週末、月島のコミュニティセンターで行われた模型展を観てきました。
「元モデラー(しかし現在はROGANのため制作休止中)」
の知人の方がお付き合いしているという模型の会の作品展で、
毎年この時期に定期的に行われていて今年で23回目の開催だそうです。
毎年テーマを変えて作品が集められるのだそうですが、今年は
巡洋艦を中心とした展示ということで楽しみにしてまいりました。
いきなり模型ではなく絵をご紹介してすみません。
「日本海海戦 佐藤鉄太郎の決断」
というタイトルの絵画です。
佐藤鉄太郎(1866−1942)は日本海海戦時、第二艦隊、旗艦「出雲」の副長です。
戦闘中、舵が故障した戦艦「クニャージ・スヴォーロフ」(国オヤジ座ろう)を見て、
バルチック艦隊が北へ向かうと誤認した旗艦「三笠」は、これの追撃を指示しましたが、
上村彦之丞中将と副官の佐藤中佐は舵の故障と即座に判断、「三笠」の命令を無視して
「我に続け」の信号旗を掲げながらバルチック艦隊に突撃していきました。
この絵はその後の「出雲」を描いたものだと思われますが、状況はよくわかりません。
この決断の結果、巡洋艦中心の第2戦隊が、戦艦中心のバルチック艦隊に突撃するという
前代未聞の作戦が実施されることになり、敵を挟撃することに成功しています。
というわけでその巡洋艦「出雲」。
先日来お話ししている大正13年の遠洋航海練習艦隊に参加していますね。
こちら装甲巡洋艦「八雲」。
大正13年度練習艦隊を「出雲」と組んでいるもう一隻の船です。
「八雲」は、ここに見えている紹介にもありますが、ドイツ生まれで、
シュテッテン・ヴュルカン造船所で誕生した装甲巡洋艦です。
練習艦隊の江田島の出航の写真を掲載した時にも書きましたが、
終戦後進駐軍はこの船体にラム(RAM)が付いていることに興味を持ったそうです。
ラムとは日本語の「衝角」のことで、喫水線下の艦体につけられた
尖ったツノのことで、「体当たり用武器」です。
軍船同士が接近戦を行う際、敵船の側面に突撃し、船腹を突き破ったり、
舵手がいる船であれば操舵を不可能にするために突き出しています。
フルハル模型だとその尖ったツノの形状がよくわかりますね。
大艦巨砲主義どころか、帆船の時代のような接近戦を想定した武器なので、
装備していた当の帝国海軍もこの機能をあてにはしていなかったでしょう。
ところでたった今気がついたのですが、高橋留美子作「うる星やつら」の
ツノの生えた鬼娘「ラムちゃん」という名前って、もしかして・・・?
手前、「八雲」、向こう側は「浅間」。
これに「出雲」を加えた三艦が、大正13年度の遠洋航海練習艦隊です。
「八雲」は日露戦争後練習艦として、ほぼ毎年のように、少尉候補生を乗せた
遠洋航海に活躍し、戦後は復員の輸送にも従事しました。
「浅間」は遠洋艦隊の項でもお話ししましたが、何度もお召艦になっているため、
もしこの年度に高松宮殿下が遠洋航海に参加することになっていれば、
この船をお召しになる予定でした。
航海記念アルバムの艦別名簿の「浅間」の欄には、一番最初に
病気で参加を断念された高松宮殿下の御名前が消されずに残っています。
日露戦争、「出雲」、上村彦之丞といえばこの巡洋艦です。
装甲巡洋艦「リューリック」(中央、黒艦体)
日露戦争時の「敵兵を救助せよ」で有名になったロシアの軍艦で、
「出雲」を旗艦とする第二艦隊、第四艦隊に蔚山沖で撃沈されました。
この形を見ればよくわかりますが、水面からの乾舷(水面から原則までの高さ)
が艦首から艦尾まで高く、これを「平甲板型船体」と言います。
ウォーターラインなのでこのモデルではわかりませんが、
「リューリック」も艦首水面下に衝角をもっていたということです。
この時代の流行りだったのかも。
艦体は分厚い鉄板が使われ、特に防御に重点を置いた作りだったそうですが、
上村中将の「国民に露探と罵られた恨み」を思いっきり晴らされて、
下瀬火薬の餌食となって蔚山沖の藻屑と消えていきました。
その際「出雲」が「リューリック」の乗員を救助したことで、
上村中将は一転して「上村将軍」という歌までできるなど、国民から
手のひら高速返しで英雄扱いされることになります。
海戦後、凱旋行進で熱狂的に自分を讃える群衆を見ながら
「少し前にはわしを無能とか露探とか罵った奴もいるじゃろうのう」
と上村中将は内心慨嘆したことでしょう。
一番左から「出雲」「吾妻」「常盤」「磐手」。
これが日本海海戦で、
「三笠の命令を無視して突進していった巡洋艦部隊」、
つまり上村艦隊、第二艦隊第二戦隊のメンバーです。
模型の展示とはいえ、こういう風に「わかる人にはわかる」
並べ方をしてくれていると、本当に嬉しくなってしまいますね。
旗艦の「出雲」に対して当時最新鋭艦だった「磐手」は、
艦隊で狙われやすい殿(しんがり)艦を務め、そのため被害を受けましたが、
上村中将が命じた「敵兵を救助せよ」の命令を受け、海上に漂う
「リューリック」の生存者の救助に当たっています。
ちなみに「出雲」はドイツ製、「磐手」「常盤」は英国のアームストロング社製、
「吾妻」はフランスのロワール社製と、この中に国産艦は一つもありません。
「常盤」はその後昭和2年に謎の大爆発事故を起こし、二度も触雷している上、
終戦直前の8月9日、大湊にいたところをジョン・マケイン・シニア中将率いる
任務隊の攻撃によって擱座しましたが、結局終戦までしぶとく生きぬいています。
殿艦として損害を受けながらも生き残ったタフさは最後の最後まで健在で、
1899年に就役して終戦まで現役だった巡洋艦(途中で敷設艦に転換)は
海軍の歴史の中で「磐手」ただ一隻だったということです。
ロシア海軍の左から
「アドミラル・ナヒモフ」「ドミトリー・ドンスコイ」
「ウラジミール・モノマフ」「アルマース」。
「ナヒモフ」は日本の装甲巡洋艦に30発の砲弾を受けて自沈処分、
「ドミトリー・ドンスコイ」「モノマフ」も同じく自沈。
生き残ったのはウラジオストック入港に成功した「アルマース」だけです。
別の方の作品で、これも「アドミラル・ナヒモフ」。
「ナヒモフ」巡洋艦ではなく装甲フリゲートとして生まれましたが、
フリゲートといってもよくよく見たら帆走フリゲートではないの。
就役は1888年で、ご覧のようにマストと一本煙突の船だったのですが、
10年後の1898年、近代化改装を施されて生まれ変わりました。
改装後は、機関を強化して帆走設備を全て撤去し、帆走用だったマストは
ミリタリー・マスト(見張り台や機関砲を乗せるためのマスト)に交換されました。
見張り所には速射砲を配置し船体中央部にあった操舵艦橋は
前部マストの背後に移動されるなどの大改装でした。
日本側からは覚えにくいので「ごみ取り権助」と一方的に呼ばれていた
「ドミトリー・ドンスコイ」をアップにしてみました。
実はごみ取り権助も巡洋艦ではなく、「装甲艦」という種別になります。
同じく同時期のロシア海軍巡洋艦、左から
防護巡洋艦「ノヴィーク」、二等巡洋艦「イズムルード」「ゼムチューグ」。
「イズムルード」も「水漏るど」なんて言われてたようですね。
「ゼムチューグ」は日本海海戦で生き残りましたが、負けたせいなのか、
戦後に下士官兵の反乱が起こってしまったとかなんとか。
これも巡洋艦ではないですが、戦艦「オスリャービア」。
日本側には「押すとピシャ」とか言われてました。
日本海海戦の2年前に稼働できるようになったばかりの新鋭艦でしたが、
第2装甲艦隊の旗艦として三列縦隊のうちの左翼先頭にいたため、
海戦が始まるなり、日本側の戦艦と装甲巡洋艦計12隻のうち、
7隻から、
「目標ー!押すとピシャー!テー!」
と一斉に集中砲火を一身に浴びせられ、最初に戦没することになってしまいました。
日本が丁字戦法によって戦隊の先頭艦を集中攻撃したこと、そしてその際
「オスリャービャ」が三本煙突で識別しやすかったことが原因だそうです。
515名近くが戦死し、その中には軍医、従軍司祭、そして
総員退艦を命じながら自らは艦橋を退くことを拒み艦と運命を共にした
ウラジーミル・ベール艦長なども含まれます。
ベール艦長
「香取」と「鹿島」。
「鹿島立ち」という言葉の由来について練習艦隊の項でお話ししましたが、
「鹿島」「香取」共に、最初から練習艦として設計されました。
それまで練習艦として遠洋航海に使われていた「出雲」が
石炭艦であったことと、老朽化してきたことから後継のため建造したもので、
艦名には、士官候補生の「旅立ち」の艦であることから
「鹿島立ち」という言葉に由来するこの名前を採用したのです。
Wikipediaには「艦名は鹿島神宮に由来する」とあるのですが、
神宮はむしろ後付けで、
「人生の門出、出発」
を意味する古語から引用したと考えた方がいいかもしれません。
最後に。
練習艦だった「八雲」は戦後、復員船として改装を加えられました。
戦後復員輸送船となった時代の「八雲」の模型までありました。
武器も何も積んでいない丸裸の元巡洋艦がこうやって模型で表現されているんですね。
「艦橋天蓋は固定化。艦橋後部に構造物」
「後部艦橋はエンクローズドされてる。
訓練用操舵室が残されている」
「スタンウォークは撤去」
全盛期?と復員時の「八雲」の模型を並べてみました。
どこがどう変わっているのか一目瞭然なのも模型ならではです。
続く。