岩国基地に訪問し、まず群司令との会談に続き、レクチャーを終えたのち
一旦司令に挨拶をして車に乗り込みました。
見学ツァーの最初は、岩国基地にある資料館です。
あ、ところで忘れないうちに書いておきますが、群司令との会談中、
ふと部屋の隅を見ると、以前呉地方総監伊藤海将表敬訪問の際と同じく、
何やらメモを取っている自衛官がいました。
公式の訪問ですので、そこでどんな質問が出てどんな会話になったか、
自衛隊では逐一記録に残すことになっているのは知っていましたが、
あまり変なことを言ってそれが記録として残るにはしのびず、
ちょっと緊張したことをご報告しておきます。
さて、資料館見学は岩国基地見学に必ず含まれるコースのようです。
決して大きなものではありませんが、旧軍時代の資料と自衛隊になってからの
二箇所に分かれた、非常に充実した資料館でした。
ここ岩国があの佐久間大尉の第六潜水艇殉難の地だったこともあり、
資料館の最初の部分には第六潜水艦関連の資料が展示されています。
冒頭写真は、事故後建立された慰霊碑の実物だと思われますが、
劣化しやすい材質の石碑だったらしく、文字が解読不可能になり、
その後取り替えられたためここにあるのではと思われます。
掠れて読めなくなった文字を書き起こしたパネルが横にありました。
ホランド級潜水艦を改造した第六潜水艇は、事故を起こした時、
安全上から禁止されていた「ガソリン潜行実験」の訓練を行なっていました。
このパネルには「半潜行訓練」とありますが、つまりガソリンエンジンの
煙突を海面上に突き出して潜行運転を(シュノーケル状態?)していたのです。
沈没は、何かの理由で煙突の長さ以上に艇体が沈んでしまったのに
運悪く閉鎖機構が故障していたため、手動で閉鎖するも間に合わず、
着底してしまったということになっています。
この資料館を見て初めてわたしも知ったのですが、第六潜水艇の沈没位置は
ここ岩国港の至近距離だったそうです。
岩国基地を辞去した後、わたしは車を運転して国道二号線を呉に向かいましたが、
その途中、道路脇に「第六潜水艇記念碑」の看板を見つけました。
岩国の水交会などが殉難の地を見下ろす丘に、記念碑を建てていました。
事故後潜水艇が引き揚げられ、愈々ハッチが開けられることになった時、
内部の阿鼻叫喚の様子を想像した人々は、そこに、全員が持ち場を守り、
最後まで自分の職責を全うして死んでいる潜水艇乗員の姿を見た・・・。
何度も物の本や資料で読んだこのストーリーも、遺品を目の前に
自衛官から説明されると、新たな感動と彼らへの敬意が起こらずに要られません。
実はこの呉訪問でお会いした元自衛官とも、偶然ですが第六潜水艇の話になり、
さしものわたしも知らなかったこんな話を伺いました。
「今でも海上自衛隊は『よろしい!』という言葉を使いますが、
それは第六潜水艇の事故以来海軍で使われてきた言葉なんですよ。
最初に第六潜水艇の中を確認した基地司令が、整然と持ち場で死んでいる
乗員の姿を認めたとき、滂沱の涙を流しながら敬礼しつつ
『宜しい!』と言ったのが、その最初だったそうです」
海自の「宜しい」は、例えば
「気を付け!」「敬礼!」「直れ!」
まで言った後、「よろしい!」そして「着け!」というように使います。
上から下への「グッド」という意味ではなく、ここでは
「できました!」みたいな状況で下から報告する時に使うのですが。
昔から「宜しい」は実に海軍らしい言い方だなと思っていたのですが、
第六潜水艇が「事始め」だったとは知りませんでした。
潜水艇の中にあった佐久間大尉の洗面器(真っ黒)や
副長だった?長谷川中尉の制帽の箱までが展示されています。
第六潜水艇の乗員が殉職していた位置図です。
全員が各自の持ち場にいただけでなく、そうでなかった二人は
故障箇所にいて、最後まで艇を何とかしようとしていたそうです。
佐久間艇長は最後までこの図で見る「艇長腰掛け」に座って
あの遺書を書き認めていたようですが、絶命してから落下し、
その真下の床に横たわっていた、とされています。
自筆ではなくコピーですが、佐久間大尉の遺書もありました。
これは艇内で絶命する瞬間まで書き連ねたあの遺書ではなく、
両親に向けて送られた「武人の覚悟」ではないかと思われます。
全世界にその見事な死に様を賞賛された佐久間大尉とその乗員たちですが、
事故の原因については、
「母船が異常を報告しなかったのは、日頃から佐久間大尉が
母船との打ち合わせを無視しがちで、さらに異常を報告して
何もなかった場合、佐久間艇長の怒りを買うことを恐れたから」
とか、
「佐久間大尉は過度に煙突の自動閉鎖機構を信頼していたため
禁じられていたガソリン潜行の実施を行い、しかも母船に報告していなかった」
という調査結果が出されています。
この辺は命を預かる艇長として責任を問われるべきだと思うのですが、
その従容と死に向かった姿が全てを白紙にした感があります。
岩国名産「六号煎餅」。
煎餅に潜水艦か佐久間艇長の顔が焼いてあるとか?
呉の鯛乃宮神社には第六潜水艇殉難者之碑があり、毎年、事故のあった日に
海上自衛隊主催で追悼式が行われているそうですが、平成29年度は
1日早い14日だったようです。
さて、続いてのコーナーは「予科練」です。
岩国では飛行予科練の教育が昭和16年から18年にかけて行われていました。
岩国での一期生は1,200名だったそうです。
最初に着隊して被服を支給され、憧れの「七つボタン」を受け取りますが、
「ヘエーこりゃダブダブだ服に体を合わせろ!」
「服に体を合わせろ」というのは、上から言われた言葉だそうです。
タスキをかけ、脚絆を巻いて錦帯橋まで行軍訓練(右)
座る時には膝を広げ、両手を拳にして膝に乗せる。
現在も海上自衛官は(陸海空全員かな)同じ姿勢です。
飛行服姿の記念写真(左)。
休んだ人は右端に大アップで写真が残ります。
右は宮島まで行軍した時の記念写真。
よく見ると前に鹿がいますが、皆ニコリともしておりません。
海軍兵学校の岩国分校があった時期もありました。
終戦近くなり、なぜか大量に増やされた海軍兵学校の生徒。
わたしはこの措置を、
「もう勝つことがないと戦局を冷静に判断した海軍首脳が
負けた後国を興すための人材を大量に養成しようとした」
という理由によるものと考えていますが、その是非はさておき、
いわば「疎開」状態だった岩国分校の生徒は大変だったようです。
終戦時には75期生から最後の77期生まで、
3校で1万名を超える海軍士官の卵が学んでいた。
入校式で吊る憧れの短剣は輸送途中に空襲で焼失、借り物で済まし、
純白の夏制服は緑色に染められ、酒保・甘味品もなし。
確か、食べ物もなく病気が多数発生したという話も。
兵学校で使われていた教科書が残されていたようで紹介されていました。
「ジュットランド」とありますが、これは「ユトランド沖」のことですね。
確か模型展覧会の見学の時にお話ししたと記憶しますが、第1次世界大戦で
あの「インヴィンシブル」「クリーンメアリー」などが沈んだ海戦でしたね。
物理の教科書。
「爆撃の弾道」とか、科目も実に実践的です。
物理の教科書には赤ペンで書き込んだ持ち主の計算式が・・。
予科練出身で「瑞鶴」飛行隊勤務になった人の寄贈した写真。
二列目真ん中で椅子に座っているのが士官で、その真ん中が
飛行隊長であろうと思われます。
にしても皆若いですね。
この後、構内を車で回っていて、古い建物を指さされました。
「あの入り口で撮られた有名な連合艦隊司令部の写真があります」
真珠湾攻撃の前、11月12日に作戦会議が行われた建物は
今でも岩国基地構内にあって米軍が使用しています。
前回、米海兵隊のパイロットであるブラッドとその妻に
構内を案内してもらった時、零戦の掩体壕の中を見せてもらいました。
これによると、岩国基地には零戦22型が配備されていたようです。
新聞による連載記事で、ここ岩国にあった
旧海軍第11航空廠岩国支廠を、「地下飛行機工場」について
現状(昭和62年当時)に始まり、開設に至るまでの経緯、
農家を強制的に接収し、呉の設営隊を千人投入して掘削を行い、
小・中学生まで夏休みに駆り出して作られた、ということが書かれています。
ここでは「彗星」「紫電改」などを生産していたのですが、
機体が完成する前に終戦になってしまい、結局生産するには至らなかったと。
終戦となった空廠では、進駐軍に備え証拠を隠滅する作業が行われました。
戦後の食物不足の時にはここで豚飼育が行われ、子供達には
格好の遊び場となっていたとか。
戦後トンネルが崩落仕掛けて上にあるトンネルに亀裂が走り、
放置してあるのは「行政の怠慢だ」という住民も登場します。
最後にはこの遺跡を残す地元民の声が紹介されています。
証言している人々はどちらかというとノスタルジーから「青春を懐かしんで」いるのに、
新聞は相変わらず「悪夢の遺跡、後世に残すべき」と平常運転。
海軍時代の看板がそのまま残されています。
「呉海軍施設部 岩国施設工事 藤生愛宕分遣所」
海軍空廠が建設されていた頃、呉から施設隊が派遣されていたようです。
現在の空廠の跡は、「悪夢の遺跡」として公開されることなく、
在日米軍の弾薬庫となっています。
続く。