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オークランド航空博物館〜フライング・タイガース、幻の日本奇襲計画

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日中戦争の頃、宋美齢がアメリカで話をつけ、中国軍に引っ張ってきたシェンノート。
そのシェンノートが作ったフライング・タイガースについて語っています。

ここで機体の一部、このフライング・タイガースのマークをご覧ください。

このデザインは、ロイ・ウィリアムズという

ウォルト・ディズニー・スタジオのイラストレーターが

制作しました。

まったくよおっ。(笑)

いくらウォルト・ディズニーが白人至上主義で日本人を憎んでいたからとはいえ、
ミッキーマウスに旭日旗のついた日本機を殲滅させたり、こんなことに手を貸したり、
どんだけ露骨に政治というか、軍事協力してるんだよディズニー。

アメリカだって国を挙げて国の信じる正義のために戦っているのだから、
あらゆるアメリカ国内の企業体がそれに協力するのは当たり前。

だが、子供に夢を売るアニメーション映画作成会社のディズニー、てめーはダメだ。

戦後は戦後で「パール・ハーバー」みたいな馬鹿映画を巨額の製作費を投じて作るし、
この二面性があるから、ディズニー・ランドそのものやミッキーマウスの造り上げる「夢の世界」
とやらが胡散臭くてだいっっっっきらいなんだよ!

と、何度も息子をディズニーシーに連れて行ってしっかり楽しんでいるわたしが言ってみる。

思うに、子供に対して展開する世界と、現実の世界とは矛盾することが多すぎるのです。
「友達と仲良く」とか、「人をだましてはダメ」とか、そもそも「命を大事にしましょう」
なんて、いくら現実に戦争している大人が言ったって説得力もへちまも無い。



さて、このフライング・タイガースそのものについて話すと、やはり
加藤隼戦闘機隊との死闘について触れなくてはいけなくなるので、
その詳細は、いつか映画について書くときに置いておいて、ここではフライング・タイガースの
使用していた戦闘機については

●カーチス・P40C・トマホークを使用していた
●特に零戦と比べると大した性能ではなかったが、とりあえず丈夫だった
●一撃離脱法を徹底したので時には勝てた

ということだけ書いておきます。
いずれにせよ、1937年からシェンノートの結成したフライング・タイガースは、
4年後には日米間に戦争が正式に始まってしまったので、その存在理由である
「義勇軍」と言う言葉が意味をなさなくなり、軍からの解散命令が出され、
1942年7月には解散することになりました。

解散のときに、宋美齢は目の前に居並ぶ隊員たちを「フライング・タイガー・エンジェル」
と褒め称えたと言われています。

皆さん、前回からお話ししてきてこれだけのことを初めて知った方もそろそろ思いませんか?


「もしかして日米戦争って、宋美齢が煽って実現させたようなものじゃないの?」

と。

そう、わたしは、まさしくこの悪女が米国世論を焚きつけ、「日本撃つべし」
の空気をアメリカ国内で作り上げていった張本人だと思っています。

歴史の影に女あり、ではありませんが、フライングタイガースを作ったシェンノートを口説いたのは
他ならぬ宋美齢ですし、そのフライングタイガースが実は

真珠湾攻撃前に日本空襲を計画していたことがある

と言う話を知るに至っては、日米開戦は彼女の悲願であったことを確信せずにはいられません。

そう、当時シェンノート率いるフライングタイガースによる

1941年9月下旬のロッキード・ハドソン長距離爆撃機による東京、大阪の空爆計画

計画が出され、ルーズベルがこれにサインしているってご存知でしたか?
英語版のウィキペディアからです。

Chennault developed an ambitious plan
for a sneak attack on Japanese bases.

(シェンノートは日本本土への奇襲計画に対する野心を推し進めていた)

His Flying Tigers would use American bombers and American pilots,
all with Chinese markings.

(彼のフライング・タイガースは、中国軍のマークを付けながら、パイロットも爆撃機も
全てアメリカのものだった)

The U.S. military was opposed to his scheme, and kept raising obstacles,
but it was adopted by top civilian officials including Henry Morganthau
(the Secretary of the Treasury who financed China)and especially
President Roosevelt himself, who made it a high priority to keep China alive.

(米軍は彼のたくらみに否定的で反対の立場であったが、ヘンリー・モーガンソウ
(中国に出資していた会計であり秘書)を含む最高議会、そして何と言っても、
中国を優先する順位は高いとしてルーズベルト自身がこれを受け入れた)


By October, 1941, bombers and crews were on their way to China.
However the American attack never took place:
the bombers and crews arrived after Pearl Harbor
and were used for the war in Burma,
for they lacked the range to reach China.

(1941年の10月までには爆撃機とクル−は中国にむかっていた。
しかしながらアメリカの攻撃は決して起こることはなかった。
どちらもが到着したのはパールハーバーの後だったし、
それらはビルマ戦線に投入され、中国周辺に配備されることもなかった)


そう、
真珠湾の三か月前に、東京と大阪、つまり民間を奇襲することを計画していたんですよ。
シェンノートとフライングタイガースは。

この計画の出所は勿論蒋介石ということになっているようですが、
これまでのフライングタイガースと宋美齢の関係、成立の経緯を知ってしまうと
「これ絶対ダンナじゃなくて女房の要望だろ」と思えますよね。

どうしてこの空爆計画が立ち消えになったのかと言うと、
「フライング・タイガース」が集結したビルマの英空軍基地に、9月を過ぎても
肝心の爆撃機も搭乗員もたどり着けなかったからです。
そのままその年の暮れになっても届かず、そうこうしている間に、12月7日、
真珠湾に日本海軍の機動部隊が空襲をかけ、日米の戦争が始まってしまったんですね。

上の英語版のウィキでも
「クルーと爆撃機が到着したのは真珠湾の後だった」
となっています。



歴史にもしもは無いけどあえて考えてみる。

この時に計画がうまくいって、先に奇襲をかけたのが中国軍(中身はアメリカ)だったら?

「昭和16年の敗戦」という項でも書いたように、当時の日本の有識者によるシミュレーションで、
どうあっても状況は日本が負けることになっていたので、こんな形で開戦してもおそらく
戦争が長引けば日本が物量戦で敗北するという結果に変わりはなかったでしょう。

しかし、敗戦から現在に至るまで日本だけが負けたことの責任を負い咎を受け、
「侵略国」の汚名を着せられて内外から侮辱されるという結論からは少しは変わっていたのかな、
という気がしないでもありません。


カイロ会談のときには、たかだか元首婦人ごときがVIP扱い、それどころか傍からは
「男の歓心を買うことが第二の性格になった、実は冷淡な愛人タイプの女」
と観察されるまでの媚びぶりで、国家元首のおじさま方にもちやほやされ得意の絶頂であった宋美齢ですが、
その後引き立ててくれたルーズベルトが死去すると、少しずつその「ドラゴンレディ」ぶりにも
陰りが見えてきます。

蒋介石は、後任のトルーマンに、さっそく中国国内での毛沢東共産党との戦いに
アメリカの支援を取り付けようとすり寄りますが、
蒋介石にもましてやこの毒婦にもなんの思い入れもないトルーマンは
露骨にこの夫婦を胡散臭がって、遠ざけてしまいます。


このため、蒋介石の国民党は毛沢東率いる中国共産党に内戦で敗北し、
その後蒋介石夫婦は国民党と共に敗走の果て、台湾に逃げることになるわけですが、
さすがかつてのオヤジころがしの名人宋美齢も、この頃には年のせいで
効力が薄れていたんでしょうか。


さて、蛇足になりますが、最後にちょっとした「イフ」をもうひとつ。

戦後、フライング・タイガースのメンバー10人が有志となって運送会社を興しました。

「フライング・タイガー・ライン」

という会社名ですが、日本人は「フライング・タイガース航空」と呼んでいました。
この会社は在日アメリカ軍へのサービスを行っていたので、堂々と?日本に就航していたのです。

かつて日本軍と死闘を繰り広げたこの航空隊の名前を、
向こうが気を遣って少し変えているのに(笑)わだかまりなくそのまま呼び続けるのが日本人。
良くも悪くもあっさりした国民なんだなと改めて思ってしまうのですが、

1941年の秋にもしフライングタイガースの輸送が上手くいって、
幻の日本空襲が成功していたら?

「ドゥーリトル」「ルメイ」「ニミッツ」とともに「フライング・タイガース」は日本人にとって
忌むべき敵の象徴としての名前となり、戦後、さすがにお人好しの日本人にも
その名前が受け入れらることはなかったに違いありません。

「フライング・タイガース」と言う名と彼ら元隊員たち自身のその後のことだけ考えれば、
計画が潰えたことはある意味幸運だったと言えるのかもしれません。






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