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目黒・防衛省〜秋山真之の戦術学

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目黒の防衛省地域内にある幹部候補学校の、
そのなかでも海軍にまつわる歴史的資料を見せていただきました。

門外不出のこの資料の中で、とくにこの海軍軍人たちが残した書は
美術館でも見ることができないで特に貴重なものです。


冒頭写真左は軍令部長だった海軍大将永野修身の書。
最初の字からしてこれなんですか?という感じですが、

「竹影拂階塵不動 月輪穿沼水無痕」

竹影階をはらって塵動かず月輪沼を穿(うが)ちて水痕なし

竹林が湖沼を抱くように広がる情景。
竹の映す影は塵も動かず静謐の中にあり、まるで水面を穿ったような
月の影には波の立つ気配もない・・・・・・(適当)


昔の人は少し偉くなると揮毫を所望されるのが普通でしたので、
どんな人でも何パターンかのバージョンを用意していたようですが、
この永野修身は、非常に多くの書をあちこちに遺しているようです。

軍人の書でも大抵はこのように森羅万象を心象風景のように捉えたものが多く、
そこに「何を読み解くか」を読み手に投げかけているようなものが多いのは
日本人の禅的思想の表れでもあるのでしょうか。



そして、その横の本日のテーマである、秋山真之の書。



「山静如太古日長似少年」

(山静かなること太古の如く日長きこと少年に似たり)

何と言いますか、実に天才らしい内容だと思います。

山静かなること太古のごとく。

これはわかります。
しかし、次の日が長いことが少年に似たり、これはいかなる意味でしょうか。
説明してくださった幹部学校校長によると、少年時代は一日が長いという意味ではないかとのこと。

確かに、子供の頃は誰しも時の経つのが遅く感じられたものです。
それが次第次第に速度を速め、学校時代が終わると同時に
なぜか一年が一か月くらいの感覚で過ぎてしまいます。

この法則に対し、4つの理由が考えられるそうです。

1、ジャネーの法則による「時間の心理的速さは年齢の逆数に比例する」説。

2、経験を積むことに心理的な処理速度が速まるからとする説。

3、心拍数が少なくなると、時間が短く感じられるとする説。

4、インプットが少ないと時間が短く感じられるからとする説。


どれが正解かはわかりませんが、唯一つ言えることは、古今東西、
この世のすべての人がそのように感じているということなんですね。

というところで秋山真之の書です。
これは解釈すると

山は太古の昔からそうであったように静かである

そこでは少年の日にそうだったように、時はゆっくり流れ一日が長い

主役は自然ですね。
さらに解説すると、

時間の流れというのは絶対であり等しく同じであるはずなのに
太古の昔からこうであったであろう自然の静寂につつまれたこの風景では
まるで子供の頃の一日がそうだったように時間がここだけゆっくり流れているようだ

というところでしょうか。



「智謀如湧」(ちぼうわくがごとし)

これは東郷平八郎元帥が秋山参謀の戦術の立案能力の高さを讃えて言った言葉です。
日本海開戦を勝利に導いたのは様々な要因の中でも、この参謀がいたことが大きかった、
とは後世の歴史家がこぞって記すところです。

日露大戦後、その働きを高く評価された秋山は海軍大学の教鞭をとることになりました。
海軍大学で教鞭をとったのはわずか三年だったそうで、世の中が比較的平和だったこともあり、
49歳の若さで死去するまで、秋山は軍人として取り立てて目立った活躍はしていません。

これゆえ日本海海戦のときが秋山真之の「全盛期」だったとする説もあります。


しかし、海軍内ではその天才ぶりは早くから有名で、さらに日露大戦での功績、
東郷大将がその威力能力を絶賛したこともあって、秋山の存在は一種神格化されていたようです。




これは海大の教授として秋山が執筆した戦術に関する教科書の緒言です。
現代語に直してみました。


「戦務というのは軍隊を指揮統率し、いかに行動させるか、
いかに生存させられるかをマネージメントすることで、
戦略や戦術のように直接戦うための技術ではない。
しかし、戦務なくしてはどんな兵術も実地することはできないのだ。
どんな有能雄弁な弁士も、文章でそれを世間に伝えなければ
その意見は人に知られないままというのと同じことである。
戦務は戦術に属さない普通の庶務に過ぎないが、兵術と密接な関係があり、
それどころかしばしば兵術そのものと言っていいくらいの近似性を持つ。」

こんな出だしで秋山は学生に「戦術」を説いたようです。
前にも一度書きましたが、秋山は自分の参謀としての最大の功績であった
日露戦争について、

「私があの戦争で国に奉仕したのは、戦略・戦術ではなく、戦務であった」

と語っています。
自分が軍人であるというより「戦術学者」として日本海海戦を戦ったと表明している、
と言った感を受けます。

英語で言うと戦術は「タクティクス」。
秋山の序文で言う、「戦術なしでは成り立たない」のがストラテジー、つまり「戦略」です。
いずれも軍事用語ですが、「戦務」、これはしいて言うと「サービス」でしょうか。


一般に戦略は戦術の集合のうえに成り立つ、と言います。

戦術無くしてはどんな戦略も成り立たない、その戦術も戦務なくしては成り立たない

とここで秋山は言っていますが、それでは秋山の言う「戦術」とは
具体的にどう言ったものだったのでしょうか。

攻勢 - 戦勢は攻勢を維持して積極的に攻撃すること。 先制 - 敵よりも先んじて機動・攻撃すること。 集中 - 敵の一部を全戦力で攻撃すること。 決戦 - 決定的な戦果を求めて敵を撃滅すること。 天候・地形の利用 - 部隊の特性や戦い方に応じて天候・地形を十分に利用すること。 奇襲 - 敵の不意を突いて攻撃すること。 独断専行 - 部隊指揮官は状況に応じ、自己の任務と権限を考慮して適切な独断を行うこと。 勇断決行


つまり戦術実践のためには戦務という名の各種作業が必要になってくるということです。

本人の言を借りるなら、

作戦を司令官は戦略から見、参謀は戦務から見る

これらが秋山が研究開発し、後進に伝えたところの戦術の教義です。

当たり前と言えば当たり前のことを言っているようですが、
それは今日に生きている我々が、こう言った概念が会社経営やビジネスに導入され、
あらゆる媒体で言われることを見聞きしてきたための既視感からくるものでしょう。

しかし秋山真之が戦術学としてこれらを制定したときには、
そういった前例は海外の戦史研究から求めるほかありませんでした。

まさにこれは日本人にとってコロンブスの卵たる理念だったのです。



さて、こういったことを秋山は海大教授としての学生に講義しました。

学生と一口に言いますが、海大とは海軍兵学校の卒業生が海軍士官(兵科将校)に任官後、
10年程度の実務経験を経た中から選抜されて学ぶもので、受験資格は
兵学校での教育を受けた中堅将校である大尉・少佐であることが基本。
年齢で言うとだいたい30歳くらいでしょうか。

ちなみにこの海上自衛隊幹部学校も、上級指揮官及び幕僚の育成を目的にしており、
存在意義はかつての海軍大学そのままです。

上位課程である幹部高級課程の学生は、部隊勤務等を経た1佐・2佐の中から選考されます。
つまり、旧軍の少佐、中佐ということで海大より少しだけ階級が上になっていますね。




命令 「本書により海軍戦術を習得すべし」

命令ですよ。
命令で戦術を習得させられるとは。
これが実に軍隊調ですね。


この戦術学の教科書は、秋山真之が海大で教鞭を取っていたころ、
一年間に亘って講義した内容であると書かれています。
この本が改定されたとき、秋山は軍艦「河内」の艦長でしたが、そのせいなのか、
この改訂によせる辞からして気のせいか実に悠長というか、呑気な調子です。
面白いので、現代語で全文書きだしてみます。


小官がこれを講義した明治35年は、海軍の諸事がまだまだ稚拙で、
たとえば艦砲射撃も、側方的に最大射距離3千メートルをもってしていたし、
「射撃の指揮」「弾着観測」の術語すらまだなかった
しかし当時の緒言で、「実現はまだ遠いだろう」と予想したした速力30ノットの戦艦も
効達8千メートルの魚雷も、いまや実現しようとしている。

昔のものがおおむね陳腐になっていき、この頃の己の先見の明の無さを慚愧するばかりだ。
同時に世界の進化の早いことを実感するとともに
この戦術研究を一日も怠ってはならないとの思いを持たざるをえない。

まあ、物事の大小長短は変わっても物事の心理というものは恒久にかわるものではなく
これらの運用においても変わるものではない。

銃は槍の長くなったもの、砲は銃の大きくなったものと考えれば、
この陳腐の書も温故知新の一助となるかもしれない。

大正元年軍艦河内にて

海軍少佐秋山真之


かつての自分の講義書を「時代遅れの陳腐」と言い切っているわけです。

この「基本戦術」が改定されたのは、秋山が最初に講義をしてから10年後のことでした。
只でさえ10年一昔というのに、このころの軍事技術の発達は凄まじいものだったでしょう。

秋山は平時にのんびりと「河内」勤務をしながら、
怒涛のような時代の流れを、すでに一線を退いた目で眺めている感があります。
さらには、後世言われるように、自分の最盛期は日本海海戦で終わったような気がしていたのではないかと、
この著文に漂うそこはかとない諦念のような「他人事」調をみると思います。


このころ秋山は44歳。
盲腸炎を拗らせて急逝する5年前です。
あまりにも早く逝ったこの天才は、このとき本人の知るべくもないことながら
すでに晩年に身を置いていたことになります。


案外その頃、非凡だったかれの一日は、常人の「絶対の法則」からは解き放たれて、
あたかも「少年の日のように」穏やかで長かったかもしれません。












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