大正13年練習艦隊は中南米の航程を経て、西海岸にやってきました。
アメリカでの寄港地はサンフランシスコです。
この頃、現在の練習艦隊が必ず寄港する西海岸最大の軍港、
サンディエゴには寄港していません。
なぜなら、昨日もお話ししたようにサンディエゴが海軍基地となったのは1922年。
この練習艦隊の2年前です。
とても海軍基地として外国の艦隊が寄港できる状態ではなかったのでしょう。
■ 桑港
(マンザニヨより桑港まで 航程1573哩 航走 6日15時)
(自 1月23日 至 1月30日 7日間)
吾練習艦隊歓迎の為、米海軍の精鋭「ウェストバージニヤ」
「コロラード」「メリーランド」の三艦が、各浅間、出雲、
八雲の接伴艦の役を取られたのは実に嬉しかった。
日米国旗の交叉される所彼我の間には正義と平等、
親善と理解の曲が高鳴らされて居た。
「ウェストバージニア」は1923年、つまりまだ就役して1年の新鋭艦です。
当時の超弩級戦艦でかつ最新型。
「コロラド」「メリーランド」ともに同じコロラド型の三姉妹です。
実はですね。
この時にアメリカがわが接伴艦にわざわざ戦艦、しかも「コロラド型」三姉妹を全て
出してきたということを知り、わたしは後世の歴史を知る者として軽く戦慄しました。
その訳をお話ししておきましょう。
彼らのサンフランシスコ見学について紹介する前に、
このことだけはぜひ知っていただきたいと思います。
ちょっと面倒臭い話になりますが、この少し前に行われたワシントン軍縮会議に遡ります。
ご存知のように英米日で5・5・3と決まった軍艦保有割合を日本は不満に思いましたが、
実はアメリカはアメリカで、日本に対して大変な危機感を持っていました。
この軍縮会議までに日本は16インチ砲を持つ戦艦「長門」をすでに保持していました。
対するアメリカが保有していた16インチ砲搭載艦も「メリーランド」ただ一隻。
つまり、世界にたった二隻の16インチ砲級を、日米が一隻ずつ持っている状態だったのです。
しかも、ワシントン軍縮会議では、会議までに完成していない軍艦は廃棄すること、
と決められたのにも関わらず、日本は当時未完成だった長門型2番艦「陸奥」を
もう完成済みだと言い張って保有を認めるようにと強硬に主張してきました。
「5・5・3の3の保有しかないくせに、
16インチ砲搭載戦艦を二隻持つだとお?」
とアメリカさんは頭にきたんですねわかります。
ここで「陸奥」所有を認めてしまうと、日本が圧倒的に有利になってしまいますからね。
そこでアメリカがどうしたかというと、本来廃棄対象であったはずの
「コロラド」級の「コロラド」「ウェストバージニア」を、
「陸奥の保有を日本に認めさせる代わりに」建造することにしたのです。
なお、この措置のため就役した順番が、
「メリーランド」「コロラド」「ウェストバージニア」
となってしまったので、本級を「メリーランド級」ということもあるそうです。
とにかく、この時練習艦隊の接伴艦に、アメリカがこの三姉妹を出してきたのです。
日本にとっては割とどうでもいい話だったかもしれませんが、アメリカにとっては
因縁も因縁、大変な「問題の艦」を見せつけてきたことになります。
現在の感覚では、どう好意的に解釈してもこれはアメリカ側の「威嚇」であり、
「嫌がらせ」としか思えないわけですが、当時の練習艦隊がこれをどう受け止めたのかは
このアルバムの調子からは全く読み取ることはできません。
皆さんもご存知のように、軍縮会議の結果決められた保有数に日本は不満たらたらで、
その不満が日本の進む方向を変えたといえなくもないわけですが、
これもアメリカ側からいうと、
「日本は(陸奥を持つことができて)参加国中一番特をした国」
だったということになります。
日露戦争以降、アメリカは日本を「オレンジ計画」で仮想敵国として
潰しにかかっている真っ最中だったのですから、これも当然の意見かと思われます。
ワシントン軍縮会議が行われたのはこの練習艦隊寄港のわずか2年前だったことを考えると、
アメリカがこの時なぜわざわざ接伴艦に「コロラド」級三姉妹を選んだのか、
その意図は歴然としているではありませんか。
「貴国が16インチ砲搭載の戦艦『長門』をゴリ押しで持つことになったので、
我が国はやむなくこの二隻をそれに対抗して持つことになったのだ」
とアメリカが嫌味ったらしくこれらを見せつけてきたのに対し、
「実に嬉しかった」
とアルバムの筆者は無邪気にこれを喜んでいます。
さらには、
「彼我の間には正義と平等、親善と理解の曲が高鳴らされて居た」
などと、言わせてもらえばオメデタイというか、お花畑のようなことを
(アルバムのキャプションに過ぎないとはいえ)書いているわけです。
まあ、実のところ、練習艦隊という立場で訪米をしているに過ぎない海軍軍人は
性善説で相手の行動を量るものですし、万が一2年前の経緯をこの接遇に
因果付けして何かを感じたとしても、胸の内にしまっておいたに違いありません。
しかし、少なくともこの写真で練習艦隊旗艦を観閲するアメリカ海軍の
「ワイレー中将」は、そんなおめでたいことは考えて居なかったと思われます。
この「ワイレー中将」とはおそらく、
Admiral Henry Ariosto Wiley (1867 –1943)
のことで、1924年当時には現地の海軍基地司令であったことがわかっています。
米西戦争に参加し、第一次世界大戦では戦艦「ワイオミング」の艦長として
他の戦艦9隻(戦艦部隊ナイン)とともに英国艦隊に派遣され、そこで功を挙げています。
この写真の3年後に海軍大将になり、アメリカ合衆国艦隊司令を務めたほどの軍人ですから、
このとき、日本の練習艦隊に向かって、にこやかに握手をしながら
テーブルの下で匕首を突きつけるがごとき訳ありの接待を考案したのも、
もしかしたら実はこの人物の意向であったかもしれません。
もっとも、日本側が「テーブルの下」の匕首に気づいていたかどうかは、
先ほどもいったようにあくまでもこの写真集からは読み取ることはできません。
知っていても知らないふりをし、表情に出さずに静かにやり過ごしていきなり
朕茲ニ米国及英国ニ対シテ戦ヲ宣ス
と暴発するわけわからない国、というのが真珠湾攻撃以降の日本への
世界的な評価になったという気がしますが、少なくともこの軍縮条約のとき
そのおとなしい日本にしてはよくごねたものだ、という感想を持ちます。
なお、現場の海軍軍人たちが国と国のいざこざとは一切関係なく交流するのは
古今東西同じ傾向でもあります。
そういえば軍人ではありませんが、つい最近我が河野外相と中国の女性報道官
華春瑩氏とが実にいい笑顔でセルフィー撮ったのが話題になりましたよね。
国家間の軋轢が深刻な両国の外相と報道官のツーショット。
これを見た日中両国民の感想は概ね好意的で、中国国民のネットの意見も
むしろこれを非難した民進党議員を逆に非難するという調子でした。
練習艦隊の接伴を行った「コロラド」三姉妹のその後について書いておきます。
戦艦「メリーランド」USS Maryland, BB-46
ー「大和」との対決を望むも叶わず
真珠湾攻撃の際には、内側に係留されていたために損傷は軽微であった
タラワ、クェゼリン、サイパンの戦いに参加
1944年10月、レイテ島スリガオ海峡海戦では戦艦「山城」以下の撃沈に貢献
陸軍特別攻撃隊靖国隊の一式戦「隼」が突入し主砲塔に命中
大破炎上、31人が死亡し30人が負傷
1945年3月ウルシー環礁に到着、戦艦「大和」との会敵が予想される直前、
またしても特攻機が突入し3番砲塔に直撃して使用不能に
メリーランドの艦長も乗員たちも、「大和」との対決を望んで戦列を離れようとせず、
戦闘航海に支障なし」と嘘をついて損害を隠したが、
その時すでに「大和」は大和は坊ノ岬沖海戦で戦没した後だった
メリーランドは戦争を生き延び、1947年4月3日に退役し廃艦処分にされた
戦艦「コロラド」USS Colorado, BB-45
ーフレンドリーファイアで破損ー
真珠湾攻撃の時にはオーバーホール中で、太平洋艦隊で唯一健在な戦艦となった
1944年5月サイパン、グアム、テニアン島で支援砲撃任務に従事
11月27日、陸軍特別攻撃隊八紘隊の一式戦「隼」2機が「コロラド」に突入し、
19名が死亡、72名が負傷、船体にも損傷を負う
1945年1月9日、友軍の誤射により上部構造を破損し18名が死亡、51名が負傷
終戦後は厚木飛行場への占領部隊空輸の支援を行う
1959年にスクラップとして売却される
戦艦「ウェストバージニア」USS West Virginia, BB-48
ー真珠湾の遺恨をレイテで晴らすー
真珠湾攻撃では、甲標的と航空機によって左舷に6本の魚雷が命中
40㎝徹甲弾を改造した2発の爆弾も命中(不発)
砲塔上のカタパルトの水上機から航空燃料が漏出し発生した火災で30時間も燃え続ける
浸水によって着底し、乗員は艦を放棄して退避
修復と近代化の改修工事を受けて1944年に太平洋艦隊に復帰
同年レイテ沖海戦でのスリガオ海峡で「扶桑」「山城」をはじめとする
日本海軍艦隊を撃破
1945年9月2日の降伏文書調印式に臨席
当艦軍楽隊から5名が「ミズーリ」に移乗し、式典で演奏を担当する
その後日本に駐留し占領政策に従事
不活性化のため係留されたシアトルでは隣は姉妹艦の「コロラド」だった
1959年スクラップ処分される
続く。