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「ファイト!」〜2014度練習艦隊出航行事

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2014年度練習艦隊の出航行事についてお送りしています。

「練習艦隊はどのように編隊を組んで航行するのだろう」

とその画像を探していたのですが、なんと艦上レセプションのときに
全員に配られたパンフレットの表紙にその写真があったという・・・。

パーティで受け取るなりTOに持たせたので、ちゃんと見たのは昨日なんですよねorz



旗艦がかしま、手前がせとゆき、向こうがあさぎり。
このパンフには各艦のスペックと艦長の写真もありました。



あさぎり艦長の川内2佐って、こうして見るとイケメンー。

そしてそういえばあさぎりの副長はたしか女性だったかと思うのですが、
今回はご尊顔を拝すことはありませんでした。
出航準備でずっと在艦していたのかもしれません。

お二人の写真をちゃんと撮れなかったのが残念。


かしま艦長の森田1佐は雷蔵さん情報によると艦長が3〜4回目だそうです。
そして、艦隊司令の湯浅海将補は、



これも雷蔵情報によると「早い時期に小さな艦の艦長を務め、
そのまま地上職にGO!な方だそう。
この経歴からもそういうことが読み取れますね。

さて、前々回練習艦隊の寄港地を文字で記しましたが、
戴いたパンフにはこんな情報もありました。



これによると5月24日現在、練習艦隊は一路パールハーバーに向けて
航海しているところ。
ハワイ到着は6月3日予定なんですね。

わたしも6月後半から恒例のアメリカ生活なので、サンディエゴのときに
「追っかけ」ができたらなあとちょっと思ったのですが、
残念ながらスケジュールが全く合いませんでした。

ちなみに実習幹部たる初級士官の数は総員約730名のうち172名です。

ところで出航行事のご報告途中ですが、このパンフのことが出たので
ついでにレセプションが終わって退出するときの写真を。



レセプションが終わったのは8時過ぎでした。
夜の自衛艦は初めてです。
明かりが実に幻想的です。



かしまの船務長とかかな?



練習艦隊司令部と一緒に行進してきたとき、すぐに
「かしまの舷門で挨拶していた1佐だ」とわかったのですが、
後から教えていただいた所によると主席幕僚の久保1佐とのこと。

式典の写真をもう一度。



司令官らと一緒に行進して花束も受け取り、総員の右前に立っています。
このときに金モールをしているのに、かしま艦上ではしていないことに注意。

首席幕僚が飾緒を着用するのはこの出国行事からなのです。

ちなみに海上自衛隊において、金色の飾緒を着用するのは
海外において渉外事務を行う練習艦隊首席幕僚と防衛駐在官のみです。



ところでこのときなぜ舷門で帽子無しでいるのか(だから敬礼でなくお辞儀?)
はわかりませんでした。



レセプション参加者には舷門でこのカップ酒が
一人に一つお土産として渡されました。
わたしたちは二人で行ったので二つの意匠のものが手に入りました。

右側が練習艦隊のトレードマークのようです。
左側は(ひっくり返っててすみません)北斎の波に富士。
おそらく外国の寄港地でもこれが配られるのでしょう。

うちは誰もお酒が飲めないのですが、ありがたく料理に使わせていただきます。


というところで出航行事に戻ります。



舷側に綺麗に実習幹部たちが整列しました。
海曹たちがラッタルを駆け上がります。

・・・・これ、登ったことのある方はご存知だと思いますが、
歩くだけで結構揺れるんですよね(笑)
レセプションのときは



手すりも幕も張られていますが、それでも歩くたびにぐらぐら揺れるので、
特にパンプス着用の女性にはちょっと怖いくらいです。
それを、この海士はこんなむき出しの状態で(しかも1段抜かしで)駆け上がるとは。

こんな小さなことにも日頃の鍛錬ぶりが表れている気がします。



総員乗艦し、いよいよ出航準備はラッタルを外すところに来ました。
前々回、艦隊司令部がラッタルを降りてきたときに、下で海曹が
コードのようなものを握ったまま敬礼していましたが、



これはどうやらラッタルを引き揚げるためのワイヤーだったようですね。



ピーッ、ピーッ、という音と共にラッタルが上げられます。
ああ、わたしは9日前これを降りたんだなあ。

次にこのラッタルが地上に降ろされるのは12日後。
その地はハワイのパールハーバーです。



さきほど前甲板でミーティングをしていた海曹海士が、
舫索(もやいさく)を引き上げにかかっています。
勿論引き上げるのは機械ですが。

ところで、彼らの後ろに砲が見えますね。
いかにも手描きのようなデッサンの狂った(失礼)旭日旗が貼ってあります。
これは・・・もしかしたら

礼砲?

そういえば艦上レセプションのときに艦内を見学しなかったのですが、
後からご招待下さった方が

「礼砲始めかしま独特の装備をお見せすれば良かった」

とおっしゃってましたっけ。
これはぜひお見せしていただきたかったなあ・・・。



wikiの「礼砲」のページにあった米海軍の礼砲発射の瞬間。
士官はヘッドホン無しで凄いですね。耳栓でもしてるのかな。

礼砲はたとえば

軍艦が外国領海内に入り答砲し得る軍艦、砲台がある場合は
当該国の国旗に対し21発の礼砲を行なう

と旧海軍時代でも「海軍礼砲令」で決められていたように、
自衛隊でも「自衛隊の礼式に関する訓令」でその詳細が決められています。
それによると

練習艦隊は訪問国の国旗に対し入港時21発の礼砲を行う

外国の元首の旗章に対し、21発の礼砲を行う
2カ国以上の元首がいる場合は国名アルファベット順

停泊中の外国の軍艦に掲揚されている主席指揮官の旗章で司令官より
上級の階級の軍人の旗章に対し行う

上は入港時の礼砲ですが、その他停泊時、答砲といって
他国から受けた礼砲に対し、同数の砲を撃つということも
細かく規定されています。


また、礼砲は日没後、日の出前には行わないと決まっています。
日曜日にも行いません。(宗教上の理由に配慮?)
その必要が上記の日時に生じたときには翌日に行います。



専用の礼砲は小型で、一発ずつ手動で撃ちます。
CIWSやオトーメララ製では代理はできません。
21発、あっという間に撃ち終わってしまいますから(真剣)
 

規定によると、礼砲等の発射感覚は5秒が基準とされています。
撃ち始めてから撃ち終わるのに100秒かかるということですね。
それにしても、礼砲に付けられた自衛艦旗、いいですね。

それから、礼砲は

発砲禁止の場所では行わない

そりゃそうだ。



さて、そのときするする、という感じで旗旒信号が上がりました。



残念ながらこの映像では旗がなびいていないため、
知識のないわたしには上げられた信号の意味はわかりませんでした。

きっと「ああ!」と納得するようなことだと思うんですが。

最初の旗は「航海の無事を祈る」とかかな?


 

右側のもやい索を外し終わり、今度は左側です。

この頃、音楽隊は「太平洋行進曲」を演奏し終わり、
「君が代行進曲」を演奏し始めました。

・・・・・やっぱりこれは演奏曲が決まっているらしい(確信)

 

わたしの出身小学校は鼓笛隊でこの曲をやりました(笑)
持って歩く鼓笛隊用のシロフォンを演奏した覚えがあります。

東京大学の卒業式で「中国人と韓国人の学生に配慮して」
君が代も日の丸も廃止するというような現在の日本のヘタレ教育現場では
(わたしはこのニュースを聞いて血が沸騰するかと思いました)
小学校で「君が代行進曲」をやるようなことはもうないのかもしれません。

考えたら昔は社会に今よりずっとまともな部分もありましたよね。



右手に森田艦長が見えます。
見る限り三人の2佐がここにはいますが、副長、船務長そしてもう一人は砲術長?



艦長の森田1佐アップ。

いやー、絵になるなあ。
この人「艦長になるために生まれてきた」って感じですねえ。





見送りの人垣の中に家族か知人がいて、彼にだけわかるサインを送ったのでしょうか。
ポーカーフェイスが破顔一笑。
押さえようとしてもどうしても体の中から笑いがわき上がって来てしまう、
そんな感じの表情です。

こちらもつい笑顔になってしまいました。

後ろの海士のペンネントには

「日本国練習艦隊」

と金文字で書いてあります。
この航海のために特別に作られたものを使用しているようです。
おそらく航海が終わったら正帽から外し、そのペンネントは
また来年の練習艦隊に乗り組む海士に受け継がれるのでしょう。






隊員の家族はできるだけフネの近くに立つために
ほとんど全員が柵の前に出ていましたが、
わたしは柵の後ろからすべてを見ていました。



ブイにかかっていたもやい索の輪の部分がまた一つ引き上げられました。
練習艦隊には彼らの活動を記録する大事な任務を負った写真部隊も随行します。

この写真、映像はじめ医療、音楽、調理、修繕、航空・・。
乗組員730名の役割はさまざまです。
5ヶ月の間その艦隊生活はまったくの「自己完結」で行われるわけですから。 




その間ずっと拳をグーにして立ち続ける初級幹部たち。
それぞれの胸に去来する思いは様々でしょうが、ここに見送りにきた
彼らの家族への思いはきっとみな同じものであったはず。



そして中には眼下に自分の母親のこんな姿を認める息子もいたはずです。



カーチャンが大きな赤いマジックインキで書いた
「ファイト!」の文字。

ああ、うちのカーチャン、あんなことして・・・照れくさいなあ。
だいたい、今時「ファイト」って、何だよ。
リポビタンDの時代じゃないんだから、もうそんなの死語。死語の世界。
おまけにカレンダーの裏に書いたりして・・・。

でもあれ、わざわざ家から丸めてここまで持ってきたんだな。
俺のために昨日の夜一生懸命作ってくれたんだな・・・・・。

(僭越ながらこれを見た息子の心境を例によって勝手に妄想してみました)

今、鹿島は太平洋の真ん中を航行中。
毎日の実習幹部としての厳しい訓練作業の合間に水平線をながめながら、
彼は母親の書いた「ファイト!」の文字をきっと思い浮かべることでしょう。



後甲板の実習幹部たちは翻る自衛艦旗の元に立っています。
さあ、いよいよ出航のときがせまってきました。

そのとき、わたしの目の前で・・・・



門出する息子に涙を見せまいとしてのことでしょうか。




続く。




 


 


「或る元海軍大尉の孫」〜2014度練習艦隊出航行事

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出航行事の白眉、ハイライト、そしてクライマックス。
これは誰が何といおうと「帽ふれ」です。

帝国海軍からの美しい海の防人の儀式。
これは自衛隊法下に定められた礼式なのだろうか、とわたしは先日
倉島岸壁の自衛隊内売店で300円で購入した「礼式参考書」を
隅から隅まで探してみたのですが、不思議なことにどこを見ても
『帽ふれ』は礼式として書かれていません。

もしかしたら単にわたしの見落としかもしれませんが、Wikipediaでも
「帽ふれ」は「その他」とされ規則で決められたものではないような書きぶりです。

これはもしかしたら「慣例」として行われているのだろうかと思った次第ですが、
どなたか「帽ふれ」が礼式として記述されている箇所をご存知の方おられましたら
ぜひご教授いただければ幸いです。


さて、相変わらずあっちにこだわりこっちにこだわりして進捗の度も覚束ない
当ブログですが、こだわりついでに今までのエントリでその後解決した
疑問やポイントについて、今一度こだわっておきます。



この写真の陸・空将補。
この日は統合幕僚長は出席しておらず、名代で陸将が出席していたとのことですが、
この両将補も、それぞれ陸・空幕長の名代であろうということです。

ところで、さすがは日本の組織、例の「礼式参考書」にも書いてあるように、
短艇はもちろん車の座席や降りる順番も階級に応じて決まっているわけですが、
(乗用車の降車は下位者が先、ジープ、バスの降車は上位者が先とか)
こんな場合の席次にもちゃんと「上座」「下座」があるのだそうです。

陸将補二人の右側は海将で、彼らの上位に当たるのですが、行事が海自主催の、
ホストであるという立場から、海将は下座に位置しています。

海将の中にも(ここにも階級内階級が・・)先任後任で上下があり、
本来ならばその中の最先任が陸空将補の右側に座るわけですが、
階級通りには位置していないのだそうです。
こういう「席次」は全て海幕総務課が慣例から指定します。

因みにこの日出席していた海上自衛隊の海将は

海上幕僚長
幹部学校校長
教育航空集団司令官
統幕学校長

の4名でした。
ここにいる「白い服集団」の数を数えて7名、と書きましたが、
この4名以外は海将補だったそうです。


それにしてもこの写真、何度見てもなぜかじわじわくる(笑)



後ろに歩いている1佐を「陸将補の副官ではないか」と書きましたが、
1佐で副官任務に就くのは各幕僚長の先任副官だけなのだそうです。
従ってこの1佐は陸幕の課長か班長であろうということでした。

そういえばこの1佐は飾緒してませんね。

 

そしてこの隣のビルのデッキから振られていたブルーの旗ですが、
水交会の旗だそうです。
旧海軍時代の水交社をつぐものですが、現在は東郷神社内に拠点を持ち、

海洋安全保障に関する調査研究や政策提言への取り組み
海上自衛隊が行う諸活動への協力支援や先人の慰霊顕彰
地域社会活動への参加、諸団体との交流

等を目標にしている公益財団法人です。





雑談が続きますがご勘弁下さい。

この写真で「何人かの制服が黄色っぽい」とし、

「あまり綺麗に見えないのでやはり制服は純白がよろしい」

などと鬼の首を取ったように?書いたわけですが、恥ずかしながら
この制服は海自のものではなく、海保の制服だったそうです。


「支給品のでもこんな白もあるのか・・・」

と愕然と(笑)していたわけですが、後ろ向きの士官風はがこちらを向いていれば
スーツにネクタイなので海保であることがわかったはずです。
雷蔵さんも「涙無しには見られない」と書いてきてくださっていましたが、
すみません当方の確認間違いです。


そうか・・・海保の夏服の色ってオフホワイトだったのね。


「海猿」で白い制服で並んでいるシーンを見たことがありますが、
全員同じ色だから海自の制服との色の違いなどに思いが至りませんでした。
海保は夏服のことを旧海軍と同じく「第二種」と言っていますが、
これも調べてみると規定には

「薄クリーム色ダブル背広」

と明記されているんですね。
なるほど、もしかしたらこれって、海保が背広型だから海自は
旧軍と同スタイルを堂々と?制定することができたってことじゃないのかな。


ところで、海自の常装一種と云われる冬服は黒ですよね。

「ネイビーなのにどうして制服がネイビーじゃないんだ!」

とわたしは初めてそれを知ったとき不満やるかたない気分でした。
空自はどちらかというと薄いブルーで遠慮する必要もなさそうなのに
なぜ海自が紺色じゃないのか、問いつめたいと(誰に?)さえ思ったものです。

しかしこの理由は実は海保の制服との兼ね合いもあったのではないか?

そう、海保の第一種制服は紺色で帽子は白、袖に金色階級章の、

「絵に描いたようなネイビーっぽい制服」

となっています。
海自の黒制服がわるいとはけっして思いませんが、

「海保の方がネイビーっぽくないですか・・・?」

とおずおずと問うてみたくなります。(誰に?)
どちらが先に決めたのかは分かりませんでしたが、つまりこれは

「海自は海保にネイビーを譲った」(あるいは取られた)

のではなかったかと、わたくし思えてならないのです。
しかし、夏服の白は海保、海自、どちらも決して譲れない(はず)。
そこで海保に「ネイビーを譲った」(あるいは取られた)海自が、

「ネイビーは譲るが夏の純白はこちらがいただく。
ついでに同じスーツスタイルは芸がないから当方は旧軍スタイルで行く」

と強権的に(意味不明)決めたのではなかったか・・・?


はい、あくまで妄想ですが。


「ネイビーブルーに恋をして」の管理人といたしましては将来的に
海自がネイビーの制服を復活させる日が来ることを熱望します。
提案ですがそのときはスーツではなく詰め襟にすれば
海保、空自との兼ね合いなど八方丸く収まるんじゃないでしょうか。



さてお次はこの写真についてです。

小学校のときに行進の後「休め」をするときにはやはりこうやって
後ろで手を組んだ覚えもないわけではありませんが
あのときと違うのは海自式では足をあまり開いていないこと。

観閲式では脚をかなり開く「休め」を前にいた女性自衛官たちがやっていて、

「女性が脚を開いて休むのは見た目もあまりよろしくない」

のでは、とおせっかいながら思ったりしたものですが、
この休めの方法を「整列休め」といいます。

・・・・・整列休め?



これかっ・・・・・・・!

それにしてもお茶の名前になっているくらい特殊な、
つまり自衛隊限定茶、じゃなくて限定の休め、それが
「整列休め」であるようですね。
自衛隊には「整列休め」のほかにも「休め」があります。
両者の違いは後ろに組む手の位置。

上の写真は手を腰のベルト位置で組んでいます。
これは本来「気をつけ」の姿勢でいるべきところを少し緩和する場合に
適応されます。
たとえば来賓の祝辞や訓示を受けたりする場合ですね。


この日挨拶を述べた石原外務政務官は、台につくなり早々に

「休んで下さい」

と号令のかかる前に自分で要求していました(笑)
この各位スピーチについても厳密にいうと、石原政務次官は「来賓挨拶」、
観閲官だった若宮政務官は「訓示」、そして海幕長は「壮行の辞」となります。

海幕長はあくまで防衛大臣を補佐する幕僚なので、
政務官が大臣の名代として行うのが「訓示」。
海幕長がさらに訓示することはありません。

どれも一応「壮行の祝辞」みたいなもんでしょー、と思っていたら、
どれもその名称は違ったのでした。 失礼しました。


ところで、「整列休め」と「休め」の違いは何だと思います?
「休め」のときには後ろで組んだ手を下に降ろします。
つまり、この写真で言うと

湯浅練習艦隊司令官のやっているのは「休め」なのです。


湯浅海将補、総員の一番前にいたため、皆が「整列休め」なのに自分一人だけ
「休め」になっていたのにお気づきでなかったのかもしれません。


・・・・海将補かわいいよ海将補(笑)



かしま艦上の音楽隊は「君が代行進曲」を演奏しています。



もやい索を海曹海士が手動で引っ張っているように見えます。
索は機械で巻き取るのだとどこかで読みましたが、
作業の最後の方にはこういうことをしないといけないのかもしれません。

作業の間整列していた実習幹部は脇に退避しています。

もやい索の作業は「注意するように」と何度も言われるもので、
ほんの時々ですが「切れて人間が吹っ飛ばされることもある」
と聞いたことがあります。

 

舷側で見張りをしている海士は独特のサングラスをしています。
反射で異常を見落とすことのないようにでしょう。
胸にはブルーのメガホンをかけています。

真ん中の海曹が責任者となってこの作業は行われているようです。



ブイに繋留していた部分が上げられました。
この乗組員たちは「帽ふれ」で華やかに見送られることはありませんが、
彼らのこういう整然とした作業無しにフネを出航させることはできないのです。




作業が終わり、舷側に整列が再び並びました。
いよいよ出航の雰囲気を感じて皆はさかんに手を降り出します。


しかし・・・・まだです(笑)


艦首を見て下さい。
艦首旗竿には日の丸が翻っていますね。

これが揚がっている限り、出航のときではありません。



出航に当たっては国旗は降納されます。
自衛艦旗が国旗を揚げるのは停泊時の日中と決まっています。

旗竿の下に海士が待機していますが、出航と同時に降下する係でしょうか。




ところで、わたしはかしまの艦上レセプションでエスコートされ、
乗員の名札の前で立ち止まって説明を受けている間、
ものすごく既視感のあるうえ、海軍海自となじみ深いある文字配列に
目が吸い寄せられていました。

「阿川○之」

この並びだけで当ブログの読者であればピンと来るに違いありません。
わたしはこのときすでにその名前に気づいていたのですが、実のところ
海将補のお名前の「湯浅秀樹」という「ノーベル賞科学者との既視感」が
かえってあだとなり(?)

「阿川姓の親があの作家のファンだったので息子にそういう名をつけた」

そしてそういう親なので影響を受けて子息も海上自衛隊に入隊したのだと考え、
まさかその尉官が本当にあの作家の孫にあたるとは思いませんでした。

今回、招待下さった方からその事実をお聞きしてのけぞったエリス中尉ですが、
さらに驚愕したのは、彼の父親であるやはり作家の阿川尚之氏が、
この出航行事に家族として参加し、式典の最中はテントの下、しかも

わたしの近くに座っていた

ということを後から知ったときでした。
わたくしこのブログにおいてはアーレイ・バークと草鹿仁一中将の逸話を
ご著書から引用させていただき、また色々と参考にさせていただいているんですよね。

・・・別にそれだけといえばそれだけなんですけどね。

それにしても「井上成美」「米内光政」「山本五十六」の著者で、
自身も海軍士官であった人物の孫は今海上自衛隊の幹部であるとは。

阿川氏は今年92歳で、執筆活動からは引退しておられます。
自衛官になる孫に、それを知ったとき氏はどんな言葉をかけたのでしょうか。

作家の孫は旧海軍の階級でいうと大尉。
彼が大将になるのまでは無理かもしれませんが、かつての旧海軍での
ご自分の階級を孫が追い抜くのをぜひ見届けていただきたいものです。




そしてその「阿川大尉」の配置ですが、練習艦隊副官。
副官任務というのは海将や海幕長、海将補に従属するものですが、
たとえば「海将」「海幕長」という個人につくのではなく、
あくまでも「組織」に対して附される職務なのだそうです。

たとえば幹部学校長たる海将の副官は「幹部学校副官」となります。
湯浅海将補の副官、と何度も書いていますが、それは厳密には間違いで

「練習艦隊の副官」

となります。

副官とは指揮官に常に同行し、指揮官が手を離せない行事に参加中など、
一時的に連絡のとれない場合においても、幕僚や隷下部隊からの報告、
あるいは指揮官からの指示命令を双方向い中継する役割を担います。

ちなみに指定職でない将補の群司令が指揮する部隊では、
兼務発令を受けた幕僚が副官を務めます。
例えば護衛隊群司令部では、気象幕僚が副官を兼務する場合が多いとのことです。



ところで、練習艦隊副官・・・・言うことは、



この大尉ですね?




舳先と岸壁をつなぐ舫索だけがいま「かしま」と日本の地をつなぐものになりました。
このときにはかしまは静かに舳先を岸壁から離しつつあります。
さっきまで立派になった息子の晴れ姿に涙を拭っていた母親も、
若い妻も、ガールフレンドも、勿論父親たちも・・。

皆がいつの間にか手を降り始めています。 



今出航せんとする「かしま」の艦橋デッキ。
下のデッキは艦長始めかしまの上級幹部たち。
上に見える黄色いストラップの双眼鏡をかけているのが
練習艦隊司令官である湯浅海将補です。

隣の練習艦隊副官は緑のストラップですが、
緑は「幕僚」の使用する色だそうです。

下でトランシーバーを握っているのは久保1佐で、
前回にもお話ししたように久保1佐は「主席幕僚」ですが、
それより1佐という階級が優先されるため青のストラップをつけています。

何から何まで海上自衛隊というところは慣例に従った決まりがあるのですね。


そのとき、号令がかけられました。



「帽ふれ!」



続く。



最終回・帽ふれ〜2014練習艦隊出航行事

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「帽ふれ」、の号令で終わった前回ですが、昨今のバラエティ番組のように(笑)
少しだけその前に戻ったところからお伝えします。



後甲板の上に整列しているのは実習幹部たちです。
よく見ると上甲板の下には海曹たちもちゃんと整列していました。

小さな自衛艦旗を振っている人がいました。
見送りに日の丸や軍艦旗の小旗を皆が打ち振る、という出航光景は
もはや過去のものになったのでしょうか。



たとえばこれは先日「ふゆづき」の自衛艦旗授与式の際、
三井造船側から来賓に見送りの直前に配られたものですが
(考えつきもしなかったけどこれを持っていっても良かったかな)
自衛隊側ではこういう旗は配らないんですね。

ちなみにわたしは当日の雨でびしょびしょになっていたのにもかかわらず
これを大切に持って帰っていざという時のために(?)取ってあります。

紙テープでの出航を行っていた頃もあったそうですが、最近では

「環境汚染の面から」

控える傾向にあるということです。
世知辛いなあ。
それくらいいいじゃないの、と思うんですがねえ。
もっとも2007年の「しらせ」出航のときは紙テープが使われたようです。
やはり行き先が南極という「海の果て」だからでしょうかね。


ちなみにここ晴海埠頭はレインボーブリッジの橋桁の高さのせいで
繋留する護衛艦にも限りがあるのだそうです。
護衛艦に限らずここをくぐれない豪華客船は年々増え、外国船の多くは
九州に泊めざるを得ないという話です。

なぜ高さ制限があるかというと、それは近くに羽田空港があるためです。
 
ちなみにエリス中尉の知り合いが設計した「あすかII」は通れます。 
(知り合いが言いたかっただけで深い意味はありません) 



最後に日本の地と「かしま」をつないでいた舫が解かれました。
艦首旗竿の下には海士が一人で立ち、国旗を降下してします。

そのときかしまから喇叭が響き渡りました。

「ソ↑シ↓レ↑ソ、ソシレソ、ソシレソ↑シ↑レッレレー」

アナウンスが告げます。

「帽、ふれーっ!」

これから5ヶ月の航海に旅立つ練習艦隊が岸壁を離れていきます。



そして「帽ふれ」の直後にタクトを振り上げた音楽隊長。
演奏するのは、もちろん!行進曲「軍艦」です。

指揮者がどうしてこちら側を向いて、しかもなぜ左の方を見ているのか。
それは、この「帽ふれ」を合図として艦上の音楽隊と、
地上の東京音楽隊が全く同時に「軍艦」の演奏を行ったからです。

地上と艦上の指揮者は互いに目で確認し合いながら
まったく同じ動きをするので、理論上はずれることは全くありません。

しかし、フネの上と遥か右手で鳴っている音楽は
実は同時でも聞いているものには生じた「時差」のために、
わたしには少し、いやかなりずれて聴こえました。

勿論このような状況ですから感動しつつもわたしの「音楽家の部分」は
この誤差が気になって気になって仕方がありませんでした。

とはいえ、さすがに目視で指揮を完璧に合わせているので、
「かしま」が動きだし、地上の音楽隊の前を通過するときには
ひとつの「軍艦」として耳に聞こえてきました。

そして「軍艦」はいつのまにか「蛍の光」に変わります。



帽ふれの瞬間。
まだ鍔に手をかけているものもいれば高々と振っているものもいます。





一部アップしてみました。
左から右に向かって「帽ふれの分解写真」でございます(笑)






ここにもつい涙ぐんでうつむく父親の姿が。(たぶん)


大きな練習艦が、岸壁を意外なくらいの速さで離れていきます。

前の方で紅白と青い縁の旗を振っている人がいますが、
これは国際信号旗で

「ご安航を祈る。I wish you a pleasant voyage.」

を表しています。



上写真の艦橋デッキ部分を拡大してみました。
上部デッキで大きく手を振っているのは湯浅海将補です。



「かしま」はもうこんなに岸壁を離れていってしまいました。



続いて「あさぎり」が前を通過していきます。

あさぎりはヘリコプターSH−60Jを搭載しています。
護衛艦として就役し、一旦2005年に練習艦に転籍しましたが、
2012年にまた再び護衛艦に再転籍しました。

練習艦として2008年と2011年遠洋練習航海に参加しています。
2011年、大震災の年の練習航海も予定通りの日程で行われたんですね。
出航の5月24日といえばまだ大変な時期だったという印象ですが・・。

練習艦隊は、旗艦をかしまとすることは例年決まっていて、随伴艦は
「ゆき」型、「きり」型からその年によって色々です。
1957年に遠洋航海が始まった(というか再開した)ときには4隻、
多いときで6隻が艦隊を編成していましたが、オイルショックの前から
「かとり」+1隻の2隻による艦隊(2隻でも艦隊なのね)になります。
現在の「かしま」+2隻の3隻態勢になったのは2002年からです。

因みに「女王陛下のキス」の2000年にかしまに随伴していたのは
DD−153「ゆうぎり」でした。 



また、手を振りながら携帯で撮影しているのはインドネシアの駐日武官ですが、
この方のお名前は

「ムハマド・タワカル・サイフラク・シリク」

空軍大佐とおっしゃいます。
来賓の紹介のアナウンスが非常に読み難そうでした。途中で拍手も起こるし(笑)
右側の体の大きな人はパプアニューギニアの全権大使代理だったと思います。

駐日武官や特に大使代理だと初めてこういう行事に参加した、
という人も多いだろうと思いますが、どんな感想を持つのでしょうか。



帽子を一旦振り終わって談笑する貫禄の海将たち。

向こうにはなんとこの朝早い行事にお着物でいらした方が・・。
日本を離れる恋人に(これは絶対に嫁ではないと思う)
自分の着物姿を見てもらいたかったんですねえ。

この色の着物ならたぶん彼はどんな群衆の中からでも
すぐに彼女の居場所が分かったと思われます。

・・・・・あ、それも目的かな。



続いて最後の「せとゆき」がやってきました。
わたしの真正面に若宮政務官がいます。
「せとゆき」に実習幹部は乗っていないようで、
艦首から6〜7人くらいが下士官と幹部、あとは全員海士たちです。
セーラー服の帽振れもいいですね。



東艦長は救命浮き輪の右上で帽振れをしています。
帽子の形が違うから遠くからでもわかりやすい。

「せとゆき」がイルカに遭遇したとき艦長が子供のようにはしゃぎ、
それを見た部下が「可愛いと思った」と言っていたという話を
みね姉さんがコメント欄に寄せて下さっていましたね。

わたしもモルジブで海面を埋め尽くすイルカの大群を見たときには
子供のようにはしゃいだものですが、はしゃいでも当たり前のわたしと違い、
この人の場合は武器搭載艦の「艦長」ですからねー。

それが許されるどころか受け入れられるのは彼女の人徳でもあるでしょうが、

「男性から『かわいらしい』と思われないと、男性社会では生き残れない」

というみね姉さんのご意見もご尤もに思われます。

「この指揮官の下でなら死んでもいいと思える」

というのが旧軍時代、指揮官の将器を表す言葉でしたが、
女性指揮官の将器は

「俺たちが支えてやろう」

などと思わせるかどうか、だったりして。
こんなことを書くとフェミな方達が激怒しそうですが、やっぱり男と女は違うのよ。


ほら、たとえばかしまの森田艦長が航行中、初任士官が半端なく忙しい時に、
イルカが泳いでいるのを見つけ、バタバタしている士官たちに向かって

「ほら〜!見て見て〜!!イルカっ!イルカがいる〜」

と言ったとしたらと考えると(考えるな)・・・・






このときかしまはすっかり遠ざかり、レインボーブリッジをくぐろうとしていました。



岸壁の東京音楽隊はずっと「蛍の光」を演奏し続けています。
目の前の威容と音楽にすっかりわたしの涙腺は刺激され、
初めての出航行事に感動の涙を(サングラスの下で)あふれさせ、
「海軍好き血中濃度」が当社比1,7倍くらいに嵩じたのを自覚しました。




今までいた「かしま」はじめ練習艦隊の三隻がいなくなった岸壁は
あんな大きなフネが泊まっていたとは信じられないくらい小さく感じました。

皆は早々に出口に向かって移動を始めます。
地方から泊まりがけでやってきたのか、旅行用の
キャリーケースを引っぱっている人もいますね。



撮れた映像を二人で見ながらきゃっきゃしていたご夫婦。

さて、VIPが先ほどまで立って帽振れをしていた赤絨毯には
もう誰もいなくなっているわけですが、



自衛隊に関することなら何でもウォッチングしつづける、
それがわたくしエリス中尉の習性というものです。
VIP始め自衛隊海将海将補たちの引き上げまできっちり見守ります。

海将の前にいるのは陸・空幕長の名代で出席した
陸将補、空将補たちで、車が前にやって来るのを待っています。



海将がどこに乗るのか興味深く見ていたのですが、
向こう側のドアを副官が開け、乗り込んでいました。

「車は上官が先に乗る」と礼式参考書にもありましたね。
後部座席へは、進行方向に向かって右から上位者が乗車します。
(参考書にはちゃんと図で解説してある)

ついでにマイクロバスに乗る場合ですが(笑)
進行方向に向かって

前  1 3 5 7
←  2 4 6 8 

という階級順だそうです。
軍隊の階級社会っていちいち大変。
まあそういう形式的なのも好きなところではあるんですけどね。



み な さ ん 。

わたし、画像を点検するまではこの車を黒塗りだと思ってたのですが、
このクラウン。(あれ、横浜ナンバーだ)

ネイビーブルーですよね!

さすが海自。ちゃんと細かいところまでこだわっている。
上の海将が乗り込んだ車も気がついたら紺色だし。
どうでもいいことですが、不肖エリス中尉の車も代々ネイビーブルーです。
冬の制服もこういう色にしていただきたいんですこういう濃紺に。(←しつこい)

そしてフロントグラスには「☆☆☆」のマークがありますが、
これを車両徽章標識といい、乗る人物の階級を表します。
「☆☆☆」は肩章に照らすとおそらく海将クラスでしょう。

ちなみに☆四つ、 「☆☆☆☆」は大将すなわち幕僚長となりますが、
政務官はこの式典に参加するときこの車両で送迎されます。



さて。
というディープな観察までして感動と満足の朝が終わりました。
レインボーブリッジの向こうにももはや何の姿も見えません。
彼らは今頃東京湾を航行しながら最後に見る日本を目に刻んでいるでしょう。

練習艦隊の皆さん、5ヶ月後無事で帰ってきて下さいね。
可能かどうかはわかりませんが、そのときはまたこの晴海埠頭でお会いしましょう。


岸壁に立って艦上レセプションのあの夕べから今日までのことを思い出しながら
かしまが停泊していた岸壁に立ち海を覗き込んでみると・・・



「ほら〜!見て見て〜!!クラゲっ!クラゲがいる〜」
(可愛い?)


そして、まだその場で談笑している人々もいたので、
最後にウォッチングして帰ろうとふとあたりを見回したら・・



お髭の海曹長、ここにも見つけた!



(シリーズ終わり)

 






ボビとエリノア「プレーン・クレイジーとフライング・フラッパー」女流パイロット列伝

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昔々のスポーツマンガは、主人公に対するライバルの存在なくして
話が成り立ちませんでした。

矢吹丈には力石徹、星飛雄馬には花形満。ほかは、えーと・・・・・

とにかくその非現実的な戦いの世界では、平成26年現在、
どことは言いませぬが某テレビ局が、フィギュアスケートやサッカーの試合で、
「お隣の国」を持ち上げる以外、実生活ではまず聞くことのない、
「宿命のライバル」などという言葉が乱舞していたそうでございます。

これらの「男の世界」に対し、女子スポーツマンガはその「宿命のライバル」が、
恋敵も兼ねていたりして、それでなくても辛気臭い世界がより一層ドロドロしていたような
・・・・・偏見ですかね。


自分が女性であるからわかるのですが、女性というものは一定数集まると、
必ずと言っていいほど対立が生じるものです。
グループ対グループ、個人対個人、個人対グループとその形態は様々ですが、
時としてそれは陰湿ないじめにつながり、陰口や噂話はもちろん、
相手を陥れるための陥穽を弄したり、告げ口したり。

お掃除のおばちゃんたちであろうが大学病院の研究室であろうが、
不思議なことにその知的経済的レベルのいかんを問わず、
女性のグループの数だけ、そういったことは起こるのです。

女性というのはどんな場所にも「敵」を作らずにはいられない生物である。

小学校2年にして「親友」を装ったクラスの女子から陰に日向に苛められて以来、
そういう女の世界を今日まで渡り歩いてきたエリス中尉は断言します。

何が言いたいかというと、一般的に女性は「好敵手」というような
美しい敵対関係を相手と築くことができないのではないか、ということなのです。

今までシリーズでお伝えしてきた、飛行機黎明期における女子飛行士界においても、
そうではないかと思われる事例が散見されました。

たとえば、ジャクリーヌ・コクランとナンシー・ラブ。

同じように陸軍に、しかも同じ人物に「女子航空隊」設立を提案し、
別の方向から働きかけて、できたらできたでどちらが隊長になるのか、
この成立の過程に、どうも飛行家としての二人のライバル心が見え隠れし、

「最初から二人で協力しあえばよかったのでは」

とわたしなどはつい思ってしまいました。
この二人がお互いをどう思っていたかを記す文献は一切ありませんが、
いずれにしても当時の女性飛行家などというごく少数の女たち、
しかも我こそは世界一を目指す気概と野心に満ちた「先駆者」同志が
美しい友情でも結ばれていたと考える方が不自然というものです。

・・・・偏見ですかね。


さて、本日冒頭に挙げた、マニッシュな雰囲気の女性。

イヴリン・”ボビ”・トラウト。

あだ名の「ボビ」は、当時最新流行だったボブ・カットをトレードマークにしていたから。
このときはその髪をぴったりとポマードで撫でつけ、まるで男装しているかのようですが、
彼女が「コピー」したのは、当時の人気女優アイリーン・キャッスルの「ボブ」です。

ボビは16歳と、とても早い時期にその飛行家としてのキャリアが始まっているので、
航空史上、先駆とも言うべき飛行家の一人です。

彼女イブリン・トラウトがイリノイに住む12歳の少女であったとき、
当時珍しかった飛行機が彼女のまさに上空を通過しました。 
この偶然が、彼女に「いつか飛行機に乗りたい」という夢を与えます。

家族はその後、ガソリンスタンドを経営するのですが、家業を手伝うある日、
イブリンは、家業のスポンサーであるW.E.トーマスに、問わず語りに夢を語りました。


「トーマスさん、わたし、いつか飛行機に乗ってみたいの」
「ほう、どんな飛行機に乗りたいの」
「わたしが12歳の時に空を横切って行ったのは、カーチスJN-4だったわ。
ああ、あの美しい飛行機を操縦して、一度でいいから空を飛んでみたい!」
「偶然だね、イブリン。
君が今話している目の前の人間は、そのカーチス JN-4のオーナーだ」
「なんですって!トーマスさんが?」
「乗ってみたいかね?」
「ええ!乗ってみたいわ! おお神様(Oh,my God!)」


(以上エリス中尉の妄想による創作でした)

ってなありがちな展開の二年後。彼女は、シカゴ→ロスアンジェルス間を、
このカーチスに乗って初飛行しています。

その後飛行学校にも通うのですが、彼女はこの時事故を起こしています。
低空をに飛行していているときに45度のターンを若い教官から指示され、
それに従った彼女の機はコントロールを失い墜落しました。

しかし、この事故も、彼女を飛行機から引き離すことはできませんでした。
ますますその世界にのめりこんだ彼女は、おもに無給油耐久飛行の分野で、
いくつかの「世界初記録」を作っています。

彼女が飛び始めたきっかけは、他の女性飛行家に同じく、

「男性のパトロンの助けがあったから」

で、実家が超大金持ちだったり、または富豪を捕まえたりした飛行家以外は、
皆このような「パトロン」を募って飛行機を続けるのが普通でした。



彼女は中性的でボーイッシュな雰囲気をトレードマークにしており、
また生涯結婚しなかったということですが、これを見る限り、
中身まで男性的だったというわけでもなさそうです。

しかし、いくら凛々しい青年のように見えても、所詮は(当時の)女。
飛行機を続けるためにより多くのスポンサーを探さなくてはならず、
それは彼女にとっても容易なことではなかったようです。
そこで

「中性的な彼女が若い美人女優と組んでペアで耐久飛行」


という、もし成功すればおじ様たちがさぞこぞってスポンサードしてくれるような
キャッチ―な挑戦を企画しますが、このときにペアと組まされた相手の
エドナ・メイ・クーパーという無名女優が(おそらくですが)箸にも棒にもかからない
『使えないやつ』だったため、出発したものの、
即座に技術的な問題が発生し、断念せざるを得なかったそうです。


彼女はまた、1929年の女性ばかりのダービー、パウダーパフ・ダービーに出場して、
入賞はなりませんでしたが、完走は果たしています。





それにしても、アメリカ人というのはどうして写真を撮るときに、
ポケットに手を入れるのか。

今まで見てきた中で、「ちょっとした演説」をするとき、アメリカ人は
必ずと言っていいほどポケットに手を入れていました。
どうも、手のやり場がないのかもしれません。

最初の画像におけるボビもわざわざ座っているのにポケットハンドですし、
このエリノア・スミスに至ってはご丁寧にも両方です。

二人とも、ズボンにネクタイという「飛行スタイル」で、男性を気取っているので、
ポーズもこのようになってしまうのでしょうか。


さて、こちらはボビよりさらに早く、

6歳で兄と一緒に自分の飛行機を持っており、
10歳で飛行機のレッスンを始める

という、超英才教育を受けた飛行家です。
父親は俳優でありボードビル芸人で、ブロードウェイにも出ていた芸人でした。

物心つくかつかないうちから乗っているのですから、
飛行機はまるで彼女にとって自転車のような乗り物だったに違いありません。
自転車代わりに飛行機に乗ってきた彼女は、その後も挑戦と記録を打ち立て、
世間では若いうちからすっかり有名人でした。



ところで冒頭に延々と「女同士の好敵手」というものが存在するかどうか、
卑近な例をあげてお話ししてきたわけですが、このボビとエレノア、
ちょうど飛行機黎明期、さらに1928年からしばらくの間は、全く同時期に
世間で騒がれていた女流飛行士同志だったわけです。

それだけでなく、彼女らは、耐久飛行について互いにしのぎを削っており、
記録をどちらもが破って破られてという熾烈な「女の戦い」を繰り広げていました。


はたして彼女らはどのようなライバル関係だったのでしょうか。


続きはまた次回。

 




ボビ・トラウトとエリノア・スミス「サンビーム・ガールズ」〜女流パイロット列伝

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前回に引き続き、飛行黎明期の二人の女性パイロットについてお話しています。
前回のタイトルでエリノア・スミスのキャッチフレーズを

「フライング・フラッパー」

としたいきさつからお話ししましょう。

フラッパーFlapperとは、もともと「羽をパタパタさせる(鳥)」のイメージからの造語で、
1920年代に髪をボブカットにし、短いスカートをはいてタバコやお酒を嗜み、
退廃的な雰囲気でジャズに耳を傾ける若い女性を揶揄する言葉でした。

濃いメイク、自動車の運転、そして当時の保守的な人々が眉をひそめる奔放な性道徳。
決して肯定的な響きではなかったにもかかわらず、そこは大衆に膾炙する
「流行」の威力とでもいうのか、いつのまにか彼女たち本人が「フラッパー」を自称し、
ファッションにも、ヘアスタイルにもその名が使われました。

この二人が飲酒喫煙をしていたかどうかは知りませんが(していそうですが)、
フラッパーの条件である「ボブカットに自動車ならぬ飛行機の操縦」を満たす二人は
「飛ぶフラッパー」と世間に呼ばれる資格があったわけです。

実際に「フライング・フラッパー」というあだ名があったのはエリノア・スミス。
彼女は前回もお話ししたように、まだ10歳の時に操縦を始め、
史上最年少で飛行機免許を取得した人間(女性、でなく)と なりました。

彼女の父親は俳優で、彼女に真っ赤なWACO9を買い与え、
パイロット兼インストラクターを雇って彼女には安全のため離着陸はさせないこと、
とインストラクターにも厳命していたのですが、彼女が15歳のある日、
ーそれは父親が不在のときでしたがー母親がインストラクターに許可をだし、
彼女は離着陸どころか、初の単独飛行をやってしまいます。

・・・・・・・・・カーチャン・・・・・・(;・∀・)
 
この、当時にしてははっちゃけた母ちゃんあらばこそ、
飛行家エリノア・スミスは誕生したともいえます。

しかも母が母なら娘も娘。
この強烈な初単独飛行の10日後、彼女はいきなり、これまで誰も・・・、もちろんのこと
父親の雇ったインストラクターでさえも達したことのない高高度を目指して飛び、
皆が息をのんで見守る中、あっさりと到達して無事に帰還してきたそうです。

彼女と彼女の家族は彼女の操縦スキルが一定のレベルに達するまで、
その広報活動を最小限に行ってきましたが、あるとき、勝負に出ます。

なんと、ニューヨークはイーストリバーにかかる橋のうち有名なブルックリンブリッジ始め
四つの橋の下を飛行機でくぐるという派手なパフォーマンスでした。
このあたりはさすがにブロードウェイの観衆を体一つで納得させてきた
芸人である父親の血という気がします。

事前に彼女が橋の上を飛んで偵察したときでさえ、
彼女はいくつかの船舶を避けて飛ばなくてはなりませんでしたし、
しかも彼女はその時まで知らされていませんでしたが、各々の橋の上からは
ニュース映画のクルーが彼女の飛ぶのをフィルムに収めようと待ち構えており、
人々の間では彼女が成功するかどうかで賭けが行われていました。

ほとんどが天候条件で彼女が挑戦をやめることに賭ける中、
この世にプレッシャーなど全くないかのようにウェイコ10を駆る彼女は、
完璧に愛機をコントロールし、このスタントを成功させました。

大衆は喝采しましたが、この無許可のスタントに対してニューヨーク市は
市長名義で「ニューヨーク市における飛行停止10日を命じる手紙をよこし、
米国商務省は15日の飛行免許の停止を彼女に命じています。

いずれにせよ、こんなお上のお沙汰は彼女にとって名誉の負傷のようなもので、
彼女はこの向う見ずな飛行スタントのおかげで一躍セレブリティの仲間入り。

この時に奉られたあだ名が「フライング・フラッパー」だったというわけです。




さて、今回のタイトルの一部「サンビーム・ガールズ」。
これは、エリノアと前回ご紹介した彼女の同年代のライバル、
やはり流行のボブカットにした「フラッパー」のボビ・トラウト二人に
与えられたキャッチフレーズです。

光線少女ってなにかしら、とわたしも最初はいぶかしく思いました。

ヒラー航空博物館で二人の写真に付けられたこの「サンビーム・ガールズ」
というキャッチコピーには、しかしながら何の説明もなく、
何を以てこの二人を「サンビーム」と呼ぶのかが当初はわからなかったのです。

 
「うーん・・・・・・サンビームというと・・・・『あれ』しかないけど・・・・・・」


Sunbeamというと、 アメリカに住んでいたりよく訪れる人には
「光線」よりぴんとくるものがあります。

キッチンに置いてあるコーヒー沸かしやトースター、あるいはフードプロセッサー。
そんな小物がSanbeam社製である確率は非常に高く、このロゴは
いつの間にか目にしているなじみの深いロゴなのです。

もしや、と思って英語で手当たり次第検索してみると、

ビンゴ。


Commercial C-1 Sunbeam


これがどうやらコマーシャル・エアクラフトという航空機会社製の
「サンビーム」。
間違いなく、このキッチン用品の会社の宣伝目的で作られた飛行機でしょう。 

この「サンビーム」に、ボビとエリノアが乗って耐久飛行と空中給油に挑戦し、
それでこの二人のあだ名が「サンビーム・ガールズ」になったと。


この話が来るまでの1929年、二人はそれこそ「宿命」と言っていいほどの
ライバル関係で、耐久記録をお互い破りあっていました。
こんな風に。

●ボビ、女性初の耐久時間12時間を達成
●一か月経たないうちにエリノアが17時間達成
●すぐさまボビ、同じ17時間達成しタイにつける
●エリノア、こんどは26時間達成

完全にお互いを意識して飛んでいたようです。
記録を見ただけでは何とも言えませんが、この「女の戦い」は
少なくとも純粋に『互いの技量を高めあう正しいライバル関係』
というものではなかったか、という気がしないでもありません。

この二人の熾烈なライバル争いを見ていた、
カリフォルニアの一人ののビジネスマンが二人にスポンサーの申し出をしました。

「好敵手どうしての二人で協力して、
わが社の名前を付けた飛行機で耐久飛行記録を作りませんか?」

今まで耐久飛行で記録を競い合っていた二人を「サンビームガールズ」
として使えば、凄い宣伝になる、と彼は踏んだわけです。


そして1929年の11月、ロスアンジェルスのメトロポリタン空港から、
この二人の「宿命のライバル」同志を同じキャビンに乗せて、サンビームC-1は離陸しました。 

このときの機長はエリノア・スミス。17歳の年下のスミスに機長を任せ、
23歳のボビは副機長を務めています。

「やるのはわかったが・・・・・どちらが機長になる?」
「ボビ、あなたがやってください。年もあなたが上だし」
「いやそうはいかない。耐久レースはいまのところ君の勝ちに終わっている。
レースで負けた私が君の上に立つのは私の気持ちが許さないんだ」
「ボビって、思っていたよりずっとオトコマエですね」
「な、何を言う。この後君を追い越すつもりだからな」
「ボビ・・・・」
「エリノア・・・・・」

という展開があったのに違いありません。多分、というか妄想ですが。

そして、このとき二人は女性で初めて空中給油を行いながら耐久記録に挑戦しました。 


空中給油の第一号の称号は、ボビに譲られました。
サンビームに給油のホースを伸ばしたのは男性ペアの乗ったカーチス・ピジョンで、
エリノアが慎重に操縦する間ボビは カーチスからホースを受け取り給油をしました。

しかし、この二種類の航空機は必ずしも同時に飛んでこのような作業をするのには
向いていたとはいえませんでした。

まずカーチス・ピジョンは貨物を運ぶのに使われていた機で、
このときも燃料を空輸できるというだけで選ばれたものの、時代遅れのエンジンで
しかも、機体の構造上給油中のサンビーム号が見えず下で何が起こっているのかわかりません。

おまけに通信方法のない当時では全く意思疎通できないという始末。

対するサンビームも、これがなかなか安定しない機体で、エリノアは

「操縦中は一瞬たりとも気を抜くことができず、集中を強いられた」

とその不安定さを述懐していたそうです。

給油の最中は、基本性能が違う二機の速度を合わせるのに、
カーチス・ピジョンが全速力で飛ばなければならず、逆にサンビームは
失速寸前まで速度を絞って飛ばなくてはなりませんでした。

一般に航空機はゆっくり飛ぶ方が難しいので、これはエリノア・スミスだからこそ
できたことだったといえるかもしれません。

最初の挑戦が12時間経過したとき、事故が起こります。

何度目かの給油中、突風によるタービュランスが、ボビの手からホースを奪い、
彼女はホースから流れ出る燃料を頭からかぶってしまいます。
ホースの逆側では給油機の副操縦士ピート・ラインハルトが切り口でけがをし
出血するという騒ぎになっていました。

しかし両機とも無事で空港に戻り、次の挑戦では、この時を大幅に上回る
42時間の滞空記録を作りました。


二人同時の記録挑戦はこのときだけです。

この時以来二人に交友が生まれた、という風にはどこの資料も書いていないので、
もしかしたらお互い、ビジネスライクに仕事を務めたけど、こんなことでもなければ
一緒に飛ぶなどまっぴらごめん、と思っていたのかもしれません。


二人はその後も順風満帆な人生を送り、ボビは2003年に97歳、
エリノアは2010年に99歳と、どちらも天寿を全うして同じような年齢で亡くなりました。


まるで最後までこの世の滞在時間を競ってでもいたかのようです。
かつてのフラッパー同士の長寿対決は実際の滞空時間と同じで、
エリノアがわずか2年の差で勝利をおさめました。





2014練習艦隊出航行事〜シリーズ終了の辞

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何回にかにわたってお話ししてきた「練習艦隊シリーズ」、
かしまを旗艦とする練習艦隊がレインボーブリッジの向こうに消え、
一旦の終わりを見たわけですが、後1回だけ(笑)追加訂正参考などを。

艦上レセプションでは音楽隊についても触れてみましたが、
そのときにお話ししたオスロでの「 ミリタリー・タトゥー」の映像が来ました。

オスロの街並を「軍艦」を演奏しながらマーチングする音楽隊、
そして注目は三宅由佳莉3曹が「ふるさと」を振り袖姿で歌っていること!

わたしは世界中の人々が彼女の美しい着物姿に魅了されたと思います。
わざわざオスロまでおそらく自前の着物を持参して行ったのだろうか、とか、
オスロで着付けとメイク、ヘアセット(あれはぜったいじぶんではできない)を
誰がやったんだろうとか(笑)そんなバックステージが気になるのですが、
それはともかく、とにかく三宅3曹、素敵です。

艶やかな着物の似合う清楚な「大和撫子」が「JAPAN NAVY」の軍人である、
というギャップは、その歌声と共に忘れられない印象を観衆に与えたでしょう。 

日本をこんな形で世界に宣伝してくれた三宅3曹と海上自衛隊東京音楽隊に、
心からありがとうと言いたいと思います。


さて、まずは訂正補足からです。



この画像の下段トランシーバー+青ストラップを

「久保1佐である」

と限定しましたが、違うというご指摘がありました。
人相風体だけで同一人物と決めつけたためのミスです。



だってこの人とそっくりに見えたんだもーん。

ちなみに主席幕僚も「首席」幕僚の間違いです。

首席幕僚は幕僚であっても1佐を示す赤のストラップを使用するので、
青いストラップを付けているのは1佐ではありえないということです。



このトランシーバー+青ストラップは、3佐の船務長で、
何をしているかと云うと、左舷に付けているタグボートと通信中。

艦長の操艦を補佐して、タグボートに押し方や引き方を指示しています。



右側の2佐は かしまの副長で艦長の全般補佐を担う役目です。



左は練習艦隊司令、湯浅海将補、真ん中は前回もお話しした
練習艦隊副官の阿川1尉。

一番右の海士は教えてもらうまで遠目に写真部隊だと思っていましたが、
写真部隊は基本的に海曹なんですよね。

この海士が構えているカメラ状のものはレーザー測距儀。
以前は自衛隊で使うのも光学測距儀だったそうですが、
現在ではこのような優れものが普及しました。

彼は岸壁からの距離を艦長や砲雷長に報告しているところです。

ちなみにこの光学測距儀、市販で買うことができます。

価格ドットコムで値段などを調べてみたのですが、このページによると、
レーザー測距儀を作っているメーカーがカオスです(笑)

まず、マキタ。
主婦ならおそらく一度は聞いたことのあるハンディクリーナーを作っており、
(うちも愛用しております)大正14年創業の工具メーカー。
工事現場で測距儀を使うこともあることから開発を始めたのでしょうか。

ライカは・・・・たぶんというか間違いなくカメラのライカでしょうね。
これは何となく分かる気もします。

ボッシュ。
うちの皿洗い機はボッシュですが、家電では国内撤退したため、
現在日本には修理だけする部門を置いているようです。
電化製品王国に参入したものの販売不振だったってことでしょうか。
でも、皿洗い機に関しては国内のものより大きくて、(アメリカサイズ)
使いやすいのよ。
ボッシュはもともとマキタのような工具メーカーです。

タジマ。
これ、確か体重計とかのスケールを作ってる会社ですよね。


測距儀、歴史が浅いだけに意外なところが製作をしているようです。
海上自衛隊御用達企業は・・・・マキタかな?



この3佐は砲雷長。
2佐と3佐が同じ青いストラップをしていますが、
どちらも艦長でなければ青いストラップを使用します。

この2佐は全中後部の甲板作業指揮艦に指示を出しているところです。



この、一人分だけ円形に突き出した場所。
ここを張り出しと呼んでいるそうです。
なんか居心地がよさそうだなあと思ってしまうのですが(笑)、
この海曹は司令部の信号員長という役職で、群司令の出港命令を受け、
通信幕僚の指示により、信号旗の上げ下げを指示しているところです。


ストラップは白。
海曹、海士のストラップは白と決まっています。

ストラップの色づけは権威のためではなく、遠目に見た場合
役職が一目で分かるためのものでしょうから、
司令部以外がその階級を明らかにする必要などないわけです。 


ところでふと思ったのですがこの幹部の双眼鏡ストラップの色、

いつから決まっているのでしょうか。
帝国海軍の時代にはそもそもストラップは全部皮だっただろうし。

たとえば艦長の座る椅子を赤と青とかにする、などという慣例も
戦時中はテキスタイル制作の技術から考えてもありえなかったはず。

戦後の自衛隊から取り入れた慣習なのか、だとしたらそれはどこからのアイデアか、
自分で「双眼鏡 ストラップ」でぐぐっても最初のページに自分のブログが出るくらいで、
「こりゃだめだ」と諦めた次第です。

どなたかご存知の方教えていただけませんでしょうか。



全員の解説をしたのでついでに画面に当初写り込んでいた
女性の実習幹部もアップにしてみました。

あれ?

この人、確か艦上レセプションでお話ししたジュリエット3尉?
希望通りヘリパイロットになれるといいですね。 



前甲板で帽振れをしていたのが全員海士だったことから、

「せとゆきに実習幹部は乗っていないようだ」

と書いたのですが、乗っているそうです。
せとゆき乗り組みの実習幹部の皆さんとその関係者の方すみません。

ではどこに乗っていたんでしょう。



この後甲板の一団はアップにしてみたところ全員海曹でした。



やっぱり上甲板にいるのが筋だと言う気もしますが、
左半分は海士ですし、右半分はどう見ても年配の海曹たちです。




「せとゆき」よりも海将たちの帽振れにフォーカスを合わせたので(笑)
はっきり写っていませんが、海将の腕の間に見えているのがそうかな?



これは艦上レセプションのときの「自衛艦旗降下」で、
海曹と海士、二人の喇叭手が喇叭譜「君が代」を吹鳴しているところ。

この喇叭については昔その歴史を調べたことがあるのですが、
喇叭譜のメロディも明治のころに作曲されたものが
今日の最新鋭護衛艦の上でも変わらず合図として演奏されているのです。


出航喇叭譜

この喇叭はピストンがなく自然倍音を息の吹き込み方一つで変えて
音を出す仕組みになっているので、 主三和音の音しか出せません。
その限られた音で、リズムと音列を変え、様々な信号を作っているんですね。

「かしま」の出航のときに出航喇叭を耳に聴こえるまま「ソシレソ、ソシレソ」
と表記しましたが、この喇叭は移調楽器といい、譜面の上ではこれは

「ドミソド、ドミソド、ドミソドッミソッソソー」

と書かれています。 
移調楽器の実音と記譜音の違いは楽器によって様々ですが、ラッパの場合
「G管」といって実音は楽譜に書かれたより5音高い音がでます。

他の音を間違って出す心配のないラッパですが、
この出航ラッパは速さもあって結構難しいのではないかと思ったのがこの実例。


 
はたかぜの出航ラッパですが、皆が見ている前で今か今かと構える喇叭手、
傍目にも緊張しているらしい様子が窺えます。
(喇叭演奏は1:48から)
何度も吹き口を咥えたり離したりして待機していたのですが、
アガッているせいか下のレがみんなすっ飛んでしまいました・・・・orz

わたしが喇叭の先生なら

「そんなに急がなくてもいいから確実に音を出せる速さで練習しなさい」 

と指導するところです。余計なお世話ですが。
ところでこの信号喇叭、なんと普通に楽器屋で買えます。

下倉楽器オリジナル喇叭

これによると、海自で使用している喇叭は、陸空自のとは違うようです。
なぜ全隊統一でないのか不思議なところですが、その辺りも
元々陸海は別のタイプを使っていたという経緯があり、
後から出来た空自は陸自に追随したと考えるのが良さそうです。

ちなみにお値段は海自が29,160円、陸空が28,080円で、海自の喇叭が
少しだけ全長が長い(つまり管の長さがかなり違う)だけ、
1000円のお値段差となって表れております。



そしてこの車。
☆が三つついておりますが、横須賀地方総監、武居智久海将の車。
それで横浜ナンバーだったんですね。



こちらは幹部学校校長である福本出(いずる)海将の車。
確かめませんでしたが、これもフロントグラスには☆が三つあるはずです。
いずれの車両も副官と同じくその役職に対して付くものなので、
正式には「横須賀地方総監の車」「幹部学校の車」ということなのでしょうか。



このお髭の海曹ですが、横須賀地方隊先任伍長の関曹長との報告が入っております。

それにしても、不肖エリス中尉の存在をぴしゃりと指摘した人がいたことでも
かなり驚かされましたが(それが誰でどういう情報だったのか知りたい)
こういうイベントに集まってくる人種というのは案外限られているので、
「中の人」から見れば、

「ああ、あの人また来ているな」

ってな調子で身ばれもしているし、そもそもこういうブログを関係者が見れば

「この位置から写真撮ってたとすれば、あれがエリス中尉か」

なんてこともすっかり分かるのかもしれないですね。
それどころか、不特定多数のその他大勢のつもりで気軽に潜り込んでいたけど、
実は防衛省というところはそういった

「意味もなく自衛隊関連行事に参加しまくっている人物リスト」

見たいなのを作っていて、要観察対象にしているかも(つまりスパイ対策)・・。

自衛隊の関係者でこれを見ておられる方、 わたしは決して怪しいものではなく、
ただひたすら海自が好きなだけの、ただのファン、単なる物好きでございます。

その辺ご理解いただきさらにご安心下さいますようお願いして、
これを「練習艦隊シリーズ」終了の辞に無理矢理代えさせていただきます。

 

 

 

深川製磁と海軍〜「つはもの共の筆の跡」

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さて、艦上レセプションに続き練習艦隊出航と
このブログとしては集中して語らなければならないイベントが
急遽(本当に急遽だったんです)入ってきたため、
有田、そして佐世保の訪問記が中断されておりました。

ただの旅行程度ならばそんな場合わざわざ再開することもありませんが、
ブログのテーマ上なんとしてでも続きをお話ししておかねばなりません。

・・・なぜそこまでいうかは、冒頭の深川製磁資料室にあった
壷の上の名前を良く見ていただければお分かりいただけるでしょう。




古賀峯一、醍醐忠重、宇垣纏、そして山梨勝之進・・・。

海軍と歴史に関心があればどれもなじみ深い名前です。
古賀峯一大将はここ有田のある佐賀県出身です。
「軍人に非ずばひとにあらず」の気風である佐賀県出身の軍人は
多かったのですが、古賀大将もその一人でした。

山本五十六が移動中敵機の襲来を受け乗機が撃墜された事件を
「海軍甲事件」といいますが、古賀大将の殉職は昭和19年3月、
パラオからダバオへ移動中に乗機が行方不明となったもので、
こちらは「海軍乙事件」といわれます。


以前にもお話ししたことがありますが、「ロンドン軍縮条約」を巡って、
大鑑巨砲主義の「艦隊派」と条約締結を進めようとする「条約派」の間で
深刻な対立が起こったときには、古賀大将は大鑑巨砲主義であったにもかかわらず
条約の締結を率先して進める一翼を担いました。

このとき「条約派」だった軍人の中に山梨勝之進がいます。
隣においてある壷には山梨勝之進の揮毫で

「覆育如天 戴養如地」

と書いてあります。

「天のごとく覆い育て 地のごとく養を戴く」

どこを調べても出て来ない言葉なので山梨のオリジナルかもしれません。
学習院大学の学長も務めた山梨の教育者としての一面を見るような文言です。

壷に書かれた日付は昭和38年となっています。
山梨勝之進は昭和43年、90歳で亡くなりましたから、これを書いたときには
すでに85歳になっていたわけです。


宇垣纏海軍中将は先日米軍空母「ランドルフ」についてお話ししたときに触れた
「銀河特攻」である「丹作戦」を指揮し、ご存知のように終戦の日、
沖縄方面に「武人の死に場所を求めて」特攻に出撃しました。

もう一人、醍醐忠重中将は名前からも分かるように公家華族の出です。
開戦後は第六艦隊司令長官として指揮を執りましたが、終戦後、
ボルネオの抗日華僑を安全維持のために掃討したことから戦犯に問われ、
インドネシアの法廷でオランダの「報復裁判」で裁かれ、処刑されました。

古賀大将がこのなかの最先任ということで大きく名を記しています。
古賀は1936年(昭和11年)、中将として練習艦隊司令官に附されており、
海将補が練習艦隊の司令官になるという現在の海自の人事と同じであることがわかります。


先日まで当ブログではかしまの艦上レセプション、そして練習艦隊出航を扱いましたが、



そのとき今年度の練習艦隊司令官である湯浅秀樹海将補の揮毫した
白磁の壷について少し触れました。
この写真や、



これらの壷(この慣習は悪筆の司令官にはなかなか辛いものがありますね。
いや、どなたの字がどうのこうの言うつもりはありませんが) 




これらも、海自の揮毫は

「練習艦隊司令官」

か、あるいは

「第二護衛隊群司令」

の肩書きを持つ将官によってなされていることが分かります。
第二護衛隊群は佐世保に司令部を置く、つまり昔の佐世保鎮守府。
そして、古賀峯一大将の経歴にも

「第二艦隊司令」「練習艦隊司令官」

とあるように、 佐世保に拠点を置これらの艦隊司令は、
就任と同時にここ深川製磁で壷に揮毫するというのが
恒例となっているのです。



練習艦隊との縁も、艦隊が海外に寄港する際、交流行事で
先方に寄贈するこのような飾り皿を作っているからでしょう。
ところで、この模様、見覚えがありませんか?



北斎のオリジナルとは少し変えてありますが、
海から臨む富士山、そして桜花。
これだけで「日本の練習艦隊」であることが一目瞭然です。
現在ハワイに投錨しているはずの練習艦隊も、この皿を携えて行ったのでしょうか。


さて、海軍になぜこんな慣習が始まったかについては後に譲り、
この壷に揮毫するのはそれではどういった役職の自衛官なのかを
写真から類推していきましょう。

まず、壷に書かれた文字を見ていただければ、

「西空司令官」

というのがあるのにお気づきでしょう。
西空は航空自衛隊の西部方面航空隊のことで、福岡県に基地があります。
また、

「西部方面総監」

は陸上自衛隊の九州・沖縄方面の地方隊で熊本に基地を置きます。



別室にはこのようなものもありました。



陸幕長の印のついた陸自からの注文品。



つまり、元々海軍から始まった海自と深川製磁の縁は、
いまや陸自、空自の九州地方の方面隊にまで広がっていることがわかります。



第8師団長の揮毫壷があります。
第8師団は戦前までここにあった熊本陸軍幼年学校を、終戦と共に
米軍が接収し駐留していましたが、米軍引き揚げ後、ここに
北熊本駐屯地が置かれ、その後第8師団となりました。
 
一番右は中央大学の総長によるもの。



勿論かつての佐世保鎮守府、佐世保地方総監の揮毫もあり。

わざわざ三菱マークを器用にも描き込んだのは、
三菱重工長崎造船所の所長。 

椿の花を描き込んだ絵心のある総監は、絵心があだとなって
名前の部分を出してもらっていません。

英語による揮毫がありますが、これはどうも
強襲揚陸艦「エセックス」の艦長によるもののようです。

自分の名前を縦書きにしていますが、フレイカー艦長は
これで日本風の雰囲気を出そうと思ったようです(笑)



海自との関係から、米海軍ともお付き合いのある深川製磁。
ロナルド・レーガンのキャップにパンフ、中央の写真は
深川製磁社長(先代)とパパ・ジョージ・ブッシュ夫妻。
第7艦隊司令からの盾も深川社長個人に対して贈られています。



これはどういうことかというと、おそらく海自の仲立ちで、
深川製磁は第7艦隊のためにこのような製品を納めたからでしょう。
「7」のマーク入りのパンチボウルセット。

艦隊司令フォーリー海将補と夫人の名前がボウルの内側に金文字で入っています。



達筆すぎて読み難いですが(笑)写真中央の第7艦隊司令官
バイス・アドミラル(海自で言う海将補)が深川社長に送ったカード。
司令官の右側は先代社長ですが、一番左の若い男性は、
この日わたしたちを案内してくれた現社長だと思われます。 


  
第7艦隊旗艦であった軽巡洋艦オクラホマ・シティ。
おそらくこの写真は艦上で撮られたものですが、
この礼状の書かれた翌年、オクラホマシティは退役し、その後
合同訓練の標的となって沈没しました。
 




パールハーバーで行われた米艦隊司令官交代式への招待状。

左の写真は先代社長と国連大使時代の小和田恒氏。
息女の雅子妃殿下のご尊父ですから、皇室の婚礼に関する
陶磁御製を請け負っている深川製磁へはその縁で来社したのかもしれません。



そのときの小和田氏の壷。
運輸大臣の左は「無事」と書かれた警視総監の揮毫。
警視総監が書いたとなるとこの言葉は俄然意味深ですね。

上の大皿に寄せ書きしているのは

「衆議院安全保障特別委員会ご一行様」

1981年のもので、自民党の有馬元治(海軍経理学校卒)、
社会党のプリンス()だった横地孝弘などの「呉越同舟委員会」です。

まあ、政治家連中はバックステージにおいては得てして対立はないものらしい、
(つまり国会での丁々発止はプロレスのファイトみたいなもんだから)
とわたしは思っていますので、彼らがここに皆でやってきて、
仲良くキャッキャうふふと揮毫して行ったとしても何の不思議も感じません。



初代社長深川忠次肖像の周りにあるのは、
これも「ある意味呉越同舟」、駐在武官たちの寄せ書き皿。

 

中国、韓国、オーストラリア、インドネシア、アルゼンチン、タイ、マレーシア、
イスラエル、ポーランド、スペイン・・。

PAZ、 PEACE 、PAIX ・・・平和を意味する各国語を添えて。



台湾からの参加がある年には中国からは招聘していません。
この辺がやはり「色々あるなあ」と言う気もしますが、
冷戦まっただ中の1966年の日付であるにもかかわらず、
アメリカとソ連の駐在武官も仲良く一緒の皿に名を連ねています。
ドイツも、ドイツを天敵と見なすイスラエルも両国参加していますし、
駐在武官というのは実は政治を持ち込まず付き合うという意味においては
大使よりもずっと皆さん仲がいいんじゃないでしょうか。

これを見せてくれた深川社長も

「そういうこと(国同士の確執とか)は全くないようで、
皆さん本当に和気あいあいでいつも来られるんですよね」

と感心したようにおっしゃっていました。
国会で「政治プロレス」をしている政敵同士が実は仲が良かったりするように、
国権のぶつかり合いは軍人同士には起こり得ないしその理由もありません。


不幸にして祖国同士が戦火を交えることになったときには敵味方となるのが軍人。
だからこそどこの国の軍人も「平和」を望むのでしょう。

頭の悪い末端サヨクの皆さんには金輪際理解できないかもしれませんが、
日本国に限らず、たとえどんな紛争地域国であっても、
戦争を最も嫌うのが軍人なんだと思いますよ。

最近やたら威勢のいい人民解放軍の某少将以外は・・・・・
もっともあれは誰かに「言わされている」らしいとわたしは思ってますが。



勿論各国大使の壷もこの通り。
「カナダ大使」「英国大使」など、皆さん日本語が書ける人ばかり。
フランス大使は「フランヌ大使」になっていますが、まあご愛嬌。
韓国大使もハングルではなく漢字記述ですし、
(『韓日文化統合の地』ってどういう意味?ってちょっと引っかかりますが)
全く日本語が出来ないらしいオーストラリア大使は絵を描いたり、
「ハンガリー大使」だけを日本語で書いた人もいます。
ブラジル大使は日系でもないのにほとんどの日本人より達筆でいらっしゃいます。

日本語は書けても、感覚的にちょっと違和感のあることを書いている人もいます。
つい声を出して笑ってしまったのがドイツ大使の

「妻同伴」(笑)



戦前の横綱、双葉山の揮毫もあります。
ほとんど学問がないにもかかわらず大変な達筆で、
少年期には大変優秀であったという逸話に違わぬイメージです。

あの大きな体にしてこの小さな字は、案外彼の性格によるものでしょうか。
 


ところで、ここ有田の深川製磁本社にこのような壷があるということは、
かつての海軍軍人、その後戦死したり戦後処刑になったりした軍人たちも
実際にここに脚を運んでいるということでもあります。

かつてこの有田に訪れ、今も残る古い深川製磁社屋の木造の階段を登って、
天皇陛下もそこにお座りになった白いカバーのかかった椅子に腰掛け、
言われるままに筆を取って、そして自分の名前を書き遺したわけです。

その全く同じ空間で、今歴史的人物の筆の跡を見ているという不思議。


それはすなわちここ、深川製磁という一磁器製造会社と、
帝国海軍との古くからの深いつながりを証明するものなのです。


(続く)

 

海軍と深川製磁〜聯合艦隊のカレーポット

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前回「つわものどもの筆の跡」では、深川製磁本社に訪れ、
ここにその筆の跡を残した軍人たちについてお話ししました。
今日は深川製磁と海軍、ひいては戦後自衛隊との関係について、
ここ深川製磁の資料室の展示ををお見せしながらお話しします。

しかしそのまえに(笑)、初代深川忠次が1900年のパリ万博での成功の
10年後に「宮内庁御用達」の指定を受け、今日に至るまでの
皇室とのゆかりについて先に触れておきたいと思います。



おそらく最初に御用達指定を受けたときの看板。
これも戦後になって宮内省が無くなるまで使われたものでしょう。

VOCの文字が入ったブルーの食器がありますが、VOCとは

Vereenigde Oostindische Compagnie

の頭文字で「東インド会社」の略称です。
東インド会社は日本で製造させた食器にこのVOCのロゴを入れて 
ヨーロッパに輸入させていました。 

深川製磁は勿論その前身の香蘭社を作った深川栄左エ門は8代目ですから、
東インド会社が解散する1799年までの間に深川が制作したものでしょう。



ご真影。

額か絵本体が陶磁で出来ているようでした。





御用達企業にのみ扱うことを許される菊の御紋。
ここにあるすべてのものは、全て謹製品と同じものです。
皇室に納めた品の「残り」がここに飾られているというわけです。



深川製磁が最初に御用達を拝命したときに謹製した食器類。
明治天皇と昭憲皇后両陛下の食器一切を請け負いました。



急須にも花瓶にも菊があしらわれて。



ご飯を食べると菊の意匠が表れる仕組み。



「日本の陶器」というページを開いた辞書を陶器で再現。
これについては社長に「何ですか」と伺ったものの
「ちょっと作ってみました」位の返事しかもらえませんでした。

右に三つ見えているのはボンボニエールですが、これにはご成婚される方の
お印があしらわれているのが普通です。



皇室の行事、たとえば

「成年式」「立太子礼」

などの記念品である杯もその都度受注し新しいデザインのものを作ります。
これにもお印があしらわれます。
一番左は黒田家に降嫁された内親王清子さまのご成婚のためのもので、
清子さまのお印は「未草」(睡蓮)です。



そして皇太子殿下ご成婚の際宮中晩餐会で乾杯に使われた杯。
杯はそのまま出席者の記念品として引き出物になりました。

こういった御用達品は世間に知れるよりもずっと早くから注文されます。
宮内庁の方も「これこれこのような」という注文を出しても、
何にどう使われるのかは決して明かしませんから、深川製磁の人々は
皆がそうと知るよりずっと早くご成婚されるらしいと推測しており、
制作の途中ニュースでそうと知る、というものなのだそうです。

先日高円宮典子女王の婚約が発表されましたが、深川ではこのころ
すでにお印の蘭の入った杯の受注でそうと知っていたと思われます。


皇后陛下の御還暦祈念に謹製された杯と花瓶。
花瓶の白樺の模様は美智子皇后陛下のお印です。
美智子妃殿下が入内遊ばすときにご自身で選ばれたもので、
天皇陛下と初めてお会いになった軽井沢の白樺からだとか。



これはお印とは関係なく、ただの果物などをあしらった皿。



国賓を招いての晩餐会の食器も深川が請け負います。
この、宮内庁とのビジネスのやり取りというのも色々あるらしく(笑)
深川社長は一度あまりにも注文の最終決定が来るのが遅いのに業を煮やし、

「決めるのなら決めて下さい、やめるならそういってください」

と催促?したところ

「そんなことをいう御用達は初めてだとえらい怒られた」

というようなこともあったそうです。



天皇陛下のご生誕時記念品として作られたものだそうです。
そういえば「皇太子様お生まれになった」という戦時歌謡がありましたね。
「ゆうせん」でこのチャンネルを聴いていると時々鳴ります。

「♪てんのうへーいかおよろこびー」と「♪こうごうへーいかおだいじにー」

という部分しか覚えていませんが(笑)


また、宮内庁からは、国賓への贈答品として注文が来ることがあります。



この金色のティーセットの模様はなんと手描き。
「ものすごく手間がかかり」とその苦労が書かれています。
このアーリア王妃ですが、ヨルダン国王フセインの第三王妃だった人で、
このティーセットが送られた翌年の1977年、
ヘリコプター事故で、まだ29歳の若さだというのに亡くなってしまいました。



合掌。



この黄色い磁器は中国の伝統的な色模様を再現したものです。



周りが朝顔なのに桜と椿、そして菊があしらわれています。
これは一つの画面に一年の季節の花を全部盛り込んで、
シーズンレスに対応するための工夫なのだとか。

これなら季節ごとに片付けたりする必要はありませんね!

ちなみに深川忠次は朝顔が大好きであった模様。



どおおおお〜んとおかれた巨大な壷。
前にもパリ万博に出品して金賞を受賞した大壺について書きましたが、
こうした大物を作るには、冠や台座を除いたボディの部分を4つに分け、
ろくろを回して作ったものを焼き上げてから接合するのです。

これをするには極端に高レベルのろくろ技術が問われますが、
この作業をしたのは天才ろくろ師といわれた井手金作という職人でした。

技術では右に出るものはなく、高収入を派手な遊びにつぎ込む芸術家肌で、
有田の人々は「華の金作」「派手の金作」と彼を呼んだということです。



継ぎ目が年月をへて目立ってきています。
絵付けももちろんのこと手描き。
熟練の職人技はもはや芸術の域です。



イギリスに店舗を構えていたときの看板と、おそらく
「宣伝用絵皿」であると思われます。




さてお待たせしました。
やっとこさこの写真を挙げるときがやってまいりました。
冒頭の白磁に金線の入ったエレガントな曲線のシチューポットにカレー皿。 
いや、海軍のものですからシチューではなくカレーポットでしょう。
皿には桜に錨の海軍マークが。

これはまぎれもなく深川製磁が海軍から注文を受け、戦艦「三笠」艦上で
食事を・・・・カレーを食べる東郷元帥や加藤友三郎大将、そして
秋山真之参謀らの高級士官たちのために作られたものです。


といいながらいきなり寄り道です。

この連合艦隊司令部の写真は三笠に関係する資料では必ず見るものなんですが、
わたしはかねがね後列右端の超イケメン士官の正体を知りたいと思っていました。

この人ね。

しかし、全員の名前が書かれた資料は今まで見たことがなかったのです。
ところがこの旅行のとき見学したセイルタワーでは、写真に全員の名前が添えられ、
イケメンが

「清河純一」

というその響きも水が滴りそうな男前っぽい名前の参謀であることが判明しました。

(書くものも持っていなかったし、写真も撮影禁止だったので覚えて帰りました)

しかしこの爽やかな名は体を表すってやつでしょうか。
どうしてこんなに若いのに東郷元帥と一緒に写真を撮っているのかというと、
彼は参謀ということらしいので、先日の練習艦隊副官・阿川大尉のように
「戦艦三笠副官」とかだったからではなかったかと思っています。



その練習艦隊の話が出たので再び出して来る練習艦隊絵皿。
となりにちらっと見えている海軍マークの壷には、たしか
東郷元帥肖像が描かれていたような気もするのですが、残念ながら
どういうわけかこれだけ写真を撮り損なってしまいました。




この写真でいうと清河大尉(勝手に階級を決めてるしw)は
後列左端の参謀飾緒ではないかと思われます。

座っている軍人は皆膝の上で手を拳に握っていますが、
これは現在でも海自の「正しい座り方」です。
一人正しくない人がいますけど。



このころ製造された士官用の茶碗など。
先日コメント欄ですこし話題になった「海軍ドンブリ」もありますね。

やはり海軍だけに海とかフネにゆかりのあるデザインを使用しており、
右側の帆掛け船の小皿は浜千鳥に松、海という意匠です。

小皿の桜の花模様ですが、全部同じではなく「一つ花弁を散らした桜」
があるのが粋な感じがします。

ところでイケメンに気を取られて肝心の話をまだしていませんでした。

なぜ深川製磁は海軍御用達になったのか。

1878年の、深川忠次が総指揮を執って完成させた大壺が金賞となった
パリ万博の事務館長を務めていた日本人で、実業家となった
前田正名(まえだまさな)という人物がいました。

深川は彼の紹介により、東郷平八郎元帥に知己を得て壷を贈ったことがあり、
それ以来二人は親交を結んでいたのです。
その東郷元帥が直々に依頼したため、帝国海軍の織機製造は
深川製磁が一手に引き受けることになったのでした。

特に「三笠」始め軍艦に載せる食器は

「割れ難く丈夫でかつ美しい」

有田の陶磁製がまさにおあつらえ向きだと東郷元帥は判断し、
この決定を下したのだと思われます。

つまり深川製磁は連合艦隊司令長官の指定業者で、
それだけではなく元々社長は元帥のお友達なのですから、
ただの納入業者とは一線を画す扱いにならざるを得ません。

必然的に海軍と深川製磁とのお付き合いはそれから特別なものになります。

というわけでいつの間にか代々佐世保鎮守府に着任した長官は、
この地に着くなり有田の深川製磁まで出向き、
白磁の壷に名前を書くことが慣習となったのでありましょう。





また、このようなつながりもあります。

これはまた珍しい。
飛行機を導入するようになってからの海軍にはこんな絵が描かれた
湯のみも納められたということなのですが、
この旅行のとき買い求めた伊藤緋沙子著「華の人」には
こんな一文があります。

美智は楽しそうにそのことを報告した。
「喜美子姉さんの旦那さまは、今、三菱重工業で
『零戦』の開発を担当しているそうなの」

美智、とは深川忠次の息子、進と結婚した敏子(本編の主人公)の妹で、
喜美子とは敏子の姉です。

喜美子が嫁いだのは東大出の技術者野田哲夫。
風洞試験場主任であり、零戦の開発に当たって堀越技師が採用した
浮力調整のための「スプリット・フラップ」を開発し特許を取った人物です。

「零戦の開発をしている」というのは厳密に言うと間違いで、
野田技師がこの技術を開発したのはそれに遡ること4年前、
九六式艦上戦闘機のためでした。

技術屋で世間知らずだったのか欲がなかったのか、野田技師はこの特許を
外国で取ることをしなかったため、数年後にはアメリカ人に使用されてしまいます。

零式艦上戦闘機の開発責任者堀越二郎は

「なんで外国特許を取らなかったのか。金銭的な逸失もさることながら
日本の技術力を世界に知らしめることになったはずなのに」

と悔しがったとされます。

このようなところにも深川製磁と海軍の縁があったのでした。
この湯のみはおそらくですが野田哲夫が九六式を開発したことに
因んで作られたのではないかという気もします。

湯のみに描かれているのは零戦ではなく九六式みたいですし。




さて、深川製磁と海軍の縁は戦後も続き、現在でも海自には
このような接客用の食器が注文の度に制作されています。

注文があるごとに作り、余剰品を販売するので、
そのときのストックがなくなったら終わりです。

写真のマグカップも、ここに飾られているのと在庫が一つだけ、
最後の2個をわたしが買い占めてしまいました。

海軍時代ならずとも2〜30年前の海自では、護衛艦の士官室でも
金色の錨が入った深川製の珈琲碗皿が普段用として使用されていたそうです。

また防衛駐在官が赴任するとき、任国で交換するギフトには
深川製磁の富士山の絵皿などが多数調達されてきたそうです。


おまけ* 



2階の資料室の見学を終わり、1階でこの珈琲カップをお遣いものにするため
購入手続きをしていますと、店内に痩せたネコが入ってきました。



カウンターの下からお店のお姉さんに向かって鳴いてます。

「そんな鳴いたってここなんにもないよお〜」

お姉さんはネコに言ってきかせますが通じません。(そりゃそうだ)



取りあえず長期戦を決め込んだらしく、ネコは脚拭きマットで毛繕いを始めました。
1枚目の写真に写っている靴の先は深川社長の靴なのですが、
お客さんも何人かいる店舗のなかに汚い野良猫が入ってきても、
社長は全く意に介する様子がありません。

かといって構ったり声をかける様子もありませんでしたが、
そこにいたいならいさせてやる、という感じで話をしながら眺めているだけ。
客をアテンド途中の社長が

「しっしっ」

と目を三角にしてネコを追っ払ってもなんら不思議はないのですが。
これにこの人の「質」の上品(じょうぼん)を見た気がしたわたしです。




土曜日なのに車以外人っ子一人いない駅前通り。
まるで書き割りのようにも見える街有田を後にして、
わたしたちは今日の泊地、ハウステンボスに向かいました。



(ハウステンボス編に続く)

 


佐世保探訪〜海軍兵学校とハウステンボス

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深川製磁本店を訪ねるのが目的の旅は、わたしの強い希望により
佐世保の海自基地で週末行われている艦艇公開と、
セイルタワー見学を無理くり盛り込みました。

ただし、行くのはわたし一人だけです(笑)

TOと息子は普通に宿泊先のハウステンボスを見学することになり、
またしても我が家は別行動で観光をしたのでした。

有田の深川製磁本社を辞した我々は社長に駅まで送っていただき、
そこからタクシーでハウステンボスのホテルヨーロッパに行きました。



ふおおおおお〜。

なんかいきなりベルサイユ宮殿みたいになってるし。
いや、わたしはベルサイユには行ったことがあるけどこんなじゃなかったな。
見てないけどルイ王朝当時の昔もこんなじゃなかったと思う。



なぜベルサイユを想像したかというと単純に薔薇だらけの空間だったから。
小さいときの刷り込みって怖いですね。

それにしてもこの薔薇だらけの空間、これはただ事ではない。
何かと思えば、このときハウステンボスでは薔薇が満開で、
「ローズガーデンフェア」なるものを開催していたため、ここ
「ホテルヨーロッパ」もロビー中を薔薇で埋め尽くしていたというわけ。

これを見ていただくだけでもおわかり戴けるかとは思いますが、
とんでもなく手間とお金がかかっているデコレーションです。

連休明けでそんなに暑くもない頃でしたが、薔薇を保たせるために
ロビーの温度を低く設定していると断りがありました。 




これは時計ではなく、巨大なオルゴールです。
真ん中の金属板を時計の針のような爪が掻いて音を奏でます。
このときロビーではヨーロッパ人らしいアコーディオンとバイオリンのデュオが
真っ昼間だというのに生演奏でタンゴを奏でておりました。

こういう空間に身を置くと、何より費用対効果が気になるもので、

「あんまり宿泊客もいないみたいだけど、大丈夫なのかな」

などとつい思ってしまう貧乏性のわたし(笑)
TOから聴いただけで詳細は不確かながら、一旦経営不振になったものの
旅行のHISが経営に加わったので最近はかなり調子もいいとか。



なぜここに泊まることになったかと云うと、ここは金美齢さんの定宿で、
金さんは九州地方に来る用事があるとここに泊まる、と聴いていたからでした。

いい意味での贅沢好きの金さんが気に入っているのならきっと、と思ったのです。

雰囲気としてはディズニーシーに隣接した「ホテルミラコスタ」のような感じ。
ふんだんに土地はあったらしく、人口の運河ぞいに建物を建て、
まさにベネチアの雰囲気です。
ホテルからは船でチェックアウトすることもできるとかできないとか。



部屋から窓の下を見下ろすと、船が行き来しています。

ベネツィアのゴンドラに乗ったことがありますが、あれは観光用なので
手漕ぎでモーターはついていません。
ここでは大量に観光客を乗せるという設定なので勿論モーター付き。

しかし、完璧なこの舞台装置なのに何かしら、言っては何ですが
違和感を感じる眺めでもあります。

たとえばこの船でも船尾に乗っているのはバッグを斜めがけにし、
お揃いのようにちゃんちゃんこ状のベストを着て黒い運動靴とも革靴とも
つかない中途半端な中高年女性の良く履いている靴を履いた
おばちゃんの団体と、ピンクのトレーナーにピンクのパンツをはいた
女児を連れた家族連れだったりするわけ。

勿論ここは日本だから当たり前の光景ではあるんだけど・・・・
ベネツィアでゴンドラに乗ることになったときも、ツァーだったため、
船に乗っているのは当然ながら全員が日本人。

リタイアした老夫婦や子供連れ、つくづくその陣容を見て、
まるで長良川の渓流下りの船に乗っているような気さえしました。
そして自分もその一員でありながら

「似合ってねえ・・・」

と日本人団体と周りの光景のミスマッチに苦笑したものですが、
それと同じ現象がここでも起こっているようでした。


ちなみにベネツィアのゴンドリエは、日本人ばかりの客を甘く見たのか
それはわかりませんが、制服の上から着込んだジャンパーを最後まで脱がず、
しかもポケットに手を突っ込んだまま歌を歌っていました。

そんな競馬場のおっさんみたいなゴンドリエ、写真に撮りたくもないっつの。

わたしは結局園内に入らずに佐世保に行ってしまったので聴いた所によると、
園内はそれこそ中国人韓国人だらけだったとか。
さらにこの光景とそこにいる人間とは空間にねじれを生んでいたことでしょう。




ホテルの窓からの眺めはまるでヨーロッパ。
ただし夜になると雰囲気は一転します。
この巨大な教会の塔はライトアップされるばかりかそのものが
赤やら紫やらの禍々しい色が交互に点滅するのではっきり言って逆効果で、
うちの息子とTOは

「この教会イーブル(邪悪)すぎない?」

と二人でいちいちネタにして盛り上がっていました。
ヨーロッパの教会は普通7色に点滅はしないだろうな。



こうして写真に撮ると、確かに「良く造ったなあ」と思います。

しかしわたしはこの「日本にあるヨーロッパ」というコンセプトそのものに
天の邪鬼かもしれませんがこのときあまり意味を見出せませんでした。
実際にヨーロッパに行ってその非日常的な空間に身を置くからこそ意味があるのであって、

「その町並みをまねただけの人工的な空間」

にわざわざ行くことに果たして意味はあるのだろうかと・・・。

このときは明治村の方がよっぽど価値があると思ったんですね。
このときはね。(伏線)




客室はミラコスタよりもすこし田舎風で、ニースで泊まった
海辺の小さなホテルに似ていると思いました。



中庭に当たるところは壕になっており、まるでベネツィアのホテルにいるようです。
ここでわたしたちは何をするでもなく部屋でルームサービスのご飯を食べ、
夜になったら夫婦でスパでマッサージしてもらい(他に誰もいなかった)、
勿論テレビなど一度も付けずに全員がパソコンに向かい(笑)、
淡々と時間になったら寝るといういつも通りの夜を過ごしました。



次の朝、爽やかに目覚め、人がごった返すバッフェ式ではなく
サーブ式のレストランで朝食をいただきました。
うちの息子はホテルにしょっちゅう泊まるせいで朝のバッフェが大嫌い。

わたしも最近のホテルではあまりなくなってしまったサーブ方式の方が好きなので、
どちらでも好きな方を選べるこの方式はありがたかったです。


さて、このあとわたしはタクシーで佐世保に、二人はハウステンボスに。

わたしは自分の「海軍欲」を満たすために何の未練もなくここを発ったのですが、
後からたまたま一夜を過ごしただけのここもまた、
海軍に大変縁が深い地であることを、わたしはそのとき知りませんでした。



まずこれです。

ここから車で15分ほど行った、同じ針尾島内には、重要文化財である

「旧佐世保無線電信所(針尾送信所)施設」

があります。
海軍の佐世保鎮守府隷下の通信施設で、1918年(大正7年)完成しました。

この写真には「トラトラトラ・タワー」とインデックスがあります。
真珠湾攻撃の際「ニイタカヤマノボレ」を打電した塔とされていますが、
wikiによるとそれは千葉県の船橋送信所の間違いで、ここからは
長門からの打電を受け取り中国大陸に送ったとされるも詳細は不明だそうです。

戦後はアメリカ軍の接収後、海保と海自で共同運用していたそうですが、
1997年に後継の施設が完成してからは使われていません。

このことは行ったときから「時間があったら見に行きたかったね」
と話したりして知っていたのですが、それよりも後から聞いて驚いたのはここ、
ハウステンボスそのものが

「海軍兵学校針尾分校」「針尾海兵団」跡

であったということです。
そもそもハウステンボスが針尾島にあるということを知らなかったのですから、
さしものの海軍オタクもこれにはまったく気づいていませんでした。

わたしがハウステンボスに行ったことを前のエントリに書いたら、
メールでこのことを教えて下さった方がいてそれで初めて知ったという次第です。

滞在しているときにそれと知っていたらせめて

海軍兵学校 針尾分校之碑

を見に行ったのにな。
このページには「最後の海兵生徒」である78期生であった方が
碑を訪れた様子とともに針生分校の碑に書かれた文言を記しています。

これを読んでいただくと文中に

「同年7月防府分校へ移転した後 
同年8月太平洋戦争の終結により海軍兵学校は閉校となった」

とあります。
78期生徒がここに入学してきたのは昭和20年4月3日のこと。

「海兵生徒小沢昭一〜最後の兵学校生徒」

というエントリでこの78期生(正式には予科生徒という名称の
中高生であった)であった故小沢昭一氏について書きましたが、
その文中、

 一瞬の気の休まる間もない訓練、江田島ではなく防府分校の急ごしらえ校舎の
ノミ・シラミ、得体の知れない皮膚病を始め
赤痢や流行性脳炎すら発生する衛生環境の悪さで入院患者続出。
そんな中で毎日のように米軍艦載機の来襲を受け、のべつ裏山に逃げ込む毎日。

と78期生の学生生活について触れています。
ここ針尾に分校を作ったのは、この予科生徒だけで海軍は4000人もの人員を
この年採用したため、本科の生徒で既に手一杯の江田島だけでは全員を
収容できなかったという理由によるものでしたが、この針尾には前述の通信塔、
佐世保の軍港があったため、連日空襲に見舞われることとなりました。

犠牲者も出たため、兵学校は山口県の坊府に移転することになり、
7月上旬から空襲の相次ぐ北九州を4000名の生徒、教員、下士官など関係者は
臨時運行させた汽車での決死の移転作戦を決行します。

この決断は沖縄の玉砕を受けてのことで、海軍はこのとき

「次は九州全土が攻撃対象になる」

と読んでいたらしいことがわかります。
それで本州最端の山口への移転を決定したのでしょう。

しかし、このような事情で移転したため、設備らしい設備もなく、
九州ほど食品も豊かでなかったことから、予科生徒たちは、
上記のような酷い兵学校生活を送ることになるのです。

終戦の勅を聞いたときには「シメタ」と思ったという小沢氏のような
予科生徒がいても当然だったかもしれません。


しかし、残された手記をいくつか読むかぎり、ここ針尾島の分校は
空襲に見舞われる以外はそう劣悪な環境ではなかったようです。


戦争の推移に鑑み、海軍は兵力の増強のため、昭和19年、全国に
8つの海兵団を新設しました。

海兵団とは、海軍4等兵である新兵、海軍特修兵となる下士官教育のために
全国の各鎮守府に設置されていた教育機関のことです。


呉にもあったこの海兵団跡は現在「呉教育団」となり、海兵団と同じく
初等海士教育の場となっていて、わたしも2年前見学に行ったものですが、
ここ針尾には昭和19年5月、つまり兵学校予科の新設と同時に、
佐世保海兵団も併設する形で設置されました。

兵学校が移転したとき、海兵団はどうなったのかはわかりません。


海軍はこの針生分校で行う予科生徒たちへの教育に期待していたらしく、
(戦争が負けそうだから戦後の人材教育に資金をつぎ込んだという説も)
教育体制には万全を期していたようです。

たとえば教頭は7月15日付けでキスカ救出作戦でその成功を謳われた名将、
木村昌福(まさとみです。しょうふくではありません)少将に



 海軍兵学校教頭兼防府分校長 兼監事長 兼海軍防府通信学校長

という辞令を以て当たらせていますし、教官兼先任部監事として
メナド降下作戦で一躍名を挙げた堀内豊明大佐を任命しています。



いわゆる秀才タイプではなかった木村教頭に教育を任せたのですから、
ここでの教育方針が

「出来るだけ腹一杯喰わせて、体力作りを重視する」

というものになったのは当然の成り行きというものです。
堀内大佐はなんどもお話ししているように「海軍体操」の発案者で、
針生では生徒たちに自分の考案した海軍体操を指導し、成果を上げました。

海軍軍人として必須である水泳の教師には、



鶴田義行(アムステルダム大会200m平泳ぎ金メダリスト)



遊佐正憲(ロスアンジェルス大会800mリレー金メダリスト)

があたるという何とも贅沢な授業だったそうです。
鶴田のバイオグラフィによると1943年に海軍に応召されたとありますから、
どこか別の所で一般の応召任務に当たっていたメダリストを
海軍が見出してここに連れてきたと考えるのが良さそうです。

 

それにしてもこの終戦ギリギリの時期に、海軍というのはどこまで
「人材教育」に力をいれていたかということです。
その海軍側の意向は、人にもよりますが生徒たちにもある程度伝わったはずです。

何と言っても彼らにとって幸福だったことは兵学校生徒に取って最大の恐怖だった

「怖い上級生の修正」

が第一期生である彼らにはなかったことでしょう。
こんなのびのびした兵学校生活があるでしょうか。

万が一開校がもう少し早いか、終戦が遅かったら、組織の常として
そういった悪習ともいえる慣習も根付いていくことになったのかもしれませんが、
幸か不幸か、ここで兵学校生徒が過ごしたのはわずか三ヶ月間のことでした。

小沢生徒がそうだったように「国を護る覚悟」も「死ぬ覚悟」も、
つまり海軍精神を身につけるまで至らなかった生徒も多かったでしょうが、
いわば組織が硬直する前に全てが終わってしまったのですから、
その点だけは悪くなかったといえないこともありません。


ところが、この後移転した防府では、ある意味針尾より酷い生活が待っていました。
空襲の頻度はほとんど変わらず、校舎は殆どが焼かれて生徒館での仮暮らし。
そして食物が足りず栄養状態はたちまち悪化、おまけに集団赤痢が蔓延し、
軍医や教頭の木村少将までが罹患して倒れ、終戦までに死者12名を出したと云います。

わずか4ヶ月前、真新しい軍服にガワだけとはいえ短刀を吊って、
若々しい顔を期待と誇らしさで輝かせていたに違いない紅顔の前途ある少年が、
失わなくても良い命をこんな形で散らせて行ったという事実があったことを
わたしたちは記憶に留めておくべきでしょう。



さて、昭和20年7月から生徒の姿が消えたここ針尾分校は、戦後、
米軍に接収され厚生省佐世保引揚援護局として機能していました。

針尾島西部の浦頭港に帰着した船舶から上陸した引揚者は、
ここまでを徒歩で移動し、休息救護を受けたそうです。
そしてこの地で休息後、もよりの国鉄南風崎駅から故郷への帰宅の途につきました。


1950(昭和25)年9月からは警察予備隊針尾駐屯部隊が使用しています。

余談ですが、現在の自衛隊の階級も旧軍ととにかく変えることを目的に
「尉、佐」官には大中小の代わりに数字の「1、2、3」を充てるという
「珍案」(個人的感想です)を編み出し現在に至るわけですが、
警察予備隊時代の階級ってどんなだったか知ってます?

尉官に相当するのが「警察士」。
これに「1、2、3」がつき、たとえば1尉相当は「1等警察士」といいました。

うーん、なんだか犬の訓練士、みたいですね。
略称は何だろう。「1士2士3士」かな。


佐官は「警察正」、
将官は陸将相当が「警察監」、
陸将補が「警察監補」。

1948年には警察法でいわゆる警察組織もちゃんと存在していたわけですが、
こんなに紛らわしい階級で不便じゃなかったんだろうか。

まあ不便とまでは行かずとも皆イマイチだと思ってただろうな。
陸将が「けいさつかん」だもの。

しかしご安心下さい。

ポツダム宣言の受諾に呼応してその2年後この名称も消えてなくなり、
この階級が日本に存在したのはたった2年間のことでした。



さて、ここ針尾の地はその後昭和30年、警察予備隊が発展的解消した組織、
保安隊の駐屯地となっていましたが、それが相浦に移転した後は国有地となります。

ちなみに保安隊の階級は先ほどの「警察」を「保安」に変えたもので、
たとえば1尉相当は「1等保安士」(これも略称1士?)と称しました。

うーん、なんか「1等保育士」みたいですね。


その後ここは1969年着工、1975年完成の針尾工業団地となりました。
192億円のお金をかけて埋め立て地を含め長崎県が造成したものです。
しかし、工場誘致はまったく失敗に終わりました。

ちょうどオイルショックが席巻したこともありますし、
工業用水の供給がうまく行かず、もともとヘドロで埋め立てた土地は
雨が降ると地面に染みこまずに巨大な水溜りになり、乾燥するとひび割れを起こすような
最悪の土壌だったということもその理由だったようです。

ハウステンボスはその土壌を入れ替え、樹木林を形成させることからスタートしました。
土地購入費以上の投資をして土地を掘削し、堆肥を混入する有機的な土壌改良を実施し、
綿密な周辺調査に基づいて植栽を行い、約40万本の樹木と30万本の花を植え・・。

ここが、テーマパークというわりには派手な絶叫ライドもなく、
メインは街並と植物園であるということに、この造成のエピソードを知って
初めてわたしは合点の行く思いをした次第です。

道理で町並みにもアメリカ発祥の在阪某テーマパークのそれのような
書き割り丸出しの嘘くささがないわけです。
運河も、船が航行するところ以外は深さ30センチで、水には着色している、
というアメリカ発祥の在千葉テーマパークとは違い、本物です。

ここが工業団地としてもし成功していたら、この辺りは確実に
今の中国のような環境問題がその後起きてきたでしょう。
ヘドロで作った土壌の上に環境に配慮した工場が建てられるはずがありませんから。

そして、その後、そんな工業地として使われた跡地にテーマパークができていたら?

・・・・・・あ。思い出した。

そういえば「書き割りの街」のテーマパークは元工場地だったため、
環境汚染があるとかないとかそこの法務部の人が(ゲフンゲフン)



つまり将来の環境に巨額を投資するような日本的な企業が買い取ったからこそ、
今のハウステンボスは「舞台裏のない街」を実現させているのです。
(ハウステンボスにはテーマパークにありがちなバックステージがない)

かつての針尾分校が、終戦直前でありながら人材教育に力を入れたのと、
その後同じ地にできたハウステンボスの経営姿勢というのは
こじ付けかもしれませんが通じるものがあるなあと感銘を受けたエリス中尉です。

ハウステンボス、きっとまた行くと思います。
こんどはちゃんと入園して街並を楽しもうと思います。


・・・・・と、いきなり掌返しをするエリス中尉である。 



(佐世保見学編に続く)
 



 

護衛艦「あさゆき」見学〜艦首旗と日の丸(と笹井中尉)

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有田での深川製磁本社見学、そしてハウステンボスと、ここ北九州における
「海軍ゆかりの地を訪ねる旅」は二日目となりました。

え?

「何が海軍ゆかりの地だ、ハウステンボスを海軍兵学校後と知らないときは
日本にこんなヨーロッパの街並を再現するコンセプト自体が意味がない」

とかなんとか批判的に思っていたくせに、って?
はい。

「兵学校跡であることと、開発に際して渾身の環境技術が投入されたこと、
そして、その後18年間不振だった事業をV字回復させた現在の経営陣」

この三題噺を知ったとたんすっかりそれまでの見る目を変え、
今やハウステンボス支持派に鞍替えしたお調子者、エリス中尉でございます。

というか、自分で全く知らないうちに「全編海軍ゆかりの旅」になっていた、
これがかつての軍港町を訪ねるということなんですね。


佐世保恐るべし。 


さて、ハウステンボスで朝ご飯後一人でタクシーに乗ったエリス中尉。
何しろ初めてのことで、現地の様子は全くわかりません。
従って、セイルタワーと艦艇見学を実地している倉島岸壁が離れたところにある、
ということも全く知らなかったため、タクシーの運転手さんにはとりあえず

「セイルタワーに行って下さい」

と告げました。
ハッピータクシーという実にストレートな名称のタクシー会社の運転手は、

「どちらから来られました」

に始まって、車窓から見える風景の説明や有名な観光地の紹介、
ちょっとした観光のサジェスチョンをしてくれました。

「下を見下ろしたら佐世保を一望でき天下取った気になれる」 

という山腹のホテル、「弓張の丘ホテル」も教えてもらったり、
(次に佐世保に来ることがあれば必ずここに泊まろうと思います)
今まで「つくもじま」だと思っていた「九十九島」が 、じつは
「くじゅうくしま」だということも(ご存知でした?)初めて知りました。

楽しく車中でおしゃべりしながらセイルタワー前に着いたのですが、

「倉島岸壁はどの方向ですか?」

と車が止まってから現地の人にとっては全く見当違いのことを言い出す客。

「え、お客さん倉島岸壁行きたかったの?」
「はあ、セイルタワーと一緒になっていると思っていたので・・・」
「歩いて行くのは無理だね。少し戻ることになるけどどうします?」
「・・・・・倉島岸壁行って下さい」

さすがは軍港佐世保、規模が大きい。
歩いて行けるところに全てが集まっているというわけではなかったのね。
まあそりゃそうか。ハウステンボスじゃないんだから。

海上自衛隊入り口で降りたとき、運転手さんは端数を受け取りませんでした。
こちらの勘違いだったのに・・・。

皆さん、佐世保に行ったらハッピータクシーがおススメです。(宣伝)


さて、入り口で入門手続きをして、見学者のタグをもらい首にかけて、
艦艇のある岸壁まで歩いて行きます。
いつもこんなものかもしれませんが、人はまばらでした。 



岸壁までの道すがら目につくものを片っ端から撮りまくります。
自衛隊専用の岸壁ではないらしく、海保の巡視船もいくつか見えました。

写真は「ちくご」。
2010年、民主党政権下で尖閣での状況が緊張化したときには、
なんとこの「ちくご」が尖閣に出動してニュース映像にも写ったのです。

当時緊張化が長期化したため、佐世保から急遽ローテーションに組まれ、
現場に出動していたということだったようです。

海保のことについては当方あまりくわしくないのですが、この「ちくご」は
警備実施等強化指定を受けた「特警船」で、
乗員は「特別警備隊員」でもあるらしいことがわかりました。

機会があれば一度海保の船についても乗船見学してみたいです。




こちらの岸壁は海自の・・・・これ、何だろう。
初めて見るなあ。
小さくて、艦番号も二桁・・・。

と思って調べてみると、この艦首のYTというのは

「Yard Tugboat」

つまり曳船(えいせん、で一発で変換できました)です。
見るのは初めて、じゃなかったんですね。

大きな船が出港するときに1隻あるいは2隻でその補助をする艦艇。
いつもこの小さな力持ちはあまり注目されませんが、
操艦にはかなりの熟練が必要なんだろうと、観艦式のときに思いました。
その働きぶりを一度でも見たらきっとあなたも思うはずです。

この曳船や給水、給油を行う水船、油船(あぶらぶね、と呼ぶらしい)、
廃油船(廃油回収)、運貨物船(艦艇への物資補給)、
交通船(人員運搬)、消防船(読んで字の通り)、
起重機船(艦艇に荷物を上げ下ろしする)・・・。


こういった働きをする船を「支援船」といいます。

どれも小さな船ですが、どんな大きな護衛艦も彼女らがいなくては動きません。
まさに縁の下の力持ちというべき大事な役目を担っているのが彼女ら支援船です。

艦艇公開には護衛艦だけでなく、ぜひこういう支援船も対象にしてほしい。

と、防衛省広報課にこの際お願いしておきます。



門そのまま歩いて行くと、グラウンドの向こうに艦艇が見えてきました。
ポールが三本発っていますが、ここで何かセレモニーが行われるのでしょうか。



グラウンドの手前は地面にロープを張った駐車場でした。
・・・・?何かが書いてある。



おお、常時繋留してあるフネの乗組員専用駐車場がある。
これは「あさゆき」用。
そういえば今日見学するのは「あさゆき」だったっけ。

勿論日曜日なので車は一台も停まっていませんでした。
さすがに土地が広いだけに車の通勤が許されているのですね。
おそらく幹部だけだとは思いますが。



「じんつう」JS Jintsu, DE-230

の艦長専用のパーキングロット。
「じんつう」は旧軍の軽巡洋艦「神通」の二代目艦となります。
今まで舞鶴、大湊、そして佐世保と定係港を変えてきたそうです。
フネが引っ越すときには当然乗組員も一緒に引っ越すんですよね。

「2年おきに転勤は普通」

と艦上レセプションで実習幹部に聞いたけど、この人事異動というのは
「組織が硬直しないように人を動かす」ということが目的だったりするんでしょうか。



空が・・・・・広い。

二台の自転車は折りたたみ式のようですが、隊員の移動用でしょうか。
それともこのとき来ていた家族連れのもの?



まずは前面から写真を撮ってご挨拶。
艦番号132が本日見学する予定の「あさゆき」です。
手前の艦を通り抜けて行くんですね。

この週末は「じんつう」が一般公開されていますが、写真によると
さらにこの外側に繋留してありました。



停泊中なので艦首旗が艦首に掲げられています。
ところでこの艦首旗竿の旗を前回練習艦隊の出港時に

「艦首に日の丸が」

と書いたのですが、じつはこの“日の丸”はあくまでも「艦首旗」と呼ばれ、
艦艇の常識では国旗であるものの国旗ではない、という扱いなのだそうです。

軍艦においては艦尾旗竿またはメインマストに掲げられるのが最上位の旗とされ、
一般的にはそこに海軍旗を揚げることになっています。

海軍旗が制定されていない海軍もあるので、その場合は国旗がそこに揚げられます。

つまりこれは

「一見日の丸に見えるが実は艦首旗であり日本国旗ではない」 

ということでもあるのです。
なぜこういうことをわざわざことわるのでしょうか。

これは、わたしが海自の慣習である自衛艦旗の扱いを見ていていつも感じる
ある「疑問」への答えが、すなわちその答えでもあるらしいことがわかりました。




艦上レセプションでは、日没前から待機して自衛艦旗を降納していました。
晴海の練習艦隊出航行事の朝は、8時に掲揚する自衛艦旗を見ました。
そこでは自衛艦旗が喇叭譜「君が代」と共に扱われます。

そこでわたしの感じた疑問というのはこういうことです。

「これをしている間、国旗であるはずの艦首旗はどうなっているんだろう」

はたして艦首旗は自衛艦旗のような揚げ下げをするのか。
そもそも、自衛艦旗がこうやって第一義に扱われているということは

自衛隊では国旗より自衛艦旗を尊重している

ということになるではないか・・・。 

はい、もうおわかりですね。

いかなる軍隊も、国旗の下にその存在を初めて認められているのですから、
国旗より軍艦旗を優先したり尊重したりすることは許されません。
しかし、艦首には識別のために国旗を揚げねばならない。
つまり

「これは国旗と同じ模様をしているが、艦首旗といって国旗ではない」

と言い張ってしまえば、この矛盾が解消できるというわけです。

・・・・・・と思ったんですが、本当はどうだか知りません。

しかしそれが証拠に、今より国旗に対する扱いに厳正を要求された旧海軍時代には、
国旗と類似の、縦横比が国旗とは異なる、艦首旗たる日の丸が制定されていたそうです。

しかし海自では国旗と同じものを艦首旗と言い張って使用しています。
そのためにわざわざ特別の国旗を用意するほどでなくてもよくなったんでしょうか。

朝日新聞が社旗を「これは旭日旗ではない」と言い張るみたいなもんですかね。
たとえが悪すぎてすみません。 


「艦首旗」≠「国旗」は米海軍ではちゃんと具体的に行われており、
星条旗の左上部の青地に星の部分だけを艦首旗として使用しています。
他の艦船から見てアメリカの軍艦であることが分かればいいからですね。


ところで先日、羽田空港が床の皆が通行するところに東京オリンピックの

「ガンバレ、ニッポン!」

というディスプレイを貼付けて、それになぜか高円宮典子女王の婚約者である
出雲大社の千家国麿氏がツィッターで

「何を考えているんだ羽田空港は!」

と激怒し、それが話題になったということがありましたね。

日本の国旗をわざわざ足拭きマットにして入館者に踏ませるという、
大変斬新な意向を持つ抗日博物館もお隣の国には現存するそうですが、
そういった人智の及ばぬ常識を持った国の話はさておき、
文字通りの確信犯でこれをやっていたとすれば、羽田空港は、
世界的常識というものについて少し考え直した方がいいと言う気がします。

アメリカ人という連中は何しろ国旗が大好きで、Tシャツを始め衣類は勿論、
ケーキやクッキーなども特に独立記念日には星条旗柄で作ってしまうのですが、
(紺色と赤のクリームを乗せたケーキです。一応念のため)
その愛国ぶりは身の回りのもの全てに及び、さまざまな身の回り品におよびます。

・・・・そう、つまり、あるのですよ。星条旗柄の足拭きマットも。

しかし、そこはおおざっぱなアメリカ人も羽田空港よりは少しは考えていて、
星条旗の☆の数を変えるとか、ストライプを少なくするとか、
とにかく本物と全く同じ柄は決して使わないのだそうです。

普通の国では国旗に対する扱いは「フラッグコード」という法律で決められています。

国旗は国体や国民の象徴であり、
旗が倒されるということは国を、ひいては領土を失うこを示す。
 
という理由から、国旗は絶対に地面につけてはいけないというのが基本です。
日本では国旗を日の丸と定める法律が決まったのはなんと1999年のこと。
日本の国旗以外を損壊すれば犯罪ですが、なぜか日本国旗を
破って継ぎ合わせ党旗にしても、落書きしてデモをしても法には問われません。

こういうのをリベラル国家っていうのでしょうかね(嫌味)


それともたまたま隣に普通でない国が3つあるので
日本人は日の丸を燃やされたり破かれたり食われたり(笑)
国際放送でモザイクをかけられたりすることに慣れてしまい、
国旗の誇りを死守しようとする気概が麻痺してしまったんでしょうか。

まあ、教育現場の人間が断固日の丸には起立しないなんてことが
決して犯罪にはならない国ですからね。


海自が艦首旗を「これは国旗ではない」と言い張るだけで、現行の国旗と
全く同じものを使用しているというのも、厳しく言えば国旗に対する
敬意そのものが「緩いから」という気がしなくもありません。

羽田空港の一件にもあるように、自衛隊の、というよりこれは
現代日本人全体の国旗に対する感覚に若干問題があるのではないかととも思えます。

私見を述べるなら、国旗の扱いが無神経なことはリベラルではありません。
それはアナキズムに通じる無秩序です。



まあ、そういいながらわたしも両旗の写真を撮るのに場所がないので
このときは床に置いちゃっているんですけどね。
うちはしょうがないんです。テーブルの上がいつも物満載になっているので。


ちなみに英海軍やロシア海軍は独自の海軍旗が制定されています。





さて、艦首旗の写真を撮りながら、さっきから何か感じる違和感に気づきました。

手前に繋留している同型の護衛艦に、まず護衛艦旗が立っていない。
そして、なんだか変だと思ったら・・・・・・・・・

そう、この部分、艦番号が上から塗りつぶされているではありませんか。

「退役艦」だ。

わたしはその場でiPadminiを出して検索を始めました。
この写真では分かりませんが、塗りつぶされたナンバーははっきり見えます。

127番。

二ヶ月前の2014年3月13日に除籍になったばかりの 「いそゆき」です。
この日付にピンと来た方はおられませんか?
ほら、そこのあなた、ピンと来たでしょ?
あ、そこのあなたって、わたしのことか。

そうです、2014年3月13日、わたしは岡山の三井造船所で
「ふゆづき」の引渡式並びに自衛艦旗授与式に出席したんでした。

そして、その前日、3月12日には佐世保の三菱造船で、「すずつき」が就航。

つまり、この「いそゆき」は、「すずつき」の就役と同時に、
同じ佐世保を母港とするフネとして退役したということなのです。
一日日付が重なっているのは、やはり退役するフネも自衛艦旗返納などの
儀式をしなくてはいけないので、同時の就退役が無理だからなんですね。

自衛艦旗返納のときにも、儀礼曲「海のさきもり」が演奏されます。 



それにしても、退役したフネというのは、どうして遠くから見ても
なにか「魂の抜かれた」ような生気のない様子になってしまうのでしょうか。
甲板に人が見えていなくても、就役中のフネというのは「生きている」
という気配がするものですが。

これは細かいところ、たとえば旗の有無とか、喫水線とか、武器とか、
現役とは違う風体になってしまっているわけですから、勿論自衛官には
一目瞭然なのでしょうが、全く門外漢から見ても感じるものはあります。

それを一目で察知できるようになったというのは、わたしがそれだけ自衛艦を
数見てきたということなのかもしれませんが・・。



抜けるような青空の下、男の子二人とあかちゃんを連れた
家族が艦艇見学に来ていました。
こんな小さな子供たちに自衛艦を見せにわざわざ連れて来るなんて、良く出来たご両親だなあ。

まあ、わたしと一緒でお父さんかお母さんがお好きなだけなのかもしれませんが。



さて、まずは接岸している退役艦「いそゆき」の中を通り抜けて行きます。
舷門には一人海士くんが立っていましたが、
「いそゆき」の側には人っ子一人いませんでした。

今気づいたのですが、「いそゆき」から「あさゆき」をつなぐラッタルの下には
ちゃんとネットが貼ってありますね。
これは、一般人が訪れるから念には念を入れて、ということなのでしょうか。

それともときどき乗組員が落ちることもないではない・・・・・・・?


そういえば、こんな話をわざわざ暴露するのもファンとして心苦しいのですが、
この落下防止ネットを見て台南航空隊の笹井醇一中尉の話を思い出しました。

笹井中尉が少尉候補生、今でいう実習幹部、つまり練習艦隊乗り組みであったとき、

「舷門番兵を怒鳴りつけんとし
舷梯を踏み外しぶら下がったりするのは
彼の最も得意とするところであった」

なんてことをクラスメートに書かれてしまっているんですね・・・。

舷門番兵が何をしたのかは知りませんが、笹井中尉、怒りに我を忘れ、
ついでに足元を踏み外してしまったと・・。

さすがあだ名が「軍鶏」というくらい気が強くて、教官とでも
気に入らなければやりあったという人物だけのことはあります。

この話を最初に読んだとき、イマイチどういう状況かわからなかったのですが、
このようなラッタルのことだったとすれば合点が行きます。
舷梯を踏み外してもとっさに手すりをつかみ、海に落下するような無様な姿を
部下や同僚に見せなかったのは、さすが後の戦闘機乗りといえましょう。


まあ、笹井中尉だって落ちたことがあるくらいですから、
猿も木から落ちるように()怒りに目がくらんだり、
二日酔いで上陸から帰ってきた乗組員が足元がおぼつかずラッタルを踏み外す、
という事故も決してないわけではないのでしょう。





というとんでもない話を思い出しながら、いよいよ「あさゆき」乗艦です。
退役艦とちがってこちらはここから見ただけでも活気にあふれています。

舷門では舷門番兵が、じゃなくて、えー、今はなんていうのか知りませんが、
舷門番?が、暗くて分かりませんが、爽やかに微笑みを湛えてお迎えしてくれてます。



しかしなんだろうなー。
舷門番に対してそこまで怒るって、何があったんだろう、笹井中尉・・・・。


というところで、次回に続く。



 

護衛艦「あさゆき」見学〜「せきくん」

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佐世保で一般公開されていた「あさゆき」の見学記をお届けしています。

笹井中尉が怒りのあまり足を踏み外した(らしい)のと同じタイプの
舷梯を渡ると、そこには何人かの乗組員が待機していました。

一グループに付き一人が解説のためエスコートしてくれる仕組み。
勿論わたしは一人で行きましたから、エスコートと二人で回ることになります。

ふむ。

合コンもいいけど、自衛官との出会いを望むおぜうさん方、
週末の海自基地ではこのようなイベントも行われているのよ。
あんまり露骨なのは向こうにも退かれると思うけど、
艦内を一周しながら説明したり質問したりしているうちに、
ピンと来るタイプだったら思い切ってアプローチしてみればどうかしら。


などと、わたしには全く無関係の話題から入りましたが、
本来、この佐世保基地艦艇見学、もしチャンスがあればわたしは
付近県在住のみね姉さんをお誘いして一緒に行きたいなと思っておりました。

その少し前に東京でお会いしたとき、

「佐世保に行ったらセイルタワー一緒に行きましょう」

と約束し合ったのですが、何しろ急だったのと、車で1時間の距離を
わざわざ呼びつけるのも憚られたので連絡をしなかったのです。

後から聞いたらこの日はみね姉さん体調が悪く寝ていたということで、
どちらにしても駄目だったことが分かりました。

まあ今回はよかったんじゃないかな。

もしこの二人が一緒に艦艇見学などに行った日には、
解説してくれる自衛官に多大なる迷惑をかけたかもしれないし。(冗談です)



とはいえわたしも別に、隊員を絶句させたり、答えに窮するような
質問を繰り出すほど詳しくも何ともないんですけどね。

わたしの興味はほら、常にハードではなくソフトにあるわけですから。


さて、エスコートのデルタ2曹(仮名)がまず連れて行ってくれたのは後甲板。
ここには 

74式Cアスロック8連装発射機 

があります。 
アスロックと言えば「ひゅうが」や「あしがら」「さみだれ」など、
床設置型のVLSから発射されるVLAは見たことがありますが、
このタイプを見るのはもしかして初めてだったかもしれません。



艦尾側に立ってアスロックを撮ってみました。
アスロックの向こう側はすぐはしご段のついた一段高い甲板です。
この一段上の甲板にヘリポートがあり、格納庫もその奥に設置されています。



さらに、この輪転機みたいなの(これ何だっけ?デコイ曳航機?)の
向こうがわはさらにここより一段低くなっています。
つまり後甲板が三段階段状になっているわけ。


これはどうも「はつゆき型」護衛艦の最大の特色のようです。
ちなみにこの「あさゆき」は「はつゆき型」の11番艦。

11番艦?そりゃまたたくさん作ったものだ、と思われた方、その通り。

この「はつゆき型」は海上自衛隊発足後最初に作られた「はるかぜ型」
(『ゆきかぜ』はその2番艦)などの退役が迫っていたので、
その後継シリーズとしてわずか5年の間に12隻が建造されたものです。
準同型艦も含めると何と20隻の同型艦が建造されたことになります。

1979年からの5年間といいますと、バブル前夜でプラザ合意の1985年までは
日本経済はかなりの不況だった頃です。
この時期の大量護衛艦建造のわけは、先ほども述べた

「自衛逮捕発足当初の艦が老朽化し後継艦の建造が急がれた」

ということが最も大きな理由でしょう。



自衛艦旗ごしに向こうに見えているのは

掃海艇「やくしま」MSC−602。

「えのしま」などの新型掃海艇はFRP素材(繊維強化プラスチック)でできていますが、
これはその前の建造で、やはり機雷に感応しないように木造の船体をしています。

素材がFRPになったので木造製の掃海艇は生産が打ち切られ、この
「やくしま」を2番艦とする「ひらしま型」(ひらしま、たかしま)の
三隻は、海上自衛隊最後の木造製掃海艇となる予定です。

デルタ2曹も「これは前の形なので木製です」と言っていました。



対岸からスピーカーで気勢を上げている一団があります。

「あれ、なんですか」
「さあ・・・・何なんでしょうね」
「こっちにむかって言っているんですか」
「わかりませんね〜」
「基地反対とかいってるんでしょうか」
「かもしれませんけど・・・・」

「政治活動に関与せず」という自衛官の宣誓に忠実に、
このデルタ2曹もまた、全くそのようなことには関心もない様子。

というか、彼らには心底どうでもいいことなんだろうなあ。
いちいち気にもしてられないだろうし。 



そういう意味では日曜日の朝っぱらからわざわざマスクで顔を隠して、
ご苦労さんなことである、何の効果もなさそうなのに、と思っていたのですが、
写真を拡大してみると・・・。

彼らの持っている旗には「築港」とあります。
読み難いですがその下には「福岡」「組合」とあるので、
福岡の築港というところからわざわざ佐世保に来ているようです。

「福岡」「築港」「組合」で検索しても、
「日雇い労働組合」しか出て来ないのですが、このときのシュプレヒコールも
何を言っているのかさっぱり分からなかったので、正体はわかりません。
そもそも海自に向かって叫んでいたのかどうかも不明です。

つまりこの行為、全く意味も効果もないと思われますが、そんなのでいいのか。



このブログ的にはおなじみ、「X」の印のついたドア。
この「X」は艦内閉鎖記号で、合戦準備つまり哨戒配備になると常時閉鎖となります。



これは、アスロックを撮ったのではなく、他に見学者がいたので
(しかも女性だったので)ちょっと撮らせていただきました。



この一団。
若い女性二人、男性一人の三人組でした」。
なぜか案内が付いていないように見えましたが・・・。



大抵の装備に付いては初耳でない、というところまでは
わたしも知識があるものの、やはり実際にそれを毎日のように扱い、
訓練している現場の人の話というのは全く違った意味で価値があります。

すぐにエントリを作成しなかったので忘れてしまったこともありますが、
なかでも印象的だったのが、デルタ2曹が

「現代の艦隊戦は接近して相手を見ながら戦うことなどない。
モニターの上で狙いを定め、まるでゲームのようにその結果を知る」

とその様子をリアルに説明してくれたことで(デルタ2曹は砲員?)
それはつまり「バトルシップ」で浅野がやっていたあれか?
と大変納得がいったわけですが、彼に聞いてみると

「まさにあの映画の通り」

だそうで、一般人としては、そういう現場の人の声を聞くと、
なんかパズルの答えが一致したときのように嬉しくなるものです。



岸壁から撮った艦首旗。(艦首旗ですよ。国旗ではなく)
話しながら前甲板に出てきました。

「艦船乗り組みの方はどこに行くか家族にも言わないんですか」
「建前は言わないことになっていますが、やっぱり結婚してたりすると
全て秘密というわけにもいかないでしょうねえ」
「潜水艦乗り組みほど何もかも黙ってるってことはない、と?」
「ああ、潜水艦はね、本当に言わないみたいですね。
わたしたちですら、なんでここに海自の潜水艦いるの?
と思うようなところにいてびっくりすることがあります」



シースパローミサイル。
「個別対空ミサイル」ってくらいですから、空からの攻撃に対し
防御するためのミサイルなんですが・・・



さっきの話によると対空ミサイルは今時あまり意味がないってことなんじゃ・・・。



発射の瞬間が鮮明に写っています。
こういう瞬間の写真が艦上にも掲げてあったのでそれを見ながら

「すごいシャッターチャンスですね」

というと、

「そんなにスピード速くないからですね」

とのことでした。
そんなもんですか。



62口径76mm速射砲(の後ろ姿)。
ファイバーグラスの砲殻なので、計量だということですが、
オトーメララ社の宣伝ビデオなんかをみてもこの砲殻、
地面に遠慮なくゴンゴン落ちまくってますよね。

「自衛隊は自分たちで全てメンテナンスを完璧にするので、
ペンキもしょっちゅう塗り替えるんですよ」

という話をしていたとき、床を指差して、

「これなんかも砲殻が落ちてペンキが剥げるから上から塗るんです」

いくら軽量小型でもあの調子でばらまかれたら、傷がつくんですね。

ちなみに、自衛隊では100%隊員が掃除もメンテもやりますが、
米海軍は「自分でやらないことも多い」ということでした。

アメリカの学校って、子供に掃除をさせず、清掃員を雇うんですが、
「掃除して居場所を清めることで精神も清められる」
みたいな考え方って、もしかしたら日本独特じゃないかと思います。

横須賀に停泊している米軍艦艇が遠目にもメンテが行き届いていないのは
自分たちの艦は自分たちで綺麗にする、というカルチャーがないからなんでしょう。

「自衛隊はやり過ぎじゃないかと思うことも時々あります」

とデルタ2曹は言っていましたが、いやいや、それは誇るべき海軍伝統の文化ですよ。




説明を受けながらもわたしはとなりの「いそゆき」が気になります。
これは・・・・・何か乗ってたんですよね?

「アスロックですね」
「再利用するんですか」
「いや、単に金属を利用するんだけだと思います。
このはつゆき型というのは退役していく艦ですから、搭載武器を再利用することはありません」
「この艦も近々退役するんですか」
「この艦は補修されましたから、あと10年くらいは現役の予定です」



速射砲は砲身だけ取られてしまい、なんとも情けない姿になっております。

「砲身は消耗品なのでリサイクルします」

そういえば「あしがら」で、筒の内側が摩耗するのでそれをしょっちゅうチェックする、
と言う説明を聞いたなあ。

「ちょっとの摩耗でも何キロも先の目標地点では凄い誤差になってしまいますから」



「退役したフネはどういう扱いになるんですか」
「スクラップにならなければ標的艦になることが多いですね」
「訓練で沈めるんですね。どこでやるんですか」
「訓練海域があるんですよ。そこに艦隊で行って行います」
「実際に艦を攻撃して沈めるなんてことそうそうあるわけじゃないから、
実際に標的艦攻撃の訓練のときって、皆さぞかし燃えるでしょうね」
「燃えますねー(笑)」

会心の一撃でしとめたフネは「やったあああ!」ってなるんだろうな。
海自に入って護衛艦に乗ってよかった、ってそういうときは思うかもしれない。



今日は週末なので艦長はいません。だそうです。



救命筏の下の通路をくぐれば一周です。



ハープーンを真下から。


元のところに帰ってきてふと思い出し、

「救助訓練用の人形はどこにあったんですか」

と聞くと、

「あ、お見せしますよ」

といってわざわざ戻ってくれ、立ち入り禁止用のロープがあるのに

「いいですよ、中にどうぞ」

と通してくれました。

 

怖い(笑)

せっかくわざわざ戻って見せてくれたので、あまり時間をかけては悪いと思い、
急いで写真を撮ったら、暗すぎて画像は実は真っ黒でした。
極限まで明度と最密度を上げてなんとか分かるようにしたのがこれ。

なんとか描かれた目鼻立ちは判別していただけるでしょうか。
くっきりした目鼻、ゴルゴ13のような太い眉。

「誰が描くんでしょうね、こういうの」
「誰でしょうね〜(笑)」
「名前ついてますか」
「え〜(胸の名札を見て)せき、だそうです」
「せきくん、ですか」
「せきくんです」

せきくんって、誰。

 

せきくんに納得してすっかり満足しながら「あさゆき」見学を終わりました。

デルタ2曹は当たり前かもしれませんが説明が上手で、何でも良く知っており、
実に充実した艦艇見学の時間をすごさせていただきました。

ありがとうございました。とっても楽しかったです。



二度と乗ることのない退役艦「さわゆき」を通り抜け、ラッタルを降りたところで
見張りの海士くんが元気に挨拶してくれました。

任務中の自衛官というのは、どうしてこう皆爽やかなのでしょうか。




というわけで・・・・・・まだだ。まだ終わらんよ(笑)


 

 

 

 

佐世保探訪〜セイルタワー見学

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さて、護衛艦「あさぎり」の乗組員のさわやかな敬礼に送られて
(実は写真を撮るために無理矢理敬礼させたんですけど)
わたしは岸壁を後にしました。



さすがは元軍港佐世保。
自衛隊の基地も余った土地をふんだんに使えると見えて、
隊員の厚生棟ビルはわざわざこんな見晴らしのいい高台に建っております。

屋上に自衛艦旗が翻っておりますが、これもまた朝8時に掲揚し、
日没と共に「君が代」の喇叭譜に合わせて降納するのでありましょう。
そのとき、このビルの屋上から見る佐夕日はどのように美しいことか。

この1階には一般の人も利用できる売店があります。
見学の後はぜひ立ち寄ってお土産をどうぞ、とどこかに書いてあったので、
記念品を買うために行ってみることにしました。



写真を撮ってもいいのかな、と少し迷いましたが、
何も言われなかったのでたぶん大丈夫でしょう。
(セイルタワーの売店は写真撮影禁止になっていました。
ネタにするため撮るだけとって買わない人が多いのに業を煮やしたのかも)

それにしても、誰が買うのか。

「鬼監督」「鬼会長」「鬼船長」「鬼艦長」

の「鬼」シリーズ。
これは・・・あれだな。
乗組員一同が艦長にプレゼントしたりするためにあるのかもしれない。

さらにわからないのが

「副会長」「副団長」「副艦長」「副隊長」「副船長」「副監督」

の「副」シリーズ。
だいたい「副艦長」という役職が自衛隊にはあるのか。
「鬼」ならまだ体を張ったギャグで着用する人もいるのかもしれないけど、
「副」は謎だわ。 

でも、ここにあるってことは需要もあるってことなんだろうし・・。



「熊本に海自の基地はないからくまモンの海自バージョンは無い」

とカレーグランプリのときにコメント欄で断言されていた通り、
陸自バージョンのくまモンがここ海自基地でも売られております。
迷彩柄のくまモンバンダナがちょっとオシャレ。

どう転んでもわたしにはこういうの似合わないので買いませんが。



自衛官対象の厚生施設ですから(あやうく更生施設って書くところだった(; ̄ー ̄A )
制服やネクタイなど一切合切売っています。
マネキンがかぶっているのはヘルメットの下に付けるクッション。
かぶり心地を少しでも良くしようとする隊員向け。

ガラスケースの中に黒字に金の自衛艦旗模様のパッチがあるけど
これは何のためのものなんでしょうか。
これかっこいいなあ。次に見たら買おうっと。(何に使うんだ)




買い物を済ませ厚生棟を出ようとしてポスターに気づきました。
省エネ啓蒙、飲酒運転の危険を説くもの、さわぎりカレーが発売されたというお知らせ、
(これ、買って帰りたかったけど、どこに売っているのか分かりませんでした)

そのなかに・・・・・・。

「あなた 見られてますよ」


双眼鏡を覗く自衛官にあなたは今見られていますよ、って?


自衛艦の使用双眼鏡はかなりの高倍率。
見張り任務の際、偶然人のうちの中とか、特にシャワー中の女性とかが見えたら、
ついつい目を凝らして見てしまうのが男性の性。
いや、もしかしたら女性だって好奇心で見てしまうかもしれない。
だからといって覗きは犯罪よ、ってことなのですが、
見られている人に呼びかけてもしょうがないのではないかと思うがどうか。




と相変わらず細かいことを気にしながら外に出ようとすると、
本日休業の理容室に貼られていたポスターが目につきました。

「白髪ぼかし」。

ほおお、たった4分で・・・。
たった4分でシャンプーしても落ちない色に染めるんだ。大丈夫か。
(いろんな意味で)

写真の人はとりあえずあごひげも同じようにぼかしてもらった方がいいと思う。




建物の前のパーキングスペースに停まっていた公用車。
ちゃんと錨のワンポイントが付いているのがさすが海自。
車両ナンバーがなんだか一般のものとは違うような。
確か道交法ではナンバープレートは後ろだけちゃんと付ければいいらしいので、
もしかしたら後ろ側のプレートは一般道用なのかもしれません。

さて、見学も買い物も終わりゲートに向かったのですが、
わたしはこの場をお借りして、倉島岸壁で当日受付にいた自衛官の皆さんに
心から謝りたいことがございます。

わたしが現地に着いたのはたしか10時頃だったかと思います。
写真を撮りながらちんたら歩いて行って、さんざん時間をかけて「あさぎり」を見学し、
そのあと厚生棟であれやこれやと品物を見てお買い物もし、
タクシー会社に配車の手配をするなどしているうちに、
ゲートに着いたとき時間は12時10分になっていました。

そこで初めて、「あれ、これもしかしてわたしを待っていたの?」
と、自分が時間に遅れたことに気づいた次第です。

後からよくよく案内を読むと、「時間内に退出して下さい」と書いてある・・・。

貴重なお昼休みを10分も奪ってしまってすみませんでした。
これから気をつけます。



さて、行きに乗った「ハッピータクシー」をゲートのところまで呼んで、
次は、セイルタワーです。



セイルタワー到着。
って言っても今日来るのは訳あって二度目なんですけどね。

ここは昔佐世保の水交社があったところだそうです。
水交社は明治31年(1981)ここに移転してきました。
海軍士官の懇談、外国士官の接待、及び艦隊乗組士官の宿泊等のための施設で、
当時は三階建ての洋館だったということです。

この写真に見える1階、2階の部分は、当時の建物を一部利用しています。
丸の内や横浜、神戸にも見られる

「当時の趣を残しつつ上に高層ビルを積む」

というあの方式を採用しているんですね。
古いものを遺したい、しかし老朽化したので建てかえなくてはいえない、
そんな願いを一挙に叶える大岡裁きのような建築法です。


水交社の建物は戦後アメリカ軍に接収されていましたが、返還後、
海軍、海自に関する資料を集めた資料館となりました。

ここは・・・・すごかったですよ。

7階建ての建物全てが展示で、今まで行った海軍・海自関係の資料館では
文句無しに最も充実の内容だと断言します。
興味のある方なら丁寧に見て行けば、まる一日過ごせるところです。

「セイルタワーまで」

と告げると、タクシーの運転手さんは

「その後はどうするんですか」
「?」
「せいぜい1時間もあれば見られますから後は観光すればいいですよ」

そして佐世保の見所について懇切丁寧に教えて下さったのですが、
わたしはそれを聞きながら心の中で力強く
いや、わたしはおそらく待ち合わせ時間までの4時間、
たっぷりここにいると思います、と反論していました。

そして、その通りになりました(笑)

それほどここの資料は凄かったのです。


それにしてもこのセイルタワー前面の写真ですがね。
重箱の隅をつつくようだけど、海軍海自の資料館だというのに、
どうしてここには日本の国旗しか掲揚されていないのか。

なぜ旭日軍艦旗が揚げられていないのか。

もしこれがわたしの最も憂慮するところの

「中国人韓国人観光客並び左翼への要らん配慮」

の結果そのようになっているのだとしたら、即刻明日から
旭日旗を高々と揚げていただきたい。

海軍の、そして海自の歴史を紹介する施設だというのに
旭日旗を揚げないとは一体どういうつもりなのか。



と相変わらずこういうことには厳しいエリス中尉です。
これを右翼と云うならいくらでもそう呼んでくれ。
世界ではこれが中道であり常識でもあります。
現存する軍の資料館でもあるのにその軍旗を揚げないなんて国がどこにありますか。


それにしても昔の建物は風格がありますね。
おそらく昔はここは車付けになっていたはず。
今は車いす用のスロープが付けられています。



「セイルタワー」というのは建物の形状(ガラスが波を表しているらしい)
から来た愛称で、正式名称は

「海上自衛隊佐世保資料館」

といいます。
つまりここは防衛省の組織が運営しているんですよね?

しつこいようだけど、誰かここに自衛艦旗を揚げられない理由をご存知ですか?



と思ったらここにあった(笑)

うーん、なぜ外に掲揚しないんだろうなあ。

ここは館内で唯一写真を撮ってもいい場所で、
舵輪と時鐘と海軍旗が置かれ、海自の制服を着て写真が撮れます。

つまり・・・・写真撮影のためにこの旗はここにある、と・・・・。(♯)



入館料は無料。
あのレンホーの行政刷新会議、いわゆる「事業仕分け」の後、
朝霞の「りっくんランド」もその毒牙にかかったことを説明したことがありますが、
このセイルタワーも他ならぬレンホーの指導により、入場料を取るように指導され、
実験的に大人400円、子供200円の入場料が設定されたのだそうです。

その後、入場者が激減したため、3ヶ月でそれは廃止になりました。
そうなることは最初から火を見るより明らかなのに。


だいたい歴史資料館なんてものはどんなに努力しようが

「ディズニーランドのようにリピーターが後を絶たない」(by仕分け人)

というような賑わいを見せるようなものではないことくらいわからんのか。


と、あの帰化議員の話になると血圧が上がってしまうエリス中尉。
超低血圧なので(上が100あるかないか)多少上がった方がいいんですけどね。
それはともかく、この日も日曜でしたが館内は静かなものでした。

何人かでわいわいやっているかと思うとそれは日本人じゃなかったり。
中国人のグループ、韓国人の家族、そしてなぜかインド人がいました。

ちなみにわたしはこのインド人に声をかけられ展示物についての質問をされましたが、
それはもしわたしがこのブログをやっているような人間でなければ
答えることが出来ないような、ある意味ディープな内容でした。

聞かれた内容は時間が経ってすっかり忘れてしまいましたが(; ̄ー ̄A 


展示はたとえば一部屋がまるまる旧海軍の軍服や装備だったり、
先日お話ししたm深川製磁製の聯合艦隊用食器セットを並べていたり、
遺墨や遺書あり、写真、パネル、模型、音声やゲームなどで、
完璧に海軍と海自について、そしてそれらが係ってきた歴史を知ることが出来ます。

一番上の階は映画館になっており、エンドレスで二本の映画をやっていて、
それを見て予習をしてから見学を開始するという仕組みになっています。

映画のうち一本は、三宅由佳莉3曹のデビューの頃の映像が見られました。



ところで、映画を見終わって6階に下りてきたとき、
(観覧者はまず7階に上がって、階段を下りて行くきまり)
わたしに声をかけるおじさんがいました。
なんと、さっき倉島岸壁からここまで乗ってきたタクシーの運転手です。

「シートに忘れていたので持ってきました」

彼が手にしているのはわたしの帽子ではありませんか。
なんと、客の忘れ物をわざわざ届けてくれたのみならず、
エレベーターで上がってきてわたしを探し出し渡してくれたのです。

「わざわざここまで持ってきて下さったんですか・・・・」

驚きと感激で絶句するわたしに

「この後も楽しんで下さいね」

と言い残して去って行った運転手さん。
その後ろ姿はロバート・デ・ニーロより素敵に見えました。
皆さん、佐世保に行ったらハッピータクシーがおススメです。
たとえ忘れ物をしてもちゃんととどけてくれます。


というかタクシーに忘れ物はしないようにしましょう。




セイルタワーから下を見下ろした景色。
前の敷地も自衛隊なんですね。



ところで。


旧海軍の軍服が飾られている部屋の前で一人で展示を見ていたとき、
左手に人影が見え、軍服の部屋に入っていくのを目の端に認めたのですが、
その直後その部屋に入ってみるとそこには誰もいませんでした。

たぶん・・・気のせいだとは思いますが。



敷地内には旧軍の銃も展示してあります。
これは

山内短五センチ砲


礼砲については先日練習艦隊のエントリで説明しましたが、
あの、礼砲です。

これは、平成22年と言いますから4年前、佐世保の三浦地区で、
工事現場から発見されたものだそうです。



自衛隊の父兄会とコンパス21という団体が一緒に植樹をしたようです。

コンパス21とは、佐世保の若手経営者と佐世保勤務の若手自衛官の交流会で、
他の自衛隊のある地域でも珍しい、歴史のある交流グループなのだそうです。



そうこうするうちに、佐世保駅での家族との待ち合わせまであと1時間となり、
またまたハッピータクシーに配車をお願いしました。
(その電話のときに先ほどの運転手さんへの感謝の意を伝えておきました)

ところで、車に乗るときに入り口を見たら受付のおじさんが二人とも出てきて、
わたしが車に乗り込むのを見ていましたが、あれはなんだったんだろう。

「1時間もあれば十分」とされるセイルタワーを一人で4時間も見学したので、
もしかしたら何者かを怪しまれたのかもしれません。

そういえば見学しているとき、何度も係員が館内見回りにきてたなあ。


実際に貴重な歴史的資料がふんだんにおさめられていて、金銭的価値はなくとも
マニアには垂涎の、つまり盗難の心配のあるものもたくさんあるわけですからね。
人目のない空間でマニアが宝の山に出来心を起こさないとも限りませんし、
そこまでいかずとも写真撮影をこっそりする輩もいないともかぎりません。


展示内容が内容だけに、火をつけられる可能性もゼロではないでしょう。

彼らから見たら一人でやってきて長時間滞在する見学者は一応
「疑ってかかれ」というマニュアルがあったりするのかもしれません。


さて、わたしは疑われたとしてもある意味当然、倉島岸壁からここに来て
夢中で色々見たりゲームしたりしてお昼ご飯も食べていなかったんだった。

ちなみにこのテレビゲームですが、海軍バージョンと海自バージョンがあって、
三択質問に全問正解したら、海軍版では大将、海自ゲームでは海将になれます。
大将、海将になれると

「驚きました!」

というコメントをくれるのでつい嬉しくなってつい何度もやってしまいました。
このクイズで初めて知ったこともいくつかありましたよ。

それはともかく、そういうことなのでお昼食べてません。
お腹空いた。何か食べたい。佐世保らしいものを。

「佐世保駅周辺で佐世保らしいものを食べたいんですが」

運転手さんに相談してみました。
さすがはハッピータクシーの運転手、即座に

「それなら佐世保バーガーだね。有名なところが駅にも店を出してますよ」
「じゃ佐世保駅に行って下さい」

 

この運転手さんも

「どこから来たんですか」

に始まり、色々と町中の説明をしてくれます。
ハッピータクシーに限らず、観光地の運転手はそういうものなのかもしれませんが。

「これが佐世保鎮守府だったところです」

佐世保地方地方総監部の建物はレンガの塀が実に立派です。
佐世保総監は先日地方総監が交代しました。



離任した吉田正紀海将が深川製磁で揮毫した壷も、
ほら、本ブログにはすでにアップされているんですね。


吉田海将の後任である池田徳宏海将の壷が並ぶのもすぐでしょう。



佐世保駅に到着。
運転手さん曰く、人気の佐世保バーガー店がここに出店しているとのこと。

いざ試さん、佐世保バーガー!


続く 。



佐世保探訪〜佐世保バーガーと護衛艦「きゅぴしま」

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さて、佐世保探訪シリーズも最終回となりました。
コメント欄では佐世保を知る読者の皆さん(二人だけど)から
連日熱ーい「佐世保で押さえておくべき情報」が寄せられています。
というわけで、わたしなりに

「佐世保ネイビーツァー」

を計画してみました。

1日目、ハウステンボス泊。
   到着と同時にハウステンボス内観光。
   海軍兵学校針尾分校跡の見学。

2日目、朝ハウステンボス、昼は針尾通信塔の見学
   夜は佐世保に移動、弓張の丘ホテルチェックイン。
   夕食、皿うどんorレモンステーキ
   自衛官のエスコートがあれば基地内「ギャラクシー」で一杯
   なければ基地の外のその手のバー
   米海軍の軍人が良く来る、いわゆる「外人バー」はたくさんあるらしい。

3日目、朝10時から一般公開の艦艇見学
   昼は「ふくろう」のカレーor佐世保バーガー
   セイルタワー見学(時間は好きなだけ)
    佐世保駅利用者は、ログキットの佐世保バーガーを食べてから出発

なお、余力があれば有田の深川製磁本店で海軍関係の陶磁器見学。
本店の二階は(揮毫壷のあったところ)は一般公開しているので、
(たぶんですけど)誰でも見られます。 
水族館と九十九島も入れたいところですが、そうなると三泊コースですね。 




さて、今日は佐世保で購入した記念品のことをお話しします。

まず、佐世保地方隊の倉島岸壁にある厚生棟売店。

ここで買ったものは、

1、海上自衛隊礼式参考書(300円税別)



このコーナーには、自衛官の試験のための問題集など、
確かにここでしか買えないものがたくさんあって、どれも欲しかったのですが、
どれもせいぜいブログネタにするくらいしか用途がないので、一つにしぼることにし、
その中でも最も汎用性があると思われるこの「礼式参考書」を購入しました。

この旅行のときには、晴海埠頭で行われた練習艦「かしま」での
艦上パーティの予定はすでに決まっていましたが、まさかその後の
練習艦隊出港式まで参加が叶うとは夢にも思っていなかったのです。

礼砲に始まって、と列員のことや自衛艦旗掲揚降下のこと、
この後にお話ししたことは皆これに書かれていました。


因みにその後、この参考書に「帽振れ」が書かれていないのは、

「帽振れ」は礼式に規定されたものではなく、伝統様式であるから」

だったということが分かりました。
このとき、小説「帽振れ」があるということも教えていただいたのですが、
ほとんど同時にM24さんに全く同じ小説を紹介して戴いたので驚いたものです。

礼式参考書を買ったこともそうですが、一つのことに意識をフォーカスしていると、
情報が時々線を結ぶのかこういった偶然が多々起こって来るようです。



皆さんにはもうご紹介済み、2、サイドパイプ。(1400円くらい?)
1回だけ吹いてみましたが、その後放置してあります。




3、佐世保基地パッチ。

この手のもの、ついつい見るとなにかしら買ってしまうのですが、
増える一方で何かに付けたためしがありません。

そもそも取り付け方が分からないんですけど、
やっぱり糸でちくちく縫い付けるんでしょうか。

そういえば曹・士が自衛官になって最初にする仕事はお裁縫らしいですが、
やっぱりこういうものも、もれなく縫い付けたりするんですか?



4、「しらせ」のバッジ。

2センチくらいの小さなものです。
「しらせ」は護衛艦ではないけど、仮にも海軍所属の艦艇が
こんなかわいらしいペンギンをマークにしているとは・・・・・。

海上自衛隊の萌え攻撃力恐るべし。


「しらせ」と言う艦名ですが、これを日本の陸軍軍人であり、
最初に南極に足を踏み入れた

 白瀬 矗(しらせ・のぶ)中尉

の名前にちなんで付けられたと思っていたあなた、実はこれ、違うんですよ。
自衛艦は人の名前を付けることはしません。
たとえ南極大陸に最初に到達した人間であっても、軍人ならなおさらです。


「自衛艦の名称等を付与する標準」において砕氷艦の名称は、
「名所旧跡の名」とされています。
したがって、砕氷艦の「しらせ」は、

「白瀬中尉ではなく、白瀬の名を取って付けられた南極の
『白瀬氷河』から取ったものである」

と海上自衛隊では言い張っているのでした。(笑)
氷河が名所旧跡なのか?という疑問はともかく、
これで規則に準拠したことになり、例外を設けずにすんだわけです。

5年前の2009年に就役した「しらせ」は、当初艦名を公募したところ
対象から外されていたにもかかわらずこの名が2位になり、
秋田県にある白瀬中尉の出身村から嘆願書が届いたため、
「国民の熱意と受け止めた」として、この名前に決定されました。


自衛隊も実は「しらせ」にしたかったんじゃないかという・・・。

 



「着きましたよ。佐世保バーガーはあそこです」

というわけで、来たぜログキット。
この右側の看板は、故やなせたかし先生の作品だそうです。

タクシーの運転手が指差す方に行ってみると、飲食スペースはなく、
カウンターで作ったものを売るカウンターになっています。

立って食べろというのか。
お店の人に聞くと、

「向こうにショッピングモールのテーブルがありますよ」



シアトルコーヒーで飲み物を買い、ベーコン抜きのチーズバーガーを
テーブルに座って味わってみました。

美味しい!

かねてから名前だけは聞いていたけど、これほど美味しかったとは。
店舗の前にパネルがあって「まいうー」の人が満面の笑顔で写っていましたが、
この際全く同じことを今叫んでもいい、とわたしは思いました。

「佐世保バーガー」とは決まったスタイルがあるわけではなく、
それこそ店舗によって味も色々だし、お店のメニューも非常に多いもので、
つまり、

佐世保で食べる手作りバーガー

これを即ち佐世保バーガーと称するらしいです。
だから、高円寺にあったりするのはすでに佐世保バーガーではないのです。

何か特色があるとすれば、巷のハンバーガーチェーン店と違い、
注文を受けるごとに一から作って、作り置きをしない、という新鮮さにあるようです。

佐世保バーガーは横須賀バーガーと同じく、進駐軍のアメリカ人からもたらされ、
1999年、横須賀で旧軍港町(呉・舞鶴・佐世保・横須賀)による物産会が行われ、
佐世保から郷土料理として市内のハンバーガーが出店したところ、
佐世保勤務経験のある自衛官のあいだで「懐かしい」とこれが大好評。

この人気ぶりを見て、佐世保市が 郷土料理としてのハンバーガーを
見直し、広めていこうと「佐世保バーガー」という名称を公的にも
使用するようになったのは2004年のことだそうです。 


2007年には「佐世保バーガー認定制度」もできました。

アメリカで「日本の正しい寿司を広める」ことを目的に日本政府が制定しようとした
「スシポリス」みたいなもんですかね。

この認定制度は「独自性・主体性」「信頼性」「地産地消」「手作り」
等の項目を審査し、合格した佐世保市内の店舗に限り
「佐世保バーガー認定店」の印が与えられるのだとか。
認定店には「バーガーボーイ」のシールが貼ってあるそうです。

各店の品質向上のためにいい制度だと思うのですが、これに照らすと、
ファミリーマートで展開していた「佐世保バーガー」は、
佐世保バーガーではない、ということになります。

ちなみに「スシポリス」は、LAでインチキジャパニーズ寿司を経営している
コリアンのシェフ団体が「大反対」したため、実地には至りませんでした。

 

食べ終わった頃、息子とTOがハウステンボスから到着しました。
わたしが奨めるままに彼らも一つずつ注文し、案の定二人とも
美味しい美味しいと大騒ぎ。

「もう一つ食べたい」

と息子が言い出し、もう一度買いに行くという熱心さです。



息子は急遽気が変わってタコスにしたようですが。
これも「無茶苦茶美味しい」とのことでした。

因みに先日、わたしが

「もう一度佐世保行きたいなあ。
弓張りの丘ホテルに泊まって、窓から佐世保港の夕焼けを見たい。
ハウステンボスも行ってみたいし、針生の通信棟も・・・」

というと、彼は

「俺も。佐世保バーガー食べたいから」

と言っていました。
彼に取っての佐世保はこのバーガーだったようです。



セイルタワーで買っておいたお菓子をついでに味見してみました。
5、佐世保ボーロ。
柔らかい食感のたまごボーロという感じのお菓子です。



そうそう、セイルタワーではこんなものも2揃え買ってしまいました。
6、今や珍しくなった金属製の海軍マーク入りカレー皿。




錨のマークがお皿とスプーンに付いています。

帰ってから一度これでカレーを食してみました。
物珍しいから買ったものの、あまり実用には期待していなかったんですが、
思ったよりもスプーンの当たり具合が良く、悪くない使用感です。




そして、これ。

THE SELF DEFFENCE FORCE

という、正しいような正しくないような表記が付けられた

7、海上自衛隊限定キューピーGROBAL PEACE

グローバルピース、ってのがこの護衛艦の名前なのかしら。
よくわからないけど。

一目見てこのキュートさにしてやられ、買ってしまいました。



なぜ護衛艦がキューピーなのか、キューピーが護衛艦なのか。
全てがシュールです。

艦橋の中央に見える白いのは、おそらく航海用レーダー、
キューピーの額はにあるのが・・・・・なんだろう。

もしかして、CIWS?




そして見よ。

ちゃんとイージスシステムである証拠にSPY-1Dレーダーの、
パッシブフェーズドアレイタイプが4枚あるのです。 

黒いのはおそらく第1、第2煙突であろうと思われます。



これ・・・・・こんごう型ですよね。
 
 

そう思えば、きりしまに似ていなくもない。後甲板ないけど(笑)

それではこのキューピー搭載型護衛艦を、

「きゅぴしま」JS−KYUPISHIMA DDG- 0.0000174

と(たった今)名付けることにします。
艦番号の縮尺サイズは適当です。 

 


というわけで佐世保の旅が終わりました。



ハウステンボス号で、空港のある福岡まで行きます。



帰りはグリーン車にしました。



一つ一つの席が新幹線のより大きくて広く、とても楽でした。

初めて行きましたが、佐世保、さすがは海軍の町だっただけあって、
あらゆる点で当方との相性は抜群。

また、必ずここには行きたいと心から思いました。
カレーに皿うどん、まだ味わっていないものもいっぱいあるし。

それまで待っててね、佐世保。




 

中国共産党の「三戦」と「アンネの日記切り裂き事件」

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久しぶりに国際情勢についてです。

わたしはこの2年の間に自衛隊の元幕僚長二人、現役海将一人が
中国問題について講演したのを聞きました。
自衛隊の上層部だった演者によく求められる演題のようです。
現在の対中国情勢については、特に自衛隊のトップならではの
情報を聞きたいと社会が望んでいるということでしょう。

その講演内容には中国共産党の
「三戦についての実態」
が必ず盛り込まれていました。

三戦は、平成21年度防衛省の「防衛白書」、
「我が国を取り巻く安全保障環境」のなかの
「諸外国の国防政策第3章中国」にこのように解説されています。

中国は03(平成15)年、「中国人民解放軍政治工作条例」を改正し、
「輿論戦」「心理戦」および「法律戦」の展開を政治工作に追加した。

・ 「輿論戦」
  中国の軍事行動に対する大衆および国際社会の支持を築くとともに、
  敵が中国の利益に反するとみられる政策を追求することのないよう、
  国内および国際世論に影響を及ぼすことを目的とするもの。

・ 「心理戦」
  敵の軍人およびそれを支援する文民に対する
  抑止・衝撃・士気低下を目的とする心理作戦を通じて、
  敵が戦闘作戦を遂行する能力を低下させようとするもの。

・ 「法律戦」
  国際法および国内法を利用して、国際的な支持を獲得するとともに、
  中国の軍事行動に対する予想される反発に対処するもの。 


いきなりですが、少し前に日本の公立図書館や書店などで、
抑圧されたユダヤ人の象徴となっているアンネ・フランクの(とされている)
著書「アンネの日記」が相続いて破られるという事件がありました。

いずれもこの書が特定されており、しかもアンネの写真の部分は、
写真に撮られたときにわかりやすいようにわざわざ残されていることから、
わたしはすぐさまこれを

「日本人がユダヤ人を嫌って迫害するような民族である」

ということに見せたがっている者、あるいは団体の仕業だと疑いました。
おりしも韓国の朴大統領がアメリカやヨーロッパで
「日本の軍国化」を訴える「告げ口外交」の最中でしたから、
それを後押ししたい民族団体か、と当初思ったからなのですが・・。



そうしたら、続いて同時期にこんなことがありました。

習近平のドイツ訪問です。
これはおそらく2月以前には決まっていた話でしょう。
実際の訪問は3月末だったそうですが、習近平はそれに先立ち、
ベルリンのホロコースト(ユダヤ人大虐殺)記念碑を訪問して
記者会見を開きたいと要求したのです。

ドイツはこの申し入れを拒否しました。

中国の狙いはナチスの暴虐についてドイツを非難することではなく、
むしろ戦後「謝罪した」ドイツを褒めちぎり、「それに比べて」と、
日本を執拗に批判することにあるというのは明白でした。


ともあれドイツがマトモな国だったので近平の野望は潰えましたが、
そこで思い出していただきたいのが「アンネ切り裂き事件」の時期。

事件は、2月に急激に都内で発生しています。
一番多かった杉並区内では被害館・被害店数は11。損害した本は総数300冊余。
いずれも東京都下に集中しており、同一犯、同一団体の犯罪であろうと思われますが、
わたしは、「この時期に何者かがその指示を受けてそれをすること」によって、
誰が得をするだろうか、と考えていました。

習首席の訪独が決まり、

「ホロコースト記念碑の前で日本の軍国主義を非難する」

という素敵なアイデアが決まったら、次は日本がかつてのナチスのように
ユダヤ人を嫌悪する民族主義が先鋭化している、という空気を
醸成するとなお一層効果的ですね。(中国共産党的に)


とにかく事件をでっちあげ、日本のマスコミに騒がせることができれば
世界に飛び火し、取りあえずは

「ネオナチによる犯行」=「日本の右傾化が背景」

が一丁上がりです。
(現にメディアは犯人が捕まる前からこの調子で画一的な報道を行った)

わたしがこの件は朝鮮半島ではなく、共産党から指示が出ていたと見るのは
こういった流れが「仕組まれていた」ように見えるからです。

習近平と中国共産党の思い描いた美しいストーリーは

「ホロコースト記念碑の前で、ドイツの『反省と謝罪』を褒めちぎり、
アンネの日記を破ることに象徴される、日本で勃興している軍国主義と、
ネオナチの台頭を助長しているのが安倍晋三であると非難する」

というものだったのではないでしょうか。
つまり

戦争中の日本の残虐行為に焦点を当てることで、
安倍政権の軍備増強や地域の覇権国家を目指すという野心を打ち砕きたい。
日本の戦争犯罪について語れば、中国の軍事力拡大と
地域の覇権に対する野望を正当化し、注意をそらすこともできる。
(ニューズウィーク紙)

これが中国の狙いだったのです。

それにしても。

中国の外交は老獪で先をているというのが定説になっていましたが、
言わせてもらえば案外たいしたことないですね。
なぜならこの件で中国は二つの点を全く読み違えているからです。

第一に、ヨーロッパでは

「第二次世界大戦について語るな」

というのが、外交を巧くやるための不文律になっているというのに、
たとえそれを褒めちぎるためであってもドイツ人に取って触れられたくない
(下手な言動をすると大変なことになる)古傷であるナチスを引っ張り出そうとしたこと。
これだけでも何とも外交センスがないといえます。

第二に、日本にはユダヤ人を迫害するどころか、嫌悪する土壌もないということ。
迫害どころか日本は当時のナチス政府とやりあってまでも

「人種の迫害は八紘一宇の精神に反する」

といってユダヤ人を匿ったというのは歴史が証明するところです。
当時亡命してきたユダヤ人は
日本では国を挙げての同情を集め、小さな子供が

「自分のおもちゃをユダヤ人の子供にあげてほしい」

と寄付をしたことが美談として記事になるような国だったのです。

中国共産党の情報部は、もう少し歴史を勉強した方がいいですね。
「歴史を忘れた民族に未来はない」でしょ?


ここでまた冒頭の話に戻りますが、「三戦」です。

こういった我々日本人には道義的にどん引きしてしまうような作戦を
中国共産党とは真剣に現在進行形でやっているわけで、それでいうと
この「切り裂き事件」が「三戦」のうちの「輿論戦」、つまり

「中国の軍事行動」(日本に対する現在進行形の侵略)に対し、
「 中国の利益に反するとみられる政策を追求することのないよう」
(自国の侵略行為を非難される前に相手が侵略してきたと主張する)
「国際世論を味方につけ」(ドイツと比べて日本を非難し)

るという作戦のための「ムード醸成」であった可能性もあります。

2月に急に始まり、しかも一人や二人の手では不可能な件数発生していること。
事件が公になり監視体制が各施設にできたこともありますが、
「犯人」として逮捕されたのはたった一人で、しかもその供述が
民族主義とも何とも関係なく、非常にあいまいであること。
そして習近平の「ホロコースト施設慰霊」がドイツに拒否されたのと、
事件の発生が途絶えたのがほとんど同時であること。

これがそう考える理由です。

その後38歳の男性が逮捕され、その情報も詳らかにされませんでしたが、

「マスコミが逮捕された犯人の名前を報じない」

ときは、それが朝鮮人・中国人のどちらか、あるいは中国か韓国に
都合の悪い結果であったというのは前例の示す通り。

だから勿論これが韓国の指示で行われた可能性もあり、
ネットではほぼ心証的にそのように言われているようです。

片山さつき議員も、この事件に関して

「アングレームに乗り込んだ韓国チョ女性家族部長官は、
ユネスコ事務局長に、2月2日
『アンネの日記は世界遺産登録されている』
と従軍慰安婦の被害記録の登録を主張したそうです。
そして、都内でアンネの日記が図書館被害」

とツィートしています。
つまりこちらに対する「掩護射撃」の可能性も捨てられません。

いずれにしても中山成彬議員がツィートしたように

「瞬間日本人の感性ではない、日本人の仕業ではないと思った」

というのにわたしは賛同します。
さらに中山議員は

「ディスカウントジャパンに精出す国、安倍総理をヒットラーに例える国もある」

と、暗にこの両国のどちらかが事件の影にあることを指摘しています。



この切り裂き事件に対し、イスラエル政府は当初不快感を示しましたが、
すぐに菅内閣官房長官が

「わが国として受け入れられるものではなく、
極めて遺憾なことであり恥ずべきことだ」

と言う声明を出し、安倍総理は欧州訪問に際し
アムステルダムの「アンネの家」を実際に訪れ、

「大変残念で、二度と起こらないように希望する」

と事件の収拾に努めました。

そして、何よりも事件が世界に「日本の軍国主義の台頭」という、
中・韓の期待するイメージを伴って広まらなかったのは、即座に図書館に
本を寄贈する者が現れるといった日本国民の対応のおかげでもあります。

とりわけ亡命するユダヤ人に6000人分の「命のビザ」を与えて
それを幇助した日本の外交官、

「杉浦千畝」

の匿名で図書館に「アンネの日記」の寄付があったことは、逆に
このような人物が日本にいたことを想起 させることになりました。


日本はこの件ではいつの間にか勝利していたというわけです。
どちらにに対してかはわかりませんが。




 

空挺レンジャー教育〜基礎訓練

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習志野駐屯地の空挺館でレンジャー徽章を付けた隊員を直に見て、
そのときの写真と説明を受けて思ったことを先日記事にしましたが、
記事を書くために「空挺レンジャー」というDVDも観ました。

2014年現在の日本でこれほどの体力的、精神的に過酷な訓練と条件を経て
得られる資格はおそらく他にないかもしれません。
それだけに一般人の「レンジャー」に対する関心は高く、あらゆる神話が
ネットの世界でも飛び交っているようです。

曰く、

「レンジャー隊員は3階から下りるとき階段を使わず飛び降りる」
「地元のヤクザですらレンジャー隊員には恐れをなしている」
「サバゲに一人でも入るとゲームが成立しない(普通科でも)」
「師団長直轄の独立部隊 対馬警備隊、西部方面普通科連隊
(日本の海兵隊?)の供給元」

自衛隊に入隊した中でも他よりちょっくら体力自慢、くらいの「普通の男の子」
が、どうやってこの特殊集団となっていくのか。

(空挺館にぼーっと警備のため立っていた子も実に普通だったけど・・・・)

そこで訓練過程を追ったドキュメンタリー「空挺レンジャー」を観ることにしました。



まず

レンジャーとは軍事用語で

「敵の勢力圏に隠密に潜入、潜在をして、奇襲攻撃や破壊活動を
任務とする、特殊な訓練を受けた兵士、またはその集団」

です。



旧日本軍においても「パレンバン・メナド降下」「義烈空挺隊」
などのレンジャー攻撃に類する戦法が行われました。
これを旧軍では「挺進奇襲」「斬り込み」と言います。

レンジャーの「事始め」は、昭和31年、米陸軍で研修を受けた陸自隊員が
主体となって研究過程を起こしたというものです。

このDVDは、陸自の空挺教育隊の訓練を追ったものです。



4月に習志野駐屯地では創立記念日である駐屯地祭が行われますが、
(わたしは今年天候が不安だったので参加断念しました)
ちょうどこの頃、レンジャー過程の春の入校式が行われます。

挨拶する隊長の幹部自衛官。
幹部と陸曹が一緒に訓練と資格試験を受けるのがこの過程の特徴です。
編成は30名、2尉3尉の幹部、2・3曹から成っています。



君が代斉唱。
全員がトップを残しサイドを借り上げたクルーカット。
「GIカット」とも言うように、世界共通の「軍隊カット」です。

と思ったら前列1番右にわりと普通の長さの髪をした、
しかも違う色の制服、ブルーなので空自の隊員がいますね。
空自も「航空救難団」はレンジャー資格を取得していることが多い、
という話なので、そのために「越境入学」してきたのかもしれません。



早速習志野での訓練開始。
飛び出し塔(跳出塔?)から生身で飛び降り、その瞬間
隊員たちがロープを引いて地面に落ちないようにするとか。
この写真ではよくわかりませんが、両側で引っ張っている隊員が
握ったロープの先には、飛び降りた隊員がいます。
何か事故があってロープが撓んだら、両手両足を延ばして飛ぶ隊員は
そのまま地面に腹部を激突させて即死です。

これ前も書いた気がするな。まあいいや。



コンクリートの頂上からロープを伝って駆け下ります。
おそらく降りる方は垂直の壁に思えるに違いありません。



うわーいかにも陸自タイプ〜、と思ったのですが、
この2佐は空自の救難教育隊長でした。
先ほどの空自の制服はやはり「依託教育」で預けられていたのです。

「有事の際に必要な訓練と、陸自の不撓不屈の精神を学ばせること」

とその依託させる目的を語っています。



自衛隊ではなんだかんだ言って体力のある者が尊敬される、
と聞いたことがあります。

およそ一ヶ月、まずはレンジャーとしての基礎訓練から。
まずは体力向上運動、つまり体力調整は徹底的に行われます。
それこそ神話になるくらいに・・・・。



銃を肩に担いで両足を交互に前に出す。
これ、「ライジング・サン」で図解説明されてましたね。
後ろでは腕立て伏せをやっているようですが、
左の隊員は下半身全部が地面に付いてしまってるぞー。



銃を胸の高さに持ち、それを左右に振る。
それだけのことがこれだけきついとは・・・・。



しかも上から持っている。
これは辛いだろうなあ。
万が一落としでもしたら

「陛下の銃を取り落とすとは軍人精神がなっとらん!」

といって罰直・・・・はさすがにないと思いますが、
どちらにしても猛烈に叱られそうです。



本当にキツいのを我慢している人の表情。
見ているだけでこちらも辛くなってきそうです。

なのにああ無情、助教と云われる補助教官の

「休んどるのかあ!」

という叱咤が横から遠慮なく飛んできます。



基礎訓練の一環、青木ヶ原樹海での地図判読。

ところで青木ヶ原樹海は戦後10年くらい経ってから自殺の名所となり、
現在でも年間数名の自殺者の遺体が収容されているところです。
これ、樹海の中で地図を判読していて、やぶぁいものを見つけてしまったりとか、
そういうことってないんだろうか、と思ったらこれ結構あるらしいですね。

そういうときには、「管轄外」なので一応対処は警察にお任せすることとして、
テープを現場から樹海の小道まで引っ張って目印にし、通報するのだそうです。

そして、帰隊後には入室する前に塩で穢れを清めるのだとか。




爆弾に火をつけて爆発させる練習。

「慌てんなしっかりつけろ!」

指示が思いっきり巻き舌で怖い。
火はライターでなくマッチで付けるようです。

この後導火線を敷き、離れた囲いの中から爆発を確認。
木が弾け飛ぶ様子に思わず歓声があがります(笑)



座学というやつですか。
皆こういうの苦手そう。というのは偏見かな。



お待ちかね、サバイバル教育。
さすがにここでは鶏を捌くくらいに留まっております。



ちょっと蹴爪とかが見た目何ですが、潰したての鶏を直火で焼いて
そのままかぶりつくのは結構美味しいのではないかと。



空挺団降下始めでもおなじみのリペリング。
こんな初期の訓練から行うんですね。
いつも思うのですが、これ、命綱とかありませんよね?
手を離してしまったら落ちるんですよね?



自己防衛訓練は、水に落ちたときを想定して、プールに
飛び込んでから水中で靴を脱いだりしています。

実はわたし、この忙しい中朝霞の陸自駐屯地に遊びにいってきました。
(それについてはまた詳細にお話しするつもりです)
もとパイロットだった1佐に基地内を案内してもらったのですが、
「りっくんランド」で展示してある航空靴を

「サイドにファスナーがついているでしょう。
これは、海に落ちたときにまず脱げるようになんですよ。
わたしもこれを履いていました」

とおっしゃったとき、この訓練を思い出しました。
まず水中で靴を脱ぐ訓練をするんですね。



プールエンドで休憩している訓練生を、水中眼鏡の助教が

「さぼるなー!」

と引きはがし、また水に沈めています。
このプール、どうやら底に足がつかないくらい深いみたいですね。



そしてアメリカ海兵隊の訓練でもおなじみ、障害走。
習志野にはちゃんとこういう障害コースが常備されているのです。


朝霞駐屯地で見たあの「クリークみたいなの」は、もしかして
こういう障害走のコースだったんだろうか、と思い、
これも1佐にお聞きしたところビンゴでした。



登るだけでも大変そうな高い壁。
あとはロープを登ったりネットを乗り越えたり、
丸木を渡ったりというコースをぐるぐると回ります。



おなじみ匍匐前進。
歩兵と云えば匍匐前進、匍匐前進と云えば陸自。
というくらい旧軍の昔からおなじみです。
駐屯地見学中もまさにフィールドで匍匐前進の訓練をやっていました。

地上20センチにワイヤーを張られては匍匐前進するしかありません。

基礎教育の目的は一に体力二に精神力三四が無くて五に持久力。
学生は教育機関中二人一組で「バディ」を組み、
お互いに協力し合って訓練を乗り切ります。


89式銃を持っての10マイル(16キロ)走。
助教といわれる補助指導員も一緒に走りますが、大きな違いは
助教は銃を持たずに走ること。
真ん中の隊員は銃ではなく隊旗を持たされています。



バテて首がグラグラになっている訓練生。
そんな訓練生の横にはピタリと助教が付きます。



倒れ込んでしまった者の銃を持ってやる助教。



手をつかんで引きずり起こし、ご無体にもまた走らせます(笑)

「レンジャー訓練は大きな男のクラブ活動だ」

という至言を今回検索過程で見ましたが、まさにその感じ。
厳しい体育会系の運動部の訓練を見る感じです。
陸自の飲み会が「体育会系そのものであることを始め、
その体質がやたら体育会系っぽいのもこれを見れば納得です。

もっとも、その目的が「戦闘」であること、そして
「給料をもらってやっていること」が決定的に違うわけで、
それはとりもなおさずその「耐え抜く姿勢」に表れています。

今回訓練を耐え抜いた自衛官は、このあとはそれを
指導する側として「耐え抜かせる」側になっていくというわけ。
(まあでもこちらは気分的にもかなり楽しいんではないかと思う)



「担当教官の補佐が助教の任務であります」

空挺教育隊学生隊の助教である2等陸曹が助教について説明しています。
彼の胸にはシルバー?のレンジャーバッジが輝いていますが、
わたしがこの1月に空挺館でお見かけした保持者のバッジは 



紺色(黒かな)でした。
どうもこれが基本のレンジャー徽章みたいです。
助教レンジャーの付けているのは防商連(委託売店の組合)か防衛共済あたりで
礼服用に販売されているものみたいですね。

助教レンジャー氏、カメラに向かって語りながら目が泳いでいますが(笑)
他にインタビューを受けていた幹部自衛官と違って、内容を箇条書きにして
カメラレンズの下方に置いて読んでいるのが丸わかりです。 

こういう任務にはあまり慣れていないと見た。



次回、山中訓練への資格を得るためのテストに付いてお送りします。








 


空挺レンジャー〜レンジャー基礎訓練「障害走検定試験」

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さて、空挺レンジャー訓練、まだまだ続いております。



普通の自衛隊員でもそのタフさにおいて「あれは特別」と言い切るほどのレンジャー隊員。
元々そういう素質があり、志願してやってきた屈強の若者たちですが、
さすがの彼らもそのキツさには苦しさを隠せぬ表情。



しかしああ無情にもそんな彼らに向かって司令官の厳しいお言葉。

「まだまだ山に入ったらこんなもんじゃないからな!
こんなもんではどうしようもない!
何が世界一の空挺レンジャーだ馬鹿たれこの!
甘えんな!」

はい、馬鹿たれ呼ばわり入りました〜。
司令官が言う「山に入る」とは、この訓練に耐えた者が行う
山中での「最終訓練」のことです。

やっぱりこういうのを見ても空自や海自とは違うなあと・・。
空自海自でも馬鹿たれ呼ばわり、場合によってはあるのかもしれませんけど、
司令官はあまりこういう風に言わないような気がしますね。


空挺レンジャー過程も昔ほどは厳しくなくなった、という話があります。
あまりの厳しいしごきに、過去死者が出たりしたこともあったため、
上からの御指導ご鞭撻が入り、かなり緩和されたものになっているとか。

浅田次郎の「歩兵の本領」を読んで、現在の陸自隊員が

「昭和の自衛隊って、怖い〜」

と感想を述べていましたが、全体的に「人権意識」が隈無く行き渡り、
さらには自衛隊の方も「大事な子弟をお預かりする」という立場から
あまり無茶なことはできなくなってきたということかもしれません。

とはいえ、このようなしごきは昔から陸自専門というわけではなく、
海自の航空でもう退官した方が、まだ若い訓練生の頃は、
まだ旧軍出身の自衛官が生き残っていたため、

「とにかくばんばん殴られた」

と言っていたのを聞いたことがあります。
操縦訓練中に教官に顔を殴られ、飛行機を降りたら
皆がモーゼの十戒のようにさーっと道をあけるので不思議に思い、
鏡を見たら顔からマフラーから皆血まみれだった、みたいな。

まず自分が鼻血を出しているという自覚もないってのはいかがなものか、
とそれを聞いてわたしは思ったものですが。



ちなみにこの馬鹿たれ呼ばわり司令官が何がいいたかったかかちうと、

「もう少し自分で体を鍛えろ」

なんだそうです。
いや、そのですね。
それを鍛えるために今これをやっているんではないのかと。



だって、彼らはほとんど休みなくこの期間レンジャーになるための
基礎訓練を行なっているわけですから。
だいたい「自分で体を鍛える」時間がどこにあるのかと。

この不条理ぶりはやはり体育会系っぽい?



いつもの匍匐前進も雨上がりの後ともなると泥濘んで、
まるで絵に描いたようなTHE・レンジャー訓練。
カメラ的にはこれ「美味しい絵」ってことなんだと思います。




降下の際の飛び出し姿勢を訓練してます。
パレンバンのために速成された陸軍挺進部隊のドキュメンタリー、
「空の神兵」でも、この「飛び出し姿勢」は大変重要なものとして
繰り返し訓練していました。

「立派な姿勢で飛び出そう」

明日は降下という日、訓練生が日記に綴った文句が思い出されます。

ところで冒頭の漫画なのですが、これは実は「空挺館」に展示されていました。
第一空挺団に入ってしまった「普通の男の子」が、その最初の降下に際し、
傘の開かない確率30万分の1に恐れおののくというリアルな描写。

これは実際に体験した者にしか分からない感覚だろうなあと思いますが。
「ライジング・サン」の作者は元陸自隊員であったそうですが、
この作者ももしかして・・・。

この掲示の前では必ず人が立ち止まって真剣に見ていました。
せっかくですので全コマここに掲載します。























ここまでです。
因みに「今なら—」の後のコマは、板垣隊員が大谷1曹に土下座して

「許して下さい降下長ッッ降りれませんッッ」
「ハハハ怖いもんなあ、ヨシッ帰ろう!」

ンなことあるわけないじゃん、となっています。
レンジャー過程とはおそらくこの板垣隊員の場合は違い、
「人生最初の降下」なのでしょう。

このような思いをしてこの後レンジャーに成ろうとする頃は
おそらく降下の恐怖などこのころに比べれば「無いに等しい」ものに
なってしまっているのかもしれません。



ところで、レンジャー訓練期間中、訓練生は何を言われても
返事は「レンジャー!」と言うことになっています。



使用した銃を助教に返すとき、いろいろ言われていますが、

「もっと練習しろぉ」
「レンジャーッ!」
「そんなもんついていけないぞ山入ったら」
「レンジャッ」
「丸々(銃のどこか)が詰まっとる」
「れんじゃっ」

こんな会話です。
何を言われてもレンジャーしか答えられないのなら

「やる気があるのか!」「レンジャー!」
「ないのか!」「レンジャー!」
「どっちなんだ!」「レンジャー!」

みたいな会話になってしまうのか・・・。

うーん、やっぱり不条理である。



訓練終了後銃点検。
銃も泥だらけだけど、本人はまるで泥人形。
全員が「何とか良しどこそこ良し」と声を出しつつ点検です。



桜が満開の習志野基地を、銃を掲げたままマラソン。
89式は重さ3・5キロだそうですが、それを腕を延ばして捧げ持つのは
普通の人間なら数分でギブアップしてしまうでしょう。
重みに耐えかね、銃が頭の後ろに落ちてしまう隊員も。

その点、こういうとき隊旗を持って走る隊員はちょっと楽かもしれません。
腕を大きく広げることができますから。
ただし、この旗竿にはわざわざ鉄が仕込まれているそうで。
(ライジング・サン第4巻の情報による)

どちらにしても常に「銃を携行して走る」というのが大変なんですよね。



あれ、この景色、見覚えがあるぞ。
第一空挺団の降下始めのとき、開門まで外で待っていた人たちが
荷物検査を終えるなり観覧場所に向かって一目散に走っていくのですが、
それがちょうどこの道だったような・・・・。

あのときは空挺団の降下訓練をみるために皆ここを一目散に走っていましたが、
そうか、この道は普段その空挺団が訓練で走る道だったんだ・・・。



基礎訓練の総仕上げとして、この障害走の検定試験があります。
障害コースを15周、55分以内に走破しなければ、後半の
房総半島山中で行なわれる想定訓練に参加する資格が得られません。



助教たちはポイントに机を置いて立ち、通過する者の名をチェック。
因みに、張り出してあったこれまでの記録保持者の一位は
36分という記録を持っていました。
・・・・・・化け物?






障害は塀乗り越え、ロープ登り、丸木渡り、匍匐前進、ネット越え、
クリーク越えなどなど。
それを相変わらず銃を背負ったまま行なうのです。
匍匐前進のときには銃を両手に持つのがお約束。



皆日頃の訓練よりも力を出し切りますから、終わった後はこんなことに。



こんな思いを共有すればきっと男同士の固い絆が生まれ、
必要以上に仲良くなってしまうとか・・・それはないかな。\(//∇//)\

突如こんな話ですみません。
こんな第一空挺団の事件を報じる新聞記事をみつけてしまったもので。

「スキンシップ」で部下の体触る 
男性隊員を停職処分 陸自第1空挺団 
2011.9.9 19:28 [自衛隊] 

陸上自衛隊第1空挺団(千葉県船橋市)は9日、
部下の男性隊員の体に触るなどし、 精神的苦痛を与えたとして、
同団所属の男性1等陸尉(32)を停職25日の懲戒処分とした。 
同空挺団の聴取に対し、1等陸尉は
「特別な感情はなく、スキンシップだった」と話しているという。 
同団によると、1等陸尉は7月31日深夜、
自宅官舎で被害隊員と2人で酒を飲んだ後、
被害隊員の意志に反して体を触るなどした。 
被害隊員が1等陸尉の上司に相談し、発覚した。

これ・・・・普通の会社員なら記事にされてませんよね・・・。



自衛隊というのも社会の縮図。
何万人もいるんですからそりゃ色んな趣味の人がいましょうし、
社会に生息するのと同じパーセンテージで存在するでしょう。

今回「神話」を検索していてどうしてもこの手の話が出て来るので、
その理由を考えてみたのですが、

「厳しい訓練に耐えると云う体験の共有」
「男ばかりの集団生活」
「皆肉体派」
「バディという緊密なシステム」

こういったエレメンツのため、世間のイメージはどうしても
そのようなものになってしまうのかと思ってしまった次第です。

実際は知りません。


(続く)

 

ボストン到着〜WELCOME TO AMERICA!

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表面上は何事もなく30時間ごとの更新を行っている当ブログですが
(24時間ごとだったのを骨折以来6時間延長しました)
実はここのところブログ主は大変な毎日を送っていたのです。

文中でも少し触れましたが、恒例のアメリカ移住の時期を前に
朝霞の陸自駐屯地に遊びにいったり、会員特典を消化するため
都内のホテルに宿泊したり、国際免許を作りにいったり、
息子の学校行事に参加したり、大掃除したり、預かりクリーニングに
冬物やベッドカバーを全て出したり、そしてその合間に寸暇を惜しんで
エントリ作成したり、戴いたコメントと裏コメントに返事を出したり、
つい気晴らしに「陸上自衛官整理整頓ゲーム」をやってしまったりorz

特に毎年慣れているはずのパッキングを甘く見て今年は
3日前に始めたため 最後の最後まで4つあるトランクの蓋が
どれも閉められなかったり、とにかく遅々として進まないので
母としてなんとかギリギリ間に合わせました。

「今年は運転免許持ってるね」
「まさかESTAのの有効期限切れてないね」

まるで子供に聞くようにTOには念を押されて、(どちらも前科あり)
空港に着いてチェックインをしたところ、

・・・・・・わたしのESTAが切れてましたノ)゚Д゚(ヽ

「息子さんのは来年まであるんですが」
「去年切れてたので空港で手続きしたんですよ〜」
「今年はお客様のが切れてます」

どうでもいいけど、どうしてESTAって2年置きなの。

「切れてることに気づかない方が多いです」

ならもう少し改善しようよ。
もういっそ国際免許と一緒で1年でいいじゃない。
それなら皆忘れないって。
などとつぶやきながら向かいのスターバックスで去年と全く同じ作業をしました。
時間に余裕を見てチェックインするって大事なことですね。

というかいい加減学習しろよわたし。



というわけで機上の人となりました。
航空会社は鶴丸飛行機。
ボストンまで直行する飛行機は今のところこれしかありません。
トランジットで時間がなく2年連続で空港を全力疾走した苦い経験から、
出来るだけ乗り換えをなくそうとしてこうなりました。



後ろの飛行機はAA、アメリカン航空です。



前のJALが飛び立っていきました。
機種が滑走路を向く直前に撮った写真。



去年もその前もこんなものを食べた記憶が・・・。
本当は魚の洋食を2人で頼んだのですが、良くある話で

「お魚は数が少ないのでお一人別のものにしていただけませんでしょうか」

と頼まれてしまったので、快く和食に変えてあげたのでした。
彼らとしても「あまりうるさくなさそうな」、
たとえばわたしみたいな母子2人連れなんかには言いやすいのか、
今まで何度か同じことを頼まれたことがあるのですが、
それはいいとして、フライト中クルーが入れ替わり立ち替わり、
しかも忘れたころになってもなお、

「お食事の変更をお願いしてすみませんでした」
「変更をお引き受け下さいましてありがとうございました」

と言いに来るのです。
当然みたいにされたらそれはそれでちょっとサービス業としてどうよ、
ときっと思うでしょうけど、そんなに何度も謝られても・・。

JALの人、もし見てたらこのような場合、
フォローはせいぜい1回でいいと現場に言ってあげて下さい。



まあそれが日本の航空会社の体質というか いいところでもあるんですけど。



前にも写したことがありますが、この路線はずっと太陽が沈まず
水平線の上に出たまま浮いたり沈んだりしているのが見られます。
これが本当の「沈まぬ太陽」・・・・はっ、なんて不吉なタイトルを、
よりによって鶴丸飛行機に乗っているときに思い出したりするんだ。

飛行機の窓は二枚のガラスの層の間にジェルが挟まれていて、
その化学反応で暗くなるシステムのもので、
ずっと外の景色を見ることが出来ました。
ガラスが暗いだけで、実は外は明るいままです。




湖かなと思ったのですが、どうもまだ海の上のようです。

太平洋の上を飛んでいたとき、晴海で見送った練習艦隊が
今ちょうどこの下を航行しているんだなあと考えました。
後で調べたら、この日はサンディエゴを前日出航していて
南米に向かっているところだったようです。



どうも少し気味が悪い・・・。

機内で見た映画は「ホテル・ブダペスト」「レイバーデイ」(捕われて夏)。
あとはテトリスやってました(笑)

「ホテル〜」のレイフ・ファインズ(シンドラーのリストのナチ将校)
「レイバーデイ」のケイト・ウィンスレット(ご存知タイタニック)いずれも芸達者。
特に「レイバーデイ」は不思議な印象を残す佳作だと思いました。




フライト時間は11時間。
2度目の食事は自分が食べたいときに個別にメニューから注文します。
和食が多すぎてほとんど残してしまったせいで、
適度にお腹がすいて美味しくいただけました。



ボストン上空にさしかかってきました、
こんな島にも必ず住んでいる人がいます。
白く点々と見えているのは個人所有のヨット。
東部のセレブリティが好んで別荘を構えたりするからで、
バナナリパブリックの社長もこんなところに別荘を持っていると
聞いたことがあります。




そしてローガン空港に到着。
降りたところに世界各国の旗が飾ってあり、
アメリカの旗と並んで日の丸がありました。
そういったウェルカムポスターは他にもあり、
アメリカ国旗を何カ国かの旗が囲んでいる意匠で、
その中には全てを圧するようば存在感で目を引く日本の旗が。



日本航空の出口なので当然かもしれませんが、日本語で
・・・・日本語だけで「ようこそ」と書かれています。
これも随分新鮮な感覚だなあと思いながらその理由を考えたのですが、
つまり、ないんですね。中国語と韓国語が。
滅多にこういう空間を日本で見なくなったということなのです。

そういえば田母神俊雄氏が

「日本国内の表示に簡体字やハングルはいらない、英語だけでいい」

と言っていたと思いますが、最近の両国語の公的な場所での増殖は
「ここはどこの国?」というほどです。
先日はついに「日本語表記のない日本の観光地」が報告されていました。
「ゴミを捨てるな」とか「紙はトイレに」とかの迷惑事案に関しては
表記してほしいという立場の人もいるとは思いますが、わたしも最近の東京は
明らかに「やり過ぎ」(しかも目立ち過ぎ)だと思います。 


これについては多くは言いませんが、ボストンで「日本語だけ」の表示を見て、
そして、日の丸以外の日本の近隣国の旗が全く無いポスターを見て、
理屈ではなくすっきりした気分になった、とだけ言っておきましょう。


さて、この後予約していたレンタカーをピックアップしたのですが、
去年まで工事中だった「レンタカーセンター」が完成したのはいいとして、
バスを降りた後荷物を運ぼうとしたらカートが全く無く、
合計6個+手荷物をレンタカーロットまで運ぶのに大変苦労しました。
暇そうな係員はただうろうろしているだけで、客が困り果てているのに知らん顔。
チップをくれそうな老夫婦に付きっきりの若い男(黒人)に

「カートが欲しいんですが」

っときいたら、

「 おーるごーん!」

の一言ですませやがりました。 

「ハーツはどこですか」
「この階です」

これも全くの嘘でした。
というか、従業員のくせにどこに何があるかも覚えてないのかその頭は。


イライラしながらもなんとか車に乗り込み、ホテルにチェックイン

・・・・・しようと思ったらフロントに人がいない。
「銀行に行ってます」

とお知らせの紙を残して。
通りかかった体重1トンのハウスキーパー、パトリックが、
電話でフロント係に聞きながらチェックインさせてくれました。
いわば入国するなり

「ウェルカム・トゥ・アメリカ!」

の洗礼を受けたというところです。
本当にアメリカ人って終わってるよ。 
まあ、パトリックはいい奴でしたけどね。

「長い間お待たせしてすみませんでした」

これが言える、しかもハウスキーパーはこのアメリカでは稀少種です。



さっそく食べ物を買いに「ホールフーズマーケット」に行きました。
この辺には中国人が少ないのか、スイカは無造作に外においてあります。
一玉800円くらいでした。安っ。

右側の袋はバーベキュー用のチャコールと薪です。
自動販売機のようにみえるのは、リサイクルするカン、瓶、
ペットボトルの自動回収機。
どうもすこしだけお金が返って来るみたいです。

部屋に帰ってテレビをつけてみました。



いきなり重傷を負った海兵隊員(右目が義眼)が
名誉勲章をもらったというニュースが・・・。
どこで何をしていて怪我をしたのかまでは分かりませんでした。



続いてフードチャンネルを。
これは実に不愉快な食べ物番組でした。
「マンvs,フード」という、挑戦ものです。

このすし屋は、なんとスシに赤唐辛子を仕込んだ激辛の
「ヘル・スシ」を客に挑戦させるというとんでもない店です。

店の名前が「神戸」という時点でオーナーが日本人ではないと
我々は自信を持って言い切ることが出来るのですが、
さらにスシに赤唐辛子で「5倍」までの激辛味をつけるというのを見れば、

「ああ・・・」(察し)

でわかってしまいます。
というかもし日本人がそんな趣向で「ヘル・スシ」をするなら
使うのはまず間違いなく「わさび」でしょう。 


「目が回ってきた」

と言いながらただ辛いだけでおそらく味もへったくれもない
インチキスシを食べる挑戦者の横でお莫迦アメリカ人共と共に
「いえーいえー」と拳を挙げて踊っているのが、反日国の人間のくせに
日本人と思われたい「神戸」のインチキシェフでございます。 

そもそも本当に日本人の寿司職人ならば、しかも海外で、
こんな寿司を冒涜するような真似は死んでもしますまい。



挑戦達成のご褒美は「神戸」と書かれたTシャツ。
こんなシャツ、お金貰ってもいらん(笑)



おつぎは大量のカニの足を時間内に食べきる挑戦。



断言してもいいけど、この人は後10年以内に糖尿病になるか、
ハートアタックでぽっくり逝くか、胃がんにかかるとおもいます。



ホテルの部屋。

昨年改装を済ませ、この一年の間に家具や空調も全部取り替えたようです。
猛烈に音がうるさくて寒くなるクーラーだったのでこれは嬉しい。





今年はプールとは反対側で、これも静かなので大歓迎。

この写真を撮ったときには夜の7時半くらい。
日が当たっていれば猛烈に暑いですが、陰るととたんに
空気は冷たくなり、今は寒いくらいです。

今年もこのボストンから一ヶ月、いつものエントリに加えて
時々は現地で見つけた物や事共についてお話ししていきますので、
どうかお付き合い下さい。

 

 



 

護衛艦「ゆうぎり」見学〜「W・E・L・C・O・M・E」

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このブログの読者のうち、わたしが思いつくだけでも最低三人が
冒頭写真を見て即座にタイトルに合点がいったことと思われます。
その説明は巻末のお楽しみに取っておいていただいて、取りあえず
前回の続きから参りたいと思います。



よこすかわいわいのりものフェスタにおいて、「のりもの」の一環として
ここ海上自衛隊横須賀地方隊では護衛艦見学が行われました。

ところで、護衛艦は乗り物なのか・・・・・?





前回の続きから。
魚雷発射管とそれに付けられた説明。

ん?射程が伏せ字になっている。
でも、その横にヤードで書かれているので全く伏せ字の意味なし(笑)



これは「ふゆづき」の出港式のときにも説明しましたが、
スライディングパッドアイ。
補給時などに補給艦からのハイラインを連結するものです。
ハイラインとは、元来は索につけられた名称で、転じてその作業をも指します。

定義としては、洋上で艦同士が航行中に人員、物資の移送を行う作業を指し、
一般に補給艦と受給艦との間で行われるものを言いますが、
戦闘艦艇間で行われる作業もハイラインと称します。

昔は索は人員が引いていたのですが、現在では機力でこれを行っています。

どちらものフネが航行しながら行うハイラインには高度な操艦技術を要します。



ここには、洋上給油とハイラインのの安全守則が書かれています。

洋上給油安全守則

1 火気厳禁
2 救命胴衣及び安全帽を着用せよ
3 足のスリップに注意せよ
4 燃料タンクの液面に注意せよ
5 関係諸弁は確実に開閉せよ
6 無用の者は搭載口に近寄るな
7 緊急離脱に、備えよ
8 通信連絡は、確実に行え
9 艦の動揺及び波の打ち込みに備えよ

ハイライン安全守則

1 緊急離脱に備えよ
2 救命胴衣及び安全帽を着用せよ
3 属具の取り付け、索の結び等を再度確かめよ

個人的に突っ込みどころは「足のスリップ」ですかね。
確かに作業中に最も懸念されるのは「足のスリップ」に違いありません。
が、ここは「手のスリップ」の立場はどーなる?と突っ込んでみたい。
つまりこの段は「手足のスリップ」とするべきなのだけど、
「手足のスリップ」にするといきなり意味がわからなくなってしまいます。

それから、海自というか海軍的には波は「打ち込むもの」なのか・・。

 

「T」は艦首の「TOP」、「D」は「DECK」かな?
「+」は医務室だと思います。



後甲板のアスロック。

 

アスロックランチャ本体と架構、それぞれの型番プレート。
オーバーホールを行うたびにプレートを付け替えるようです。
ただしこのプレートは、後甲板ではなく甲板を出るところにありました。
これを撮っていると、「あんなマニアックなところを撮って」
という声がどこからともなく聞こえましたが、たぶん気のせいだと思います。

 

そういえばアスロックの安全守則も今回初めて見たかもしれない。
今まで見学したフネは、こういったものが見学通路にはなかったと思います。

ミサイルの安全守則はシースパローミサイルのそれとほとんど同じです。
ランチャー作動に関する安全守則もここに書いておきましょう。
何かの役に立つかもしれませんから。

アスロックランチャー安全守則

1 作業指揮は明確に行え

2 次の事項は艦長の許可を受けよ
 
 (1)安全・発射ハンドルの解錠
 (2)ミサイルコネクター(伏せ字)MK29(伏せ字)ケーブルの接続 
 (3)ミサイル機能試験


3 装填中は
 (1)火気厳禁
 (2)「装填中」の標識札を表示せよ

4 旋回及びふ仰は警報ベルを鳴らし、付近に人及び障害物が
 ないことを確かめてから行え

5 装填、抜弾及び整備作業のための旋回及びふ仰は
 エアドライブモーターで行え

6 ミサイル発射時は付近に人がいないことを確かめよ

7 警報装置が作動したならば、冷却及び加熱用ポンプ起動せよ 

ふ仰ってなにかしら。

「 俯仰天地に愧じず」( 自分の心や行動に少しもやましい点がない)

って言うのと同じ俯仰?

俯仰だけだと意味は下を向くことと上を仰ぐこと、なんですが、
転じて「立ち居振る舞い」という意味になっています。

海自的には砲身やランチャが上下を向いたりすることを「俯仰」
と言っているってことなんでしょうか。

こんなレアな言葉を使用するのは孟子と海自だけかもしれない。

それからミサイルコネクターの伏せ字が気になります。



後甲板に出てすぐ上部構造物を撮ってみました。
なんだかとんでもないところ(左方)に足をかけるところ、
さらに荷物棚のような出っ張りがあるんですが、ここ、もしかして
歩いたりすることもあるんですか?



「ゆうぎり」のCIWSは2基、両舷側に一つずつあります。
こんなところにCIWSを備えているタイプも初めて見ました。
射界を確保するために常に高いところにある、というCIWSですが、
「ひゅうが」では甲板より少し高いだけに見えたので

「弾薬の装填、楽勝っぽい?」

と思っていたのですが、これは大きな間違いであることが
雷蔵さんのコメントで判明しました。

「作業用のステージ(足場)を付けるのですが、『はつゆき』型でも
艦橋の上で高さ10mくらいだし、一番怖いのは『ひゅうが』型の
後部で張出に付いているので、下には海しかありません」

だそうです。
「ひゅうが」のあの下は海だったのね。
さらに、

「金具で帯状につなげた弾薬を電動ねじ回しみたいな工具で
グーッと入れるのですが、作業員はみんな手元だけに集中してますね。
下を見たら、怖いからだと思います。

下世話な話ですが、男性だとそういう時、股間がこそばゆくなるのですが、
女性はどう感じるのでしょうか」

だそうです。
最後については、よく「お尻がぞわぞわする」という表現を使いますが、
そもそも女性がこの任務に就くことはないのではないでしょうか。
ひゅうがには女性の水雷士が確かいたけど、CIWS関係ないんですかね。

それにしてもこの写真、見ただけで「おしりがぞわぞわ」します。

この写真を身を乗り出すようにして撮っていたら、乗員が

「外に出たらもっとちゃんと撮れますよ」

・・確かにそうだけど、この角度から無理矢理撮るのがいいんじゃない?
速力標ごしにこんな風に見えているのが。

この舷側に立っていた海士くんはとても人当たりのいい、
見るからに楽しそうな明るい青年でしたが、彼はさらに



「この旗旒信号は何を表すと思いますか?」
『WELCOME』なんですよ」

と教えてくれました。

「あ、そうなのか。それで7旒揚がっているんですね」

こういうのを聞くと、凄く得したような気がします。

「他にもあるんですけどそれはナ・イ・シ・ョです」

だそうです。
気になるなあ。
何が他にもあって内緒なんだよ〜。



実は「ゆうぎり」から降りてきたとき、じいちゃんが自衛官をつかまえて

「菊の御紋はついてないの」

と聞いていたのに遭遇しました。

ついてないよじいちゃん!
これは吹雪型駆逐艦「夕霧」じゃないんだから!

とツッコんであげればいいのに、聞かれた自衛官はただひとこと

「ついてません」

と答えたのみ。
あまりに突拍子もない質問でなんて答えていいかわからなかったのかな。
あるいは、このじいちゃんがツッコミを期待してボケたとは思わず、
単にボケ・・・・いやなんでもない。

彼らのやり取りを微笑ましく見ていたわたしの耳に、

「ウェルカムを撮っておこう」

という声が聞こえました。
旗旒信号とCIWSの説明を聞いていたとき横にいた男性で、
振り向くと、わたしに向かって言っていたので
それからしばらく岸壁を歩きながらこの方と会話しました。

「よく来られるんですか、こういうの」
「見学できるときにはできるだけ来ています。
先月は佐世保で『あさゆき』を見てきました」 
「それは凄いですね」
「最近は関心を持つ人が増えたみたいですね」
「今日も女の人が結構多いですが、本当に増えましたね。
古くから来ているおじさんとしては嬉しい限りです」

実はもしかしたらこの男性はイベントを教えて下さったM24さんかな、
とちょっと思っていたのですが、違ったみたいです(ですよね?) 



「てるづき」と「ゆうぎり」の合間からボートが見えました。
凄い角度で傾いていますが、全員が手を振っています。
わお!かっこいいい〜!



どうも、サービスで高速滑走のパフォーマンスをして見せてくれていたらしく、
ヘッドセットを付けていない隊員は帽子が飛ばないように頭を抑えています。
カーブを切るときにはほとんど船体が斜めになるくらいのスピードで
見るからにノリノリなのが見て取れました。
操縦している隊員はイケイケです。

見知らぬおじさんと並んで彼らに手を振りました。
こんな小さなボートなのに立派な自衛艦旗を揚げている・・。

旭日旗でも陸軍用は中心に日の丸がありますが、海軍の旭日旗は
なびいたときに美しく見えるように、わずか旗竿寄りにデザインされています。



周りの人たちはシャッターチャンス!とばかり写真撮りまくり。
この人は動画を撮っているようでした。



さて、楽しくおしゃべりしていたおじさんとも別れ、
「てるづき」の見学へと向かいます。



・・・・と思ったら、途中に「ちびしま」発見!

皆前に立って写真を撮っています。
この人は自衛官と並んで記念写真。



前回撮らなかった角度から撮ってみました。
ちゃんと主砲のハンドルとキャプスタンもあったんですね。
よく見るとキャプスタンにはちゃんと鎖もかかっていたりして、
本当に細部まで凝っています。




そして、これも前回ご紹介しなかったのですが
結構な精度のチャフフレアランチャーが・・・。



この角度からも。



女の子がかぶっているのは「かいじょうじえいたい」と書かれた帽子。
子供には全員に配られていました。



「ちびしまの本気」で、「ちびしま」のお立ち台は廃止された、
と書いたのですが、一応そのまま残されていることが判明しました。
当初この、黄色と黒の部分に立って写真を撮るという仕様だったのです。
しかしこれも述べたように、すぐに修復を要す事態になったので(笑)
もうこのお立ち台は使わないことにしたということのようです。

登るときに皆が蹴飛ばして破損したらしい部分には、
なんと保全科の渾身の補強が(しかも鉄板で)施されており、
かつての時代をしのばせるよすがとなっています。



ここにもいますね。女性一人。
それどころか、わたしがヘリのコクピット搭乗に並んでいたとき、
前も後ろも若い女性の2人組だったんですが・・・。

特に後ろは「こんごう型」はどうのこうので、などと
まさに艦オタな会話をしていたのですが、もしかしたら
年齢から見て海上自衛官を志望している女子だったかも知れません。

後ろは見ていませんが、前に並んでいた2人はどちらもおしゃれで
センスよく、しかも可愛らしい。

昨今はこんな女子が艦艇見学にワラワラ出没するのですから、
そりゃーおじさまがたもさぞ嬉しいだろうと思いますよ。




続く。



 

護衛艦「てるづき」見学〜駆逐艦「痩馬」

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よこすかわいわいのりものフェスタの日、公開されていた
横須賀地方隊の艦艇見学についてお話ししています。



まずは後甲板を外から。
甲板が「ふゆづき」と同じ「オランダ坂」で、人々が立っている部分が
ヘリの離発着が行われるので水平であるため、およそ1.5mくらい高くなっています。
ほぼ全員が写真を撮っていますね。



同じく外から、ヘリ格納庫とCIWS。
後部のCIWSは20mmの2番砲を意味するので22番砲と呼ばれます。
「たかなみ」「むらさめ」型は左舷寄りにありますが、
「あきづき」型は中心線上に配置されることになっています。



「弾の装填のときに大変怖い思いをする」ということですが、
あきづき型は格納庫の天蓋上にCIWSがあって、そんなに高くないように見えます。
せいぜい2m(それでも怖い人は一般人ならいるだろうけど)。
「むらさめ」「たかなみ」型と違い、格納庫に直接ではなく、
台座の上に乗っているとはいえ、自衛官に取っては楽勝ではないでしょうか。

新型艦は少しでも隊員のストレスを減らそうとしてこのような仕様に
・・・・・したわけじゃないんだろうな。別に。

CIWSの下部に十字架状のランプが見えますが、これは誘導灯。
ライトが点滅し、着艦するヘリに正しい姿勢を示し、誘導します。


というわけで甲板にはあまり用がないのでさっさと進んでいくと、



なんと通路が格納庫の中。
「あきづき」型の特色として、格納庫はそのまま後部構造物と一体で、
外ではなく、格納庫の中が通路になっているのです。

たしか「むらさめ」型は、甲板に通路を示すラインが艦の全周にわたって
書かれていて、乗員はそこを走るのだと聞きましたが、
どうもこの「あきづき」型の仕様では走り難そう。



だって、この小さなところを通らないと向こうには行けないのよ?
下手にランニングでもしようものなら向こうから来た乗員とぶつかって、
という事故が起こること必至。危険すぎる。

というわけで、「あきづき」型の乗員は甲板ランニングはしない、
と仮定を立ててみましたが、もしかしたらこれ以外にも
通路があるのかもしれません。

Z

格納庫の通路には分かりやすい現代戦の説明が
パネルで展示されていました。

「現代の潜水艦は静粛性が高まっており」

ただでさえ静かな潜水艦、海自の場合は全く無音で、
つまりエンジンを停止したまま海流を利用して敵(米軍)の
駆逐艦の真下に到達してしまったという伝説がございまして。

相手に取ってはこういうニンジャの末裔みたいなのは
全くやりにくい嫌な相手なんでしょうね。

ところで今思ったのですが、この演習のとき、なぜ米海軍は
ソナーの捜索で海自潜を見つけることが出来なかったのでしょうか。





この二枚の戦闘の図を見て気づいたことはありませんか?
対水上戦は、自衛隊側の攻撃になっていますが、なぜか対空戦は
自衛隊が攻撃を受ける側として説明されています。

佐世保に来ていたサヨ軍団のHPに、

「海賊なら殺しても文句は言われないから、血に飢えた自衛隊は
海賊を相手に実戦を積み、海外派兵の足がかりにするつもりだ!」

と書いてあるのを見て文字通り大笑いさせていただいたのですが、
こんな、ほとんどの国民なら

「大丈夫か」

と一笑に附してしまうような類いの基地の外の人たちに対しても、
当事者の自衛隊としては配慮、というより揚げ足を取られないように
展示や配布などの内容に気を遣わねばならないわけです。

これも

「自衛隊が他国を攻撃ばっかりしているじゃないか!
やっぱり血に飢えた軍隊の侵略の意図がフンダララ」

と言われないように(まさかと思う方、本当にこう言ってるのよ)
こういうところにも細心の注意を払っているのかもしれません。

 

格納庫の隅には救助用の担架が二種類。



それにしてもどこを見ても新造のように全く汚れがありません。
「てるづき」はご存知のように「すずつき」「ふゆづき」の就役に
先立つこと1年前の2013年の竣工ですから、まだ1年目、
ただでさえ「掃除ばかりしている」自衛隊の運用している艦ですから、
きっと中国海軍の艦艇の就航1週間後より綺麗に違いありません。


丸い窓から推察して、これは魚雷を運搬し、
ハンドルを回して操作し持ち上げるものではないでしょうか。



ところで、このヘリ格納庫には2機のSH−60を収納できます。
ここは空ける必要があったため、SHは外に展示されていました。

格納庫の床にはレールのようなものが何本も見えますが、これは
ASIST Mk.6という着艦拘束装置の移動するレールです。
レールが二基分あるのは「あきづき」型が初めてです。


「ふゆづき」の出港式のときにも、格納庫の中央に何のために
跳ね上げ式の柱があるのかと書いたのですが、この日
ここにいた乗員に聞いてみました。

彼によると、2機格納しているときに片方のシャッターを閉めて
稼働していない方を隠しておくことも出来るから、
というのも理由の一つだそうです。 

一人しか通れないせまいハッチを抜けていくと、右舷則にでます。

そこには海自艦艇についての基本情報を記したパネルがありました。



意図したものではないと思いますが、このパネルを見て
ふと海に目を転じれば、そこにはこのような



横須賀リピーターにはもうすでにおなじみの潜水艦が。

これはなんて効果的な掲示方法だろうか、と思いながら写真を撮っていると、
そこに立っていた年の頃40くらいの幹部が声をかけてきてくれました。

「あれは『そうりゅう』型です」
「艦名まではわからないんですね」
「型が何かまではわたしたちはみればわかりますが、
艦名までは(どうでもいいというか)・・・」

わたしには三つの写真とまじまじ見比べても全くどれかわかりません。
というか、どれも同じに見えるんですけど。

せっかくの機会なので、かねてからの疑問をこの幹部に聞いてみよう。

「どうして潜水艦だけ米軍側にあるんですか」
「米軍側といっても、あの後ろ側の建物はみな自衛隊のものなんですよ」
「あの一帯は海自の敷地なんですか」
「というより同じところを使っているという感じですね」
「潜水艦を繋留するための施設があそこにしかないということですか」
「そういうことですね」

なんだ、ニンジャ潜水艦の動向を米軍がチェックするためじゃないのか。

「じゃ潜水艦隊員は三笠公園の、あそこから出入りするんですか」
「そうです。わたしたちは自由に出入りできます」

あそこから潜水艦のところまで結構な距離だったと思うけど、
潜水艦隊の隊員は出勤も大変そうだなあ。



と、このように空いたところを利用して(笑)
パネル展示がされていて大変親切です。



上に見えているのは90式艦対艦ミサイル。
「むらさめ」型以降の日本の艦には全て搭載されています。
設計は技研(自衛隊の)と三菱による純国産。

この90式は空自の航空機搭載ミサイル80式空対艦誘導弾を基に、
ファミリー化して開発されてきたミサイルに属します。

陸自の88式地対艦誘導弾もこのファミリーですね。



「X」はわかった。
それではDの中に「Z」が書かれたこのドアは?

これは戦闘中または保安上必要とする場合に、閉鎖されるという意味ですが、
さらにそれがDで囲まれた場合、 灯火管制時に閉鎖する、という意味です。

このドア、「閉」が飛行科、となっているのでヘリ運用に関係しているのですが、
搭乗員の控え室から繋がっているドアなのかな。

 

艦内閉鎖標識を調べていて、この表示の謎も解明しました。
これは「T」が戦闘通路、「D」は洗浄所通路、だそうです。
・・・・・・といわれてもどちらも意味がわかりませんが。

DはドレーンのDだと思いますがTは? 
まさか「たたかう」だったりして・・。 


  

スライディングパッドアイも試験をするようです。
「上部アイ」は222.6kN、「下部アイ」は78.4kNというのが
2011年つまり竣工2年前の試験で出された結果となっています。 

単位が分からないので断言できませんが、これは

「 222.6kgで壊れた、あるいは切れた」

と解釈してよろしいんでしょうか。


ここに案内図があったのか。

「てるづき」のシンボルは詩的ですね。
この艦の士官室には、満月が海を照らす中、
背景に富士山をいただいて航行する「てるづき」の絵がかけられています。
(見てないけどなぜか知っている)

主砲を「51番砲」としていますが、CIWSの法則に照らすと、
これは50m砲の一番基という意味であるはず。

と思ったらこちらは「5インチ砲」だそうで。
うーん、イマイチ統一性のない名称ですね。

ちなみに1基しか搭載していないので「52番砲」はありません。

RSDというのが後甲板にありますが、これはヘリのベアトラップ、
つまり着艦拘束装置のことです。
しまった、この写真を撮るのを忘れた。
 



艦橋構造物脇の通路には、吊るされたモップや帚、
防舷物(艦と艦を並べるときに間に噛ますクッション)
が整然と並べられています。

もう少し通路を進んでいくと・・・



舷梯を昇降するときに見張るためのもの?
横長の楕円に切られた覗き窓が開けられていました。
ちょうど外を見ていると通りがかりの軍港巡りの船が。
見たところ満員御礼状態で航行しているようです。



またまた見つけた、安全守則。
今回はチャフ弾のものです。
さすがにチャフは発射時には周りにいても大丈夫だと思いますが、
それでも安全帽は装着しなくてはならないようです。

ところでわたしは先日朝霞で「りっくんランド」に展示してある
自走砲にもチャフランチャーが装着してあるのに気づきました。



これは「ちびしま」のですが(笑)まさにこの形をしていたので、
「チャフランチャーみたいですね」といったところ返事は
「チャフランチャーです」でした。

護衛艦のほど大きくはなく、もちろん「ちびしま」のよりは大きいですが、
全く同じ製品であると思われました。

チャフ(chaff)とは「電子欺瞞紙」という名の通り、アルミ泊一枚でも
十分役目を果たすものです。
わたしなど、「紫電改のタカ」で、滝城太郎が紫電改から
アルミ箔をばらまいて米軍艦船を欺瞞したシーンを刷り込まれたので、
物心ついたころにはすでにチャフのなんたるかを知っていたわけですが(笑)

昭和20年当時の日本に、あんなに簡単に
「アルミ箔」というものが手に入れられる状態で存在したのか?
はたして滝城太郎は、どこでどうやってアルミホイルを
あの非常時に用意することが出来たのか?

今にして思えばツッコミどころの多い漫画だったなあ。
え?漫画だからそんなもんだろ、って?



こちらは短魚雷の安全守則。

雷体に傷をつけるな(小さな傷も性能を悪化させる)

他の注意は注意だけに留まりますが、この部分は
なぜか理由まで説明しています。
よほどシリアスな問題なのだと思われます。

そして

燃料漏れを発見したならば→有害であるので→気化ガスを吸うな

アメリカの最新型魚雷であるMk60バラクーダは、六フッ化硫黄
が使われていますが、これは化学的に安定度が高く、無毒、無臭、
無色、不燃性の気体で、運用は非常に安全です。

もしこういうものなら、わざわざ安全守則に「ガスを吸うな」などと
書かなくてもいいわけです。

が、しかしこのガスは温室効果ガス指定されていて、京都議定書では
削減対象となっているのですね。
アメリカは京都議定書にサインしてないから関係ないんですけどね(棒)

というわけで、環境に配慮する日本の自衛隊としては、
安全でも環境を悪化させるガスを使うよりは、多少危険でも
運用に注意しつつ環境に影響のない武器を使うのでした。



舷梯を収納する部分のハッチが全開されていました。



この部分ですね。
これは「ふゆづき」です。



今から舷梯を引き揚げる作業。
引き出すときは皆で「せーの!」と引っ張るのが
ここはステルス性のため出港時ぴったりと閉ざすと、ほとんど見えなくなります。



その舷梯を初めて内側から見られました。
一般開放日だから開けているのかと思ったのですが、
普段も解放していることがよくあるようです。



前甲板に出てきました。

艦首旗の周りにやたら人が群がっているようですが、
錨鎖と抑鎖機(鎖を留めるもの)、キャプスタンの部分より
艦首旗側に行けるようになっているので、皆がそこで
写真を撮るために立ち止まっているのでこうなっているのです。



艦橋からマストを見上げてみました。
見えません(笑)
なぜかというと、「あきづき」型はステルスマストで、
後方斜めに傾斜しているので、この角度から見るとちょうどマストが
見えなくなるのです。
だからステルスマスト?というのは冗談です。

それから、艦橋の壁面を見て下さい。
やたらぼこぼこして波打って見えませんか?
これを俗に「痩せ馬」といい内側に凹んでいる仕様です。
なぜ痩せ馬かというと、やせ衰えてあばら骨があらわになった
馬の体を想像させるからだそうですが、新鋭艦なのに
どうしてこんな仕様になってしまうのでしょうか。

それは、軍艦というのは出来るだけ船体を軽く作るために、
構造を工夫して外板を必要最小限にまで薄くするためです。
一般に商船に比べても板厚が薄く、こうなってしまうのです。

艦底にこれがあると抵抗も増えるし決していいことではないはずですが、なぜなのか。



「あきづき」型が計画されたとき「痩せ馬」対策がなされました。
それを防ぐ複合素材被覆船体等によるステルス性能等の向上策が
盛り込まれる予定だったのです。
しかし、予算の縮減を受けて最終的にその計画は見送られたのでした。

見送られたのはこれだけではありません。

●甲板上の艤装物、艦載艇、対艦誘導弾を覆うスクリーン等

●統合推進動力、先進推進システムの採用

●艦載ミサイルの国産化

SeaRAMなどの近接防衛能力の向上

こういった事案がことごとく破棄されてしまったのです。


「あきづき」型1番艦の予算は要求された予算額は848億、
それに対し認められた予算額は750億円です。
先日同時に就役した「ふゆづき」「すずつき」のための予算は
2隻で1,451億円ですから、1隻が725億あまり、
25年度予算で決まった汎用型護衛艦はさらに減って701億となっています。

20億ずつ減っていっているというのも凄い話ですね。


つまり「痩せ馬」とは自衛艦にとって予算削減の象徴のような現象なのです。
またこの名前が「負け犬」っぽくて何とも情けないではありませんか。

平成25年に予算の付いた汎用護衛艦の就役は平成28年になる予定ですが、
この護衛艦はもう今から痩せ馬決定なんですよ。

もうこうなったら開き直って艦名を護衛艦「やせうま」にし、
体を張ってこの流れに抗議するっていうのはどうでしょうか。(顰蹙)





続く。









 

護衛艦「てるづき」見学〜"MAD"アバウト自衛隊

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「痩せ馬」に思わず食い付いてしまい(笑)1回に収まらなかった
護衛艦「てるづき」見学記、続きです。 

この3月に「あきづき」型の4番艦である「ふゆづき」を見学したばかりで
その2番艦である「てるづき」の内部を見ることが出来たのは
まことにタイミングがいいというか、なんといっても「ふゆづき」のときに
集めた資料がそのまま役に立つのがブログ主的に嬉しいです。

ところで、「あきづき」型3番艦の「すずつき」は、「ふゆづき」ほとんど
同時に完成したわけですが、引渡式が一日違いです。
こういう式典に海軍的こだわりというか、たとえば「仏滅にはやらない」
みたいなジンクスがあるのかどうかは分かりませんが、
わざわざ一日違いにしたのは、出席しなくてはいけない海幕長などが
同日に佐世保から岡山に移動することができないため、
3番艦である「すずつき」を一日早く就役させたということのようです。

 

 さて、甲板に出てきてまずCIWSにご挨拶。

「あたご」型や「たかなみ」型の一部は
BlockIBという、光学照準設備を装備した、
つまりバージョンアップされたものを搭載しているのですが、 
「あきづき」型のCIWSは従来型の、
対水上射撃能力のないBlockIを搭載することになりました。

これも「痩せ馬」と同じ事情なんでしょうか。

ところで、このCIWSですが、射程距離の関係で、
たとえ目標を撃破することが出来てもその破片は艦を直撃する、
ともいわれているのだそうですね。

こればっかりは実戦通りに予行演習することもならず、
いざというときにはその破片でこちらが傷つく可能性もあると。

この辺りを現場の自衛官たちがどう考えているのか、
今度護衛艦見学の機会があったらぜひ聞いてみたいものです。



キャプスタンや揚鎖機が床にある部分はネットが張られ、
立ち入りが出来ないようになっています。
艦首旗部分にも行ってみたかったのですが、そこの人口密度が高く、
やる気満々な男性ばかりがひしめいており、気後れしたのでやめました。

後から、こんなに艦首旗の近くまで寄れる仕様の艦は初めてだったのに
惜しいことをしたと思いましたが後の祭り(笑)



はい、こんな感じ。
鎖が伸びていますが、脇から抑鎖機が伸びていて
動き回らないようにがっつりと留められています。

見学者が歩いている部分には滑り止めが施されていますが、
「あきづき」型の場合、「むらさめ」型のように戦闘通路として
白線で縁取りがされていない仕様になっています。



艦首部分から下を撮ってみました。
「てるづき」搭載機のSH−60が公開展示されています。

これから入って来る人の列は取りあえず解消した模様。



「あきづき」型の主砲はMk 45 5インチ砲で、現在のところ最新鋭型。
「あたご」型から初めて制式採用になったというもので、
勿論わたしにとっては見るのも初めてのものでした。

そのわりに近くで写真を撮るのをすっかり忘れていて、
写っていたのは辛うじてこの一枚だけでした。





ところで不思議なのは「5インチ砲」といわれる「51番砲」(5インチ・1番砲)
なのに、実際砲身は62口径なのです。
最新型のMod4は対地攻撃力を上げるために砲身を延長しているんですね。

名称を「6インチ砲」になぜ変えないのでしょう。

とにかく6インチにかえたことで、射程は今までの24kmから37kmに
飛躍的に伸びました。

「ここから撃ったらどこそこまで届きます」

と言っていたような気がしますが、どこだっけ。
距離的に羽田空港くらいかも。っていうか国内で撃たないでね。


砲の代わりに展示してあった砲弾と砲殻だけ撮ってきました。

砲殻には「教練」砲弾には「試」が記載されています。
砲殻の先を見れば傷がついているのが分かりますが、
これは勿論床にばらまかれたときのものだろうと思われます。

「素材はなんですか」

と近くにいた隊員に聞いたところ「真鍮です」とのこと。

「やっぱりこれも甲板に散らばると傷がつくんですか」

と妙な質問をする見学者。(わたし)
やはり普通の軍オタとは目の付け所が(全く)違うわね。

「付きますね。その度に塗り替えますが」

それを横で聞いていた男性の見学者が床を指して

「あ、ここに傷跡がある」

指差す方を見ると、ペンキの下にかすかに
細い三日月状の凹みが見て取れました。

「あー、これですね」

納得とちょっとした連帯感に包まれる周りの見学者たち(笑)
声をかけてきてくれたおじさんもそうですが、こういう
同好のよしみの触れ合いというのがあると、艦艇見学が
また一層楽しいものになると思った瞬間でした。



う・・・・・美しい。
舫索をこのように置くのは世界共通の慣習なんですか?
きっちりと編まれたかのように並べられた索はもはや工芸作品の域。



VLS 発展型シースパローミサイル。

アスロック、つまりアンタイ・サブマリン・ロケットが
発射可能な垂直発射装置です。

この写真は腕を思いっきり上に上げて撮りました。
一番低い部分から撮ってもこんな感じです。

Mk.41VLS垂直発射機のセル面は艦首に向かって低くなっているように見えます。
水平に対しても少し前傾しているように見えますが、なにしろ
「垂直発射」だから、実際はどうなんでしょうか。


なお画面右に少しだけ写っているのはセルにアクセスするための
短いラッタルです。



左舷側の舷梯は降ろされていましたが、通行できないようになっていました。

舷梯の踊り場のようなところが中央一点留めですが、
ここを支点として角度を調整することが出来ます。
地上の自衛官がみんなで力を合わせて引っ張るのですが、
場合によっては陸自隊員のお力を借りることも・・・。

「きりしま」仙台港に入港の様子

こうして見ると、全くの手動なので結構力が必要な作業みたいです。



出口近くにHOS−303、Mk.32。

この名称の意味は

H=発射管

O=水上艇用

S=短魚雷

さらに300番台は3連装を意味します。
この303は「ひゅうが」と、それ以降の護衛艦に搭載されています。

先日ハイラインの話をしましたが、この魚雷も、
補給艦から移送することがあります。

その際、精密機器である魚雷は専用のキャニスターに収められ、
そのまま運搬され搭載されます。



そういえば砲雷長が菊地という人だったフネがあったことを思い出しました。

右側のツマミは「管体部ヒーター」のスイッチのようですが、
魚雷ってヒーターであっためなくてはいけないんでしょうか。

二昔前くらいまでは、車の運転をする前にエンジンを温める作業が必要で、
特に寒冷地や冬期にはエンジンに負荷を与える前の必須事項だったそうですが、
それと同じようなことをしているのかも。

わたしが免許を取った頃はすでに暖機運転、とくに停車してのアイドリングは
推奨されていなかった記憶がありますが、それというのも環境問題が
クローズアップされてきたためで、最近は不要な排気ガスの排出を抑えるため、
低負荷や回転数を抑えた走行による走行暖機が推奨されているのだそうです。

というか、暖機運転って今の車にも必要だったんですか?
わたしは免許を取ってこの方一度もしたことありませんけど(笑)



ちゃんと発射管には艦番号が書かれていました。



何を意味するのか分かりませんが、
丸いものは「てるづき」の「月」ではないでしょうか。



魚雷を前から。
「あきづき」型は発射管はステルスシールド内に収められており、
使用するときだけ舷側のシールドを開き、そののち
発射管を底から斜め45度に指向して発射を行いますが、
このときはステルスシールドは開けられています。

展示のために開けてみせていたということでしょうか。



そのステルスシールド部分を外から見るとこうなります。

二つのシールドの間に丸く穴があいているように見えますが、
これは(確認できませんが)舷窓かもしれません。
シールドを閉じているときの確認用、かな? 




黄色と黒のテープを貼っていたにもかかわらず、つまずいた謎の物体。



というわけで「てるづき」見学終了。
ラッタルを降りてきました。

右側がこれから見学しようとする人たち。



岸壁から海面を覗き込む人がいるかもしれないので
(わたしも制限されていなければ覗いていたと思う)
必ず見張りが立って警備をしています。



さて、それではヘリコプターの見学に向かいますか。
近くに行けるどころか、コクピットに座らせてもらえる模様。

このヘリはローターの先端がまっすぐなので、SH−60Jですね。
先が折れているように波打っているのが「K」です。



とりあえず外側を一周してみました。
こちらは後部座席で、レドームのような「下を覗ける」ガラス窓から
子供が外を見ています。



アップにしてみてあらためて思うけど、航空機って近寄ってみると結構汚れてます。
「排気に注意」と書かれていますが、ここから後部に向かって噴出するのでしょうか。



この四角いハッチはどうやら給油口らしい。
皆が触るので真っ黒です。

四角く空いている窓は通風口と説明があります。

ヘリコプターもアースを取るのは必須らしく、
ここにアースがあると示されています。



尾翼のフラップはさらに風を終止受けるせいか真っ黒。
なぜか「ハンドホールド」と書かれた穴があいていて、
それに手を入れて自分で写真を撮っていた人がいたので
わたしもついでに撮らせてもらいました。

わざわざつかむための穴が穿ってあるというのは、力を入れて
このフラップを手動で上げたり降ろしたりすることが
しょっちゅうあるということなんでしょうか。



近くにいた女の子が

「魚雷積んでる、魚雷〜!」

と盛り上がっていましたが、残念ながらこれは魚雷ではありません。
これは

AN/ASQ-81 磁気探知装置(MAD)

MADバード、ともいうようですが、このミサイル状のものは潜水艦を発見するために
ワイヤーで長く伸ばして曳航するものです。

SH−60は「対潜哨戒機」で、だからこそ護衛艦に艦載されているのです。

このセンサーは、機体の金属部分や電気機材の干渉を減らすために、
このような機外にできるだけ機体と離すようにして保持し、
使用時も空中に曳航されなくてはなりません。

しかしそれでもなお、地磁気の乱れや変化を探知するには、
潜水艦が海面の近くにいて、かつ航空機も非常に近い位置にいる必要があります。

もちろん潜水艦の大きさや船体の材質によって発見可能範囲も変わってきます。




二列ができていて、コクピットに座る列、後部座席の列でした。
後部座席の列は比較的短いものでしたが、コクピットはかなりの長さ。

わたしはこの日午前中一杯を見学に費やすことに決めていたので、
迷うことなくコクピットの列に並びましたが、これは日頃から

「並ぶの大嫌い」

なわたしには画期的な行動と言えます。
カレーグランプリのときに並ばなかったのも、
護衛艦見学と秤にかけて護衛艦を選んだからだし、
つまりわたしの「自衛隊装備好き」は食い気を凌駕するだけでなく、
行動の基準まで左右しているらしいことがわかりました(笑)

これが本当の”MAD about~”ってやつですか。



続く。



 

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