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”花は咲く”〜平成28年度遠洋練習艦隊帰国

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本年度の自衛隊遠洋練習艦隊はヨーロッパ各地に寄港しました。
岩崎司令の報告のなかで印象に残ったことは、

◯ロンドンではテムズ川に繋留したが川底が浅いので大変だった

◯リトアニアでは杉浦千畝記念館を見学した

◯同じくリトアニアで国境線に立った

◯フランスのブレストでは仏駆逐艦アキテーヌとUボートドックを見た

ということでした。

フランスにあるUボートドックはもちろんドイツ海軍の使用したもので、
戦後も堅牢な作りが評価されてそのまま使われたとかなんとか。

そして特筆すべきはなんといっても、

◯フィリピンで未だに現役である元護衛艦「はつひ」、
現フィリピン海軍フリゲート艦「ラジャ・フマボン」と遭遇した

 

ラジャ・フマボン (BRP Rajah Humabon PF-11) は2011年まで、
長年にわたりフィリピン海軍の旗艦を務め、最大の戦闘艦艇とされていましたが、
実は1943年にアメリカで建造され、その名を「アサートン」といって、
それこそ第二次大戦でUボートと戦いを繰り広げていた駆逐艦です。

ラジャ・フマボン
 

1955年、自衛隊に供与されあさひ型護衛艦「はつひ」と名前を変え、
同じく貸与された元はアミック (USS Amick, DE-168)である
同型艦「あさひ」と2隻で活動し、旧帝国海軍の駆逐艦「梨」こと
護衛艦「わかば」と共に、黎明期の護衛艦隊を支えたという経歴の艦。

それが、フィリピンでは今でもバリバリ現役で就役中らしいのです。
「あさひ」とともに1976年からフィリピン軍籍となり、
「あさひ」が台風被害などで退役するも、「フマボン」となった「はつひ」は
実に40年の時空を超えて、再び日本国海上自衛隊と邂逅したということになります。

さて、それではまた再び横須賀地方総監での帰国式典の様子を。

地方総監部も半旗を揚げていましたが、「かしま」も
ご覧のように国旗に弔意を表しており、これが
海上自衛隊と深い関わりを持っていた三笠宮親王閣下の
薨去を受けてのことであると場内に告知されました。 

さて、遠洋練習艦隊帰国に当たって、海幕長からの激励の言葉です。

無事の帰国を寿ぐ言葉の後は、

「リトアニア共和國始め各国海軍との
連携をより深化させるのに練習艦隊が寄与したと確信する」

と続きました。

諸外国海軍との交流を通じて海軍の負っている役割、各国の安全保障の現状、
そして取り組みを自らの目で確かめることになり、海上防衛を国防の要とする
我が国にとって自らの使命を自覚する航海となったことであろう、と。

わたしは前海幕長のときにも帰国激励を聞きましたが、

「海上自衛隊のすべての任務の基本が海上にあることを踏まえ、
いかなる配置であろうとも、海上勤務を基本としたものの見方、
考え方を持ち続けてもらいたい」

と一字一句違わず同じ言葉が繰り返されていることに気づきました。 
もしかしたら、必ずこの一文を入れることが決まっているのか、
あるいは帰国激励のときの「定型文」があるのかもしれません。 

ところで、これを聴きとるためにビデオを見直したのですが、
海幕長の言葉が時々聞こえないくらいの風の音、テントが揺れて
ポールの金属が軋む音に改めて驚きました。

この日の横須賀埠頭には、海幕長がアナウンス前に何かを飛ばし、
それを横須賀地方総監が拾うという光景が見られたくらい
強い風が吹きすさんでいたのですが、式典が終わってふと気づくと、
テントのポールを一本一本を自衛官が掴んで立ち、
万が一の事故が起こらないようにずっと抑えていました。

帰国式典は出港のときほど時間はかかりませんが、
それでも最初から最後まで、何人もの自衛官が同じ姿勢で
参加者の安全のためテントを支え続けていたのに気付いたとき、
わたしは心の中で彼らにお礼を言いました。

当日参列の国会議員の一人、青山繁晴氏。

政治家特有の辺りを睥睨するような、それでいてどこか下手に出るような、
全く笑っていない目とか隙あらば両手で握手することにためらわない
機械的な愛想というものが微塵もなく、目は伏せたまま。
こんなところにわたしがいていいんでしょうか的な場違い感が満載です。

コートを着込んでしかも襟を立てたままリボンを上につけるというのも、
いくら寒くてもこういった式典の席には奇異な感じが拭えません。

2016年に初立候補で当選した「新米政治家」である氏は、
やはり立ち居振る舞いや参加の服装何から何まで、
全くこういう場での自分の役割がわかっておられないように見えました。

地上での式典が終了後、新任幹部は隊列のまま「かしま」に乗艦。
海士のセーラー服の襟がはためくほどの風の強さです。
襟の裏に名前を書くところがあったことをこれで知りました(笑)

幹部たちは乗員とともにもう一度「かしま」に乗艦します。
式典が終わり、来賓などの退場が終わってから、もう一度
あらためて練習艦隊旗艦を退艦し乗員に別れを告げるのです。

「かしま」舷側には舷門に近いところから幹部が一列に並び、
歩いてくる練習幹部たちの姿を記録するための写真班もスタンバイ。

後甲板に整列した練習幹部(もう練習幹部じゃないですが)が、
敬礼をしながら進んでいきます。

航海中に特にお世話になったとか、仲が良くなった乗員の前では
白い歯をみせて笑いながら通り過ぎていきます。

ラッタルを降りる途中、自衛艦旗が見える位置にくると立ち止まって敬礼。

写真が撮れた幹部のなかでも敬礼姿が決まっていたナンバーワン。

前の人が敬礼をするところを見た幹部は普通に敬礼しますが、
それを見ずに降りてしまった幹部のなかには、
旗に敬礼せずに下艦してしまった人も何人かいました。 

そして全員が岸壁に整列。

サイドパイプが響き、岩崎練習艦隊司令官が退艦の敬礼を。

「帽、振れ」

海軍時代から変わらず行われている、美しい別れの慣習です。

「かしま」幹部の貫禄の帽振れ。

帽振れが行われているのは一瞬です。
したがって前に写りこんでくる後頭部を避ける術なし。

デッキで帽振れをしていた乗員たちも笑顔でお見送り。

幹部たちは行進してこんどは「あさぎり」の前に行き、
そこで敬礼を行うようです。

写真に撮ってみると幹部は敬礼しているのがわかります。

「あさぎり」乗組員も帽振れを行っています。
デッキでは乗組員によって振られる旭日旗が翻って。 

 

練習幹部は全員が「かしま」に乗艦するわけではありません。
「あさぎり」「せとゆき」に分乗して航海が行われます。

それも固定的なものではなく、場合と事情によっては
A艦からB艦に一時的に移乗するという措置が取られることもあります。

今回わたしはたまたま「あさぎり」で帰ってきた幹部の
ご家族からこのタオルと、冒頭写真でばーん!と上げた
記念クッキーのお土産をいただきました。

お土産用にこんなパッケージのクッキーを自衛隊が企画し、
練習艦隊がこれを積んで遠洋航海に出たというところに注目ですね。


さて、今回の寄港地行事のなかで特にわたしが注目したのが、
フランスのブレストで行われた「永田丸」の慰霊でした。

「永田丸」についてはわたしも知らなかったのですが、
第一次大戦中の1916年11月、食料不足に陥っていたフランスに
米を運ぶ途中、フランス近海でドイツの潜水艦に撃沈された日本の船です。

3521トンの民間貨物船で、沈没当時、「永田丸」は神戸を出港して
フランスのル・アーブルに食品を運ぶためにウェサン沖合を航行中でした。

この攻撃によって船は沈没し、49人の乗組員のうち5名が死亡、2名が行方不明。
生存者は近くにいたスェーデンの輸送船に救助されましたが、船長が

「港内の船がことごとく半旗を掲揚して迎えてくれ、思わず涙が出た」

と語ったことが当時の新聞に掲載されています。

「永田丸」の船体は今でも周辺の海底に沈んだままであり、このことは
関係者以外の記憶から忘れられていたのですが、2012年、
「永田丸」船員の墓があるのを、この墓地を管理するボランティア団体
「スーブニール・フランセ」(フランスの記憶)が気づき、両国による
資料の調査を行ったところ、この史実が明らかになりました。

今年が第一次世界大戦開戦から100年目であるということで、
当時のフランスに支援をしようとしていた日本の船に感謝する
セレモニーが催されることになったのですが、その7月16日、
練習艦隊がこの地を訪れていたという縁で、岩崎司令以下練習艦隊幹部なども
追悼式に参加することがかなったということです。

最初から練習艦隊の予定に組み込まれていたのか、それとも現地で
偶然その行事と寄港が重なったのでそういうことにしたのかはわかりませんが、
いずれにせよ、国際支援を行うために命を落とした先人に慰霊の祈りを捧げ、
また、100年後にも支援への感謝を忘れないでいてくれるフランスに対し、
日本人を代表して感謝を返してくれた彼らにもお礼を言いたいと思います。

慰霊はもちろんこれだけではなく、

戦艦アリゾナ

えひめ丸慰霊碑

アーリントン国立記念墓地

コレヒドール

その他各国の墓地などに訪れて行われました。 

初級士官としての各種訓練や試験などだけではなく、遠洋練習航海は、
海という共通点で結ばれた世界の各地に、日本の代表として訪れ、
そして見聞を広めるにとどまらず、外交を行うというのが任務です。

わたしたちには望んでも不可能なこの大々的な世界一周によって得た経験を、
これからの自衛官人生に大いに生かしていってほしいものです。

わたしが横須賀地方総監部を後にし、ヴェルニー公園から
振り返ってみると、また「かしま」の前に幹部が帰ってきて
家族との交流をしている様子が見えました。

このあと彼らはすぐさま赴任地に着任することが決まっています。
今回は世界一周コースなので、いつもより10日ほど航海期間が長く、
その分着任までの休みが削られてしまったのだとか。

当初帰国したらその日に赴任地に行くということになっていたようですが、
お土産をくれた幹部のご家庭では、かろうじて1日だけ帰郷して
一晩の家族再会を楽しむことができたということです。
親御さんは 

「息子も少しは潮気がついたかと思ってましたが、変わってません」

とおっしゃっていましたが、それはきっと親の目から見る「欲目」の反対で、
厳しい訓練の合間に広い世界を見、公に私に様々な経験をしてきた若者が、
何も変わらないということの方が、逆にあり得ないとわたしは思います。

この航海で得た体験は、きっと撒かれた種のように彼らの心と血肉に根付き、
自衛官として歩んでいくこれからの道に、順次花を咲かせていくに違いありません。

ヴェルニー公園で公開準備中の「陸奥」の主砲越しに望む練習艦隊。


練習艦隊シリーズ 終わり

 

 

 

 

 

 


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