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スピットファイアー・ガール〜メアリー・エリス

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先日、久しぶりに婆娑羅大将からコメント欄に通信をいただきました。

ご無沙汰しております。
こんな記事と写真が流れてました。

Spitfire Short@SpitfireShort

I am sad to report the death of ATA Association Commodore
& First Officer 'Spitfire Girl' Mary Wilkins Ellis. Aged 101,
she flew 400 Spitfires and 76 different types of aircraft during WW2,
died this morning at her home on the Isle if Wight. 

第二次世界大戦中、イギリス空軍の飛行機を工場から前線基地まで運んだのは
輸補助部隊(ATA)のパイロットたちでした。

彼らが操縦したのは戦闘機から爆撃機、輸送機などあらゆる種類の軍用機、
 
ハーバードハリケーンスピットファイア , ウェリントン爆撃機

などですが、ATTAの女性パイロットはその中の一機の名前を取って

「スピットファイア・ガールズ」

と呼ばれていました。
スピットファイアーガールズの最後の一人で、
先日7月24日101歳で亡くなったその人の名はメアリー・エリス。

婆娑羅大将はこのエリスという名前に反応?して情報を下さったようです。
アメリカの女性航空士官について調べたことがあるわたしも、
イギリス空軍の輸送部隊に女性がいたことまでは全く知りませんでした。

ところで、このエリスさんが93歳の時に後席とはいえ、
スピットファイアの操縦席に乗る様子がyoutubeに残されています。

Spitfire Girl

前席の女性パイロット、キャロリンは1:48のところでメアリーに操縦桿を任せます。

"You have control, you have control !"

再びコントロールを取ったキャロリンはメアリーのために空中で回転を行い、
メアリーはわっはっは、と豪快に笑っております。
彼女も乗る前に「65年ぶり」と言っていたはず。
一般の93歳の女性ではこうはいかないでしょう。

 

メアリー・ウィルキンス、のちのエリスは1917年農家に生まれ、
幼い時から飛行機に憧れていました。
彼女の実家の隣にはロイヤル・エアフォースの基地があったのです。

11歳の時、両親に連れていかれたサーカスで、複葉機での
「ジョイ・ライド」を体験し、すっかり飛行機に夢中になった彼女は、
操縦を学び自分で操縦して空を飛びたいと熱望するようになりました。

16歳になった時、飛行クラブでレッスンを始め、免許を取得し、
世界大戦が始まるまでは民間でパイロットとして仕事をしていました。

そして1941年、彼女はATA (Air Transport Auxiliary、補助航空輸送部隊)
に熱望の末めでたく入隊しました。
冒頭に描いたメアリー・エリスの左胸の徽章に「T」が見えますが、
これは同部隊のウィングマークです。

軍組織に所属しているエリスさん、ということは、もしかしたら
「エリス中尉」が実在したのか?と期待しますよね。
(わたしだけだと思いますが)

しかし残念ながら、ATAはあくまでもシビリアン・オーガニゼーション、
民間組織なので、パイロットに軍の階級は与えられておりません。

ただ、冒頭の死亡記事では彼女の階級を

「ファースト・オフィサー」(First Officer)

としていますが、これはRAF(王立空軍)でいうと、
ファースト・ルテナント(大尉)相当ですから、こちらは
「エリス大尉」(もちろん中尉相当だったこともあるはず)です。

 

ところで前述の通りATAのパイロットは男性だけではありませんでした。

男性の場合、資格が「正規軍のパイロットになれない人」だったので、
元パイロット、つまり片手片足、あるいは片目を失った、
というような人材で部隊は構成されることになりました。

そのため、彼らを

ATA="Ancient and Tattered Airmen"(老&害航空隊?)

と揶揄する向きもあったそうです。

昔、当ブログでは空港での暗号を間違えたためにイギリス軍によって
機を撃墜され死亡した女性パイロットについて書いたことがあります。
彼女、

エイミー・ジョンソン

もATAのファーストオフィサーでした。

ATAにおいてメアリー・エリスは大戦中、76種類の飛行機、
のべ1000機を、生産工場から航空隊に輸送しています。

 

アメリカでもそうでしたが、イギリスでも、女性パイロットは
国内の輸送だけを担当し、危険な前線への輸送は男性飛行士が行いました。

さらに、ジュネーブ条約に則って、一般市民と女性からなるATTAが輸送する機には
武器は搭載できないことになっていたのですが、一度輸送中の機体が
ドイツ軍に撃墜されたあと、王立空軍輸送隊に限り銃が積まれました。

それでも前線への航空機輸送は敵に狙い撃ちされることも多く、
戦時中には174名もの男性パイロットがドイツ軍に撃墜され戦死しています。


さてところで、ATAの女性パイロットは「ATAガールズ」と呼ばれていました。
(スピットファイアーガールズはその派生系ではないかと思います)

 

中でも有名になったATAガールズを何人かご紹介しましょう。

ポーリン・ゴアー司令(Pauline Mary de Peauly Gower Fahie 1910-1947)

ATAを組織し、自らその司令になったゴアー司令が集めた最初のメンバー8名には
エイミー・ジョンソンのほか、オリンピックのスキー選手ルイス・バトラー
アイスホッケーの選手、貴族で政治家の娘、元バレエダンサーなどがいました。

マリオン・ウィルバーフォース( Marion Wilberforce 1902-1995)

彼女もゴアー司令が選んだ最初の8人の一人で、副司令でした。
インテリで投資家、柔道をしていたという一面もある彼女は、
80歳まで空を飛び続けました。

撃墜されたエイミー・ジョンソンは彼女の同僚だったので、彼女は
エイミーの死後何かとコメントを求められましたが、実は彼女、
エイミーについては実力の割に有名すぎじゃないの?と思っていたようです。

よくあることですが、エイミーは若くして非業の死を遂げたので、
ただでさえ高かった名声は不動のものになってしまい、
実力派を任ずる彼女にとってはこのことが面白くなかったのでしょう。

モーリン・アデール・チェイス・ダンロップ・デ・ポップ
Maureen Adele Chase Dunlop de Popp (1920-2012)

いわゆる美人枠?

というわけではなく、ATAは同盟国から国籍を問わず搭乗員を募集し、
いわば「外人部隊」の一面もあったのです。
モーリーン・ダンロップもブエノスアイレス出身です。

この写真はモデルを依頼されてポーズをつけたものではありません。
彼女がフェアリー・バラクーダ艦上雷撃機を輸送し終わってコクピットから降り、
ギアを外して髪をかきあげた瞬間をカメラマンが撮ったのです。

この瞬間彼女はカバーガールとしても有名になりました。

彼女のような存在は、女性パイロットの存在を世間に広く知らしめました。
その美しさで彼女らもまた参戦したのです。

ディアナ・バーナート・ウォーカー
Diana Barnato Walker MBE FRAeS (1918−2008)

名前の後ろにずらずらとついているのは彼女のタイトルで、
MBEは大英帝国勲章の受賞者であること、FRAeS は
王立宇宙航空学会のフェローシップを持っていることを意味します。

外国人がいるかと思えば、とんでもない富豪の令嬢もいたのがATA。

ディアナ・ウォーカーは18歳の時、エドワード8世国王の主催する舞踏会で
デビュタントとして社交界デビューを行なっています。

父親はベントレーの会長、祖父はヨハネスブルグでダイヤモンドを発掘していた
デビアスの創始者で、母方の祖父母は有名な株式仲買人。
両親は結婚式をリッツ・カールトンで挙げています。
また、恋多き父親の再婚相手は炭鉱の所有者一族の出といった具合。

戦争が始まって、彼女は看護士の資格を取ります。
そして、さらにATAの訓練を受け、輸送パイロットになり、

スピットファイアハリケーンムスタングテンペスト

などの戦闘機を運ぶだけの技量を身につけました。

特に彼女が輸送したスピットファイアは260機に上るといいますから、
彼女こそが「スピットファイア・ガール」と言うべきかもしれません。

ちなみに彼女は戦後もテストパイロットを続け、

イングリッシュ・エレクトリックライトニング戦闘機

でイギリス女性として初めて音速を超えたパイロットとなりました。

これらの経歴を見ると順風満帆の栄光ある人生を送ったように見えますが、
実は彼女はその連れ合いを一度ならず2度までも航空機事故で失っています。

婚約者だった部隊長のハンフリー・ギルバートは乗っていたスピットファイアが
農場に墜落して殉職、2年後に彼女は今度は王立空軍の輸送隊司令官、
デレク・ウォーカーと結婚するのですが、デレクも程なくムスタング輸送中、
撃墜されてこちらは戦死してしまいます。

わたしと結婚しようとする男は飛行機で死んでしまうんだわ!

と思ったからかどうか知りませんが、彼女はその後の人生、
結婚しないことを誓い、(と言うことになっています。
本人がそういったのでしょうか)次の恋人、レーシングパイロットの
ホイットニー・ストレートはなんと妻帯者でした。

男の方も伯爵の娘である妻と離婚する気など全くなかったようですが、
愛人であるディアナとの関係は結構おおっぴらにしていたようで、
二人の間には子供もあったということです。

「わたしは完璧に満たされていた」

とご本人は言っておられますが、さてストレートの奥さんの立場は?

ヘレン・ケリー Helen Kerly (1916–1992年)

この人も美人枠かしら。
というか、美人だから名前が残っているとも言えますね。

彼女は輸送隊で主に戦闘機スピットファイアを輸送し、
戦時中に叙勲された二人の女性パイロットのうちの一人になりました。


ところで、最後に。

ATAの女性パイロットが日本のTV番組(NHKBS)で紹介されたそうですが、
その番宣記事というのが、なんというか、ひどいです。

差別を乗り越え、危険を承知で飛び続けた女性たちのうち、
10人に一人が命を落としたという。

プライド高き空軍の男性パイロットたちが女性の実力を認めたがらなかった反面、
多くの軍人をボーイフレンドにして浮き名を流したパイロットもいたという。

まあ、色々といいたいことはあるけど、まず「差別」が真っ先に来るのはどうなのよ。
それから二番目の構文、前段に対する後段が全く「反面」になってないんですが。

観てもいないので、この番組のいう差別というのが具体的に何かはわかりませんが、
どうせ何か男性パイロットから嫌がらせを受けたとかいうことだと思います。

しかしね。

言わせてもらえば、女子航空隊そのものが、国内の輸送に任務を制限されていて、
その大前提として差別(というより区別)の上に成り立っていたわけですよ。

だから、「差別を乗り越えて」なんて構図はそもそも存在しないのよ。
もう、頼むからスイカに塩の手法でお手盛りの紹介するのやめてくれんかな。

しかも賃金について、こんな事実もあります。

ATAに所属したアメリカのジャクリーン・コクランは帰国後、
女子航空隊WASPを創立することに尽力しましたが、そのWASPでは
女性パイロットの給料は男性の65パーセントに留まったのに、
ATAでは男性と全く同等の給料が支払われていたというのです。

ますます乗り越えるべき差別(感情的なものでなく公的な)が
本当にあったのか、と問いたくなりますね。

まあ、昨今のテレビなど、オールドメディア界隈では

「自分が差別だと思えば差別」

らしいので、弱者強者の二元論で言う所の「弱者の側」は差別されていた、
と括ってしまう方が(ドラマとして)美味しいのかもしれませんけど。

さらに文中「10人に一人が命を失った」とあり、実際にも
ATAは全体で15名の女性パイロットの殉職者をだしています。

女性パイロットの総数が168名だったわけですから、10人に一人、
というのはまあ間違ってはいないわけですが、これもなんだかね。

 ちなみにATAの男性パイロットの総数は1152名、先ほども書いたように
そのうち亡くなったのが174名ですから、こちらは6.6人に一人となります。

差別だなんだいう前に、ちゃんとこちらも報じて欲しいですね。


と最後は案の定NHK批判になりましたが、今回RAFの女性パイロットについて
知るきっかけを頂きました婆娑羅大将に御礼申し上げてこの項を終わります。

 

 

 

 


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