この市谷記念館、極東国際軍事裁判が行われたフロアーには
この地が士官学校であった時代からあったものや、
あるいは戦後寄贈されたものなど、
歴史的な資料が多数展示されています。
建物全体の説明を聞いた後、見学者には約20分、
これらを見る時間が与えられるのですが・・・・・。
全く時間、足りません。
一つ一つの解説を読むどころか、
わたしがとりあえずすべての展示物を写真に撮るため
ケースの前を走り回っていたところ、あっという間に時間が来て
「みなさんもうこちらに集合しています」
と呼ばれてしまう始末。
陸軍軍楽隊の制服。
いつも思うんですけど、軍楽隊の帽子についているモップみたいな、
これなんなんですかね。
管楽器の管掃除にこれの細いの使ったりしますが・・・。
サーベル、日本刀など刀の展示多数。
これはどう見ても日本の刀ではない、
とおもったら緬甸刀。
ビルマ刀です。
昭和17年、竹田宮恒徳王がタイのバンコクに出張したときに
献呈された刀だそうです。
おお、仕込み杖。
頭山満などは仕込み杖を携えていたとどこかで読んだことがあります。
出た。青竜刀。
ここにある日本刀は、仕込み杖も含めて
何も手入れしていないはずなのにピカピカで、
今でもスパスパ切れそうな光を放っていましたが、
なぜか青竜刀だけが錆びまくっていました。
やはり「刀鍛冶」が作ったりする刀は、
それだけで焼き付けなどが全くこういう刀とは違うようです。
ここには荒木貞夫大将や梅津美治郎(いずれもA級戦犯で起訴)
の愛用の刀もありました。
明治21年ごろのもの。
なんと日露役回顧写真帖、つまり
「日露戦争に出征した人たちの写真」?
まるで子供のような兵士もいますね。
前から2列目の右から5番目、
髭のえらい男前がいますが、これが「寺内校長」。
これは士官学校で教えた生徒たちでしょうか。
明治時代、士官学校を学習院の生徒が訪問したとき
その記念に撮られた写真のようです。
男前の寺内校長、ここにも健在。(前列右から5番目?)
ボタンの無い制服を着ているのが学習院生ですね。
それにしても訪問した方をこんな後ろに立たせるなんて。
当時の「軍人至上主義」が垣間見える写真です。
終戦の御聖断の瞬間。
おそらく画家は見ていたわけではないので「想像図」です。
一番左で心配そうな顔をしているのが
内閣総理大臣、鈴木貫太郎。
その二人横、海軍大臣、米内光政。
その右、外務大臣、東郷茂徳。
一人飛んで陸相、阿南惟畿。
ではないかと思われます。
勲章。
右側は勲一等旭日大綬章。
国家または公共に対し勲績ある者に授与されるものです。
歴史に残る政治家や軍人は大抵が受勲されています。
先日お話しした栗林忠道大将は、
戦後20年たった1967年に戦没者受勲をされています。
戦後初めてアメリカ人としてこれを受勲したのが、
「草鹿中将の乾杯」というエントリでお話しした
アーレイ・バーク海軍大将。
かなり激しい嫌日で侮日家であったバーク大将は、
草鹿中将と知り合っていらい熱烈な親日家に転向(笑)
戦後自衛隊の設立に多大な強力をした「恩人」となります。
多くの勲章を生前受けていたバーク大将ですが、
彼が亡くなり、棺に横たわったその体には、たったひとつ、
日本政府から送られた勲一等旭日大綬章が付けられていたそうです。
バーク大将はわかりますが、その後日本政府は
あのカーチス・ルメイにもこの勲章を与えているんですよね。
東京大空襲を指揮した「鬼畜ルメイ」。
表向きの理由は「航空自衛隊の設立に寄与」ということですが、
どうやら実際のところは当時の佐藤内閣の政治的戦略で、
アメリカとの関係に絡んだものである、という推測が大勢を占めているようです。
勿論国会を含み世論はこの叙勲に対して批判的でした。
勲一等の授与は天皇親授が通例であるはずですが、
昭和天皇はルメイへの親授を拒否されたということです。
色は鮮やかで、リボンの色も全く褪せていません。
この功に旧金鵄勲章は、今村均中将のもの。
竹田宮恒徳王の軍帽。
この方は陸軍幼年学校出で、陸大まで行かれました。
どうも血気盛んな皇族であられたようで、
日中戦線への出征を希望して周囲に止められ、
満州の騎兵隊にいるときに隊が前線に出ることになると
また周囲が呼び戻そうとするので直談判で隊に残り、
と、何かと「お騒がせ」でした。
この時初めて戦場に立ち、
「弾が飛んでくるのはあまり気持ちのいいものではなかった」
と感想を残しておられます。
・・・・まあ、普通はそうでしょうな。
竹田宮恒久王ご尊顔。
なかなか美男でいらっしゃいます。
ついでにさらに美男のご尊父、
竹田宮恒久王の軍服姿。
凛々しゅうございます。
竹田宮は大本営参謀として、
比島攻略、なんとまあガダルカナルの戦いに参加しています。
「宮田参謀」
というのが参謀としての秘匿ネームだったそうですが、
いくら名前を隠していてもそこは皇族、軍としては何とか
おとなしくしていて欲しいのに(たぶん)、
血気盛んな(笑)恒徳王、ここでも前線視察を希望したり、
危険が多いラバウル視察を(おそらく)周囲の反対を押し切り
強行したりして、周囲をハラハラさせていたそうです。
いわゆる足手ま(略)ってやつですね。
周囲の皆さんの気持ちをお察しします。
上の写真は恒徳王ご着用の陸軍副官が付ける黄色い肩章。
副官の地位というのは世間的にも軍的にも
あまり重要視されていなかったわけですが
(当ブログ『一日副官』参照)
これは王の立場を考慮したうえでの苦渋の配置だったのでは
ないでしょうか。
ところで、わたしは箱の中に入っている
「防虫剤」が気になりました。
今でも効き目は持続しているのでしょうか。
竹田宮グッズ多数。
このシナ茶碗は「カケツギ」をしている?
皇族ともなると水筒ですらこのような木箱に
恭しく納めて保存してもらえます。
これはお父上の恒久王が日露戦争に行かれたときのもの。
皇族ともなると戦地で模様入りの陶器食器で
ご飯が食べられるんですね・・・・。
おまけに大根おろし器持参とは・・・・。
まさかご自分で摩り下ろしたりなさったわけではあるまい。
これも竹田宮コレクション。
なんと、軍艦比叡の進水記念品として配られた模型。
プラスティックではありませんから「プラモ」とは言いませんが、
なにしろ組み立て式の模型です。
スクリューとか魚雷のミニチュアが真鍮で作られていて
これ、欲しい!(笑)
完成品がこれだとものすごく大きくなるので、
文鎮にするにはいかがなものかって気もしないでもないですが。
因みに比叡が進水式をしたのは1912年の11月21日。
第三次ソロモン海戦で自沈しました。
皇族の方に配られるくらいですから、限定セットだったのだと思いますが、
それにしても凝った作りですね。
これも記念品の一環で、おそらく模型の部分だと思いますが、
いったいどの部分なのかまではわからず。
比叡の軍艦プレート(っていうのかな)のミニチュア、
なぜか蓋付きの香炉(たぶん)などです。
実は恒久王、昭和15年(1940)の大観艦式の際、
昭和天皇に共俸し、お召艦だった比叡に乗艦しています。
この時の観艦式は皇紀2600年を奉祝する盛大なものでした。
この観艦式の間に光子王妃が長男を出産され、
王は艦から降りるなり初めてパパになったことを知らされています。
ちゃんと横須賀鎮守府の長官から、
竹田宮に贈った「記念品グッズ」の目録が残されていました。
これ、何人くらいが同じ記念品をもらったんでしょうね。
これは、な〜んだ。(クイズ)
これも竹田宮コレクション。
おそらくこれが何か答えられる人はいますまい。
・・・・・・いや、いるかな?
答えは機関銃の弾倉。
なんとイギリス軍のものです。
これは香港攻略、バトルオブホンコン、日本側作戦名「C作戦」
(なんちゅう安易な名前だ)で、日本軍が香港島の英軍を
わずか18日で降伏させたという大金星の記念。
開戦二日後の12月10日から始まった戦闘です。
つまり敵の落とした弾倉を拾ってきて
「記念品」としてわざわざ竹田宮に贈呈したんですね。
この戦闘についてはいろんなエピソードがあって、
ベルリンオリンピックに出た水泳選手が二人いたので、
この人たちにビクトリア湾を泳いで決死隊にさせようと
したけど、武器を背負っていたらさすがの五輪チャンピオンも
全く泳げないことがわかって断念したとか。
さぞこの二人の少尉(学徒)もホッとしたことでしょう。
にしても、オリンピック選手を決死隊にさせようとするなんぞ、
まともな人間の思いつくことではありません。
この香港攻略のあと、香港はいきなり今まで息をひそめていた
中国マフィアが大手を振って悪いことをしだしました。
また、日本軍の朝鮮人軍属が掠奪や強姦といった不法行為を行いました。
香港市民は朝鮮人軍属を
「一般の日本人よりも背が高く、日本の正規軍よりも凶暴だった」と記録している。
このため、香港市民は日本人よりも朝鮮人を激しく憎んでいたということです。
ただ、日本軍も現地民に対して犯罪行為を行なわなかったというわけではなく、
このような不法行為が起こったのは、憲兵の展開が遅れたためと見られています。
憲兵が嫌われていた、ということを前ログで書きましたが、
軍紀を粛正するという大事な役目をつかさどる機関でもあったのです。
憲兵だからといってゆめ「悪」と決めつけることはなりません。
(というこのエントリの意図はご理解くださいました?)
赤いシャツがお洒落。
肥前官軍のチョッキ、と説明在り。
薩長土肥のころの佐賀肥前軍の軍服ですね。
「勝てば官軍」のあれ・・・だったっけ?
なぜか将校用の下着までが展示されています。
今、靖国神社の遊就館では、今「大東亜戦争70年展」をやっていて
(入場無料)入るといきなり山口多聞少将の軍服が飾ってありますが、
「山口多聞って、小柄だったんだなあ」と実感します。
山口多聞に限らず、展示されている有名な軍人の軍服は
どれもこれも「わたしでも小さいんじゃあ・・・」
と心配になってしまうくらい小さく見えます。
このシャツも、一番右のサイズは38センチ(肩幅)となっていて、
全体的に皆小さかったんだなと改めて思います。
勅令の紋章。
驚くことに、手描きです。
当時、このようなカラー印刷などなかったんですね。
100年経っても印刷と違い、色鮮やかなまま。
「百年プリント」です。
・・・そういえばあのフィルム、「100年プリント」とはなんだったのか。
というわけでほとんどすべての展示品を網羅してきました。
竹田宮恒久王は、戦後すすんで皇籍を離脱し、
一般人となって、皇籍離脱金に群がってくる魑魅魍魎を退け、
スポーツの分野で関連団体の代表を多く務めました。
体育の日を制定に携わり、なんといっても
東京、札幌オリンピックを日本に招致するのに大きな力を発揮。
戦線で周りをハラハラさせた御仁が、戦後は日本のスポーツ界にとって
偉大な働きをする重要人物になったのです。
よかったよかった。
付け加えれば竹田宮の邸宅の在った土地が今の高輪プリンスホテル。
今でもその邸宅は保存されて同ホテル貴賓室となっています。
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市谷・防衛省ツアー〜竹田宮恒徳王グッズ
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