模型展「世界の巡洋艦」についてお話ししております。
展示は各テーマに沿ってテーブルの上に模型が置かれ、このように
帝国海軍の巡洋艦コーナーはちゃんと旭日旗が敷かれていました。
「球磨」「多摩」「木曽」「北上」
100分の1の「北上」には度肝を抜かれましたが、会場には
普通に1/700の「北上」はじめ、軽巡群もちゃんといます。
一番左は見切れていますが、20年就役ということは・・・・
やっぱりやめとこう。また外れそうだから(笑)
軽巡「球磨」ですが、わたしの知り合いの父上が艦長をしていた頃、
中国のどこか(多分警戒していた青島)から神社の小さな社を積んで帰り、
その社を庭に飾って?いたという話を聞いたことがあります。
いかに昔の海軍では艦長職が「やりたい放題」だったかということですね。
ちなみに、その「球磨」、沈没の場所が特定されてからしばらくして、
マレーシアの業者が違法に引き揚げ作業をして、鉄くずとして
1トン当たりわずか2万円
で売り払ってしまったということです。
もう日本には所有権がないとはいえ、なんとかならなかったんでしょうか。
さて、「世界の巡洋艦」と言うことで、いわゆる大国の艦船を紹介してきましたが、
今日は大小取り混ぜてお送りしたいと思います。
まずは清国海軍。
19世紀末期に清国に存在した海軍で、日本とは日清戦争で戦い、
壊滅した北洋艦隊が知られています。
黄海海戦で日本と戦った北洋艦隊の有名な「定遠」「鎮遠」は
いずれも戦艦なので本日の展示には見ることはできません。
中国の船なので、全て漢字二文字なのはいいとして、
超勇(Chao Yung)
揚威(Yang Wei)
済遠(Sai En)
致遠(Chih Yuan)
靖遠(Ching Yuan)
とかいわれても、英語の人には全く覚えられなさそうです。
左にある「済遠」が黄海海戦のほか、
豊島沖(ほうとうおき)海戦
に参加したとありますが、これは1894年、清国と戦争をすることを
決定した日本側が相手に最後通牒を送り、その返事を待っている間、
接近した日清の海軍部隊の間で起きたフライングの海戦のことです。
日本側の「吉野」「難波」「秋津洲」は、北洋艦隊の「済遠」「広乙」
とすれ違った際、「どちらともなく」撃ち合って戦闘が始まってしまいました。
日本側の報告には
「吉野」が国際海洋法に則って’’礼砲’’を放つも「済遠」は返礼せず
戦闘準備をし、又はやがて実弾を発射して来た」
となっており、清国側はもちろん「日本が撃ってきた」と言っています。
日本の「つもり」はともかく、日本が先に撃ったことは間違いありません。
問題は本当に礼砲だったのか、それとも礼砲を撃つことで日本は
清国側が勘違いして攻撃してくればラッキー、と思っていたのか・・。
それは今でもわかりません。
この海戦の結果、「広乙」は「秋津洲」に追い込まれて座礁し、
総員退艦ののち自沈。
「済遠」は白旗を上げながらも逃走し、結局逃げ切っています。
この時、途中で遭遇した「高陞号」と「浪速」の間には、
有名な「高陞号事件」が起こりました。
当時「浪速」の艦長は大佐時代の東郷平八郎でした。
日本側の艦隊の司令官は坪井航三(本名?)少将です。
坪井司令が白旗を揚げながら停止せず逃げていく「済遠」を追っていると、
そこにたまたま通りかかったたのが輸送船「高陞号」と「操江」でした。
わかりやすくするために会話形式でやります。
坪井少将「高陞号には清国の兵隊が乗ってるじゃないか!止まれ!」
済遠「しめたある、奴らが気を取られている今のうちに逃げるあるよ!」
坪井「東郷大佐、高陞号を頼む!わしらは済遠を追う」
東郷「わかりました!」
「浪速」、「高陞号」に近づき、停船させる。
東郷「高陞号止まれ!浪速の砲はそちらに向けているぞ」
人見善五郎大尉「ハロー、臨検に来ました。あなたはどこの船ですか?」
ウォルズウェー船長「ワタシタチー、イギリスノフネデース。
シンコクセイフニチャーターサレテ、ヘイタイサンハコンデマース」
人見大尉「と言ってますがどうしますか」
東郷「うーん・・・我が艦に続けと船長に伝えてくれ。
そして、イギリス人の船長は『浪速』に移るようにと」
清国兵「それはダメある!許さないあるね!
もしイギリス人が船を降りるなら殺してやるあるよ」
東郷「こいつら、脅迫するつもりか・・・。
Captain, leave your ship!」
船長「It's impossible.」
東郷「うーむ、これは高陞号が清国兵に乗っ取られた、
つまり叛乱状態(mutiny)にあるということだな。
よろしい、ならば攻撃警告だ」
「浪速」のマストに攻撃警告の赤旗が揚げられた。
「高陞号」船上は清国兵が右往左往するばかり。
東郷「4時間経った。魚雷発射!」
清国兵「う、撃って来やがったある!」
イギリス人船員「今のうちだ、海に飛び込んで日本の船に移れ!」
東郷「カッターを出せ!イギリス人を救助せよ」
しかし魚雷は届かず不発。
清国兵「向こうに行かせないあるよ!イギリス人を撃てある!」
何人かがそれで殺害されたが、日本側はウォルズウェー船長を含む
イギリス人船員3名の救出に成功。
東郷「船長を確保したか。では遠慮なく撃て!」
「浪速」は右舷砲2門の砲撃で「高陞号」を撃沈。
結果、900名近くの清国兵がが死亡した。
NHKの「坂の上の雲」でもこの事件が扱われていましたが、描き方としては
海戦後、「高陞号」が沈んでいった海に漂っていたという設定の(笑)
爽やかにに笑っている清国兵乗組員の記念写真が映し出されるなど、
「罪もないのに殺された清国の若い人たち」
というイメージを強調した、あからさまな日本非難にうんざりしたものです。
連合艦隊の出港シーンに国旗が一本もないとか、義和団の乱を
大国の横暴への反乱にすり替えるとか、本当にこのころのNHKの
中国への忖度ぶりは眼に余るものがありましたね。
あ、今現在もそうか(笑)
NHKはこの事件を日本に非があるように描きましたが、その後行われた裁判で、
ウォルズウェー「高陞号」船長にも、日本軍艦の行為にも、国際法に照らし
違法はないとの判決が下されることになりました。
まあただ、当時のイギリス世論が日本擁護に動いたのは、情勢が後押ししたにすぎず、
この時のイギリスの”都合”によっては、この行為が「違法」となっていた、
という可能性は十分にありました。
何しろ日本は言い訳はともかく開戦前に攻撃を始めてしまったのは確かなのですから、
これを問題視されなかったというのには何らかの意思が働いていたに違いありません。
「歴史に正しいも間違っているもない」
とわたしが常日頃主張しているその典型的な一例がここにあります。
中華民国海軍の巡洋艦「海圻」(Hai-chi)。
中華民国海軍というのはいつからあるのか、ということを
わたしは今まで考えたこともなかったわけですが、それは1913年です。
これもあらためて知ったのですが、中華民国は
第一次世界大戦で戦勝国側にいた関係で、戦利艦を獲得し、
これらを近代中華民国海軍建軍の基礎にしています。
巡洋艦「海圻」は「海天」級防護巡洋艦で、清国海軍の軍艦です。
つまり中華民国海軍って清国海軍と同一とされているってことですか?
「海圻」は1898年竣工し、1899年5月10日に就役しました。
1911年にはジョージ五世戴冠記念観艦式にも参列していますが、
1937年9月15日に、日本海軍の爆撃により沈没しました。
「浪速」の右側はチリ海軍「エスメラルダ」。
ノートルダムの傴僂男?と思ったのですが、そもそも「エスメラルダ」とは
「エメラルド」という意味で、チリ海軍でこの名前を受け継ぐ船としては
これが6隻目、つまり大変由緒ある名前だそうです。
こんなところにあるので古い船かと思ったら、1954年就役、現在も現役の
練習帆船で、世界で2番目の檣長を誇るバーケンティンという帆船です。
これだけ檣長があると、帆を張るのも大変そう・・・。
訓練を行うチリ海軍の軍人さんもさぞ鍛えられることでしょう。
ギリシャ海軍 装甲巡洋艦「イェロギオフ・アベロフ」。
アベロフという名前はロシア人みたいですが、実は
「イェオールイオス・アヴェローフ」
が正しいんだそうです。
普通に日本でもそう呼べばいいんじゃ?って思いますが。
とにかくこのアヴェローフさんは、ギリシャ海軍がイタリアから
この艦を購入した時に購入代金の3分の1を出資した海商王だそうです。
オナシスみたいな感じでしょうか。
ギリシャ海軍なんて、別に戦争してないんだからそりゃ大事にしていれば
軍艦の一つくらい残ってるでしょうよ、と思ってしまってすみません。
ギリシャって連合国側で戦ってドイツに結構やられてるんですってね。
「アベロフ」が就役した頃、天敵オスマン帝国海軍とバルカン戦争もしてますし。
「アベロフ」は現在記念艦として公開されています。
第二次大戦でドイツ侵攻を受け、ギリシャ海軍が自沈させようとしたところ
「アベロフ」乗組員は命令に背いて出航し、アレキサンドリアで
連合国に組み込まれるというドラマチックな戦後を迎えたためです。
命令に忠実な軍人ばかりなら、彼女の今はなかったことになります。
現存する世界でただ一つの装甲巡洋艦でもある彼女を、
ギリシャでは敬意を評して「戦艦」(θωρηκτό)と呼んでいます。
ギリシャ海軍が「アベロフ」を調達しなければならなかった原因は
何と言っても隣国オスマン帝国との間の軋轢でした。
隣り合った国で仲がいいなんてケースは世界には稀で、(日本と台湾除く)
地図を見ていただければ、どうしてこの両者がいがみ合うのか一目瞭然です。
バルカン戦争、希土戦争と、両者はやり合ってきたわけですが、これは
そのために生まれたオスマン帝国海軍の巡洋艦「メジディイエ」です。
沿岸部の防備のためにオスマン帝国がウィリアム・クランプ・アンド・サンズ社という
アメリカの会社に注文し1903年に就役しました。
バルカン戦争ではブルガリアの戦隊と海戦を行なっています。
「メジディイエ」は第一次世界大戦時、黒海を遊弋中触雷し、
着底してしまったところをのちにロシア軍に鹵獲されてしまい、
着底&鹵獲なう
巡洋艦「プルート」
という名前に変わり、黒海艦隊の一艦として古巣のオスマン帝国を相手に、
トラブゾン侵攻作戦 (Trebizond Campaign)などで戦う運命になったということです。
さて、模型展「世界の巡洋艦」最終回は、いよいよアメリカの巡洋艦です。
続く。