目黒の防衛省区域内にある海上自衛隊幹部学校所有の、
野村吉三郎海軍大将の書です。
「無遠慮必 有近憂」
(遠い慮りなかりせば必ず近き憂いあり)
遠い将来のことを考えなければ、必近い将来に何か問題が起きる。
揮毫を所望されたときに、どんな文言を記すか、それは即ち書き手がどんな人間であるかを
その筆跡と共に露わにするものです。
前回述べた秋山真之も、永野修身も、自然の風景あたかも切り取るようにさらりと読み、
なかなかの通人ぶりを見せているわけですが、野村吉三郎、直球です。
こういった教訓めいたことを書く軍人は、基本的に謹厳という印象がありますが、
ところがどっこい、有名レスのエスさん(芸者)などは、
「ひざまくらしてもらった」
なんて暴露してしまってます。
野村大将が、じゃなくて、酔いつぶれた芸者さんをひざまくらしていた、という意味ですよ。
とこのように海軍さんらしくしっかりと遊んでおられます。
因みに野村大将、若き日はかなりのいい男。
ちょっと孫文に似ていますか。
野村吉三郎は1877年(明治10年)、和歌山県の生まれ。
海軍兵学校は26期です。
卒業時のハンモックナンバーは、当ブログ過去ログによると2番。
入学前は海軍兵学校への予備校である「海軍予備校」に通いました。
この予備校は、まさに当時のエリート中のエリートたる兵学校への入学のために
万全の体制で敷設された「プレップ・スクール」で、
現在は名門校「海城中・高校」として存在しています。
恩賜の短剣で海兵卒業を果たした野村は、その後海兵教官、「千歳」航海長を経て、
1901年には完成した戦艦「三笠」の回航員としてイギリスに渡っています。
その後、出世コースまっしぐら、オーストリア、ドイツ、アメリカの駐在武官を経験。
アメリカ在任中にはFDRことルーズベルト(当時は海軍次官)とも同じ海軍同士のよしみか、
親交があったということです。
最初の任務地がドイツ語圏であったため、野村の英語は達者ではなかったという話もあります。
確かに今日残る野村の英語の発音は、とんでもなく生硬で、
これほどの秀才がもしかしたらカタカナの振り仮名でも打って発音しているのではないか、
を思わず疑ってしまうほどです。
野村吉三郎の英語
この人物を語るとき、そこには「開戦」と「終戦後」における日本の動きに
大きく足跡を残していたことを避けるわけにはいきません。
日米開戦時、野村は駐在大使としてアメリカにいました。
アメリカとの関係が悪化したとき、この「英語が得意でない大使」では心もとないと思ったのか、
日本政府はアメリカにもう一人の大使を送る決定をします。
これが来栖三郎大使で、確かにアリスというアメリカ人の夫人もいる知米派でしたが、
ドイツ大使として三国同盟を調印している来栖に対し、ルーズベルトは不信感を隠さず、
決してこの人事はうまくいったとは言えなかったようです。
「海軍同士」という理屈抜きの「仲間意識」がFDRには強くあったようで、
信頼関係というものは言葉を流暢に繰れることとは無関係である、
という一つの例がここにあると言えましょう。
因みに、この来栖大使とアリス夫人との間には、良、という名前の息子がいました。
彼は陸軍の航技大尉で、邀撃に上がるために愛機「疾風」に向かおうとして、
急発進した「隼」のプロペラに刎ねられ即死し、戦死扱いとなりました。
現在、靖国神社の遊就館にある戦死された命の方々のなかに、
ひときわ目立つ眉目秀麗の来栖大尉の遺影を見ることができます。
アメリカとの交渉は難航しました。
この間、野村は何度も大使を辞職したい旨の要請をしましたが、
その都度退けられ、
「アメリカが日本を挑発しない限り、日本は戦争を起こさない」
と公言していた野村は、コーデル・ハル長官から
「あのようなものを突きつけられたら、どんな小国も武器を取って闘うであろう」
と後世に評価されるアメリカの「挑発の極み」、あの「ハルノート」を突きつけられることになります。
この頃、野村からアメリカから日本国民に向かって語りかけた
「映像レター」が残されています。
「あるいは近いうちに参戦するかとも言われております」
「日本が枢軸国の一員である以上、アメリカから相当風当たりが強い」
などといった発言が聞かれます。
野村大使「開戦前夜」
去年の12月8日に、ジョン・フォード監督作品
Hawaii,December 7, 1941
という映画について書いたとき、
「英語が達者で愛想のいい野村・来栖両大使は
ハル氏に平然と長い『最後通牒』を手渡した」
「この裏切りの瞬間、200機の死の使者が楽園に襲いかかった」
「地獄が始まった。日本製の(メイド・イン・ジャパン)」
というこのプロパガンダ映画で野村大使たちについて語っている部分を
抜き出してみました。
この悪意のある文章にも覗えるように、アメリカは挑発しておいて
開戦に踏み切った日本だけを悪者にすることに挙国一致の宣伝に努めましたから、
野村大使は当然のように大使引き揚げとなるまで、
「交渉をしながら裏で開戦準備を着々と進めていた」
という白眼視に曝されながら針のむしろの半年間を過ごすことになります。
まさに、日米開戦そのときにアメリカにいて、開戦を止められなかった大使。
「悲運の大使」
「日米開戦を回避できなかった男たち」
野村について書かれた書物は彼をしてこのように称します。
そこで、もう一度、冒頭の書に立ち返ってみましょう。
「無遠慮必 有近憂」。
そもそも、この書がいつ書かれたのかはわかりません。
しかし、日米開戦後、9か月後に抑留者交換船で帰国し、枢密院顧問官として、
表舞台に出ないまま、戦争の成り行きを見守っていた頃に書かれたものでないことだけは
確かなことに思われます。
野村にとって開戦前の交渉も、それに対するアメリカの「裏切り」によって
決して望まない結果に帰してしまいました。
それは、いかに個人が「遠くを慮ろうとも」、巨大な国家単位の欲望の前には
いかなる努力も全く無力であったということでもあります。
むしろ、皮相的にはこんな皮肉な見方もあります。
つまり、この東洋の小国の潜在的能力に恐れをなした欧米大国は、
この国を追いこんで挑発し、開戦に踏み切らせて潰そうとしました。
「遠くを慮って憂いの近づかぬようにその芽を摘んだ」のは、
野村が交渉していた当の相手であるアメリカの方だったということです。
野村は戦後長らく公職追放に甘んじていましたが、大使時代を知るアメリカ側から
臨まれる形で再び表舞台に引き上げられ、吉田茂のもとで海上警備隊の創設に関わります。
日本の再軍備、そして海軍の再建のために奔走した末、
昭和27年、海上警備隊は帝国海軍の末裔として不死鳥のように甦りました。
この年日米間で締結した船舶貸借協定に基づき、翌二十八年、
米海軍が横須賀基地で正式に計十隻の船舶を警備隊に引き渡したとき、
野村の目には涙があったと伝えられます。
かつて個人の果たせる力の虚しさを、相手から突きつけられる形で思い知ったこの元提督は、
自分が創設に尽力した海上警備隊が、まさに日本国の「遠く」すなわち「将来を慮る」ために
真に必要な組織、海上自衛隊となることを、このときどのくらい認識していたでしょうか。