さて、というわけで、観桜会の模様をお伝えいたしましたが、今日は
その前に見学した呉鎮守府時代の地下壕の内部をみた話をします。
その前に、我が家の自慢の桜が満開の様子を。
桜が満開の時だけ、寝室のカーテンを開けて寝たりします。
昔この低層マンションの敷地には何かの長官公舎があったので、
その名残で桜の木が植えられているのです。
呉地方総監庁舎前からもう一度。
ちなみにこれはNikon1で撮影したものです。
このあと受付をして、庁舎の間の坂道を降って行くように指示されました・
この桜の向こう側が、庁舎の海側に面した「表門」の前庭であり、
今回の観桜会会場となります。
坂道を下っていくと右手に見えてくるのがこの小屋です。
天井につけられた通風換気口の形状といい、屋根といい、
作られたのはまず確実に鎮守府時代だと思われます。
窓が小さく、消火栓があること、さらには扉は鉄なのに、天井は抜ける素材。
可燃物あるいは爆発物を収納していたのではないでしょうか。
小屋の向こう側に石段が見えていますが・・・・、
ここを上っていくと、観桜会会場への近道となります。
明かりが用意されているようですが、夜に備えてわざわざ設置したのでしょうか。
地下壕司令室の入り口はわざわざ土で覆い、芝を生やしてカムフラージュ。
これは特に上空の飛行機から見え難くしています。
地下壕の下に立ち、上を見上げたところ。
ここを入っていったところに作戦司令室があります。
作戦司令室はこちらから見ると一階にあることになりますが、
長官庁舎のところから見ると「地下三階」ということになります。
かつて地面に植えた蔦が、コンクリート面を覆い隠していたのでしょう。
それにしても不思議なことに、ある高さから下には全く蔦が這った形跡すらありません。
いったいどんな事情でこんな造形になってしまったのでしょうか。
日本の城の銃を出す穴のような、鉄扉の覗き窓がいくつかあります。
「地下壕プロジェクト」は一応の完成を見たようです。
壕の入り口には全天候型の説明看板が設置されていました。
グーグルマップを加工したらしい地図と地下通路の所在を合わせたものです。
この前に見学を行なった潜水艦基地の説明の方が、
「昔はここから総監部まで地下でつながっていたという話です」
とおっしゃっていたように、地下道は鎮守府を中心に広範囲に
張り巡らされていた時代があったのです。
ここに書かれている解説を書き出しておきます。
「昭和17年、日本は米軍機による初空襲を受け、昭和19年ごろからは
連日のように空襲を受けるようになり、爆撃の被害を避けるため
日本海軍の地下施設は地下に建設されるようになった」
うーん・・・記述内容はともかく、この文章にいい点はあげられないな・・
って何様だよ、と言われそうですが、それはともかく。
「当確施設は、呉鎮守府庁舎(現呉地方総監部庁舎)裏側の崖の斜面を
切り開いて建設されており、昭和b17年設計、昭和n18年夏頃に着工、
昭和20年4月ごろに完成し、「地下作戦室」と呼ばれていた。
また、空襲による被害を最小限とするため、当確施設完成ごは重要書類なども
『地下作戦室』で保管されるようになった」
これは去年のサマーフェスタで初めて施設が一般公開された時に配られたパンフの一部です。
今回入っていくのが「旧地下作戦室」ということになります。
この番号6番は、この時観桜会が行われていた会場の真下になりますが、
ここは掘りかけてやめた趾があるのだそうです。
ここに限らず、掘りかけはあちらこちらに見られるのだとか。
呉海軍、ただの防空壕にとどまらず、ワクワクしながら一大地下要塞、
「少年探偵団・僕らの秘密基地」を作ろうとしていたんじゃ・・・。
なお、4番は地方総監庁舎の脇から出てすぐのところにある
地下道へ続く階段があります。
庁舎で執務をしている人たちが、素早く地下に避難するためです。
実は去年、わたし、この階段を降りかけてやめております。
観桜会の時でひどい雨が降っており、しかもよりによって
後ろ下がりの白いスカートを履いていたもので、階段を三歩おりた途端、
裾に階段の泥がべったり付いてしまい、それ以上進むのを諦めたのでした。
壕への入り口は大人なら屈まなければ入れません。
階段は50段で、大変急なものです。
地図でいうと3番、急な階段を降りていって、作戦室に通じる道を
進んでいくと、地下道が崩落してしまっている部分があります。
庁舎の脇を通り、坂道が始まる辺りの地下にも道が掘り進められていますが、
そこは地下水が染み出し、地面がぬかるんでいるそうです。
どこからともなく湧いて来る地下水のせいで、地下壕の湿度はいつも高いのだとか。
去年は扉越しに中を見せてもらいましたが、
確か撮影はご遠慮ください、と言われました。
外側は大きなレバーで施錠する頑丈な鉄の扉(変形しないような工夫あり)、
それを開けて内側には普通の木の扉が残されています。
「火気厳禁」の文字が往時を偲ばせるレトロな字体です。
レバーを回すと上下にわたしたバーがどうにかなって、
(どうなるんだろう)扉がしっかりと閉まる仕組みのようです。
木の扉はかつて赤に塗られていたのでしょうか。
それ以外の部分はどうも最近補修したように見えます。
ここが地下作戦室。
地下壕の中で一番広いこの空間は幅約14m、高さは最大で約6m。
空港からここに来る時に必ず通る休山トンネルとほぼ同じくらいの大きさです。
戦時中は呉鎮守府司令部が作戦指揮の会議をするのに使っていました。
見学のために入っていけるのは、入口の平方10メートルほどのスペースだけ。
内部に立ち入ることができないように柵が設けられています。
左のほうに見えるのが元々の床だったのではないでしょうか。
中に入っていけないその理由が、この天井です。
プロジェクト進行中の段階で聞いていたところによると、天井が
ところどころ破れていて崩落しかねない状態であるため、
見学者には全員にヘルメット着用を義務付けるとか、
そういう案も出ていたようです。
実際にメディアに公開した時にはヘルメットを着用させたとも聞きました。
最終的に、入り口から内部を見るという展示法に決まり、
観覧場所の入口付近上部には足場を組んでそこだけ屋根を付け、
剥離による崩落の対策としました。
左奥の扉は後から作り直したもののようです。
OD色の金属らしい構造物がありますが、これが何かはわかりません。
この階には会議室の他に発電機室、換気施設、排水施設がありました。
二階部分に通路があって、鉄の扉の開け閉めを行えるようになっています。
壁にも天井にもいたるところにワイヤが見えていますが、たとえ直撃があっても
崩壊しないような堅牢な作りになっているのでしょう。
この灯りの支柱は昔のままのようですね。
ここが作戦室だった時、奥の壁一面には西日本の作戦図が掲示されていて、
敵の飛行機が飛来すると、その地図上のランプが点滅して、
瞬時にその進行方向を把握することができたそうです。
庁舎横の階段を降り、地下通路を抜けるとこの扉の向こうにやってきます。
ただし、
扉は錆びついてしまって開けることは不可能です。
外部を封鎖した時のために、分厚いコンクリートの壁(厚さ1m以上?)に
空気を流通させるためらしい穴が穿ってあります。
この堅牢さにより、昭和20年の呉大空襲の際、庁舎が爆撃されても
壕内は全くの無傷で、保管されていた重要書類等も無事でした。
こ見学のための入口部分を保護するために設置された屋根のパイプです、
作戦室の前は玄関のエントランスのようなスペースがあります。
エントランス脇には部屋が二つありました。
奥の部屋は先ほどの新しい鉄扉から出入りできます。
その一つの部屋がこれ。
もう一つの部屋。
なぜか室温計が設置されていました。
入口を入って右側には二階に続く階段があります。
作戦室の上部は吹き抜けになっていて、通信室、事務室、映写室、
それから休憩室があったということです。
ここで夜を明かすこともあったのかもしれません。
地下壕の設計が始まったのは南雲忠一が呉総監だった時です。
完成したのは昭和20年の4月なので、南雲はもちろんその時には
とっくに転勤し、のみならずサイパンで戦死していました。
完成当時長官だった沢本頼雄中将はすぐに転勤しているので、
結局壕の恩恵に浴したのは、呉鎮守府長官として大空襲を経験した
金沢正夫中将ただ一人だったということになります。
これを左に入っていくと、さっきの分厚い扉の向こう側。
おそらく換気施設と排水施設があったものと思われます。
去年の夏、サマーフェスタで配られたパンフの表紙。
今回、地方総監の提唱によって、これだけの整備が行われました。
観桜会でも話題になっていましたが、現在、呉の観光コースの一部に
この壕見学を組み入れるという計画もあるようです。
プロジェクトに取り組んだ呉工業高等専門学校の学生と教員有志の皆さん。
何れにしても、誰も手をつけなければ、陽の目を見ることもなく
もしかしたら朽ち果ててしまっていたかもしれない地下壕を、
調査と修復によって公開できるまでにしたことは
後世に残す偉業であったとわたしは心から賞賛せずにはいられません。
何より実行を決断された呉地方総監と、プロジェクトに携わられた方々、
呉地方隊には、国民の一人として心からお礼を申し上げたいと思います。