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目黒・防衛省〜高木惣吉と「東条英機暗殺計画」

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目黒、防衛省は幹部学校所蔵の海軍軍人揮毫の書についてお話ししています。

「一期一会」と書かれたこの書の揮毫者は高木惣吉。

少し海軍に興味がある方はこの名前に非常に聞き覚えがあるでしょう。
たしかにここにある書の揮毫者が夭逝した秋山真之(中将)を除いては皆大将であるのに、
この揮毫者の高木は言っては終戦時、少将です。

言ってはなんですが、なぜここにたかが少将の揮毫が残されているのでしょうか。
いくさに働きを見せたというわけでもなく、大作戦で戦死したわけでもないこの軍人が
なぜ歴史に名を残しているのでしょうか。

それは一口で言って、この人物が行った工作が、実質日本を終戦に導いたからです。
高木は終戦時、米内光政、井上成美の密命を受け、終戦工作に中心的な働きをしました。


高木惣吉は1893年(明治26年)、熊本の生まれ。
通信教育と夜間学校から教育検定合格の末、兵学校43期に入学という変わり種です。
一式陸攻で(未確認ながら)敵艦に突入し、「実質特攻一号」とされた
有馬正文中将は同期で、有馬は高木を兄のように慕ったという話があります。

余談ですが、この有馬正文は兵や部下に向かっても「お疲れ様です」などといった具合に
丁寧語を使い、決して高圧的になることのない穏やかな人物で、その理由は彼が
非常に苦労人であった(在学中実家が倒産)と言われています。
有馬は、やはり苦労をしている高木に同じものを見ていたのかもしれません。


高木は入学時は勿論のこと、兵学校卒業時にも「普通の成績」でしたが、
海軍大学では優秀さを発揮し、首席で恩賜の短剣ならぬ長剣を授与されています。


海軍の悪しき傾向の一つに、いわゆる「ハンモックナンバー絶対」の人事があります。
兵学校時の卒業成績が海軍での昇進を決定し、よほどのことが無いと
それを挽回することができない、とも言われていました。


そのハンモックナンバー至上主義は実に歪んだ形でしばしば現れました。

たとえば高木のように兵学校でまあまあの成績であったものが、たとえ海大で首席になっても、
「海兵の恩賜でもなかったくせに」
「海兵で大したことなかったくせに」
と馬鹿にして蔑み、足を引っ張る者(主に同期)がいたというのです。


高木は昭和2年、海大を首席で卒業したことで、在フランス日本大使館付きの
駐在武官補佐官に任命されてフランスに行くことになりました。
「洋行」が栄達のような憧れの響きとして一般に捉えられていた頃です。

兵学校のクラスヘッドなら「仕方ない、恩賜の短剣だから」ですむのですが、
兵学校時代ぱっとしない男が、一年で終了する海大の首席(20人中)を取り、
駐在武官に選ばれるということを面白くないと思ったものもいたようです。

高木と同期の、兵学校でのクラスヘッドであった大尉が同様に駐在武官を任命され、
二人の壮行会が行われたときのこと。

「何とか大尉は海兵のクラスヘッドだから、別に海大に行かなくても洋行できる」

と大声で嫌味を言う者がいたというのです。
おそらくこういうことを言うやつに限って大した成績ではなかったに違いありません。
何しろどこにもこういう嫉妬深い人間はいるということです。

高木は体が弱かったため、戦艦勤務を希望するも、そのために諦めざるを得ず、
そのかわりといってはなんですが、軍政の分野で活躍するようになります。


シーメンス事件の影響で政界とは距離を取っていた海軍ですが、
日華事変をきっかけに海軍内でも政治体制への不満が表面化してきていたため、高木は

ブレーントラスト

という、各方面から構築された人材によるシンクタンクを提唱し、創設に携わりました。

このブレーントラストは、学者、思想家、新聞記者、作家、大学関係者、評論家、官僚、
そして実業家などからなる当時の錚々たる知識人たちで占められ、その中には

和辻哲郎(哲学者)、岸田国士(劇作家)、清水幾太郎(社会学者)

等も顔を見せていました。

このメンバーの中には、本日タイトルにした高木の「東条英機暗殺計画」
に賛同する者もいたという話です。


それでは、その、高木少将の終戦工作と「東条英機暗殺計画」の話をしましょう。

「えっ!海軍軍人が東条英機暗殺などを企てていたの?」

と驚いたそこのあなたのために、この計画について説明しますと、
大戦末期、神重徳大佐、小園安名大佐などの中堅どころに、
高松宮宜人親王、細川護貞などがメンバーに加わって、
当時内閣総理大臣だった東条英機を暗殺しようとする企てがあったのです。

戦況が悪化し、このままでは日本はだめになると憂えてその打開策として計画したもので
首相である東条を亡きものにし和平への道筋へなんとか続けようとしたのでした。


当時東条英機は本人の言によると
「戦争というのは大きな石のようなもので、一度山から転がりだしたら一人の力では止めることはできない」
という流れのなかで、突き進むかのように本土決戦へ舵を切り、
見方によっては独裁ともいえる采配を振るっていました。

「竹槍では戦えない」と新聞記事を書いた毎日新聞の記者をクビにさせて
激戦地に送ろうとして海軍と「身柄の取りあい」になった竹槍事件でも表面化したように、
航空機の配分を巡ってこの頃、陸海軍の間は最悪の状態に陥っていましたが、
この計画が立てられたのは、ちょうどこの竹槍事件が激化したころにあたります。


この頃の東条には、陸軍内で終戦を進言したものを尽く激戦地に飛ばすなどして
排除してしまうといった、独断専行、専横的な行動が見られます。

因みに進言者の一人、陸軍省の大佐は飛ばされたグアムで戦死しています。

陸軍でも、こういったことに危機感を覚えた一派によって、一度暗殺計画が立てられましたが、
これは陸軍内のことだったので、たちまち東条の知るところとなり、関係者は処分されています。



それにしても、倒閣を計画するより先にいきなり暗殺とは物騒な、と思われませんか?

この理由の一つに、海軍の嶋田繁太郎大将が東条と懇意であったことが挙げられます。
「東条の男妾」などと陰口をたたかれるほどで、海軍内でもそれゆえ敵が多かったわけですが、
それだけに倒閣するには障害が多いとされたのです。


計画は5月から本格的に立てはじめられ、昭和19年の7月決行、と決まりました。

この内容がまた、

「東条がオープンカーで外出した時を見計らって車両で前を塞ぎ、海軍の機関銃で蜂の巣」

というこれまたダイレクトというか、ずさんと言うか、荒っぽいものでした。

おそらく高木らはとにかく東条さえいなくなれば後は米内や井上が何とかしてくれるから
自分は刑死も厭わずというつもりだったのではないかと思われます。



しかしこの計画は、直前に東条内閣が総辞職してしまったため、実行にうつされませんでした。

その総辞職の理由というのは、東条が進言者を尽く前線に送る処置をしたのを見て、
重臣たちが危機感を募らせ、不信任案を提出したからです。

昨今わが国の国会で出されている「不信任案」なるものは、
選挙前に足を引っ張りたいとかいう理由でやたらと提出されたり、
あるいは不信任案を出されても出されても「最高の布陣」とか「適材適所」と言い張って
まったくそれに対処しなかったり、やめるといってやめなかったりしても許されるようですが、
このころの不信任案はちゃんと機能していたようです。


ともあれ、これを受けて東条は首相を辞任したため、
高木らは暗殺計画を実行に移さずに済んだのでした。


ちなみにこの時に不信任案決議を発案したのは

近衛文麿、岡田啓介、若槻禮次郎、米内光政、広田弘毅、平沼騏一郎らです。



しかし、これが決行されていたら、どうなっていたでしょうか。
二つの可能性をを想定してみました。

(その1)

もし東条大将が海軍に殺されたとあったら、
陸軍側がまったくこれに反発しないなどということはありえません。
おそらく陸軍の血気盛んな大尉クラスが報復のための行動を起こし、これに呼応して戦闘がはじまり、
アメリカと戦争しながら、最悪の場合は陸軍対海軍の内戦が起こっていた可能性もあります。

計画した高木本人も、後年

「読みが浅かった。暗殺を実行したら陸海軍の対立が激化して終戦がやりにくくなった」

と反省していたそうです。

(その2)

そして、可能性は薄いですが、仮にこの後、すんなりと海軍の「和平派」が政治の実権を握っていたら?
その場合は終戦が早まったことだけは確かです。
日本が負けで終わることには変わりはありませんが。

ただ、可能性としてあるのは、その時期によってはアメリカは原子爆弾を落とす名目を失って、
日本はその被害を受けずに済んだかもしれないということです。

しかし、この場合、敗戦後の日本ではこの件による陸海間の遺恨が根強く残り、
東京裁判の行方も多少は違っていたでしょうし(陸軍だけが咎を負うということになる意味で)
甚だしきはこれが元となって戦後の復興や独立にさえ大きな障害となったかもしれません。


「このとき、東条が死んでいたら、今の日本は今の姿だったか?」

歴史に「たられば」はない、ということはよくよくわかっていますが、
もし、このときに高木惣吉の計画が成功していたら・・・・・・・・?

わたしはこのような「IF」を考えるのが大好きなのですが、
この「暗殺計画」ほど、想像をたくましくさせてくれる「もし」はありません。


そんなことを思ってみると、この「一期一会」という、運命の穏やかな享受を意味する茶道用語は、
「歴史の唯一性」の前に一人の人間として身を委ねる者の身の処し方であり、
穿ちすぎかもしれませんが、「為せなかった歴史」に対してこの人物が持っていた
一種の諦念からくる人生信条の「陽」の部分を述べたものであったようにも思えてきます。







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