Lockheed S-3 「バイキング」Viking
艦上対潜哨戒機「トラッカー」S-2の後継機となるS-3「バイキング」は
アメリカ海軍初のジェット式対潜哨戒機です。
ちなみにプロペラ機時代の対潜哨戒機というのは2機1組になって行う
「ハンター・キラー・システム」(1機がレーダーで水上目標捜索を行い、もう1機が攻撃)
を用いていたのですが、1機で行えるようにした最初の対潜哨戒機がS-2です。
遠くからこうして全体を眺めて見ると、ペイントがそのままのせいもありますが、
どうも全体的にずんぐりとしてスマートとはとても言い難い機体の形をしています。
これは「ヴァイキング」の胴体が輪切りにするとほぼ四角形をしているからです。
機体の底から海面に投下して対潜哨戒を行うソノブイの穴が空いているという
P-3でおなじみのシステムはもうすでに「ヴァイキング」に搭載されています。
コクピットにはちゃんと誰か座っているという設定です。
Daniel D Beintema少佐、と名前が記してありますが、検索すると
元海軍パイロットで、今ではUSS「ミッドウェイ」の運営に力を持っているとかなんとか。
コクピットガラスの下の名前は
Bruce W. Chuchill 大尉
とありますが、この人は検索にはかかってきませんでした。
博物館に貢献してくれた元パイロットの名前を感謝の意を込めてこのように
機体にペイントして残す、という慣習があるのかと思われます。
艦載機として設計されているので、翼は畳んで収納できるようになっています。
翼の中身がどうなっているのかこの展示を見ればわかります。
パイロンに牽引しているのはサイドワインダーでしょうか。
ピトー管に注目してみました。
ピトー管は流体の動きを測定することで航空機の速度を中にいながら知る仕組みです。
特にジェット機では速度がわからないと着陸することができなくなるため、
ピトー管のマスキングは飛行前に必ず外さなくてはなりません。
赤い「フライト前に外す」と記されたテープはこの確認のために付いています。
国内自衛隊の飛行機のメンテなどをする会社に見学に行った時、
どうしてピトー管が二つないといけないのか聞いてみたことがあります。
答えは
「一つだと万が一一つがダメになった時にこまるから」
というものでしたが、今ウィキで調べたら
「横風の影響を考慮して補正した数字を出すため」
であることがわかりました。
多分どちらも正しい理由なんだと思います。
「バイキング」は省スペースを目標に作られていて、例えばディスプレイも
様々なセンサーから上がってくるデータを同時に解析することができます。
そして例えば潜水艦がウロウロ(プラウリング)しているといったような
重要な局面に対処するため、翼とターボファンエンジンの組み合わせは
クルーズコントロールを容易にしました。
レーダー、ソノブイ、時期検出器、電子探査機、そして魚雷。
S-3は空母機動隊の対潜戦を驚異的に強固にしたといえましょう。
ところで、「ミッドウェイ」が湾岸戦争に参加したときのこと。
ペルシャ湾で海戦を迎えた「ミッドウェイ」が緊張と次々に飛び立つ
哨戒艦載機のための飛行作業でクタクタになっている最中、一機のバイキングが
後方から近づいて来ました。
「ミッドウェイ」にはバイキングの飛行隊はありません。
しかもこのとき「ミッドウェイ」は敵に電波をキャッチされないように
EMCON(電波を使わないで通信するシステム)になっていました。
エアボス「スキッパー、(艦長)バイキングが着艦しようとしているが
一体どうなっているんだろう」
艦長「全くわからん。仕方ない、緊急着陸態勢を取ろう」
パイロットと通信ができないので、とにかく着艦の準備が取られました。
近づいて来るバイキングに、LSO(着艦のためアプローチする航空機に
高度などの態勢を指示する役目の白ジャージ)が
「高度を下げろ」
と何度も指示を出すも、高度を下げられなかったのかアレスティングケーブルに
フックをかけることができなかったバイキングはフルスロットルで飛び立ち、
もう一度着艦に挑戦しようと、ランディング・パターンに入りました。
「あいつは一体誰だ?
なぜミッドウェイに降りようとしてるんだ?」
最初のランディングをミスして、もう一度ランディング・パターンに入った直後、
エアボス(大佐。フライトオペレーションの総責任者)は、「ミッドウェイ」近くで
フライト・オペレーションをしていた別の空母の管制周波数を捉え、
送信はできないものの、管制官とパイロットの会話を受信しました。
そこで交わされていた会話は・・・
「バイキング、今どこにいる?報告せよ」
「どこにって、ファイナルです。
私の目の前がフライトデッキです!着艦します!」
「何言ってるんだ!お前の機を目視できてない。
ウェイブ・オフ!ウェイブ・オフ!」
バイキングのパイロットは自分の空母を間違えたのでした。
「ミッドウェイ」のサイズや煙突から出ている煙を見れば、
自分が降りるはずの原子力空母とは全く違うことは一目瞭然なのですが、
どうやら彼は極度の疲労で判断不能に陥っていたらしいのです。
(スコット・マクゴー著’ミッドウェイ・マジック’)
湾岸戦争の時、艦載機部隊のパイロットは、対戦哨戒の他にも、
ネイビーシールズを輸送したり、イラク兵の捕虜を運んだりと、飛び続けました。
フライトから飛行機が戻って来ると、エンジンを回したまま給油し、
パイロットと乗員が入れ替わってまた飛ぶという状態が続いたのです。
これを「ホットシート」フライトと呼んでいたそうです。
シートが冷える暇もない、ということですね。
疲労困憊したパイロットは、飛行が終わるとフライトバッグとヘルメットを持って
ふらふらとフライトデッキを降りていき、どこか適当なところで
横になって寝てしまうので、時間になったらそれを起こしてまた乗せて・・・。
この時艦を間違えた原子力空母艦載のバイキングのパイロットも同じ様態で、
もしかしたら着艦作業の時にすでに疲労で朦朧としていたのかもしれません。
そのせいなのかどうか、やはり湾岸戦争中航空機の事故は何件か起こりました。
しかし、「ミッドウェイ」だけは湾岸戦争中一機の事故も起こさず、
一機も艦載機を失うことはありませんでした。
これはまさに「ミッドウェイ・マジック」だったと言えましょう。
ところでついでにお話ししておくと、「ミッドウェイ・マジック」とは、
1945年から退役の1992年まで、丸々47年間というもの、
ベトナム戦争、そして湾岸戦争という二つの戦争を挟んで試験や哨戒、
そしてピナツボ火山噴火などの災害派遣をことごとく無事にこなし、しかも
海外を(ってそれは日本だったりするわけですが)母港にして18年間、
一度もアメリカ本土に帰ることがなかった稀有なこの空母を讃えた尊称です。
長年日本でその任務を果たしてきたため、彼女は
「Tip Of The Sword」(剣の切っ先)
とも呼ばれていました。
老齢になってもなかなか引退せず、他の同時期に就役した空母艦船が
ほとんどくず鉄になってしまった頃に、わざわざ日本で改造を施してまで
彼女が延命させられていたその理由は、1989年、アメリカ海軍がソ連海軍に対抗して
600隻艦隊構想(600-ship Navy initiative15)
艦艇600隻、15個航空機動群、4個水上打撃群という編成を謳った
キャンペーンが繰り広げられた時期が、ちょうど彼女が引退するかどうか、
という時期と重なっていたからでした。
この構想が打ち出された時、米海軍の艦艇数は475隻しかなく、
目標までのあと二割をどう確保するかという話になった時、
こうなったら原子力空母の建造を急ぐとともに、船の形をしていればなんでも、
とまでは言いませんが、古い軍艦を引っ張り出して来るしかない、
とアメリカ海軍は考えました。
映画「バトルシップ」で、主人公が記念艦「ミズーリ」を復活させていましたが
あれを地でやってのけたのです。
嘘みたいな話ですが、本当にモスボールされていたアイオワ級戦艦
「アイオワ」「ニュージャージー」「ミズーリ」「ウィスコンシン」
に、トマホークとハープーンを積んで、現役復活させたのです。
そこまでやったのですから、40歳過ぎた「ミッドウェイ」を延命し、
次の空母が完成するまでのつなぎにするなど余裕です。
というわけで、その後継となる予定の
の1997年就役まで保たせるために「ミッドウェイ」は日本で延命工事を受けました。
この1986年の改修は今でも関係者の語り草となっています。
アメリカ国内で行えば確実に2年はかかると言われた大改造を、
日本の技術者たちは予算をオーバーすることなく半年でやってのけたのです。
これには当時「ミッドウェイ」の艦長であった
ライリー・ミクソン(Raily Mixon)
も度肝を抜かれ、日本の技術力の高さに驚きました。
皆さんも、もし「ミッドウェイ」を見学することがあったらその少なくない部分が
メイド・イン・ジャパンであることを思い出してください。
しかし、好事魔多し。
もともと、度重なる改修のおかげで船体がすっかり重くなり、
艦尾が艦首より低く沈んでしまい、その結果飛行甲板が
艦尾から艦首にかけて緩やかな坂になってしまっていたことで、
特にファントムIIの着艦の安全性に問題が生じていた、というのが改装の理由です。
もともと「ミッドウェイ」は
「USSロックンロール」
とあだ名がつくほどよく揺れ、少し波が荒れただけでも動揺が大きくて、
大型化する艦載機に対応できなくなってきたという事情もありました。
そのため、不要なて配線や鉄を撤去して艦隊の重さを400トン減らし、
代わりに船体側面に浮力を増すためのバルジ(ブリスター)を追加して揺れを減らし、
浮力を増すという計画に則って行われたのが今回の回送です。
次期F/A-18の運用に備えて、カタパルトを強化する工事も行ないました。
いよいよ改装が終わり、勇んで外洋に出るため横須賀をでた「ミッドウェイ」、
ところが湾を出た途端に1mの波で揺れだしたのです。
艦載機が1機も乗っていない状態で、しかもこんな小さな波で揺れるなんて・・。
ミクソン艦長はこの揺れを感知した時、同時に身の毛がよだったと言います。
改造を設計したアメリカ人技師は、
「プロジェクトを急いでいたので十分に設計する時間がなかった」
と説明(言い訳?)したそうですが、とにかく揺れは前よりも酷くなってしまったのです。
これで前より仕事が大変になったのがパイロットとLSOでした。
揺れる甲板に着艦するパイロット、着艦をパイロットに指示するLSO、
どちらも命の縮む思いをすることが増えたと思われます。
そして揺れやすくなった「ミッドウェイ」、初の長期航海でご丁寧にも
4つの台風に遭遇し、そのうちルソン島での強風では、それまでの人生で
初めての揺れ角度24度を記録し、達成記念Tシャツが作られることになりました。
ただ悪いことだけではなく、プリスター(付け足したコンパートメント)のおかげか
浮力が増し、小回りが利くようになったということです。
(ジロミ・スミス著『空母ミッドウェイ』)
ちなみに、4分の1の工期で改修を完璧にやり遂げた日本の技術陣は、
工事の段階で
このこと(改装後揺れが酷くなるであろうこと)に気が付いていた
といわれています((((;゚Д゚)))))))
「しかしこんな改装して大丈夫なのかね」
「一体何考えてるんだろうな、アメさんは」
「まあ、俺たちは頼まれた仕事を1日でも早く完璧にこなすだけさ」
「そうだ、この際日本の技術力の高さを見せつけてやろうぜ」(キリッ)
みたいな会話もあったんでしょうなー、きっと。
そして最後に。
「ステニス」就役までは引退できないはずだった「ミッドウェイ」が
92年に引退することができた理由は、実にシンプルでした。
1991年、ソビエト連邦が崩壊し、冷戦が終わったからです。
続く。