「潜水艦のふるさと」を自称するコネチカット州グロトン。
海軍潜水艦基地に併設されたサブマリンミュージアムには
伝説のサブマリナーを紹介するコーナーがあります。
以前、わたしは敵銃弾に傷ついた自分の収容を拒んで潜行を命じ、
壮烈な戦死を遂げた「グラウラー」艦長、ハワード・ギルモア中佐について
一項を費やしてお話ししたことがあります。
このコーナーではギルモア艦長の遺品も見ることができます。
銀縁のメガネ。
アメリカ海軍の軍人が眼鏡をかけていたというのはちょっと意外です。
指揮刀とベルト、そして中佐の階級がついた肩章。
サブマリナーの徽章もおそらく艦内に残されたのでしょう。
戦死した二人と傷ついた艦長を艦橋に残し、今潜行して行く「グラウラー」想像図。
潜行を命じたギルモア艦長は苦悶の表情を浮かべて最後の瞬間を迎えます。
ここニューロンドンの潜水艦基地にあった潜水学校の同級生と。
1942年、中佐の戦死直前に撮られたもので、階級章から判断すると
真ん中の人物がギルモア中佐ということになります。
さて、それではそのほかにここに名前を残しているサブマリナーを
紹介していきます。
ジョン・フィリップ・クロムウェル大佐
Jhon Phillp Cromwell 1901-1943
軍機と共に艦に残ることを選んだ司令官
潜水艦隊司令としてクロムウェル大佐が座乗していたのは
旗艦「スカルピン」 USS-191
ギルバート諸島攻略のための「ガルバニック作戦」に参加したスカルピンは
艦長フレッド・コナウェイ中佐の指揮のもと、1943年11月、
トラック諸島へと哨戒を開始しました。
「スカルピン」はレーダーで探知した船団を民間船と思い込み追撃しましたが、
実はそれらは日本本土へ帰る軽巡洋艦「鹿島」と潜水母艦「長鯨」、
その護衛の駆逐艦「若月」と「山雲」だったのです。
「山雲」による猛烈な爆雷攻撃によって「スカルピン」は漏水し、
おびただしくソナーも破壊されました。
コナウェイ艦長は、生存のチャンスを得るために意を決して浮上し
決死の砲撃戦を挑みますが、「山雲」からの初弾が「スカルピン」の
艦橋に命中して艦長以下幹部が戦死。
最先任となった中尉が艦の放棄と自沈を命じ、総員退艦が行われます。
しかしクロムウェルは、日本軍の捕虜になった時に自分の知っている
最高機密情報が敵に渡ることを良しとせず、C・G・スミス・ジュニア少尉以下
11名の乗組員とともに艦に留まりそのまま艦の運命に殉じました。
「スカルピン」の生存者はその後2隻の空母、「冲鷹」と「雲鷹」に分乗して
日本本土へ連行されたのですが「冲鷹」に乗艦した20名は12月2日に
「セイルフィッシュ」 (USS Sailfish, SS-192) の雷撃で沈没した際に19名が死亡し、
残る1名は通過する日本軍駆逐艦の船体梯子を掴んで救助されました。
ちなみに現地の説明には「山雲」という単語は全く見られません。
リチャード・H・オカーン少将
Richard Hetherington O'Kane 1911-1994
敵撃沈記録歴代一位の艦長
オカーン少将はギルモアやクロムウェルのように戦死したわけではありませんが、
艦長として乗り組んでいた潜水艦「ワフー」が自爆してその後捕虜になり、
終戦まで大森捕虜収容所に収監されていました。
「ワフー」が沈んだ時、オカーンは突如現れた日本海軍の駆逐艦に
果敢に攻撃をを加えていたのですが、発射した魚雷が戻ってきてしまい、
(そんなことあるんだ)自分で自艦を撃沈してしまったのです。
これが本当のオウンゴールってやつですね。
爆発の瞬間オカーンはコニングタワーのハッチを閉めたため、
そこにいたオカーン始め15名が助かりましたが、全員が艦とともに沈みました。
この時のイメージがイラストで表現されていました。
オカーン艦長を含むコニングタワーの生存者たちが、
爆発の煙がどこからともなく漂ってくる艦内で
脱出の準備を行なっているところです。
しかしこんな経験をしたら人生観が変わるだろうなあ・・・。
潜水艦長としては 敵船団の真ん中に位置して前後の船を攻撃するなど
革新的ないくつかの運用戦術を開発し優れた戦果を挙げ、撃沈した敵船舶の総数
24隻総トン数93,824トンは大戦中のアメリカ潜水艦艦長の中でトップです。
戦後帰国したオカーンはトルーマン大統領から名誉勲章を授与されました。
戦後は潜水艦畑で教官職も務め、潜水艦部隊の指揮官として
数多くの勲章を授与されています。
死後、アーレイバーク級駆逐艦の28番艦には彼の名誉を讃え、
オカーン(USS O'KANE DDG-77)
とつけられました。
潜水艦一本だったご本人には駆逐艦は少し残念かもしれませんが、
潜水艦には人名は命名基準となっていないので、仕方ありませんね。
ジョージ・レーヴィック・ストリート三世
George Levick Street III 1913−2000
「サイレント・サービス」
ストリートという単語は普通ですが、この名字は珍しいですね。
ストリート三世は戦死してないし捕虜にもなっておりません。
ただ、指揮官として優秀で、たくさんの日本の船を沈めました。
Silent Service S01 E11: Tirante Plays a Hunch
この「サイレントサービス」という一連の映画は、実写と演技を織り交ぜ
ドキュメンタリーのような作りで大戦中の潜水艦を語るシリーズです。
実話かどうか知りませんが、捕虜にした朝鮮人が英語でお金を要求し、
その代わりに日本軍の情報をペラペラ喋ったという設定で、これは実写らしい
「ティランティ」が「白寿丸」を攻撃する様子が映っており、
一番最後にはストリート艦長と副長のエドワード・ビーチがゲスト出演してます。
このシリーズは海軍省の制作によるものですが、ストリートは
番組制作に技術顧問という形で協力していました。
イラストは戦闘中潜望鏡を覗き込むストリート艦長の勇姿。
ストリートは86歳で亡くなりましたが、遺言によって遺体は火葬され、
遺灰は海に散骨し、残り半分はアーリントン国立墓地に埋葬されました。
ヘンリー・ブロー
Henry Breault 1900-1941
仲間を救うために沈む艦内に戻った下士官
肩書きも何もないのは、彼が士官でもましてや艦長でもなく、
潜水艦勤務の一水兵だからです。
ブローという名前はおそらくフランス系であり、ヘンリーではなく
アンリであったのではないかとも思うのですが、それはともかく。
ブローは潜水艦という兵種ができて最初に乗り組んだ海軍兵士です。
1900年の生まれで17歳の時、「Oクラス」潜水艦の5番艦、
「O-5」(SS-66)の乗員となりました。
彼の肩書きにはTM2がつきますが、これは「トルピードマン2」の意です。
1923年、O-5は潜水艦隊、O-3 (SS-64) 、O-6 (SS-67) 、
およびO-8 (SS-69)を率いてパナマ運河を横断していました。
その時同海域をドック入りするために航行していた蒸気船「アバンゲイレス」が
操舵のミスを起こし、 O-5に衝突してしまいます。
衝撃でO-5は右舷側のコントロールルームに近くに10フィートもの破孔ができ、
メインのバラストタンクが破損しました。
艦体は左舷側に向かって鋭角に傾き、そして右舷側に戻り、
その後艦首部分が先から13m海中に没します。
蒸気船はすぐさま救助活動を行い、指揮官を含む8名を海中から拾い上げました。
彼らのほとんどは上層階にいて素早くハッチを登ることができた者でした。
近くにいた船舶も救助を行い、何名かを救い上げましたが、
O-5はわずか8分後に沈没。
掬い上げられたのは16名で、艦内には魚雷発射係であるブロー始め、
機関長のブラウン、そしてさらに3名が残されていました。
爆発が起きた時、ブローは魚雷発射室で作業をしていましたが、
ちょうどラッタルを登ろうとしていたところでした。
素早くメインデッキに抜けたブローは、そのとき機関室で
ブラウンが仮眠をとっていたことを思い出しました。
彼は機関長の所に戻り、とっさにハッチを閉めて海水の流入を防ぎました。
そのまま登っていけば艦を脱出できたのにもかかわらず。
ブラウン機関長は目を覚ましていましたが、総員退艦の命令が出たのを
全く知らず、呆然としていました。
二人の男たちはコントロールルームを抜けて艦尾を目指しましたが、
前部電池室にも海水が入ってきていて通り抜けることはできません。
彼らは水かさが増す魚雷発射室を通り抜け、バッテリーがショートして
誘発を起こさないようハッチを閉めながら進みました。
サルベージ作戦と彼らの救出作業はすぐさま始まりました。
ココ・ソロの潜水艦基地からは現地にダイバーが派遣されました。
生存者の反応を求めてダイバーは艦首から順番に艦体を叩いていきましたが、
魚雷発射室に来た時、中からハンマーで艦体を叩く音を確認しました。
当時は現代のような潜水艦の救助設備がなく、方法というのは
クレーンか浮きを使って泥から艦体を引き上げるしかなかったので、
その時にたまたま近くにあったクレーンを使ってダイバーが艦体の下に
ケーブルを渡し、それを持ち上げるという方法がとられました。
しかし、一度ならず二度までもケーブルが破損し、救助は難航します。
全ての関係者が不眠不休で必死の作業に当たった結果、10月29日の深夜、
事故が起こってから31時間後に、O-5の艦首は持ち上がり、
魚雷室のハッチが開けられて二人の男たちは生還したのです。
ブローは名誉勲章、海軍善意勲章、防衛庁の勲章、救命勲章などを授与されました。
米国の潜水艦O-5における事故の際に発揮された勇気と献身のために。
彼は自分の命を救うため艦外に脱出することをせず、
閉じ込められた乗員の救助のために魚雷室に戻り、魚雷室のハッチを閉じた。
彼が栄誉賞を受けた時の大統領カルビン・クーリッジ(写真)はこう言って
彼の英雄的な自己犠牲の精神を称えました。
続く。