戦艦「マサチューセッツ」艦内には、コンパートメントを利用して
博物館のようにテーマを決め関連する展示を行っています。
これはカリフォルニアの「ホーネット」と同じ方式です。
今思い出せるだけでも、慰霊のための「メモリアル・ルーム」の他は
「ウーマン・プロテクティング・ US」(女性がアメリカを守る)という
「アメリカ軍と女性」に焦点を当てた企画、Dデイ、真珠湾攻撃コーナー、
それからPTボートと呼ばれる高速魚雷艇のコーナーなどがありました。
Patrol Torpedo boat、哨戒魚雷艇。
全長20m、排水量50t程度の木製の船体に航空機用エンジンをデチューンして搭載し、
40ノット(約70km/h)以上の高速で航行することができました。
「魚雷艇」ですので、中央部分にはMk13魚雷を積んでいます。
初期は魚雷落射器とのセットを4組搭載することが多かったようですが、
この艇は後期のものらしく、2組だけです。
魚雷や機銃や機関砲、さらには対戦車砲をも搭載する型もありました。
排水量あたりではかなりの重武装といえます。
これは40mm機関銃。
乗員のネズミがかわいいぞー。てかなぜネズミ?
艇首の茶色いネズミが撃っているのは、アス比が正確でないので
確かなことはわかりませんが、エリコン20mmのような気がします。
艇長(白ネズミ)と副長(茶ネズミ)はちゃんと軍帽着用。
テッパチにカポックの乗員もおります。
なぜかセーラー帽に青いシャツの水兵もいますが。
右側のテッパチ白ネズミさんの武器はブローニングM2機銃のつもりかと思われます。
なにやら記録しているエンジニアらしきネズミ。
戦争中には768隻(アメリカ向け511隻、ソ連向け166隻、イギリス向け91隻)と
量産され、1隻ずつが「スコードロン」だったので、いちいちこうやって
各艇のメモリアルコーナーをブースごとに並べているわけです。
一つ一つ見て歩きたいのは山々でしたが、いかんせん限られた時間、
写真を撮るにもあまりにもブースが多すぎて断念しました。
代表して一つだけ、スコードロン20のPTボートのコーナーの写真を撮りました。
正式な艇名は、「U.S.S. PT-252」というふうに呼称されていたものです。
中央のプレートが全艇員の名なのだとしたら、42名分あるわけですが、
定員は2〜3名の士官を含む11〜7名だったといいますから、
この勤務もせいぜい1〜2年で移動となったのかもしれません。
スコードロンマーク。
ついでに?となりのスコードロンマーク。
PTボートは予備役士官と応召兵で運用が行われました。
一般の大学に設置された予備役将校訓練課程( ROTC)を経た士官を
予備役将校といったわけですが、若き日のJFKもハーバードでこの課程を受け、
PT-109の艇長をやっていたことがあります。
右端がケネディ中尉だそうですが、なんというか同じ目線というか、
すっかりナカーマという感じのフレンドリーな雰囲気ですね。
写真を撮っている人を入れて11名が乗り組んでいたようです。
ケネディ艇長指揮のPT-109は、1943年8月2日、ニュージョージア島西方で
輸送任務に就いていた日本海軍の駆逐艦「天霧」に衝突され炎上・沈没しました。
これは戦闘行為ではなく、「天霧」の操艦ミスでした。
「天霧」に座乗していた司令官(艦長ではない)が、PTボートの接近を見て
魚雷艇に衝突してしまうと魚雷の誘爆に巻き込まれるかもしれないと判断し、
回避のために「取舵」をまず指令しました。
ところが艦長が次の瞬間「面舵」と号令してしまったのです。
なんでやねん。
と思うわけですが、実はこれは艦長に理がありました。
緊急回避の際は面舵いっぱいというのが艦船の通例であり常識だったので、
艦長はおそらく自分の「常識」から脊髄反射で「面舵」を口に出し、
次の瞬間司令の号令とは逆であることに気がついたのでしょう。
先日どこかに書いたように、海軍の慣例では、座乗している司令官が
たとえ階級的に上位であったとしても、艦の操艦権限は艦長にあります。
この場合、最初に司令が回避命令を出したのは越権行為というべきものでした。
しかし、そこで性格によるものか、空気を読んでしまったのか、それとも
出世とかあとあとの気まずさとかを日本人らしく考えてしまったのか、
次の瞬間艦長は「艦長絶対」と「操艦のセオリー」より、上官命令を優先し、
とっさに命令の言い直しをしてしまったのです。
つまりいったん出した「面舵」を「取舵」と修正して号令し、
その結果駆逐艦はPTボートに激突してしまったというわけです。
艦長が自分の出した命令を言い直しさえしなければ、衝突は回避できたかもしれません。
つまり、この衝突の最大の責任は、分をわきまえずに最初に命令を出した司令ではなく
艦長にあったことになります。
PTボートが木でできていたということを示すための展示。
このパーツはPT-139の「サイドセクション」だそうです。
普通のPTボートはマホガニーの2層のレイヤーでできていました。
レイヤーには水漏れを防ぐため、防水を施した航空機用のキャラコ布を挟んであり、
まさに板切れを鋼鉄のパーツでつなぎ合わせたという感じの代物です。
この下の木片は船底部分だそうです。
とにかくスピードを確保するために、軽い船体に航空機用のエンジンを
デチューンして搭載しているというのが売りだったのです。
さらに艇体の軟弱さは、航空機エンジン搭載のスピードでカバーできる、
という思想で、このケースでも本来なら衝突を避けるためにPTボートの方も
全速で逃げればよかったのですが、不運なことにこのとき、
日本軍の航空機による攻撃を避けるため、騒音および航跡を残さないように、
三基の内二基を使用しない、減軸運転を行っていた。
ゆえに速度が遅いまま航行していたので魚雷艇側も舵の効きが鈍く、
回避が困難であった。(wiki)
というわけで駆逐艦「天霧」とぶつかったPT-109はひとたまりもなく、
胴体が真っ二つに割れ、海の藻屑になってしまいました。
ケネディ艇長とその乗組員は近くの小島に漂着し、
数日後に救助されたのですが、このときのことが映画になってます。
1963年作品。監督レスリー・マーティンソン。(誰?)
きっと「天霧」の艦長が極悪人みたいに描かれてるんだろうなー(鬱)
見たいような見たくないような。
それにしてもこんな題材で2時間20分の超大作って。
まあ、おそらくこんな光景が展開されたのでありましょう。
この映画はケネディ暗殺の5ヶ月前に日本でも封切られているそうです。
ケネディのボートは、もともと日本軍と対峙していたツラギに配属され、
日本軍の輸送業務を妨害する任務でソロモン諸島に向かったのでした。
会敵できず帰投する航行中、不意に「天霧」に遭遇、いきなり衝突、
このときにすでに2名が戦死しました。
ケネディと残りの乗員たちは海の中で「天霧」が去るまでじっと待ち、
その後大破した船体の木にしがみついて、近くの島まで泳ぐことにしました。
このときケネディは負傷した部下の命綱を咥えて6キロ泳ぎ、さらには
島に着いた後、救助を求めて5キロ以上を泳いだということです。
ケネディはハーバード時代、水泳部だったのでした。
これを見る限り背泳はあまり上手ではありませんが。
7 Photos of JFK's Harvard Swim Team Days
ハーバードのプールは、タイタニック沈没でハーバード卒業生だった
息子を亡くした富豪ワイドナー未亡人の寄付でできた(ワイドナー図書館も)
といいますが、ということは、ケネディがこのとき命存えたのも、
間接的にワイドナーの寄付のおかげだったといえないこともありません。
しかしそれでなくても、鱶がうようよしている海でよくまあ無事だったものです。
彼らがたどり着いた島には水も食料もなかったため、ヤシの実がある島へ移り、
ココナッツにメッセージを刻んで、そこの島民に連合軍に届けるよう託しました。
それはうまくオーストラリア軍の手に渡り、6日後にケネディたちは救出されました。
ちなみにこのメッセージ入りのココナツは、その後彼が大統領になったとき、
執務室にずっと飾ってあったそうです。
艇沈没後の行動はともかく、海軍的には、このときのケネディ艇長の資質を
疑問視する声もあったと言いますが、ケネディの父ジョセフは、
海軍・海兵隊勲章を受け取れるよう手をまわして息子をヒーローに仕立てました。
彼は政治家になる前にすでにこの件で十分に有名人だったのです。
後に下院に立候補した際には、宣伝材料としてこれを報じた記事が配られました。
(もちろん配ったのは父親)
さて、ここで注目したいのが元「天霧」の艦長始め乗員たちです。
彼が上院議員に立候補したときそのニュースは日本に伝わりました。
「天霧」乗員一同は、自分たちが沈めたボートの艇長が
生きていて政治家になったことに驚き感銘を受けたのでしょう。
1952年の上院選と1960年の大統領選の際には元乗員一同の名で
ケネディに激励の色紙を贈ったりしたそうです。
天霧乗員たち(海自隊員の姿あり)
そして、そのケネディが訪日したとき、「天霧」の艦長は
こんな手紙を送りました。
1952年9月15日
親愛なるミスターケネディ、
わたしはホソノグンジ医師から、1943年ソロモン海域での戦闘で
日本海軍の駆逐艦に沈められた戦闘艦があなたの指揮下にあったのを聞きました。
その駆逐艦の艦長であったわたしにはそれは大いなる衝撃でした。
1952年8月18日付のタイムマガジンにそのことが書かれており、
読んだ途端にわたしの記憶は新たに蘇り、まざまざとあのときのことが浮かびました。
(中略)
今こそわたしにあのときのことをお話しさせてください。
わたしは1940年10月以来「天霧」艦長を務めていました。
日米両国の最終的な外交努力の成功に最後の望みをかけつつも、
当時日本が置かれた経済状況を鑑みて、日本海軍は最悪の準備を行いました。
わたしたち若い士官にも、海軍力で劣るアメリカと英国を相手にすることが
いかに無謀なことかはわかっていましたが、極秘のうちに計画された
真珠湾攻撃を知ったときにはまさに動揺を禁じ得ませんでした。
ほとんどの海軍軍人はこの戦争の成り行きに普通に悲観しておりましたが、
東条大将の内閣の巧みな開戦時の宣伝によって
勝利への希望的観測を持たされていたといえましょう。
ミッドウェイ海戦以降、状況は変わり、日本とは違って
米国は政治的にも、国民の戦意も、全てが有利になっていきました。
わたしはソロモン諸島での戦いに従事しておりましたが、
ガダルカナルでの連続した敗北に対し、憂慮を感じていました。
1942年から3年5月までの間、わたしはトラック諸島での海上勤務で、
その後駆逐艦「天霧」の艦長を拝命しラバウルに移ったのは6月です。
その頃からアメリカ軍の反撃はますます激しくなりました。
制空権も取られ、昼間動けなくなった我々は、駆逐艦で夜になると
アメリカの人員と弾薬を輸送する任務を妨害しなければなりませんでした。
我々の旗艦はあなたがたの艦隊にいとも簡単に沈められました。
我々は知る由もありませんでしたが、レーダーの力です。
この後の連続的な敗北の後、我々はラバウルに後退しました。
1943年8月初頭、わたしは、駆逐艦としては大型のわたしの艦に
向かってくる小さな敵の艇を見ました。
銃に装填する間もなく両者は接近し、我が駆逐艦は
ボートにまず激突し、これを真っ二つにしました。
このPTボートがあなたの指揮する艇であったことは衝撃でした。
わたしは、あなたがこの戦いで見せた大胆かつ勇気ある行動に
心から敬意を表するとともに、また、あなたがこのような状況下から
奇跡の生還を遂げられたことを祝福するものです。
タイム誌の記事によるとあなたは次の選挙で上院議員に立候補されるとか。
あなたのようにかつての敵にも寛容である方が高位についてくださったら、
間違いなく日米両国の真の友好が、のみならず世界平和の秩序もまた
促進されていくものとわたしは固く信じています。
あまり丁寧に訳していませんがおおまかな意図は間違っていないと思います。
正直、とくに前半の部分は、読んでなんだかなあ、と思いました。
戦争の経緯ををことさら解説せずともケネディには周知のことだっただろうし、
全体的にも、なんだか自分たちを卑下しすぎやしないか、と感じたのも事実です。
ケネディもそのときは日本の輸送船を沈めるために出撃していた訳で、
お互い自国のために戦う軍人として相見えたというだけなのですからね。
ただ、衝突事件についてどっちが悪いとか、沈めてごめんなさいとかではなく、
健闘と勇気を讃えて、さらに政治家としての成功を祈るという、
非常に清々しい、ネイビーらしい手紙であるとも思いました。
あるケネディ研究者によると、この事件は、
ケネディのその後の人格形成に大きく影響しているそうです。
なかんずくそれは、大義のために死んでいくことへの疑問や
全面戦争とか総力戦といった言葉への嫌悪となって表れました。
”政治が我が子を戦場に送り出すことに留意するとき、
その目的には明確な信念と理由ががなければならない”としている。
そして大統領に就任後は、大国同士の誤算を懸念し、
意図せずして戦争に巻き込まれていく危険を常に意識していた。
(wiki・一部変更)
ケネディが手紙をどのように読んだのか、もはや想像するしかありません。
実際に彼がこの衝突事件で生死の境をさまよったことが
彼のリベラルな思想を形成した、という分析はほぼ間違っていないでしょう。
ゆえに未来の大統領は、かつての敵から送られてきた手紙の、とりわけ
「東條内閣の宣伝によって我々は勝てる気がしていた」
というところに、あくまでも「他山の石」的な意味で
小さく共感を覚えたのではなかったか、と想像してみます。
+おまけ+
ケネディのメッセージ入りココナツをオーストラリア兵に届けた
島の住民、ビウク・ガサおじいちゃん。
「J.F.K. はわしが助けた」のTシャツを着ています(笑)