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Channel: ネイビーブルーに恋をして
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鹿屋航空基地記念館〜復元零戦

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霧島行きを一も二もなく決めたのは、
ご案内くださった方(TOの知り合い)の、

「奥様が海軍好き(笑)なのでしたら鹿屋基地見学を
行程に入れますのでいかがですか」

というありがたいお申し出があったからです。
鹿屋基地とは昭和11年にここに海軍航空基地ができてから
継続して稼働し続け、海軍亡き後も警察予備隊、保安隊、
そして海上自衛隊が昭和29年に開隊して今日まで
ずっと現役で稼働し続けてきた航空基地です。

ここには基地資料館があり、昭和20年には特攻を出すことになった
この基地の歴史を今日に伝えています。



殺風景な基地入口。
まだこの時には季節前でしたが、構内には
たくさんの桜の木がありました。

横須賀の米軍基地となっている旧海軍基地もそうですが、
海軍は海軍徽章には錨に桜をあしらっていたこともあり、
桜の木こそ海軍のシンボル、としていたので、昔から
基地や工廠、関係各所の敷地には積極的に桜を植えたのだそうです。

その後知ったのですが、横須賀の港の海沿いに桜があるのは
「海軍の軍港」だったからということのようです。



地元出身でここに「鹿屋体育大学」を誘致した自民の大物、
二階堂進先生揮毫。



昔海軍基地、今海自基地であることを強調するため、
錨のマーク。
勿論ここは航空基地です。



ここが史料館。
前もって案内の方を頼んでおいてくださったので、
元自衛官の館員の方が説明をしてくれました。



エントランスを入ると敬礼してお迎えしてくれる特攻隊員の像。
この像を製作した福島氏は重度身体障害を持っておられますが、
国のために殉じた特攻隊員に捧げるためにその体をおして
この像を制作、完成させ、寄贈されました。



海軍式敬礼。
死に臨んで眉をきりりと絞った、若々しいその面立ち。



エントランスにはこのようなステンドグラスが場を圧するようにあります。

平山郁夫作、夕映桜島。

また平山か、などと言ってはいけません。
こういうところに飾るとなると、この大家をおいて
他に説得力のある画家は現代には(三年前に亡くなりましたが)
いない、ということだったのだと思います。たぶん。



しかし平山郁夫がステンドグラスを仕上げたわけでなく、
この原画をもとにこれは製作されました。
いや、わたしは決して平山郁夫を嫌っているわけではなく、
むしろ大好きといってもいいのですが、それにしても、
このステンドグラスとこの原画、はっきりいって

全く別物

って気がしません?
同じなのは構図だけで、原画よりむしろステンドグラスの製作に
かかった手間と創意工夫の方が称賛されるべきでは、と。

なのに、ステンドグラスの製作者は名前も出してもらえない・・・・。



エントランスのお知らせコーナー。



ついついこういうものに注目してしまうエリス中尉。
やっぱりこういうドラマティックな募集をした方が
現代の若者には受けがいいと狙ってのことでしょうか。

一人ひとりが「主役」になる場所がある

「国を護る」
という意義を強調したり、このように
若者の「自分探しの途中」への呼びかけを狙ったり。

一昔前、盛り場を歩いていたら
「兄ちゃんいいカラダしてるね」
と肩をたたいてリクルートしていたころに比べると
そのアプローチの仕方も世につれ時につれ、の感あり。

余談ですが、またつい最近
「昨今、自衛隊員はモテるらしい」
という話をあるところで聞いてしまったのですが、その人曰く

「モテます。陸自ですらモテます」

ついウケてしまいました。
陸自ですら、って(苦笑)


さて、ここの展示ですが、基本的に写真撮影禁止です。
しかし、このエントランスと復元零戦は撮っても構いません。

で、ここにこのようなものが。



おおおお、二式大艇!
知る人ぞ知る、日本海軍の傑作飛行艇。
敵にも恐れられたというあの「エミリー」が。
ガラスケースの上を見ると

「前方をご覧ください」



おおお、エミリー!エミリーではないか。

なんとここは巨大な二式大艇がどーんと展示されています。
この二式については一項を割いてまた別の日にお話しします。



丹作戦とはもともと源田実が指導したマリアナでの夜襲作戦ですが、
第二次作戦はあの宇垣纒長官の指示による特攻作戦を言います。

第二次丹作戦は、ウルシーで行われました。





このときに24機、762部隊から出撃した「銀河」。



偵察機、彩雲。
最近ふとしたきっかけで、
この時彩雲に乗って偵察をした士官搭乗員の
関係者と知り合いました。
この方についての話もそのうちする予定です。



ヘルキャットとコルセアも登場。
このとき、二式大艇5機が特攻機を誘導しました。
特攻の目的は正規空母で、一艦につき三機の突入が決められました。

丹作戦はその後4次まで計画されましたがいずれも実施ならず、
この二次作戦が唯一の実行された特攻作戦となります。



鹿屋基地生みの親、村会議員永田良吉さん。



なぜかここに貼ってある「いこい」(煙草)パッケージ。
まるでステルスのようなシェイプの日本機。
・・・ってこれ、いったい何なんです?



設立当初の鹿屋基地。



昭和21年、米軍駐留当時の鹿屋基地。
この荒廃した建物はその後修復され、現在も使用されています。

これも現在修復され、海自で使用されています。
リサイクル万歳。



何かよくわからないけど、手抜きっぽいオブジェ。
失礼ですか?

TOがやおらこれだけ写真を撮りだしたので
「なぜ?」と聞くと、
「スカイツリーのデザインした澄川さんの作品だから」

どうやらTOはスカイツリーの関係者と仕事だかなんだかで
結構仲良しみたいなんです。
で、「こんなの観ました」
と言うためだけに写真を撮っていた模様。
エリス中尉、スカイツリーには非常に否定的で、

「あのデザインはよくない」

とかねがね言ってるんだけど、伝えてくれたかしら。



さて、ここの目玉展示、復元零戦。
この丸い「空のドーム」と一緒の写真を、
皆さま一度くらいはどこかでご覧になったかもしれませんね。

右に立っているのが案内してくれた元自衛官。
このときは同行者が全員いて、

「時間の都合で1時間で回りたい。
その後昼食を食べたら
一人だけ戻ってきてその一人はゆっくり見るから」

(何を隠そうその一人とはエリス中尉である)

と言っておいたのに、こういうところの案内をする方は
ついつい熱心にいろいろと語りだしたら止まらないらしく、
わたしが次の予定を心配して
「あの、もう一時間経ちましたが大丈夫ですか」
と言うまでマイペース。

この時時間がかなり押していたのですが、それでも
同行者たちもこの復元零戦にはかなりの興味を示しました。



この零戦は、平成4年、錦江湾と吹上浜から引き揚げられた
零戦の残骸を元に、三菱重工業名古屋航空宇宙システム製作所の協力で、

鹿屋基地所属隊員が復元したもの

なのだそうです。



その復元作業の過程。



階段があるので上に上がってみました。
当時の零戦そのままなんだろうなあ。



周りの展示品は撮っちゃダメですが、
零戦は撮ってもいい、というので、
零戦を撮るついでに周りの展示品も一緒に撮ってみました。



撮ってもあまり意味はなかったですが。



下からあれこれ説明をしてくださっています。
本物の部分はあまりないので、係りの人は
本体を触りまくり。
エルロンを手でパカパカ上下させて、わたしに

「フットレバーが動いているの見えますか?」



ちゃんと写せませんでしたが、言われてみると、
フットレバーがエルロンの動きに合わせて動いています。
そう、推力伝達装置はちゃんと復元していると。



ただし、エンジンは全く再現していません。
だからもちろんこの零戦は飛べません。

エンジンもきれいに修復されています。
と言うか、修復と言っても引き上げられたのはほとんど
残骸と言うか鉄の塊みたいなものだったので、
よくぞここまで再現したなあと海上自衛隊の関係者の
熱意と努力に頭が下がります。

エンジンを付けなかったのは「付けてもどうせ飛ばせない」から。
日本の現航空法では、こういう飛行機を飛ばすことができません。
だったら見えるように外に展示しましょう、ってことでしょうか。

アメリカではレストアされた零戦が飛んでいるというのに・・・。



零戦の前部から海軍機が見えたので。



尾翼を撮るふりして展示物。
しかしあまりこれも意味がありませんでした。
(内心がっかり)



ここで、一旦昼食をとるために皆退館。
近くのホテルで食事後、わたしひとりをここに落とし、
皆は近くの滝(なんか有名な)を見物に行きました。

それもこれも「同行者がいたら自分の興味のある部分を
ゆっくり見学できないだろう」という同行者の計らい。

というか、前もって
「わたし一人で見学させてください」
って頼んでたんですけどね(爆)

帰ってきて、まず外にあった展示物を見ました。



下川万衛兵の碑。

昭和16年、零戦の飛行訓練で急回転、急降下すると
尾翼が一部剥離するということがわかり、
実用実験をしたという責任感から、横須賀航空隊隊長の
下川万衛兵が同条件での実験をした結果、
やはり急回転急降下において機体の一部が分散し、
下川機は態勢を立て直すことができず海に突入、
下川大尉は殉職・・・・・・・・

あれ?

この話、どこかで聞いたことあるぞ。



映画の「零戦燃ゆ」劇中、加山雄三扮する下川大尉が
零戦の故障により実験中殉職してしまった、という話。

あの話は実話だったのか。

あの映画は主人公が「零戦」で、その開発から敗戦の際
燃やされてしまうまでが描かれていました。
この、零戦の完成までの段階における貴重な教訓となった
下川大尉の犠牲をエピソードに選んだのは当然かもしれません。


ここには「天山」の名残りもありました。



艦上攻撃機「天山」11型のプロペラ。
鹿屋沖で漁船の網にかかったものだそうです。



その天山艦攻雷撃隊、二五四飛行隊の碑。

そう、一度このブログにも書いたことのある、
飛行隊長肥田真幸(ひださねゆき)大尉率いる天山部隊。
その隊員全員の名前が刻まれています。



生存者が故郷から持ち寄った石が
ここに名前を刻まれて納められています。

「肥田大尉の石」は特別にプレートに乗せられ、
ひときわ大きなものです。

・・・・あれ?画面右下、石が無くなっていませんか?



これは錦江湾で漁船の網にかかった零戦21型のプロペラ。



宮崎県沖で1978年に見つかった紫電改のエンジン。
源田実大佐率いる343航空隊所属のものと分かっているようです。



魚雷アソートセット。



このような説明のパネルもありました。



館内の中庭には九一式航空魚雷。
これは肥田大尉の天山も使用した(ですよね?)航空機用魚雷。
日本は魚雷を作るのが得意だったらしく、この九一式も、
酸素魚雷の九三式も、非常に完成度の高いものでした。




この鹿屋史料館は海自の基地を隣接し、
広い敷地に歴代の海自航空機を展示しています。

それについてはまた別の日に・・・・。





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