Quantcast
Channel: ネイビーブルーに恋をして
Viewing all articles
Browse latest Browse all 2842

マイノリティの沿岸警備隊〜コーストガードアカデミー博物館

$
0
0

 

リチャード・イサーリッジ (Richard Etheridge)は、アフリカ系として初めて
湾岸救命ステーションの指揮官になった人物です。

ノースカロライナで1843年奴隷として生まれたイザーリッジは、南北戦争の間は
連合軍のために任務をしていましたが、戦後は救命隊に戻りました。

 

左端がイザーリッジ、ピー・アイランド・ステーション庁舎前の部下との写真です。
部下が全員黒人であることがおわかりいただけるでしょうか。

イサーリッジを指名したのは救命部隊を創設したキンボール本人だったそうですが、
当時の社会的通念から、黒人の指導者の下に白人を置くわけにいかず、
結果ピーアイランド・ステーションは全員が黒人の職員となりました。

ちなみにイサーリッジの着任5ヶ月後、ステーションは放火されています。

つまり黒人ゆえ常に監視され、わずかなミスを起こしても彼自身とクルーは
簡単に白人にポジションを取って代わられかねない状態にあったわけで、
彼はそのことを重々承知し、非常時への対応準備を常に怠りませんでした。

そして1896年10月11日、その努力が身を結ぶことになります。

スクーナー「ニューマン」はハリケーンの襲来した日
乗員のほかに船長の妻と3歳の娘を船上に乗せていました。

見張りだったセオドア・ミーキンス(写真左から5番目)は信号を察知し、
イサーリッジと共にコストン・フレア(マーサ・コストンが発明した信号)を発射して
「ニューマン」に通信を送ります。

ピー・アイランドのクルーは難破した船まで巨大な波が打ち寄せる海岸から
ボートで近づきますが、波が強すぎて近寄ることもできません。
ビーチ・ブイを設置するためのアンカーを打つこともできず、
最終的に2人の隊員が波の中を泳いで、難破船にラインを引くことに成功します。

 

(ビーチブイ使用例。結局隊員はラインを繋いだ海を泳いで救助を行った)

その後も彼らは何度も海に入り、船長の3歳の娘から乗客と乗組員を全て救出しました。
伝わっている話によると、隊員の中で最も水泳に長けていたミーキンスは、
そのほとんどの救出活動に加わっていたということです。

RESCUE MEN The Story of the Pea Island Life Savers Film Trailer

ミーキンスはその後21年以上に亘りピーアイランドで暮らしていました。

1917年に亡くなった日は休暇中で、ボートに乗っている間に嵐が起こり、
彼は海岸に泳いで帰ろうとして溺死したといわれています。

ピー・アイランドには長い救助用の何かを持ったイサーリッジの
ブロンズ像が、彼の功績を称えて建てられました。

「コンバット・アーティスト」という言葉を初めて知りました。
ジェイコブ・ローレンスは、軍所属のアーティストになった最初のアフリカ系です。

戦艦「マサチューセッツ」にも、絵が得意で艦内の絵描きとして活動し、
戦後プロになってしまったカートゥーン作家というのが居ましたが、
彼の場合は沿岸警備隊に戦争中入隊してそこで元々の技能を披露したところ、
トントン拍子に「公式画家」の地位を得たという人物です。

大戦が始まって、アメリカ政府は兵力の増加を目的として、
公式に人種差別を撤廃し、沿岸警備隊士官学校へのアフリカ系入学許可、
そして予備士官への登用をはじめました。

ローレンスもその一環として入隊後、

カールトン・スキナー(1913〜2004)

が艦長を務める気象観測船「シークラウド」にその他の黒人兵とともに配属されます。

中尉だったスキナーは乗り組んだ「ノースランド」で、停止したエンジンを動かすのに
白人のエンジニアを優先し、どうしようもなくなって初めて黒人エンジニアに任せたら
その途端エンジンが動き出す、という事件を目撃して以来、人種差別は軍、特に
海の上ではなんのメリットももたらさない、という考えの持ち主でした。

そんな艦長の元でアーティストとして各地でスケッチを行い、船のペインティング、
その他イラストの必要な仕事を任されるようになったローレンスは、戦後
「戦争シリーズ」と称する一連の作品群をものし、評価を高めます。

ちなみに彼が他の隊員に見せているのがこの絵。
 
「Embarkation or possibly Landing Craft」

というタイトルだそうですが、タイトルもさることながら、
見ている同僚の皆さん、全員「?」な感じ。

彼が沿岸警備隊にいるときに製作した絵画は行方が分からないものが多いそうです。

おまけ:美人の嫁グェンドリンさんとローレンス。

■ ジョセフ・ジェンキンス

デトロイト出身のジョセフ・ジェンキンスは、沿岸警備隊初の黒人士官でした。

講演会を行った時の紹介記事を読んでいただくとわかりますが、ジェンキンスは
アカデミーで予備士官になるための訓練をする前に、すでに名門ミシガン大学の工学部で
黒人初の学生となり、卒業して高速道路の設計者として働いていた人物です。

雪の積もる「シークラウド」の甲板でOKサインをするジェンキンス中尉。
左のクラレンス・サミュエルズ中尉もアフリカ系です。

そう、つまり「シークラウド」は実験的にアフリカ系を士官として採用した船で、
艦上での人種差別は非合理的だとするスキナーがその艦長になったというわけです。

これもおまけ。
ジェンキンス中尉の結婚式での一コマ。

ジェンキンスら黒人士官の登用実験は大変うまくいき、彼らのおかげで
その後のアフリカ系の軍での採用は大幅に進むことになります。

ジェンキンスは沿岸警備隊に在籍したままミシガン州兵のエンジニアリング部隊の
隊長を務め、さらには土木エンジニアとしても生涯第一線にありました。

実験的に予備士官としてジェンキンスが入学してから20年も後のことになりますが、
写真のマーレ・スミスJr.はアフリカ系で初めてコーストガードアカデミーを卒業しました。

正式な黒人のコーストガーディアンは彼が1966年に少尉となるまで居なかったことになります。

ヒゲが無い時代、コーストガードアカデミー卒業式でのスミスJr.。
握手しているのはお父さん、マーレ・スミス陸軍大佐、奥が学校長です。

上の写真はベトナム戦争時、カッターの指揮官としてブロンズスターを授与されるスミス。

お父さんもまるで映画に出てきそうなイケメン黒人ですが、
陸軍では核兵器に関する防諜部門にいたため、仕事の関係でスミスJr.は
ドイツとそして日本で幼少期を過ごしています。

あまりにかっこいいので写真をもう一枚。
ポイント級カッターでデッキガンの操作を指導するスミス艦長。

スミスはその後ジョージ・ワシントンで法学を修め、
法学部門のディレクターとして古巣で活躍し続けました。

しかし、まるで映画の1シーンですね。

 

さて、真珠湾攻撃以降、戦地に男性が取られその抜けた職場を埋めるため、
どの軍も女性軍人をこぞって募集し始め、沿岸警備隊も1942年から

SPARs (SENPER PARATUS  ALWAYS READY)

という名称で1946年までに1万人もの女性を採用しました。

モーターを前に講義している教官も内心ウッキウキ(多分)

そんな中、アフリカ系の女性も採用されました。
初のアフリカ系女子コースト・ガーディアン、
ジュリー・モズレー・ポール嬢、そしてウィニフレッド・バード嬢。

絶対これ合格には容姿も考慮されてるでしょ。

アフリカ系女性として初めて沿岸警備隊の制服を着用し配置についた、

オリビア・フッカー Olivia J. Hooker(1915〜)

彼女はヨーマン、つまり書記下士官のセカンドクラスまで昇進し、
戦後は超名門コロンビア大学で心理学の博士号を取得しています。

米国心理学界の知的発達障害部門の創設に携わり、大学で教授職、
ケネディチャイルドスタディセンターのディレクターを務め、
引退後は悠々自適の生活を送り、2018年現在、102歳でまだ健在です。

これは凛々しい。
固定翼パイロット、

ジャニーヌ・マクリントッシュ・メンツェ(Jeanine MacLntosh Menze)。

特記すべきは彼女がジャマイカ生まれで、アメリカには帰化したことでしょう。
それでも彼女のタイトルは

「アフリカ系アメリカ人女性初めてのパイロット」

となっています。
つまりアフリカ系って色の黒い人のことっていう括りなの?
何だか乱暴だなあ・・。

名札は「マクリントッシュ」となっていますね。
胸のウィングマークがよくお似合いです。

以前も一度ご紹介したことがある、アフリカ系女性初のヘリパイロット、
ラ・シャンダ・ホルムス(La'Shanda Holmes)。

Female Changemakers: LaShanda Holmes.mp4

彼女の映像が見つかったので挙げておきます。

こちらはアフリカ系で初めてマスターチーフ・プティ・オフィサー、
つまり下士官の最高位にまでなった、ヴィンセント”ヴィンス”・パットン曹長。

腕の洗濯板が本当に洗濯板そのものです。

アフリカ系のヴァイス・アドミラルすなわち中将も生まれました。

マンソン・ブラウン (Manson Brown)VADM

学位は土木工学、イリノイ大学でも学位を取っています。

 

ところで割と最近のことになりますが、アメリカの空軍士官学校で
黒人に対する差別的な落書きがあり、それについて学校長が

「他人を尊重できない者はここから去れ」

と厳しい調子で訓示をしたことが話題になりました。

優秀なら特に軍では昇進になんの障害もないのがアメリカ社会ですが、
人の心に潜む差別、もうこればかりは如何ともし難いのが現実。


ちょっと住めば日常生活の中でも、例えば白人の娘が郵便局で
中国人の局員に向けるさも汚いものを見るような目とか、
逆にアジア系の客の精算を済ませた後、次の客(わたしね)に
わたし中国人嫌いなの、と言ってくる白人店員とか、黒人の居住区は
どこでも本当に黒人しか住んでいないとか・・・
山のように差別の片鱗を発見することができるのがアメリカです。

士官学校の落書きも、そんな「日常」から出てきた、本人にすれば
悪戯程度のことという認識だったのかもしれません。

犯人探しをしたという話は伝わっていないので、この件では誰も
処分されるということにはならなかったようですが、その代わり
落書きをした学生は自分の認識の大いなる過ちと罪悪感を
一生十字架のように背負っていくことになったわけです。


優秀なアフリカ系の先人について軍人として多くを学んでいれば、
彼あるいは彼女の差別心は、少なくともこんな形で外に現れることは
なかったかもしれないと、この項をまとめ終わった今わたしはそう思います。


 

続く。

 


Viewing all articles
Browse latest Browse all 2842

Trending Articles



<script src="https://jsc.adskeeper.com/r/s/rssing.com.1596347.js" async> </script>