江ノ島にある兒玉神社(こちらが正式な表記)は、ここ江ノ島が
生前の児玉源太郎が愛していた地であるということから創建されたと言います。
当時の読売新聞によると、日露開戦間際の頃、参謀次長となった児玉は、
毎日曜日に鎌倉の別荘に静養のため出かけていたのですが、そこに
面会希望の者たちが押しかけてくるので、江ノ島を「隠れ家」にして
おもむろにシベリアの形勢を案じていたのだそうです。
ところが、いつの間にかこの退避先にも「陸軍の諸星や顕官の面々」が押し寄せ、
江ノ島町内ではだれであろうかと穿鑿の末、参謀次長児玉源太郎大将と知れて、
町民は大いに大将を徳とするようになりました。
そこで
「将軍沒後江の島町民は将軍の静養の地を購つて其霊を祀つたが
大正七年内務大臣から兒玉神社を公認された」
というのがここに神社ができた経緯です。
鳥居のある山門を左に曲がると、そこが児玉神社。
前にきた覚えがあるようなないような。
石段の左手に児玉神社の鳥居がいきなり現れます。
祭神はもちろん児玉源太郎(1852〈嘉永5〉年~1906〈明治39〉年)。
創建は児玉死去12年後の1918(大正7)年であり、後藤新平らの尽力により、
主要な社殿が建立されたのは1921(大正10)のことです。
苔むした表参道ひだりという道案内。
ひだりもなにも、道は一本しかないので間違えようがありません。
参道には幾つかの石碑が置かれていました。
これはなんと、蒋介石の詩碑だそうです。
内容はというと、児玉の武勲、才知を褒め称えるもので、
蒋介石は満州国の初代外交部総長を務め、満州国全権駐日大使でも
ありましたから、児玉源太郎とは縁が深かったのです。
わたしはその後の蒋介石の色々を知っているので、
その人物についてはあまりいい印象がないですが、
蒋介石が児玉源太郎を敬愛していたことは確かであるようです。
こちらは後藤新平が児玉の徳を称えて読んだ詩碑。
児玉源太郎が台湾府総督時代、後藤は民政長官として辣腕を奮い、
台湾の近代化をこの「黄金コンビ」で推し進めました。
あのNHKが訴訟されるきっかけとなった「JAPANデビュー」内でも
日本は台湾をアジア進出の拠点として激しい抵抗運動(日台戦争)
を武力で制圧して進出したが、統治が混乱したため、
後藤新平を民政局長に起用してあめとムチの政策を推し進めた
などと表現されていましたっけね。
詩碑には
森嚴羽衛老將軍 功烈眞兼武與文
造次不離忠孝旨 于花于月又思君
と刻まれています。
咸臨丸復元保存協会の設置したモニュメントがありました。
咸臨丸のレリーフがまっすぐでない気がするのはわたしだけでしょうか。
日章旗をひるがえしてはじめて、太平洋横断の壮挙をなした
本艦乗員の進取をたたへ咸臨丸の復元保存と
「青少年に夢と希望を」ねがい、先年、オランダ政府の尽力により、
設計図発見、贈与をうけたことに対し、謝恩をこめ、
永世に記念するため本碑を建立した。
昭和五十五年十二月十六日
咸臨丸復元保存協会会長
片山臨舟
駐日オランダ大使館
CH ファン・デル・スロート
ここで咸臨丸の図面がどこで発見されたのか、それは今どこにあるのか、
復元の計画はどうなったのか・・・。
一切わからないままです。
ところで、それよりも驚いたのは、児玉神社の鳥居にたどりつくと
このような状態であったこと。
宮大工の名前が書かれたシートがかけられ、立ち入り禁止になっています。
お掃除をしていた人に頼んで、神主さんを呼んでもらいました。
話によると、神殿が老朽化で今にも倒壊しそうになったため、
とりあえず工事を始めたということでした。
神主さんは女性で、わたしがつけていたツィードのコサージュを
おしゃれねー、と声をかけてくるような気さくな方でした。
許しを得て工事現場を覗かせていただきました。
今まで建っていた神殿の柱が皆外されて並べてあります。
驚いたのは、大正年間の建造だというのに、並べられた木材から
新しい木の香が漂っていたことでした。
神殿は基本釘を使わず組み木のようにして建てるもののようです。
しかし、全く金具を使わないというわけではなさそう。
これを並べて置いてあるということは、再建する際に
この金具も再現する予定なのでしょうか。
組み合わさっていた部分はまだ木肌が新しく見えますが、
柱は無残にも虫喰いに荒らされています。
今回の修復は虫喰いの侵食で倒壊する危険が生じてきたため行われるそうです。
当時の宮大工が識別のために墨で書いた「り九」という文字。
木肌の新しさといい、100年近く前のものとは(ここだけ)思えません。
バケツの中にあるのは蝶番とその他の小さな釘類。
最近つけられたらしい金具もありますね。
柱を立ててあった跡。すごいのは石を四角く穿ってあることです。
再建するときにもこれを使うのでしょうか。
調べてみたところ、社殿を設計したのは建築家伊東忠太。
帝国大学名誉教授であり、建築家で初めて文化勲章を受けた人物です。
浅学のわたしは名前すら今回初めて知ったのですが、手がけた作品を
見ただけでその業績の凄さに驚きました。
橿原神宮・平安神宮・台湾神社・東京大学正門
明治神宮・靖国神社遊就館・靖国神社神門
靖国神社石鳥居・築地本願寺・湯島聖堂
それだけではありません。
日本に入ってきた’architecture’ という言葉は当初
「造家」と訳されていたのですが、彼は「造家」では
芸術的な意味合いが抜けているので「建築」と訳すべきと提唱し、
これを受けて造家学会が「建築学会」に(明治30年)、
東京帝国大学工科大学造家学科が建築学科に(明治31年)改称。
建築という言葉を作ったわけではありませんが、この言葉に
「建築」を意味するところの定義を与えた人物だったのです。
児玉神社の境内からは、かつて海を一望することができたはずですが、
今では深々と木が生い茂り、その視界のほとんどを遮ってしまっています。
神主さんがおっしゃるには、
「とりあえず工事を始めてから寄付金を募るための広告を打つつもりだったけど
お金がないので(まだなにもしていない)」
我が防衛団体会長が寄付の呼び掛けをするということを
約束して、我々は神社を辞去しました。
神主さんは、せっかく来てくださったのだから、と社務所の奥にいき、
赤い印のはいった紙袋に入れた境内の銀杏を持たせてくれました。
境内には、わたしたちがいる間も、何人かの人たちがやってきて、
一様に工事中の様子に目を見張り、そして帰って行きました。
調べたところ、児玉神社は以前、境内を浮浪者が徘徊したり、
参拝者が拝殿に土足で上がるなど、廃絶寸前だったのを、
1980年に山本白鳥氏が見かねて宮司を拝命し、持ち直したのだとか。
しかし長年の放置のあいだに社殿は腐食していたらしいのです。
児玉神社を設計した伊東忠太は当時、留学先の主流だった西欧ではなく、
日本建築のルーツを訪ねるため、アジアへの留学を選び、
中国からインド・トルコを旅し、中国では雲岡石窟を発見した人物です。
そのためか、新しい建築物像を模索する中でも、神社に関しては
「神霊住ます宮居であり、木造である」
と述べ、神社の設計に関しては古典的なスタンスを指向していました。
児玉神社社殿も、その設計思想の元に完成したものでしょう。
しかし、関東大震災が彼のポリシーを少々変化させます。
1926年の大震災で消失した神田神社復興の設計顧問に迎えられた際には、
不燃耐震化の必要性から鉄骨鉄筋コンクリート造りを採用したのです。
児玉神社は震災による被害を受けなかったようですが、もしその創建が
震災より後であれば、社殿の造りは若干違うものになっていたのでしょうか。
とにかく、児玉神社の一日でも早い再建を祈ってやみません。
その後藤沢から電車で横浜中華街に到着。
ここは中華街の中でも珍しい、台湾料理のお店です。
一行はここで美味しい台湾料理と紹興酒に舌鼓を打ったのでした。
メインの米軍基地見学についてはまた日を改めて
(ほとぼりがさめたころこっそり)投下しますのでお楽しみに。