サンディエゴ海事博物館で、帆船「スター・オブ・インディア」、
レプリカ帆船「サプライズ」、ソ連海軍潜水艦B-39、そして
深海実験潜水艦「ドルフィン」の見学を終えました。
キーステーションになっている蒸気船「バークリー」には
海事博物館としての館内展示がありましたので、今日はシリーズ最後に
これらをご紹介しようと思います。
冒頭画像は、いわゆるブリッジのエキップメント、ジャイロとか
エンジン・テレグラフ、コンパス、ビナクルなど一式ですが、
これは「タイコンデロガ」のブリッジにあったものなのだそうです。
アメリカ海軍は現在に至るまで同盟の軍艦を5隻引き継いできましたが、
これは
タイコンデロガ (USS Ticonderoga, CV/CVA/CVS-14)
エセックス級航空母艦で、同級空母の10番目艦のことだろうと思われます。
その後ろに、駆逐艦4隻が並び、乗組員が全員写っている写真がありますが、
これには
Tin Can Sailors
とタイトルが付いています。
駆逐艦のことが「ティン・カン」(缶詰)と呼ばれていたことは以前も書きましたが、
彼ら駆逐艦乗りは誇りを持って自らをこのように称していたのです。
真ん中の USS 「ジョン・H・デント」のところだけアップにしてみました。
写真が撮られたのは1930年、「デント」は18年から就役しています。
駆逐艦は軍人の名前をつけることが当時の慣習となっていましたが、
デントもまたバーバリ戦争に出征し、「コンスティチューション」艦長をしていました。
この写真で他に名前のわかるのは
USS 「シラス・タルボット」DD-114
ですが、これも「コンスティチューション」艦長だった人物の名前です。
ウィッカー級の艦名は、「コンスティチューション」の艦長の名前を
順番につけているのか?と思ったのですが偶然でした。
ちなみに「Tin Can Sailors 」で検索すると、駆逐艦乗りだった
退役軍人の会が出てきます。
こちらは「ロサンゼルス」級原子力潜水艦
の記念グッズコーナー。
「ボトム・ガン」というのが愛称だったようですが、
ボトムガンで調べても石油の掘削用語でしか意味が出てきません。
単純に潜水艦なので「ボトム」ってことでいいのかな。
もしかしたら「トップ・ガン」の向こう(と言うか下)を張った名前?
「ラホーヤ」は初めてトマホークミサイルを射出した潜水艦であり、
当時の艦長ガーネット・C・’スキップ’・ビアードは、のちに映画
「クリムゾン・タイド」のアドバイザーに名前をクレジットされています。
ここサンディエゴを母港として一週間くらいのクルーズが体験できる
レプリカ帆船「サンサルバドル」の写真。
帆船で6泊7日、というのはぜひ生涯に一度くらい体験してみたいですが、
一人999ドル(12万円くらい?)で可能だそうです。
ただセーリングするだけなら4時間で49〜99ドル。
ここはサンディエゴ、ということで
ドック型輸送揚陸艦 USS「サンディエゴ」 LPD-22
の大掛かりな模型もありました。
ドック型揚陸艦というのは、ウェルドック(艦艇の船尾、喫水線直上にある
デッキ状のドック式格納庫)をもつ揚陸艦です。
海上自衛隊の「おおすみ」型輸送艦が備えているのもウェルドックです。
「うらが」型掃海母艦などのもそうですね。
ちなみにLCACなどはそのウェルドックから出入りするわけですが、
一度LCACの艇長だったという自衛官に聞いたところによると、
「降りるのは簡単だけど乗るのは結構大変」だそうです。
このコーナーは海軍の街サンディエゴの基地の歴史について。
上の写真はここに駆逐艦の基地ができたばかりの1922年。
下は海軍基地をここに作ろうとしていた頃の1918年、
当時バルボア・パーク(今は博物館や動物園がある市民の憩いの場)
にあった訓練場での様子です。
海事博物館のあるのが、下の地図でいうとちょうど真ん中。
手前の半島?がコロナドですが、今と形が違います。
どうも海軍基地になってから大幅に埋め立てられたようです。
現在の海軍基地は、サンディエゴ、その海岸と対岸にあるように見える
長い半島状の土地コロナドの先端のほぼ全て、そしてそのまた対岸の
ラ・プラーヤというところにも展開しています。
どうもこの説明によると、ラ・プラーヤが最初だったようですね。
この二つの写真がコロナドの基地です。
ここに基地ができたのは戦争中の1943年。
太平洋側に強力な海軍基地が必要ということで、おそらく
日米開戦後から増設を始めたのではないかと思われます。
アンフィビアンベースがあった、と説明されています。
ネイビーシールズは、現在もここコロナド(もう一つのはバージニア)
に基地を持っていますので、これが彼らの元祖に違いありません。
模型は駆逐艦「ポーター」(USS Porter,DD-356)。
「ポーター」は真珠湾攻撃の二日前に現地を発って難を逃れ、
その後サンディエゴを母港として出撃していました。
ガダルカナルで不時着した「エンタープライズ」の雷撃機の救助に向かい、
そこで日本軍機の雷撃を受け損傷。
乗組員は艦を放棄し、「ショー」 (USS Shaw, DD-373)
の砲撃によって沈められ、その後除籍になりました。
新兵さんたちの到着と、その訓練の様子が本になっています。
大型艦の甲板から海に飛び込む訓練も当時は日常的にやっていたようです。
今の海軍はその辺りをどうしているのかわかりません。
戦艦「ミズーリ」の模型がありました。
サンディエゴとはあまり縁がないのになぜ?という気もしますが、
そこに模型を作りたい誰かがいたってことなんでしょう。
おそらく日本で行われたこの降伏調印式の様子の模型を置きたくて作ったのかと。
その時「ミズーリ」艦上には甲板にも艦橋にもデッキにも、
あるいは砲の上とかにもアメリカ軍の兵士が掃いて捨てるほどほどいたわけですが、
さすがにそれは再現できないので、サインしているニミッツら4名、
日本全権団は重光葵外相と梅津美治郎陸軍大将の二人という超省略メンバーです。
製作者のコメントによると、後ろの3名は手前からフォレスト・シャーマン中将、
ハルゼー提督、そしてマッカーサー将軍だそうです。
それはそうと、軍艦の上で行われたこの調印式もアメリカ海軍の規定に慣い、
「乗艦している最先任の海軍将官の将旗のみをメインマストに掲げる」
と言うことになっていたはずだったのですが、ところがどっこい
陸軍のマッカーサーが強く要求したため、超例外的に
海軍元帥の将旗と並んで陸軍元帥の将旗も掲げられた
ということです。
マ元帥と犬猿の仲だったニミッツ元帥はさぞムカムカしていたことでしょう(笑)
そして余談ですが。
この調印式の時に重光外相の横にいるタキシードとシルクハットの役人は
外務省の加瀬俊一氏と言いますが、なんとオノ・ヨーコのおじさんだそうです。
この方の奥さんが小野さんという家の出身(日本興業銀行総裁の娘)で、
ヨーコさんのお母さんは彼女と姉妹という関係。
おぜう様だったんですね。
こちらも大変力の入った大型模型。
素人の作品ではなく、博物館が依頼してプロに作らせたものだと思われます。
サンディエゴを母港としていていた
護衛空母「シャムロック・ベイ」USS Shamrock Bay CVE-84
は、沖縄戦で1200回もその甲板から航空機を発進させました。
旭日旗のマークが9個描かれていますが、彼女は海戦をしていないので
旭日旗は墜とした飛行機という意味でしょうか。
沖縄にもウルシーにも出撃していますが、特攻攻撃には遭わなかったようです。
甲板上の飛行機はグラマンのF4Fワイルドキャットだと思われます。
この時代エレベーターは外付けではなく、甲板の真ん中にあったんですね。
マスタージャイロコンパスです。
「マスター」とついているのは文字通り「大元」になるジャイロで、
このコンパスの示す方位を分配器を経由してレピータコンパスに伝えます。
マスターコンパスの下には独楽が回っており、電気信号を送り出します。
レピータコンパスはこの信号を受け取って、方位盤を動かすのです。
操舵スタンドの中や操縦コンソール内に収められており、
そこからブリッジ中央、ウィング、フライングブリッジなどにある
レピータコンパスに信号を送ります。
レーダーや無線方位測定器などもジャイロコンパスから信号を受け取ります。
Long Lance Torpedoというのは、つまり酸素魚雷です。
このひっそりと展示されている航空魚雷は、実は伊21の発射したものなのだとか。
これはカリフォルニア沿岸で発見された酸素魚雷だそうですが、
伊21は1941年から1921年にかけて、アメリカ西海岸の沿岸地域で
通商破壊作戦に従事しており、オイルタンカー2隻を攻撃、いずれも
撃破することに成功したということですので、 その時の残骸でしょう。
そしてこれがその時伊21に沈没させられたタンカー「モンテベロ」の模型。
これもやたら力入ってます。
「AT WAR! TANKER IS SUNK!」
の文字の隣の絵には、しっかり伊21潜水艦の姿が描かれているではありませんか。
この時期(開戦当初)アメリカは本当に危機感を覚えていたってことですよ。
雑な言い方をすると、やられればそれだけ燃える闘争的な国民性なので、
これから終戦までに日本の民間船は復讐に燃えたアメリカ潜水艦によって
それこそ倍、倍々返し、というくらいの甚大な被害を被ることになります。
いやー、アメリカさんの執念深さを見たって気がしますわ(適当)
さて、というわけで海事博物館の館内展示を見終わりました。
この日サンディエゴではコミコンという(本当です)全米でも有名なコミケがあって、
そのせいで空港も街中もコスプレな人たちが変な格好でウロウロしていました。
70年以上前は日本とドンパチやり合っていたのと同じアメリカ人が、
その日本文化を取り入れて楽しんでいる姿を、展示を見て出てきた途端目撃し、
平和に感謝するとともに、仲良きことは美しき哉、と心から思ったのでした。
サンディエゴ海事博物館シリーズ終わり