さて、アカプルコから大正13年度帝国海軍練習艦隊はパナマに向かいました。
パナマ運河を通過するというのは遠洋航海のハイライトです。
当時の船は石炭を動力としていたので、艦隊の皆さんは寄港地で
船に石炭を摘む作業を総出で行いました。
頭から顔を覆うヒサシ付きの帽子をかぶり、サングラス、脚絆着用。
これぞ、この時代の艦隊勤務につきもの、石炭積み作業。
明治、大正の戦争文学にも石炭を使ったボイラー室の仕事の過酷さが出てきますが、
その石炭を積むのも並大抵の重労働ではなかったらしいことがこの写真からもわかります。
右側に後ろを向いて何かを運んでいる人の列がありますね。
まさかとは思いますが、これも石炭を機関室に運んでいるのでしょうか。
石炭は低い石炭船の船倉から、外舷の高い軍艦に、すべて人力で積み込み、
10メートルもある外舷に板で階段を造り、その一段ごとに兵員が腰を掛け、
下の石炭船から丸い大きな竹籠にいっぱい石炭を入れては、次から 次と
手送りで上に揚げていくことになっていました。
船まで石炭の荷を上げるまでの仕事は水兵が行いますが、
下士官や候補生もそれを見物していたわけではもちろんありません。
手拭いで頬かむりをし、眼鏡を掛け、口にはマスクを当てて 、
写真ではわかりませんが、チョークで顔を白塗りしていたそうです。
石炭船から上げるだけでなく、これを機関室(船の底)まで
運ばなくてはいけないのです。
大正年間にはエレベーターがあったという話もありますので、
おそらく彼らは機関室につながるエレベーターまで石炭を運んでいるのでしょう。
この写真で旗艦が「出雲」になったということを初めて知りました。
どうも当時旗艦は航海中交代するものだったようです。
写真には
大日本帝国練習艦隊 旗艦出雲
大正十三年十二月廿九日 バ航 入港
とあります。
という訳で大正13年度帝国海軍練習艦隊は、南米のアカプルコを出立し、
パナマのバルボアに到着しました。
■ パナマ運河
世界一を標榜する米国民は流石にえらい仕事をして居る。
パナマ運河もその一ツで構造の豪壮、設備の完全共に驚嘆に値する
我が国には「船頭多くして船山に登る」という諺があるが
此処では閘門(運河の水量を調節する水門)によって本当に
船が山に登って向こう側の海に降ろされる。
パナマ運河は、パナマ共和国のパナマ地峡を開削して
太平洋とカリブ海を結んでいる閘門式運河です。
1913年、つまりこの遠洋航海のわずか11年前に開通したというのは
世界的にも大変な出来事として衝撃的に喧伝されていたものと思われます。
日本人にとっては地球の裏側の出来事で、あまり関心はなかったかもしれませんが、
何しろそれまでは太平洋側と大西洋は南北アメリカ大陸で遮断され、
船を使った運輸を行おうと思ったら、わずか80キロの反対側の海に行くため
南米大陸先端のマゼラン海峡やドレーク海峡を回らなくてはならなかったのですから、
南北アメリカ大陸の国々にとってはこの快挙はそれこそコペルニクス的転回だったのです。
練習艦隊で此処を通過した海軍軍人たちも、この巨大な構造物とそれを成し遂げた
技術には大いに驚き、アメリカという国の底力に感嘆した様子が記されています。
帝国海軍の練習艦隊の行き先に「パナマ運河」が初めて出てくるのは
大正10年、太平洋横断後、パナマ運河経由でヨーロッパに回るコースの時です。
その前年度の初めての世界一周、大正7年、鈴木貫太郎が司令官だった時の
練習艦隊も通過していた可能性はありますが、こちらは資料がなく定かではありません。
さて、そこでこの写真をご覧ください。
我が日本国海上自衛隊の遠洋練習航海においても、パナマ運河は必須コース。
最近の練習艦隊でパナマ運河でなくマゼラン海峡をあえて超えた例がありましたが、
これは「艱難辛苦汝を珠にす」的な意味で選ばれたのでしょう。(多分)
練習艦隊司令官真鍋海将補が後日水交会で行なった報告会では、
パナマ運河を航行する「かしま」の艦橋から撮った映像が早回しで上映されました。
「こんなに速く進めたら本当に楽なんですけどね」
と真鍋海将補は会場の人々を笑わせていましたが、実際、
パナマ運河というのは最小幅91m、最浅12.5mという難所でもあるので、
熟練の操舵をもってしても目を瞑ってスイスイというわけにはいかないのです。
待ち時間を含めると、通過には現在でも丸々24時間かか流ということです。
パナマ運河は当初アメリカ統治下で、総督を置き、軍が管理をしていました。
民政となったのちも、運河総督は代々アメリカ陸軍軍人が務めています。
それ以外にも陸軍はパナマ運河軍と称する防衛隊を結成したようですね。
月夜のパナマ運河、これはどう見ても絵・・・ですよね?
紹介文に出てきたところの
「閘門によって船が山に登って向こう側の海に降ろされる」
というのが具体的にどういう意味かというと、パナマ運河を大西洋側から入ると、
まずガトゥン閘門というのがあり、此処で3つの閘門を越すと、
船は結果的に海面から26mの高さに持ち上げられることになるということです。
出典:海上自衛隊ホームページ 平成29年度練習艦隊活動報告
これがまさに船が山に登って降ろされているの図。
パナマ運河を通過するアメリカの艦船。
流石に自分たちが通過している写真を撮ることはできなかったようです。
「カレバカット航行中」とありますが、現在の日本語では「クレブラカット」、
別名「ゲイラード・カット」と呼ばれる分水嶺の地帯のことです。
パナマ運河の太平洋側の都市バルボアで艦隊は正月を迎えました。
現地の陸軍を観閲するために正装して歩く司令長官百武中将と艦長たち。
案内はアメリカ陸軍軍人が行なっていますね。
■ バルボアの正月
(自12月28日 至 1月5日 8日間)
遠く太平洋を隔てて常夏の国で白服に汗を流して
思い出多い正月を迎えた我々は清しき椰子樹の陰に佇みて
はるかに祖国の雪景色と炬燵情調を偲ぶのであった。
白服で 雑煮を祝う 椰子の国
お正月を迎えた出雲の舷門の様子です。
こちらは「八雲」のお正月舷門。
注連縄をかけ門松の代わりに椰子の木でデコレーションしていますね(笑)
1月5日、バルボアを出発するにあたって、旗艦が「出雲」から
「浅間」に交代される事になりその引き継ぎの儀式が行われているところです。
状況がわかりませんが、捧げ銃の儀仗隊の前を、これから
敬礼した練習艦隊が下艦し「浅間」に乗り替えるところでしょうか。
遠洋艦隊中、旗艦の交代は2回行われました。
つまり、全部の艦が一度ずつ旗艦を務めたことになります。
ガトゥン湖の水力発電所を見学する候補生たち。
皆さん手ぶらですが、大きな水筒を背負っている用意周到な人もいますね。
一番右の人は制服を思いっきり汚しているのを写されてしまいました(笑)
バルボア、というのはスペインの探検家で征服者?というか植民地政治家だった
ヴァスコ・ヌニェス・デ・バルボア将軍
の名前から取られた地名です。
スペインからカリブ海を通ってパナマ地峡をあの悪名高い?ピサロと一緒に進み、
海が見えたので、
「新しい海(太平洋)を発見した」
と報告し、ついでに自分の名前をその地につけたというわけです。
当時のスペインの探検家らしく、結構残虐なこともやらかしています。
同性愛者を犬に食べさせるの図。
なぜ同性愛者なのか、なぜ犬なのか、色々疑問ですが、
ツッコミどころは見物している人々が全員モデル立ちしてることでしょうか。
なにポーズ決めてんだよっていう。
それと犬の首が妙に長いのも気になりますね。
ちなみにバルボア将軍、黄金を求めてさらに探索しようとしていたら、
かつての部下ピサロに処刑されてしまったそうです。(-人-)ナムー
いやー、義理も人情もあったもんじゃありませんわこの時代は。
大西洋側のコロン県クリストバールには載卸炭場がありました。
当時は石炭が動力だった船のために、此処で給油ならぬ給炭を行なったのです。
現在のコロンにはコロンビアの麻薬組織が蔓延り、周辺の移民が流入し、
ただでさえ危険なイメージのある中南米一危険な土地と言われています。
300年前海賊モルガンに壊滅させられたオールドパナマの廃墟、
と説明があります。
モルガンことヘンリー・モーガンはカリブの海賊、
つまり「パイレーツ・オブ・カリビアン」でした。
イギリス出身のカリブの海賊で、この一帯を遠征しては荒らし回っていましたが、
軍隊並みに力を持っていて、パナマ遠征では2時間の戦闘で市を壊滅させた、とあります。
モーガンの経歴を読んで驚くのは、海賊をやめた後、彼は
イギリスから重用され、治安判事、海事裁判所長などを歴任し、
1680年には、なんとジャマイカ島代理総督にまでなった
ということです。
「カリブの海賊」の話って、ファンタジー以外の部分は割と実話に基づいてたんですね。
イギリスが海賊を利用していたっていう。
バルボアを1月5日に出航、練習艦隊は再びメキシコの
マンザニーヨに向かいました。
航程1747.3マイル、6日と21時間の航程です。
儀式やレセプションではもちろん、艦内での娯楽として
コンサートを行なった軍楽隊の演奏中の写真が残されています。
アルバムによると、艦内では乗員の慰安のために、何度となく
音楽演奏が行われたといいますから、これもその一環でしょう。
指揮者と何人かの隊員は腰に短剣を佩しています。
検索してみると、ヤフオクでは「軍楽隊高級士官用短剣」なるものが
オークションに出たという形跡もありました。
それから彼らの軍服が兵学校生徒のそれのように裾が短いのにご注意ください。
これでよく知らなかったり暗かったりすると兵学校生徒と間違えて
うっかり敬礼してしまい悔しい思いをした下士官が結構いたそうです。
寄港地で日本からの便りを受け取ることもできました。
家族が鎮守府宛に出すと、海軍が先回りして届けておいてくれたようです。
わたしも練習艦隊あてに手紙がいつ届くのか知りたいという下心もあって、
実は手紙を出したことがあります。(もちろんお礼がメインの目的ですが)
とりあえず呉地方総監部にある練習艦隊宛に出したところ、
出航前の艦上レセプションの段階では届いていないようでしたが、
結局どこかの寄港地で追いかけるように先方は受け取ったようでした。
毎日発行されていたという「軍艦新聞」。
ガリ版に手書きで書いて、謄写版で刷って配られました。
現地の観光案内などもあり、皆が情報を得るのに重宝していたようです。
謄写版のローラーを動かす水兵さん、楽しそう。
この頃はカーボンのようなインク紙に、直接それを削り取る鉄筆で原稿を書き、
それを一枚一枚刷っていたのです。
ほぼ毎日のように発行されていたといいますから、大変な努力ですね。
きっと当ブログ主のように、皆に読んでもらうことが何よりの喜びだったのでしょう。
なんちゃって。
続く。