに憧れたのは、徹底した職人の技にこだわるメゾンだからですが、
最近は差別化の要、”HAND MADE ITALY"規格を守るため合理化ができないうえ、
若者の意識の変化で職人の数が減っていることからもより一層「幻のブランド」
となっているそうです。


死ぬような思いをして高いヒールを履く瞬間もあっていいと思いますが、
やはり自分にあった疲れないいい靴というのは、ちょっとした人生の宝です。




バランスの悪い安い靴はおそらく歩きにくいでしょうし、
せっかくのきれいな足も台無しにしてしまうこともあるのだと、
若いうちは気づかないことも多いのですがね。

わたし自身数多くの失敗を重ねたから言えるのですが。




さて、まったくの蛇足(文字通り)はそこそこにして。

ここでカレーパンをかじっていると、目の前を水兵さんたちが通りました。
今から基地まで歩いていくのでしょう。
一目見るなり、彼らがいかにも昨日今日から着ているような制服、
新しい靴や鞄 に身を包んでいるらしい雰囲気が見て取れました。

以前、曹士の制服は使い回しで中古を着ることもあるのだと聞いたのですが、
少なくとも彼らは全員がピカピカした新品で身を包んでいるようで、
正帽の後ろのリボンもしゃきっとしています。

何と言っても、全員の佇まいにまだ制服を着慣れていないぎこちなさがあり、
態度も何となくおずおずとしたものが感じられます。

「ははあ、この春入隊の海士くんたちだな」

そう思って腕の階級章を見ると、赤い桜に線一本。
やはり全員が二等海士、おそらく新兵さんたちでした。



カレーイベントの手伝いをするわけでもなく、どうしてこの時間に
基地に向かっているのかは自衛隊の勤務の内容が全くわからないので謎ですが、

「潮気のついた粋な水兵さん」

という様子からはほど遠い、実に初々しい雰囲気を漂わせて歩いている彼らに
思わず微笑んで、

「頑張ってね」

と心の中で声をかけていたエリス中尉です。




続く。 

 


護衛艦カレーナンバーワングランプリ〜痛車とカレーパンと地球防衛軍

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前にもダイエー前、スターバックス裏の駐車場に停まっていたこの『痛車』。

(痛車:車体に漫画、アニメ、ゲームなどに関連するキャラクターや
メーカーのロゴをかたどったステッカーを貼り付けたり、
塗装を行うなどして装飾した自動車である、萌え車とも言う、wiki)

ちなみにこの痛車のカテゴリはさらにwikiによると、

車のオーナーが「オタク」と認識できる程度のカスタマイズを行ったもの(ウケ狙いも含む)。
「走り屋風の痛車」のようなカモフラージュを行わず、あえて痛車であることを主張する。

に類する一般的な、つまり「ごく普通の痛車」だそうで。

スターバックスの裏には数台しか停める場所がないのですが、そこにこの
艦これ痛車が2台停まっていた、というのは自衛隊イベントに合わせた同好の士の
「オフ会」だったのでしょうか。

いずれにしてもこの2台の注目度は高く、ほとんどの人が携帯やカメラで撮影をしており、
この日のツィッターやブログ等でもあちこちにアップされたのだと思います。

画像は「金剛」。

この日、海上自衛隊のカレーグランプリに「こんごう」が一般公開される、
というニュースをキャッチし、いても立ってもいられず駆けつけて来たのですね。
「艦これ」の萌え擬人化漫画を拾うと、金剛さんはやたら紅茶を飲みたがったり
「Hey! 提督!」とか「そうなんデスカー」とかいう「片言しゃべり」をしているようですが、
これは「金剛」がイギリスに発注された最後の軍艦だからです。
大変勉強になりますね。(棒)

萌え的に由来を学べる、これぞ日本文化。




もう一台はご覧の通り「島風」。

1944年11月11日、輸送船団の護衛任務の際オルモック沖で戦没した駆逐艦ですが、
このとき戦ったのは米海軍第38任務部隊。
率いたのはジョン・S・マケイン・シニア中将でした。
共和党のマケイン三世のお爺ちゃんに当たりますが、実はここ横須賀の第7艦隊には

「JHON S. McCAIN」

というアーレイバーク型の6番艦、つまり「島風」の仇敵がいるんですね。

痛車のオーナーはそのことをご存知だったでしょうか。

それにしてもこの車・・・・・アルファ○メオって・・・。




今一度、カレーパンを食べた場所から人々の頭越しに護衛艦を撮ってみました。
144「あたご」の向こうに見えるのは「いせ」ですが、
「いせ」の作業艇は船尾ではなく船腹に付けるようです。
右舷の埋め込み式?ボートダビットにはもう一隻作業艇が見えます。

この人たちは、ヴェルニー公園の「一皿100円カレー」に並ぶ人たち。
この日ヴェルニー公園には、横須賀観光局公認の「海軍カレー」、わたしの食べた
「海軍カレーパン」、「横須賀海軍カレーたこ焼き」等が店を出していました。
勿論物販店もあり、どこも盛況です。



ヴェルニー公園の噴水越しに米海軍駆逐艦「フィッツジェラルド」を望む。
向こうに見えているブルーのタワーは、かつて海軍工廠時代ここで建造され、
回航時に撃沈してしまった空母「信濃」の生まれたドライドックのクレーンです。



「フィッツジェラルド」の艦上に人影発見。
米軍艦船も海の男に土曜日はありません。
月月火水木金金です。
前にも全く同じことを書きました。バリエーション無くてすみません。

ついでにもう一度前と同じこと言わせてもらっていいですか〜?

アメリカの軍艦というのは、どうしてこう手入れが悪いのか。
拡大してみるとあちこちサビだらけ、イージスシステムのアンテナは
汚れて茶色くなってしまっているではないの。
フィッツジェラルドはもう就役して20年になるそうだけど、自衛隊の護衛艦は
20年経っていてももっときれいですよ?
これから「廃艦」になるという自衛隊のフネも去年ここで見ましたけど、
はっきりいってそれより随分汚い。

せっかく日本に駐留しているのに、米海軍第7艦隊というのははっきりいって
日本の美点を吸収しようという意欲に欠けると言わざるを得ません。

もしかしたらその点自衛隊が世界規範から見て特殊なのかもしれませんが。



痛車の停まっていたパーキングの向こうに、軍服発見。
これは横須賀にある高等工科学校の生徒ですね。



この学校は校内に居住し団体生活をしていて、 外出も 自由には出来ません。
基本的に休日・祝祭日及び休暇の定められた時間の範囲内での外出は可能ですが、
帰校できる時間を考慮しなくてはいけないため外出範囲は限られます。

普段の生活では制服又は運動着を着用し、1学年は外出時も原則的に制服です。
2学年からは私服で外出することができます。
ただ し、公務による外出については制服になります。

彼らは制服を着ていますが、手にしている荷物がどうみても「お土産」で、
公務ではなさそうなことから、1学年の生徒であろうと思われます。

ちなみに工科学校はこの形の正帽とベレー型のものがあります。
ベレー型とこの制服のマッチングは

「地球防衛軍・・・・・?」(byみね姉さん)



さて、というわけで護衛艦カレーグランプリの一日が滞りなく終わり、
わたしは数々の戦利品を携えて家に戻って参りました。
この戦利品のご紹介を以て本シリーズエントリの〆にしたいと思います。



わたしが埠頭で一つ食べた海軍カレーパン。
この船型の箱に4つ入っていました。



「明治の頃 英吉利海軍より伝えられし
懐かしの味 カリーパン。」

おおそうか、カレーパンはイギリス伝統だったのか。

と読んだ人が勘違いしてしまいませんかね。この文章。
そもそもカレーとパンを組み合わせるなどと云う荒技を
日本人以外の世界のどの民族が思いつくというのか。
これもwikiによると、カレーパンの由来は諸説あって

1、東京江東区の「名花堂」(現:カトレア)主人が1927年に
 実用新案登録した洋食パンが元祖であるという説。
 関東大震災後、店の建て直しを急いだ2代目が「洋食の2トップ」である
 カレーとカツレツを取り入れたパンを思いつき開発したとされる。

2、練馬区の「デンマークブロート」(1934年創業)の創業者が発明したという説。
 まずカレーサンドを発売し、後に揚げる事を思い付いたという。 

 

3、大正5(1916)年に新宿中村屋の迎えたインド独立運動家ラス・ビハリ・ボース
 純インドカレーを伝え、これにヒントを得た相馬愛蔵によって発明されたという説。

こんなところが主流ですが、まあ要するに、全て「洋食開発期」の日本人シェフたちが、
同時にあちこちで同じようなものを開発していたということのようです。
つまり

イギリス海軍全く関係ありません。

わたしが一つ食べ、残りを家族へのお土産にしたのですが、持って帰ってすぐ、
息子が食べたいというのでオーブンで少し暖めてやりました。



ちょっとてっぺんが焦げてしまったのですが、暖めると
外側のフライされた衣がパリッ、油がジュワーッとなって大変美味しそうです。
息子によるととても美味しかったとのことでした。
護衛艦を見ながら食べた冷たいカレーパンも結構いけましたけどね。






これは地本コーナーで模型の写真を撮っていたら自衛官がわざわざ持ってきてくれました。

「まだ寒いですし持ちにくいとおもいますが、限定制作で
もうこれだけになってしまった貴重なものなのでぜひお持ち下さい」 

確かにこれを持って帰るのはなかなか大変だったです・・・。



365 days, 360 degrees

We're protecting the sea

「一年365日、全方位、
我々は海を護る」

だそうです。
地球防衛軍っぽいです。



海自では上級幹部の喫食の際これを使っている、というセールストークを聞き、
反射的に購入を決めたスプーンセット。
どこか忘れましたが、シルバー製造の盛んな東北のどこかの町の産だとか。
大変上質なもの、ということで確かにスプーンにしては妙に高かったです。
(セット価格2800円)



しかし美しい!

どうですかこの完璧なフォルム、持ちやすさを考えた究極のカーブ。



そしてスプーンの柄の端にはこのような自衛隊マークが。
ご予算の関係で1セットしか買えませんでしたが、わたし一人のときは
必ずこのスプーンと、以前横須賀軍港巡りのときに買った「海軍どんぶり」
を愛用しています。
いずれも質がいいので使い心地抜群。

たとえ残り物のスープでもこれで頂けば気分は海将!



護衛艦カレーグランプリシリーズ、明日最終回です。







 

護衛艦カレーナンバーワングランプリ〜勝利は誰の手に

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というわけで、2014年4月19日、横須賀海上自衛隊地方総監部で行われた
護衛艦カレーナンバーワングランプリについてのレポート、最終回になりました。

途中エントリで護衛艦がこれだけ一同に集結した理由を大規模訓練と書きましたが、
そういったことに異様に詳しいみね姉さんによると「護衛艦会議」だったようです。

つまり、「いせ」を会場としてそこで連日?会議が行われていたらしいのです。
こういう会議って一体どのようなことが話し合われるんでしょう。
まさか来年のカレーグランプリの開催地、とか?

実はエリス中尉、こう見えてもエントリ制作に毎日追われてひいひい状態、
さらに最近陸上自衛隊のHPで見つけた『整理整頓自衛官』というゲームに
情けないことにハマってしまいつい時間をつぶしてしまう毎日だというのに、
そんなわたしに「艦これ」の漫画を送って来たけしからん読者がいまして(笑)
案の定読みふけってしまったわけですが、そのおかげで、

「伊勢、足柄、鳥海、金剛、鞍馬が皆で会議」

などという言葉からは艦これ漫画のシーンしか思い浮かばなくなって・・
・・・・・・困ったもんです。






さて、この日の戦利品であるところのお土産紹介の続きからです。


ヴェルニー公園の売店で買ったネイビーブルーのTシャツ。
今年の春の流行はネイビーやブラックのストライプを効かせたマリンファッション。
このようなマリンテイストのシャツなら、お洒落に小粋に着こなせそうな予感。
袖にアクセントとして入ったイエローの階級章もどきが気に入って・・・。
こんなTシャツを身にまとって埠頭の潮風に身を任せれば、
ほら、あなたも気分はすっかり東郷平八郎!
(ファッション雑誌風に)



今年の夏、これを着てアラメダの空母ホーネットに乗ってみようかな。



腕を骨折したため行けずに涙をのんだ2月末の東京音楽隊定期公演。
そのコンサートにもし行けたら会場で必ず買おうと思っていたものがありました。
それがこの左側の「平成26年度音楽まつり」のDVD。

実際に二回もこの目で見、そして聴いた公演ではありましたが、
帰ってからあらためて見ると、武道館ではまず確認できなかった
隊員の大アップなどが見られ、全く「眼福」です。
画像もYouTubeとは別次元の美しさだし、本当に買って良かったと思いました。

パッケージの大アップは前年度防大儀仗隊の隊長だった、川上北斗学生。
(音楽まつりのエントリでも紹介したのですが、いまだにフルネームで覚えています)
川上学生はさる筋から得た情報によるとこの春防大を卒業し、航空自衛隊に入隊、
航空機操縦志望だそうです。

このDVDについてはまたそのうちエントリで書こうと思います。

右側の「知っておきたい!海上自衛隊」はまだ観ていません。



何となく漢字表記が気に入って買ったパッチ。


これは、ソマリア・アデン海賊対処派遣の際制作された
DD−158「うみぎり」のものです。
「海霧」という名は旧海軍にはなく、この「うみぎり」が初めての命名になります。

ソマリア沖・アデン湾における海賊対処のため、「うみぎり」を含む
第9次派遣海賊対処行動水上部隊は2011年6月20 日に日本を発っています。
第9次隊は、 第4 護衛隊司令(大判英之一等海佐)の指揮の下、
護衛艦「さみだれ」(内藤裕之艦長)および同「うみぎり」(佐藤正博艦長)、
乗員約400 名(海上保安官8 名を含む)により編成されました。

海賊対策のための自衛隊派遣は2009年の第一次派遣以降今日まで続けられており、
2014年4月現在、この「うみぎり」と「いなづま」が派遣されて現地に行っています。


海賊対処派遣の度にこのようなパッチは制作されて来たらしいのですが、
どのパッチにも必ずドクロの「海賊マーク」が入っています。
ドクロのデザインが可愛いですね。
実際の海賊は全くそんな可愛いものじゃないはずですが、日本人というのは
取りあえずなんでも萌え化しないと気がすまない民族なので。
この他の派遣艦もこのドクロくんをメインキャラにしているようです。

ソマリア・アデン派遣シリーズパッチ




何に使うのか全く当てのないままについ買ってしまったものもあります。
くまモン陸自バージョン。

いまやゆるキャラ界のスーパースター、アメリカでも有名になったくまモン。
(熊本知事がゆるキャラの成功モデルとしてくまモンについてアメリカでスピーチしたらしい)
自衛隊にもじわじわと進出して、全国の自衛隊地本が血の汗を流しながら決定した
自衛隊各ゆるキャラの立場を脅かしている模様。



何万人もの陸自隊員には一人か二人くまモンに激似した人がいるかもしれません。
いや、絶対いるでしょう。

さすがのスーパースター、後ろ姿にも隙なし。
お尻の真ん中の黒い丸は尻尾かな?

これに続いてくまモン海自シリーズとか出してくれないかなあ。
セーラー服のくまモン、可愛いと思うんですけど。



「お土産コンテストで優勝したことがある」

というお店の人のセールストークに、ただでさえ日ごろ権威に弱いエリス中尉、
つい興味を惹かれ買ってしまいました。
いや、しかしこれ、買ってよかったです。

ラー油に色んな具が入っていてなぜかカレー味がついているんですが、
「ひと味足りないな」みたいなときにちょっとかけるとあら不思議、
全てのものがカレー風味に!

何でもかんでもカレーというのもどうよ、という声もございましょうが、
カレーの風味は実は隠し味程度の控え目さです。



この「提督の料理番」といういかにもなキャッチフレーズの海軍カレー、
これも場内の売店で買って来たものです。



盛りつけ失敗しましたorz

その日の夜、早速(昼がカレーパンだったのにもかかわらず)いただいてみました。
スパイスが大変強く、クミンだかターメリックだかマサラだか知りませんが、
独特の癖のある味で、その日遅く帰って来て夜食に食べようとしたTOは

「あ、これ苦手」

と一言いって食べずに放置してしまったのです。(ー_ー#)
仕方なく次の日、前日がカレーだったのにもかかわらずそれを片付けるため、
二人分のライスに混ぜて炒めて「ドライカレー」を作りました。

スパイスが強いとはいえそうするとどうしても味が薄くなってしまったので、
ふと思いついてこの「食べるラー油」を混ぜ込んでみたら、
インド人もびっくり、大変パンチの効いたカレー味のピラフ(もどき)に。

先日は小松菜とジャコのパスタに少し絡めてみました。
大変美味でした。
バーニャカウダのように野菜をディップして食べるのも美味しそうです。
説明によるとただのご飯にかけてもいいそうですし、 もしどこかで見かけたら、
大変便利なのでぜひお試し下さい。おススメです。 



あとはいつもの「護衛艦カレーの缶詰」。

「ひゅうが」はビーフ、「きりしま」はポーク、そして砕氷船「しらせ」は
シーフード(ホタテ貝)となっております。

このパッケージによると、自衛隊のカレーの種類はなんと

200種類

を下らないそうで、しかもさらにどんどん新しいレシピが研究開発されているとのこと。

なぜそこまでやる・・。 



これも「自衛隊の基地内でしか買うことはできない」と聞いたため
買ってしまった「防人の誉カレー」。
ネーミングについメーカーの意気のようなものを感じ、それだけの理由で
購入を決めました。
キッチン飛騨と書いてありますが、「飛騨ハム」という会社の製品で

「国を護る自衛隊員の尊い使命感を讃え、富士山と桜にその姿を託して表現したもの」

という説明があります。
HPによるとこだわりのハムを作っている会社でカレーとは全く縁がなさそうですが、
(このカレーの具はビーフ)もしかしたら会社オーナーが自衛隊の後援をしている
企業なのかもしれません。 




参加艦艇は全部で15。
栄えある第二回カレーナンバーワングランプリ、優勝したのはどのフネだと思います?

潜水艦隊

なんですよ、潜水艦隊。
他のフネが一艦一皿で勝負を張っているのに、なんで潜水艦は「艦隊参加」?
という疑問が関係者(つまり海上自衛隊の中)からも出たという噂の。

しかもそのレシピというのがですね。

たまねぎにんじんじゃがいもにんにくしょうがは水洗いして汚れを落とし
皮を剥いてニンニクショウガをみじん切りにしタマネギ3分の2をさいの目切り
牛豚鶏肉さいの目切りジャガイモさいの目切りし人参はいちょう切りし
りんごは皮ごとおろし金で刷りそれらを鍋に入れ菜種油で
焦がさないように1時間炒めカレー粉ガラムマサラブラックペッパーを入れ
香りを引き出しタマネギ人参バナナトマトホールに水を加えて
ミキサーで細かくみじんにしたものと野菜や肉と湯を会わせ
湯とローリエを入れあくを取りながら各素材を柔らかく煮込み火を止め
固形カレーを入れ中濃ソースウスターソース焼き肉のたれ蜂蜜白ワイン
プレーンヨーグルトなどで味を整えそれらを再び鍋に入れて火にかけ
攪拌しながら加熱しバター牛乳を入れさらに攪拌しながら味を調整する。


という、
美味しいことは間違いないが家庭で作ったら家計を逼迫すること必至のカレー。
(前にも全く同じことを書きました。表現にバリエーション無くてすみません)

だいたい具が「豚・牛・鶏」って。そんなの許されると思う?
全くどすこい力技で寄り切ったといった感のある勝利です。
潜水艦隊、おそるべし。


因みに2位は「ちょうかい」のシーフードカレー。
3位は「くらま」の第一次安倍内閣総理大臣喫食カレーでした。



あとからこのグランプリ会場の地図を見て思ったのですが、
雨が降ったときのことを考えて、
屋内にも試食会場が用意されていたのですね。

食べないなら食べないなりに、皆が試食している様子をレポートすればよかったな。
これもまた来年の課題としておきましょう。

・・・・・・・・・って、来年の開催地はたぶん横須賀ではないと思うけど、

エリス中尉、それでも参加するつもりなのか?


糸冬。


 

 

女流パイロット列伝〜ルイーズ・セイデン「タイトル・コレクター」

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ヒラー航空博物館には、今まで聞いたことももちろん見たこともない
歴史的な航空機が、しかもオークランドとは違って良好な状態で保存されています。

中には事故を起こした航空機がその状態のまま展示されていることも。



おいたわしやといった態のこの飛行機、

THADEN T-1  Argonaut 

という超レア機種です。
1928年、サンフランシスコにある「Thaden Metal Craft Company」が製作し、
そのデザインは Hervert von Thaden(ハーバート・フォン・セイデン)が行いました。



 この機は、その最後の飛行となった1933年、アラスカの凍った河に墜落したもので、
そのわりには怪我人もいなかったそうですが、飛行機の表面を見ていただくと、
トタンのような波状の金属でおおわれていることがわかります。

このセイデンT-1は、アメリカが初めて開発したメタルスキン航空機の一つともいわれ、
西海岸における最初の「オール金属」飛行機です。

アメリカ陸軍からの依頼を受けて開発されました。 



セイデン、という名前をわたしは当初「サデン」と読んでいました。
残念ながら日本語ではこの飛行機そのものについての記述、
ましてやその製作者について述べられたインターネットの資料は皆無だったので、
確かめようもなく取りあえず頭の中でそう発音していたのです。

ところがその後観たアメリア・イアハートを描いた映画「アメリア」で、
例の女性飛行家ばかりの「パウダーパフレース」の様子が描かれており、
そのときにThadenを映画では「セイデン」と発音していたので、
初めて正しい読み方が判明したというわけです。


そのときレースに出場した女流飛行家がタイトルに漫画化して描いた、本日主人公の

「ルイーズ・マクフェトリッジ・セイデン」。

まさにこのとき「パウダーパフ」で優勝したときの彼女の姿です。
彼女はまたお気づきのように、このT-1のデザインを手がけたフォン・セイデンの妻です。


今まで「女流飛行家列伝」でお話ししてきた女性たちは、たとえば富豪と結婚して、
有り余るその資産で飛んだジャクリーヌ・コクラン、夫婦j共同経営で飛行機会社を持ち、
そのテストパイロットを務めていたナンシー・ハークネス・ラブなど、夫の何らかの関与が
あって初めて彼女らが飛行家として活躍することができたという女性と、
全く自力で飛行家となり、実力で有名になったベッシー・コールマンや、パンチョ・バーンズ、
そしてブランシュ・スコットなどの二種類に分かれます。

しかし、どうも、「一人でやっていた組」よりも、「夫の協力あるいは財力組」の方が、
結果的に名前を残すことができたような気がします。

あのアメリア・イヤハートも、夫のパットナムが全ての演出を手掛けたからこそ
あれだけ有名になった、というのは彼女の伝記を読めば誰にでも気づくでしょう。
日本でも「アメリア・イアハート」ではなく彼女のことは「パットナム夫人」
という名称が主に使われていたようですし。

つまり財力も社会的な基盤も持たない女性が、ある日突然飛行家として有名になる、
というようなことは、特に1930年代においては、当時の女性の地位を考えても
ありえなかったということです。

それでは、このルイーズ・セイデンも、夫のこのような地位があったからこそ

「当時世界で最もその名を知られていた女流飛行家」

となったのでしょうか。


ルイーズ・マクフェトリッジは、1905年、アーカンソーに生まれました。
小さいころは傘を差して高い場所から飛び降りるような女の子だったそうです。
しかし、裕福な医者の娘であったナンシー・ラブや、お嬢様のパンチョ・バーンズと違い、
10代半ばに飛行機免許を取らせてもらえるような環境に育ったわけではなく、
彼女が飛行機を初めて操縦したのは22歳になった時でした。


学校を出てからルイーズはカンサス州ウィチタのTHTターナー・石炭株式会社で働いていました。
顧客に、「トラベルエアー・コーポレーション」という会社があり、
その会社のオーナーであるウォルター・ビーチは、彼女をすっかり気に入りました。


この「気に入った」が、どういう「気に入り方」だったのか、そこまでは記されていません。
写真を見ると、彼女は美人ではないのですが、何とも言えないボーイッシュな、
しかしキュートな雰囲気を持つ女性で、文字通り「気に入った」のでしょうか。

 (高高度記録挑戦達成後)

ビーチは、彼女を石炭会社から引き抜いて自分の会社で営業担当の仕事を任せます。

この雰囲気から、非常に笑顔が素晴らしく営業に向いていて、
会社に貢献してくれるとみただけで、純粋に「人間を気に入った」ということだとも考えられます。

ここではそういうことにしておきましょう。 


しかしこの話がその辺の「ちょっと気に入った女の子を自分の会社に入社させた」
というだけで終わらなかったのは、彼女を気に入ったという「ビーチ社長」
というのが、後の「ビーチ・エアクラフト・コーポレーション」、つまり
あの「ビーチクラフト」を作った航空機会社のオーナーだったからでした。 

新しい職場でもらう彼女の給料にはどういうわけか「飛行機のレッスン代」が含まれていました。
それで彼女は「オハイオ州で初めて飛行機免許を取った女性」となっています。



ビーチの会社「トラベル・エアー」のロゴの入る飛行機の前のルイーズとフォン・セイデン

その翌年、彼女は夫となるハーバート・フォン・セイデンと出会い、
その年の夏にはサンフランシスコで結婚しています。
セイデンの生年月日はわかりませんが、写真を見る限り、かなりの歳の差婚に思われます。
ビーチ社長に気に入られたこともそうですが、年上に気に入られるタイプだったんでしょうか。



それにしても話の展開が早い。

いや、これが普通だったんです。
何年もずるずる付き合っているくせに結婚しようとしないカップルの話なぞ
全く珍しいことでもなんでもない、なんて現代の日本の社会がそもそもおかしいのであって、
昔はアメリカでもこういうのが標準だったんですね。

出会う!気に入る!結婚する!

まるで三段跳びのような段取りが当たり前、って社会でもなければ少子化なんてとても防げませんよ。

おっと、全く関係なかったですか。 


このころにも彼女は取得した免許で輸送の仕事をこなし、
「トランスポートレーティング(評価)」をもつ、史上4番目の女性パイロットとなっています。

夫が航空機製造会社のオーナーで、航空機デザイナーだったことは、
彼女のパイロットとしての挑戦におそらく拍車をかけたのでしょう。

彼女はこのあたりから猛然と女流航空界に頭角を現してきます。
1929年、女性による高度、耐久性、そしてスピードを軽飛行機によっていずれも最高最速値を得、
またその前年は女性による最高高度到達(20260フィート)、さらには
耐久レースで 22時間、3分、12秒の最高記録を喫しています。

このころはジャクリーヌ・コクランなどを筆頭に、女性であっても男性と同様に
飛行機のレースに出場することができました。

しかし、何がどう動いてだれが仕組んだのか、1930年から1935年までの5年間、
女性は「女性であることを理由に」航空レースからは全く締め出されていました。

1929年には、これまで女流飛行家を語る過程で何度か触れてきた

パウダー・パフ・ダービー

が行われています。
女流飛行家ばかり、20名で争われたレースで、この大陸横断レースに
ルイーズ・セイデンも参加しました。

この名前から、女ばかりのなれ合いのようなレースを想像されるかもしれませんが、
決してこれは楽なものではありませんでした。

アメリア・イヤハートはこのレース中墜落して機を失っていますし、
ブランシュ・ノエスは機内火災に見舞われています。
ルース・ニコルズも、パンチョ・バーンズも墜落を免れませんでした。

参加者の一人、マーベル・クロッソンに至ってはこのレース中の事故で墜落死しています。
誰にも目撃されていない間の事故で、彼女の体は飛行機の墜落場所から
150メートルも離れて見つかりました。 
パラシュートが開かれた形跡はなかったそうです。

 この時の順位表を上げておきましょう。

ルイーズ・セイデン グラディス・オドネル アメリア·イアハート ブランシュ・ノイス ルース・エルダー ネヴァ・パリ メアリー・ハイツリップ オパール・クンツ マリア·フォン·マッハ ベラ・ドーン・ウォーカー

以前お話しした美人のルース・エルダー姐さんは、5位に入っています。
機を墜落させたのに、それでも3位に入っているアメリアさんはさすがです。
4位のブランシュさん、機内で火事が発生したというのに立派です。


それにしても、これらの強豪を差し置いて、昨日今日飛行機に乗り始めたルイーズが
この過酷なレースでしれっと一位になっているんですね。
実は、この人、すごいんじゃないですか?

冒頭に制作した画像は、このパウダーパフのときに優勝を決めて着陸した直後の
ルイーズ・セイデンの勇姿を参考にしました。


そして彼女の進撃は留まるところを知らず、1936年、
またまたどういうわけか女性がエアレースに参加することが解禁になってすぐ、
ルイーズはニューヨーク―ロスアンジェルス間の到達時間を競う

ベンデックス・トロフィ・レース

に出場。
男性に女性が挑戦することを許された最初の年のこのレースにおいて、
なんと、14時間55分で世界記録を更新し、これまたしれっと優勝しています。
この時の使用機はあのビーチ社のビーチC17Rスタッガーウィング。

この時の二位も女性で、ロッキード・オリオンで飛んだブランシュ・ノエスでした。
この時にタイム誌にはこんな記事が掲載されています。


「ミセス・セイデンは賞金7000ドルを得たが、それとて男性を差し置いて優勝したという
喜びに比べれば何の価値もないに違いない。
アメリカで最初に輸送用の飛行機免許を取った10人の女性のうちの一人が、
今や第一線で「男女の戦い」を繰り広げる「戦士」になったのだから。

クシュクシュのブロンドヘアーをしたセイデン夫人は6歳の子供の母親、そして
速度、高度、耐久時間においてすべての女性最高記録保持者である。

(中略)ノエスとセイデンの二人は先週記者会見を行い、にこやかにほほ笑みながら語った。

”まあ、本当に驚きましたわ!
どうせわたしたちはびり(the cow's tail)だと思っていたので”


実は自信満々だったとしても、当時の女性としては反感を買われたくないので
このように言うしかなかったのかもしれません。 

この後、彼女は別の女性パイロットと組んで耐久レースに出場しており、
その模様は全米の注目を浴び、ラジオでライブ放送されたほどです。
196時間の耐久時間を記録したこのレースでは、別の飛行機から食料と水の補給を受け、
さらには当時軍でも開発真っ最中であった空中給油を行っています。 

引退直前、彼女は夫の会社の開発したセイデンT-1 がすでに生産を中止していたこともあり、
古巣のビーチクラフトにもどってテストパイロットを務め、1938年に
全ての公的飛行から完全に引退してしまいます。

このときまだ彼女は33歳。
ほかの女流飛行家が引退などどこ吹く風で飛び続けたのに対し、
トップを走り続けた彼女は、全盛期で、しかも世界一のタイトルを奪われないうちに
あっさりと人々の前から姿を消したのでした。
そしてその後自伝を書きましたが、そのタイトルは

 ”High, Wide and Frightened”

たまたま才能に恵まれた女性が、その才能を引き出す男性にも恵まれ、
本人もあれよあれよという間に一線のパイロットになってしまったものの、
実は彼女は、魂の底から湧き上がってくるような「飛びたい」「勝ちたい」
という野望とは無縁の、おっとりした普通の女性であったのではないか。

このタイトルを見ると、そのように思えてなりません。


引退後の彼女は、74歳で亡くなるまで、楽しみでしか飛ぶことはありませんでした。


 



USS「ランドルフ」と梓特攻・銀河搭乗員の酸素マスク

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去年の夏サンフランシスコのアラメダにある空母「ホーネット」を訪ね、
博物館となっているその艦内を二度にわたって見学しました。
艦載機にはじまり、艦内、そして艦橋ツァーと何度かエントリに挙げてきましたが、
このUSSランドルフ展示室についてはぜひお話したかった部分です。

冒頭画像でお分かりのように、このエセックス級空母には、日本の特攻機が突入し、
甲板の後方に激突、その機体とともに搭乗員の遺品が残されたからです。 





ホーネットのハンガーデッキから一階下に下りたセカンドデッキでは、
かつての居室を利用したいくつかの海軍艦船のメモリアルルームとなっており、
資料等が展示されています。

そのうちの一つ、USS「ランドルフ」のコーナーもありました。




ランドルフ、(USS  RANDOLPH,CV/CVA/CVS-15)は、
アメリカ海軍のエセックス級航空母艦です。
前回説明したように、

CV=航空母艦、CVA=攻撃空母、CVS =対潜水艦支援空母

の全ての機能を兼ねているということです。
アメリカにはドラッグストアのチェーン店に CVSというのがありますが、
これは空母とは全く関係なく、

"Customer, Value, and Service" (顧客、価値、サービス)

という意味だそうです。蛇足ですが。

ランドルフというのはこの空母が作られたバージニア州生まれの
バージニア州議会議長であったペイトン・ランドルフの名から取られました。
就役は1944年10月9日。

大東亜戦争で日本の敗戦色が濃くなって来た頃で、日本ではちょうど
同じ月の16日後、組織された特攻隊の第一号である神風特別攻撃隊が
関行男海軍大尉の率いる敷島隊として組織され、出撃をしています。



まずは当たり障りのない展示からどうぞ(笑)

就役してすぐのクリスマスディナーのメニューです。
サンタの乗ったトナカイのそりを、飛行甲板の誘導員が
例のうちわのようなもので誘導しています。

メニューは

トマトクリームスープ

雄の七面鳥のロースト(TOM TURKEYとある)

スウィートポテトかホイップしたポテト

いずれもクランベリーソース添え

ターキードレッシングをかけたウォルドーフ・サラダ(リンゴとクルミがけサラダ)

豆の炒めたの

スタッフドオリーブ、冷たいセロリ

パンプキンパイ、アイスクリーム、フルーツケーキ、

葉巻、キャンディ、タバコ、ロールパン、バター、コーヒー





ランドルフの艦載機パイロットが着用していた飛行帽とゴーグル、
そして写真集など。

ランドルフは1945年1月、サンフランシスコを(ここアラメダです)を出航、
ウルシー環礁に到着しました。
最初に与えられた任務は、

2月16日 東京飛行場(羽田)および日立航空機立川発動機製作所

2月18日 父島 硫黄島

2月25日 関東地区の飛行場、八丈島

への攻撃でした。





本土爆撃のために出撃したパイロットと艦載機に搭載された
500パウンド爆弾(220キロくらい?)の記念写真。
ぎっしりと乗員によって書かれたメッセージがありますが、
大きなデバイスで読める方は何が書いてあるのかちょっと読んでみて下さい。
(ちょっと閲覧注意)

そして、これをグリーティングカード仕立てにし、

「これは500パウンドのお見舞い状(get-well card)です。
145パウンド(65kg)のよく訓練された海軍戦闘機パイロットによって配達されます」

とわざわざレターをつけております。
まあ、なんでも好きなようにふざけるといいよ。戦争はお互いさまだからね。




ヴァージニアタイムス、というのはランドルフの母港の町の新聞社です。
1945年の2月18日に書かれた記事ということは、ランドルフがウルシー環礁から
最初の任務として本土爆撃を行ったことをまさに報じているわけです。

タイトルは

「コーリング・カードを置いてきました」

 で、このcalling cardは現在ではテレフォンカードのことですが、このころは
訪問したことを示すために残す印刷された、あるいは手書きの書面という意味でした。 
そのコーリングカードが、「ランドルフ」の甲板から大量に撒かれた爆弾で、
水兵は微笑みながらこう言っています。

「君たちが真珠湾でやったことを思い出してもらうために戻って来たよ。
どう、思い出した?」

まあ、どうでも好きなように楽しむといいよ。戦争はお互いさまですからね。

 

このときにランドルフが搭載していたのはご存知ヘルキャットで、
その勇姿を描いたこの絵なんですが、なんと、これ

ハセガワの模型の入っていた箱

です。 
これを寄贈した人(つまりヘルキャットの模型をハセガワから買った人)の
名前がわざわざ書かれているんですけど、そんな人の名前より
これを描いた日本人のイラストレーターの名前を書くべきじゃないのかね?ああ?

しかも、表記が

Has"A"gawa Hobby Kit cover art

って・・・・・・。
気の利いたイラストの描ける人間が滅多に回りにいないんだったら、
ちょっとは日本に感謝して、せめて名称は間違えないようにしような?



と、いちいち気を荒立てるエリス中尉。

戦後70年たって日米は同盟国。
完全に対等とは言えないものの、
取りあえず敗戦後どうされても文句が言えなかった状態の日本を
曲がりなりにも独立させ、発展の足がかりを作ってくれたという恩義は忘れておらんが、
それにしてもこういうのを見ると日本人としてやはり穏やかな気分ではいられんのだ。


上の地図は1945年の7月10日から始まった本土攻撃の図で、
このとき「ランドルフ」はハルゼー提督率いる第三艦隊の一部として
関東地区の飛行場に8度の攻撃を行っています。

数字5の、7月18日の攻撃は、横須賀基地の桟橋に偽装されて停泊していた
戦艦「長門」への攻撃を意味しています。

このときの本州攻撃は数日間継続され、軍施設だけを攻撃したパールハーバーを
日本人に「思い出させる」ために、アメリカ海軍は大量の民間人を攻撃し、
爆弾の雨を無差別に降らせて多くを殺戮しました。



おそらくそのとき津軽海峡に向かうランドルフの艦載機。
津軽海峡では二隻の青函連絡船(もちろん民間船です)を撃沈し、他の民間船3隻を大破させました。
この地域の飛行場ももちろんもれなく爆撃されています。

そして、8月15日。
日本が降伏を受け入れそれを宣言したこの日、ランドルフは木更津にいました。
木更津飛行場と周辺施設への攻撃を行っていたのです。



そこに飛び込んで来た日本降伏のニュース。

「ジャップが降伏したぞ」

一方的な優勢攻撃だったとはいえ、艦載機が撃墜されるということも多々有りましたし、
米海軍の将兵が命を賭けて出撃していたことに違いは有りません。
そこに入って来た終戦の知らせ。
それは嬉しかったでしょう。
いかに追いつめたと見えても、日本軍を相手にしている限り、彼らは常に

「自分の命を盾にこちらを道連れにやってくる特攻隊」

の恐怖と戦わなくてはいけなかったからです。
そして、「ランドルフ」の乗組員はそれを「よく」知っていました。



1945年3月11日。
それは「ランドルフ」が前述の初出撃による日本本土の攻撃を終え、
ウルシー泊地へと帰投した直後のことでした。

九州の鹿屋基地から発進した梓特別攻撃隊の銀河が、
「ランドルフ」の甲板後部に突入し、この攻撃で25名が死亡、
106名が負傷したのです。

梓特別攻撃隊については「銀河搭乗員の乾杯」というエントリのほか、
二式大艇の記事でも何度か触れたのですが、このときの日本側の攻撃は

”国内は九州方面に度重なるB29の攻撃を受けており、
日本近海を敵機動部隊が我が物顔で往来していました。
 ここにおいて、敵の機動部隊を叩くには、かれらがウルシーに停泊するのを待って、
これに内地鹿屋から片道攻撃をかけることしか残されていなかったのです”
(当ブログ銀河搭乗員の乾杯より)

という事情で行われたものでした。
つまり、「ランドルフ」にすれば日本本土の攻撃を済ませ、
帰って来たばかりでほっとしているところを急襲されたということです。

鹿屋基地を飛び立つ銀河

このとき鹿屋から出撃したのは800キロ爆弾を抱いた爆撃機銀河。
24機の銀河は鹿屋上空で別の基地から出発した二機の二式大艇と合流し
ウルシーに向かう予定でしたが、二式大艇のうち一機が離水に失敗し、
三度それを試みているうちに出発が遅れてしまいました。

コースを変え、二式はゆっくり飛んでいた梓特攻の前方に出ることに成功しましたが、
PB4Y−2プライベーターの哨戒機に見つかり、そのうち一機が撃墜されます。

「銀河搭乗員の乾杯」で冒頭に挙げた写真はまさにそのときのものと思われます。


プライベーターは先導機である二式を一機撃墜しましたが、銀河隊には気づかず、
そのおかげで全機は以降攻撃されることなくウルシーに向かいました。
ヤップ島に到達できたのは鹿屋を発った24機のうちの15機。
9機はエンジントラブルによる不時着、あるいは鹿屋に帰還しました。

この15機のうち目的を達したのは「ランドルフ」に突入した唯一機だけです。

ある1機はソレン島を空母だと勘違いして突入したと言われており、
(そこにもアメリカ軍が駐留していたので死者重傷者計8名がでましたが)
4機がヤップ島に不時着し、9機が海に落ちたとされています。

作戦失敗の最大の原因は、当初の目標であった薄暮攻撃が時間の遅れで果たせず、
到着が夜間になってしまったことでした。
ウルシーに到達したにもかかわらず搭乗員は全く目標を認識できず、
中には平文で

「クライ、クライ」

と打電してきた機もあったということです。

また不時着したうちの一機は、なんとヤップに駐留していた日本軍の攻撃を受け、
パイロットが重傷を負ったために着陸を余儀なくされています。

これも夜間で日本軍が銀河を敵機と誤認したための悲劇でした。

翌日、トラック島から偵察のためにウルシーに飛んだ「彩雲」は、
ウルシー泊地の空母の数に変化がなかったことから、作戦失敗との報告しています。 



しかし唯一攻撃が成功した「ランドルフ」はこういうことになっていました。
先ほども書いたように、25名死亡(うち3名行方不明)、負傷者106名。
前にも「バンカー・ヒルの物語〜小川清の時計」で書いたように、これまで

「全く相手の死体を見ることもなく快適な戦争をしていた」

「ランドルフ」の乗組員を恐慌とでもいうべきショックが襲ったことでしょう。 
それを思うと、終戦が訪れたと知ったときの「ランドルフ」の乗組員の笑顔には
ただの安堵とはいえない複雑な思いも込められていたに違いありません。



このとき「ランドルフ」に突入したとされる銀河搭乗員の最後の姿です。 

左から、

偵察 上飛曹 井貝武志  (廣島・電練49期)

操縦 大尉  福田幸悦  (北海道・海兵70期)

電信 上飛曹 太田健司  (愛知・乙飛14期)

 
現地時間の午後8時1分と8時4分、福田機は無線でこれから突入することを打電し、
「ランドルフ」の行動調書によると銀河は8時7分に突入したことが記されています。
梓特攻隊で他に突入を打電して来た機はありませんでした。

福田機が突入したという明確な証拠のひとつは、「ランドルフ」艦上で発見された
三遺体のうち一体は海軍大尉の階級章をつけていたことだそうです。

梓特攻隊には福田大尉を含め三人の海軍士官がいましたが、
一人はヤップ島に不時着した後終戦まで生き残り、もう一人は
「ランドルフ」が突入された30分後に、最終の無電を打って来ています。


(註*この部分をわたしはある英文のサイトから引用したのですが、
実際の連合艦隊発表による梓特攻の名簿には大尉は二人しかいません。
おそらく、こちらが間違いだと思うのですが一応そのまま記します)




もうお分かりでしょう。
この酸素マスクは、「ランドルフ」に突入した銀河搭乗員の誰か—、
福田大尉か、太田上飛曹か、井貝上飛曹のいずれかが装着していたものです。



後甲板でそれが発見されたとき取得し持ち帰っていた「ランドルフ」の乗組員
ヴェーン・ナイバイ?から寄贈されたとこれには書いてあります。

実際に見ても不思議なくらいダメージがなく、欠損も汚れもないことから、
突入の瞬間「銀河」の搭乗員は酸素マスクをしておらず、
機内にあったものが機体の損壊と共に転がり落ちたと考えるのが良さそうです。
しかも、この状態を見るに当時は全くの新品だったのではないでしょうか。




この作戦のために銀河搭乗員42名、二式大艇の搭乗員12名、
計53名が一挙に戦死することになりました。
「ランドルフ」の被害は決して少なくはありませんでしたが、それでも突入後、
修理も1ヶ月弱ですませ、4月には沖縄攻略部隊に参加しているのです。

つまり悲願であった有力な米機動部隊の侵攻の阻止はなりませんでした。

ここで考えずにいられないのは、この作戦の合理性とでもいうべきで、
つまり犠牲の多大さに比してあまりにも効果が僅少であったことです。

銀河一機には三人もの搭乗員が乗っていました。
実際部隊の中には「電信員まで死なせる必要があるのか」という声があったそうです。
いかに当時の日本の戦況が切羽詰まった状態であったとはいえ、いや、だからこそ
誰かせめてこの人員の「無駄遣い」に意見具申するべきではなかったかと思うのは
所詮わたしが戦後の感覚でものごとを見ているからでしょうか。

特攻に向かう若者たちの純粋な熱意や尊い覚悟などを、上層部は
このころになると「濫用」していたのではないかとすら思えるのです。



梓特攻に参加した菊水部隊梓特攻隊の出撃前の写真。

阿南正範一飛曹が友人に宛てて書いた遺書は次のようなものです。
これをそのサイトは「典型的なこの頃の特攻隊の遺書」と書いています。
英文を訳しているので原文とは違っていると思いますが。

手紙をありがとう。
君が元気でやっているようでとても嬉しい。
そして、僕がお国のためにご奉公できることを君に伝えられるのを喜ばしく思う。
戦況はますます深刻なものになってきた。
我々日本男児が立つべき危急のときが来ている。
いや、男だけではなく、日本国民全てが覚悟を決めるときが来たのだ。

今日本本土は戦場となっている。
しかし僕が体当たり攻撃に出れば、勝利することができるだろう。

火の玉精神で攻撃すれば成功あるのみ。




突入の後、「ランドルフ」の25名もの乗組員の命を奪い、100人以上に負傷を負わせた
憎き「カミカゼ・パイロット」三人の遺体はどうなったでしょうか。
もしかしたら目ぼしい戦利品をもぎ取られた上でゴミのように海に投棄されたでしょうか。

しかしながら、自分の命と引き換えにこちらの命を取ろうとするこの戦法は
いずれにしてもアメリカ人に底知れない恐怖と、おそらく畏怖をも与えたに違いありません。



「ランドルフ」の展示室にわざわざ黒髪を短髪にしたマネキンを用意し、
装着した状態でマスクが展示してあることに、わたしは戦後アメリカ人の理解と許容と、
こう言っていいならば特攻隊員への敬意をも感じ、わずかながら慰められるような気がしました。




終戦相成ってUSS「ランドルフ」は誇らしげに日本軍に対してあげた戦果を記し、
占領のために日本に進駐してきました。

1945年9月のことです。









ヒラー航空博物館・メッサーシュミットと「戦犯企業」

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サンフランシスコ空港近くのサンカルロスにあるヒラー航空博物館は、
勿論航空博物館なのですが、このような展示物もあります。

メッサーシュミット”キャビンスクーター”。


昔、景山民夫のエッセイ(この人のエッセイ本、面白かったですよね)に
高速の車線内側に景山さんのスバル?とメッサーシュミットと忘れたけど
何かもう一台似たような車が信号待ちで並んでいて、そのとたんお互いの間に
瞬時に「やる気」が伝わり、青信号と同時に三台のレースがスタート、
息詰るようなデッドヒートが繰り広げられているその外側車線を他の車が
ブンブン追い抜いていった、という話を読んだことがあり、

「メッサーシュミットって、名前はかっこいいのにこんなに遅い車なんだ」

と、勿論その名前を持つ戦闘機があることなど、全く知らなかったわたしは
この逸話をその名前とともに印象深く刻んだものでした。

ここにはそのメッサーシュミットがあります。

なんだって航空博物館なのに車を展示しているのだろう、と思ったのですが、



ここにはこのようなアンティークカーも展示されていますし、
その理由をあまり深く考えませんでした。
この博物館の素晴らしい点は、時代が一目でわかるこのようなマネキンを置き、
ただ展示するだけでなく視覚に訴える演出がされていることです。
マネキンが来ている洋服も古着には見えず、このためにわざわざ作ったのかと思うくらいです。



ついでですので、わたしが一番好きなマネキン演出を。

映画の一シーンのようです。
もしかしたらカサブランカ?と思ったのですが、この男性の制服の正体が
まったく映画とは関係なさそうだし、ここにあるのは



BUHL AUTOGIRO 1931

1931年に制作されたオートジャイロなので、ヴィシー政権下のフランスを描いた
カサブランカとは縁もゆかりもないことになります。

写真が出たついでに説明しておくと、このオートジャイロ「ブール」は、
165馬力の「コンチネンタルA70」という7気筒空冷式エンジンを使った
世界最初の航空機です。

ここアメリカではなくスペイン飛行機会社がオートジャイロを最初に開発しました。
開発者はスペイン人のフアン・デ・ラ・シエルバ。

オートジャイロとヘリコプターは似ているようで別のものです。
その違いは回転翼に駆動装置がついているかいないかです。
簡単に言うと、オートジャイロはプロペラがまず回転し、そのプロペラの風や
推進時の風力によって回転翼が初めて回転して揚力を得るという仕組みです。
まあ、単純にその違いについては

「オートジャイロはホヴァリングできない」

ということだけ押さえていただければいいかと思います。

勿論ヘリコプターが発達したのでオートジャイロは実用性を失い、
今ではスポーツ競技用に使用されるのみとなっています。



機体の後ろに見えている木製のプロペラがまず回転し、
その推進力による気流で回転翼が回るという仕組みです。

この機種を当時の日本では朝日新聞社が購入して持っていました。
朝日はこのオートジャイロで空中遊覧のルポをし、

「空中道中膝栗毛」

というコーナーを連載していたそうです。



さて、メッサーシュミットの話に戻りましょう。
このメッサーシュミットもおそらくベイエリア在住の篤志家からの
寄付だと思われますが、航空博物館としてはこれが航空機製造会社の
メッサーシュミット製品であるというつながりからこれを受け、
このように



アルバトロス飛行艇(一番向こう)、アルバトロス練習機(その左)
そして手前の・・・何だっけ、まあその隣に展示されるという
「破格の扱い」を受けているものと思われます。

この”キャビンスクーター”は1958年製。

この車の前にある解説にはまずこのような出だしで説明が始まります。

”第二次世界大戦後、ドイツは荒廃しました。
メッサーシュミットのような会社は航空機の製造や、あるいは武器製造に
かかわるもの全てから、何年かもの間『忘れられ』 ていました”

 
へー、何だかとーっても他人事。
まるで自分の国が全くその荒廃の原因となった産業不振と関係ないかのようね。 
どうしてメッサーシュミットが「忘れられていた」のかって?
アメリカさんともあろう国がその理由を知らないはずないでしょ?
とぼけちゃって。


まず、この英語のwikiを見ていただけるかな?

Following World War II, Messerschmitt was tried by a denazification court
for using slave labor, and in 1948 was convicted of being a "fellow traveller."
After two years in prison, he was released and resumed his position
as head of his company.

メッサーシュミット社の創立者、ウィリー・メッサーシュミットの記事です。
日本語のwikiだと、上記の「非ナチ化」裁判、あるいはその下の
「同伴者」(戦犯とまではいかないが協力した者)という説明がなかったので
あえて英語wikiを載せました。

元々この非ナチ化は米英ソの三国によって決められ、アメリカは占領政府のもと、
ドイツの非ナチ化を行うべく、戦犯裁判において自らがナチ党員だけではなく、
ナチズムと軍国主義の支持者全員の公職、準公職から排除することとしました。
また、社会の要職につく人々とナチ党との関係を審査し、
その結果公務員の3分の1が解雇されたということです。

ところが日本に対する厳格なやり方とは違い、アメリカはここでドイツ人に対し
アンケートをしてその結果を裁定する、という甘々な方法をとったため、
誰も本当のことを答えませんでした。

そりゃま普通そうなりますわね。

そこでアメリカはドイツ政府にその「非ナチ化」をドイツの法律として制定させ、
それらをドイツ人の手に任せたわけです。

ここからが問題。

同胞がそれを決定するということになれば、今度は身内の庇い合い、
実力者のコネで無罪を勝ち取る、恨みを買うのを恐れて告発することをためらう、
こういったプチ暗黒社会化とでもいうべき当然の成り行きが待っています。
そもそもそんな告発委員会のメンバーになど誰もなりたがりません。

しかしさすがはドイツ人、そんなときにも組織はさくさく機能したため、
景気よく?ドイツもこいつも戦犯として牢屋に入ることになってしまい、
そのためドイツ社会は人手不足が深刻になってしまって当然産業は空洞化し、

「ドイツは荒廃し」ます。

つまり、アメリカが戦後日本にもやったように、戦時中の基幹産業を
すべて「戦犯」の名の下に駆逐してしまったこともまた、

「ドイツの荒廃を招いた」

ということだったんですよ。
というわけで、どこのドイツが直接この国を「ruined」させたか、
分かっていただけたかな?ヒラー博物館の人。


メッサーシュミットは強制労働をさせた罪でアイン・シュトリンケンデ・マールツァイト
(臭い飯)を2年間喰らって娑婆に出てきて再び社長になりましたが、
メッサーシュミット社は航空機の製造や研究を1955年まで禁止されていました。

それで、プレハブ住宅やこういった小型自動車を作って堪え難きを耐えていたわけです。
日本でも、戦時中に航空機を作っていた会社は殆どがその製造を禁止され、
例えば川西航空機はお菓子のあられまで作って耐えたという話がありましたが、
この会社の場合、転んでもただでは起きなかったので、このときの何でもやった経験が
戦後の事業にうまく結びつき、多角化に成功して今日に至ります。


さて、その頃メッサーシュミットが制作したのが、この「キャビンスクーター」でした。
低燃費で長距離を走ることのできる「バブルカー」(キャノピーがバブルのようだから。
バブル時代に六本木カローラと言われたベンツやBMWのことではありません)
というカテゴリのミニカーです。

やはり戦時中、ユンカース、フォッケウルフのエンジンを製造して来たBMW社
(バイエルン・モトーレン・ウェルケ)も、戦時中に
捕虜収容所の囚人を3万人労働させたということで3年間操業停止処分を受けましたが、
解禁後まず二輪車、そして次は「イセッタ」という、やはりバブルカーの
ライセンス生産をしながら次第に生産を軌道に乗せていっています。

このイセッタ、わたしは今回初めて写真を見たのですが、ドアが前にあるんですね。
ハンドルがジャマで出られないような太った人は乗るな、というコンセプトですか。
かわいいというか・・・・キモカワイイ、って感じ?

しかし、BMWはこの「イセッタ」に、バイエルン州の州旗からとったブルーと白の
マークは付けても、1933年からシンボルデザインとしていた「キドニーグリル」
(フロントグリルの豚の鼻のような肝臓を象った窓)を使っていません。

BMWのプライドかな?と思ったのですが、この車にはフロントグリル要りませんよね。




実に愛らしい。こんな犬いますよね。

同じようなコンセプトだったフォルクスワーゲンほど一般的には
なりませんでしたが、今日でも蒐集家に取っては垂涎の一品となっています。

元々「雨を避けることのできるスクーター」というコンセプトなので、
名前も「カビネンローラー」(キャビンスクーター)と名乗ったりしていましたが、
これがこのバブルカーの総称にもなっています。

エンジンはコンパクトで、強制空冷単気筒の200cc。
バイクだとしても中型ですね。
4段階マニュアルトランスミッションで、バイクと違うのはバックもできること。
最高時速99キロ、(十分ですよね)
ガソリン1ガロン(3、79L)あたりの燃費は100マイル(160キロ)。
つまり、リッター・・・・

42キロメートル・・・・・だと・・・・・。(愕然)




ブルーエンジェルスのコクピットもありますよ。


さて、「戦犯企業指名」なんですけどね。
どうしてもこういう言葉にこだわらずにはいられないエリス中尉としては、
「戦犯」って何なのよ、ってことをちょっとだけ書いてみます。


これつまりは「戦争に負けた」から負けただけのハンディを負わされただけなんですよ。
もしアメリカとイギリスが負けていたら、グラマンもシコルスキーもヴォートも
レイセオンも、ソッピースもスーパーマリンも戦犯企業として操業を停止され、
たとえばこんな玩具みたいな車を作って糊口をしのがなくてはならなかったってことですよね?


つまり「戦犯」という言葉は、戦争当事者同士の間にのみ存在するべきで、
しかもその「ペナルティ」を受け終われば、もう消滅すべきものなのです。

と こ ろ が 。

なぜか、日本と戦争していたわけでもなく、徴兵されたわけでもない国が、
戦後70年にもなっているのにいまだにこの言葉が大のお気に入り。
つい最近も「戦犯企業は戦時中の労働に対する賠償を云々」
などという案件を裁判沙汰にして、賠償金をむしり取ろうとしているんですね。

なんなんですかこれ。

日本を「戦犯」と呼んでいいのは、日本と戦って勝った国だけです。
日本と一緒になって戦っていた国にそれを言う資格はないのです。

しかもその「罪状」は、東京裁判の結果、国家指導者を首吊りにして生け贄にされ、
公職追放の嵐は吹き捲くってGHQの思想統制は国民を席巻し 、全ての価値観を変えられ
・・・・、しかし、そんな悪夢のときを経て曲がりなりにも独立に至った、
あの時点で法的には勿論歴史的にもすっかり消え失せていると思うんですがねえ。

だいたい反省せよというならばあの時期を反省期間と言わずして何というのか。
戦争に負けて反省する必要があるとはわたしはみじんも思いませんが、
あの時期、日本は占領下で「反省」の言葉と共に散々辛酸を嘗めたではありませんか。


何度も言いますが、戦争に善も悪もないのです。
あるのは、勝ち負けだけで、負ければ「罰ゲーム」が待っている、
それだけのことなんです。
罰ゲームで運が悪ければ国が無くなりますが、国さえ残れば、
罰ゲームをとっとと終えて、後は何の遠慮もなく国を復興隆盛させてもいいんですよ。
そして、それを引け目に思ったり、ましてや反省する必要などないのです。


かつて世界に「戦犯国」と呼ばれた国が二つあります。
どちらの国も敗戦の痛手から立ち上がり、戦犯国としてのペナルティを受けた後も
工業技術の分野で世界のトップ集団に返り咲いて戦後の繁栄を成し遂げました。
そして 

「世界にいい影響を与えている国」

のアンケート結果は、2012年・2013年とこの両国が占めています。
いまや(世界でただ一カ国を除いて)この二カ国を戦犯国などと呼ぶ国はありません。








チェコスロバキア製の高速ジェット練習機、

L−39アルバトロス

の前のおじいちゃんと孫。
この博物館で夏の間開催されているサマースクールの生徒で、
おじいちゃんはお迎えにきたみたいです。
今日やったプロジェクトをまず見せて報告をしているのでしょうか。


彼らが前に座っている飛行機はまだ現役で、ロシアでも運用されているそうですし、
フランスではアクロバットチームが運用したりしています。

チェコスロバキアはその後チェコとスロバキアに分かれましたが、
その際、仲良くこのアルバトロスをスロバキア14機、チェコ30機、と分けたようです。

ご存知かもしれませんが、チェコスロバキアはベルリンの壁崩壊をきっかけに
「ビロード革命」という流血の全くない(デモ隊と政府のぶつかり合いは勿論あった)
革命を経て二つに分かれた国ですから、こういう場合も遺恨を残すことなく
すんなりと分配が進んだのかもしれません。

少なくとも、独立戦争後どちらかが片方を「戦犯」としてマイルールで裁く、
などという支配被支配の歴史を作るようなことにならなかったのは
両国民に取って幸せなことであったに違いありません。


・・・と、無理矢理話を結びつけてみました。
ふう、落語の三題噺を終えた高座の気分。

 


 

靖国神社遊就館〜或る海軍兵学校生徒の日記

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自慢するわけではありませんが、わたしは靖国神社に併設されている資料館の遊就館には、
いつでも無料で入館できるという「特権階級」でございます。
何のことはない、靖国神社の崇敬奉賛会の会員であるというだけのことなのですが、
これに入っていると年始の昇殿参拝をあまり待たずにすることができますし、
例大祭のご案内などもいただけます。

まあ実際は特典を最大限に利用しているかというとそうでもないのですが、
立ち寄った際、時間があれば無料ゆえの気楽さでふらりと遊就館に入って、
その日観たいところだけ観て帰る、というぜいたくな?こともできてしまったりするわけです。


あるとき、以前このブログ中でお話ししたことのある

「兵学校の入校初日にあたって、海兵生徒がその感想をしたためた日記」

というのをもう一度じっくり見てみることにしました。
ガラス越しに一通り読んだその日記が、そもそも誰のものであったのか、
そのころ(ブログ開始直後ですから4年前のことになります)には
何の蓄えた知識もなく、よって記憶に残ることにもなかったのですが、
今ならおそらく、というかほぼ確実にその名前に心当たりがあるはずだと思ったからです。


ところで、遊就館内は写真撮影が禁じられています。
そのはずなのですが、ほんの時々、人気がないのをいいことに、
こっそり撮った写真をなぜかこれは堂々とブログにアップしたりしている人がいて驚きます。

以前少し書いた、来栖駐米大使の息子である来栖良大尉の写真とか、
野中五郎少佐の茶器とかをネット上で今まで見たことがあるのですが、
写真を撮るのが禁止なら、それをネットに載せるのはもっとまずいのでは・・・・。

特に命の方々の顔写真は、秘蔵するためにこっそり撮るだけならともかく、
世界中に発信してしまうのは厳に慎むべきだと思うのですが。


さてこの「日記」です。
わたしの場合はそれをさらすのが目的ではありませんし、書き写すのが面倒なので
写真に撮りたかったのは山々でしたが(笑)そこはぐっと我慢して、
その場でメモを取ってきました。


十二月一日 金曜日

兵学校浴槽にて娑婆気を洗いさり、軍服を身につけ、
短剣を帯びて大講堂の入校式に赴く
校長閣下永野(修身)大将の訓示には感激そのものなり。
代表田結保が宣誓書を拠出
校長閣下の「生徒を命ず」の声を聞いたとき思う 
愈々海軍兵学校生徒になれたのだ

御写真奉掲
陛下に海軍軍人として責務を盡すことをお誓い申す

更に感激を増したものは
殿下が同期においでになることだ


この生徒は兵学校71期。
12月1日という異例の季節に入学式が行われました。
一期上には菅野直中佐、特攻第一号とされている関行男中佐がおり、
同期には大和特攻に乗り組んでいた臼渕巌中佐がいます。

彼はこの581名の卒業生の26番というハンモックナンバーで卒業し、
在校中は分隊の隊長を務めた秀才でした。
彼が文中で「感激」した「同期の殿下」とは久邇宮徳彦王のことです。

当時の生徒らしく「なり」という文体で書かれているものの、
どことなく幼い文章を取り繕うこともなく素直に喜びがつづられ、
読むものにもその「感激」が素直に伝わってきます。

やはり彼にとっても「軍服に短剣」は憧れであったのでしょう。


夜自習室の前に整列 上級生に挨拶し
自分等十五名の出身学校 皿に(ママ)生命申告を行う
声が腹から出ずとの理で(ママ)数回声を張り上ぐ
緊張しきっていたものの 上級生は笑いながら叱られるので
終わりになると可笑しくて思わず笑いかける
中には笑ってまた叱られる 然しやっと十五名終了し
冷や汗を流したが、又心中はなんだか芝居のごとき感がした。(終)


よく話題になり「嗚呼江田島海軍兵学校」「海兵四号生徒」という映画でも
出てきた「姓名申告」がこのように書かれています。

昔、(といっても4年前ですが)最初にこの日記を遊就館で見たときに
「地獄の姓名申告」とまで言われたこの「イニシエーション」(通過儀礼)が、
「皆が笑い虫に襲われたような状態で」しかも「芝居のごとき」となっているので、

「兵学校とはこんな感じ」

と固定したイメージを持っていたわたしは、大変驚いたものです。

もしかしたらこの大人数クラスの七十期以降、儀式は形骸化してしまっていたのでは、
とその時も書いたのですが、あれから4年経ってもう一度この文に触れ、
やはり兵学校の生徒と言っても、この学年に限らず、所詮若い男の子の集団、
ときにはこんなこともあったのだろうと微笑ましく思うようになりました。
彼らの本来の「幼さ」から見れば、決してありえない話ではなかったのだろうと。


それにしてもこの文章を書きだしてみて改めて思うのですが、
この筆者は(秀才であったわけですが)あまり「文才」はなかったようです。
きっとたまにいる「文章下手な理系の秀才タイプ」だったのですね。


十二月二日 土曜日

起床、始めての(ママ)兵学校「総員起し}を行す
朝の日課を見学す。精神教育にて、兵学校精神を叩き込まる。
短艇の各部の名称、および上げ下しを教わる。
土曜日であるので、総員運動の総短艇を実地さる。
新入生はこれを見学す。
十四分隊は惜しいところで二着となる。
伍長に引率され校内を案内さる。
自習時の後半断間に例規の説明が行わる。
以後十六日まで行われる予定。


新しい環境で、何もかも初めてのことばかり。
珍しさと緊張で少し舞い上がっている様子が垣間見えます。


十二月三日 日曜日

期訓にて古鷹登山を行わる。
天青く澄み、浩然の気を養うに好都合なりき。
遥か彼方に室積を偲ぶ。
午後入校挨拶を方々に出す。
短剣姿を写真に撮る。


室積、というのは山口県光市の室積のことだと思います。
おそらく古高山の頂上から室積の半島が見えたのでしょう。
しかし「偲ぶ」というのは何かが違うような・・・。
まあいいです。彼は理系の秀才だから。(勝手に決めている)


それに、彼がこの時にこの場所を目に留め「偲んだ」と書いていることに
わたしはちょっとした符号というか偶然を感じるのです。


まず、この文章が幼さを感じさせるのも道理。
彼は四天王中学の四年生で兵学校に、しかも上位の成績で入学しており、
これが書かれた時には彼は若干16歳の少年にすぎません。

この日からちょうど5年後の1944年11月20日、 
彼はウルシー環礁において特攻兵器「回天」に乗り、
米油槽艦「ミシシネワ」に突撃し、戦死しました。

彼がのちに回天の訓練を受けることになる徳山の基地は、
彼自身は全く意識にはなかったはずですが、
古鷹山からおそらくこのときにも見えていたはずです。
そこは「室積」からは至近距離にありました。


そう、この兵学校に入校したばかりの出来事を、喜び溢れる、
少しばかり稚拙な筆致で書き残した少年は、あの
仁科関男海軍少佐(戦死後二階級特進)だったのです。


実に迂闊ながら、わたしは最初にこの日記の部分を読んだときには
この名前を記憶していませんでした。
それから4年の間に、回天について書き、あるいは彼らの隊長であった
板倉艦長について書き、すっかりその名前は特別な意味をもって
認識されるようになっていたのでした。


12月4日 月曜日

陸戦は徒手にて行わる。
不動の姿勢、右向け左向け等、中学校の一年にて習ったところを行う。
然し中学校では今や相当困難、複雑なところを習って
基礎を反復練習しておらなかったので、正確に動作することができなかった。
何でも「基」が大切だ。
血液型検査があった。自分はAB型であった。
通信は合調音語について習う。
余程しっかり練習しなければ覚えることができないぞ。


うーん・・。可愛いですね。最後の言葉。

ここにあるのは大学ノートに万年筆で書かれたらしい文字で、
きっちりとした文字は彼の性格を表しているようでもありますが、
ところどころ誤字もあり、間違いを上から書き直しているところと言い、
まるで昨日書かれたような生々しさがあります。

この時には彼自身も夢想だにしていなかったでしょうが、
仁科関男は、潜水学校卒業後「甲標的」の講習員として着任した際、
回天の考案者である黒木博大尉と運命の出会いをします。

この二人が出会ったことで「回天」は実地に至ったともいわれ、
黒木大尉と共に仁科は回天の考案者と呼ばれています。

回天が試作を経て実戦に投入されるまでの期間に、
創案者であった黒木大尉は訓練中の事故で殉職し、
後に残った仁科は黒木大尉の意志を継ぐべく
回天隊を率い、そして自らが出撃して散ったのでした。

その最後の日々、仁科中尉の様子は鬼気迫るものだったということです。


この日記に記された兵学校のまさに最初の日の、
少年のような仁科関男の目に映った徳山の海岸は、
その時どのような色を讃えていたのでしょうか。

仁科関男は特攻戦死後二階級特進し、
わずか21歳の海軍少佐になります。

71期の生徒で、同じく大和特攻に参加し、二階級特進した臼渕巌少佐とともに
少佐に進級したのは二人だけでした。 


ところで、わたしがその後一度遊就館を訪ねたとき、
仁科生徒の日記はそのままの場所にありましたが、どうしたわけか、
ページが閉じられて表紙を見せるだけになってしまっていました。


今ではその日記の文章を読むことはできなくなっています。




 



 

キャッスル航空博物館〜女王陛下のアブロ・バルカン

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キャッスル航空博物館には全部で56以上のレストアされた展示機があります。
なにより日本人としてうらやましいのが、まずそういう広い展示をするスペースがあること。
これは、もと空軍基地だったところがまるまる博物館になっているのですから、
当たり前と言えば当たり前なのですが。

そして、 なんといっても、これだけの航空博物館を運営していくのに、
必要なだけの資金がおそらく空軍からも出ていることです。

展示航空機は空軍海軍からそのままスライドしてきたものが多そうですが、
中には展示説明版に「どこそこの誰々が寄付したもの」と書いてあり、
個人あるいは団体の所有物であったことを示している機体もいくつかありました。

つまり集まってくる経緯や入手先はさまざまだということですが、その中で、
アメリカ軍のものではない飛行機がここには2機ありました。


一つが冒頭写真の 



AVRO VULCAN B. Mk 2 (アブロ バルカン)

ヒラメのようなうっすーい機体を見る限りそうは見えませんが、こう見えて戦略爆撃機。
イギリス軍が、冷戦時代、ソ連への侵攻を想定し、スピードと高高度、
そして爆弾搭載機能を同時に兼ね備えた機体を開発したものです。

オペレーション開始は1952年のことです。
1980年代に引退するまで、R.A.F(Royal Air Force、イギリス空軍)の所属でした。

デビューの時は、大掛かりな宣伝と発揚を狙って、なんと世界一周飛行をしたそうです。
しかし。

世界一周後凱旋してきたヒースロー空港に着陸失敗して、破損したのはここだけの話(T∀T)


戦略爆撃機としては、ヨーロッパ製のトルネードに置き換えられての引退です。



このバージョンは第二世代で、1960年にオペレーション開始となりました。

このキャッスル航空博物館にやってきたのが引退してすぐの1981年ですから、
もう30年以上ここに展示されているわけです。

この塗装の禿具合からみて、国旗とグレーの部分しか塗り替えていないのではと思われます。




当博物館の特色として、平面からしか航空機を見る術がないので、
実はこの飛行機がこんなシェイプをしていると知った時には少し驚きました。

なんか蛾みたいで、しかもまだら模様が少しキモいと思うのはわたしだけであろうか。

このタイプの水平翼のことを「デルタ・ウィング」というのですが、
これが爆撃機としてデルタウィングを採用した最初の飛行機です。

ヒラメのように薄い機体は、翼抵抗を少なくして航続距離を見込んだ設計です。

運用当初の主目的は核搭載(抑止力のためですよ、左旋回のみなさん)で、
そのため核爆発の閃光から機体を護るため、白色に塗装されていました。
(抑止力のためなら、なぜ実際に落としたときの想定をするのかって?
本当に落とすつもりがないと思われたら、抑止効果にならないでしょ?左のみなさん)

しかし、その後、これは世界的な傾向でもあるのですが、核抑止力は
航空機から戦略原子力潜水艦に求めるようになったため、バルカンの任務は
「低空侵入による戦術核攻撃」と宗旨替えをされ、そのために迷彩柄になったというわけです。

こんなおおざっぱな迷彩が、ステルス性につながるものだろうか?

とついシロートは考えますが、こう見えてバルカン、 1960年に英米連合軍()合同で
行われたスカイシールド演習では、仮想敵機(つまりソ連機)役を務め、
見事ニューヨークの上空に侵入することに成功しています。


ふと思うんですけど、この演習の時の仮想敵機パイロットのメンタルって、 

「気分もすっかり敵国機」

なんではないでしょうか。
このときのバルカンの搭乗員たちが5人が、すっかりソ連軍パイロットになりきって、
ニューヨーク上空に侵入した時には思わず

「ハラショー!」「ウラー!」

と快哉を叫んだ、に1ルーブル5カペイカ。





ここでちいとばかり注目してみた、バルカンおなかの部分。
翼幅は30メートル以上あるらしいんですが、ウィキペディアの画像と比べても
少し幅が狭い気がしますね。

調べても分からなかったのですが、このデルタウィングは可動なんでしょうか。

柵の中までは入れないようになっていたので、
核爆弾を収納する部分を写真に撮れなくて、それが残念です。
半月型のウィンドウは、B-17みたいに、爆撃手がずっとここから下をにらむため?
と現地では思ったのですが、実はバルカンの乗員は5名で、

正副操縦士、航空電子士官、レーダー航法者、進路設定者

つまり爆撃手という専門の係はいないのです。
爆弾投下もボタン一つなので、この航空電子士官という係がやってしまうんでしょうか。




バルカンのノーズを下から撮ってみました。

ところで、このイギリス空軍の飛行機がなぜここにあるかというと、
イギリスから「好意で」「無期限貸与」されているのだとか。


ふーん。さすがはもと同盟国同士。仲良しですな。


ちなみに、この説明ですが、「イギリスから」とかではなく、


「Her Majesty's Government」(女王陛下の政府、イギリス政府のこと)

とわざわざご丁寧に書いてあります。



エアインテークの蓋にもちゃんと手書きで文字が。
ちなみに英語読みだとこれは「ヴュルカン」となります。

余談ですが、英語で話していると一番困るのが「その国で認知されているところの発音」
を知らないと話が全く通じないことですね。

トム・クルーズの映画「ワルキューレ」、ワーグナーの「ワルキューレ」もですが、
英語読みだとそもそも単語が「 Valkyrie 」で、「バルキュリー」と発音します。
ドイツ語ではWalküreとつづりますが、これも発音すると「ヴァルキューレ」。
英語だと原語に近いスペルを当てはめてしまうんですね。

かと思えばKarl Zeissを、日本人はドイツ語発音に近い「ツァイス」と読みますが、
アメリカ人は「ザイス」と読んでしまうと言うようなこともあります。

と、アメリカ人と会話していて発音を直されたエリス中尉が言ってみる。




バルカンを撮っていたら、博物館の横にある線路を貨物列車が通りました。
最初なんとなく見ていたのですが、いつまでたっても最後尾がやってこないのです。

「え。これ、いったい何両編成なの」
「さっきからずっと連なってない?」

TOとこんなことを言いながら眺めていたのですが、写真のような普通のコンテナ、
ガソリンを積んだコンテナなど、優に100両はあったでしょうか。


「こんなのが通ったら、開かずの踏切だね」
「心配しなくても一日一回しか通らないんじゃ・・・」
「日本なら夜中走らすだろうけどなあ」


もっともそんなに早いスピードではありませんでしたが、全部通り過ぎるのに、
たっぷり10分以上はかかり、わたしたちはアメリカの広さをあらためて実感したものです。






 


朝霞訓練場装備展示〜自衛隊キャラ効果

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観閲式のあと、装備展示をしてあるフィールドには、前回もお伝えしたように
自衛隊ゆるキャラが あちらこちらに出没して写真のモデルになり、
愛想を振りまいていました。

白いユリカモメのトウチくんと一緒に撮影会をしているのは

千葉地本の千葉衛(ちばまもる)。

実は自衛隊というところは国民に親しみを持ってもらうために
イメージキャラを都道府県ごとに地本が音頭を取って決めており、

東京地本のトウチくん
岐阜地本のウーピー(鵜)隊、リク・カイ・ソラ
滋賀地本の滋賀ぽん(信楽焼のたぬき)などの動物系、 

山口地本の美陸(みり)・美海(みみ)・美空(みく)の三姉妹機、
福島地本の陸花(りくか)・夏美(なつみ)・美空(みそら)の福島三姉妹
(ページ下の方にあります)そしてこの間の岡山地本の三人娘のように、萌えキャラ系、


宮城地本のまもるくんたち、この千葉衛を長男とする千葉三兄妹のような
「人間着ぐるみ系」、

静岡の「しずぽん」、和歌山の「みかんの助」「かきの助」「うめの助」
岩手の南部鉄でできたいわてっき三兄弟 のような「産地名産品系」と大別されますが、


香川地本オリジナルキャラクターは、なんと実在の人物をキャラ化!

そして、熊本地本は現在キャラ募集中、さらに、

京都府は現在キャラ総選挙中だ!

京都府地本のキャラはあなたが決める!(煽り)


ちなみにこの千葉衛ですが、地本キャラとしてはもっともよくある「まもる」の名を持ち、

千葉衛 千葉未来(海自)千葉翔(かける)の千葉三兄弟

の長男として千葉地本のマスコットとなっています。
因みに千葉衛の特技は「瞬きをしないでいられること」だそうだ。それは凄い。

これらのキャラには各地本の思い入れというか、意気込みが感じられるものも多く、
例えば宮城地本はまもるくんのファンにならずにいられない活動案内ページを作っており、
こういうノリを見るにつけ、あらためて自衛隊の中の人の「普通さ」
(というか『お前ら』度の高さ)を感じます。

そういえば、ある海将の職場訪問をしたら、
ずらっと萌えフィギュア(自衛隊仕様)が並べてあったなあ・・。
副官におそるおそる

「これは・・・なぜ、ここに・・・」

と聞くと、

「はあ、全部海将の・・・・・(口ごもる)」

という答えで、漠然と不安になったそんなものかと思ったものです。



155mm榴弾砲(FH70)

第一空挺団の行動展示では120mmの迫撃砲を引っ張りますが、
これも車両に連結させて運びます。
ただ、短距離(ってどれくらいだろう)なら自走もできるのだとか。

何度もしつこいですが()防衛省的愛称は「サンダーストーム」、しかし現場では
「エフエッチナナマル」とか「エフエッチ」と呼ばれています。


日本鋼管によってライセンス生産されるようになってから、陸自の主力火砲とされ、
陸自音楽隊の序曲「1812年」で特に活躍してきました。


チャイコフスキー作曲・序曲「1812年」

音は正直なところ他の映像と比べてかなりしょぼいですが、(録音位置の問題ですよ)
音楽隊員がキューをだしてから発砲するまでの様子や、隊員の動きがよくわかります。
お時間のない方は初弾3分40秒あたりとラスト5分40秒からご覧になることをお勧めします。

ただ、FHは導入されてから30年も経ち、そろそろ次世代への転換が進められており、
現在は開発している真っ最中だと言うことです。

1812年の伴奏だけからいえば、もう少し膨らみのある音(ってどんなだ)の砲がいいかな。
ついでに、自衛隊の1812年では、最後に全砲が一斉射撃しますが、
あれはチャイコのオリジナル楽譜には有りませんので念のため。




さて、前にも一度お伝えしたことが有りますが、10式戦車の動的展示が
時間になったので始まりました。
あっというまに人だかりができます。 



全世代の男が食い入るように見つめる中(笑)、
10式は360°回転したり、主砲を上げたり下げたりという動きをしています。
戦車そのものより、戦車に夢中になる人たちの方が見ていて面白いので、
わたしが写真を撮るとこうなります。



全員が手持ちのデバイスで動画を撮っておる。
10式の動きの凄さというのは機敏さと砲撃の正確性にあるそうで、
特にスラロームしながらの動的目標への射撃は百発百中ということですが、
こういった展示でそれがわかるということはいかに戦車オタクでもないんではないか?




とはいえ、オタクの眼力をなめてはいけない。
わたしには従来の戦車との違いなどさっぱり分からなかったけど、
分かる人が見たら

「うむっ!やっぱり車体の柔軟度が90式と比べ全く向上している!」

などと着眼点が全く違うのかもしれないし・・・。(適当)




展示が済んで降りて来る隊員二人。
一人は砲塔、一人は操縦席です。
10式の定員は3名。
その他特筆すべきは車内は

冷暖房完備

だということなのですが・・・・それってつまり、

これまでの戦車は冷房も暖房もなかったんですか?



91式戦車橋

戦車なのか橋なのか。
むかしは「工兵」というのがいて、土木関係を請け負ったものですが、
陸自ではこの部門を「施設科」といいます。



91戦車橋が橋を展開し、敷き 、再びたたんで帰っていくまで。
ある意味予想の斜め上をいく展開収納法で、ショックを受けました。



92式地雷原処理車

これも、富士演習場の総合火力演習の映像を見ていただくのが早いでしょう。



発射されたのは地雷原処理用ロケット弾で、地雷を爆発させ、車道を確保します。
ちなみにこの写真に写っている見張りの隊員は思いっきりカメラ目線です。



07式機動支援橋

先ほどの91式よりは小さい橋ができますが、戦車も渡れるようです。
自衛隊が30分に及ぶ展開の映像を提供していますが、
考えることは皆同じ、これをじっと見ているのはいくらなんでも、と思って
さがしたところ11分の早回しにまとめたものが見つかりました。



これ、面白いです。
つい最後までじーっと見入ってしまいました。
まず人間一人が渡れるだけの細い橋を渡してから戦車用を展開するのですが、
2分20秒頃、橋を渡ってくる隊員(顔は見えず)のマッチョ体型に思わず目が釘付け(笑)

展開した後は柵までつけますし、中央には分離線が引かれています。
そして完成後、作った当人?が渡り初めをし、後続車両が続きます。





こういう施設科の力技みたいなお仕事を見た後にこういう写真を見ると、
自衛隊とは実にいろんな職種があるものだと感心します。
およそ生活していくうえで必要なほとんどの仕事を網羅しているのではないでしょうか。

このにぎわいは、もしかしたら地本ゆるキャラ大集合?



と思って前に回ってみたら、東京地本のトウチくんと、
埼玉地本のサイポンが、なぜか陸海空と全員出動していました。

このサイポンですが、顔は「勾玉」の形をしているんだそうです。
埼玉が勾玉で有名な?さきたま古墳群があるからなんですね〜。


ところで疑問なんですが、このサイポンは、中の人もやっぱり埼玉地本から
出張して来たのでしょうか。
それとも、当日会場の所属自衛官のなかから誰か見繕うんでしょうか。 




こちらでは移動して来たトウチくんが千葉衛と写真撮影会。
微笑みつつその様子を眺める責任者らしい地本のベレー自衛官、
ついでにキャラクターにしちゃえば?というくらいこの人は目立っていました。




ゆるキャラとかHPの漫画とか、そういった「いまどきのはやり」で
関心を引くのに懸命な地方協力本部。
前にも言いましたが彼らの仕事には自衛隊なのにノルマがあり、
なんと、HPの閲覧数の順位すらしのぎをげずっているのだそうです。

とても自衛官勧誘が目的に見えないシュールなマンガを掲載する
というあこぎな方法であっても、とにかく閲覧数を上げれば勝ち、
という風潮が巻末にあげた「岩手ぴこ」などにも窺い知れます。




帰りはバスに乗ることにしたので、来たときとは別の門から出ました。
門を出るときにこの日のパンフレットをたくさん持った隊員が、
「本日の記念にどうぞお持ち帰り下さい」
といいながら配っていました。

足りなくなるよりはと多めに刷ったものの、残して捨てるのは
これも国民の税金を使っている以上、大変申し訳ない、
だから一部でも減らしたいという一途な思いが感じられ、ついつい
受け取ってしまいましたが、よく考えたらわたし、もうすでに4冊持っていたのよ。
(一冊は雨に濡れてぼろぼろになったけど)

一冊受け取ったら

「もう一冊いかがですか」

って、そんなたくさんいらないってば。一冊でも捌きたい気持ちはわかるけど。 



バス乗り場は少し離れたところに有り、そこまで点々と隊員が
道しるべのように立っております。



そして、ひとりひとりに必ず「ありがとうございました」と声をかけるのですが、
あまりに丁寧すぎて
「そこまでご挨拶して下さらなくても」
と恐縮してしまいます。



出口手前に不思議なクリーク発見。
これは、なんだろう。
もしかしたら塹壕戦の実地訓練用?


実はわたくし、最近ここに知り合いができたんです。
「遊びに来て下さい」
っておっしゃってたけど、自衛隊的に言うところの「遊びに」ってどういう意味ですか?
やっぱり、見学とかさせてもらえるってことかな?
京都の人ならともかく、そう言われたらわたし本当に行っちゃうよ?


というわけで、もし基地訪問が実現したら、この塹壕の正体も聞くことにします。



駅までのシャトルバスは、自衛隊仕様ではなく民間のバスが出動していました。
しかし、輸送に当たっていたのは実は自衛官たちだったようです。

「観客輸送隊」

かあ・・・。
やっぱりこういうところが自衛隊ならではだなあと最後に細かいところに感心しつつ、
朝霞訓練場を後にしました。



おまけ*




この日帰りに「とらや」に寄ったのですが、このときとらやでは
「猫シリーズ」をしていました。

写真のくずようかんは「みけ」。
みけ、というよりこれは白黒に多い「はち割れ」っていう種類ですけどね。

老舗の和菓子屋もゆるキャラ風味でお菓子を作る時代。
若者を確保したい自衛隊においてをや、ってところでしょうか。



おまけその2*

岩手地本のページでとんでもない漫画を見つけてしまいました。

「岩手ぴこ」

もう・・・・・・・・・カオスです。
岩手地本はいったいどこに行こうとしているのか。
しかも地本、PCO(Provincial Cooparation Office)なのにいつのまにか
「ぴこ」になってるし・・・・・・。

 

三井造船資料室〜「海軍のまるゆ」・占守型海防艦

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護衛艦「ふゆづき」の引渡式および自衛艦旗授与式のために行った
岡山県玉野にある三井造船本社には、いかにも戦前からあるらしい
古めかしい二階建てと、これも当時は超モダンであったに違いない
洋風建築の社屋があり、こちらでは祝賀記念パーティが行われました。



祝賀会場が行われた建物。
右手にちらっと写っている、昔の田舎の小学校みたいなのが
我々の控え室があったところです。

その様子を微に入り細に入り出された料理から出席者の経歴まで(笑)
お伝えして来たわけですが、こちらの建物の二階にある

「三井造船資料室」

を見学したことをまだお話ししていません。
ここは招待者の中でも特別とでもいうべき上客のための控え室で、
本来ならわたしごときが立ち入ることは決してなかったのですが、
いろいろあって(笑)ここで始まりを待っている間、三井造船の社員から

「我が社の資料室もどうぞご覧下さい」

という案内があり、喜び勇んで見学してきました。

資料室は二部屋続きの小さなもので、おそらく全員が行ったら
大変なことになっていたと思いますが、こういう式典に来るような人は
何度もここに着ていて一度は観ているのか、あまり人はいませんでした。



わたしの恩人である同行のI氏も見学辞退したため、一人でやってきました。



鵜飼宗平氏。

インターネットで産業新聞の記事を探していてわかったのですが、
三井物産が大正6年創立した造船部門を分離して、当初は東洋造船株式会社という
仮称であった「玉造船所」という新会社を設立した際、
三井物産の造船部長であった鵜飼氏は、新会社の常務として就任しています。

元来三井物産造船部は、船舶の建造並に修繕を専門の事業として設立されました。
その種類は貨物船に限られていたのですが、昭和になってから海軍からの注文が増え、
社外からの注文も殺到しだしました。
三井物産本来の事業である貿易業とは別個の色彩を帯びて来たことと、
将来造船所の拡充を図るためには、単独の造船会社として取扱うのが好都合だったので、
造船部独立の実現を急ぐこととなったのです。

物産の部長から役員としての新会社への引き抜き。
創業者ではなく叩き上げです。
おそらくハンパなく「デキる男」だったのに違いありません。

 

川村貞次郎氏。

三井物産の船舶部門は御用船を製造していましたが、第一次大戦の勃発とともに
船腹がいよいよ不足し、修理工事さえ船主の意に任せない状況になってきました。
そこで造船部の新設を提議したのが船舶部長川村貞次郎です。

当初の社名が「玉造船所」というのは、昔ここの地名は「玉野」ではなく
「岡山県宇野湾大字玉」つまり「玉」だったからみたいです。
「玉」が言い難く不便なので「玉野」に変わったのでしょうか。

お二人とも資料室にブロンズ像があるくらいですので、つまり新会社としての
三井造船の「創立メンバー」だったってことでよろしいでしょうか。


資料室といっても、当時の写真とパンフレット、せいぜいいくつかの模型、
という最小限の展示だったりするのですが、



わたしが個人的に盛り上がった?のがまずこの銘板。
「せとゆき」DD131の士官室にあったものです。

「せとゆき」は1986年に就役し第2護衛隊群に配属された護衛艦でしたが、
2012年に練習艦に種別変更され、練習艦としては自衛隊初となる女性が
2014年4月現在も艦長を務めているフネです。

東良子艦長は防衛大学校の40期で、つまり防大が採用した

女子学生1期

の卒業です。

このフネの「初めて」はそれだけでなく、護衛艦時代の1999年には、
「しらね」「とね」と共に東シナ海において初の

「日韓共同訓練」

を行っていますし、2010年には和歌山県串本沖での

「エルトゥールル号遭難120周年」

では洋上での追悼式を行う艦船となりました。
このときに在日本・トルコ大使、トルコ軍楽隊、寛仁親王夫妻、
県知事や串本町長などが乗艦し、戦後の自衛艦としては
皇室・対外王室の初のお召し艦となりました。

そんな功績のおかげかどうかはわかりませんが、竣工30年を経て本来なら
そろそろ引退となる老齢艦なのですが、平成23年度予算において
5年間の延命予算が要求され、現在に至ります。

この士官室銘板は、平成23年、練習艦に改修された際、防衛省から
「せとゆき」が建造された三井造船に

「里帰り寄贈」

されたものです。
練習艦となった時点で「せとゆき」は艦番号が

TVー3518

と変わりましたから、銘板も用済みとなったのです。

しかしこの「士官室」という言葉。
「士官」という言葉は直接階級を表す言葉からは消えましたが、
「当直士官」「士官室」、こんな形で現在も残っているのですね。

「士官」ファンのエリス中尉としては嬉しい限りです。



三井造船が手がけた護衛艦、海保艦のパンフレットが飾ってありました。

「おおすみ」「ぶんご」「ちはや」そして「おじか」。
いずれも平成の建造艦で「おおすみ」は平成8年、「おじか」は平成3年就役です。

平成になってから制作されたにしてはパンフレットがイラストのため昭和テイストですが、
いずれも建造中に制作するため艦の姿が「想像絵図」にならざるを得ないのでしょう。



これは三井物産の船舶部門が初めて大正6年(1917)建造した
1番艦で、木造の貨物船「海正丸」。

児島郡宇野村(現宇野)の仮工場で操業を開始した三井物産造船部ですが、
当時は鋼材が暴騰しており、やむなく木造船建造に着手したのでした。

写真は進水式の様子で、舳先の前にやぐらを組んで、まるで地鎮祭のように
榊を張った祝詞台をわざわざ作っているあたりに時代を感じます。

進水式の進行は、まず命名式が行われた後、支綱切断の儀式を行います。
この支綱はくす玉とシャンパンなどに繋がれているのですが、本船では
シャンパンなどと云う洒落たものが使われたかどうかはわかりません。
おそらく清酒だったのではないでしょうか。

酒瓶などが船体に叩きつけられると同時に、船名を覆っていた幕が外れ、
くす玉が割られると同時に、船は進水台を滑り(またはドックに注水し)降ります。

このとき、進水式に参加した方の話を聞いたのですが「ふゆづき」が
進水していくとき、雷鳴のような凄まじい轟音がしたそうです。

一度聞いてみたいなあ。

 

進水式で支綱切断の時に使われる斧と鎚がここに飾られていました。
これらはその艦船ごとに新しく作られます。
画像は銀の斧と鎚ですが、これは日本独自のものなのだそうです。

銀の斧は古くから悪魔を振り払うといわれている縁起物で、
斧の刃の左側は通常3本の溝が掘られ、これは三貴子、
(みはしらのうずのみこ:アマテラス・ツクヨミ・スサノオ)
右には四天王を表す4本の溝が掘られます。

この斧は右面を見せているので、ちゃんと溝が4本掘られているのにご注目。
これは本物ではなくレプリカだと言うことです。
何となれば、実際に使われた後は支線を切断した者(女性)が記念に貰うらしく、
同行のIさんは

「家内が何度もやったのでうちには斧がいくつもあって(困る)」

とぼやいていました。
まあ、飾っておくものでもないし、かといってヤフオクにも出せないし。
それを聞いたときに「なんてうらやましい」と一瞬思いましたが、
よく考えたら物置の肥やしにするだけですね。
進水式の支鋼カット、一生に一度くらいやってみたい気もするけど。
 
この鎚が日本で初めて使われたのは1891年、巡洋艦「橋立」の進水式のことです。



右上が「海正丸」の進水式記念絵はがき。
岡山で進水式が行われること自体が初めてだったので、駅から港まで、
見物の人が詰めかける大騒ぎになったそうです。


その左は1952年に行われた「青葉山丸」(あおばさんまる)
の進水式のくす玉が割れる瞬間。

青葉山丸は、欧州航路参入への布石として行われた
東回り世界一周線に就航した三井船舶のAクラスボートのひとつです。



高速貨物船「報国丸」。

戦時徴用船、という響きだけで、その壮絶な運命について調べ、
「沈み往く戦時徴用船」というエントリで戦争画の模写までしてしまった
エリス中尉としては、もう胸が苦しくなってしまうのですが、この「報国丸」は、
大阪商船が南アフリカ航路の開設に伴って就航させた貨物船で、
優秀船舶建造助成施設の適用を受けて建造されました。

建造前にすでに有事の徴用を予定された船であり、建造直後から
海軍軍に徴用され、就航していました。

この船が普通の徴用船と少し違っていたのは、三菱造船所で改装されて
特設巡洋艦として生まれ変わり、姉妹船である「愛国丸」とともに
燃料や魚雷を潜水艦へ補給するための設備を設け、その改装期間中に
主砲を3年式14cm単装砲に換装していたことです。

姉妹は連合艦隊第24戦隊(その後第6戦隊)に編入され、通商破壊活動
( 戦時に、通商物資や人を乗せた商船を攻撃することによって、
海運による物資の輸送を妨害すること)に従事しましたが、
「報国丸」の方は1942年、インド洋で敵艦の砲撃を受けて炎上、沈没しました。 

このとき「報国丸」の救助に向かった「愛国丸」は、1944年、トラックで
米軍艦載機の攻撃により戦没しています。 



 

右上は「第16号掃海艇進水記念絵はがき」。

掃海艇は全て艦名が番号でさすがに「艦これ」に登場しようがないみたいですが、
同型艦を4隻持つ「第13号型掃海艇」の4番艦にあたります。

 昭和6年度のマル1計画(海軍軍備計画で、最上型、初春型、伊6など建造)
で建造された掃海艇で、第13号型の4隻はいずれも戦没。

第16号掃海艇は1943年、マカッサル沖で航空機の攻撃によって沈没しました。



左は「軍艦占守」(しむしゅ)の進水記念絵はがき。
昭和14年12月13日の日付があります。

「占守」は「占守型海防艦」の1番艦で、千島列島北東端の島、

占守島(しゅむしゅとう)

に由来します。
「しゅむしゅ」は発音し難いと思ったのか「しむしゅ」にしたようですが、
こちらも大概ですね(笑)

(占守)

昭和初期、オホーツク海など日本の北方海域においては、
ソ連と日本との間で、漁業紛争がたびたび起こっていました。

そのため、日本海軍は漁業保護用に駆逐艦を派遣していましたが、
高コストであることと耐寒装備がなかったため、
漁業保護用に運用するために新たに建造したのが「占守型海防艦」です。

ソ連の警備艦艇と交渉を行うことも考慮し、小型艦であるにもかかわらず
菊の紋章が与えられた立派な「軍艦」でした。

軍艦ではありましたが、通例艦政本部が行うはずの設計は、三菱重工が行っています。
三菱の技師たちは「軍艦建造」に(おそらく)湧き立ち、意気込んで、
「占守」型はその設計に渾身のオリジナリティを求めたために、
生産工程が非常に多く、大量生産のできない仕様となってしまいました。

技術者魂がつい炸裂したってわけですか。
わかるぞ三菱の人。


ところで、この小さな海防艦(基準排水量860t)ですが、わたくし個人的に

「海軍のまるゆ」

とこっそりあだ名をつけているのです。
なぜかって?

建造が艦政本部でなく民間で行われたため、海軍内での知名度が低く、
たとえばこの「占守」は1940年には竣工されているというのに、
大東亜戦争勃発後もその存在が全く知られていませんでした。

艦体は小さくてもちゃんと菊の御紋を頂いており、しかも艦長には
大佐か中佐が任命されていたというのに、です。
現在の自衛隊の規範に照らしてみても、中佐はともかく大佐は
大きな艦の艦長になるのが普通です。

旧海軍では巡洋艦(軽巡・重巡)以上の艦長、戦艦、空母艦長は大佐です。
戦艦「大和」と「武蔵」は少将が艦長を務めていますが、
これは大和級戦艦の規模が「超弩級」であったということでもあります。
駆逐艦の艦長なら少佐あるいは中佐が普通でした。

つまり「占守」の

「排水量に対する 軍艦としての地位の高さの費用対効果」(?)

は、おそらくコストパフォーマンスとしては海軍一、
勿論それだけは「大和」級よりも上であったことになります。


大和=64000t=少将
占守=860t=大佐(最高)


基準排水量1/74に対し、階級の違い、たった一階級。
すごい。凄いぞ海防艦占守。


ああそれなのに、知名度がないことと艦体の小ささが仇となり、
出会った駆逐艦や掃海艇や水雷艇側から欠礼されることもしばしばだったとか。

ね?まるゆでしょ?

さすがに攻撃されたり体当たりされたりはしなかったみたいですが。
さて、そこで最後にわたしの大好きな「占守型」の「まるゆ」的エピソードを
ご紹介しようと思います。


昭和17年。
占守型海防艦の2番艦である「国後」が北千島の基地に入港した際、
在泊中だった駆逐艦子日(ねのひ)から

「貴艦ハナニユエ本艦に敬礼サレザルヤ」

との信号を受けました。
水戸黄門で一般人にジジイ呼ばわりされる水戸光圀公の図ですね。
ラスト5分で繰り出されるあのドラマにおける「葵の印籠」が、
この場合は舳先の「菊の御紋」であったわけです。
「国後」艦長の北村富美雄中佐(当時)は

「控えおろう!この御紋が目に入らぬか!」

・・・・・・・じゃなくて、たった一言、

「ワレ国後ナリ」

と返信しました。
そこで艦種を調べた「子日」艦長以下幹部、

「ちょwww『国後』って軍艦?」
「艦長中佐か大佐www草生やしていいですか」
「艦長!舳先に菊の御紋が!」
「\(^o^)/オワタ」

「子日」艦長、慌てて内火艇で謝りに向かいました。
当時、子日艦長の階級は少佐だったのです。

(もっとも「占守」の軍艦類別は17年7月に解かれましたから、
このエピソードはそれ以前の話であろうと思われます)




「占守型」の4艦のうち、やはりこの玉野で建造された「石垣」以外は
戦没を逃れ、終戦後まで生き残りました。
「占守」はソ連に賠償艦として引き渡され、「八丈」は戦後解体処分。
このエピソードの「国後」は復員船として使われましたが、
任務途中で座礁したため、戦後わずか1年で解体されました。



三井造船資料室シリーズ、続きます。

 

 


 

自衛隊階級内階級(+連休最後の日のこと)

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連休といっても息子の学校で行事があったりして、
一向にまとまったお休みにならない我が家の連休ですが、
公園を散歩したり買い物に行ったりと、それなりに
ゴールデンウィークらしい気分を楽しみ、最後の日に、
頂き物の無料宿泊券を消化すべく、都心のホテルに一泊してきました。
 
チェックインのとき、フロントに

「レイトチェックアウトで2時まで御滞在いただけます」

とせっかく言っていただいたというのに、次の日から息子は平常営業で
朝7時にはチェックアウトしなくてはなりません。
もったいないのですが、双方の宿泊可能な日がこの日しかなかったので
しかたありません。

せめて早くチェックインしてランチを楽しむことにしました。


レストランのメニューは連休中であることもあって、
「ゴールデンウィークスペシャルブランチ」というもののみ。
メインの料理だけが選べるタイプでデザートも付いてきます。

前菜その1、ツナとアボカドのタルタル。
カリカリに焼いたトーストに乗っけて頂きます。



前菜その2。

左側の物体はキャラメリゼしたフォアグラです。
実はわたしはフォアグラ、あまり好きではないのですが、
まるでクリームブリュレのようなキャラメルがかけてあり、
しかもソースは甘酸っぱいイチゴとゆずなので、実にさっぱり。
フォアグラ独特のどよーんとした味(ってどんなだ)が、
サッパリ系ソースで中和されて、実に面白い味わいでした。

こんな料理法でフォアグラを食べたのは初めてですが、感心し、
そのことを言うと、

「シェフの得意の一品です」

とのこと。



息子の頼んだ大山鶏。
シイタケはわたしが食べました。
ちゃんと柄も食べられるシイタケです。



わたしはサーモン。
ほろ苦いゼンマイをトッピングに、黒米と野菜のリゾットに乗せてあります。
ソースはおそらくオリーブオイル主体だと思います。



そしてデザートはポテト・・・・・・
ではなく、シュークリームでした。
丸く焼いたシューを半分にし、中にバナナとかいろいろ
複雑な味のするカスタードクリームを詰め、これにも
キャラメリゼしてあります。



食事が済んで、チェックインしました。



ウェルカムフルーツ、クッキー、そしていつもある駄菓子。
息子のために用意してくれるのだと思いますが、麦チョコとか、
麩菓子とか、一袋10円、って感じのお菓子です。



洗面所もいつも通り。
ここは前までロクシタンのシャンプー類だったのですが、
少し前から「エトロ」のシリーズに変わりました。
従業員の制服もエトロだったりするのでその関係みたいです。



部屋からの眺め。
ちょうどJRの線路を挟んだ向こうに「KITTE」があります。
昔郵便局だった部分(白いビル)はそのまま残し、後ろに巨大な
高層ビルをくっつけてかつての建築物を残すという流行の建築法で、
今東京駅界隈では最もにぎわっているビルかもしれません。
ここから見て初めて知ったのですが、白いビルの屋上には出られるようです。



KITTEの隣のTOKIAというビルの途中階に、不思議な切れ込み発見。
手すりがありますが、これ外に出られるんでしょうか。



右手東京駅と東京ステーションホテルを裏側から。
東京駅の改装は今にして思えばオリンピック誘致のためだったのかなと。

というわけで、ホテルの部屋でインターネットしたり(わたしはエントリ作成)
大画面でDVDを観たり(わたしの持っていった『空挺レンジャー』)、
・・・・まあ、いつも休日にやることをホテルでやっていただけでした。

お掃除洗濯、何と言っても食事の支度をしなくていいのが
わたしにとっての「お休み」です。

さて、話は取ってつけたようにかわりますが、こちらが本題です。

先日横須賀で行われた護衛艦カレーNo.1グランプリ、
ご存知のように当ブログでは数日に亘って参加記をお送りしたわけですが、
その後エントリで呈したいくつかの疑問点に関係者からお答えを頂いたので、
追加情報として少しお話ししておきます。



まずカレーグランプリ会場手荷物検査場を出たところにいたこの1等海佐ですが、
「陽焼けしているから大きな艦の艦長ではないか」という当方の予想に反し、

総監部防衛部長

である可能性が非常に高し、というご意見です。
ここからは頂いたコメントそのままになるのですが、まず

1佐職はその職責に応じて俸給表で1〜3に分かれており、
別名「階級内階級」とも言われます

1佐であっても皆給料は同じ、というわけではないってことですね。
責任の重さで頂く給料も三段階に分かれているとは驚きだ。

横須賀地方総監部の防衛部長は一番重責である1佐の1職です


なるほど、この1佐は1佐の中でも最も給料の高い=責任の重い=
将来海将補に近い人物であるらしい、ということですが、
それにしてもなぜこの1佐が1職であることがわかったのでしょうか。

ここが不思議なところなんですが、頂いたコメントによると、


その容貌輪郭から推定して、おそらく総監部防衛部長だと思われます

容貌輪郭から推定して・・・・

容貌輪郭・・・・・

う〜〜〜〜〜〜〜〜ん(困惑)

これを書いてきて下さったのはわたしなんぞと違い、推定でテキトーなことを書いて
後は野となれ大和なれ、いやいやいくらプロフ写真が「ちび大和」だからと云って
わたしのような子持ちが艦娘になっちゃいけませんが、じゃもっと若ければいいのか?
・・・・という問題でもないと思うんだけど、とにかく、この方は
そんな無責任なことを言うような立場でもなければましてや部外者でもありません。

しかも今現在自衛隊という組織に身を置いている人物であり、
おそらくこの推測は確固たる自衛官人生に培われた知見に基づいて
なされたものに違いないと考えられるのですが・・・。

先日、「陸自と海自では明らかに将官の雰囲気が違う」と、
これまでの自衛隊ウォッチャーの立場から私見を恐る恐る述べてみましたが、
やはり「役職が造る容貌」というものが歴然としているというのは
この自衛官のご意見にも明らかだってことみたいですね。


さて、それでは気になる1佐の階級内階級、つまり「給料の違い」、
どういったカテゴライズがなされているのか。
その配置をまとめたものがこれです。 

3:護衛艦艦長、航空隊司令、幕の班長等

2:護衛隊司令、航空群首席幕僚、幕の室長、
  地方協力本部長(一部を除く)等

1:1佐たる群司令(海洋群司令、潜水隊群司令など)、
  一部の隊司令(輸送隊司令など)、
  1佐の幕僚長(掃海隊群、教育航空集団)、
  幕の課長、大都市の地方協力
  本部長(札幌、愛知、福岡など)等

同じ1佐でも、中にはこのようなヒエラルヒーに基づいた
「賃金格差」があるというのですね。

読者の雷蔵さんがコメント欄で

将官になる一選抜の人達は出世の階段を一番駆け足で上って行くので、
すべての仕事(配置)を普通より若いうちに終えてしまいます。
そのため、若くで艦長になります。

艦長は2佐及び1佐の配置です。
こういう人は早く2佐になりますが、若く、船の経験が少ないので、
大きな船の艦長は任せられません。小さな船を任せられます。
しかも、その後もポンポン階級が上がってしまうので、
若くで人より早く艦長を経験した後、二度目の艦長の椅子はありません。
艦長よりもっと重責の仕事に就きます。 

 
と教えて下さったことがありますが、これを先ほどの階級差に照らすと、
1佐で艦長をしているより、2佐で小さな船(掃海艇とか)の艦長になる
自衛官が実は「出世コース」である場合もある、ということなんですかね?

また自衛隊について(無駄に)詳しくなってしまったぜ。

しかし、これから自衛官の有望なお婿さんを見つけるというわけでもないのに、
こんなに隊内事情に詳しくなって、わたしはどうするつもりなのか。
 



そしてこれ。
北村海将の碑の正体がわかりました。
これも雷蔵さんから教えていただいた、碑に記された

「ここに集いて殉職隊員の在りし日の雄姿を偲び、
その英魂を仰ぎ大いに正大の気を養い諸霊照覧の下、
ますます海防に挺身せんと決意を新たにするにあり」

という文言を読んでいただいてもおわかりのように、これは、
横須賀警備区(横須賀地方隊が受け持つ担当海域)で殉職した隊員の慰霊碑です。

毎年、自衛隊記念日(11月1日)には、この碑の前で慰霊式を行っています。
慰霊式は殉職隊員の家族をお呼びして行われます。

因みにこの自衛隊記念日というのは、「自衛隊発足の日」すなわち
自衛隊法が施行されたことを記念するための日で、1966年(昭和41年)制定されました。

法律制定になったのは1956年7月1日だったのですが、この時期は台風などの災害が多く、
自衛隊の出動を必要とする可能性が多いため、この時期を避けて比較的晴れが多く、
災害の少ない11月1日に制定されたということです。
そういえば、11月3日は過去統計でもほとんど雨が降ったことがないとされていますね。

うーん、どこまで国民目線なのか、自衛隊。




 



 


 

女性パイロット列伝〜サビハ・ギョクチェン「大統領令嬢は戦闘機パイロット」

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この「女性パイロット列伝」は、いわばわたしの「趣味」の範疇であり、
冒頭の肖像を含めて内容も非常に楽しんで制作しているため、
実はストックが今年の夏掲載分まであります。


しかし今日はその掲載予定を変更し、急遽制作した内容を挟むことにしました。

というのは、トルコの駐在武官を務めたことのある或る海自幹部の方から

「わたしが赴任していたトルコの女性パイロット、

サビハ・ギョクチェン SABIHA GÖKÇEN

について書いてほしい」

というリクエストを頂いたからです。

基本的にブログへのリクエストと自衛隊関係のお誘いは断ったことがないわたし、
そのどちらの条件もある意味満たす御依頼に喜んで応えさせていただいた次第です。

特別仕立てらしい白の飛行帽、ブルーの飛行服の彼女の肖像のバックには
「新月旗」「月星章旗」と呼ばれるトルコ国旗をあしらいました。
この旗は、トルコ革命において革命派の重要なシンボルとなりました。




トルコという国について、わたしたち日本人はあまり知識がありません。

有名なトルコの偉人の名前を言えるか?
宗教は何で、通貨は何が流通しているか?
そもそも地図ですぐにその場所を示せるか?

少し前、来日しているメキシコ人が日本人に

「メキシコというと何を思い浮かべるか?」

と聞いて、それをYouTubeにアップしていましたが、その答えが

「暑い」「タコス」「ソンブレロ」「サボテン」

などというものだったため、メキシコ人はそのステロタイプな答えに
大いに失望して(特に、別に暑くないんだけどという声多数)いたものです。

しかしたとえばこれを「トルコ」でやった場合、おそらくはメキシコ以上に
日本人にはその明確なイメージは湧かず、せいぜいが

「ベリーダンス」「ケバブ」

という単語が出るくらいで、トルコ人はメキシコ人以上に失望するでしょう。

とはいえ、日本をお題にこれをやってみたところで、どこの国も
日本人が満足するような答えを出してくれるとも思えませんが。


しかしもしこういう質問をされたとき、あなたが海軍のことや
外交史に詳しければ、きっと

「エルトゥールル号」

というトルコのフリゲート艦が和歌山沖で遭難し、日本人が被災者を介護し、
遺体を回収し、 生き残った乗員を軍艦「比叡」「金剛」がトルコまで送っていった、
という話を挙げるかもしれません。

さらにあなたが「坂の上の雲」のファンならば、このときに2隻の軍艦に乗っていた
海軍兵学校17期の少尉候補生の中に、秋山真之がいたということもご存知でしょうか。

この事件以来日土関係は大変良くなり、一時トルコでは子供の名前に
「トーゴー」と付けるのが流行ったほどだといいますが、トルコがこの件で
日本という国をいかに評価してくれていたかを日本人が知ることになったのは
何と事件から95年後のイラン・イラク戦争のときでした。

このブログに来られるような方であれば、きっとご存知の逸話だと思うのですが、
いつかは書いておきたかったので、概要をここで述べておきます。


イラク・イラン戦争が始まって5年目の1985年、サダム・フセインは突如

「今から四十八時間後に、イランの上空を飛ぶすべての飛行機を撃ち落とす」

と宣告しました。

企業から派遣されていた在土日本人とその家族はそれまでに脱出するべく
テヘラン空港から飛行機に乗ろうとしましたが、すでに普通便は満席。
世界各国は自国民を救うべく、専用機を向かわせ、国外に出し始めていました。

しかし、日本政府は何もできませんでした。

本来ならば、政府は軍用機を向かわせるのが最も確実な方法ですが、
我が国の場合、世界に誇る平和憲法のおかげで()それは不可能でした。
当時は自衛隊の海外派遣が禁じられていたからです。

後から野党に責任を追及されるとかそんなことばかり心配する
日本政府は、超法規措置を取ることも全く検討しませんでした。

当初政府は某JALに救出を要請しました。
しかし、JALは「機材と乗員の安全が確保できない」という
ごもっともな(笑)理由できっぱりとこの申し出を拒否。

他国への救援要請もうまく行かず、邦人たちに絶望の色が濃くなってきたとき、 
彼らの元に二機の飛行機が到着したのです。 

トルコ航空の飛行機でした。

オルハン・スヨルジュ機長らの操縦するトルコ航空機が日本人215名全員を乗せ、
成田に向けて空港を飛び立ったときには、タイムリミットの1時間15分前でした。

日本人は当初トルコ政府の異例の計らいに首を傾げたそうです。
トルコ航空の二機が邦人のために使われたので、トルコ人の多くは
陸路で脱出することになったのですが、国民より日本を優先したこの処置に対し、
なぜそうまでして、と訝しむ日本人たちに当時の駐日トルコ大使は

「トルコ人はエルトゥールル号の恩義を忘れていない」

と誇らしげに説明しました。

日本では遭難現場の串本町民以外には知る人ぞ知る歴史となっていたこの事件は、
トルコでは代々語り継がれ、教科書に載っているくらい有名な話なのです。

日本への親近感を幼い頃からこの逸話によって抱き続けてきた国家指導者たちは、
非常時であるからこそその話を思い出し、

「今こそ日本に恩返しをする時である」

と誰言うともなく措置をを決定したのでしょう。


さて、前置きがあまりにも長くなって申し訳ないのですが、本日の主人公、
サビハ・ギョクチェンにたどり着くのに、ぜひこれだけは話しておかねばなりません。

もう少し御辛抱下さい。

サビハ・ギョクチェンと検索すると、まずその名の空港が出てきます。
つまりこの女性は、空港に名を残すほどの偉人だったということになります。
当ブログ「女流パイロット列伝」シリーズでいうと、彼女は

「世界最初の戦闘機パイロット」

というタイトルを持つ飛行家です。

しかし、彼女がトルコの偉人という扱いを受けているのは
世界最初の女性戦闘機操縦者という理由だけではないのです。


エルトゥールル事故のあと、遺族のために寄付を募り、それを持ってトルコに渡り、
現地の熱烈な歓迎を受けているうちに、勧められるまま
トルコに永住してしまった日本人がいました。

実業家で茶人の山田寅次郎(宗有)がという人物です。
彼はトルコで士官学校の日本語と日本の教授をしていたのですが、
その生徒に

ムスタファ・ケマル・アタルチュク

という士官候補生がいました。

後のオスマントルコの将軍、トルコ共和国の元帥、初代トルコ大統領、
そして、サビハ・ギョクチェンの父親です。




もっとも、サビハは本当の娘ではありません。
アタルチュクに実子はなく、彼は

死亡した戦友の子を養子として十数人を家族とした

と言われており、彼女はそのうちの一人でした。
12歳のときに「哀れな暮らし」をしていたところを見出され、
大統領の養女となったサビハは、
そのときに「空」を意味する「ギョクチェン」姓を名乗るようになります。

トルコ最初の航空協会、そして航空学校を設立したのは、勿論のこと
パパであるアタルチュクだったわけですが、彼女はその開校式についていき、
そこで見たグライダーやパラシュートに強く惹かれ、
飛行士になることをその場で決意した、ということになっています。

そしてその場で大統領が関係者に言った

「うちの娘がやりたいといっておるのでよろしく頼む」

と鶴の一声で、彼女は航空学校に入学することが決まり、
22歳にしてパイロットへの道を歩き始めたのでした。

そしてすぐさまソ連に留学し、7名の男子留学生と共に訓練を受け、
翌年に飛行機の免許を取っています。



このように飛行家になることは彼女の希望であったということに
「公式には」なっているのですが、それだけでもなかったようです。

12歳のサビハは最初に大統領の目に留まったとき

「勉強させてほしい」

と直々に頼んで、その後アメリカンスクールに入学したのですが、
その後健康上の理由で中途退学していました。

父親であるアタルチュクが、彼女の学問での自立はもう不可能と考え、
新たな可能性を与えるために道をお膳立てしたとも考えられます。


しかし教育課程では大統領の娘であるからといって、特に彼女が
別の扱いを受けていたということはなかったようです。

もしかしたら大統領には非常にたくさんの養子がいたこと、
そして彼らの学校の成績を気にする厳格な保護者だったことも
彼女のこの扱いに影響していたかもしれません。


そしてソ連から帰国した彼女にアタルチュクは彼女に

「戦闘機パイロットになるように強く」

奨めました。

日本語wikiだとここは「迫った」になっていますが、英語では urged her。
いずれにしても「しきりに奨めた」「急がせた」のニュアンスです。
なぜアタルチュクが彼女を戦闘機パイロットにすることに
こんなに熱心だったのかはどこにも書かれていないのでわかりませんが、
独立戦争と革命の指導者で、自分の信念で一国のトップとなった彼にとって、
その娘にも「世界一」のタイトルを持つ英雄が相応しい、と考えたのでしょうか。

自分の部下や有望な士官を婿にして自分の娘に人並みの女としての幸せを、
とは決してならないのが、いかにも非凡な人間らしい考えであり、
何度も言いますが、彼女が実子でなかったからということでもあろうと思われます。

こうして父親であり大統領である絶対的な影響者の命を受け、
彼女は戦闘機パイロットを目指し、空軍士官学校の飛行過程に入校します。
飛行学校では、爆撃機と戦闘機を平行して学び、スキルを磨きました。

彼女の生涯における飛行時間は8000時間を超えますが、その間、
彼女が操縦した飛行機の種類は実に22種類を数えます。

空軍のパイロットとしてのデビューは、1937年の「デルシムの乱」でした。
これは少数民族の起こした蜂起でしたが、彼女は自ら名乗りを上げて爆撃機で参戦。
参謀部の報告によると、逃亡する50人の山賊に50kg爆弾を投下し、
重大な損害を与えたとされています。

さらに翌年の1938年には5日間で5日間でバルカン諸国を単独で周遊飛行し、
各地で大歓迎を受けました。

この飛行に、当初彼女は整備士を同行させることを希望していたのですが、
普通であれば娘の身を心配するはずの父親はそれに猛反対しました。

「女が一人でやるから意味があるのだ。
男がいれば実績はすべてその男のものと報道される」

というのが理由で、サビハはそれに説得され従ったそうです。

どうも、アタルチュクにとってサビハはいわゆる「肉親」としての娘というより、
なんというか・・・

「チーム・アタルチュク大統領」

の構成メンバーのように考えていたのではないかという節すらあります。


「大統領の娘としての特別扱いはその教育課程では受けなかった」

と先ほど書きましたが、そもそも彼女は士官学校を出ておらず、
つまり身分としては軍人ではない、一般人です。

そういえばこの国民的英雄にしてトルコ人の「永遠のヒーロー」
(英語では女性でもこのようなときにはヒーローという)には
士官学校の飛行過程で学んだにもかかわらず、階級がありません。

つまり軍人ではない、一般人の身分で戦闘行動にも参加していたわけで、
実際にも軍側では実は彼女の扱いに「戸惑っていた」という噂もあります。


つまりこれが大統領の娘であらばこその「特別扱い」だったということです。


彼女が名乗っていた「ギョクチェン」ですが、これは本人ではなく
周りの誰かによって与えられたものだそうです。
もしこの「空」を意味する名前がアタルチュクの命名によるものであれば、
彼はかなり早くからサビハに「空を飛ばせる」ことを考えていたことになります。

「世界初の女性戦闘機パイロット」

は、もしかしたら英雄アタルチュクの伝説の一環として
その父親によって考案され、創造された存在だったのかもしれません。


彼女は現役引退後、自分がかつて学んだ「ティルクシュ(トルコの鳥)」飛行学校の
教官を務め、航空協会の理事としてトルコ航空界の発展に努めました。

晩年には自伝も書いていますが、そのタイトルは

「A life Along the Path of Ataturk」(アタルチュクの道を歩んだ人生)

といいました。
彼女がその偉大な父親無しには自分もなかったと思っていることが
何よりもよくわかるタイトルであり、もしこの庇護者に拾われなければ
戦闘機などに乗ることなどまずなかったであろうと
誰よりも本人が痛切に感じていたらしいことを窺わせます。

彼女は死の直前、あるインタビューで
涙ながらにアタルチュクのことを語り、さらには

「トルコ共和国を設立した人物に対して名誉を毀損しようとする」

最近の世情について、強く不満を訴えました。

彼女に取ってアタルチュクは義父というより偉大な指導者であり、
カリスマであり、無謬の、絶対神のような存在だったのでしょう。


2001年3月22日、サビハ・ギョクチェンは入院していた軍医学アカデミーで、
88歳の生涯を閉じました。

彼女の名を取って付けられていた「サビハ・ギョクチェン空港」は半旗を揚げ、
時の大統領は

「アタルチュクの養女であるという名誉に加え、彼女は現代トルコの女性の
象徴としてトルコの人々によってこれからも記憶されるであろう」

という声明を出しました。

1996年にアメリカ空軍の発行した

「20人の歴史的飛行家」

には、男性飛行家と共にサビハ・ギョクチェンの名が挙げられているそうです。









   

三井造船資料室〜護衛艦「いなづま」に巡る因果

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まずは先日4月25日のニュースからです。

ソマリア沖 海自の護衛艦75人を救助 

海賊対策のため、アフリカ・ソマリア沖で活動する海自の護衛艦が 
エンジントラブルのため漂流していた小舟を発見し、
乗っていたソマリア人など75人を救助しました。 

23日午前、海賊対策のためソマリア沖に派遣されている 
広島県の海上自衛隊呉基地所属の護衛艦「いなづま」が 
多くの人を乗せて漂流している小舟を発見しました。 
護衛艦の乗組員が乗っていた人に話を聞いたところ、 
ソマリアを出港し、対岸のイエメンに向け航行中にエンジンが故障し、 
およそ5日間、漂流していたことが分かりました。 

全長10メートルの舟にはソマリア人やエチオピア人など75人が乗っていて、 
「いなづま」は、飲み水や食べ物などを提供したうえで、 
全員を護衛艦に収容して目的地のイエメン沖に運び、
地元の海軍に引き渡しました。 

「いなづま」は、ことし3月、護衛艦「うみぎり」と共に呉基地を出港し、 
今月中旬から海賊対策に当たっていました。 
(NHKニュース)


先日カレーグランプリのお土産に「うみぎり」の第9次派遣パッチを
何の気なしに買ってきて、そのエントリを制作中に聞いたニュースです。

ひとつのことを集中してやっていると、時折このような・・・・、
たとえばちょうどエントリ作成している日が書いている内容と一致したり、
その人について書いているときに訃報を目にしたりといった偶然が
起こるものですが、今回このパッチについてお話ししたときに

「うみぎりといなづまが今ソマリア沖に派遣されている」

という一文を書いたばかりだったのでそのちょっとした偶然に驚きました。
そういうとき、わたしはちょっとした「因縁」を感じずにいられません。
実はわたしは「いなづま」にはかつて呉で遭遇しております。



どうですかこのかっこよさ。
これを撮ったのはニコンでもカールツァイスレンズのRX−100でもなく、
3万円くらいのフツーのデジカメですが、構図とか悪くないですよね?
(これが本当の自画自賛)

2012年の6月に艦番号106の「さみだれ」に乗せてもらい、
艦長自らの案内で艦内を見学したという、今にしてみればぜいたくな経験でしたが、
そのとき「さみだれ」に乗るために甲板を通り抜けた、
という浅からぬ縁がわたしと「いなづま」にはあったのでした。

え?中を通り抜けるくらい大した縁じゃなかろう、って?

本稿の伏線なんですからいいんです。こじつけですけど。



左に見えているのが「いなづま」。

うーん、これが今ソマリア沖にいて、国際活動をしているのか。
通り抜けるときにいた人にサイン貰っておけば良かった(笑)

余談ですが、このときの「さみだれ」がわたしにとって記念すべき

「初めて乗った自衛艦」

となったわけで、見るもの聞くもの全てが珍しく、主砲の説明中に

「これは1分間に最大100発を撃つことができ・・」

と聞くなり、自制心を働かせる間もなく口が先に動いてしまい

「さみだれ撃ちですね」

と言わなくてもいいことを言って艦長に無視された、という
恥ずかしくも甘酸っぱい思い出があるのでございます。

さて、冒頭のニュースですが、珍しく日本のメディアがちゃんとこれを報じたらしく、
(とはいえ質量ともに韓国のフェリー事故の100分の1ってとこですが)
画像も伝わってきているのですが、まずこのニュースの突っ込みどころは

「10mの船に75人が乗って5日間漂流していた」

ということではないかと思います。
確かに小舟にはぎっちりと人間が詰め込まれ、何人かは船の縁に乗ったりして
ただでさえ悲惨な状態のうえ、船のエンジンが壊れて動かなくなったとあれば、
絶望に打ち拉がれていたソマリア人たちが、自分たちを発見したのが他でもない、
日本の護衛艦であったことでどんなに驚喜したでしょうか。

たとえばロシア軍などに発見されても、救い上げてくれるとは限らず、
せいぜい水と食べ物を与えるだけで軍艦には乗せないという話もありますし。

ニュースでは詳細はわかっていないらしく、助けたのがどういう人たちなのか
記述はありませんが、写真を見る限り女子供、赤ちゃんもいるという具合で
どうやら難民ではないかと思われます。

「いなづま」はボートの乗員に水と食物を与え、艦に引き上げて
事情を聞いたそうですが、ここでわたしが気になったのが、
「いなづま」乗員の英語による質問を、ボート難民(かどうかは知りませんが)
の少なくとも一人は理解し、自分たちの状況を説明することができたということです。

ソマリア人はアラビア語とソマリ語を使っているそうですが、
やっぱり英語だけはしゃべれた方がいざというとき命を救うことにもなるんですね。

日本人が英語をしゃべれないのは日常で必要がなく、このソマリア人たちのように
それで命がどうにかなるような非常時が全くないことでしょう。

日本人の外国語音痴はある意味、日本が平和で恵まれているという証拠でもあります。


「いなづま」は他の護衛艦と同じく、インド洋への派遣に当初から参加しており、
今回の派遣で4回目に当たるということです。

この「いなづま」は護衛艦になってからの二代目で三菱造船所の生まれですが、
冒頭に写真を挙げた初代「いなづま」は、この日見学した三井造船で建造されました。

昭和28年度計画「乙型警備艦1203号艦として1954年12月25日着工、1955年進水
1956年に就役ののち、呉地方隊に配属されたフネです。

自衛隊法によって警察予備隊が海上自衛隊となったのは昭和29年のことですから、
この「いなづま」はまだ警察予備隊であった時代に計画されています。

「乙型警備艦」

となっているのは、まずこのころ「護衛艦」という言葉はなく、昭和36年に
この言葉が制式になるまでは「警備艦」とよばれていたからです。
この1953年、昭和28年の計画は、日本が独立し、戦後初めて国産艦艇新造が
立案されたときのもので、

甲型警備艦(後のはるかぜ型護衛艦)2隻
乙型警備艦(あけぼの・いかづち型護衛艦)3隻

の計5隻でした。

この甲乙の分類は、何を意味するかと云うと、

甲型=汎用護衛艦=DD
乙型=小型護衛艦(通称)=DE

で、ちょっと面白いのは、このときに使われた甲乙分類は現在でも生きており、
(この部分の訂正を行わずにきてしまったせいでしょうか)予算編成などでは
汎用護衛艦のことを「甲型警備艦」、小型護衛艦は「乙型警備艦」
といまだに称しているということです。


ちなみに

「はるかぜ」は共に三菱重工業、「ゆきかぜ」は新三菱重工業、
「あけぼの」は石川島播磨重工業、
「いかづち型」の「いかづち」は川崎重工業、
「いなづま」が三井造船、

と、戦後になって艦船作りの解禁を待ちかねていた日本の造船会社に
実に公平に、建造を同時に依頼しています。

その中でもこの「いなづま」は1956年の3月と、(いかづちは5月)
最も早く竣工が完成したため第二次世界大戦後の国産護衛艦(警備艦)では
最初の就役となり、ある意味日本の独立の象徴的な護衛艦ともなったのでした。

そして、このときに「はるかぜ」型といういかにも戦後のネーミングセンスで
命名された警備艦の2番艦が、「ゆきかぜ」でした。

ゆきかぜ

想像するに、自衛隊は、というか戦後警備隊の多くを占めていた旧軍軍人は、
戦後初の国産艦には何をおいてもこの「奇跡の駆逐艦」と呼ばれた幸運艦、
「雪風」の名を持つフネを持ちたいと願ったのに違いありません。

それで「かぜ」の名が使える警備艦型、「はるかぜ」型を決めたのでしょう。

はるかぜ

全く同じフネに見えるのだけど、って当たり前か。

さて、稀代の幸運艦であった「雪風」にその名をあやかった「ゆきかぜ」は、
旧軍軍人の期待通り大きな事故もなく無事退役しましたが、
これに対し「いなづま」は、大きな事故に見舞われています。

就役6年目の1960年、津軽海峡で行われた夜間対潜訓練中に、僚艦の「あけぼの」が
操作を誤ったため艦橋に衝突し、この事故で2名の自衛官が殉職したのです。

さらに、その修理のためにその日のうちに入渠したドックで、翌日の作業中、
ガソリンに引火したため大爆発を起こし、3名が巻き込まれて死亡、さらに
従業員4名、ドック作業員3名が重軽傷を負う大惨事となってしまいました。

詳細がわからなかったので断言はしませんが、この事故は自衛隊開隊後、
自衛艦に起こったものとしては初めての大事故ではなかったでしょうか。


しかし「いなづま」は決定的な損壊にいたらなかったのか、
修理後は任務に戻り、1983年に引退するまで勤め上げました。
合計9名の死者重軽傷者が出たフネもそのまま修理して使う、というのは
海軍の直系の組織である自衛隊ならではのドライさのような気がしますが、
それより、当時の日本が貧乏だったことを考えれば、致命傷でない限り
自衛艦は使い続けるのが当たり前ということになっていたのかもしれません。


電(いなづま)

「電」と書いて「いなづま」。
「雷」と書いて「いかづち」。

どちらも「吹雪型」の駆逐艦ですが、わたしはこの「雷」の航海長だった
谷川清澄氏(海兵66)の話を聞いたとき、この

「敵兵を救助せよ」

で有名になった工藤俊作艦長の軍艦だけでなく、日本海軍は明治以来
普通にそのような状況にあれば人命を救助していた、とおっしゃったのが
非常に印象的でした。

サミュエル・フォール卿の来日で美談として急にクローズアップされたが、
決して「雷」だけがそうだったのではない、と。

そういえば、去年日本海大戦シリーズで取り上げた上村彦之丞大将の

船乗り将軍の汚名返上

というエントリで、上村艦長が敵艦であるリューリックの乗員を救助した、
という話をしたのですが、あれもまた日本軍には当時当たり前の
「武士道」の現れであったということなのです。

ちなみに日露戦争で捕虜になったロシア人は収容所でお客様待遇で、
語学教室まで開いてやり現地の娘と問題を起こすものもいるくらい
その収容所生活はフリーダムだったという話もあります。


「敵兵を救助せよ」では「雷」だけが有名になりましたが、スラバヤ沖海戦の際、
「電」は「雷」とともに撃沈した「エンカウンター」「ポープ」の乗員を
376名、海から救い上げています。

このときの救助を決定したのは「雷」の工藤艦長でしたが、
近くにいた「電」は「雷」とともに「雷電コンビ」で救助作業に協力しました。
このときに救い上げられたイギリス兵は全部で422名でしたから、
「電」の方が大勢のイギリス兵を救助したということです。


冒頭にも書きましたが、こういう軍艦と護衛艦の話を見たり聞いたりしていると、
ときどきこの話のように「因果は巡る」ということの好例を見出すことがあります。

以前にも書いた「いせ」がレイテ湾に救出に向かった話もそうですし、
「ゆきかぜ」という名を持つフネが護衛艦となっても無事故だったのもそうです。
今回、「いなづま」がインド洋で75名もの人命を海から救い上げたのも、
かつての「因果が巡った」と考えてしまうのです。


ここで、最後に「いなづま」と先代、先々代の「電」の同名の因縁を
もうひとつお話ししてこの項をおしまいにしましょう。


敵兵を救助した「電」はその名の艦としては二代目です。
一代目は、大日本帝国海軍が運用した駆逐艦では最初の艦級であった 

「雷型」 (雷、電、曙、漣、朧、霓《にじ》)

の2番艦として1899年に竣工されました。
驚くことに竣工完成の次の日にはもう出航しているのですが、
このころは軍艦の就役の儀式の形がまだ決まっていなかったのかもしれません。

そしてまずこの初代「電」ですが10年後の1909年、

 汽帆船と衝突し、沈没しています。

そしてこの二代目「電」。

一代目の沈没から21年後にやはり「雷」型の2番艦として就役し、
メナド攻略戦、先ほど書いたスラバヤ沖海戦、キスカ救出作戦、
第三次ソロモン海戦と生き抜いたつわもので、
1944年、マニラからダバオまでの船団護衛任務中に、米潜水艦
「ボーンフィッシュ」 の雷撃により戦没を遂げた駆逐艦ですが、
その艦歴で、2度の大きな衝突事故を起こしているのです。


まず、一代目「電」と同じ、民間船との衝突事故。

●1944年1月20日、ダバオ湾口付近で「仙台丸」と衝突 

その前には、一代目「いかづち」と全く同じ、訓練中における
僚艦との衝突事故。

●1934年6月29日、済州島沖の演習中に「深雪」に衝突
「深雪」は艦首を喪失し、沈没した

 


うーん・・・・。

あまりにも酷似した「一代目電」「二代目電」「一代目いなづま」の事故。
代を追うごとに事故の被害がひどくなっているのもなんとも・・・。

「因果は巡る」とわたしが言ったわけ、お分かりいただけました?


ただ、安心したのは、現在の護衛艦「いなづま」が先輩の「電」から
受け継いだらしい「因果」は、今のところ

海面に浮かぶ人々を救助した

という誇れる実績だけのようで、何よりです。




 

有田の一日〜深川製磁と海自カップ

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一年ほど前、横須賀の軍港巡りツァーに参加しました。
この軍港ツァーはここのところHPによると

「おかげさまで連日満員御礼」

状態の超人気となっているそうです。
この「おかげさま」というのは一体何のおかげなのか
わたしはつい考えずにはいられないのですが(笑)それはともかく、
一年前参加したときにわたしがこのツァーデスクでこのような



海軍仕様のドンブリ復刻バージョンを買い求めたのをご記憶の方は
おられませんでしょうか。
このたかがどんぶりに5000円という破格の値段がついているわけは



有田焼の名窯である深川製磁の製品であるとそのときも書いたのですが、
それではなぜ深川製磁が海軍どんぶりを作ったのか。
それにについてはこの販売会社の説明に曰く

第二次世界大戦中、金属不足に陥った大日本帝国海軍は、
発足当時から使用していた金属食器を取りやめ、
日本一の硬度を持つ陶磁器「有田焼」という観点から、
宮内庁御用達であった深川製磁社を中心に、
有田焼で製作させました。

今回弊社がその当時の丼を入手し、その当時のレプリカを
深川製磁販売株式会社に制作依頼をし、
復刻版として販売する運びとなりました


となっており、わたしもそうブログに書いたのですがこれ、

実は微妙に違っていたんです。

なぜそれがわかったか。

それはわたしが今回の旅でその深川製磁を訪ね、深川製磁社長深川氏に
直接お話を伺い、会社の資料館を見せて頂いた結果、このドンブリが決して
上の説明にあるように

「金属不足に困ってその代用品として選ばれた」

というようなものではないことがまずわかったからです。

だってそうでしょ?

普通に考えたら「代用品」を作らせるのにわざわざパリ万博で名を馳せ、
宮内庁の御用達を代々引き受けている高級陶磁の会社に頼むなんて、
いくらハイカラ好みの海軍でもそんなもったいないことをすると思いますか?

もちろん「金属不足」というのもある時点では間違いではありませんでした。
しかし、この深川製磁と海軍のつながりはそんなものではないのです。



ところで、冒頭のデミタスカップ、どうですか?
これは海軍ドンブリのような企画会社を介したものではなく、
深川製磁直販の、「桜に錨」の入ったオリジナル製品です。

海軍カップの復刻版 ?

それが違うんだな。
実はこれ、深川製磁が海上自衛隊の接待用に受注し、
一定数大量に製作して納入した余剰品。
自衛隊に必要な分だけ納めたあとは、この深川製磁本店、
あとは自衛隊直属の売店に納品して、無くなれば次に作るのは

「また自衛隊からの注文があったときだけ」

つまり、これを手に入れることができるのはごくごく限られた期間です。
まあ、興味がなければ全くどうでもいい話ですが、とにかく
「桜に錨」に多大なるこだわりをもっている方には垂涎の一品。



それにしてもこれはどういうことかというと、深川製磁というところは
昔海軍、そして今は海上自衛隊と非常につながりが深いということです。
伝統墨守の海自が海軍時代からの付き合いを絶やすことなく
現在も海上自衛隊にこういったものを注文しているということでもあるのです。



話を個人情報の関係で大幅に省略せざるをえないのですが、
今回わたしが有田に深川製磁を訪ねていくことになったのは
たまたま得たご縁で知り合った深川社長が会社訪問を快諾され、
海軍とのつながりについても資料をお見せ下さることになったからです。

ところでですね。

有田、即ち佐賀県というところは昔から

「軍人にあらずば人にあらず」

の風潮のあるところで、何と言ってもそこからほど近い佐世保というのは
昔鎮守府、今海自の基地があるところです。
ついでに海軍の基地だったところなので戦後からは米軍基地ももれなくあります。 

というわけで有田に行くことが決まったとき(といっても二〜三日前に急に決まった) 

「それでは艦艇見学並びにセイルタワー見学を」

とほくそ笑んだエリス中尉です。
それは後半のお楽しみに、まずは羽田から飛行機で福岡空港まで向かいます。



福岡空港が近づき降下態勢に入ったとき、下に見えた景色。



海保の基地発見。
救難ヘリ、小型飛行機が止まっており、格納庫には
何機かが駐機してありました。

 

福岡空港は新幹線の駅に地下鉄でたった二駅。
国内でもトップの至便さではないでしょうか。



わたしたちが乗ったのは新幹線ではなく、ハウステンボス号。
ハウスというのはこの時まで知らなかったのですが、
HUISと書き、意味はやはり「家」です。
Huis Ten Boschで「森の家」だそうで。

行きはハウステンボスではなく有田で降ります。 



途中の駅はまるで「想ひ出ぽろぽろ」に出てきた東北の路線みたいな風情。



着きました。有田駅です。
一週間前は陶器市が行なわれており、全国から
有田焼の愛好家が詰めかけて大変なことになっていたようです。
しかしこの日は土曜日でありながら人っ子一人いませんでした。



こんな町の駅前にパチンコ屋を作るかな。
案の定流行らなかったらしくかなり昔に閉店して廃墟になっています。
廃墟マニア(?)としては結構ワクワクする眺めですが。



駅舎は小さいですがちょっとこだわりを感じる作りとなっています。



さすがは有田、有田焼の町。
駅の階段の手すりが有田焼仕様になっています。



巨大な招き猫ももしかしたら有田焼?
このあたりは戦災も受けず、自然災害もほとんどないことから
古くからの建物がいまだに町並みに多く残されています。

まっすぐに続く道の両側にはせいぜい二階建ての低い建物が並び、
鄙びた、そして、からんと明るく空の広い町、そんな印象です。



町の小さな医院の壁には薔薇が見事に咲いていました。
薔薇は手入れが大変な花ですが、個人でここまで咲かせるのは
よほどの熱意を持ってやっているに違いありません。
(この反対側にも同じくらい薔薇の壁ができていた)

ちなみにハウステンボスでは今シーズンの薔薇をモチーフに
「ローズフェア」をやっているという話でした。



ちょうどお昼時間だったので、カード会社おススメのレストランで
ランチを頂くことにしました。
レストランで、カフェでもあり、有田焼の陶磁も買うことができます。



お店の三方の壁はコーヒーカップの棚になっていました。
コーヒーを頼むと、好きなカップで飲むことができます。

こだわりのコーヒー店ではときどきあるサービスですが、
ここのカップはこの中からどれでも、ということなので大変。
というかこれだけあるともうどうでもよくなるというか。
横のテーブルの主婦がカップを選んでいましたが、
自分の近くのものをおそらく適当に(笑)指差していました。



小物も勿論有田焼。
鯉に乗ったネコさん、前にはネズミもちょこんといます。



「ごどうふランチ」というのを頼んでみました。
「ごどうふ」というのはごま豆腐のこと。
「ま」がどうして無くなっているのかは謎です。
もしかして「ま」を抜いて「まぬけ」みたいなシャレでもあるのかと。
普通のごま豆腐よりは柔らかくてまるでわらび餅のような食感で、
しかしごまの風味はしっかりと生きているといった感じ。
わたしは自分でも作るくらいごま豆腐が好物なので、あまりの美味しさに思わず

「これ、お持ち帰りできないのかな」

とつぶやきましたが、あとで深川社長にお聞きしたところ(何聞いてんだ) 

「あれはやめた方がいいです。味が落ちますから」

とのことでした。やっぱり。
 


さて、美味しい昼食が済んで、タクシーで向かったのは

「チャイナ・オン・ザ・パーク」。

チャイナ、というのは普通名詞で言うところの磁器のことです。
因みに「ジャパン」というと漆器のことですね。
ただし先々代の深川忠次は彼の名を有名にしたパリ万博への出展の際、
自分の作品を「チャイナ」ではなく「フカガワポースレイン」と名付け、
それで 最高名誉のメダーユドールを獲得しています。

「チャイナ」と認識されるよりあくまでも「日本の磁器」であることを
強調する意味があったのかもしれません。

ここは深川製磁の製品を少しだけお手頃な値段で買うことができます。



ウサギの取っ手がついたシリーズ。
可愛いですね。色も素敵です。
これは深川社長の奥様の作品だそうです。 

 

深川忠次が賞を取ったときの関係資料も少しありました。



うさぎの磁器が「奥様の作品」ということを書きましたが、
深川社長は「うちの事業は女がやってきたようなもの」と言っていました。
深川忠治は世界に有田焼の名を知らしめた人物ですが、
その次男に嫁いできたのが「敏子さん」でした。

「有田に嫁いできた薔薇の貴婦人」

そんな名で讃えられる敏子夫人。
深川製磁はこの貴婦人の血が入ることによって艶やかに花開くごとく
その美意識が隅々にまで生きるようになったということです。

ちなみに伊藤緋沙子著「華の人」には有田に生きたそんな彼女の生涯が
描かれているそうです。
伊藤緋沙子さんはファッション誌ではおなじみの美容評論家(だったかな)
ですが、伝記も書いていたとは知りませんでした。
わたしはまだ読んでいませんが、今TOが読んでいるので終わったら借ります。

ちなみに深川社長に「ファッション誌では有名な方ですね」と云うと、

「先代と先々代が気に入っていてね。綺麗な人だから」

とのことでした。
どういう風に自分の身内が書かれるかよりも書き手が美人だからOK、
ということですかそうですか。

美に携わる男はやはり女性に関しても耽美派なんでしょうか(笑)



チャイナ・オン・ザ・パークにはラベンダー畑がありますが、これも
「敏子好み」で、確か彼女は富良野の近くの出身だったとか何とか。



階段を上っていくとモダンなレンガ作りの建物があります。
「忠次館」と言われる資料館です。



小さな噴水(水は止まっていました)。
底には「CHINA ON THE PARK」とあります。

ここは吹き抜けになっており、一階では物販、
二階では広々とした空間でお茶を楽しむことができます。
わたしたちはここで深川忠次の子孫である深川社長にお会いしました。

香蘭社、という磁器会社の名前を皆さんは勿論ご存知でしょう。
有田焼(伊万里)の技術を生かして日本で最初に絶縁がいしを製造したのが
深川栄佐エ門という深川の8代目でした。
この人物が1879年に起こしたのが香蘭社です。

その息子がパリ万博に出店した忠次ですが、忠次は1894年、
香蘭社から出て深川製磁を設立するのです。
香蘭社の社長は今でも深川家の人間であり、深川製磁の社長とは兄妹だそうです。



さて、この吹き抜けの風がとても気持ちのいいティールームで、
わたしたちは美味しいコーヒーを頂きながら深川社長の話を聞きました。
今回のご縁をつないでくれたのが某N新聞のTさんという方で、 
東京から佐賀支局に転勤になっておられたので、このときもご一緒しました。




「わたしは終戦後3年に生まれましたから、いわゆる時代のせいで
学生運動の盛んな時代を経験していますし、やっぱり
若いときにそういうことがあると・・・」

海軍と縁が深かった深川製磁ですが、深川社長は海軍の話が出てきたときに
まずそんなことを言われました。

団塊の世代まっただ中で、いやでもその熱に浮かされた口、
とわたしはその言い方から内心そのように判断しました。

時代によって刷り込まれ、インプリンティングされた感覚的な「軍的なもの」
への忌避感は頭では分かっていても「国防」への理解にすら支障を来し、
なかなか拭いがたいものでもあったようです。


しかし青年時代の考えはそれとして、国を護るということの尊さ、
それを実際に命を削ってそうした人々に対する感謝の気持ちはお持ちなのです。

磁器作りの名門の家にたまたま生まれ、伝統を受け継ぎ次世代にわたすという役目を果たす中で
氏はこの世に存在する意味のあることは少なくとも認めようという域に達せられたのではないか、
お話を聞きながらそのように(勝手に)解釈していたわたしです。


さて、話がひとしきり終わり、社長は皆を伴って
階下に降りていきます。



階段の上からこうして見えるのが・・・・、
そう、深川忠次がパリ万博に出品し「金賞」を取り、
世界に有田焼の素晴らしさを知らしめることになった作品、
「大花瓶」でした。





 






 





 





かしま艦上レセプション〜国防男子

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皆さん、もうご覧になりました?
宮嶋茂樹写真集「国防男子」。
わたしはたった今届いたこの写真集を見たばかり。

いやー眼福です。
この写真集、同じ著者の「国防女子」よりも売れているそうですが、
わかる!そのわけがわたしにはわかるぞ。

写真集「国防男子」これ実は「海上自衛隊限定」です。
「きりしま」「ひゅうが」「しらね」などの護衛艦、
その他飛行隊、捜査隊などからよりすぐった39人。

いずれも2等海曹から上は2等海尉までのぴちぴちの生きのいいクラスで、
旗を振っていたりコクピットに座っていたりという任務中のショットは勿論、
宮嶋カメラマンの趣味らしく護衛艦の甲板でジャンプしているところ、
鍛え上げられた筋肉を誇示するかのような水着でのショット、シャワーシーンや、
私服でのひとときなどの「サービスショット」も満載。

なかでもわたしが驚喜したのは、去年の音楽まつりでヴォーカルを務め、
このブログでも勝手に「海自王子」とあだ名を奉った、
呉音楽隊の道本和生2等海曹がなんと5ページにわたって登場していることです。

いやさすがは不肖宮嶋カメラマン、お目が高い。

わたしはこの人生で誰かの熱烈なファンになったということがありませんし、
また誰かの写真集を買うことなど一生無いと思っていましたが、
この写真集だけは正直、買って良かったと心の底から思いました。

迷っている方、損はしません。すぐAmazonにGO!
あ、これを読み終わってからね。



ところで、おそらく宮嶋カメラマンが「かしま」から選んだとしたら
きっとお眼鏡にかなって写真集を飾ったと思われる冒頭写真の国防男子ですが、
かしま艦上レセプションで
「何か(取って来るものでも)ありましたら」
と声をかけてくれた実習幹部です。
ポーズを取る瞬間にも拳をグーにしているところを見ると、
無意識にそれをやってしまうことがすでに習性となっている防大卒ですか?

「何もお願いすることはありませんので写真撮らせて下さい」

と頼んでモデルになってもらいました。
うむ。激しく爽やかな好青年である。大変よろしい。
もしわたしに娘がいて、彼女がこんなお婿さん候補を連れてきたら、

「でかした娘!」

って日の丸の扇子をうち振ってしまいそう。ってどんな母親だよそれ。



さて、この艦上レセプションでは、何度かお伝えしている通り、
受付をすませた直後から来客をまず艦内までエスコートし、
パーティ会場までアテンドして来てのちまずは飲み物を運び、

「なんでも分からないことがあったらお聴き下さい」

と宣言する、ということまでが決められているようでした。
パーティですからしかしある程度お話ししたら折りをみて前を辞し、
長時間話し込まないようにというのも指導されている様子。



さて、わたしたちはこの日、4人の実習幹部とご縁がありました。
冒頭の国防男子はレセプション終わり頃写真を撮っただけでしたが、
後三人はこちらからも積極的にお話を聞かせて頂きました。
(わたし的には『取材』ですね)

最初にエスコートしてくれた実習幹部アルファーくん。

「何かお手伝いできることはありますか」と声をかけてきたブラボーくん。

女子の話も聴いておこうとこちらから声掛けした国防女子ズールーさん。

・・・・・女子にズールーはないかな。
だいたいなんでいきなりZに飛ぶんだよ。
んじゃ自衛隊のJでジュリエットさんにしますか。

別に選んだわけではないですが、この三人は奇しくも

アルファ=防大卒3尉

ブラボー=一般大卒2尉

ジュリエット=一般大卒3尉、女子

という、願ってもないサンプルとなりました。


●アルファ3尉の場合

「何か質問がありましたら何でも聴いて下さい!」

レセプション会場でわたしたちのためにウーロン茶を取ってきてくれ、
わたしながら彼は爽やかにこういいました。
何でも、と来たか。
それでは遠慮なく聞いてしまいましょう。

「どうして海上自衛隊を選んだんですか」
「私は(自衛官は主語をはっきり言う人が多い)元々陸自志望でした」

なにっ!陸自ってもしかして・・・。

A「第一空挺団です」
E「おお!わたしは降下始めの常連なんですよ!」(2回行っただけだけど)
T「この間も空挺団のDVD見てましたよ」
A「え・・・そうなんですか」(ちょっと引いてる様子)

E「・・・ということは・・・体力運動能力に自信があるんですね」
A「はい。(あっさりと)交友会活動ではテニスをやっていまして」
E「ああ、そういう(スマートな)イメージありますね!」(はしゃぐな)
A「そうですか? (〃'∇'〃)ゝ実は全国大会でもいいところまで・・・」
E「すごーい!」(はしゃぐな)

A「防大では全ての生徒に運動部の加入が義務づけられているんです」
E「文化部をしたかったら掛け持ちしないといけないんですってね」

A「ええ・・・・それで第一空挺団に憧れていたんですが、
 進路を決めるときになってある日、ふと思ったんです。
 第一空挺団に入ってもいったい
 どこに降りるの?って。
 今の日本に訓練以外で降りる場所はないと思ったんです」

 第一空挺団は陸自の花形だし、ただでさえ体力に自信がある「エリート」が
さらに苦難の果てに勝ち取る「レンジャー」という栄光を目指す、という
自衛官としての生き方も勿論あります。
(空挺レンジャーについてエントリ書いたのでちょっと予告編)

しかし彼の場合「自衛官としてのレーゾンデートル」は 
そういったある意味「精神主義的或いは観念としての防衛」にではなく、
もっとプラクティカルな、端的に言うと

「明日、中国の侵略から尖閣を護る」 

といった即応性のうえに、より求められたのではないかと思われます。
空挺部隊がプラクティカルでない、というのは日本が
「専守防衛」を旗印にしている限り、現実には投入される場所がない、
という考え方もあるでしょうしね。

自衛隊では旧軍歌の「外国に行く」=「派兵する」と感じる歌詞すら御法度です。
つまり自衛隊が「この国でしか戦わない」と言明している限り、彼の言うように

「落下傘で空挺をすることなど万が一にも起こり得ない」

という考え方もあります。

勿論空挺はそれ自体が陸自的精神の象徴のような部分がありますし、
この特殊な訓練をこなす集団は、あらゆる想定外の状況にも耐える
屈強な兵力を維持するという意味での存在意義もあります。

そして自衛官としてそこに自分の目標を求める者もいるわけです。
しかしアルファー3尉の場合、彼は海自に入隊することによって
あくまでも「防衛の第一線」に立とうと思ったのです。

「日本の防衛はまず海なんですよ。だって海に囲まれているんですから」


●ブラボー2尉の場合

彼が話しかけてきてくれたとき、実はわたしとTOの間では
こんな会話がしきりに交わされていました。

T「うーん・・・いいねえ、『国防男子』。
 どこにいるのかと思ったらここにいい男がたくさんいたかって感じ」

その気(け)もないのになにを盛り上がっているのだTO。

T「よく婚活本人や周りの人から『いい人があったら紹介して下さい』
 って頼まれたり聞かれたりするんだけど、彼らなら身元も確かだし
 訓練されているし職業選択の理由だってお婿さん候補としては申し分ないよね」

あ、そっちの話でしたか。

特にそれまで話していたアルファー3尉を彼はすっかり気に入ったようです。
(預かり婚活のお婿さん候補としてです)

そのとき飛んで火に入る夏の虫、声をかけてきたブラボー2尉に、我々は

「婚活対象としての自衛官」

として次々と質問をしまくりました。
ブラボー2尉、きっと困惑したと思います(笑)

T「結婚相手は皆さんどうやって見つけているんですか」
B「出会いが少ないですから、学生時代の相手と結婚する人が多いです」
T「独身の自衛官はどうやっているの?」
B「やっぱり知人の紹介が多いですね」
T「もし自衛官と合コンをしたかったら、誰に言えばいいの?」
B「?????????」

わたしはこのとき内心みね姉さん主宰の

「自衛官とのゆるやかな会」

をTOに教えてあげるべきかと内心思ったのですが、
このブログの存在を秘密にしている関係上、取りあえず黙っていました(笑)

T「もし自衛官限定で合コン企画したら来てくれるのかな」
B「そういうのに出てる人もいますね」
E「最近自衛官限定の合コンは大人気らしいですね。
 特に先日テレビ番組で放映されてからは・・」
B「ああ!ナインティナインのですね!」
E「えー・・(見てないので知らない)そうだったですかね。 
 ああいう合コンに行かれたことってありますか」
B「私はないです」

ブラボー2尉は24歳、まだ若いせいか、結婚については
全く、とは言いませんがあまり現実味を持っていない様子です。

それに彼は防大ではなく一般大卒なのでその辺りも
どちらかというとイージーモードで考えているようにも見えました。

「どうして自衛官になろうと思ったんですか」

お約束の質問。

「一般大卒ですので普通に就職活動をした結果です」

ほお。

「3菱商事と●紅も受けたけど、官公庁に受かったので公務員になりました」

というのと同じ感覚ですかね。
で、ブラボー2尉は何の役職なの?

「幕僚です」

幕僚というのは指揮官を補佐する、昔で言う参謀のような役職です。
その任務によって

監理・情報・保全・作戦・運用・訓練・砲術・対潜・潜水艦
船務・掃海・武器体系・航空・後方・機関・整備・補給・技術
通信(電子)・気象・研究(開発)・企画・計画・安全・当直

などの各幕僚があります。

いまだに略語はカタカナの「サ」で部内の通信を行いますが、
これは旧陸海軍で参謀の「サ」が略語だったことの名残なのだそうです。

ブラボー2尉が職業選択の結果自衛官になった動機というのはやはり

「国を護る仕事をしたい」

と思ったことが直接の原因だそうです。
そして海自を選んだ理由はやはりアルファ−3尉と全く同じ、

「日本は海に囲まれているから」

というものでした。
一般大から自衛幹部になる自衛官の数は最近激増しているようです。
就職戦線が厳しいことも勿論あるでしょうが、やはり

「国防も職業の一つの選択」

という風に考える若者がそれだけ増えたということでもあります。
昔は兵学校卒と学徒士官の間には歴然と身分の違いがあっただけでなく
主に兵学校側からの「いじめ」などもあったと聞きますが、
現代の海軍である海上自衛隊にはそのようなことは起こり得ません。

一般大卒も防大卒も、幹部候補生学校では同じ訓練をします。

B「防大では出来て当たり前のことでも、私たちには初めてのことも多く、
 最初はついて行くのが大変でした。
 そのうちできるようになりますが、できないことがかえって私の場合は
 負けないぞというモチベーションもなりましたし」 

 
”海上自衛隊幹部候補生学校 海の最前線 
将来の指揮官たちの スパルタ教育”

 

これを見て頂くと分かりますが、最初は行進すら合わないみたいです。
しかし「必死でしがみついて来る彼ら」を防大卒は

「彼らの吸収力は半端ないので、共に戦う戦友としては頼もしい限り」

などと評しているんですね。

美しい・・・・(T_T)

ところで、実際の自衛官の婚活状況ですが、一般企業などと違って
独身では出世できないなどということがないため、
「何が何でも結婚」という風には思わないせいで独身のまま
結構な年齢になってしまう自衛官も結構あるようです。

どんな相手が多いかというと、当事者の発言によると

部内か看護士や飲み屋のお姐さんが殆ど、残りは保険屋

看護士が多いというのは聞いていたけど本当みたいですね。
しかしこのメンバーを見ると

「自衛官が普段の生活で接触する可能性のある職業」

ばかりであることが分かります。

「飲み屋のお姐さん」が悪いとは言いませんが、問題はそういう自衛官を狙って
立ち寄る飲み屋にわざわざ送り込まれているらしいスパイ、あるいは
スパイ予備軍の中国人女性もいるらしいことです。

少し前に問題になっていましたが、中国人や韓国人と結婚している自衛官が多い、
というのは

「いかがなものか」

と思いますし、危機感すら覚えます。

ですから昨今の「自衛官との婚活ブーム」はその点からも歓迎されるべき事象ですし、
しかもわたしの考えでは決してブームではなく、一つの確定した流れだと思います。
一般大から自衛官を「選択」するように、自衛官も

「身元が確かで将来の安定した職業」

として世間に認知されつつあるということなので、これから自衛官になる方、
嫁探しに関しては安心してもいいんじゃないでしょうか。

ブラボー2尉によると、海自の場合「2年おきに転勤」は確実で、一般的には
それを嫌がる女性は多く、それが今までは自衛官が敬遠される理由でもあったのですが、
現にTOの「預かり物件」であるお嬢さん(銀行員)などは

「どこの転勤でも大丈夫です!喜んでついて行きます!」

というくらい熱心でいらっしゃいます。
まあなんだ、時代は変わったってことなんでしょうね。
 

●ジュリエット3尉の場合

食べ物を取っている彼女にテーブル越しに話しかけ、
テーブルを挟んだまま(笑)お話しさせて頂きました。

E「防大卒ですか」
J「一般大です」
E「なぜ自衛隊に?」


この質問はいわば「お約束」なのですが、答えは皆同じ

「国防の仕事に就きたかったからです」

でした。
たしかに自衛隊は公務員で将来が安定していますが、
それが一番の動機ということはあまりないと思われます。
他にも公務員の仕事はいろいろあるわけですし、それが動機なら
何も「生命の危険を顧みず」と宣誓させられるような職場を
選ぶこともないわけですから。

そして彼女の場合はこんな明確な目標がありました。

J「パイロットになりたいと思ったんです」
E「固定翼ですか、回転翼ですか」

この2行、どちらも女性の会話ですので念のため。

J「固定翼です。
 本当は救命飛行艇(US−2)に行きたかったのですが、
 あれは男性ですら過酷で、女性はなれないことがわかりました」
E「じゃ戦闘機」
J「海上自衛隊は戦闘機を所有していません」

はい、そうですね(笑)
そもそも海自には空母がないわけですしね。
わかっていたけどちょっと聞いてみたの。

女は乗せない戦闘機というのは自衛隊でも生きていて、
もちろんこれはパイロットにはさせないという規則なんだけど、
これは職業差別でも性差別でもなく「子供を産む」という機能を持つ
女性の体に配慮した「区別」なんですよね。


E「やっぱり結婚の時期のことなど考えますか」
J「考えますね。女性の場合やはり子供を産む時期がありますから」


男子も結婚相手を見つける場所がないため合コンなどが行われるわけですが、
女子はもし同僚のお相手を見つけられなければもっと大変かもしれません。

ただ、「国防男子」「国防女子」の好調な売れ行き等を見ても、今まで
「自衛隊嫌い」のノイジーマイノリティに不当に貶められてきた自衛官たちが
「普通の職場の優良な婚活対象」であるという認識が一般的になってきた気がします。

婚活市場での評価が上がる→より一層優秀な人材が集まる
→組織が精強になる→日本が安心して住める国になる→
より国防男子(女子も)が評価される

といいスパイラルになっていきそうではないですか。
ゆえにこの傾向をわたしは国民の一人としてたいへん歓迎しています。




続く・・・・と思う。












 


自衛艦旗掲揚〜2014年度練習艦隊出航

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先日、非公開希望である方からコメントを頂きました。
当ブログをご愛読下さっているという方です。
この方の所属する「団体」の業務というのは、当ブログのテーマ関連の職種なのですが、
わたしが何より驚いたのはそういう方が

「毎日ルーチンで」

ここに訪れて下さっていたという事実でした。
しかも、この方のお話によると、当ブログ記事をある業務の際、
参考にして下さったこともあるというのです。
大変ありがたいこのお話に感動しつつも、

「あんまりフザケた記事は書けないなあ」

とちょっと緊張したりしました(笑)
それはともかく、なぜこの話をさせて頂いているかと云いますと、
この方から頂いたメールには

海自の「ラッパ君が代」を聞いてみたいです。
知人から聞き及ぶに、横須賀で8時の自衛艦旗掲揚は艦が多いほど
「ラッパ君が代」が木霊して感慨深いそうです。


と書いてあったからです。。
わたしの目はこの「8時に自衛艦旗掲揚」という文章に吸い寄せられました。
なぜならそのときわたしは、

次の日の朝、かしまを旗艦とする練習艦隊の出航行事に
参加する予定だったからです。




昨日までのエントリでかしまの艦上レセプションパーティについて、
あれこれとお話ししてきたのですが、あの夕べから9日目、
練習艦隊は愈々各寄港地に向けて5ヶ月の訓練に出航することになりました。
国内の最終寄港地となった晴海埠頭では正式な出航行事が行われるのです。

で、またまたわたしがこれに参加しようとしていたわけです(笑)
これは、レセプションにお誘い下さった方が

「招待状は要らないらしいから見学されてはどうか」

と教えて下さったからでした。

しかし、わたしはこの「招待状は要らない」の一言を都合よく解釈し、
てっきりそこに行けば誰でも近くに行けるのだと思い込み、
艦上レセプションのエントリ制作で忙しいのもあって、そのメールに
返事をしないまま当日を迎えてしまったため、ちょっと大変なことになります。


その話はともかく、

「8時に自衛艦旗掲揚」

という具体的な時間をその方のメールで知ったわたしは

「明日の今日という今になってこれを知ったというのも
きっと東郷元帥のお導き。
明日の朝は何がなんでも8時に行ってこれを見よう!」

と瞳に炎をメラメラと燃やしたのです。
しかも何というタイミング、当日息子は学校から交流行事の音楽演奏出演で
米軍横田基地にバスで行くため、6時30分学校集合だというではありませんか。
これもきっとニミッツ提督のお導き・・・横田は空軍だっけ。まあいいや。

「息子を送って行ったらそのまま車で晴海に行ってしまおう。
そうすれば8時の掲揚が見られるに違いない」



当日は5時半に起きました。
こんなときには目覚ましがなくても起きてしまえる現金なわたしです。

息子には冷凍保存してあったミニバーガーとゆで卵とバナナと水、
という極限まで手を抜いた弁当を持たせ、(すまんかった息子)
車に乗せて学校で落とした後は一路晴海埠頭へ。

着いたら7時でした(笑)



さすがにあまりひと気がない。
しかしここにきてこの来賓用のテントを見ているうちに、
さすがにのんきなわたしも突如不安になったのです。

これって、大臣とか来賓とかのためのテントよね?
そんなVIPが来る予定なんだったら、

「招待状は要らない」というのはもしかしたら
「誰でも入れる」という意味ではなかったのか?

そりゃそうだろ、護衛艦の近くに誰でも近寄れるのなら、
佐世保の倉島岸壁で見た対岸から「自衛隊は憲法違反〜!」
とか叫んでいる基地の外の人とかも来ちゃうじゃないか。

そう思ったあなた、あなたは鋭い。
・・・・というかわたしがうっかりすぎたんですけどね。



車を走らせてゲートの前を通過してみました。

ほらー、やっぱり受付しないと入れないし。

”練習艦隊出航行事は取材なさいますか?
見送りに来る家族がたくさんいらっしゃいますが、
特段の招待状など必要ありませんので、もしご都合よろしければご覧下さい”

というお誘いはそのあとに


「もしご覧になるならば、手配しましょう」

という意味だったのかしら・・・。
愕然としたものの、時間はまだ7時すぎ。
とりあえずその方が


「9時にスタンバイしていれば大丈夫」

と書いておられたので、最悪その時間になれば何とかなるに違いない。
再び自分に都合良く考え、車の中で8時まで待ちました。



鉄条網の金網越しに見ていると、ゲートから入って行く人々は、
どうやら自衛官の家族のようで、各練習艦隊の艦内を身内の案内で見学しています。

こちらの側ではテントの組み立てが始まりました。



後甲板には自衛官とその両親が見えるだけ。



見送り側のスタッフと思われる自衛官たちが集合。
9日前までは冬服だったのですが、今日は第二種軍装、じゃなくて一種夏服です。

普通の組織はきり良く6月1日から夏服にすると思うのですが、
5月22日、というのは自衛隊的にはすでに衣替えが済んでいるのでしょうか。

もしかしたら、出航する彼らに一種夏服を着せるため、
特別に少し早めの衣替えをしたというようなことはないかな。

勿論冬服も海自はかっこいいですが、何しろ全身純白の夏服は
旧軍時代のそれとほとんど同じものですからねえ。
見送る側も色んな意味で感慨もひとしお、初夏の埠頭にはこちらが断然絵になりますし。

ああ、これはいやが上にも期待がつのるなあ。

白の詰め襟がずらりと練習艦隊の左舷に立つ様子を想像し、
さらにテンション上がってきました。


しかしその前にわたしは中に入れるのか・・?







中に入っていく自衛官の家族、関係者も増えてきました。
職場を彼女に(この雰囲気は絶対にヨメではない)案内する幹部。
艦上を歩き回っている隊員たちは皆半袖の三種夏服を着ています。
式典になったら着替えるのでしょう。

こんな職場で彼氏を見たら、その眩しさに(制服の白のせいではなく)
ドキドキしてしまうことは確実。

自衛官って、仕事をする姿が非日常的なだけに、家族にとっても新鮮でしょうね。
長年連れ添っていても制服姿を見るとその度に惚れ直すとか(笑)



彼らの両親にとっても息子の凛々しい制服姿は頼もしく、
「立派になったなあ」という感慨を一層あらたにするに違いありません。

両親と奥さん(もしかしたらお姉さんかも)を案内する海士、
そして母親と一緒の幹部。



地上部隊がお仕事をを始めました。
テントを4人で持ち上げて立てていっています。



駐車場に停められたバンから出てきたのは写真班の4人。
真剣に機材を点検しています。

バスからは東京音楽隊が一個中隊降りてきました。
彼らも一種夏服ですが、ちょっと不思議だったのが、
カメラマン、音楽隊は全員靴が黒だったこと。



車の中でiPadを見ながら時々車から降りてはこんな写真を撮って時間をつぶし、
時間はいよいよ8時になりました。



いつのまにかこんなに人が来ています。
これがほとんど全部乗組員の家族なんですね。

彼らが後甲板に集まってきたのはこれから自衛艦旗掲揚を行うからです。



しかし金網越しというのは何とももどかしい映像です。

皆がどうして右を見ているかというと、おそらく
艦長か司令、あるいはその両方が来るのを待っているのかもしれません。



マルハチマルマル。

♪ドーソードードーミー♪(以下略)

わたしは初めてなので喇叭譜「君が代」に「前奏」「後奏」
がつくことをこのとき知りました。

下を通りかかった人たち(おそらく『あさぎり』『せとゆき』に向かう途中)
も立ち止まって自衛艦旗に敬意を表しているようです。



朝日に昇る旭日旗。綺麗に埠頭をわたる風になびいています。

この前日天気は荒れ模様で、この日も実は昼から午後にかけては
豪雨と晴れを繰り返す変な一日だったのですが、
出航行事の間だけはは見事なくらいに美しい晴天が続きました。

わたしは前日から長靴もスタンバイさせていたのですが、
起きてすぐカーテンを開けて目映いばかりの太陽を見たとたん、
出航行事が晴れに恵まれることを確信した次第です。

まるで練習艦隊の門出を祝うかのように・・・・・・
・・・・・というと、「ふゆづき」のときの荒天はなんだったんだ、
ということになってしまいますが、あれはあれで

「いいものみせてもらった」

とわたしは今でも思っています。
つまり晴れでも雨でも自衛艦の行事は絵になるのです。



・・・・・・さて。

ところでわたしはこれからどうしたらいいんでしょう。
自衛艦旗の掲揚を見届けたので、今度は自分の身の振り方を考えねばなりません。

思い切ってゲートのところにいる自衛官に直交渉してみることにしました。
日頃こういうことには引っ込み思案で交渉などとんでもない、
というエリス中尉には我ながら考えられないくらいの実行力です。

心のどこかで海上自衛隊ならそんなに融通の利かない組織ではあるまい、
なんたってアングルバーではなくフレキシブルワイヤであれ、
なんて戦前から言っていた組織の末裔なんだから、と思っていたせいもあります。

それにこんな熱心な、決して怪しくない(と思いたい)人相風体の、
しかも女性が、早朝から艦隊を見送るためだけにわざわざ来ているのに、
無下に追い返すような真似をフレキシブルワイヤーたる士官がするはずがあろうか。

いやたとえ結果追い返されるとしても、取りあえず言ってみないことには始まりません。


わたしにしては大変な勇気を振り絞り、
車を停めて降りたところに立っていた端正な幹部に声をかけました。



「おはようございます。
今日の出航行事はやはり臨時で参加はできないでしょうか」
「はあ・・一応ご家族か前もって申し込みをした方のみとなっているのですが」

そこでわたし、一か八か、偉い人の名前を出して
強行突破を図る作戦に出ました。

「丸々(所属)の誰々(名前)何々(階級)が
この行事のことを教えて下さったのですが」
「そうだったんですか」

「わたくし先週の艦上レセプションにも来させて頂いておりまして」

自分が防衛省から招待された身元の確かな人物であると思わせ
(厳密には違いますが)安心させるという作戦です。

「8時20分頃にはゲートの係が交代しますので、
そのときに臨時で入れるかどうか聴いてみます。
8時30分くらいにもう一度ここに来て頂けますか。
もしだめだったらあそこで(横のビルのデッキから見ている人たちを指し)
見て頂かねばなりませんが・・・。
すみません、お名前を」

「エリス中尉です」(もちろん本当にこう言ったわけではありません)


わたしもこの幹部のお名前を聞いておきました。

「何何幕僚のチャーリーです」(もちろん彼もこういったわけでは略)



わたしは何よりこのチャーリー1尉のものごしの丁寧さ、誠実な対応、
本当に何とかしてあげようと思ってくれているらしいのに感激し、
たとえ駄目でも、そのときは彼の努力にはありがたく感謝して潔く諦めようと心に決め、
15分ほど晴海の港湾ビルのテラスで時間をつぶしました。

レインボーブリッジが綺麗に見えます。



水産庁の調査船「開洋丸」が停泊していました。
「開洋丸」でググると、「UFOに二度遭遇した船」というのが出てきます(笑)

わたしも小さい頃変な飛行物体を見たことがあるので、
(7つくらいの発光体がまとまって凄い高速で東から西に飛んでいった)
この手の話は全く不思議には思いませんが。

開洋丸は水産生物の資源調査、有用生物の発掘、資源動向に影響を与える
海洋環境調査等の基礎的研究を行う大型漁業調査船です。



さて、そろそろ何か結論がでているだろうか、とゲートに戻ります。
この写真を撮っていたら、横を通って中に入ろうとするおじさんが

「こんなところで撮ってないで中で撮ればいいのに」

といいました。

中に入れるものならぜひそうしたいんですけど、と言いかけたとき、
なぜか自衛官の制服ではなく背広のインカムつけた男性が近づいてきて
わたしに声をかけるではありませんか。

「エリス中尉さんですか?」

って、どうしてここにいるだけでわたしの名前が わかったんでしょうか。

「そうですが」
「 マルマル(所属)のナニナニ(名前)コレコレ(階級)は
もう到着して中におりますのでどうぞお入り下さい」


なんと、先ほどのチャーリー1尉は「臨時で入れるか」を確かめるのではなく、
あれからすぐにわたしの言った方に連絡を取ってくださっていたのです。

しかもイケメンのエスコートまで差し向けてくださって・・・・。
イケメンは関係ないですけど。

「手続きとか名札とか受付とかは必要ないのですか」
「結構です。中にお連れするように言われております」

すごい。

なんかわからないけど話が滅法早い。
いきなり来てただ「出港式見たい」といっただけの人間を追い返しもせず、
こちらの出した名前から相手に即座に連絡を取りすぐに対応。

そのスマートさに思わずジーンとしながらイケメンに付いてゲートを入り、
近くからさっそくかしまにカメラを向けて撮ったのが冒頭の写真です。

いつのまにか横にいた先ほどのおじさんが、

「やっぱり中で撮らないと駄目でしょ」

と声をかけてきました。
はい。わたしもそう思います。


とにもかくにも、わたしの練習艦隊出港行事参加は
このように始まったのでした。



続く








 

空挺館〜義烈空挺隊と奥山道郎大尉

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練習艦隊出航行事の続きを見るために来られた方、すみません。
今日は5月24日、義烈空挺隊が作戦決行した日からちょうど69年目にあたります。

ですので空挺館で見た義烈の資料についてのお話をさせてください。



陸上自衛隊の習志野駐屯地にある空挺館は年に何度か公開されます。
わたしは今年1月の降下始めを観に行ったときにここを見学したのですが、
4月6日の桜祭りにも行って、写真を取り直したいと考えていました。

ところが当日は天候が不順で雨が時々降ったりいきなり晴れたり。
わたしの住んでいるところと千葉県習志野市の天気は違うかもしれませんが、
何しろ手首の怪我もまだ完治していないので家族に反対されあきらめたのです。

今HPを見に行ったら、3500人の観客が訪れたということで、この数字が
例年と比べて多いのか少ないのかわかりませんが、降下始めの4分の1の数字。
おそらくお天気のせいで出足が悪かったのでしょう。 


さて、わたしは2年前、義烈空挺隊強行着陸せり、そして彼らが迎えたその日
というエントリで、帝国日本軍で成功した空挺強襲作戦である義烈空挺隊について書きました。
わたしが義烈という名前を初めて知ったのは、その少し前に訪れた知覧にある特攻資料館です。

航空機特攻や特殊潜航艇による特攻はある程度の人が知っていても、義烈空挺隊や、
あるいは薫空挺隊などの空挺特攻についてあまり知る人はいません。
しかもここでの写真によるパネルだけの説明では、資料館に訪れる人の関心を引くことに
成功しているとはとても見えませんでした。

そのときのわたしには、義烈空挺隊の数少ない資料のすべてがここ、
第一空挺団が所属する習志野駐屯地の空挺館にあるとはつゆ知らなかったのです。





出撃前各々自分の故郷の方角に黙祷する写真から製作されたものです。

エントリでも書いたように、彼らは特攻隊として組織され(志願では有りません)
そのための訓練を受け、何度も実際に突入の命令が下されながら、
その都度中止になるということが何回も繰り返されていました。

こうなったら一思いにさっさと往かせてくれ、というのがおそらく
全ての隊員の悲願でもあっただろう、とわたしは半ば想像でこのように書いたのですが、
やはり生存者の証言によるとその焦燥感はともすれば自らを

「愚劣食う放題」

と自嘲するような風潮にまでなったということです。



 義烈空挺隊の装備。

彼らは自分たちの任務のために制服のポケットを増やし、
このような装備を体につけた状態で突入することを考え、用具入れを考案しました。

ここにあるいずれの写真も鮮明でないのでわかりませんが、
ネットで時々見る比較的はっきりした彼らの軍副姿を見ると、
ところどころにシミのような汚れのような部分があります。
これは彼らが自分たちなりに迷彩柄を墨や草木の汁で施したものだそうです。

全部写っていないのですが、まるでプランジャーのような棒は、
使い方も本来のプランジャーのようなもので、先に炸薬を付けており、
突入後、敵機の翼の根元にこの棒を押し付けると、先の吸盤で吸着する、
吸着したら点火装置を作動させ柄を抜いて避退する、というものでした。

何にでも工夫をこらすのが日本人ですが、こういう武器も日本人ならではで、
アメリカ人なら考えもつかなかい次元の話だったのではないでしょうか。

 

空挺館にはこのようなモニターから、多くの義烈空挺隊員の遺墨が
次々に写し出されていました。
このような個人名の遺墨の現本は元々遺族が所持しているのでしょうが、

 

このような寄せ書きになると、生き残った戦友が保存し、
その方が亡くなれば遺族が寄贈するのかもしれません。



ここに寄贈された遺書もあります。
この頃の軍人ですから筆は使い慣れていますし、実際
いろんな遺書を見ても皆達筆なのに驚きますが、勿論「そうでもない」
字も、失礼ながらあります。

つまり、今と同じで上手な人もいるけどそうでもない人がいるということで
逆にこういうのを見るとリアリティが有るというか、現代の
我々の隣にいるような若い男の子がこうやって覚悟をしたため、
そして死んでいったのだという現実を見る気がします。

まるで小学校の書道の課題のように二文字ずつ並べられた

「正直 元気」。

衒いのないあまりに素直すぎる言葉からは、おそらくその言葉の表すように
元気で素直な、明るい笑顔が浮かんできそうです。

「先輩に続く」

というのも、たとえば「我は往く」などという決意の書に比べると
皆で揃って往くなら心強い、というような仲間意識が感じられます。
一緒に死のうと誓って過ごして来た仲間と一緒なら怖くない、
という風にも取れるのですが、これを弱さと言い切るには
あまりにも彼らの最後は壮絶なものでした。

先ほどの書もそうですが、「普通の男の子」が、その時代に生まれ
そうして国を護るという決意の元に死んでいったということです。

「必仇討」

彼には敵を討たねばならない誰か身近な戦死者がいたのでしょうか。
それとも、ここ沖縄で連日連夜アメリカ軍の攻撃によって死んでいく
民間人の敵でしょうか。
いや、彼らを守るために出撃していく特攻隊の仇でしょうか。




出撃に際し私物の整理をする義烈空挺隊員。
寝転んで遺書をしたためているように見えます。
几帳面な性格なのか、きっちりと並べられたものの上に、
一つ一つ封筒が付けられています。

その遺品を託す人にあてて一人一人に手紙を書いているのでしょう。



義烈空挺隊の隊長、奥山道郎大尉の遺墨です。

挺進殉國。

読んで字のごとく挺進によって国に殉じた奥山大尉。
わたしは見なかったのですが、知覧には奥山大尉の数学のノートが展示してあるそうです。
なぜ数学のノートが展示してあるのか分かりませんが、おそらくそれが
奥山道郎の学生時代の怜悧さや性格を表しているものだからでしょう。



陸士に入った時点で秀才であることは疑うべくもないことですが、
この人物を見て感じるのは、その造作から導きだされるような
「明朗」とか「温厚な」という雰囲気に加え、そのロイド眼鏡の奥は
実に聡明かつ怜悧な光をもつまなざしをしているということです。

もし同じ人物が平和な時代に生まれていたら、この写真に漂う
一種悲壮なまでの緊張はその表情から失せ、明朗なこの若者はあるいは学者となって
研究をしていたかもしれない、というようにも見えます。

実際の奥山大尉は典型的な「空挺タイプ」で豪放磊落、
明るく剛直な隊長だったということです。


遺書は作戦実行日の2日前に書かれました。
第一挺進団の押印がなされたその巻き紙には、こう書かれています。

遺書

 「昭和二十年五月二十二日
此の度、義烈空挺隊長を拝命 
御垣の守りとして敵航空基地に突撃致します
絶好の死場所を得た私は日本一の幸福者であります」




只々感謝感激の外ありません
幼年学校入校以来十二年
諸上司の御訓誡も今日の為のように思はれます
必成以て御恩の万分の一に報ゆる覚悟であります
拝顔お別れ出来ませんでしたが道郎は喜び勇んで征きます
二十有六年親不孝を深く御詫び致します 道郎
御母上様」


この遺書を見て思うのは、義烈空挺隊の出撃が何度も中止になり、
その都度かれらが自分の遺品をまとめては預けることを繰り返したことで、
つまりそれは彼らがその都度遺書を書き換えて来たということです。

奥山大尉のこの遺書が、最初から最後まで同じ文言だったのか、それとも
出撃のたびにその心境から少し変化していったのか、今となっては
知るすべも有りません。

ただ、この5月22日に書かれた遺書の中の言葉、

「道郎は喜び勇んで往きます」

と同じ言葉を、奥山隊長は出撃の際

「全員が喜び勇んで往きます」

と言い換えて使用しました。
これはわたしが前エントリでも書いたように、何度もその出撃を阻まれ、
忸怩たる思いで待機し訓練を続けて来た彼らの偽らざる心境で、
この言葉こそ、最終的な出撃に際しての彼らの万感の思いを語るものだったでしょう。




隊容検査前の義烈空挺隊員たちの様子です。

襟元を直しているとも、襟の階級章を外しているとも言われている写真です。
左の、襟を直されている隊員は柄付き吸着機雷を持っています。
手を伸ばしている隊員の背嚢には、予備の吸着機雷が括り付けられています。



奥山大尉も最後の瞬間、襟の階級章を外していきました。
これには、第一挺進団の隊長である中村大佐が、奥山大尉の襟章を見て

「その階級章はもう要るまい」

と言ったところ奥山大尉はそれを笑いながら外し、大佐に渡したという話が残っています。

「要るまい」つまり階級章が不要になるとはどういうことかと云うと、
この作戦によって戦死、すなわちもう大尉ではなくなるという意味です。

奥山大尉は戦死後、全軍でも異例の三階級特進をして大佐になっています。

厳密にはまず、 作戦成功の功に対し少佐に昇進、その後戦死が判明し、
それに対して二階級特進となったので、一度に三階級昇進したということです。 

階級章の横に印鑑がありますが、これは中村大佐が最後に

「お母さんに何かないか」

と言いかけたところ(奥山大尉は父親がおらず母一人)、奥山大尉は
胸ポケットからこの印鑑を出して大佐に渡したということです。




奥山大尉が書いた母親への遺書の表封筒。
郵送するものではないのにちゃんと住所をかいています。


義烈空挺隊の宿舎の近くに「極楽湯」という銭湯が有りました。
空挺隊の弊社の風呂が手狭だったため、陸軍は近くの銭湯を彼らのために
借り上げていて、 訓練が終わると隊員たちはそこでいつも風呂を使っていました。
その銭湯の経営者である堤はつさんを、隊員は親しげに「小母さん」「小母さん」と呼び、
はつさんもお茶を出してやったり、縫い物を引き受けてやったりして、
その最後のわずかな時間だけでも家に帰ったように世話を焼いてやったのだそうです。

出撃の早朝、常連の隊員たちが別れの挨拶に来ました。
彼らが出撃することを告げ、有り金を全部彼女に差し出したとき、はつさんは
畳の上に泣き伏したと言います。

彼らのひとりがはつさんに宛てた遺書が残されています。

「おばさん 毎度御無理申し上げ誠に有難く厚く御礼申し上げます。
待機中の私達も、愈々最後の任務に向い突進致します。

私達にいつも御親切に慰めて下さったおばさんの気持ちには感謝の他ありません。
私達も笑って嵐に向い、笑って元気一杯に戦い、笑って国に殉じ、
笑って皆様の御期待に報ゆる覚悟です。

どうぞ元気に皇国護持のため、東亜防衛のため頑張ってください。
最後に御親切に対し感謝と御礼を申し上げ、御一同様の健康を祈り上げます。

愛機南へ飛ぶ。

乱筆にてさようなら」 


「愛機南へ飛ぶ」というのは1943年に公開された佐分利信主演の映画です。
映画の題名にちょっと引っ掛けて、洒落てみたのかもしれません。

その後、義烈空挺隊が玉砕したと聞いたはつさんは

「なんとかあの兵隊さんたちの霊を慰めてあげよう」

と、彼らが置いていった金75円(今の10万少しくらい)を基金に、
自宅横の道に面したところに普賢菩薩像を建て彼らの霊を祀り、
その後も毎日の参拝を決して欠かさなかったということです。



ところで、このブログのある読者に奥山大尉の縁戚に当たる方がおられます。
勿論その方も防衛や軍事に興味を持っておられるのですが、お話によると、
奥山大尉の親族には昔は軍人が、そして戦後は自衛官もおられるとのこと。

「防人の家系」なのですね。






 

 

出航出港式準備〜2014年度練習艦隊

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昨日うっかりして本日アップする予定の本稿を、
昨日の「義烈空挺隊」のエントリと一緒に上げてしまいました。
「これ昨日も見たぞ」
と思われた方、間違いでしたすみません。
昨日とは内容も少しだけ変わっていますのでよろしければもう一度お読み下さい。



というわけで前回の続きです。

練習艦隊出航行事にやってきたのはいいけれど、
いろいろあって(笑)またもや関係各位にお手数をかけながら
やっと中に入ることができたエリス中尉でございます。

エスコートされながら気がついたのですが、入り口から道は
二手に分かれ、自衛官の家族は艦内に入るため岸壁沿いへ。
わたしは別の通路を通ってテントの下まで案内されました。



通路を行きながらふと見ると儀仗隊が降りて来ています。
このときまだ8時半くらいでしたがもうスタンバイする様子でした。



ちょっと彼らの様子をズームしてみます。
幹部、海曹、海士が写っていますが、これを見て思うのは
やはりこと制服に関しては海自の夏服は帝国海軍とほとんど変わっていないということ。

制服については陸空の同じ自衛官からも

「海自の海曹以上の制服は同じ自衛官から見てもカッコイイ」

と思われているらしいのですが、やはりそのなかでも1種夏服は最高ですね。
そしてその理由は「旧軍と同じ」であるから、とわたしは断言します。
陸自も幹部冬服に黒の長靴を復活させれば絶対人気が出る!

とは思うけど、現代の日本にはあまり実用的ではないかもしれません。
お金もかかりそうだし(笑)



甲板にはまだ隊員の家族がたくさんいます。
旧軍の話が出ついでに、戦前には一般人を軍艦に乗せたという話を
よく本などで見ますが、普段のときではなく出航行事前に家族を乗せる、
という習慣はやはり帝国海軍のころはなかったと思われます。

自衛隊の国民に対する距離とあり方も戦後大きく変わったということでしょう。



エスコートについて歩きながら写真を撮りまくるエリス中尉。
観閲官歩く赤絨毯と、巡閲前に立つお立ち台です。

ラッタルの下には儀仗隊員が整列しています。
かしまの舳先の向こうにお台場のフジテレビ社屋が見えています。



主砲横で曹士たちが集まっているのでズームしてみました。
海士たちが手を挙げているように見えるのは敬礼した後です。

ハッチが開いていますが、おそらく彼らは前甲板の繋留索を
出航に向けて外す係だと思われますので、このハッチも
何かそれに関係しているのかもしれません。

手前の繋留索が綺麗にまきついているものはボラードといいます。
このときには何のために集合しているのか分からなかったのですが、
着々と出航に向けて皆が動き出している様子がカメラにが捕らえられていました。



こちらでは花束の用意。
出航する艦隊の司令と艦長ズに渡す花束です。

スクランブルエッグといわれる鍔に模様のある正帽をかぶった
一等海佐が名簿の確認をしている模様。
しかしこの海佐を見ても思いますがやはり一種夏服は素敵ですね。

個人的に文句を言わせてもらうのなら、ポケットとスクランブルエッグで
米海軍の軍服と瓜二つになってしまったことが残念と云えば残念。



音楽隊もスタンバイを始めました。 



朝晴海に着いたとき、どこからともなく楽器を練習する音が聞こえ、
学生時代の早朝の校内を思い出したりしたのですが、
これは艦隊乗り組みの音楽隊員が練習していたのかもしれません。

出港式の音楽は、バスで乗り込んできた東京音楽隊が地上での演奏を行い、
かしま乗り組みの音楽隊は艦上で、と二手に分かれて行われました。

最後は地上と艦上、送る側と送られる側、二つの音楽隊が同時に同じ曲を演奏し
圧巻でしたが、このお話はもう少し後でさせて頂きます。



レインボーブリッジの切れるところにビルのデッキがあり人がちらほらいますが、
もしここまで入って来ることが出来なかったら、わたしはあそこにいたのです。

家族でもないのにこんな特等席でこれを見ることになるとは・・・・。
まずはここまで導いて下さったわたしの大恩人にご挨拶をせねば。

というわけでこの写真を撮りながらそのチャンスを窺うわたし。
わたしの恩人はこの右手の眩しい白服集団のどこかにいるわけですが、
何しろ偉い方なので色々と挨拶をしに来る人が引きも切らず、
一旦話を始めるとそれが長いのでタイミングがなかなか合いません。


ところで今この写真を見て気づきましたが、
後ろを向いているのは海曹なんですね。
なるほど、黒靴を履いています。



このときはまだ誰もいませんが、もう少しすると白い柵の両側に
警備の門番が立ち、家族はこちらに入れなくなりました。



こんな感じです。

因みに左に立っているのが幹部で右が海曹。
靴の色が違いますね。(確認)



家族たちは見学時間が終わり、観覧席であるテント下に移動するのですが、
そのとたんここでせき止められた家族が一斉になだれこんできて、
前列を取ろうと血相変えて走ってきたので、ちょっとびびりました。

わたしはそのとき「大恩人」にご挨拶の最中だったのですが、
そんなこともあろうかと前列の席をキープしておいたので、
一番前の特等席から一連の行事を写真に収めることが出来ました。

ただ・・・・、取り次ぎをお願いしたチャーリー1尉が最初

「中にお入りになっても家族席が一杯だと立ったまま見て頂くことになります」

と言っていたように、この行事は基本隊員の家族のために公開されていますから、
わたしのような自衛隊とは「ウォッチャー」という以外つながりのない者が
わざわざ地方から出てきた年老いた両親や、しばしの別れに際し
愛する人の姿をその目に焼き付けようとする妻や子や恋人たちを差し置いて、
そんなに多くもない椅子席の最前列に座ることには、内心忸怩たるものがありましたが。

(でも座ってしまうわたし)




この写真をよく見ると・・。
ラッタルの「JS TV KASHIMA」を外していますね。
左ではコードのようなものをたぐり寄せています。



ラッタルの下から儀仗隊が移動してきました。



続いて音楽隊もスタンバイ。
バスから降りたときは黒い靴を履いていた人もいましたが全員白です。

そういえばわたし音楽隊の制服の絵を冬夏と描いたことがあったんでした。
音楽隊はそもそも特別の制服(金線が装飾で入っている)なので、
演奏時には全身白なんですよね。



音楽隊長敬礼の瞬間。
本日の東京音楽隊はセレモニアルバンドの編成で、
最も基本的な吹奏楽のスタイルであると思われます。

彼らが着用しているのは夏儀礼服で、夏黒い靴を履くこともありますが、
それは略装のときだけです。
略装で式典を行うこともあるようですが、栄誉礼を伴う場合は儀礼服着用です。

因みに音楽隊員は階級に関係なく儀礼服の正帽には
スクランブルエッグがついています。



3等海尉でしょうか。
向こうは儀仗隊の隊長ですが、こちらも3尉のようです。

さらにその向こう、水兵服が向かい合わせに立っていますが、
ここはVIPの車が侵入して来る通路に当たり、
ここで観閲官が車を降りることになっているためです。



撮影班は一種夏服着用と3種(半袖)がいました。
国旗の下には士官が一人立っていますが、繋留索の点検でしょうか。



そのとき、かしまのラッタルを敬礼に送られて降りる一団が!



なぜかニコニコしながら降りて来る練習艦隊司令官、湯浅秀樹海将補、
続いて「かしま」艦長森田哲也1佐、「あさぎり」艦長川内健治2佐、

「せとゆき」艦長東良子2佐。

やっぱりかっこいいなあ。
かしま艦長はかなりご立派な体型ですが、それとてこの制服には
貫禄を与えて実に映えます。
せとゆきの女性艦長東2佐も、長身がきりりと凛々しい。

海上自衛官として自衛艦に乗り組んだら誰しも憧れる艦長職。
こういう瞬間、あらためて誇らしさを感じたりすることもあるのでしょうか。



この間かしまには艦長が不在になるわけですが、
三佐である船務長か航海長がこうやって見張りをしているようです。




こういうのを見ると「連合艦隊」って言葉をつい思い浮かべますね。
トランシーバー?のようなものをもっているのは3佐、
その後ろの、日本海海戦における三笠艦上の秋山真之みたいなポーズの人は
1佐で、帽子のつばにスクランブルエッグがあります。



彼の持っている長いコードは電源で、
どうも彼の着用しているインカムに繋がっているようなのですが、
今時?無線ではないんでしょうか。

上級幹部のとは違う、「いかにも現場の男たち」のかっこよさがあって、
わたしは旧軍の昔からの下士官兵の写真を見るのは大好きです。



そのとき、観覧席に陸軍軍人が入来。

敬礼しながら歩いているのは陸将補です。
胸には防衛徽章の上に金色のレンジャー徽章、
つまり教官適任者の印が燦然と輝いております。

後ろを歩くのは1等陸佐で、副官と思われます。



先ほどラッタルを降りてきた司令部が観覧席まで挨拶にきました。
いつ見ても微笑んでいる湯浅海将補。
雷蔵さんのコメントにも

湯浅さんはいい人ですよ。
話し言葉でお気づきになられたかもしれませんが、愛媛の産。
あの容貌とあの言葉遣いで、暖かく感じます。

とご報告を頂いた湯浅海将補ですが、わたしもご挨拶させて頂き
そのお人柄は短い時間によくわかりました。 



テントは逆L時型に組まれていて、家族席は
関係者、貴賓席を右手前に臨む形になります。
そちらへの挨拶が終わり、家族への挨拶に来られました。

紹介されるかしま艦長。

「あさぎり、せとゆきの艦長はまだあちらにおりますが・・・」



そのときの表情をアップにしてみました。
それにしても貫禄あるなあこの人。 

湯浅陸将補はこの後隊員の家族に向かって

「皆様方にとって大切なご家族である練習艦隊乗組員を
必ず5ヶ月後ここに無事に連れて帰って参ります。
見違えるように逞しくなって帰ってきた隊員たちを
どうかそのときは暖かく迎えてやって下さい」

と(いうようなことを)挨拶しました。
家族でもないのにこの感動的な挨拶を陸将補の真正面で聴くことになり、
感動しつつも実は少し(かなり?)恐縮していたエリス中尉です。



続く。


 



 

「帝国海軍ゆずりのユーモア」〜2014年度練習艦隊出航行事

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列席の関係者、招待客、家族に対し、練習艦隊司令官と艦長たちが
前にきて挨拶を 済ませました。



家族に挨拶をする練習艦隊司令官湯浅海将補。
いつも微笑んでいるかに見える温厚な顔をしておられます。

ちなみに左後ろに影のように佇んでいるのが海将補の副官。
副官は昔から必ず飾緒をつけることになっています。

陸自の副官も自衛隊になってからは飾り緒付きですが、昔
陸軍の副官はたすきをかけていました。 




埠頭が見渡せるビルのデッキには、超望遠レンズを持った人などが
ぼちぼち集まり始めています、
ブルーの旗は裏返っていて字が読めませんが、桜のマークであることから
自衛隊の家族会の関係団体の旗かなと思ったり。



このブログ的には大変おなじみ(笑)、元海幕長。

「なんでこのひとが家族席にいるんだろう」

と思われそうだったのでこの日はご挨拶は控えさせて頂きました。



陸海空と綺麗に並んでおります。
この陸海空トリオは、左から陸将補、空将補、海将。
でも、挨拶をしたあとは話題もないのかご覧の通り。
時間つぶしに携帯メールを見るのも、人目を気にして手の中に隠さねばならない、
というのも偉い人たちの辛いところです。

陸空幕長は向こうの方に海幕長と一緒にいますから、
ここは「ナンバーツー」のお席なのかもしれません。




かしま艦上での出航準備の様子も抜かりなく点検。
ロープを決められた結び方で等間隔に下げています。
「かしま」始め練習艦隊の自衛艦はこの安全柵のような白い幕を張っていましたが、

これは遠洋航海に行く船だけのもので、普通の護衛艦にはありません。
旧海軍でも、太平洋戦争開戦前はこの白幕があるのですが、開戦後には外されています。

というコメントをまさに昨日いただきその正体が判明しました。

遠洋航海に行く船になぜ白い幕を張るのか。
これは寄港地のある各国に対する表敬の印であるとか、
あるいはフネの「盛装」であると考えればいいのかな?



ここに実習幹部を始めとする乗組員たちが整列します。



家族用観覧席にはもう人がいっぱい。
テントの下に入りきれなかった人もたくさんいて、傘で強い日差しを防ぐ人も。
貴重な家族席の一つを先取りしてすみません、と心の中で恐縮し続けるわたし。


後甲板には見た目も清々しい純白の集団が集まって、
式典広場に入る時間を待っています。

若者の集団というのはどうしてこう見ていて清々しいのでしょうか。
初々しい背広姿のフレッシュマンの集団を見てもいつも思うのですが、
若さそのものが「美」であるため一人一人の美醜などは全く問題にならなくなります。



そのとき、アナウンスに続いて音楽隊長のタクトが一閃、
実習幹部全員と各艦乗組員たちが入場してきました。

このときの最初の音楽、何だったと思います?
「愛国行進曲」の行進曲アレンジです。


海上自衛隊東京音楽隊 Tokyo Band 「愛国行進曲」

この東京音楽隊が兵学校75期の方々の前で演奏している映像、
指揮しているのは間違いなく河邊一彦一佐だと思われます。

兵学校卒の懇親会で演奏されるのはよくわかりますが、こういう曲が
今現在の自衛隊の行事で正式に演奏されているとは驚きました。

「しれっと旧軍時代の慣習を復活」

とマナー教室のときにも書きましたが、こういう曲っておそらく戦前から

「こういうときにはこの曲」

と決められているのをその通りに演奏しているんでしょうね。
「軍歌演奏してるじゃないカー!」
などと火病を起こす人たちは絶対にここには来ないという前提で。


さらにこのあと、かしま艦上の音楽隊が演奏した「ある曲」をきいて、わたしは
海自は旧軍からの慣習に従った選曲をしているに違いないと確信することになります。


 

実習幹部たちは手前から順番に行進してきて並んでいきます。



水兵さんたちも行進。
白の水兵服は本当に清々しいですね。



「三択でしょ?まず、目が悪いからパイロットは無理で、
陸は砂の入ったご飯はイヤでお風呂に毎日入れないのがイヤだから、海自」

こういう理由で海自を選んだ幹部も、海自には一人ならずいるでしょう(笑)

これはみね姉さんのお知り合いの話だそうですが、まずこの隊員には、

空自のパイロットの隊員全体数に対するパーセンテージを知っての発言か?

とか、

海自でも潜水艦は毎日入浴などとんでもないが?

とか、

陸自の砂入りご飯は・・・・まあそれはわからないでもないけど(笑)

とにかく
自衛隊の中の人でもこんな凄まじいイメージで自分の進路を決めるもんなんだなあ、
と思ってしまうのですがそれはともかく、

「目が悪いので」

というのが理由の人は案外多いのかもしれない、と思ったのがこの写真。
たまたまかもしれませんが、画面中眼鏡着用率非常に高し。

しかし自衛隊の任務そのものが職業自体非常に多岐にわたるものですし、
とくにこれからは「電子戦」に人材が投入されるでしょう。
「パソコンに一日向かうのが任務」という自衛官だっていくらでもいるわけです。

「眼鏡だから」「綺麗好きだから」(笑)という理由で陸海空を選ぶのは
もしかしたら職種について知らなすぎる、というものかもしれません。

もっとも、冒頭の幹部の言ったという理由は一般人対象の軽口というか、
単なる受け狙いの「営業トーク」にすぎないのかもしれませんけど。



全員が整列し終わったところで練習艦隊司令部の面々あらためて入場。
一番後ろを歩いて来るのは海将補の副官ですが、このような場合、
かならず副官も一緒に行進して来るものなんですね。



艦長三人の後ろに付いてきたこの一佐は行進が終わり
司令部が定位置についたあとは幹部たちの右前列に立ちました。

飾緒をつけているこの1佐は、おそらくですが練習艦隊の遠洋練習航海中、
日本国外において渉外事務を行うために必要のある場合に飾緒を着用する、
最先任の幕僚ではないかと思われます。

(この方の紹介もされたのですが残念ながら聴きそびれました)



司令官である湯浅海将補の後ろに並ぶ
三つの練習艦の艦長たち。

こういう待機のときの姿勢は手は後ろです。



全体的に真っ白の集団ですが、やはり人によって制服の仕立ては色々らしく、
こうして見ると布地の放つ色味は全く違いますし、
正帽の金色、前章の模様も全く違うのがよくわかります。



たとえばこの自衛官の集団なのですが、何人か異常に黄色っぽい制服で
かえって目立っているのがお分かりでしょうか。

どちらかというと青みがかった白がほとんどの全体で、
この生成りの制服ははっきり言ってあまり綺麗に見えませんでした。

制服の色について書いたとき

「わたしはパーソナルカラーで黄味がかった白が似合うから、
きっと夏服を仕立てるならそんな色にするだろう」

などと書いたのですが、この歴然たる光景を目にしてからは考えが変わりました。
自分にたとえ似合わなくとも、自衛隊の一種夏服は

「氷河のように冴えわたったような青みがかった白」

が ベストだし、きっとわたしもそれを選ぶと思います。




来賓席には政治家席の向こうに在日武官の席がありました。
ニュージーランドの武官に挨拶するタイ在日武官。



手前に元海将がおられることから、こちらは「元海将組」でしょう。
向こう側の「冴え渡る白集団」は「現海将組」です。


つまり関係者席ですが、家族用テントの下に収まりきらなかった家族が
こちらの方にも出張してきているようです。



こうやって皆が待っている中、黒塗りの車が横付けされました。
そこから観閲官である若宮防衛大臣政務官が降りてきます。

もうわたし、この方をあちらこちらの自衛隊行事でお見かけしていて、
すっかりおなじみという気さえいたします。


防衛大臣政務官というのは昔政務次官であったポジションです。
小泉内閣時代の防衛政務次官であった西村真悟氏は、

「 核武装の是非について、国会で議論しよう」

といって辞任に追い込まれたという経緯がありました。
野党と左派が大騒ぎしたのも記憶に新しいところですが、それでは皆さん、
民主党時代の防衛政務官が誰だったか記憶にありますか?

野田内閣のときの政務官であった下条みつ(男です)という人物は、
東電からの政治資金の不明問題、そして在日韓国人団体の民団からの献金問題、
そして秘書へのパワハラ、耐震偽装していない企業への悪質な印象操作、
幽霊サポーターのねつ造など不祥事の総合デパートみたいな、
まあ民主党としては平均的かもしれない政務官だったわけですが、
マスコミは西村議員のときほどこれらのことを報じませんでしたから、
下条某の不祥事をおそらくご存じない方も多いのではないでしょうか。

そして恐るべきことに、こんな人物でもその任に就いている間は
このような行事に政務官として出席したはずなのです。

民主党の帰化議員が先日の艦上レセプションに来ていたという話を書いたとき、
コメント欄でみね姉さんが

「かしまが汚れる!」

とまで書いていましたが(ヘタレのわたしは普段ここまで言えないので正直羨ましい)、
こんな人物に練習艦隊の出航行事の、たとえば栄誉礼を行っていたなんて、
それこそ海自の神聖な儀式が「汚された」と今更にして思わずにはいられません。

「民主党じゃなくて良かった」

は、特にこの下条とか言うとんでもない政務官を戴いていたころは
シャレにならんくらい関係者の総意であったということになります。

ちなみにこの人物は2012年の選挙で敗れ、無職となりました(笑)


話がそれましたが、とにかく安倍政権になってから、自衛隊行事にも
マトモな政治家が式典に参加するようになり、自衛隊員、というかむしろ、
自衛隊員の家族たちの随分精神衛生状態はかなりよくなったのではないかと
わたしはこの若宮政務官を見るたびに思っています。



それでも、こんな議員も来ているんですよね。
前列右から4番目、誰だと思います?

菅内閣で文科大臣を務めた高木義明。

文科省時代に最も熱心にやったのが朝鮮学校無償化で、それも当然、
日韓議員連盟、日韓トンネル研究会、北京オリンピックを支援する議員の会所属。
勿論外国人参政権の導入にも熱心な、つまり

THE BY COCK DO  (ザ・売国奴)

というタイプでいらっしゃいます。
なぜいるの?ここに。


何か?

この間の帰化議員といい、自衛隊行事には野党を一人必ず
招待しないといけないというきまりでもあるのか?

・・・・いやたぶん実際各党に招待状を出すことが決まっているんでしょう。
絶対に来ない共産党にも一応出すだけは出しているのかもしれません。

で、民主代表でこの元文科大臣が来たということみたいですが、
みね姉さんじゃないけど、ヘタレのわたしも言わせてもらう。

練習艦隊出港式典が汚れる!




壇上に立つ観閲官の若宮防衛政務官に対し総員敬礼。



テントの下の海将たちも勿論敬礼。
現在海将は海幕長も入れて16人いますが、このテントには7人しかいません。
地方総監などは出席が不可能なので、首都圏に在任している海将たちです。



そして右側の元海将たちは当然ですがもう敬礼をすることはありません。
すでに自衛官で無くなった者はどんな気持ちで現役の敬礼を見るのでしょうか。

そういえば海将ズは座っているときも膝の上で手を拳に握っていましたが、
真ん中の赤☆氏にうっすらその傾向が見えるものの、他の人たちは
「普通の人の座り方」です。

現役から離れると、立ち居振る舞いも「普通の人」になるものなのかもしれません。



音楽隊の指揮者が楽隊の方ではなく観閲官の方を見て
タクトを振っています。
「巡閲の譜」の演奏が始まったのです。

巡閲の譜が奏楽されている間、観閲官は儀仗隊の列の間を歩きます。
儀仗隊の観閲を以て部隊全部の観閲とするわけです。



さて、巡閲が終わりました。
海曹が地面に白いロープを置きます。
何にするのでしょう。



同じ海曹に先導されて報道陣が前に進みます。
つまりこの線は「報道陣、この線から出たらアウト」という印です。

しかし・・・・10人くらい?
何とも小規模の報道陣ですねえ(笑)
練習艦隊の出港式などはどこもニュースや記事にしませんか。

このうち二人くらいは朝雲新聞の記者だろうし。



若宮政務官挨拶。

はっきりと「尖閣」とこのときも壮行の辞に盛り込まれていました。



式典の様子を記録に収める自衛隊の写真隊。
カメラはなんと三台肩から下げています。



このあと石原某という政治家の挨拶があって(石原伸晃じゃありません)
河野海幕長の壮行の辞がありました。

政治家の挨拶は紋切り型と云うか、まあ普通にありがちなものでしたが、
海幕長の訓示はちょっと面白いと思いました。

「海は時化るときもあれば穏やかな表情を見せるときもある。
大きな艦艇もゆうゆうたる海に浮かべば点のような存在である。

諸君はそうした自然の懐の中で技術を磨き、同期の絆をさらに深めるとともに
世界各地で活躍している強く逞しい先輩たちのように、
困難に立ち向かう気概や忍耐力は勿論、

帝国海軍以来の伝統であるユーモアのセンスを備えた

帝国海軍以来の伝統であるユーモアのセンスを備えた

帝国海軍以来の伝統であるユーモアのセンスを備えた

(大事なことなので3回書きました。海幕長は勿論1回しか言ってません)

自由闊達な精神も身につけてもらいたい。

また乗組員諸君は一人一人が教官であるとの気概を持ち
湯浅司令官のもと一致団結して将来の幹部を育てる任務に邁進すると主に
それを通じて自己の術科技量の向上に努めてもらいたい。

我が国を取り巻く情勢に鑑れば海上自衛隊が果たす責務はますます大きくなっており、
実習幹部、乗組員諸君はこれらの情勢を十分認識した上で世界に身を置き、
各国の安全保障の現状や取り組みについても直接肌身で感じてきてもらいたい。

最後に遠洋練習航海部隊の壮途を祝うと共に、
諸君の健康と安全なる航海を祈念して壮行の辞とする。



「帝国海軍以来のユーモアのセンス」って・・・。
これ、「女王陛下のキス」を念頭に置いて言ってらっしゃいますね海幕長?
(2000年度の遠洋航海時、かしまに起こった衝突事故でした)

やはりあの件は帝国海軍譲りのセンスだと認識されてるってことでよろしいでしょうか。





続く



 

「太平洋行進曲」〜2014年度練習艦隊出航

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今日、5月27日は海軍記念日です。
この日にこんな画像を揚げられることを大変好運に思うエリス中尉です。 


さて、2014年度海上自衛隊の練習艦隊出航行事、栄誉礼に続き
来賓の挨拶、海幕長の壮行の辞も滞りなく済み、
乗組員たちが総員各艦に乗艦するため行進を始めます。

この海曹は最後の方に前を通過したのですが、口髭といい、
潮気に揉まれたようなその陽焼けした面構えといい、
まるで帝国海軍のベテラン下士官のようで(実際もベテラン海曹ですが)
わたしは彼が向こうからやってきたとき心の中で「おお」と声を上げ
何枚も写真を撮りまくってしまいました。

こういう顔を見ると、「海上自衛隊」より「海軍」、海曹より「下士官」
という言葉の方がしっくりくる気すらしてきます。
貫禄があるのも当然、彼の階級は海曹長、つまり海曹の最高位にあります。

そして彼の右胸の金色の徽章は、

「護衛艦隊等先任伍長」

この方はすなわちこの練習艦隊の全海曹のトップ!
うーん・・・やっぱり。


この日、お髭の海曹をこの人を含め二人見ました。
海軍の映画でも下士官の長は・・・・陸軍の軍曹もですが、
口髭を立てているのがほとんどです。
荒くれ者もいるかもしれない下士官兵たちの上に立ってがっつりまとめ、
士官とのパイプ役にもなる役職ですから、髭をその一助にして
貫禄を出そうとする曹長が多かったのかもしれません。

口髭は決して無精髭と違って無精な者には立てられるものではなく、
あれで手入れが大変だそうですから、分刻みのスケジュールで動く
艦隊勤務の自衛官にはよほどの思い入れがないと無理かもしれません。

でも、この海曹長のお髭は押し出しの良さは勿論、彼自身のパーソナリティ、
ベテラン海曹としてのヒストリーや海の男の誇りを含め、
初めて見るものにもその「海軍魂」がびんびんと伝わって来るようでした。

海自にももっと「お髭の将官佐官」が増えてもいいのになあ、と
こういうかっこいい人を見ると思います。



さて、ここは駐在武官席並びに政治家席。
ここにいる外国人たちは

パナマ全権大使代理、パプアニューギニア全権大使代理、
オーストラリア武官、インドネシア武官、ニュージーランド武官、
フィリピン武官などなど。

ところでどうして皆空を見上げているの?

特に一番向こう側で思いっきり首をひねっているお方・・・
これは・・・・・



ゲルじゃないか〜!

「大和より武蔵が好き」

というのが決め台詞、政界きってののモデラー兼ミリオタ石破茂氏。
向こうで拍手している民主の元文科相()と違って、取りあえず石破さんの場合は
こういう式典に呼ばれて実はワクワクドキドキしている・・・・はず。
もしかしたら自衛隊には

「出航行事等があれば必ず俺様を呼ぶように」

と直々に通達が出てるかもしれないなこの人の場合。



ちなみにこのとき皆が見ていたヘリコプター。



さて、続いて花束贈呈の時間。
練習艦隊司令長官(ちょっと言ってみたかった)湯浅海将補始め
かしま、あさぎり、せとゆきの艦長に東京都の港湾関係部署の代表などから
花束が渡されます。



湯浅海将補の受け取った花束は、すぐさま副官に手渡されます。
こういうときの副官の花束の持ち方もあるいは決まっているのか、
実にエレガントな所作で花束を抱えて立つ副官でした。

副官ってこういう任務もあるんですね。



その後、練習艦隊司令官の出航に当たっての辞。

「半年後、全員元気でここに帰って参ります!」

と湯浅海将補は元気な声で挨拶しました。



そして・・・・・音楽隊が乗組員たちの乗艦のために演奏したのは、

「行進曲 軍艦」。

ああもうなんて素晴らしいんでしょう。
涙管が閉塞していて少しの刺激ですぐ涙が出てしまうため、
日差しのきつい埠頭でのこの行事にずっとサングラス着用で臨んだわたしですが、
涙防止のサングラスの下でもこの瞬間容赦なく涙があふれて来るのを感じました。

なぜ、と聞かれても困りますが、儀式そのものの様式美、
整然と並ぶ白い第二種軍装の集団、それが歩を進めくろがねの城に乗り込むとき、
他でもない行進曲「軍艦」が演奏される瞬間・・・・。

「ネイビーブルーに恋をしてしまった」わたしのような者に対し、
これらに感涙するなという方が無体というものです。




行進の先頭ががVIP席に来たとき、観閲官の若宮氏が
湯浅海将補の手を取りました。(しかも両手で)

いくら政治家というのが「前に人が来たら脊髄反射で手を握ってしまう」
という習性の生き物でも、こういう場面では普通あまりしないと思うのですが、
若宮氏は政務官として初めて見るこの一連の海の行事に心から感動を覚えたため、
それを表したのではないか、とわたしは非常に好意的に解釈していました。

湯浅海将補も手を握られて嬉しそうです。
海将補かわいいよ海将補。

それよりわたしは後ろのいつも控えめながら実に切れ者らしい怜悧な目をした
海将補の副官が、二人が手を握り合っている間足踏みをして終わるのを
待っていたのかどうかが今更気になりました。

副官、何かと大変な役職です(笑)



家族席の前を敬礼しつつ通り過ぎる湯浅司令官。
もしかしてカメラを見て下さってます?



相変わらず絵になる巨漢のかしま艦長森田1佐。



花束を持っているのは全員1尉で各艦長の副官たち。
あさぎり艦長の川内2佐の副官(だったとおもう)。



ご存知、せとゆき艦長東良子2佐。
前にも書きましたが東2佐は防大の女子1期生で、今年39〜40歳。

日本では勿論この1期生が初めて武器搭載艦の艦長になりましたが、
米海軍では「女性艦長」を誕生させようと2003年、
イージス艦の艦長に女性を任命しました。

ところがアメリカ海軍はどうやら「企画ありき」で、人物を厳密に考察し
人選するということを怠ったらしく、この女性艦長、
部下に対するあまりにも酷いパワハラを常習的に行っていたため、
ついに横須賀の「カウペンス」艦長のときに解任されてしまいました。

男性の軍人なら本来艦長などにはなれないようなレベルの人物を、
女性ゆえ大抜擢してしまい、それがあだになったというところです。

このグラフ大佐という女性艦長は「海軍一家」の出ですが、
防大女子1期生も親はかなり上の幹部ばかりだったという話があります。

グラフ大佐の場合それが悪い形で出てしまった(傲慢で女王体質という意味で)
と思われますが、我が日本国自衛隊の女性艦長には色んな意味で
考えられないというか、ありえないことのような気がします。



東艦長の副官。



さあ、そして実習幹部たちの行進が続きます。
観覧席の人々が軍艦に合わせて手拍子を打っているのがお分かりでしょうか。
近くを通る彼らを思いっきりアップで彼らの表情を撮ってみました。
練習艦隊「国防男子」の凛々しい行進の様子をどうぞ。















ついニコニコと歯を見せてしまう実習幹部もいました。
これからの航海への期待と希望で喜びがあふれだしているようです。
見ているこちらもつい笑顔になってしまいます。













まっすぐ前を見ながら歩きながらも家族席の前ではつい
家族の姿を探してしまうものかもしれません。

ちなみに彼が左胸に付けている徽章は「体力徽章(乙)」
(この乙はおつかれの乙ではありません)といって、
年1度行われる体力測定で1級を取ったという印なのだそうです。

そういえばいにしえの昔のことになりますが、不肖エリス中尉、
体力運動能力が頂点であった中学1年のとき、スポーツテストで、
全校でも4人しか取れなかった1級を一度だけですが取ったことがあります。

わたしがその後のテストで二度と1級にはなれなかったように(笑)
彼らももし来年度のテストで1級が取れなかったらそのときは
このバッジは返還せねばなりません。

このバッジは通称「逆さベンツ」といい(確かに)、
この真ん中のYの字が金色の(甲)は、水泳のテストでも1級を取れば付与されます。

ただでさえ体力がある者は世間よりずっと尊敬される自衛隊ですから、
体力章(甲)をもっていたらちょっとしたヒーローでしょう。



 

 

 





国防女子も行進。






行進は整然と続き、舳先から舷側に並んでいきます。



舷側に整列していく彼らの後ろを通って音楽隊がスタンバイ。



これが行進最後尾です。



前甲板にはもうきっちり並び終えた模様。



こちらは後甲板。
舷側に立って帽ふれをするのは練習艦隊では実習幹部だけのようで、
海曹・海士は乗艦するなり配置に就いたようです。





音楽隊が位置に着きました。
ちょうどフネの真ん中あたり、ボートダビットの真下です。
まだ演奏は始まっておらず、隊員は楽器に息を吹き込んでウォームアップを行っています。



そして、隊長は後ろの様子を見ながら演奏のタイミングを窺います。
全員が乗艦して出航準備が始まったら彼らの出番です。



テントの下から移動してきた家族は柵の前に出て、
自分の家族や恋人である実習幹部の立っている場所の
出来るだけ近くに立とうと移動を始めました。

観閲官や政治家、駐在武官や大使館員、そして海自将官、OBは
ラッタルの前あたり、つまり艦長が立つデッキの下で見送りです。

わたしは柵の後ろから見送ることにしました。
家族に遠慮して、というか、彼らを見送る家族や恋人の様子をも見るためです。



頭をしゃんと上げて起立していますが、目だけ動かして、
自分の家族や知人がどこにいるのか彼らはちゃんと見ているようでした。

彼らはこのままハワイの真珠湾まで海の上を一路進んでゆきます。
つまりこのとき行進で踏みしめた晴海の埠頭が最後に踏む日本。
次に彼らがここ晴海に帰って来るのは五ヶ月後の10月です。

その感慨もひとしおであろうとわたしが彼らの心境に思いを馳せた瞬間、




艦上のかしま付き音楽隊が地上の東京音楽隊に変わり演奏を始めました。
曲は何だったと思います?




海の民なら 男なら 
みんな一度は憧れた 太平洋の荒波を 
ともに勇んでゆける日が きたぞ 歓喜の血が燃える 

そう、「太平洋行進曲」だったのです。
またしてもこの曲に激しく刺激されるエリス中尉の涙腺でした(笑)


続く。









 

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