空母「ミッドウェイ」博物館の見学記、続きです。
ところでいきなりですが、皆さんは「ミス・サイゴン」のストーリーをご存知ですか。
一言でいうとベトナム版「蝶々夫人」で、「蝶々夫人」のアメリカの海軍士官と芸者を
ベトナム戦争時の海兵隊軍属(元兵隊)と売春宿で働くベトナム女性に置き換えています。
【吹奏楽】ミュージカル「ミスサイゴン」より "Miss Saigon"
4:00くらいから打楽器でヘリの音を表現しているのですが、本日のテーマでもありますし、
ぜひよかったらここだけでも聴いてみてください。
さて、「ミス・サイゴン」。
現地の女性とアメリカ軍人が恋をして、軍人が恋人を残して本国に帰ったことに
絶望した女性が自ら命を絶つと言う悲劇ですが、この背景はベトナム戦争末期、
「フリークェント・ウィンド作戦」とそれに至るまでの時期でした。
ベトナム戦争末期の1975年4月、陥落寸前の南ベトナムの首都サイゴンから、
艦載航空機で在留アメリカ人、南ベトナム難民などを救出してしまおうというのが
本作戦の内容です。
アメリカ政府はこれに先立ち、C-5、C-130などの固定翼機で、在留米人に
国外脱出させて、救出作戦相当の人員数を減らすことから行いました。
そして、決行に当たっては海軍艦艇を上図のような配置で待機させます。
空母である「ミッドウェイ」と「ハンコック」は、人員を搭載したヘリを受け入れるため
陣形の外側近くに配置されていました。
作戦前、待機中の「ミッドウェイ」甲板ではシコルスキMH-53が並んでいました。
ところで、この時の参加艦艇名簿を眺めていたわたしは、「タグボート」の欄に
「 CHITOSE-MARU」「 HARUMA」「 SHIBAURA-MARU」
という日本の船の名前を発見しました。
当時日本政府がベトナム戦争を支援していたというのは、今でも共産党が
集団的自衛権についていちゃもんをつけるときに引っ張り出してくる事例ですが、
このとき、日本政府は公船が出せないので、民間船を現地に派遣していたらしいのです。
本作戦の意義とその内容について知った今では、日本人としてわたしは
このことを大変誇りに思うものですが、もしこれが当時何かのきっかけで
国内に報道されていたら、おそらく左派とマスコミが大騒ぎしたに違いありません。
救出作戦は開始されました。
警護のため銃を抱えた陸軍軍人の見守る中、
「ミッドウェイ」の甲板に向かってくるヘリコプター「シースタリオン」。
甲板には「チヌーク」、向こうから続々とこちらを目指しているのは「ヒューイ」。
ヒューイが乗せてきたベトナム難民たちの表情は明るく、
何人かの顔には微笑みすら見えます。
ところが、ここで混乱が起こります。
あまりにも多くのヘリが飛来し着艦したため、たちまちスペースがなくなりました。
乗っているのが軍人ならばホバリングしてラペリング降下させるところですが、
ご覧のように乗せてくるのは女子供を含む難民と一般人です。
そして、後述する理由で何が何でも甲板を空けねばならなくなった
「ミッドウェイ」の甲板からは・・・
「せ〜〜のぉ!」・・・・ぼちゃん!
なんとアメリカ海軍、ヘリコプターを海に投棄して場所を空ける作戦に出ました。
ヘリより難民の人命、惜しげもなく億単位の機体を海に放り込むその決断、
さすがは人命重視のアメリカさんやでえ。
おっと、彼ら(海軍軍人)が放り込んでるのは陸軍機だというのは言いっこなしだ。
というのはもちろん冗談として、このとき結果的に45機のヒューイ、
1機のチヌークが南シナ海の藻屑にされたといいますから、驚きます。
しかも、そのうちの何機かは、甲板に人員を降ろし終わった後、
再び離艦し、空母の比較的近くで搭乗員が空中から脱出して機体を海に墜落させ、
自分は待機しているタグボートに拾ってもらうという、
考えただけでゾッとするような危険な方法で投棄されたというのです。
いろんな意味で「綺麗なアメリカ」の真骨頂を表す作戦だったと言えましょう。
ところで、最初に搭載していたヘリが帰艦し、その他のヘリも増えるとはいえ、
幾ら何でも一応「作戦」なのだから、最初からそれくらい計算しとけよ、
と思う方もおられるかと思います。
もちろんアメリカ海軍、最初から計画はバッチリ、
できるだけ短期間にたくさんの人数を輸送し、ギリ甲板に収まるだけの
参加ヘリの機数は計算しつくしていたはず・・・と言いたいところですが、
投棄されたヘリの数を見ると、案外適当だったのではないかという気もします。
これもある意味アメリカさんらしい、大局のためには些事にこだわらない
いい意味でのいい加減さが発揮されていたと言えるのではないでしょうか。
そして、だめ押しで突発的なこのような事件も起きました。
「ミッドウェイ」で艦載機関連施設の見学を終えて階段上の出口から降りてくると、
そこにはこのような飛行機が展示してあります。
O-1セスナです。
この一連の「頻繁な風」作戦実施中、「ミッドウェイ」上空に一機のセスナが飛来しました。
セスナを操縦していたのはベトナム共和国空軍のパイロット、ブワン軍曹。
セスナは「ミッドウェイ」甲板に一枚のメモを落としていきました。
「当機は貴艦への着艦を希望する。
当機は後一時間燃料が保つが、その間に甲板のヘリを脇にどけてほしい。
どうか助けてくれ。
ブワン軍曹と妻、そして五人の子供たちより」
「ミッドウェイ」の指揮官、ラリー・チェンバース艦長は、すぐさま
飛行甲板乗務員に甲板を空けさせるように命令を下し、その結果、
1000万ドルのヒューイが南シナ海に投棄されることになりました。
さすがは人道重視のアメリカ軍!そこに痺れ(略)
と言いたいところですが、その時点で、すでに甲板を空けるために
何機もヘリを海に捨てていたことを思い出してください。
こんだけ捨ててるんだから、ヒューイ1機くらい今更なんてことないよね、
と艦長は考えたに違いありません。(知らんけど)
その後、ブワン軍曹の操縦するセスナは「ミッドウェイ」甲板にアプローチし、
一度バウンドして見事に余裕の着艦を決めました。
これによってブワン軍曹は
「空母に着艦した史上初の艦載機でない固定翼機パイロット」
となりました。
空母着艦は何時間もの訓練のすえ身につける技術で、おそらくは軽飛行機といえど
経験のないパイロットにとっては薄氷を踏む思いであったと思われるのですが、
妻と子を生きて脱出させたいという火事場の馬鹿力が彼にそれを可能とさせたのでしょう。
セスナの着艦を誘導する「ミッドウェイ」の誘導員たち。
甲板に無事着艦したブワン軍曹とその家族(丸で囲まれた部分)の周りには
甲板で着艦を見守っていたパイロットたちがたちまち詰めかけました。
ほとんどがその勇気と快挙を讃えているものと思われます。
しかしほとんどが子供だったとはいえ、よく全部で7人も
この小さなセスナに乗れたものだと感心します。
さて、余談ですが、当時脱出作戦をひかえ、アメリカ大使館は
在留米人対象に、安全のための手引き書を配っていました。
それは避難発令が出た時のためのもので、
「ヘリコプターにピックアップしてもらう集合場所」
「アメリカ軍ネットワークラジオで避難の合図が発令されること」
「このことを決して人に話さぬこと」
と書かれていました。
そしてその合図とは次のようなものでした。
「サイゴンの気温は105度でなお上昇中」
〜これに続いて、「ホワイトクリスマス」が流される〜
ジャーナリストのフランク・スネップは到着を待ちながら
ラジオから季節外れのホワイトクリスマスが流れていたことを
「奇妙で実にシュールな(kafkaesque、カフカの小説じみた)時間だった」
と回想しています。
さらに余談の余談ながら、この脱出作戦の合図が配布されたあと、
現地にいた日本人ジャーナリストたちが
「どんな曲か間違えたらいけないから、メロディを歌ってみてくれ」
とアメリカ人たちに頼んでいたという話があります。
なにぶん命がかかっていることなので、彼らも念には念を入れて
確認をしたということだと思うのですが、
どんなに音楽に疎くてもこれだけは間違えないだろう、ということで
わざわざこの曲が選択されたことを知っているアメリカ人たちは
「日本はキリスト教国じゃないのでホワイトクリスマスは有名じゃないんだ」
と彼らのせいで思い込んだに違いありません(笑)
ミッドウェイシリーズ 続く。