冒頭写真は「バルクルーサ」の船長キャビンです。
かつてここの住人であった「オールドマン&ウーマン」、
アルフレッドとアリス・ダーキー夫妻の肖像写真が飾られています。
「バルクルーサ」もその歴史の中でたくさんの船長を迎え、
その中には、乗員に不当な値段で物を売りつけるような妻もいたわけですが、
この夫妻はあることで有名になりました。
「バルクルーサ」の甲板下の階に降りてきています。
上部構造物にもキッチンがありましたが、ここにもあります。
もしかしたら、こちらは船長とオフィサーのためのキッチンかもしれません。
電気がない時代にできた船なので、ロウソク立てと上部に煤受けがあります。
時化てもお皿が飛び出さない、この形の食器棚は、確かサンディエゴの
「スター・オブ・インディア」のキッチンで見たのと全く同じ仕様です。
このころの船上で使用される什器のほとんどは真鍮製です。
それにしても真四角のやかんって変わってませんか?
安定性を高めるための船の上専用の仕様なのでしょうか。
手前のお皿に乗っているのはどうやらパンのつもりかな。
キッチンの隅の説明をアップにしてみましょう。
「クリスマスディナー・・・・・」と書かれています。
この航海の間に丸々と太った豚さんは、クリスマスの日に調理されて
ローストポークと化し、プラムプディングと一緒にテーブルに乗る予定です。
大抵の豚さん(豚には必ず誰か1等船員の名前が与えられた)には、なんというか
非常に不思議なことに、自分がお皿に乗る日を察知する能力があり、
運命の日には檻を破って(!)脱走することがあったと言いますから驚きます。
以前もタイトルに使ったことがある、甲板の檻から逃げ出し、
「お訪ね豚」
のポスターが作られた「ソウクルーサ」(ソウは雌豚の意)も、
きっとその不思議な第六感で自分の運命を悟ったのに違いありません。
豚が逃げると、乗員が総出で、デッキの端から端まで駆け回り、
捕物が始まるのが常でした。
陰鬱で辛いことが多い船の生活のなかで、もしかしたらこの追跡は
船員にとって結構な楽しいイベントとなったのかもしれません。
説明には「メリー・チェイス」(楽しい捕物)とあります。
ギャレー、フォクスル、デッキハウス、そしてキャビン・・・・。
豚自身のキーキー鳴く声、船員の叫び声、笑い声、罵声・・・・。
そんな喧騒の中、豚さんは必ず最後には追い詰められるのでした。
この豚さんはなぜか生きたままの姿でキッチンにおりますが、
おそらく逃げ回っているうちに追い込まれ、
「トンで火に入るクリスマスの豚」状態になったところでありましょう。
雌豚の「ソウクルーサ」さんもこんな風に捕まって、クリスマスのディナーに
なってしまったんだろうな・・・・(´;ω;`)・・・
余談ですが、冷蔵庫がなかった時代、我が海軍の軍艦でも食料として
牛を乗せ、必要に応じて(クリスマスはないですが)バラしていました。
軍艦の上で牛を解体していたというのもすごい話ですが、それ以前に、
まず牛を屠殺するという辛い仕事を軍人にやらせていたっていうのがね。
当時の日本では家で飼っていた鶏を客が来たらシメて出す、ということが
普通に行われていたので、鶏に関しては問題なかったと思いますが、
流石に牛を屠殺したことがある乗組員など滅多にいるものではありません。
しかもそれまで餌をやって情が移ってしまい、乗組員、誰も手を出そうとしません。
そこで桜大尉という美丈夫がついに名乗り出て、花子という名前の牛に引導を渡しました。
これは海軍のレジェンドとなり、
「桜大尉、女ゴロシの牛殺し」
という本人は全く嬉しくないキャッチフレーズで呼ばれることになります。
自分たちが嫌な仕事をやらせておいて、そのあだ名はないだろうと思いますが、
女殺しと付け足したことはせめてものフォローに・・・いや、なってない(笑)
さて、閑話休題。
ダーキー艦長は1899年、まだこの船が「バルクルーサ」という名前の元に
貨物船として活動している時期、インド航路に若い妻を帯同しました。
「バルクルーサ」はサンフランシスコに輸入するジュートとお茶のため
インドまでいって帰ってきたのですが、その航路途中、なんと!
妻は女児を出産したのです。
当時は新生児の死亡率が高く、出産に危険が伴っていたので、
もし出港前に妻が妊娠しているとわかっても
おそらく航海についてこなかったのでは、と思われます。
しかしこの頃は一度の航海が下手すると年単位であったため、
航路途中で赤ん坊は妻の胎内に宿ったのでありましょう。
そして出産期を迎え、女児は無事にこの世に生まれてくることができたのです。
インドからサンフランシスコへの航路途中で生まれた女の子には
インダ・フランシス(INDA FRANCIS)
という名前がつけられました。
これがインダ・フランシスの出征証明書。
出生と死亡を登録するロンドンの役所の発行です。
生年月日は1899年の11月3日、父親の職業は
「マスター・マリナー (Master mariner)」
となっています。
船長のキャビン近くから地下に降りる階段がありました。
下の階には主に「バルクルーサ」が貨物船として扱った
荷物や、アラスカでの仕事についての展示があります。
ところで階段の横にこんな説明がありました。
「想像してみてください・・・階段がなかったなんて!
Longshoremen(船荷の積み下ろしをする作業員のこと)は
港でにを扱うとき、このハッチからはしごを使って上り下りしました。
水兵たちは滅多にカーゴデッキに立ち入ることを許されませんでした」
この階段の下がカーゴデッキです。
矢印には,
「この下のはしごが見えますか?」
これか・・・・。
このはしごの位置が昔の通りであれば、これで上り下りするのは
かなり大変だったのではないかと思います。
こんな感じで降りていたわけです。
「バルクルーサはジュートとお茶を運んでいた」
というコーナーに、船で生まれたこの赤ちゃんインダの記述がありました。
ジュートで作った袋を必要としたのはアメリカの農家です。
彼らは収穫した麦などを入れるのに使いました。
船長の妻アリスがいよいよ陣痛に見舞われたとき「バルクルーサ」の全乗員は
一等船員も、水兵も、皆が自分たちの持ち場で仕事をしながらも
ハラハラしながら過ごし、産声が聞こえたときに互いに顔を見合わせて
喜びを分かち合ったのに違いありません。
そして生まれた女の子をあたかも「バルクルーサ」の宝のように
あるいは皆の「授かりもの」であるかのようにうっとりと眺めたのでしょう。
しかし、彼女がその後どんな人生を歩んだのかについては、
船長のダーキー夫妻のその後も含めて後世に伝えられてはいないようです。
サンフランシスコ海事博物館にはダーキー船長の書いた「論文」もあり、
それも閲覧することができるそうなので、もしかしたらそれを読めば
なにかがわかるかもしれませんが・・・。
さて、「バルクルーサ」の展示しているサンフランシスコ海事博物館は
サンフランシスコ湾のフィッシャーマンズワーフの隣にあります。
昔は貨物港だったこの一帯ですが、今ではサンフランシスコの観光地として
一年中世界からの観光客が必ず訪れる場所になっています。
「バルクルーサ」の貨物船時代のストーリーは、そのブラックさといい、
過酷な操業状態といい、しれば知るほど暗いイメージがまつわるのですが、
こうして太陽がさんさんと降り注ぐカリフォルニアの港で見ると、
過酷な船員生活の中でも乗員たちには、海に棲む者がその厳しさと引き換えに
目にすることのできる、例えば今日のような宝石のような美しい瞬間に
心を奪われることもあったのだと思いたくなります。
100年前も「バルクルーサ」は同じここサンフランシスコに錨を打ち、
このようなまばゆい八月の光を甲板に受けたことがあったのですから。
そんなことを考えながら甲板に立っていると、艦尾に人影を発見しました。
広角レンズで写したので、水平線がおかしくなってすみません。
この人は展示物のメインテナンスを行う係のようで、どうやら緑のペンキを
この機械に塗装する作業の真っ最中のようです。
帆船「バルクルーサ」は基本人力で全てを行なっていましたが、
貨物の積み下ろしはドンキー・エンジンによる巻上げ機を使用しました。
おそらくこれがその荷揚げ用のウィンチではないかと思われます。
もし次に行ってみたら、説明が付け足されているかもしれません。
続く。