さて、新橋の古本市で手に入れた大正時代の練習艦隊の記念アルバムを
順を追ってご紹介しています。
次に進む前に、わたしは読者の皆様にも推理していただいた、
「艦隊司令官が古川中将から百武中将に変わっていた件」
もう一度整理してみます。
皆様のご意見を見ながらつらつら考えていて、実は
ある可能性を発見したのです。
●まずこの練習艦隊が大正13年に出航をしたことは間違いありません。
13年、14年というのは遠洋航海が14年にも及んだという意味で、
「13年度遠洋航海」を意味することはもはや確定です。
●そして大正13年度遠洋航海の参加艦艇は「八雲」「出雲」「浅間」。
●参加した兵学校の期数は52期です。
wikiにも載っている、つまり海軍に残された遠洋航海に関する正式な記録は
大正13年海兵52期等は古川司令官
大正14年海兵53期等は百武司令官
というものですが、アルバムを見れば一目瞭然。
実際の大正13年遠洋航海艦隊司令は最初から最後まで百武中将一人です。
そもそもこのアルバムには、全行程を通して一切古川司令官の姿はありません。
だいたい司令官が二人いて、前半と後半で交代、などは考えられませんよね。
なお、
●アルバムの揮毫は百武三郎中将のものだけである
●参加名簿の艦隊司令官は百武三郎の名前しかない
つまり、
大正13年度 海兵52期等遠洋航海司令官は 百武中将だった
というのが史実であり、現在残っている記録はその訂正を行なわず
間違ったまま残されたものではないか、というのがわたしの出した結論です。
それでは、なぜそのようなことになったのか。
まず司令官交代の考えられる理由としては三つです。
1、大正13年の艦隊司令だった古川鈊三郎が何らかの事情で行けなくなった
2、百武三郎がどうしても今年参加しなければならない事情があった
3、その両方
実は、この遠洋航海について最後まで精査した今、わたしは
2番、百武中将の事情でこうなったのでは、大胆にも仮定します。
アルバムに沿ってご紹介していく過程でそのうちお話しすることになりますが、
今回の遠洋航海のルートは南米からアメリカ、そしてカナダに寄港するのがメインです。
カナダではブリティッシュコロンビアのエスカイモルトに寄港しますが、
一行はここで、かつて練習航海途上、不幸にも病気で命を落とした兵学校19期卒の
士官候補生、草野春馬の現地にある墓所を訪ね、慰霊を行なっているのです。
百武三郎は兵学校19期のクラスヘッドとして卒業しています。
その彼が士官候補生として参加した遠洋航海航路途中の悲劇でした。
ここからは全くのわたしの推測です。
大正十三年六月。
兵学校五十二期の卒業と国内巡航を一カ月後に控えた日のことである。
百武三郎は大正十四年度練習艦隊司令官に任ぜられたとの知らせを受け、
かつて士官候補生の時に経験したまゝもう一生行く事も無いと思つてゐた
外国を艦隊司令として再び見られることに内心欣喜雀躍した。
「さうだ、『クラスメート』の草野が死んだブリチッシュコロンビヤに行き、
彼の墓参りをする最初で最後の『チャンス』ぢゃ無いか」
百武は客死した「クラスメート」の棺を候補生全員で涙と共に葬り
彼を一人異国の地にに残してきたあの日をまざまざと想ひ出した。
「草野・・・・貴様の墓所に花を供えに行つてやるぞ」
しかし、百武は14年度の予定航路を具に聞くや愕然とした。
東南亜細亜、そして豪州だと・・・・。
一生に唯一度、艦隊司令官として遠洋航海に出ると云ふのに、
嗚呼痛恨の極み、一年違ひで北米廻りでないとは!!
・・・否。
俺たちが士官候補生として遠洋航海を行なつたのと
今年の練習艦隊の『コース』は、ほぼ一緒だと聞く。
それなら、今年行けば善い。来年でなく、今年行くのだ。
さうだ、古川に今年の司令官を交代して貰へばいいのだ。
幸ひ古川は俺より二期学年も下だからなんとかなるだらう。
彼奴が四号の時に俺が修正した事も多分なかつただらうと思ふ。(笑ひ)
頼めば快く今年の艦隊司令を代わつて呉れるに違い無い。
きつと・・・・・。
こんな風に考えた百武中将は、クラスメートの眠っている墓所を訪ねる、
というこれ以上ない「行かねばならぬ理由」と、古川より二期上のクラスヘッド、
という立場を強権的に生かして(笑)出航間際に
無理やり司令官を交代してしまったのでは?というのがわたしの推理です。
どうでしょう。
え?まるで司馬遼太郎並みの針小棒大な創作だって?
百武は古川とは同じ中将といっても二学年上というだけでなく、
佐賀藩士出身で、二・二六事件のあとは鈴木貫太郎に代わって侍従長を務め、
後に天皇陛下の第三皇女、和子内親王の教育係を行なった、
というくらいの超エリート軍人ですから、いかに理不尽な願いでも
申し出を断ることは周りもできかねたのではないでしょうか。
しかし、謎はもう一つあります。
直前に急遽変更になったとはいえ、なぜその後も書面は書き換えられなかったのか。
そしてそのまま今日までその情報が残されているのか。
これも推測ですが、百武中将のゴリ押しが本当に出航の直前だったため、
司令官の交代が急で、辞令とかそれに伴うお役所仕事をゼロからやり直す暇もなく、
書面上は「13年度古川中将」のままで百武中将が実質司令官となったのでは?
そして練習艦隊は出航してしまったので、書類は結局書き換えられず、
のちの歴史にも変更前の記述が残っているのではないでしょうか。
この推理がもし、万が一当たっていると仮定すればですが、
艦隊司令の突然の交代申し入れは、ことに事務方にとって
大変な迷惑でしかなかったにも関わらず、結局海軍は
百武中将の無茶な希望を叶えてやったということになります。
それも、書面を変更せずにしれっと人間だけすげ替えてしまうという
今なら考えられないようないいかげんなやり方で。
だとすれば、海軍というのは建前は建前として、なかなか粋な計らいをする、
”情を汲む組織”であったといえますし、百武ほどの軍人であればこんな無理も通る
「隙のある」組織であったということもできるかと思います。
もちろんこの一連の推理はあくまでもわたし個人の判断に基づくものですので、
どなたか司令官交代と文書の整合性について、何か史実をご存知でしたら
ぜひご教授いただければ幸いです。
さて、練習艦隊の第一歩は海軍兵学校の卒業式から始まります。
(一緒に参加する海軍機関学校の卒業式については写真や資料がないので
お話しすることができないわけですが、今はさておきます)
それにしてもこの冒頭の写真は一体・・・・。
江田島に行ったことのある方なら、これが大講堂の裏門に近い出入り口、
例えばこの頃ならかしこき辺りの方々が出入りになられるところを
現在の「レストラン江田島」のある建物の前から見たところ、
とおわかりいただけると思いますが、それにしてもフォーカスが無茶苦茶です。
建物にはもちろん、手前の柳の葉にもピントが合っていない不思議な写真。
しかもこれがページいっぱいの大きなものです。
「偉大なる海を想い、渺茫たる太陽を憧憬せし若人の
華やかなる活動の舞台は将に展開せんとす
見よ、江田島の湾内に浮かぶ練習艦隊八雲浅間出雲の三艦
希望に輝く初夏の空、恭しくも聖上陛下第三皇子高松宮殿下を
御同窓として戴き祝福されたる若人の門出
輝く軍艦旗の下にたちて、江田島よ、さらば!」
わたしは幸運にも昨年度の幹部学校卒業式に出席していますが、
同じ江田内に「かしま」をはじめとする自衛艦が浮かんでいたのを思い出します。
煙突からは黒煙を噴き出しているという船の姿形の違いはあれど、
あの光景を知っている目には、この白黒の写真から実際の空気の色まで想像できます。
練習艦隊は卒業式をを目前に、江田湾で壮途への出航をいまかと待っています。
そして大講堂での兵学校52期の卒業式が行われました。
大正一三年七月二十四日
山階宮武彦王殿下の御台臨を辱ふし
古鷹山下海軍兵学校に於て卒業式挙行さるる
52期の卒業式は真夏に行われました。
写真で玉座におられる山階宮武彦殿下は、父君の菊麿王に続き兵学校46期卒、
皇族として初めて海軍航空隊に所属し、「空の宮様」と異名をとった殿下です。
経歴を見ていて驚いたのですが、この前年の大正12年の関東大震災で
山階宮家の鎌倉別邸にたまたま滞在中であった武彦王は
初子懐妊中の妻佐紀子妃を建物の倒壊によって亡くしているのです。
wikiには、その結果、武彦王は精神を病み開かずの間にお籠りになった、
ということが書かれているのですが、この時には少なくとも海軍軍人として
こうして人前で儀式を行っておられます。
ちなみに当時殿下は二十六歳、薨去された佐紀子妃はまだ二十歳でした。
武彦王はこの翌年の1925年(大正14年)3月には、民間航空振興のため、
練習費を徴収しない飛行機搭乗者養成機関、『御国航空練習所』
を建立しておられます。
この写真の直後には早くも後添えをお貰いになる話が出たということですが、
その縁談も王の病状が原因で破談になったということです。
尚、52期クラスヘッドは入江籌直ですが、戦史にはその名前を残していません。
源田実は17番、淵田美津雄は108番の成績です。
卒業式を終え、大講堂から表門に敬礼しながら退場される高松宮殿下。
殿下が赤痢にお罹り遊ばすのはこの2ヶ月後の9月です。
どうも殿下は卒業後、国内巡航には最初から参加されなかったようです。
つまり11月の横須賀からの遠洋航海に参加するつもりをされていたのが、
9月に病気になって、参加が取りやめになった、ということではないでしょうか。
卒業後、皆は「伊勢」など練習艦にランチで乗り込んでいくのですが、
殿下のランチだけは一応表玄関から卒業していったものの、どこかで乗り換えて、
一度は都にお戻りになったということではないかと思われます。
ランチの天蓋の下には、遠目にもそうとわかる殿下の制服姿が確認できます。
あ、ということは赤痢は卒業後罹ったということに((((;゚Д゚)))))))
練習艦隊の軍艦に乗り込んで「帽振れ」をする候補生たち。
この頃の軍艦の舳というのは海面からほぼ垂直にそそり立って見えます。
そして「帽振れ」は今よりずっと、なんというかフリーダムな雰囲気ですね。
今は自衛隊では登舷礼で並ぶ位置にマーキングして美しく整列するようですが、
これを見る限り、帽振れの最中も手すりを掴んで舷側に鈴なり状態。
少なくとも当時は今ほどかしこまった儀礼ではなかったように見えます。
この後、大正、昭和と時代が進むにつれ、帽振れは徐々に儀礼化してゆき、
今の形に落ち着いたのではないかと思われます。
もっともこの頃の軍艦は、候補生が一列に整列して並べる形状ではなかった、
ということなのかもしれませんが。
さて、江田島を旅立った士官候補生を乗せた練習艦隊は、まず国内巡航、
国内の寄港地を周る訳ですが、この頃の国内巡航には今では存在しない
「外地」が含まれていました。
中国大陸、そして朝鮮半島です。
続く。