瀬戸内海に浮かぶアートの島、直島旅行記、三日目です。
夜になりました。
「オーバル」に居ることそのものが楽しくて、わたしたちは
暗くなってからも写真を撮りまくりました。
夜のオーバルは、そのプールの部分が黒々とした黒曜石のようです。
照明が水に映る様子もまた面白きかな。
夕食はミュージアム棟のレストランで和食をいただきました。
こんなところを歩いてご飯を食べに行きます。
こちら、この日のお夕食で最も印象的であった一皿、
オコゼのお造り、顔面添えでございます。
あまりにも魚身が薄すぎて見にくいですが、タイより歯ごたえがあり、
味の濃い実に美味しいお刺身でした。
しかしオコゼの顔をわざわざ飾ってあるのは、外国人客にとっては
なかなかチャレンジングというか、通過儀礼的な一品というか。
彼ら、魚の目がマジで怖いらしいですね。
ここは文字どおりミュージアムなので普通に作品がゴロゴロしていて、
大抵それらは写真禁止ですが、これだけは禁止されてなかったので撮りました。
床に廃材の木切れを円形に置いただけのアイデア作品。
(その心は手間いらず、 材料費いらず、どこでも設置、いつでも撤去可)
次の日には地中美術館という、崖部分の土を掘って、本来地中だったところに
作られた美術館にも行きましたが、全作品もちろん撮影禁止。
サイト先にあるウォルター・デ・マリアの作品は、教会のような空間の
階段の途中に直径2・2mの巨大な球が 置いてあって、外光を映すというもの。
鑑賞者はそこに足を踏み入れ、自由に歩き回ることができます。
現代美術といってもここの作品は理屈抜きで「くる」ものが多く、
やはりアーティストの創造を満たすだけの空間がふんだんにあるからこそ
説得力のあるものが生まれてくるんだろうなと思います。
ところで、こういうところに来ると写真を撮らないと損したように思うのか、
多くの中国人観光客は人(係員)の見ていない隙に携帯で写真を撮っていました。
いくらiPhoneのカメラが良くても、盗み撮りした画像なんかどうするんだろう、
と呆れながら横目でそれを見ていました。
地中美術館は手前に駐車場とチケット売り場の建物があり、
200mくらいの道を歩いて入館することになっていますが、
小川の道沿いには色とりどりの花が植えられていました。
「こんなところも写真に撮ることができないのかしら」
入り口で写真禁止を言い渡されていたので、歩きながら話していると、
近くを歩いていたおじさんが、
「この花は撮っていいんですよ。どうぞ撮ってください」
と声をかけてきました。
どうもこの花を手入れして居る方だったようです。
昔ガーデニングにはまった経験があるので、自分が手塩にかけた花を
写真に撮ってもらうのは嬉しいものだというのはよく分かります。
花咲く小川沿いの道の向かいには小さなお地蔵様がいました。
第三十八番金剛福寺とあります。
四国八十八箇所霊場の第三十八番札所である立派なお寺ですが、
ここにおられるのは「出張お地蔵様」なのかもしれません。
ホテル内で発見。
コンクリートの隙間から草が芽を出しています。
てっきり手が届かなくて掃除をしていないせいだと思ったのですが、
驚いたことに、これもまたアート的装飾だったのでした。
夜、オーバル棟に帰るためにボタンを押して呼ぶと、
モノレールが真っ暗な山道を降りてくる様子も見ものです。
部屋に戻る前に屋上の庭園に上がってみました。
明けて翌日、天候は雨でした。
オーバルに灰色の空から雨が降り注ぎ、中央のプールに
雨だれの作る輪ができる様子を見られたのはむしろラッキーでした。
オーバルの客のためだけに(この日は3部屋に合計7人半が宿泊)
小さなラウンジがあって、コンチネンタルブレックファーストが取れます。
部屋に食べ物を持ち帰るのはご遠慮ください、ということでしたが、
隣の部屋の白人の男性は寝て居るらしい連れのために堂々と?
食べ物を持って帰っていました。
ラウンジには係の女性がいましたが、見て見ぬ振りを・・。
雨は朝のうちだけで、空が晴れてきました。
チェックアウトを1時間延ばしてもらい、最後まで部屋を堪能します。
いよいよオーバルともお別れです。
最後に乗るモノレールがやってきました。
その夜はそのミュージアム棟に宿泊です。
一応コーナースイートだったりするのですが、
あのオーバルの後では全く平凡な部屋に思えてしまい、
そのことがちょっと残念でした。
部屋から見える向かいの崖の下に、廃屋がありました。
ホテルの人が
「昔人が住んでいたようですが、今は無人です」
といっていたのを聞いて、部屋から望遠レンズで撮ってみたのがこれ。
もやいをつなぐ杭のようなものが見えるので、ヨットかボートか、
自分の船をつないで、ここから出勤でもしていたのでしょうか。
ろくな道もなさそうなここにどうやって家を建てたのかとか、
ライフラインの水やガス、電気にトイレはどうしていたんだろうとか、
誰も近寄ることができないらしい場所で朽ち果てているこの家で
どんな人がどんな暮らしをしたんだろう、などとしみじみ考えてしまいました。
この写真では何も運命を知らずに呑気そうにして居る息子ですが、
この部屋に泊まった最終日、夜中にアレルギーの発作を起こしました。
枕に彼がアレルギーを持つそばがらが入っていたのかと思い
次の日確かめて見たのですが、そばではなく、肌触りのために
羽毛の羽の根元の部分を表面に入れた枕だったそうです。
息子は台湾のホテルでそば粉入りのガレットを食べてしまい、
(ホテルの人がそば粉を使って居ると知らなかったらしい)
その時には全身に湿疹が出てえらい目にあったことがあります。
遡れば、新宿のレピシエ本店だったところで試食のクッキーを食べたら
どうやらそば粉が入っていたらしく、目が土偶のようになったのが
彼の人生初のアレルギー受難でした。
その後の検査で、そば以外に動物のアレルギーもあることも知っていましたが、
まさか鳥の羽で人生3度目の発作が起きるとは夢にも思っていませんでした。
気道が腫れて咳き込み、二重まぶたの線が腫れでなくなって
別人のような人相になってしまうという大惨事だったのですが、
実はわたしはその夜、熟睡していてその騒ぎに気づきませんでした。
次の朝起きたら、息子がソファーに枕無しで寝ていたので、
「なんでソファーで寝てるの」
「MK、昨日の晩大変だったんだよ」
息子をお風呂に入れ、顔を拭いて水を飲ませ、
ソファにシーツを敷いてやったのは全て父親でした。
わたしは夢の中で誰か咳をしているなあとは思っていたのですが、
彼らは寝ているわたしを起こしても
「別に何もしてもらうことはないから」
ということで放置されていたのでした。
こんな母親ですまん息子。そしてありがとうTO。
ホテルからフェリー乗り場までは、昨日きた方向とは反対に
ほんの数分くらい走ったところにありました。
フェリー乗り場にも草間彌生のカボチャがいます。
ここから岡山までは通勤通学、買い物でフェリーが島民の足です。
もしかしたら島民はフェリー料金は無料なのかもしれません。
降りてくる人々を見ると、都会の通勤電車に乗って居る人たちと
何も変わらない服装雰囲気ですし、島から乗り込む人たちは
自転車に後ろカゴをつけたおばちゃんとか、学生服の子とか。
フェリーはここではバスや移動する橋みたいなものなのでしょう。
昔リゾート地だったもののその後低迷していた直島が
アートの街として再出発したのは1980年代後半のことです。
当時の町長と、福武書店の創業者との間でコンセプトが生まれ、以降
「直島南部を人と文化を育てるエリアとして創生」するための
「直島文化村構想」の一環として「ベネッセハウス」などが建設されました。
当初はいきなり現れた現代アートに島民も引き気味だったそうですが、
その後の島全体を「壊さず生かす」という基本理念の上に行われた改革によって、
徐々に理解が得られるようになってきたそうです。
人口3000人の島にある飲食業や観光業、美術館などの職場に
本土から多くの人が毎日通勤してきたり、あるいは
この島での活動のために都会から若い人が移住してきたり。
特異なアイデアだったかもしれませんが、町おこしとしては
もっとも成功した例がこの直島なのかもしれません。
ベネッセハウス、近代アートに興味のない皆様にも是非オススメです。