戦艦「マサチューセッツ」見学です。
前回は艦内に貼られていたポスターを中心に、どれも機会があれば
一度見てみたい映画ばかり(ネタとして)を紹介してきました。
その後艦内を歩いていくと、こんな展示がいきなりあらわれました。
ボーイ&ガールスカウトコーナーです。
なぜ戦時博物館でもある「マサチューセッツ」にこのような展示が?
よく考えればボースカウトの「スカウト」とは「斥候」の意。
創始したのはイギリス人の元陸軍中将(ロバート・ベーデン=パウエル卿)
であり、もともとは下士官兵向けの斥候の手引き書を、青少年向けに
わかりやすく書き直したことがスカウト創設のきっかけとなっています。
したがって戦時中にはスカウトが、
「少国民としての心構えを培う訓練」
という意味合いを帯びてきても、ある意味当然の成り行きであったかと思われます。
少なくともアメリカではそうだったようですね。
ちなみに、創始者のベーデン=パウエル卿、通称BPは、二度までも
ノーベル平和賞の候補に挙がっていますが、1度目は逃し、
二度目は戦争中で平和賞の選定そのものが取りやめになっています。
こういう人物にこそ平和賞を授与するべきだと思うのですが、
対戦中は政治情勢の影響を受けやすいこの賞はそもそも発表が行われず、
しかもBPは1941年に83歳で亡くなったので、
「生存している個人」
という条件を満たさず、ついに彼の受賞はないままでした。
まあ、この平和賞、
国家間の友好関係、軍備の削減・廃止、及び平和会議の開催、推進のために
最大・最善の貢献をした人物・団体」に授与すべし
というのが設立の目的ですが、近年では「平和」の概念を広く解釈しており、
受賞対象者は国際平和、軍備縮減、平和交渉だけでなく、人権擁護、
非暴力的手法による民主化や民族独立運動、保健衛生、慈善事業、
環境保全などの分野にも及び、また政治的情勢や受賞後の影響を期待した
メッセージを発信するために贈られる場合もある。(ウィキ)
最後はそれなんてオバマ、という受賞ですね。
超余談ですが、平和賞といえば、劉暁波氏のノーベル平和賞に対抗して中国が
「孔子平和賞」
というのを作っておりますね。
いやこれ、皆さんwikiご覧になったことあります?
今まで海外の受賞者が誰一人(プーチン含む)賞を受け取りに
行っていない(つまり全員辞退)というのも、村山富市が候補に上がり
「健康上の理由で」辞退したのも(言い訳だと思うけど)さることながら、
2015年の候補者の名前を見ただけで思わずめまいが・・・。
福田康夫、村山富市、潘基文、朴槿恵、ビル・ゲイツ、ロバート・ムガベなど
福田さんもビル・ゲイツも辞退したと思うけど、もし潘基文、それから
パククネだったら、彼らは受賞・・・・しただろうなあ。
どっちも中国の軍事パレードにいそいそ参加してるし。
そして2014年、我が日本からの候補者に、もし受賞していたら、誰よりも
いそいそと中国に賞を受け取りに行ったに違いないあの人の名前が・・・。
閑話休題。
ユニフォームの左側には1940年から42年までのスカウトの制服の
写真がありますが、まるで軍服のようです。
1910年にアメリカでスカウトを創始したウィリアム・ボイスの写真をはじめに、
トレイルを読んでいくとアメリカのスカウトの歴史がわかる仕組みです。
やはり戦争中は国債を買おうという運動をしていたようですね。
1940年代のボーイスカウトとカブスカウト(左)の制服。
どちらも今とあまり変わらないように見えますがどうでしょうか。
ここからはボーイスカウトのポスターです。
子供達は昼間の疲れでぐっすり寝ている中、
寝ずに火の番をするリーダー。
「マイティ・プラウド」という題名の絵は、カブスカウトから
ボーイスカウトに進み、新しい制服を着付けてもらっている
少年の誇らしそうな様子と、それを暖かく見守る家族を描いています。
右側は「正しい道」。
上から下へと正しい道を伝えていく、それがスカウト運動であると・・・。
スカウトの少年たちの後ろに海軍の水兵がいますね。
これらはほとんどがノーマンロックウェルの作品です。
マサチューセッツ出身の画家で、わたしは一度
ノーマンロックウェル美術館に行ったことがあります。
題名は「我々が受け継ぐもの」。
馬から降りて手を合わせている人物は、独立戦争の指導者でしょうか。
「スカウトのトレイル(ハイキングなどの道)」
ボーイスカウトの思い出を持つかつての少年たちなら、
どれも「こんなことあったなあ」という懐かしさを感じるのでしょう。
夜の闇の向こうに見えるのは、どこかに向かって歩く古の人々のシルエットです。
信号セット、ボーイスカウトの本、規則に「宣誓の言葉」。
スカウトの進級式のことを「上進式」といい、丸めた旗に手を置いて、
右手を上げ、宣誓の言葉を述べます。
戦争が始まって日系人たちは強制収容所に入れられました。
そこでもボーイ&ガールスカウトの活動は行われていました。
野球をしたり新しく入った収容者の面倒を見たり、そして
誰かが戦地で亡くなったときにはセレモニーを行いました。
写真は、収容所でガールスカウトの受付をするキム・オバタ。
ワイオミングにあったハートマウンテン収容所。
列車から降りる新収容者の荷物を受け取るために
ガールスカウトの一団が出迎えています。
同じくハートマウンテン収容所。
同収容所出身の兵士が7名戦死したので、
そのメモリアルサービスを執り行うガールスカウト。
「明日のリーダー」。
国債の購入のように、世論一帯が戦時調になると、
スカウトのポスターもそれを意識した勇ましいものになっていったようです。
戦時中におけるスカウト運動というのは、おのずと
国の姿勢を反映し、その目的も「国の誇り」「国の守り」ということに
フォーカスするとともにその存在そのものが小さな軍隊のようになるのは
ある意味当然のことなのかもしれないと思いました。
もちろんわたしはそれに対し、否定的な意見を持つものではありません。
なお、並べられている名誉メダル、メリットバッジのなかに
「マッカーサーメダル」(1940)
を発見。
このマッカーサーってあのマッカーサー?と思ったのですが、
どうもジョン・マッカーサー教会というのがあって、これが
スカウト運動となんらかの関係があるようなのです。
ただ、マッカーサーつながりでお話ししておきます。
我が日本では世界的にスカウトが普及した創設2年後の1913年には
ボーイ&ガールスカウトは輸入されており、10年後の大正11年には
あの「お髭の総長さん」、後藤新平が総裁となり連盟が発足しています。
翌年起こった関東大震災では、スカウトは各種奉仕活動を行いました。
大戦中も「大日本少年/青年団」として存続していたのですが、
終戦と同時にGHQによって活動を停止させられています。
これはおそらく、GHQが、「大日本少年団」という名称から、スカウトを
ドイツのヒトラーユーゲントと同様に認識していたからではないでしょうか。
さらにいうと、日本でのスカウト運動を禁じた、ということはとりもなおさず、
アメリカ国内におけるスカウトに、ナショナリズムによる国威発揚の傾向が
特に戦時中にはあったということを自ら認めていた、ということでもあります。
終戦後、中断していたボーイスカウトは1947年に復活のための委員会ができ、
そのさらに2年後に再開されることになりました。
この時に旧伯爵三島通陽および、元朝日新聞記者の村山有らが中心となって
活動再開を請願し、これに許可したのが、当時の日本における最高権力者である
GHQ司令官ダグラス・マッカーサー元帥だったことはあまり知られていません。