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Channel: ネイビーブルーに恋をして
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バンクーバーに眠る士官候補生〜大正13年度 帝国海軍練習艦隊 遠洋航海

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南米から西海岸側を北上し、桑港に停泊した練習艦隊。
7日間の帰港中、ロスやサクラメントまで足を伸ばし、
西海岸を満喫しました。

現地の日系同胞たちの歓待ぶりは大変厚いものであったようです。

その後艦隊はさらに北上し、カナダはブリティッシュコロンビアを目指しました。

当時のブリティッシュコロンビア州総督、州大統領、そしてビクトリア市長の写真。

BC州バンクーバーにはエスカイモルト軍港があります。

■ エスカイモルト

(桑港よりエスカイモルトまで
航程 784哩  航走 三日1時間)

(自 2月2日 至 2月6日 4日間)

濃霧に悩まされ激浪に弄ばれつつ北航せし艦隊は2月2日払暁
威風堂々ジャン・デ・フカ海峡にその雄姿を現せり。
一日我等は百武司令官の同窓草野候補生の墓前に花輪を捧げて英霊を葬いぬ。

皆様、お待たせしました。

わたしが当シリーズ最初に、

「当初予定されていた練習艦隊司令官を、翌年の別コース予定だったはずの
百武中将が直前になって古川中将と交代したのはこのためではないか」

と推察した、例の「同級生の墓参り」の写真です。

キャプションによると、練習艦隊乗員たちは丸一日を費やし
この墓参りを行なったとのこと。

もう古くなった墓石には大きな花束が二つ。
おそらく一つは現地に案内したカナダ海軍からの弔意を表すものでしょう。
ここはカナダ海軍墓地でもあるのです。

百武司令は右から6番目におり、その右側にはカナダ海軍軍人、そして
練習艦隊各艦の艦長が三人並んでいます。

この墓石の下に「百武司令の同級生草野候補生」が眠っているのです。


海軍兵学校名簿によると百武三郎が50名中一位のクラスヘッドとして
卒業した兵学校第19期のクラスに、「草野春馬」という生徒がいました。

彼ら兵学校19期は1892年(明治25年)海軍兵学校を卒業し、少尉候補生となり、
当時の遠洋航海に出航しました。

兵学校の練習艦隊が正式に海軍の行事となったのは明治36年、11年も後のことですが、
記録にはないものの、当時の兵学校学生も練習艦隊による遠洋航海を行なっていたのです。

当時はまだパナマ海峡は影も形もありませんので南米に立ち寄ったかどうかはわかりませんが、
ハワイとバンクーバーを含む北アメリカを就航したと思われます。


その航海中、百武中将のクラスメートだった草野春馬(しゅんま)候補生は、
航海中に肺炎に罹り、急死してしまったのでした。

ちなみに当時は「ビタミンの父」(又の名を海軍カレーの父)と言われた
軍医総監の高木兼寛がタンパク質と麦飯の導入で航海中の脚気を激減させたばかり。
これによって遠洋航海が可能になったということではあったものの、
当時の医療技術では若い候補生の命を救うこともできなかったのです。

今ならもし長期航海中に死者が出たら、冷蔵庫で遺体を保存して連れて帰ることができます。
大正13年のこの遠洋航海においても、どうやら航路途中に事故があって、
11名もの乗員が死亡した「らしい」のですが、彼らの遺体はホノルルまで運ばれ、
そこで荼毘に付されたのではないかと思われます。

しかし当時はそれすらもできず、寄港していたビクトリアの当時の管轄省の許可を得て、
特別に同地にあるエスクワイモルトの海軍墓地に遺体を葬ったのでした。

この写真を見ると、練習艦隊司令官百武三郎中将は、『どんな無理をしてでも』
彼の人生で最初で最後となるであろう同級生の墓参りをしたかったのだろうなと思います。

 

現在、かつての海軍候補生草野春馬の墓は、同じ場所でこの写真と同じ姿のまま、
現地の人々によって管理されているということです。


そしてこの草野候補生には、百武司令と海軍兵学校の同級生がおそらく
夢にも知らなかったであろう出生にまつわるこんな噂があるのです。

坂本龍馬の隠し子か?! カナダに眠る カナダ龍馬会、バンクーバー島へ墓参

「カナダ龍馬会」なる団体が存在するというのも驚きますがそれはともかく。

草野という男が貰い受けた元遊女が、当時2歳の男の子を連れており、
彼女がその男の子の父は坂本龍馬だと言っていた、というのだけが証拠だそうです。

確かに歴史的には全く証拠のない話で、現在顧みられていないのも当然かもしれません。

しかし男と違って女性は子供の父が誰かは一番よく知っているでしょう。
だからもし本人が意識的に嘘をついていなければ、という条件で
それは本当のことである可能性がないわけではない、と控えめに肯定したいところです。

遊女の産んだ子供が長じて海軍兵学校に入学できるほどの俊才となったのも、
龍馬の血を引いていたから、と考えれば説得力が増しますしね。

何が何でもその真偽を知りたければ、現在ならお墓を掘り起こして
現在も続いていると言われる龍馬の血筋を持つ子孫との間で
DNA照合をすることもできるでしょうが、今のところそこまでの話はなさそうです。


いずれにせよ坂本龍馬の隠し子が海軍軍人を目指して兵学校に進み、
異国の地で客死した、というのは何か秘められたロマンを感じさせますね。 


■ ビクトリア市

エスカイモルトの南3マイル、電車にして10分にして、
ビクトリア市に達す。
ビクトリア市人口7万、閑静にして且つ壮麗

一度春風駘蕩の季に会せんか緑樹鮮明にして百花爛漫、
市は忽ちにして一大公園に化すと。

右は議事堂、真ん中が歓迎会の行われた「エンプレスホテル」。

今はフェアモント資本によって経営されている5つ星ホテルで、
ブリティッシュコロンビアのシンボルのようになっている建物です。

1908年開業という同州でもっとも古いホテルとして有名ですが、
彼らが訪れた頃にもすでに開業して20年近く経ち風格が出ていたことでしょう。

市の東方サーニッチ小丘上に72寸の望遠鏡を有する
世界第二の天文台あり。

「ビクトリア天文台」とキャプションがあるので、これを頼りにすると
探すのに苦労しましたが、これは写真にも

Dominion Astrophysical Observeatory

と書いてあり、またロイヤルBC天文台とも呼ばれるようです。
1918年に開設されたので、この頃はまだ数年しか経っていません。

真ん中が百武司令、右端八雲艦長、左端浅間艦長、後列左出雲艦長。
百武司令左がバンクーバー市長であろうと思われます。

写真が撮られたのは裁判所前の階段ということです。

カナダのボーイスカウトの海軍版、シースカウトの少年が歓迎してくれました。
セーラー服を着ていますが、カヤック、カヌー、帆船、
その他の手漕ぎ舟などをスカウト活動で行います。

今の日系カナダ人は中国系の圧倒的多数に隠れて全く存在を見聞きしませんが、
第一次世界大戦の時には、カナダに忠誠を誓うため、日系男性が数多く
志願してヨーロッパで戦闘に加わり、52名もの戦死者も出ています。

バンクーバー市はこの時第一次世界大戦に出征した日本人兵士達を讃え、
このようなモニュメントを建てて顕彰しました。

このモニュメントは現在も残っています。
それどころか、

T. IWAMOTO MM   I. KUMAGAWA LCPL

など、戦死した52名の名前が刻まれたプラークの下には

第二次世界大戦 C.W. MAWATARI    M.TANAKA

朝鮮戦争 T. TAKEUCHI

アフガン戦争 M. HAYAKAZE

と最近までの日系人戦死者の名前が記されているのです。

 

その後、日米開戦に伴い、カナダ国内でも日系人は国民の激しい敵意にさらされ、
強制的に移動させられ、労働キャンプに言ったり、収容所に入れられたり、
中には日本に強制送還になった者もいました。

この慰霊碑も、その間はいつも燃えている火が消されていたといいます。



ところで、平成29年度の自衛隊練習艦隊も、同じバンクーバーに寄港しています。
日系移民150周年、日系人強制収容75周年に当たるということで、
練習艦隊はまさにこの慰霊碑に献花を行なっています。(9月19日)
写真には、この慰霊碑を取り囲み、全員で敬礼をしている様子が残されています。

また、来年は日加修好90周年に当たるということで、その歴史についても
現地の友好行事でアピールしあったということです。

 

 

歓迎会の催されたのはバンクーバーホテル。
これも現在はフェアモント系になっています。

バンクーバー、グランビルストリートの当時の眺め。

現在の同じ場所と思われるところをストリートマップで。
はっきり言って見る影なし。

C.P.Rホテルから見たバンクーバーの街。

こんな豪壮なホテルで歓迎会が行われたようです。
しかしホテルバンクーバーに似てますね。

候補生の皆さん、ノースバンクーバーのキャピラノ吊り橋に行ったようです。
キャピラノ吊り橋はキャピラノ川に架か理、現在の橋は長さ140m、
川からの高さは70mであるということです。

赤道直下でお正月を迎えたかと思えば、このような極寒のカナダへ。
マントを着ていますが、それでも寒かったでしょうね。

スタンレーパークで撮られた写真ですが、乗っているのは候補生ではありません。
現在写真を検索してもこのようなものはなく、おそらくは
現在ではこれほど大きな木は無くなったか、保護されているのでしょう。

ほとんどの巨木は、過去三回(一番最近は2006年)の暴風雨で倒れたそうです。

英語版のwikiを読んでいただくとわかりますが、
ここがスタンレー卿によって公園になることが決められた時、
まだ内部にはたくさんの人が住んでいたのだそうですが、彼らは
かなり強硬に(中国人移民は家に火をつけられている)追い出されたようです。

カナダ人も大概ひどいことしますね。


続く。




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