予告編でもお伝えした通り、今回ウェストポイントに行ってきました。
ニューヨーク州の田舎にある航空博物館と、州都にあった駆逐艦
「スレーター」に行った勢いで、この際ウェストポイントにも行こう!
と我が家で唯一の免許保持者であるわたしが強く主張し実現したものです。
前にも言ったかと思いますが、日本はもちろんアメリカで
一家を乗せてハンドルを握るのはわたし。
運転が苦にならないタイプなので、代わってくれる人がいればなあ、
と思ったことは全くありませんが、こういう体制でよかったと思うのは、
自分の行きたいところに人にお願いすることなく行けるということです。
もちろんうちのTOという人は、妻の行動を制限したり咎めたりはせず、
むしろわたしが探し出してくるミリ系観光に喜んで同行してくれるので、
一人の時も家族といる時もわたしの乗る車の行き先はわたしの意のままですが。
そんなわたしの家庭事情はどうでもよろしい。
というわけでこの日、車はニューヨーク州のハドソン川沿い、広大な敷地をもつ
U.S. ミリタリーアカデミー、通称ウェストポイントに向かいました。
ナビの通りにフリーウェイを降りたら、そこはなぜかこんな街。
街全体がゴミゴミしていて薄汚く、看板の半分以上がスペイン語。
どうもヒスパニック系のエリアのようです。
言いたくないけど、移民街というのはどこもどうしてこう、
荒れ放題のシャビーで汚らしい雰囲気になってしまうのでしょうか。
他人の国に来てその経済の恩恵にあずかろうとしているだけの移民は、
そのほとんどが、移民先の国家の文化へのなんの敬意も遠慮もなく、
住んでいるところに自国の貧しさからくる混沌を持ち込む。
もともとの住民は眉をひそめてそこから逃げ出し、より一層
「外国化」が彼らの住み着いた地域を蝕んでいく・・・・。
これはアメリカに限ったことではありません。
わたしは最近、17年前に2年連続で訪れ、いずれもアパートを借りて
月単位で住んだパリの街が、路上生活をする移民のせいで
目を覆うばかりの惨状になっているのを見て心から悲しく思っています。
日本でもそういう地域がそろそろ出て来ているようですね。
それにしても、軍施設、特に士官学校のある地域というのがこれ?
と違和感を感じながら進んでいくと、ある瞬間から急にそこは
上品な雰囲気の漂う落ち着いた、しかし質実な街並みに変わりました。
そうそう、陸軍士官学校の近隣はこうでなければ、と頷きながらなおも進むと、
「ウェストポイント・ゴルフコース」という案内が山間部の道路に現れました。
地図で見るとわかりますが、ウェストポイントが所有している地域は
総面積64.9 ㎢ で、千代田区、港区、新宿区、渋谷区を足したより広いのです。
その中にはハドソン川や山林を含むとはいえ、これだけ面積があれば
そりゃゴルフコースが一つや二つあっても不思議ではありませんね。
というわけでウェストポイント正門に到着。
エイブラムス・ゲートと名前がついています。
ここに来る手前にそれらしい門があったので、入っていこうとしたら、
そこは陸軍の関係者の住居区か何からしく、警衛ボックスにいた一人の軍人さんが、
すわ!という感じでこちらを睨み据えているので、慌ててバックしました。
その表情から見て、おそらくウェストポイント見学に来た人が皆同じ間違いをして、
車で入って来るのに結構うんざりしているんではないかと思われました(笑)
そこからすぐ先に戦車がある正門を見つけたというわけです。
このゲートの「エイブラムス」というのは、
クレイトン・W・エイブラムス・ジュニア将軍(1914-1974)
の名前から取られています。
エイブラムス将軍は1936年陸士卒業、戦車大隊の指揮官を経て
最終的には陸軍参謀総長を務めた軍人でした。
わざわざ台座に「戦車に登ってはいけません」という注意書き。
いたんだろうなー、過去若気の至りでやらかした士官候補生が(笑)
エイブラムスの名誉は、第二次世界大戦の時のヨーロッパ戦線で
パットン将軍を刮目せしめるほどの優れた戦車隊の指揮によるものです。
彼は装甲と攻撃力に優れたドイツ軍の戦車隊を破り、
「バルジの英雄」
と讃えられました。
サンダーボルト、Thunderbolt VII、 M4 A3E8 シャーマン
第二次世界大戦中、エイブラムスが搭乗した最後の戦車だったそうです。
エイブラムス・ゲートから足を踏み入れると、ウェストポイント博物館が
このように威風堂々の佇まいをたたえ現れます。
一般人の見学はオールウェイズ・ウェルカム。
エイブラムス・ゲートは、むしろ広報のために解放されているという感じ。
「本当の」ウェストポイントへの入り口はこの先にあり、そこから先は
一般人は指定の見学バスに乗ってでないと入ることはできません。
しかしここもよく見ると「ビジターセンター」ではなく、
「ビジター・コントロール・センター」
であるのが、観光地ではなく軍の施設であることを物語っています。
ビジターコントロールセンターは入るとすぐロビーになっていて、
そこからは全面ガラス張りの窓を通してハドソン川が臨めます。
窓に近づいて下方を撮影してみました。
こんな小道も舗装して傾斜には階段と手すりをつける至れり尽くせりな感じ。
とにかくアメリカの教育機関の中で最高にお金がかかっているのが
各種士官学校であることは間違いありません。
ハドソン川を眺める窓際には歴史的経緯の説明が設置してあります。
ウェストポイントはかつてイギリス軍に対する防衛の拠点(ポイント)でした。
1780年に、ジョージ・ワシントンがここに設置した要塞が
「フォート・アーノルド」(のちのフォート・クリントン)
です。
そして1778年、完成したもっとも広い要塞、
「フォート・パットナム」(Fort Putnum)
の跡地が、現在の陸軍士官学校となります。
ここには、訪れた人々に陸軍士官学校の歴史と現在を紹介するための
ミュージアムがスクール・ショップと併設されています。
そのミュージアムのエントランスが、これ。
士官学校卒の五人の将軍の候補生時代の肖像が掲げられています。
左から、
ユリシーズ・グラント(1843年卒)
ここにいる人たちは全員元帥位まで昇進した陸士卒の軍人です。
グラントは南北戦争で北軍に勝利をもたらした司令官で、
アメリカ人なら「グラント将軍」を知らない者はいません。
面白いのが、グラントの元々のファーストネームは「ハイラム」なのですが、
陸士に提出するときに間違ってミドルネームがファーストネームで記載され、
本人はそれを気に入ってこちらで通したという話です。
確かに「ユリシーズ」の方がかっこいいよね。
我が日本の西郷従道が、明治政府の太政官記録係に名前を聞き間違えられ、
本名の
「隆興」=「りゅうこう」→「じゅうどう」=「従道」
にされてしまったのを気に入り、それを本名にしてしまった話を思い出します。
グラントはのちに合衆国大統領となりましたが、政治家としては評価されておらず、
それどころか彼を「史上最低の大統領」に推す人も結構いるようです。
ジョン・ジョセフ・パーシング(1886年卒)
もっと正確にそのAKAを加えた名前を書くと、
ジョン・ジョゼフ・“ブラック・ジャック”・パーシング
(John Joseph "Black Jack" Pershing)
ブラック・ジャックとは手塚治虫の漫画の医師のことではなく、
法執行官が持っている棒のことです。
パーシングは「バッファロー大隊」の起源となった黒人ばかりの部隊を率いて、
戦果を挙げていますが、その後陸自で教鞭を取ったとき、
あまりにも学生に厳しいので、怖れられ嫌われると同時に、
「ニガー・ジャック」
と黒人部隊の指揮官だったことを揶揄するあだ名で呼ばれていました。
(人種差別が当たり前だった時代ですから)
その後、パーシングを取材した記者が、「ニガー」という言葉はあんまりだ、
と考えたのか、一応公的には書くのが憚られたからか、あだ名を勝手に
「ブラック・ジャック」
に変えて報道し、こちらが歴史に残っているというわけです。
ダグラス・マッカーサー(1903年卒)
説明はいりませんね。
マッカーサーが若い時って、こんなにイケメンだったんだー!
とちょっとびっくりしてしまいました。
奇跡の一枚かもしれないと思い、他の写真も調べてみました。
やっぱり男前・・・だけでなく実にノーブルな面持ちの青年ですね。
これなんかもヘアスタイルが今風でいいじゃないですか?
ちなみにマッカーサーの陸士での成績はレジェンドともなっていて、
首席で入学し、全学年首席で通し首席で卒業という凄まじいものでした。
彼以上の成績を取った生徒は史上まだ二人しかいないそうです。
元帥になったからといってクラスヘッドばかりではなく、グラントなどは
どちらかというと後ろの方(人数も少なかったけど)だったそうですが。
ところで昭和天皇陛下と並んで撮った写真のあの人って、
本当にこの美青年の成れの果て?
うーむ、時の流れというのは人を変えるものだのう。
マッカーサーの母はいわゆる「ボミング・マザー」で、彼を溺愛し、
小さいときには女の子の格好をさせ、ウェストポイントに入学したら
息子心配のあまり学校の中にある(今でもある)ホテルに、
彼の卒業まで住んで彼を監視、じゃなくて見守っていたそうで、
このため、彼は
「士官学校の歴史で初めて母親と一緒に卒業した」
とからかわれることになったということです。
すごいなこのカーチャン。
ドワイト・デイビッド・アイゼンハワー(1915年卒)
昔「将軍アイク」というテレビドラマがあったそうです。
平時に16年も少佐のままだったパッとしないアイゼンハワーの軍歴は、
第二次世界大戦がはじまり、連合国の最高司令官になったことから、
わずか5年3ヶ月の間に大佐、准将、少将(同じ年に)中将、そして
大将に続いて元帥にまで昇進するという、アメリカ陸軍史上、
空前のスピード昇進記録を打ち立ててこちらもレジェンドとなっています。
その後彼が合衆国大統領になったのもご存知の通り。
ちなみにアイゼンハワーは原爆の使用には絶対反対の立場で、
トルーマンにも強硬に反対を進言していたそうです。
オマール・ネルソン・ブラッドレー(1915年卒)
この人誰だっけ?とわたしが思った唯一の一人。
卒業年がアイゼンハワーと同じで、つまりこのクラスは二人元帥を出しており、
「星が降りかかったクラス」”the class the stars fell on"
とまで言われたそうです。
歩兵出身の彼はヨーロッパ戦線で野戦部隊を率いて「マーケット・ガーデン作戦」
「バルジ作戦」などを戦いました。
さて、エントランスの写真をもう一度見てください。
五人の元帥の上部に、士官学校の帽子が見えますね?
そう、卒業式のこの瞬間の白い帽子を表現しているのです。
そして、肖像の下の
「THE LONG GRAY LINE」
は、ウェストポイント・アカデミーの変わることないグレイの制服に
身を包んだ、過去から現在に連なる卒業生たちの列を表します。
というか、この制服、ブルーじゃなくてグレーだったのか・・・。
次回はこのセンターのなかにあった展示についてご紹介します。
続く。