この「メモリアルゾーン」見学も、午後のツアーにない行程です。
この写真は見学コースから撮ったもので、
このモニュメントに近づくことは許されません。
これは自衛隊殉職者の慰霊碑です。
「自らの危険は顧みず」任務にあたり、
陸に海に空に、訓練演習、災害派遣の完遂の務めた
自衛隊の幾多の隊員が職務に殉じました。
昭和25年の警察予備隊創設以来、昭和24年6月現在で
その殉職者の数は1800名を超えます。
この殉職者慰霊碑は、このような隊員の功績を永久に顕彰し、
敬意と追悼の意を捧げるために昭和37年建立されました。
しかしながら風化による傷みが目立ってきたため、
遺族の要望を受ける形で昭和55年10月15日、
このモニュメントに建て替えが行われました。
再建のための費用は防衛共済会事業費と、全自衛隊隊員の
拠金(カンパ)によって賄われています。
近くまで立ち寄ることができなかったのが残念ですが、
見学者は30メートルくらい手前の通路からそれぞれ手を合わせ、
祈りを捧げていました。
モニュメントは誰が見てもわかりますが富士山を象っています。
碑銘は当時の首相鈴木善幸の揮毫によるもの。
旧モニュメントの「池田隼人首相の銘石」が、右手に残されました。
この慰霊碑には、歴代防衛大臣などの防衛省幹部の理着任時や、
海外要人の来省の際には献花が行われることになっています。
ところで、このツアー。
何でもかんでも事細かに教えてくれるわけではありません。
もしかしたら聞いたら教えてくれたのかもしれませんが、
メモリアルゾーンに向かう途中に、このような
いかにも何か曰くありそうな
神社があるではありませんか。
しかし説明なし。
この日一日説明を聞いて、どうやら防衛省は
「旧軍にまつわるものはスルーする傾向にある」
ということを見破ったエリス中尉、きっとこれは
何かそのような曰くがあるに違いないと思い調べてみたところ、
これはかつて雄健(おたけび)神社といい、大正5年に
陸軍士官学校の校長の命名により創建されたものでした。
昭和16年予科士官学校の移転に伴い
ご神体は朝霞の振武台に遷されました。
しかし社殿はそのまま遺され、陸軍省・大本営陸軍部・
教育総監部が同地にある状態で終戦を迎えました。
戦後は復員省・極東軍司令部などが同地を利用していましたが、
昭和34年防衛庁に移管、陸海空幹部学校や
東部方面総監部などが同地を利用、平成12年には防衛庁本庁がここに移転、
此の間社殿は撤去されずに存在し続けてきました。
平成14年メモリアルゾーンの整備に伴い、少し位置は移されましたが、
現在もなおご神体不在のまま90年の風雪に耐えて現存しています。
今ご神体が無いので、祭祀も行われていないということですね。
この時ご神体を別の場所(朝霞神武台)に移したのは、
やはり進駐軍による接収四散を防ぐ意味があったようです。
ご神体こそないものの、かつて陸軍予科士官生が毎日額づいた場所。
やはりこのような社殿を取り払ってしまうのは勇気のいることらしく、
ここにぽつんとその社殿だけが残されているというわけです。
このように、このメモリアルゾーンには結構いろんな
「軍的な碑」があり、もっとも決して隠しているわけではありませんが、
ツアーでは一切説明はされません。
どんな団体が鵜の目鷹の目で粗探ししに
わざわざやってこないとも限らないからでしょうね。
つまりそういったものを顕彰しているところを左巻きや「市民グループ」
に目を付けられたりすると、皆様の防衛省としては厄介なことになるから、
とエリス中尉激しく勘繰ってみました。
おそらくそうはずれではないと思われます。
例えばこれ。
陸軍幼年学校の碑。
明治30年、明治天皇の御聖旨により設立された
陸軍幼年学校を記念する碑。
昔戸山ヶ原にあった碑ですが、学校発祥の地
市谷に移しました。
砲一碑
野砲兵第一連隊および野砲兵第101連隊の記念碑。
昭和44年に建てられました。
市ヶ谷駐屯地・基地記念碑
いまいち意味が分かりませんが、まあそういうことです。
後は
大元帥陛下御立所
昭和天皇が士官候補生の馬術訓練をご見学された所
戦史室後の碑
大東亜戦争に関する戦史叢書102巻が編纂された
戦史室の跡地に置かれた碑を移設した
戦史叢書の編纂って、国家的大事業だったんですね。
東京オリンピック支援集団司令部跡の碑
昭和39年の東京オリンピックを支援するため、
自衛隊には「自衛隊支援集団」が編成されました。
この司令部に置かれていた碑を移設
とまあ、このあたりは比較的問題?は無いのですが、
これなど、かなり「左翼的に」糾弾し甲斐のある物件かと。
陸軍少佐晴氣誠慰霊碑
陸軍少佐晴氣(はるけ)誠は、
大本営陸軍部作戦班に勤務中、敗戦を知り
その責任を感じて8月17日の早朝、この地で自決
ここは当時陸軍省の大正天皇御立所がありました。
晴氣少佐は陸軍大学を恩賜の時計で卒業した秀才でしたが、
サイパン陥落の責任を感じ、絶えず死に場所を求めており、
終戦をきっかけに自決に至ったものと見られています。
妻に残された遺書は次のようなものでした。
戦いは遠からず終わることと思う。
而して、それが如何なる形に於て実現するにせよ、
予はこの世を去らねばならぬ。
地下に赴いて九段の下に眠る幾十万の勇士、
戦禍の下に散った人々に、お詫びを申し上ぐることは、
予の当然とるべき厳粛なる武人の道である。
サイパンにて散るべかりし命を、
今日まで永らえて来た予の心中を察せられよ。
武人の妻として、よくご納得がいくことと思う。
而して予の肉体は消ゆるとも、
我が精神は断じて滅するものにあらず。
魂はあく迄皇国を護持せんのみ。
予は茲にこの世におけるお別れの言葉を草するにあたり、
十年間、予と共に苦難の途を切り抜け、
予が無二の助者たりし貴女に衷心より感謝の意を捧ぐ。
又、予は絶対の信頼を以て、三子を託して、
武人の道に殉じ得る我身を幸福に思う。
然るに、夫として、又父として物質的、家庭的に、
何等尽すことを得ざりし事を全く済まぬと思う。
今に臨んで、遺言として残すべきものは何ものもない。
予が精神、貴女が今後進むべき道は、
予が平素の言、其の都度送りし書信に尽く。
三子を予と思い、皇国に尽す人間に育ててもらえれば、
これ以上何もお願いすることはない。
三子には未だ幼き故に何事も申し遺さぬ、物心つくに伴い、
貴女より予が遺志を伝えられよ。
予がなきあと、予が残したる三子と共に、
更に嶮しき荊の道を雄々しく進まんとする貴女の前途に、
神の加護あらんことを祈る。
予が魂、亦共にあらん。
そして、これです。
陸軍大将阿南惟畿荼毘の碑
阿南大将は敗戦に際し8月15日朝三宅坂の官舎で自刃しました。
その遺体は高等官集会所に安置され、
その後ここ市谷の海軍重砲西側で荼毘に付されました。
荼毘に付されたという本当の場所がどこであるかはわかりませんが、
この碑に加え、
杉山元元帥(昭和20年9月12日拳銃自殺)
吉本貞一大将(昭和20年9月14日割腹拳銃自殺)
の自決の碑(いずれも市谷台で)をこの場所にまとめてしまいました。
あとは
全陸軍航空奉賛同人会碑
全陸軍の航空部門における戦没、殉職者の碑
など、つまりこのメモリアルゾーン、実は
旧陸軍の死者を顕彰する碑が圧倒的に多い
ということなのです。
せっかくメモリアルゾーンを見学コースに入れておきながら、
旧軍関係の碑については全く触れない。
もちろんこれは「表向き」であって、参加者には全員に
このメモリアルゾーンの碑について説明した冊子を配りますから、
決して「蔑ろ」にしているというわけではないのですが、
わたしはこういう「配慮」(誰に対する?)をする防衛省に対し、
先日少し書いた
「これじゃない感」
が、またもやむくむくと湧き起ってくるのを
抑えずにはいられませんでした。
実際のところ、
「旧軍の名残り」が市谷のあちらこちらに点在しているのは
今後のことを考えても色々と大変だから、
いっそこういうコーナーに皆まとめてしまおう!
というわけで、荼毘の地や自決の地に置かれていたものを
一か所にまとめてしまいたかった気持もわからなくはありませんが、
(晴氣少佐の自決は富士山のモニュメントのすぐ裏なので動かさず、
そのままになっているらしい)
都合上こうやって勝手に集めておいて見学者には何の一言も説明せずって、
だいたい国を憂えて自決した軍人たちに失礼なんじゃないでしょうか。
靖国に対する扱いのように、これほど自分が国のために捧げた命が
ぞんざいに扱われていることを知ったら、
わたしだったらちょっと出てきて文句の一つも言いたくなるかもしれません。
それはあくまでも「ある言論層」への対処であって、実際は
防衛省はそれらを手厚く慰霊顕彰をしている、ということならまあ、
―不満は感るものの―良しとしますけれども。