今風にいうと大正13年度遠洋練習航海、当時の名称で
帝国海軍練習艦隊の遠航アルバムを手に入れたので、それをここで
ご紹介していくことにしました。
なお、平成29年度遠洋練習航海の航路と重なっている寄港地については
水交会で行われた練習艦隊報告会で艦隊司令真鍋海将補が紹介された
スライドの写真などを活用してお話ししていくつもりです。
前回は艦隊司令官の名前がアルバムと違っているということで
その謎を解き明かそうとしてみましたが、やっぱりわからないので断念。
今日は練習艦隊参加艦艇とその乗組員、参加した候補生の写真を紹介します。
まず、軍艦「八雲」の乗組員総員写真です。
たくさんいすぎて後ろの人は顔が全く確認できませんが、
それではこうやって目立ってやろうとばかり、
マスト横で変なポーズをしている人がいますね。
軍艦「八雲」はドイツから輸入した装甲巡洋艦で、1900年から就役し、
日露戦争に参戦したあとは練習艦の代名詞のようにもなっていました。
その後、老体に鞭打って大東亜戦争にも対空砲専門で参加をしています。
そして戦没を免れて生き残ったあとは、近距離専門の復員業務に携わり、
ここでも触雷などに逢うこともなく無事にその一生を全うしました
冒頭画像は軍艦「浅間」総員の写真。
主砲に座って得意そうに腕組みをしている水兵さんたちを拡大しました。
写真を撮るときに動いてしまい、顔がブレてしまった人がいますね。
みんな20歳前後、もしかしたら十代が多いのかもしれません。
こうして特にセイラー服や下士官姿の青年を一人ずつ見ていると、
当たり前ですが、そのまま今の海上自衛隊の海曹海士にいそうな顔ばかりです。
この写真は1924年に撮られたものですから、彼らは今の海士のひいお爺ちゃん世代。
確実に全員がこの世にいないのが何か不思議な気がしてきます。
「浅間」も「八雲」と同じく装甲巡洋艦で、戦後まで生き残っています。
イギリス製で、なんども天皇陛下が座乗されるお召し艦になっており、
もし高松宮殿下のご参加があったなら「浅間」に乗り組まれていたに違いない、
とわたしは予想したのですが、その後、参加候補生名簿を見て驚きました。
あったのです。
「浅間乗り組み候補生」の最初に「宣仁親王」のお名前が。
アルバムが作成されるということは、その時点でもう練習航海は終わっていたはずですが、
写真はともかく、なぜ殿下の御名前が参加名簿から消されなかったのか・・・。
まあ、理由はわかりますが、何だか配慮申し上げすぎて変なことになってますね。
さて、第一次世界大戦で派出されたメキシコで座礁、その後広島湾でまた座礁、
(こちらは当直将校のミス)とご難続きの「浅間」さんでしたが、
大東亜戦争では幸い最後まで生き残りました。
「浅間」に乗った少尉候補生の中には福地周夫(ふくちかねお)の名前があります。
福地は「陸奥」運用長を拝命直後、大動脈瘤と誤診され、療養のため退艦したことで
その直後におこった謎の爆沈事故から逃れたという強運の持ち主です。
また福地大佐は珊瑚海海戦において被弾した「翔鶴」において、運用長として
冷静な判断による的確なダメコンを行なった、ということを評価され、
当時帰国して講演会をしたそうですが、その時肝心の艦隊主要指揮官幕僚は
「あの」ミッドウェイ海戦に備えた図演のため一人も参加していなかったという・・。
こうして後から知ると何という歴史の皮肉なのでしょうか。
軍艦「伊勢」総員写真です。
「伊勢」は日露戦争の殊勲艦で、あの上村艦隊の旗艦として
蒜山沖海戦ではロシアのリューリック号を撃沈し、
さらには海上の敵兵を救助したことでも有名になりました。
日本海海戦では「磐手」とともに連合艦隊のしんがりで活躍しています。
そんな「伊勢」ですが、その後第一次世界大戦ではメキシコ動乱に
警備艦として派出され(集団的自衛権の行使というやつですね)
帰ってからは装甲巡洋艦の類別のまま練習艦に採用されていました。
この写真の頃には一等海防艦に種別変更されています。
「伊勢」の右舷側もアップにしてみました。
一人お立ち台に立っている水兵がいますが、ここは
この時代の軍艦の信号兵のポジションでしょうか。
波が高い時にここに立つのはむちゃくちゃ怖いと思うんですけど。
しかし、海軍の団体写真では誰一人歯を見せたりしてませんね。
「八雲」の准士官以上です。
准士官とは下士官出身で士官に準じる待遇を受けるもの、という定義で、
この頃にはそれまでの上等兵曹から兵曹長という呼称に変更されていました。
写真を見ると年配の軍人はほとんどが口髭を立てています。
この頃の流行りでもあったんでしょうね。
海上自衛隊では髭は先任伍長、というイメージがありますが、
オフィサーで髭を生やしている人は見たことがありません。
右から5番目は艦長の鹿江三郎大佐ですが、足の揃え方といい、
視線が明後日を向いていることとい、どうも緊張感がないような・・・。
「浅間」の准士官以上です。
「浅間」の撮影の日は運悪く雨が降っていたようです。
軍人は傘をささないという習慣がありましたから皆は平気だと思いますが、
写真屋さんはさぞかし苦労したことでしょう。
この写真を見る限りかなりの雨が甲板を濡らしています。
こういう雨の中で撮られた海軍の団体写真はあまり見たことがありません。
よく見たら上階で何やらお仕事をしている水兵さんがいますね。
雨が降っているので信号旗のラックにカバーでもかけているんでしょうか。
作業が写真に写ってしまうのは構わなかったのでしょうか。
「出雲」の准士官以上。
手すりに幕が貼られています。
現代の自衛艦も、出国、帰国行事の時にはこのような白幕が貼られます。
「出雲」は着々と出国行事のための準備中だったのかもしれません。
それにしても「出雲」はこの時就役して26年たっているはずですが、
さすがの日本海軍、手入れが行き届いて主砲はピカピカ、ペンキは塗りたて。
これも全て出国行事に合わせて万全の補修を施したのでしょう。
「八雲」に乗り組む予定となった士官候補生たち。
兵学校の短いジャケットからもうすでに士官用の長いジャケットに変わっています。
「八雲」に乗り組んだ少尉候補生の中には、後年真珠湾攻撃の飛行隊長となった
淵田美津雄、「神風特別攻撃隊」の命名者となった猪口力平がいます。
猪口力平の顔まではわかりませんが、あの!淵田大佐なら、
きっとどこにいるかわかるに違いない!
とわたしは半ば確信を持って全員の顔を熟視して探してみたのですが、
最上段に立って非常に目立っている二人のうちの左側、
この人淵田さんじゃないですかね。
遠目に見た方が淵田美津雄っぽく見えるかもしれませんのでお試しください。
なお、少尉候補生の名簿は、どうやら成績順らしく、「八雲」の2番目に
内藤雄(たけし)大佐
の名前があります。
兵学校卒業時の成績は236名中6番、クラスでも昇進がトップグループだったため、
福地周夫が少佐の時、もう中佐で、小沢治三郎を補佐する参謀になっていました。
戦闘機に進んだ源田とともに「戦闘機の源田、爆撃機の内藤」として知られ、
海軍爆撃術の体系化に功績があった士官搭乗員です。
しかし優秀で、連合艦隊司令官古賀峯一の参謀にまでなったことが彼の死を早めました。
昭和18年4月。
古賀長官と共に内藤が乗り込みダバオに向かった二式大艇は
その途中で行方不明になり、撃墜されたと後に認定されました。
この「海軍乙事件」で、内藤は死後1階級昇進し大佐に昇進しています。
こちらは「浅間」の士官候補生たち。
先ほどの水兵さんはカバーをかける仕事を終わったようですね。
それから、左手の舷門のところに鳥打ち帽をかぶった一般人が
ちょうど仕事を終わったのか退出していくのが写り込んでいます。
それから、一人なぜかこの雨の中サングラスをかけている候補生が・・・。
目が腫れているかなんかで見せたくなかったんでしょうか。
しかし皆キリッといい顔をした青年ばかりですね。
そして「出雲」の士官候補生たち。
この写真のどこかには少尉候補生時代の源田実が、小柄な体躯ながら
ぎょろりと鋭い眼をレンズに向けて写っているはずです。
この真ん中の人・・・・どうですか?
また、この「出雲」には、のちに日中戦争時から陸攻隊を率いて多大な戦果をあげ、
その技量と統率力から「陸攻の神様」「 海軍の至宝」と言われた
入佐俊家少将
も乗り組んでいました。
常に指揮官先頭を実践し、部下からも上司からも信頼を受けた指揮官でした。
入佐は1944年(昭和19年)、小沢治三郎中将のたっての指名を受け、
第六〇一海軍航空隊司令兼空母「大鳳」の飛行長となりますが、
その後マリアナ沖海戦で「大鳳」が爆沈した際に戦死しました。
戦死後は二階級特進し、海軍少将に任ぜられています。
続いて、練習艦隊絵葉書、練習艦隊司令部付きと練習艦隊軍楽隊の写真。
この写真の司令部付きというのはおそらく従兵のことではないかと思われます。
士官の世話を身近で行う従兵は気が利いて頭の回転が早く、
しかも清潔感のある人物しかなれなかったので、それだけにその後の出世も早かったとか。
最後に、軍楽隊の皆さんをアップにしてみました。
自衛隊の練習艦隊音楽隊は各音楽隊からの志望で結成されているそうですが、
この頃はどうなっていたのかはわかりません。
さあ、これで練習艦隊全部隊の紹介を終わりました。
それでは次回からいよいよ航海の写真をご紹介していきましょう。
まずは江田島での卒業式、江田湾出港からです。
続く。