ウドバー-ヘイジーセンター、スミソニアン別館の展示です。
入って右側のコーナーを歩き、一周してきたとき、
前にもお話ししたブラックバードSR-71の尾翼に気がつきました。
スカンク・・・・。
途端にブラックバードを開発したロッキード社のプロジェクトチームの
という名前を思い出してしまうわけですが、それにしても可愛いですね。
英語のウィキによるとロゴはこれ。
スカンクが腕組みして考えている→スカンク・ワークス
というコンセプトは同じながら、明らかに機体に描かれたロゴがキュート。
(個人的な意見です)
この名前は、プロジェクトチームの設計室が何かの工場の目の前にあって、
その匂いがあまりに酷いため、電話に出た人がつい自虐って、
「はい。こちらスカンクワークスです」
と漫画に出てくる蒸溜所の名前で答え(アメリカ人らしい!)、
それがウケたので正式名称にしてしまったという経緯があります。
ちなみにスカンクワークスはその後、あのF-117を生み出し、
今でもアメリカの航空産業の最先端を突っ走っております。
さて、今シリーズはそのブラックバードも投入された、
ベトナムー朝鮮戦争の翼をご紹介します。
「航空機の形の変遷」と右側にあり、先日来
「ミッドウェイ」シリーズでお話ししてきたクーガーとパンサーがあります。
左上は一足早くご紹介したB-26インベーダー、その下は
どう見ても無駄に大きすぎるコンソリのB-36ピースメーカー。
大陸間爆撃機(インターコンチネンタル・ボマー)の癖に
どの口でピースメーカー(笑)などというやら。
岸首相ではないですが、ついこう言いたくなりますね。
責めているわけではありませんので念のため。
ちなみに、「核武装は抑止力」という核保有国のスタンダードな
エクスキューズは、この頃盛んに行われていた(圧倒的な米のリードでしたが)
米ソの核開発競争から生まれたらしいですね。
そして左の一番下、これが・・・・、
ノースアメリカン F-86A セイバー
ベトナム戦争時代は「ミグの小道」(MiG Alley )と呼ばれる
最危険空域に出撃しては、MiG-15と戦った戦闘機。
セイバーはアメリカで作られた最初の後退翼ジェット戦闘機です。
朝鮮戦争におけるヤルー川上空の空戦で
「偉大な戦闘機」
としての評価を得ることになりました。
中国国境を超えて敵を追跡することができないにも関わらず、
セイバーのパイロットは記録的な撃墜をMiGに対して立てたのです。
セイバーの設計者は鹵獲したドイツの空力データを研究し、後退翼は
高速時の制御が従来のものより容易であることを突き止めたのです。
このF-86Aは、朝鮮戦争でMiG-15との間に行われた空戦を知っています。
金浦にあった航空基地から邀撃に上がることが多かった、
最初のセイバー飛行隊第4戦闘機部隊のマークを付けています。
朝鮮戦争 1950−1953
これを見て、朝鮮戦争がたった3年しか行われなかった、
というのが何か不思議な気がするのですが、それはともかく。
朝鮮戦争とベトナム戦争の間の航空攻撃というのは、
従来の武器で限られた体制で行われました。
広いフォーメーションを取る第二次世界大戦の時の重爆撃機は
目標を定めるということは滅多にありませんでした。
北朝鮮も北ベトナムも、その戦略的施設は空襲に対して脆弱で、
彼らの後ろ盾となっていた中国とソ連こそが敵であるとして
アメリカはこれを攻撃することに消極的だったのです。
アメリカ側にとってどちらの戦争も空軍、海軍、海兵隊の戦闘機と
爆撃機の総力を上げて敵の供給ラインを攻撃したという構図でした。
ピースメーカーのような核も搭載出来る爆撃機などの航空戦力は
はっきり言ってどちらの戦争にも決定的な役割となりませんでした。
と書いてあります。そうだったんだー。
その割には左の写真、盛大に爆弾をバラまいておりますが。
おっとこれはあの憎っくきB-29ではないですか。
なんとB-29、ビンテージながら北朝鮮に爆撃機として投入されていた模様。
そして写真右側が、あの
ミコヤン・グレヴィッチ MiG−15 戦闘機
です。
ミコヤン-グレヴィッチ設計事務所は、冷戦期初頭のジェット戦闘機、
最も有名なMiG−15の主力設計者として華々しく航空界に登場しました。
初飛行は1947年、指導者であったヨシフ・スターリンの要望で
先進的かつ高高度における要撃機としてデザインされたものです。
MiG−15はそのスピード、駆動性、そして重武装が可能なことで
朝鮮戦争において劇的なデビューを果たし、
かつ西側諸国に衝撃を与えたといわれています。
ミコヤンの設計のユニークだったところは、動力にイギリスの
ロールスロイスから取り寄せた、
ニーン・ジェットエンジン
を取り寄せて、これを無許可でコピーし改良したものを積んだことです。
言いたくはないですが、こういうルール無視をするのって
共産主義国家の技術者に多いって感じがしますね。なりふり構わないっていうか。
しかも、ロールスロイスのエンジンそのものも、ミコヤンが
ロールスロイス社のパーティに招かれた時にビリヤードで勝ち、
その褒美に購入の許可をもらった、という経緯がありました。
まあしかし、くれると言っているものを貰わないのは馬鹿、
盗める技術を盗まないのは阿呆、というのがあちらの常識。
お人好しなロールスロイス社を彼らは出し抜いたと思ったでしょうし、
ソ連ではそんな彼らはヒーローだったでしょう。
おそらく、今でも。
朝鮮戦争の間、MiGー15はアメリカ軍のF-80シューティングスター、
そしてF-86セイバーと制空権(エアー・ドミナンス)を巡って対峙しました。
画期的だったのはまずこれがソ連にとって初めての
後退翼を持つジェット戦闘機だったことで、さらには
コクピットは与圧されており、イジェクトシートが装備されていました。
これらもそれまでのソ連が持っていなかった機能ばかりです。
このMiG-15は、そのシリーズが最も広く製造された航空機といわれ、
その派生形は17,000種類に及ぶと言いますから驚きます。
その十分の一の1,700でもそりゃ多い、となりそうですが。
このことを、Wikipediaにはこう記してあります。
派生型は量産されたものだけでも数知れず存在し、
西側ではいまだにきちんとした認識はされていないようであるが、
初期型のMiG-15、改良主生産型のMiG-15bis、
複座練習機型のMiG-15UTI(またはUTI MiG-15)
の三つの名称を把握しておけば大抵は事足りるであろう。
・・・事足りるって何に足りるんだろう。
というツッコミはともかく、これだけ種類が膨大になったのは、
ソ連以外の国でも生産され、それに全て改修型、派生型が生まれたからです。
アメリカ軍の航空機の進化は、兵器を装備する航空機のサイズ、
または能力に合わせた兵器の開発によって推進されてきた面があります。
朝鮮戦争ではB-29に対して行われた高周波電力伝送のメソッドを使った
短距離のナビゲーションシステムが使われ、たとえ目標の天候が悪くても
爆撃機の広範囲への攻撃を可能にしてきました。
ベトナム戦争ではますます洗練された「賢い」兵器が投入されるようになり、
その結果、過去の多くの爆弾は「アホ」ということになりました。
(現地の説明には本当にこう書いてあります。”dumb"= 馬鹿・うすのろ)
これらの新しい精密兵器は、
「戦略的爆撃は、大規模な爆撃機タンクを搭載する
大型爆撃機で行われ、ゆえに民間人の死傷者数が多い」
という従来の常識的な考え方を覆したと言ってもいいでしょう。
とはいえ嫌味な言い方をあえてさせていただくとするなら、
第二次大戦末期、アメリカ軍が東京を空爆することになったとき、
仮にこのころの技術があったとしても、それでもなおかつ
あのカーチス・ルメイがその爆撃方法を選んだかどうかは疑問です。
さて、このような新しい精密攻撃を行う兵器が、様々なバリエーションで
航空兵力に搭載されるようになってきたわけですが、その結果として
1991年のペルシャ湾岸戦争では巡航ミサイルが艦船ならびに
B-52爆撃機から発射され、レーザー誘導爆弾がF-117(ナイトホーク)、
A-6イントルーダーなどから落とされ・・・・いわば「新しい波」が
イラクを攻撃したということになります。
攻撃航空機のタイプによる効果の違いではなく、あくまでも
敵に与えた実際のダメージを勘案することで開発された攻撃法は、
空中または地上のターゲットを対象とした精密兵器の開発によって
一層強化されていくことになります。
ロッキード T-33A シューティングスター
シューティングスターというと、わたしなど入間での墜落事故と
その墜落機を操縦していたパイロットたちの自己犠牲を思わずにいられません。
これは「Tバード」という名称で知られていたロッキードの練習機で、
アメリカでは1947年から、偶然のようですがセスナの「ツィート」、
T-37に交代する1957年まで空軍で使用されていました。
当博物館所蔵のT-33A-5-LOは、1954年まで空軍で運用され、
その後はワシントンD.C.のナショナルエアガードのものとなり、
1987年には博物館に寄贈されていたものです。
機体を見てものすごくピカピカしていることに気づきませんか?
生まれて一度も塗装されたことのない飛行機だからなんですね。
自然の金属地は磨き上げるとここまでなるという驚くべき見本です。
練習用にしか使われたことがなく、その時に装備していた銃は
展示に当たって全て取り外されました。
こんなものも飾ってありました。
やはりMiG−15を運用していたポーランド空軍将校のフライトスーツです。
1953年3月5日、ポーランド空軍のフランシスチェク・ヤレツキー大尉は、
4機のMiG-15とともにポーランドのストロプ基地から哨戒に出ましたが、
レーダーにソ連軍機を発見したため増槽を落とし、隊形を崩して急降下しました。
ところがソビエト軍は彼らの迎撃をすでに予想しており、
「Oparation Krest」と名付けられた警戒迎撃システムコードを準備して
つまり飛んで火にいる夏の虫を待ち構えていたのです。
隊形を解散して一機でやってきたヤレツキー機はソ連軍に追いかけられました。
彼はデンマークのボーンホルム島にアメリカ軍がいることを知っていたので、
そこに逃げ延びて着陸することで追手から生還することができました。
このジャケットの説明の最後はこのようなものです。
「このフライトスーツはヤレツキー大尉が自由世界
(フリーダム)への必死の飛行の際に着ていたものである」
いやまー、いいんですけどね。
アメリカ基地を「フリーダム」だと思ったからそこを目指した?
流石にそこまで考えていなかったと思うけどどうでしょう。
ここにあるヒューイはもう紹介がすんでいますが、残っていたのがこれ。
シコルスキー HO5S-1
海兵隊で負傷者救出のために投入されたヘリで、デビューは
朝鮮戦争の最後の年になります。
他のヘリのように負傷者を外付けの担架に乗せる方式ではなく、
二人の死傷者と付き添い一人を内部に乗せることができました。
フロントのバブルウィンドはそのものが開くので、
内部へのアクセスが簡単ですし、後部にマウントされたエンジンは
搭載重量の制限を飛躍的に大きくしたといわれます。
ヒンジの改良によってローターの動きに安定性が増し、
さらには夜間飛行も可能になりました。
このHO5S-1は朝鮮戦争に参加して生き残った数少ないヘリの一機で、
VMO-6部隊に配備され、朝鮮戦争で重症を負った海兵隊員を、
少なくとも五千人以上輸送したといわれるヘリコプターです。
戦後は民間のヘリコプター会社に払い下げられ、
エアタクシーや農薬散布、配線のテストなどの仕事をしていましたが、
スミソニアンに寄贈され、朝鮮戦争で活躍した頃の塗装を施されて
かつて戦場から人命を救っていた頃の姿を後世に残しています。
続く。