さて、呉散歩編、「朝の部」です。
帰国以来時差ボケが今や正常化して(アメリカから帰るとしばらく早起きになる)
毎日漁師とは言わないけれど、農家の人並みに早起きになってしまったわたし、
この日も元気に夜明け前に目覚めました。
どこまで歩きに行くか、と考えた時まず脳裏に閃いたのは
自衛隊記念日の行事が始まる前に潜水艦基地を車で見に行ったことがあり、
そのときの、潜水艦が白煙をあげているあの景色です。
「アレイからすこじまの潜水艦基地まで歩いて朝の潜水艦を愛でよう」
早速所要時間を調べると、片道36分。
これなら行って帰って来られる、と判断しホテルを出ました。
グーグルの案内した経路にとんでもない「落とし穴」があるとは知らず・・・。
ホテルを出たところにある境川は朝の引き潮のせいで川底が見えています。
しょっちゅう水没しているためボロボロになった階段は、これも
おそらく旧海軍時代からのものらしく、木の骨組みが露出してきています。
流石に呉教育隊のみなさんは早起きですね。
朝の清掃タイムらしく、庭箒を持った自衛官の姿が柵越しに見えました。
左の塀の向こうは呉教育隊、右は基地業務隊などがある自衛隊の領地です。
赤い壁は、これ全て呉地方総監部の長官庁舎のレンガに合わせているのです。
自衛官(多分)がランニング通勤しているのも呉ならではの朝の光景。
呉地方隊の門は二ヶ所あって、こちらがいわゆる通用門。
昨日の追悼式などの時にはこちらから入場します。
通用門はカーブの突き当たりにあるので、公道通行車が全て
左折して行く中、呉地方隊関係者の車だけが直進してきます。
このため、「自衛隊に用がある車はウィンカーを点滅せよ」
というお達しが大きく看板に書かれるようになったと見られます。
門内に入って行く車は自衛官の出勤車だと思いますが、
どんなに見慣れた車でも警衛の自衛官は後部座席をチェックしています。
考えてみたら朝の自衛隊基地の通勤風景などを見るのは初めてです。
歩いて門内に入る人は私服がほとんどですが、たまに制服もいました。
新しく完成した呉音楽隊の練習棟。
この無機質なこと、もしこの表札がなければ工場か給食センターにしか見えません。
必要以外の機能に全力投入し、後は極力ご予算を絞ったという感じありありです。
いや別に、エントランスに(前のように)錨のマークをあしらったり、
植え込みにト音記号を作れとは言いませんが、もう少しなんというか
全体的に音楽隊がいることがわかるような工夫とか潤いというものをだな。
防音設備やレコーディングなどの装備はおそらく完璧なんでしょうけど。
入船山公園の斜面。
今いるのは数字の「487」のあたり。
終戦直後(1947年)はこうなっていました。
黄色で囲んだプールがあったらしいところに音楽隊と官舎、そして
自衛隊の援護業務隊を作ったということになります。
ここは現在「市民広場」という名前がついているらしいです。
あの「市民」のせいで、市民という言葉の印象が無茶苦茶悪いんですけど、
こんな名前がつけられたのも、元々ここが旧海軍の練兵場だったからでしょう。
終戦後にはここでイギリス連邦占領軍が式典を行ったり
演習をしたりしていたそうで、その名前も
「ANZAC PARC」
と変えられておりました。
ちなみにANZACというのは
Austrarian and New Zealand Army Corps
(オーストラリア・ニュージーランド軍団)
から生まれたアクロニムです。
どちらもイギリスパスポート の旧植民地で地理的にも近いので
元々同盟国だった両国は、ここ日本の呉に占領軍として
合同で乗り込んできていたんですね。
(ちなみに彼らは占領が終わり帰国する際、旧軍時代の
家具や調度などを結構な数勝手に持ち帰り、さらには
勝手に長官庁舎を改装してやりたい放題だった模様)
赤で囲んだところに「十字」が上空から見える建物がありますが、
これは現在国立病院機構呉医療センターとなっています。
今は「この世界の片隅に」の「聖地巡礼」先となっている階段は
海軍病院に続く道でした。
戦時中は敵に対し、赤十字が見えるように屋上にペイントして
空爆を避けるようにと指示していたというわけです。
そして青で囲んだところは現在も残る鎮守府長官庁舎です。
そのままてくてくと487号線の歩道を歩いていきますと、
呉地方総監部の正門が現れます。
もっと真正面から撮りたかったのですが、警衛の人に見られるので
彼らが死角となるこの角度から一枚だけ撮らせてもらいました。
この487号線は、大変交通量の多いところです。
総監部と道を隔てて反対側に点在する官舎から、その昔は
ここを通って直接出勤できたらしい歩道橋がありました。
今は敷地内に入ることができないのはもちろん、横断歩道があるので
おそらくこれを使用する人は皆無なのではと思われます。
ふと思いついて歩道橋を上まで登って見ました。
なんと地方総監部庁舎のマーヴェラス!な眺め。
総監庁舎は2年ほど前に文化財に指定されましたが、よくぞ今まで
この美しい建物をそのまま現役で使い続けてくれたものだと思います。
道の右側をさらに進んでいきますと、そこにはJMUの正門が。
車で出勤する人も門でカードリーダーを通すようです。
自衛隊もですが、こういう企業では関係者以外の入場は厳しく制限されます。
「ものづくり日本大賞」というのは、HPによると
「新時代のものづくりに挑戦する人」
に与えられる奨励賞です。
調べてみたところこれが大変な数の受賞者で、JMUが受賞した
第7回には内閣総理大臣賞だけで7件42名。
経産大臣賞18件、特別賞15件、優秀賞18件という大盤振る舞い。
もしかしたらハズレなし?とか考えてしまったのですが、
それはともかく、JMUの受賞は
革新的構造・施工技術「構造アレスト」で実現した
安全・環境性能に優れるメガコンテナ船
に対する評価でした。
少し前まで「NYK LINE」というコンテナ船が工事中だった記憶がありますが、
それがそうで、この開発により、
「安全性能が高く、環境性能の優れた大型コンテナ船を実現した。
このことが評価され、造船業としては異例の大量受注を獲得している。」
ということです。
ここまで歩いてきたら右側に歩道がなくなってしまったので左に移動。
見えてきたぞピンクの船が。
一番最初に出現する船渠。
今は何にも行われていません。
どお〜〜〜〜〜ん(効果音)
なんとここでもONEの蛍光ピンクのコンテナを建造中だ。
これを見るに、縦にちょっとずつつ増やしていく感じで作るみたいですね。
「大和大屋根」は産業遺産に指定されたので今後も使い続けます。
以前も同じ場所から写真を撮ったことがありますが、あの時とは
カメラの性能がずいぶん違うので、細部がよくわかります。
ふと山の斜面を見ると、五重の塔があるのに気がつきました。
真言宗萬願寺というお寺の五重の塔で、夜はライトアップされるそうです。
ここの境内から見る呉港の眺めはそれは素晴らしいとか。
Googleさんはアレイからすこじまにいくにはとにかくまっすぐ行け!
とおっしゃるのでその通りにしたら道がこれしか無くなりました。
地下道だと・・・?
なんなのこれ。
ただしこの地下道、隅っこにお掃除セットが置いてあって
チリひとつなく異様に綺麗です。
というのも、ここを通る人というのはその全員がJMUの社員で、
呉駅方面から来るバスから降りると全員がここを通り、
右に曲がって出社するためだけに作られた地下道だからでした。
地上に上がってみるとそこには逆車線のバス停があるのみ。
嫌な予感がしてバス停の向こうまで行ってみたら
歩道がありませんでしたorz
なんと、徒歩ではこの道沿いに歩いていくことはできないのです。
仕方なくわたしは今まで来た道を戻り始めました。
これはバス停のベンチのサラリーローン(死語?)の宣伝ですが、
「エリース」という名前にピンと来たので写真を撮っておきました。
戻る道沿いに、これも以前一度紹介している「歴史の見える丘」、
つまり呉中の石碑的なものをまとめて置いてしまったぜ!的な
なんでもありの一角が現れます。
この慰霊碑には、終戦直後の枕崎台風、昭和42年の集中豪雨、
平成7年の水害などが全て刻まれています。
この澤原為綱翁の像のように、戦時中金属供出で像が無くなり、
台座だけになったものも、市街地から運ばれてきています。
戦後になってもう一度澤原さんの像を作るという話にはならなかったんでしょうか。
そして「戦艦大和の碑」。
海軍墓地にも壮麗な碑があるわけですが、それだけではなく
こういうところにも建ててしまうという・・。
「大和碑」の前にあるのはただし戦艦「長門」の徹甲弾です。
反対側から見た「噫戦艦大和之碑」。
なぜ「噫」が付くのかは謎です。
この碑についてはあネットに情報が出てこないのですが、
昭和44年当時、まだ生存していた旧海軍軍人や自衛隊の海将などが
地元政財界とともに発起人となって建造したらしいです。
呉軍港の造船船渠に置かれた基礎石なども、ここにまとめてあります。
読みにくいですが、明治年間に着工された船渠の礎石。
「第6工場」「明治22年起工」などの石をまとめたタワー。
このレンガは旧鎮守府開庁当時の庁舎建材、土台の縁石は
境川にかかっていた二重橋の踏み石をそのまま持ってきたそうです。
明治27年6月起工。
これらは全て海軍工廠の礎石です。
呉地方隊の通用門まで戻ってきました。
正面をバッチリ写真に撮るのは憚られたので、少し離れてから
振り向いて素早く一枚撮ったのですが、拡大してみると
警衛の自衛官たちがちゃんとこちらをチェックしていました。
さすが怪しい動きをしている怪しげな人物を見逃さない(笑)
ホテルの近くまで帰ってきて驚きました。
1時間前まで川底が見えていたのに、溢れそうに水嵩が増えてます。
一体どういう仕掛けでこんなことになったのでしょうか。
というわけで二日にわたって呉の街を歩いてみましたが、
やはり車の目線とは違う発見があり、呉の街の別の面を知った気がします。
今度はなんとかして潜水艦基地まで歩いていくぞー!
終わり。