先日、横須賀で防衛局主催の防衛セミナーでも結論づけられていたように、
横須賀は近代日本の技術の発祥の地であったことは誰もが知る事実です。
そしてその技術の基礎を打ち立てたのは、公式にアメリカを訪れ、
先端後術を驚くほど柔軟に吸収して持ち帰り、ついでに?アメリカ人たちに
その振る舞いと能力で驚きを与えた「最初の日本人」、遣米使節団でした。
サンフランシスコにあるメア・アイランド海軍工廠跡にある博物館は
遣米使節団の咸臨丸を受け入れ、その修理をしたという縁から、
展示の一部に「咸臨丸コーナー」を設けて、かつて日本人が何の目的で
ここにやってきて、どう振る舞い、どういう印象を与えたかを説明しています。
今日はこの展示から、ここメア・アイランド海軍工廠が
戦後遣米使節団との交流を行ってきたということをお話しします。
さて、万延元年の遣米使節団、というと世の中の人は咸臨丸、と連想します。
海上自衛隊の幹部学校長からいただいた記念メダルにも咸臨丸の姿が描かれており、
日本が外洋に出て行く姿の象徴のようになっているわけですが、
前回も少し触れたように、実は、咸臨丸というのは、あくまでも、
使節団を運んだ「ポウハタン号」の補助で付いていったというのが真実です。
世の中にはなぜかこれ(咸臨丸ばかりが持て囃されること?)を大変不満として、
「教科書から咸臨丸の名前を外せ!」
と訴えている人もいる、ということを以前ここでもお知らせしたことがありますが、
咸臨丸が兎にも角にも、初めてアメリカに渡った日本の船だったことに違いはありません。
たとえ咸臨丸の日本人船員が使い物にならなかったとしても、
日本側の「船長」だった勝海舟が船酔いでほとんどの航海中死んでいたとしても、
彼らが初めて日本から、日本の旗を揚げた咸臨丸で太平洋を横断したことは
動かしようのない歴史的事実なのです。
ゆえに、世の中の人々は、使節団の正使や首脳を乗せていた
「ポウハタン号」
を知らなくとも、咸臨丸の名前だけは知っているわけです。
当初は全く使い物にならなかった日本人船員も、アメリカ海軍軍人、
ブルック船長のご指導ご鞭撻で技術的な操船や、シーマンシップを学び、最終的には
自分達だけで全てを行うことができるようになったばかりでなく、勝海舟が創設した
海軍伝習所でそれを伝えましたし、その勝海舟もこの時の滞在で学ばなければ
その後日本で海軍を興すという大事業そのものが立ちいかなかったでしょう。
この白黒二色の三角旗は、咸臨丸に揚がっていたのと同じもの。
レプリカで、「咸臨丸子孫之会印」と印が押してあります。
ここ、メア・アイランドには咸臨丸乗員の子孫で組織された
「咸臨丸子孫の会」が訪問したことがあるのです。
この水茎も麗しい(英語にもいうのかな)筆記体で書かれたのは
当時のサンフランシスコ領事がメア・アイランド工廠に出した感謝状です。
今はこんな手書きの手紙を書くこともないのかと思われますが、
昔の領事や大使は、こういう教養も必要だったのですね。
この手紙には、咸臨丸が「ポウハタン号」のエスコートをして
最初の日本海軍の軍艦として太平洋を渡り、ここメア・アイランド海軍工廠で
修理を受けたこと(しかも工廠司令官の好意で料金は無料となった)
出航をする際に日本人を乗せた艦隊は礼砲を持って送られたこと、
日本人を迎えた最初の街として、両国の友好の扉を開けてくれたことを、
感謝している文言が連ねてあります。
この一番最後に、定型句とはいえ
「メア・アイランド海軍工廠のこれからのご発展を祈ります」
みたいなことが書いてありますが、ご存知のように
メア・アイランド海軍工廠はこのそう遠くない後、1996年に閉鎖されています。
この書簡に認められたサインから当時の日本領事である
「Yasasuke Katsuno」
という名前を検索したところ、サンフランシスコのゴールデンゲートパークにある
日本庭園に、このカツノという人が領事をしていた1953年当時、
日本から寄付された多数の灯篭を設置したという記事がかかって来ました。
咸臨丸がサンフランシスコを訪問してから93年目のことです。
きりの良い数字ではありませんが、この頃咸臨丸の渡航記念式典が行われたようです。
ちなみにこの日本の灯篭というのはは、まだ戦後の傷が癒えていない頃、
日本の子供たちに募った寄付を基金として贈られたということです。
この手紙を見てもわかるように、おそらくこのカツノさんという方は
終戦後日米の関係がやっと回復し、色々と難しかった時期の在米領事として、
ただ日米の友好を願い、そのために仕事を全うされた仕事熱心な公僕だったのでしょう。
アメリカから日本に帰国してから、咸臨丸は日本海軍の戦艦として活動しました。
1868年には戊辰戦争に投入され、新政府軍と戦っています。
この時の咸臨丸は、戦闘時の暴風雨に苦しんだ末、新政府軍に捕らえられ、
乗組員の多くは戦死、あるいは捕らえられて捕虜になっています。
以下その経緯など。
8月19日 (旧暦)、海軍副総裁榎本武揚の指揮下で、旧幕府艦隊として
江戸(品川湊)から奥羽越列藩同盟の支援に向かう。
8月23日 (旧暦)、銚子沖で暴風雨に遭い榎本艦隊とはぐれ、下田港に漂着。
救助に来た蟠竜丸と共に清水へ入港。
9月11日 (旧暦)、蟠竜丸は先に出航。
咸臨丸は修理が遅れたため新政府軍艦隊に追い付かれる。
新政府軍艦隊に敗北し、乗組員の多くは戦死または捕虜となる。
逆賊として放置された乗組員の遺体を清水次郎長が清水市築地町に埋葬。
山岡鉄舟の揮毫した墓が残っている。
次郎長親分って、本当に義侠に溢れた博徒だったんですね。
咸臨丸はその後北海道に移住する予定の藩士たちを輸送中、
台風により1871年沈没しましたが、その後も次郎長親分は
清水の寺に咸臨丸乗組員殉難碑を建立しているのです。
次郎長親分ってなんて良い奴!
咸臨丸が遭難したのは北海道の木古内町沖で、この時の沈没は
一説ではアメリカ人船長の操船ミスと言われています。
この地図は1990年1月16日に「新咸臨丸」がオランダのロッテルダムを出発し、
サンフランシスコを経由して横浜に到着するまでの航路です。
ところで新咸臨丸とはなんぞや。
調べてみたのですが、新咸臨丸という名前の学生のプロジェクトが
出てくるばかりで、この時実際に海を渡ったらしい咸臨丸が
何だったのか、ついに詳しいことはわかりませんでした。
これだけの大事業だったのに、何の資料もないというのも不思議です。
咸臨丸子孫の会が結成されたのも、この後のことだったようですし・・。
この時には領事主催で盛大な歓迎パーティがサンフランシスコで行われ、
咸臨丸乗員の子孫たちも出席したということです。
左の写真にちらっと見えている白い帽子は咸臨丸の野崎船長。
サンフランシスコでメディアに取り囲まれています。
右写真の左が野崎船長、真ん中の人は勝海舟のつもり(多分)
野崎船長の名前で検索してみると、経歴が出てきました。
ずっと「飛鳥」の船長を務めてこられた日本郵船の船乗りだったそうですが、
その記述に
90年1~4月にかけてレプリカ帆船「咸臨丸」
(小型帆船・オランダのロッテルダムにて建造)の横浜までの航海を指揮
とあります。
オランダ村がオランダの造船会社に発注したレプリカということですか。
しかし当時はバブルだったせいか、日本もすごいことをしますね。
今回も咸臨丸は航路途中でトラブルが起き、修理を要する事態になりました。
ただし今回はエンジンです。
というわけで、ホノルルに寄港し修理を行いました。
その後咸臨丸はアクシデントに見舞われつつも、
1990年4月25日、無事に横浜に到着しましたとさ。
横浜市長から花束を受け取っているのが野崎船長だろうと思われます。
そしてそれからさらに13年後の2005年、
「咸臨丸の子孫」
がアメリカを訪れた、という記事がここにあります。
「145年前、日本で最初に近代的な戦艦に乗って、
太平洋を越えた咸臨丸乗員を祖先に持つ日本人の一団が、
彼らを率いて航海を行った海軍士官、ジョン・ブルックの孫である
ジョージ・ブルック氏に謝意を表明した。
三十四名からなるその団体のほとんどは咸臨丸の子孫である。
彼らは90歳になるジョージ・ブルックに、彼の祖父の指導がなければ
おそらく彼らの祖先は生きては太平洋を渡ることはなかっただろう、
と語った。
咸臨丸は1858年の遣米使節派遣において、正式にUSS「ポウハタン」の
随伴としてアメリカに送られたものである。
「ポウハタン」はマシュー・ペリー提督の指揮下にあったこともある。
ジョージ・ブルックは、彼らにアメリカ人船員によって「引っ張られる」
日本人船長の写真を見せた。」
「日本人船長」というのが、木村摂津守のことなのか、それとも
勝海舟のことかはわかりません。
ブルック家に伝わるこの写真も世間には出回っていないようです。
「一行は1860年の祖先たちと同じコースを回った。
彼らは大阪市が1860年の訪問から100年経ったことを
を記念して寄贈したモニュメントを見学した」
「彼らはサンフランシスコ市長に宛てた横須賀と大阪市長のメッセージを携えており
日米両都市の友好を推し進めたいと語った」
「咸臨丸」ばかりが有名になってほとんど知られていない「ポウハタン」号。
「彼らはまた、サンフランシスコで客死した咸臨丸の三人の水兵の墓を訪ねた。
日本にある彼らの故郷である島から運ばれた小さな石で作られた暮石である」
石碑のお返しにサンフランシスコが日本側に送った石碑です。
目には目を。石碑には石碑を。
咸臨丸の子孫たちがメア・アイランドの博物館を訪ねた時の様子。
咸臨丸子孫の会のHPによると、この時の訪問はこう記されています。
咸臨丸サンフランシスコ入港150周年の一環として、コルマ墓地で
加州日系人慈恵会主催の記念式典が計画され、水夫子孫の出席要請があったため、そ
の時期にあわせて子孫の会のツアーを行った。
参加者16名。
29日、墓地にて慰霊祭と顕彰碑除幕式が行われ、富蔵の子孫ほか4名で除幕、
Kさんは法衣をまとって読経に加わった。
碑文の「日米親善永遠なり」は徳川家18代恒孝氏揮毫による。
またジョン万次郎ホイットフィールド記念国際草の根交流センターの
第20回日米草の根交流サミットが開催中で、その集会にも参加した。
そのほかメアアイランド史跡公園、リンカンパークの咸臨丸入港碑、
ヒルズボローさんによる市内歴史ツアーなど充実の旅だった。
遣米使節団の一員として、その後の日本にあまりに大きな功績を残した小栗忠順。
通商交渉の時にアメリカ側は彼のタフネゴシエイターぶりに驚嘆した、
と前に書いたことがありますが、百田尚樹氏の「日本国記」にはこの時のことが
小栗もまたアメリカ人たちを驚愕させていた。
実は小栗は一両小判とドル金貨の交換比率を定める為替レート交渉という
任務を負っていたのだが、造幣局において、彼はアメリカ人技師たちの前で
小判とドル金貨のそれぞれの金含有量を測ってみせる。
彼らはまず小栗が使った天秤の精密さに驚き、次に小栗の算盤による
計算の速さと正確さに舌を巻いた
(アメリカ人の筆算よりも小栗の算盤の方が何倍も速かった)。(日本国記)
と書かれています。
ちなみに「タフ・ネゴシエイター」というのは、ここメア・アイランドの
海軍工廠資料を編纂したキュレーターの文章に出てくる言葉です。
子孫のうちの一人が著した本がメア・アイランド博物館に贈呈したものです。
「幕末遣米使節 小栗忠順 従者の記録 名主 佐藤藤七の世界一周」
ジョイス・ジャイルスというのは、当博物館の館長でしょうか。
このブルーのカーディガンがジャイルスさんだと思われます。
咸臨丸と勝海舟がカットされたグラスも、日本側からジャイルス氏に贈られたもの。
咸臨丸入港150周年を記念する銘板は、サンフランシスコの
エンバーカデロ、ピア39の歩道に刻まれているそうです。
次にサンフランシスコに行ったら咸臨丸の名残を探してみるのも良いかもしれません。