大正13年帝国海軍練習艦隊は、バンクーバーを出航し、その後
また太平洋航路を再びハワイに向けて航海を行いました。
ところで、このアルバム、ホノルルの最初のページだけが明らかに
ちぎり取られていて存在しません。
ここにどんな写真があったのか少し気になります。
行きにはハワイのヒロ、帰りにホノルルと同じハワイを経由するコースです。
ホノルル港にはたくさんの日系同胞が迎えに来ており、この後
司令官以下幹部を運ぶためかたくさんの車も埠頭に横付けされています。
写真は日報時事ホノルルのサイン入り。
岸壁にはたくさんの日系人が歓迎のため集まりました。
ほとんどが当時のアメリカ人と同じ洋装ですが、
わざわざ今日のために選んだらしい着物で来た女性もいます。
右の男の子は日米開戦の時には30代半ばごろです。
日系部隊の一員として戦争に加わったかもしれません。
ファーリントン氏が誰かわからなかったのですが、おそらく
ホノルルの市長というところかもしれません。
奥方、油断して鼻を掻いたところを写真に撮られてしまいました。
■ ホノルルに於ける日本人歓迎会
日の御旗を慕い集まる在留同胞の熱狂的歓迎には
乗員一同は深く感銘したことだった。
この広いグラウンドが歓迎会会場となったようです。
行進曲軍艦で行進し整列した練習艦隊乗員一同。
お高いところから歓迎会の挨拶を行う司令官百武三郎中将。
飾り付けられた生花のまた豪勢なことよ。
現地在留邦人による歓迎会は野外の広場で行われました。
2月ですが、ハワイでは外でちょうどいい気候ですね。
特に美しい乙女等の真心込めた歓迎の劇や唱歌は
海の若人を極度に喜ばした。
「極度に喜ばした」という表現は大げさでも何でもなかったでしょう。
この写真に写っているお嬢さん方を見ても、「海の若人」が
久しぶりの『日本女性』に思わずポーッとなったに違いないと推察します。
練習航海も一種の出会いであり、例えば兵学校67期の遠洋航海では
ハワイの富豪の家に遊びに行った候補生たちの思い出として、
「富豪のナイスな(美人の)娘が(真珠湾の九軍神の一人になった)
横山正治候補生一人に露骨に好意を示したので皆を腐らせた」
という逸話が残されています。
ところで、これは約30年くらい前の、我が海自練習艦隊の寄港行事です。
平成29年度の練習艦隊司令官真鍋海将補が新任幹部として加わっておられます。
この時艦隊はハワイを出航して以来二週間ぶりの寄港だったということですが、
現地美女の半裸でのダンスは、練習艦隊乗員たちを「極度に喜ばせた」どころか、
「この日は頭に血が上って大変なことになった」という話です。
写真は「パペーテ」という港に寄港した時で、踊っているのはタヒチ美女。
タヒチというと、世界でも指折りの「肥満愛好国」でもあります。
太っているほど美人と言うお国柄なので、ここで踊っている美女は
たとえ今現在お元気であってもこの時の原型を留めていないと想像されます。
おまけ:この写真をくださった方の新人幹部時代。(可愛い///)
両側を思いっきり濃い人たちにがっちり挟まれての記念写真です。
■ ホノルルに於ける野球と相撲
練習艦隊士官および候補生の野球「チーム」は、ホノルルの実業及び
新聞記者団「チーム」と闘って四対二の「スコア」で見事に之を破った。
歓迎野球試合はワイパウで行われ、百武司令が始球を行いました。
野球チームを構成したのは士官と候補生だけだったようです。
真ん中のグラサン士官は「監督」かな?
「八雲」の相撲部員だけでこんなにいたみたいです。
いただいたコメントによると、相撲をさせるためにわざわざ連れてきたという
相撲部員がいたようなのですが、やはり気合い入ってます。
本格的なまわしに旭日や錨のマークをあしらっているのが海軍らしいですね。
それと皆さん体格が流石に立派!
左は「浅間」乗組の相撲部員。
行事の正式な着物を着た人までいます。
そして右写真はホノルルで行われた相撲大会の模様です。
亦各寄港地の在留同胞の好角家と競技して勝ち続けた艦隊角力部員は
此処地に於いても所謂天狗力士と闘って悠々勝ちを占めた。
寄港地の一般力士を「天狗力士」などとディスるのはどうもいただけませんが、
まあ、日頃鍛えている艦隊力士の敵ではなかったということでしょう。
親善剣道試合も行われました。
艦隊の皆さんは防衛大学校の生徒のように、必ず何か一つ
武道をすることになっていたのかもしれません。
■ ヌアヌパリ
古戦場「ヌアヌパリ」の陖崖に立てば一望千里美しく続く甘藷畑の緑、
遥かに展開する太平洋の大海原、恍惚として澄み渡る碧空をあおげば
冷風颯々として衣を払う一霊境。
ここでいう「古戦場」とは、その昔ハワイ王朝の元祖であるキング・カメハメハが
ハワイ統一の王としての地位を築くために対立していたカラニクプレ酋長の一族と戦い、
このヌアヌパリ渓谷に敵をを崖っぷちに追い詰めたカメハメハの軍隊は
一人残らずこの谷から突き落とし、勝利を治めた場所であることを言います。
「霊境」とは日本人らしい言いかたです。
一行はホノルル市内を見学。
(此の自動車の数を見よ)とキャプション付き。
縦列駐車の車間距離がほとんどありません(汗)
この頃は「バンパーはぶつけるもの」だった?
■ 布哇(ハワイ)と砂糖
実際布哇の存在は砂糖によりて認められて居ると云って良い。
更に吾人は此処地に於る「パインアップル」と
「アイスクリーム」の美味には永久に忘れぬ事であろう。
「ハワイは世界一アイスクリームが美味しい」という伝説がありましたが、
もしかしたら練習艦隊の軍人たちが持ち帰った土産話から来たのかも。
ワイキキの海岸には今こんな東屋のようなものはないと思いますが、
この頃はのんびりした海岸だったのかもしれません。
「サンヂエモン氏日本式公園」とありましたが意味わからず。
地元の個人宅の庭でしょうか。
■ ホノルルに於ける「アットホーム」
旗艦浅間の後甲板は旗や幕で彩られ、甲板上の所々には
面白い飾り物が作られていた。
「アットホーム」に集まった白人邦人の綺羅を飾った紳士淑女たちは
明るい溶け合った気分で角力、剣道、柔道、さては演芸、そして
軽いご馳走に満足の一日を艦上にし過ごした。
候補生は此等の来賓の為に接伴役として天晴れ外交官振りを発揮した。
艦上レセプションのことを当時は「アットホーム」と称したようです。
女性は流行りのドレスに帽子をつけ、お洒落していますね。
現在でも練習艦隊の艦上レセプションに行くと、(毎年ではありませんが)
練習幹部が各グループをエスコートして、会場で世話をしたりしてくれます。
海軍軍人は須く国際的な社交に通じるべし、ということで、
昔からテーブルマナーやパーティでの振る舞いが仕込まれますが、
これも海軍軍人が外交を務めるという国際的な慣習に従ってのことです。
テーブルの上には今ほど「ご馳走が並ぶ」というわけではなく、
軽い茶会くらいの感じでお菓子が提供されています。
「面白い飾り物」とはこれのことでしょうか。
一富士二鷹三茄子を具現化した・・って茄子はどこ?
浅間の演芸部は各地で「もっとも好評を得た」ということです。
カツラや衣装一式を航海に持ち込み訓練の合間に練習をして臨みました。
前で脚本を持って居るのが脚本家、軍服は演出美術大道具その他。
■ ホノルルと別るゝの日
ヤルートに向って静かにその巨体を動かした旗艦八雲の
後甲板から聞こえた勇ましい軍艦「マーチ」は
いつしか悲壮な「ロングサイン」に変わって
桟橋を埋めた同胞の誰もの顔に異様の緊張さが見えた。
別離! 別離!
さらばホノルルよ、在留同胞よ、永久に健在なれ。
悲壮な「ロングサイン」
同胞の顔に「異様の緊張」
という表現は少し大仰すぎないか、と思ったのですが、これは
ホノルルでいかに彼らが愛されたかの証でしょうか。
それとも日系に訪れるこの後の運命を双方が予感していた・・・?
日系兵士で構成された日系部隊は、「GO FOR BROKE!」という
ピジン英語で「当たって砕けろ」という意味のモットーのもと、この後
彼らの祖国アメリカのために戦うことを余儀なくされます。
余談ですが、平成29年度の海上自衛隊練習艦隊の活動報告を聞きに行った時、
紹介スライドの端に常にこの「GO FOR BROKE!」という文字が見えるのに気がつきました。
練習幹部が自分たちで考案し、取り入れた「練習艦隊のモットー」だったそうです。
練習艦隊を見送る為に現地の邦人たちは、日の丸を満艦飾風に
揚げた船を何艘も出してきてくれました。
「何処迄送つてくれるのだらう」
彼らは艦隊の後をいつまでもいつまでも追いかけてきました。
そして出航した後の岸壁からはいつまでも見送りの人々が手を振り続けました。
ホノルル在泊中、旗艦は「八雲」に変更されました。
司令官を乗せたランチが「八雲」に向っていきます。
この時参加した何人かの士官候補生の中には、この17年後の1941年12月7日、
真珠湾攻撃のためにハワイに帰ってきた者がいました。
空中指揮官として攻撃を指揮した淵田美津雄、
そして航空参謀として計画を立案した源田実の二人です。
奇襲決行時、特に淵田は、真珠湾に向かう機上、この時のハワイへの寄港と、
そこに住む日系人たちの熱烈な歓迎の日々を思い起こすことがあったでしょうか。
続く。