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ハワイ・ヒロ寄港〜大正13年度 帝国海軍練習艦隊

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横須賀を出航した我らが帝国海軍練習艦隊。
ここからがいよいよ「遠洋航海」の始まりです。

そしてこの艦隊には個人的な想いから遠洋航海を古川中将から
横取りした(笑)百武三郎中将が練習艦隊司令として
今や意気揚々と乗り込んでいることでしょう。

 


■ 航海中 

横須賀よりヒロまで航程3859.1哩航走
16日と13時間

海は神秘なり海洋は偉大なり
藍碧の洋と碧瑠璃の空と相呼応する状は無限なる宇宙の一つの「シンボル」なれ
見よ、雄大、偉大、荒天、平穏、寂寞、単調と海洋の有する種々の相を
おゝ我が帝国の使命を有する海神の寵児等が艟艨(どうもう)海に浮かぶるの時、
幾千年、幾万年の太古より溢れ湛えし水は驚愕し、歓喜し、舞踊し、
果ては舷側近く喜びの音楽を奏でて陽の光に輝く波の宝玉を齎らしぬ


まず、平成29年度練習艦隊の横須賀出航は5月22日、
ハワイの真珠湾到着は6月2日。
11日しかかかっていないわけですが、この頃の「4日の違い」
がその頃と今の船の性能の違いであるわけです。そして、それに続く大変詩的な文章の中にある

艟艨(どうもう)

という言葉ですが、各々の漢字は舟編に童の艟、同じく舟編に蒙と書いて、
どちらも訓読みで「いくさぶね」と読みます。

いくさぶね+いくさぶね=いくさぶね

で、艟艨(どうもう)=いくさぶねとなるのです。

言葉自体に感嘆の意を含むので、戦後自国を守るためにであっても
「日本の保有する船はいくさぶねではない」という建前から、
「駆逐艦」「戦艦」という言葉を無くしてしまった自衛隊では
さらに一層使われることのない死語と成り果てた言葉の一つでしょう。

現在海上自衛隊遠洋航海で出港前に行われる海幕長の訓示では、

「さまざまな形に姿を変える海」

という言葉が必ずと行っていいほど出てきます。
冒頭の言葉にも、形を変える海の姿がさまざまな表現で言い表されています。
そしてこれはある日の艦首に砕ける波の様子。

もちろんこうなると甲板に出るのは禁止になるはずですが、
海の怖さを甘く見ている空自出身の某空母艦長などは、わざわざ台風の時に
甲板にのこのこ出ていって

「私はお前を恐れぬ!」

とか言って波をかぶり、脚を掴んで海に落ちるのを防いだ副長に呆れられます。

全く、パイロット出身の空母艦長ってのはよお・・・。

ところで日本国自衛隊が保持を予定している空母「いずも」においては、
艦長は海自からなのか、それとも空自出身がすることになるのか、
気になるところですね。

アメリカ軍空母はパイロット出身が勤めることになっていますが、
先日ある海自の幹部の方に聞いてみたところ、

「操艦できない艦長なんてありえない!」

ということでした。

太平洋航海中の写真も残されています。
訓練の一環で実弾射撃が行われました。
5〜6の水柱が水平線に立ち上がっているのが見えます。

候補生たちは事業服を着用しているようですね。

11月21日の午前9時半、東経180度子午線を通過しました。
慣例に従って神事とお祭りを行なった様子です。

「今日御祭す 波路一百八十度」

後ろにはいわゆる「土人」に扮した乗員の姿が見えますが、
この神職は一体・・・?

まさか従軍神父みたいに神職が乗り込んでいたわけでもないだろうし・・・。
これもまさか・・・コスプレかな。

 

 

■ ヒロ

(自 11月26日 至 12月15日)

在留同胞の万歳の辞と日の丸の旗に迎えられて
艦隊は悠々弧月湾に入る。
一万四千尺の高峯「マウナロア」は我らの眼前に控え、
若人の憧れて椰子の木茂る布哇島は月光を浴びて我が舷側に其の姿を浮かべた。

想えば三十年の昔、「キャソリック」寺院の鐘の響が
椰子の葉末を渡る時、夕陽淋しき入相を待ちし「ヒロ」の街も今は
自動車の鋭く強き眼光の交錯する市と化し、
一圓茫々たりし原野も緑滴る甘蔗畑と変わった。

されど想え、この発展の歴史の中に潜む在留同胞の汗と力を。

文中の「弧月湾」から臨む「 マウナケヤ」です。

「弧月湾」というのが現在ないので想像ですが、これは「カーブ」を意味する
「ハナウマ湾」の日本人、日系人だけの呼び名ではないかと思われます。

ハワイの日本人移民が始まったのは1868年のことで、
1902年にはサトウキビの農家の70%が日系だったとされています。

ただし、この練習艦隊がハワイに訪問したのと同年の1924年、
アメリカではついに排日移民法が成立しました。

本土では日系人が収容所送りにされたのはご存知だと思いますが、
ハワイではすでに彼らが社会の中心を担っていたため、もし彼らを収容所に入れると
現地の経済がたちまち立ち行かなくなるという現実的な理由から、
ごく一部の者だけが「見せしめ」に収容されるということになりました。

この写真の頃にはすでにそれが交付された後で、
したがって練習艦隊の海軍軍人たちもそのことを重々承知をしていたはずです。


この写真に見えるのは、おそらく自分たち日系人の行く末に不安を感じつつも、
昨日と同じいつも通りの生活を続けているらしい人々の姿です。

「されど思え、この発展の歴史の中に潜む在日同胞の汗と力を」

と称揚しながらも、練習艦隊の乗員たちが、忍び寄る暗雲を
現地の人々の様子から感じる瞬間があったやもしれません。

「ヒロ公園より軍艦望遠」とキャプションがついています。
今でもヒロ湾を一望する湾岸には公園が幾つか広がっているので、
おそらくそのうちの一つであろうと推察されます。

右上はヒロに入港したときの様子。
デリックで海面に降ろされる内火艇に3人乗っているのが見えますね。

左下は横須賀出航以来初めての燃料の補給です。
この頃は石炭を積み込むことが「燃料補給」でした。

 

■ キラウエア火山

壮観か?凄惨か?将(はたま)た恐怖か?
ある時は魔の蛇のごとく、ある時は呪いの女神の焔の如く湧出し、
飛散し昇騰する噴焔の物凄さよ。

 

この頃のカラー写真というのが、フィルムからカラーだったのか、それとも
後から彩色したのかというと後者だと思うのですが、
それにしても真っ赤っかにしすぎではないだろうか。

というキラウエア火山の噴煙の写真。(冒頭)

ヒロのあるハワイ島の活火山で、1883年から噴火を繰り返しており、
よくまあこんなところに人が住んでるなあという状態なのですが、
桜島もそうであるように、そこに住んでいる人は割と平気みたいです。

まあ日本そのものも、外国から見たらよくそんなところに住んでるなと
言われても仕方がない国なんですが、みんなわかってて住んでますしね。

初めて外国に出て、このようなものを目の当たりにした練習艦隊乗員たちの
感動と驚き、自然に対する畏怖がいかばかりであったかは想像に余りあります。

その火山見学に、練習艦隊の皆さんは無謀にも白い制服でやってきました。
11月ですが、ここでの季節を夏と規定して、皆さん夏服を着ている訳です。

こちら、百武司令(一番左)と3人の練習艦艦長たち。

候補生たちも火山口を夏服で見学です。
以前紹介した六十七期の遠洋航海では、火山見学の時
わざわざ冬服とマント着用でやってきていましたが、それは
この先達の経験から忠告を取り入れてのことだったかもしれません。

火山までは車をチャーターするほかないわけですが、これを全て
地元の日系人たちが手配したということが書かれています。

■ 歓迎

布哇島が生まれてよりこの方。
嘗て無かったと言われるほどの所謂(いわゆる)島を挙げての
在留同胞の心からの歓迎!!
それは到底筆で表すことはできない。

殊に自動車の百数十台を連ねて三十哩を距てた
キラウエア火山への案内等には乗員一同如何に感謝したことであろう。

そしてハワイを発つ日、日系人同胞は熱烈に練習艦隊を見送りました。
錨を上げた艦隊の周りを、岸壁はもちろん手作りらしい日章旗を
押したてて漕ぎ、名残を惜しむ日系人の姿が写真に残されています。


思い出多き滞在の日も慌ただしく過ぎて、艦隊は
艦も沈まんばかりの同胞の贈り物と熱誠な見送りの裡に
墨國はアカプルコに向け出航した。

 

続く。





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