阪神基地隊のサマーフェスタで一般公開されていた
潜水艦救難艦「ちはや」についてお話ししています。
見学の列は艦橋まで誘導され、そこから外付けの階段を降りて
後甲板に抜けていくというコースになっています。
艦橋窓に貼ってあった信号員の写真も紹介しておきましょう。
こちら手旗信号で通信中。
っていうか、こんなところに立って行うのは普通のことなんですか?
左舷側デッキに出ると、発光信号を行う探照灯があります。
探照灯で行う発光信号についての説明。
「ツートン」の「ツー」では長く、「トン」では短く光らせます。
手が滑ってつけたり消したりするタイミングを間違うと、
読み取ってもらえない、というようなアクシデントもあるのでしょうか。
デッキからは体験航海で一般人を乗せて航行する交通船が見えました。
今日は波もないし、海の上をかっ飛ばしたら少しは涼しいかもしれません。
「ちはや」の艦橋デッキからは外付けのこんな階段を降りていきます。
この左側は当たり前ですが、海。
今から降りようとしているおばちゃん、呑気に写真を撮っていますが、
いざ降りるとなると怖くてなかなか足が踏み出せず、やっとのこと
降りだしたと思ったら気の遠くなりそうな時間をかけて下に到達しました。
岡山玉野の三井造船で行われた「ちよだ」の引き渡し就役式では、
最後に乗艦した艦長がこの外付け階段をものすごい速さで上っていましたが、
まあ昇りだから自衛官なら当然としても、実際に上から見ると凄い角度です。
回数を経て、この手の階段に比較的慣れているわたしも、
ここを降りるのはスタスタというわけにはいきませんでした。
そこで下にいた乗員に、
「海が時化ているときに怖くないんですか?」
と聞いてみたのですが、あっさりと
「もう慣れてますから」(にっこり)
と返されました。
本艦の使命は沈没潜水艦の救助であり、そのための装備が搭載されているわけですが、
そのメインとなるのが背中に赤いシマシマが4本入ったチョウチンアンコウ、
じゃなくて潜水艦救難艇DSRVです。
DSRVが海中に投入されるときには赤丸で囲んだ「センターウェル」
(中央の井戸)から降ろすと前回書きましたが、英語ではセンターウェルではなく、
「Moon Pool」
というのが名称のようですね。
この他潜水艦救難艦には、無人の探査機(画面右下の赤い装置)もあり、
それはこの後、艦の左舷側で見学することができました。
「ちはや」中心線で艦体を縦切りにすると、こんな風になります。
前回unknownさんも「なんとなく気持ちが悪い」とおっしゃっていたように、
穴はこの部分だけとはいえ、見ていてなんだか不安になる形状ですね。
救難艇をセンターウェル(ムーンプール)からクレイドルを海中に降ろすと、
艇はクレイドルから浮き上がってそこから発進していきます。
ダイバーを海底に運ぶPTC(Personnel Transfer Capsule)もここから出し入れします。
二つ上の画像の赤丸で囲んだ部分、ムーンプールの横に、
「DDC」Deck Decompression Chamber
なるものが4基ありますが、これは潜水士が深海に潜る前に、ここで
作業を行う深度と同じ圧力に加圧し、潜水病にならないようにするカプセルです。
この逆で、作業を終わったダイバーは、母艦に帰ってくると、
また時間をかけて体を減圧していかなくてはなりません。
昔のダイバーは、ある程度の深度まで潜ったら海中で何十分か静止し、
だんだんと圧力に慣れながら少しずつ潜り、帰りも時間をかけて
少しずつ圧力に体を慣らしながら浮上していたものだそうです。
階段を降りると左舷側(冒頭写真)に出てきます。
そこにあったDSRVの詳細断面図。
大変見にくいですが、ここは三つの球だけに注目してください。
前回のコメントでお節介船屋さんが解説してくださっていましたが、
これは耐圧球で、人員が必要に応じて乗り込む場所となります。
一番前は操縦室であり乗員(4名で乗るらしい)がいる場所、
真ん中の球は下のスカートを通して沈没潜水艦の乗員を揚収する部屋、
そして後部が機械室となります。
お供えしてあった模型にも赤いシマシマあり。
画面左下の潜水艦はロシアの原潜「クルスク」です。
今回わたしは飛行機の待ち時間、たまたまナショジオの
「衝撃の瞬間 ロシア原子力潜水艦の悪夢」
を観ていたのでその偶然に少し驚きました。
現場にあったこの絵は、DSRVの発進から潜水艦へのドッキングの様子です。
2000年8月12日にバルト海に沈んだ「クルスク」救出の際、
まずレスキューチェンバーは母船の動揺が激しくて失敗しています。
次にDSRVが出動しましたが、「クルスク」の艦体が斜めになっており、
さらにハッチの部分の破損が激しく、接合さえできませんでした。
このナショジオの動画を見ればわかりますが、実は救出作業以前に、
艦内で爆発が起こり、生存していた乗員もそれで全員が亡くなっています。
救難艇DSRVはアームでワイヤを切断することもできます。
前部のスラスタートンネル(覚えたての言葉)の穴が目に見えてかわいいっす。
潜水艦救難は、沈没した潜水艦の擱座の状況によってやり方を変えます。
艦体が傾かずに沈んでいれば、チェンバーを降ろし脱出筒からの救出を試みます。
チェンバーは潜水艦から出されたメッセンジャー・ブイを巻き取りながら降下、
脱出筒の上に到着すると、まず下の区画に注水をして接合部を密着させます。
その後、区画内の海水を排水し、ボルトで潜水艦に固定。
ハッチを開けて乗員を収容してから浮上するという仕組みです。
ダイバースーツとヘルメットが展示されていました。
左にちょっと写っているのは潜水員です。(ものすごい筋肉質スリム!)
潜水艦救難艦のダイバー・・・きっとこの人たちとんでもない肺活量なんだろうな。
と先日測った肺活量が2000台だったわたしが言ってみる。
これでも昔水泳選手だったんだけどな・・あ、小学生の時か。
腰の右部分にノズルが付いているので、これは何かと質問すると、
海中で40度のお湯を循環させて人体を温めるためのチューブを繋ぐそうです。
深海では零下にはもちろんなりませんが中緯度である日本近海でも
特に冬はこのような仕組みが必要となってきます。
この時は展示されてはいませんが、ヘルメットには潜水時、
頭頂部にビデオカメラとライトを装備します。
先ほども説明しましたが、潜水士は必ず潜水前にDDC装置の中に入り、
作業を行う深度の圧力までゆっくりと加圧を受け、
しかるのちPTCカプセルに乗り移って海中に運ばれます。
海中での作業が終わると、潜水員はPTCで再び母艦まで戻り、
PTCに接続したDDCにまた移乗して再び加圧。
作業が終わるまでなんどもこの行程はくりかえされます。
驚くのはここからです。
作業が全て終わったら、潜水員たちはDDCの中で、
ゆっくりと室内の圧力が大気圧に戻るまで生活します。
ちなみに、水深300mの気圧に加圧するのには3日かかりますが、
逆に減圧には
11日(!)
かかるので、DDC内部にはベッド、テーブル、トイレ、
シャワーが設けられて生活が営めるようになっています。
(食事などの差し入れはどうやって行うんでしょう)
それにしても11日、狭い部屋から一歩も出ずに過ごすって・・。
気圧以前に、精神的圧迫感が凄まじいのではないかと思われます。
11日間も何をして過ごすんだろう・・まさかネットはできないだろうし。
ダイバーの資質って、体力以前に強靭な精神力という気がしますね。
左舷舷側を歩いていくと、今度は
無人潜水装置 ROV(Remotely operated vehicle)
が現れました。
DSRVの補助のために「ちはや」だけに搭載された無人潜水艇で、
マニピュレーターも付いています。
ところで、皆さんは2001年2月10日におきた「えひめ丸」事件をご存知ですね。
アメリカの原潜(グリーンヴィル)が、宇和島水産高校の実習船に
浮上した際衝突し、実習船がハワイ沖に沈没したという痛ましい事故です。
あの事故が起こってから、呉で準備をしたのち現地に赴き、
現場海域でアメリカ側とともに遺体捜索を行ったのが当「ちはや」でした。
少し寄り道になりますが、先日、この時の日本とアメリカの対応について
ジャーナリストの有本香氏がおっしゃっていたことを書いておきます。
海底に沈んだ「えひめ丸」からの遺体の収容は困難とみられました。
沈んだのが水深約600mと作業ができない深度だったからです。
この深度での作業は普通のやり方では不可能としたアメリカ側は、
当初、船と一緒に沈んだ9名の遺体は諦めるようにと日本側に申し渡しました。
これはアメリカ人なら十分有り得る対応で、
「魂の無くなった身体はただの形骸に過ぎないのだから、
二次災害の危険までおかして引き揚げる必要はない」
というドライな考えによるものです。
(日航機墜落事故の時に犠牲となったアメリカ人男性の家族は
遺体に全く執着せず、事故後日本に来ることもなかったと聞きます)
しかし、日本側、つまり当時の首相森喜朗氏は粘りました。
遺体はなんとしてでも収容しなければならない。
家族に遺体を返すことを放棄することは許されない。
それが日本人の考え方だ。
と捜索続行を米側に強く要請したのです。
交渉の際、森首相はアメリカ側からこのような言葉を投げつけられています。
「そんなことをいうなら、アリゾナの乗員の遺体を収容して返してくれ」
真珠湾で日本軍に沈没させられた「アリゾナ」は記念艦として展示されていますが、
実は艦とともに沈んだ乗員の遺体は収容されておらず、今も艦内に眠っています。
これは日米彼我の宗教観から発生した遺体に対する扱いの違いによる齟齬でした。
この時、いわば「執拗に」遺体収容にこだわる日本側に、おそらく
プラグマティックなアメリカ人はうんざりし、このような言葉を投げたのでしょう。
そもそも、事故直後早々に、捜索活動を打ち切っていいかと打診してきた米側に
当時の外務政務官桜田義孝外務政務官は
「だが断る!」
と言い放ったという話すらあったくらいです。
しかしとにかく、最終的に日本側の熱意は通じ、沈没から8ヶ月後になって
遺体収容作業がアメリカの手で行われることになりました。
作業は、600mの海底にある「えひめ丸」を水中で吊り上げ、
安全な潜水作業を行うことができる水深35mの海域まで、
約25km船体を移動させたうえで行うというものです。
途中、吊り上げ用ワイヤーが切断するなどの数々の困難がありましたが、
予定より約1か月半遅れた10月12日、ついに吊り上げは成功し、
アメリカのダイバーの手によって8名の遺体が1ヶ月かけて収容されました。
「ちはや」は現地入りして訓練を行い(潜水士の加圧を含むものでしょう)
米海軍からの要請に基づき、DSRV、ROVによる付近海域の捜索を行なっています。
まさにここから、周辺海域捜索のためのROVが海面に降ろされたのです。
ROVは操作卓から操縦を行います。
下の写真が海底を撮影したものらしいのですが、なんだかよくわからないですね。
そして後甲板に出てきました。
柵に沿って列ができていますが、これはなんと、
退艦を待つ人たちがこれだけ溜まってしまったのです。
この待ち時間はなかなか辛いものがありました。
「ちはや」は潜水艦救難だけでなく潜水母艦としての機能も持ちます。
その巨大な艦体には、充実した医療施設を備え、この広い甲板には
救急搬送のヘリも発着することができるのです。
それから、この写真をご覧ください。
同じ甲板で行われた、「えひめ丸」犠牲者の追悼式です。
ちなみに、探索を終えた「えひめ丸」は、引き揚げされず、
もう一度海深1800mの海域まで運ばれて遺棄され、今もそこで眠っています。
この時「さざなみ」からはラッパの音が風に乗って聴こえてきていました。
おそらく格納庫内でラッパの展示が行われているのでしょう。
さて、次は何を観に行こうかな。
続く。