さて、ハワイ出航後の練習艦隊は南アメリカに向かいます。
航路途中、訓練を行うのは今も昔も同じです。
■ 公開中の諸訓練
(ヒロよりアカプルコまで
航程3190.5マイル 航走 17日14時間)
真の偉大に接し、無限を味合わんとするものは先ずまさに海に往くべし。
艦ゆけば雲もまた追い雲行けば艦もまた追う。
洋中に於いて視界幾十哩は実に我等の自由なる天地なり。
如何に我等が弾丸を飛ばし、小銃を放つと雖も無限に寛大にして何等の羈絆なし。
我等は天際の空の水平線に接するあたりを眺めて我が職務に勉るのみ。
写真に添えられた文章は、特に当時の基準として格調高い訳ではありませんが、
それにしても時々現代ではお目にかかることもない熟語が出てくるので、
なかなか漢字の勉強になります。
羈絆(きはん)
は「おもがい」「きずな」「たびびと」と読む羈と言う字に
脚絆の絆を合わせたもので、行動するものの妨げになるものの意味です。
つまり、如何に我等が弾丸を飛ばし小銃を撃っても、なんの妨げるものもない、
と言う意味になります。
我々には生涯経験することのない「無限に寛大な海」を、海軍軍人は
航海中に行われる訓練によってその初心に叩き込むことになります。
艦腹から突き出るこの時代の砲から立ち上る白煙。
艦砲射撃の訓練とそれを見守る候補生たち、帯をして訓練に臨む水兵の様子。
船の形や訓練の方法は変わっても、この航海が初級士官である彼らの
初めて海の武人としての基礎を身につけるための最初の試練であることに変わりありません。
さて、遠洋航海に乗り出し、ハワイで過ごした後、練習艦隊の寄港地は
メキシコのアカプルコです。
大昔のユーミンの曲に「ホリデイはアカプルコ」と言う曲があって、そのような
地の果てのような場所ででホリデイを過ごすなんてどんなリッチな主人公なんだ、
と漠然と思った記憶があるのですが、その後アメリカに移住してみると、
メキシコは(当たり前ですが)目と鼻の先の隣国でした。
そのため、在米中にはユカタン半島の先っちょにあるリゾート、
カンクンでのホリデイを体験することもでき、アカプルコもわたしの中では
決して「地の果て」ではなくなりました。
ところで平成29年度海上自衛隊の遠洋航海も、ハワイの後はサンディエゴ経由で
メキシコに向かい、チアパスに寄港後、これも恒例のパナマ運河を経由してから、
帰路にマンサニージョと言う都市に寄港しています。
マンサニージョは「Manzanillo」と綴るため、日本語の読みは
「マンサニーニョ」「マンザニーヨ」とどうも落ち着きませんが、
実は大正13年の練習艦隊も「マンザニーヨ」と記しているところの
この地に寄港したことがわかりました。
もしかしたら、明治の遠洋艦隊実施の際に寄港地に選ばれた都市が、その後も
連綿と海軍、そして海上自衛隊の継続的な寄港先になっているのかもしれません。
それでは太平洋航行中の訓練風景からお送りしましょう。
「臨戦準備」とタイトルのある写真。
アーティスティックに吊られた舫越しに、甲板上の機銃が見えます。
その機銃射撃の訓練を行なっている最中の候補生たち。
右側で体育座りしている人の着ているのが幻の候補生の制服だと思われます。
しかし艦内で座り込んでこんな訓練をするのに白い服とは・・・・。
古い白黒写真でもはっきりとわかるくらい黒ずんで汚れていますね。
射撃を行なっている右には衝立のようなものを支えもつヘルメット着用の下士官がいます。
護衛艦などで甲板を探すと、大抵「溺者救助用」のダミー人形がありますが、
その伝統も遡れば明治大正の帝国海軍からのようです。
ただしこの訓練は「溺者」などと言う甘いものではありません。
「傷者運搬」
つまり、戦闘状態になった時、負傷した者を運搬する訓練です。
広瀬中佐が殉職した閉塞作戦から帰還した中佐の部下の写真でも、
ちょうどこの写真のようなものに簀巻きにされていた人がいましたが、
骨折などで体を動かさない方がいいような重傷者も、これに包んで
体に負担を与えず移動させることができるグッズです。
これだと階段を引っ張り上げることもできますね。
「砲側通信」と説明があります。
この頃の砲撃は、目視によって目標 (敵艦) の対勢、即ち照準線に対する向きと
速力を判定し、射撃計算、即ち発砲諸元の算出を行い、旋回手や 俯仰手は、
「準備」 の前に砲弾を装填した砲身を苗頭の指示をうけ、修正し、
砲手のそばにあるブザーが2回ブッブーとなると 「準備」、ブーと鳴ると 「撃てー」 。
引き金を引く砲手は、単にブザーに合わせるだけで、 そして 「撃てー」 の合図で、
どちらかの舷側の 6インチ砲は一斉に射撃を行うことになっていました。
そして弾着の修正も行われます。
一発撃つのにこれだけの手間が必要ということは、各部署間の連絡が
必要となってくるわけですが、これらの組織・系統を結ぶ通報器や電話、
伝声管などの通信装置のうち、射撃指揮所と方位盤、測的所、発令所を結ぶものを
「射撃幹部通信」
発令所と各砲塔・砲廓砲を結ぶものを
「砲側通信」
と言いました。
よくわからないのですが、この真ん中にあるものが通信機器なんでしょうか。
■ アカプルコ
(自 12月19日 至 12月21日 二日間9
ここは三百年の昔伊達政宗の命を奉じて遠く騾馬に使した
支倉常長以来屡々(しばしば)我が国船の往来した處として
頗る縁の深い市である。
廃墟のようなサンヂエゴ砲台、厚い壁に小さな窓の民家、
石コロの路、豚と蝿、ペリコとインコ等何れも談の種となるものである。
「豚と蝿」という記述がすごいですね。
もちろん今ではそんなものはないでしょう。
ユーミンがホリデイにバカンスをするお洒落なリゾート地なんですから。
文中の支倉常長(はせくらつねなが)は安土桃山時代の武将で、
伊達家の家臣として慶長遣欧使節団を率いてヨーロッパまで渡航し、
アジア人として唯一無二のローマ貴族となり、さらには洗礼を受けて
ドン・フィリッポ・フランシスコの洗礼名を持つに至りました。
支倉常長さん
支倉は油絵で肖像画を描かれた最初の日本人と言われています。
その後日本では切支丹禁止令が出たので、本人は失意のうちに死去、
子孫も処刑により支倉家は断絶の憂き目にあいました。
(切支丹禁止令といえば、余談ですが、遠藤周作原作、映画『沈黙』、
まだご覧になっていなかったら是非見ていただきたい映画です。
リアム・ニーソンやスターウォーズのカイロ・レンの俳優が出ていて、
浅野忠信の英語がやたらうまくて、窪塚が絶妙ないい味を出してます。)
ちなみにこの説明による「伊達政宗の命」とはスペインとの通商の締結でしたが、
その途中に寄港したのが、スペイン領だったここアカプルコだったのです。
街並みはテラスのあるスペイン風の二階家が見えています。
「アカプルコ公園」だそうです。
ベンチには二人で座っている水兵さんの姿がありますね。
「砲台より港を臨む」
この砲台というのは、海賊からスペインの貿易船を守るため、
1616~1617年に建造されたサンディエゴ要塞のことです。
ダウンタウンの小高い断崖の上に位置し、堀を巡らせた建物は五角形、
石造りの砲台が並んでいる昔ながらの観光地となっています。
サンディエゴ砲台から見た「八雲」「浅間」「出雲」。
一番後ろ、二本煙突が「浅間」です。
サンディエゴ要塞入り口。
同じ方角から見た現在の入り口の写真を上げておきます。
当時は橋に手すりなどはなかったようですね。
城壁の上部の白い構造物は後から設置(復元?)したようです。
「アカプルコ土産」という題がついています。
当時の写真には珍しく、軍服でニコニコしていますね。
冒頭の紹介文にもあるように「ペリコとインコ」が当地の名産です。
ペリコというのも緑色の「アカガタミドリインコ」のことですが、
練習艦隊の皆さん、お土産についインコを買ってしまった模様。
全員が一羽ずつ、手に乗せたり肩に乗せたりして嬉しそう!
階級章はこの写真ではわかりませんが、特務士官という感じですね。
インコちゃんたち、ちゃんと日本に連れて帰ってもらえたのよね?
「武器・体技・遊技」とタイトルがあります。
これらの催しは、アカプルコを出港し、バルボアまでの、
航程1478マイル、7日と22時間の航海中に行われました。
剣道、銃剣、弓術、すもうなどが武技・体技です。
アカプルコでは剣道、柔道などを現地の賓客に観覧していただきました。
どんな試合が行われているかは、皆さんの表情から伺い知れますね。
前列に座っている全員の顔が・・・・・・・・(笑)
( ゚Д゚)( ゚Д゚)( ゚Д゚)( ゚Д゚)( ゚Д゚)( ゚Д゚)
さぞ白熱した試合が展開されたのでしょう。
右から三番目の白の軍服が、練習艦隊司令百武三郎中将です。
かと思えば、片足を縛ってケンケンで紐の先の飴を咥える「飴食い競争」。
真面目な顔で一生懸命やっている様子がじわじわきますね。
■ 航海中
毎日目に見える様な気温の昇騰と共に「バルボア」は近づき、
記念すべき遠航の正月は眼前に迫ってきた。
甲板からは景気の良い餅搗く音が一日中聞こえた。
冒頭写真は艦上での餅つき大会の様子です。
今と違い、餅つきはお正月を控えた日本人の特に大事な、そして
故郷を思い出す心の行事だったので、盛大にこれを執り行った様です。
アルバム中、全員が相好くずして笑っているのは唯一この写真だけです。
ただし日本のお正月準備とは違い、ぐんぐん上がる気温のため
現場では大変な暑さになっていたことが写真からもわかりますね。
続く。