コーストガードアカデミー博物館シリーズ、最終回です。
冒頭写真は館内中央にどーんと飾ってあったワシのモニュメント。
旗、そして帽子のエンブレムにもその姿があるように、
コーストガードのシンボルはイーグルです。
■ ベトナム戦争
ミュージアムの最後の方に絵画コーナーがありました。
説明がないのでいつの出来事を表しているのははっきりしませんが、
USCGC ポイント・リーグ
USCGC ポイント・スラカム
が攻撃しているということは、ベトナム戦争中のことで、彼らが
弾薬を積んだ北ベトナム軍のトロール船を捕獲した時のことでしょう。
ベトナムでモンスーンに遭遇し、まるで木の葉のように身を揉まれるカッターのすがた。
銃が2丁展示してあって、どっちがどうなのか説明も全くなかったのですが、
どうやらこちらはフランス製の、
Chatellerault Model (シャテルロー)軽機関銃
のようです。
このタイプはベトナム軍で使用されていました。
カラシニコフのAK-47銃です。
ベトナム戦争では北ベトナム軍、中国共産軍が使用していたそうです。
USCG ポイント・ウェルカム(WPB-82329)。
ベトナム戦争でダナン付近をパトロールしていたポイント・ウェルカムでは、
1966年8月11日、フレンドリーファイア(味方からの攻撃)を受け、指揮官であった
デイビッド・ブロストローム(David C. Brostorom )
がそれによって死亡するという悲劇が起こりました。
ベトナム戦争では沿岸警備隊員は7名が戦死していますが、彼は
そのうちの一人となったのです。
巨大なザルみたいなのが展示してありました。
ちなみに、展示物の向こうには、この日館内を案内してくれたキュレーターの
ジェニファーさんの乗っていた車椅子が見えています。
葦を手で編んだ「バスケットボート」は、ベトナム戦争時のベトナム国内では
水辺を移動するポピュラーな交通手段として使われていました。
バスケットボート使用例。
っていうか、なんでこんなものをアメリカまで持って帰ってきたのか・・・。
展示物の横には「素材は極端に繊細なので触らないでください」
と注意書きがありました。
ベトナム戦争中に撮られた写真を元に描かれた絵画です。
現地の少女と交流している沿岸警備隊員。
ヘリがぶら下げているのは・・・・・・「ボディバッグ」、
つまり戦死した兵士の遺体が入った袋です。
なんというか・・・・遺体に対する考え方の違いだとは思いますが、
思いっきりモノ扱いですね。
2015年に描かれた「現在」の絵です。
少年は何かのきっかけで、ベトナムに沿岸警備隊員として参加していた
祖父の手紙、そして写真、ペナントを発見しました。
手紙を読みながら少年は何を思うのでしょうか。
ベトナム出征時の沿岸警備隊のカーキ・ドレス。
非常に簡易に、略帽にはイーグルの刺繍がしてあります。
■ 9.11同時多発テロ事件
2001年9月11日、ご存知のように同時多発テロが起こりました。
沿岸警備隊は水路から人々を避難させ、通信と安全を確保するために
高貴な鷲作戦(Operation Noble Eagle )
をカナダと共同で立ち上げ、国内テロに特化した活動を開始しました。
まず遭難した人々を救出すること。
さらなるテロの追随に備えて海の警戒を徹底すること。
そして、グラウンドゼロとなった現場を「クリーンアップ」することが
そのミッションでした。
第二次世界大戦終了以降、一度にこれだけの沿岸警備隊員が派出されたのは
初めてのことであったといわれています。
現地で救出作業を行う沿岸警備隊と、ライフベストを支給されて待つ人々。
突堤に911と描かれていますがこれは偶然です。
■ 「フリーダム・イラク」作戦
911同時多発テロの後、米英は実行犯であるアルカイダとイラクを関連付け、
イラクが大量破壊兵器を保持していると決めつけて(?)開戦しました。
写真は2003年、イラク派兵に伴い現地のパトロールを行う沿岸警備隊。
全員の表情に尋常でなく緊張した色が見て取れます。
彼らのうち一人はこう語りました。
「私のような人間には今まで見たこともない、興味深いものがそこにはあった。
それは『戦争の音』であり『戦争の色』とでもいうべき空だった。
空というのは重要なファクターだったよ。
煙でぼんやりとして、そして大音響が満ちた空。
我々の船PC-10、「ファイアボルト」。
海軍の船はその音が鳴り響くたびに震えた・・・」
「イラクの自由作戦」で政府は沿岸警備隊に海上警備と国防を任命しました。
沿岸警備隊は2隻のカッターと8隻の警戒船、4個の警備ユニット、海兵隊員、
そして2個のメンテナンスサポートユニットをもってペルシャ湾に赴きました。
全沿岸警備隊員のおよそ半数にあたる人数が動員されたと言われています。
上記で「空の色」について語った沿岸警備隊員、
ネイサン・ブルッケンタール(Nathan Bruckenthal )
は、それからちょうど1年後の2004年4月24日、カブールでのアクションにおいて
ベトナム戦争以来初めての沿岸警備隊員の戦死者となりました。
オイルターミナルで待ち伏せしていたテロリストの自爆に巻き込まれたのです。
アーリントン墓地に葬られるブルッケンタールの遺体です。
■ メキシコ湾原油流出事故
さて、沿岸警備隊が海軍の下に入って出征する戦争がない時も、
その存在意義は常に災害における人命救助にあります。
このライフベストは、2010年に起こった掘削リグ、
の爆発事故が起こった時、不明者捜索を行った沿岸警備隊員が
着用していたものです。
日本ではメキシコ湾原油流出事故として知られています。
爆発と火災によりリグは沈没、11名の関係者が亡くなるという大惨事でした。
放水によって四方から水をかける間、生存者を捜索しているのが沿岸警備隊です。
サンハットと「こういう時のマニュアル」手帳も、流出事故に参加した
沿岸警備隊の必携であった模様。
2005年、ハリケーン・カトリーナがアメリカの南西部を襲いました。
映像で見たレスキューの様子から、その救出劇はオレンジのヘリコプターから
ヒロイックに救難救助スイマーが降りていくイメージが強いかもしれませんが、実は、
市中に溢れた水、すなわち「Toxic Soup」(毒のスープ)のなかを
ボートで漕ぎまわり、人を拾い上げていくというのがあの時の沿岸警備隊の姿でした。
「少しボートを進めてエンジンを切る。
その静けさの中で救いを求めている声がしないか、
ビルの内側から壁を叩く音がしないか、
そして屋根の上に体が引っかかった人の手が振られていないか、
窓から誰かが覗いていないかを確かめる、それが仕事だった」
沿岸警備隊の救難部隊司令官の言葉です。
捜索に投入された沿岸警備隊員は全米49の部隊から集められた167名。
彼らによって救出された住民はこの地域だけで1万2千310名に上りました。
マス目のついた市街図は、航空隊員(主にヘリ部隊)のクルーに渡されたものです。
最終的に投入された沿岸警備隊員は5000名、3万3千名の被災者が
コーストガードによって命を救われたと言ってもいいでしょう。
”それは悲惨の一言だった。
とにかく無茶苦茶で、暑くて、汗ばむ気候で、あたり一帯が汚染されていた。
そして人々はおそらく誰にとっても初めて経験する最悪の事態に苦しめられていた。
しかし、我が沿岸警備隊はまるでスイス製の時計のように正確に駆けつけた。
本当に、本当に誇らしい瞬間だったよ。
私の沿岸警備隊人生にとってもそれはハイライトと呼ぶべきものだった。
自分がその一員として救助に加わることができたのは素晴らしい出来事だった。
我々にとっての、あれが戦争なんだよ。わかるか?我々の戦争だ”
全米の歴史の中でも最悪と言われたハリケーンがルイジアナを襲った後、
その救難活動に参加した沿岸警備隊員がのちに語ったことです。
ハリケーン・カトリーナの被災者たちは、沿岸警備隊を一様にこう呼びました。
「ニューオーリンズの聖人たち」
と。
沿岸警備隊遺産博物館シリーズ 終わり