「今日もわれ大空にあり」最終回です。
同梱されていた解説の扉絵は公開当時のプログラムの復元で、
「F104全機出動!
驚異のスピードで描く迫力と感動!」
そして、総天然色の文字がすごく目立つところに書いてあり、さらには
航空自衛隊全面協力という表示までが見られます。
続きと参りましょう。
機を降りる決心をした山崎、最後の日々に部下を一層鬼となって鍛え抜きます。
「タイガー5、お前は死んだ!」
「タイガー4、殉職!帰れ」
「タイガー3、お前も殉職!帰れ」
ただ編隊飛行しているだけなのにいつの間にか死んだ認定され、
隊長によってバンバン地上に戻されていきます。
「お前もか」
「パイロットの人権を無視しとるよ!」
「この分だとF104に乗れるのは二人、もしかしたら隊長だけかもしれんな」
「ハッハッハッハッハ」
何がおかしい小村。
最後まで食いついてきた三上一尉と隊長機。
画面は合成です。
実機を使って合成、ところどころ模型による特撮が挿入されています。
これは映画前半の訓練シーンですが、こんな風に
地上目標を攻撃する様子が描写されるのも空自としては大サービスといえましょう。
さて、厳しく錬成されたタイガー部隊が、いよいよF-104の操縦課程を受けるために
千歳に転勤する日になりました。
移動はF-86に乗って、夕刻出発、つまり夜間飛行で行うことになっています。
ところが千歳の天候は超荒れ模様。
嵐が来ているとの報告も受けています。
普通なら日を改めて明るいうちに出発、ということになろうかと思いますが、
映画ですからそうはなりません。
いかに全天候型戦闘機とはいえ、夜間嵐の日に戦闘機を飛ばすのは無謀なので、
基地司令は当然飛行中止を言い渡すのですが、隊長はきっぱりとこう言います。
「決行します!
わたしは四人に最後のはなむけをしたいんです。
それはF104のパイロットとして成長していくためにも
ぜひ必要な空への自信です。
今夜の悪天候を克服できれば、彼らはどんな状況にも
立ち向かえる確信がつかめると思うんです」
こういう科学を無視した根性論って、どうなの。
状況待ちのタイガー部隊が他のパイロットたちに
「ヒロイズムかい?やめてくれよ」
「跳べるか跳べないか判断するのも
新しいパイロットの勇気だと思うんだがな」
とか言われるシーンがありますが、全くその通り。禿げ上がるほど同意。
第四艦隊事件を旧軍軍人のくせに知らんのか隊長。
根性論で危険を回避できるのだとしたら、そもそもあなただって
戦時中に機を撃墜され、民間人の命を奪うこともなかったでしょうに。
部下に自信を与えるためといい後部座席から飛び降りて骨折したり、
貴重な搭乗員と、何億もする機体を失うかもしれない状況下に
あえて「自信をつけさせるために」飛行を強行する。
これって指揮官としてという前に、一人の社会人としてどうなの?
でもそこは映画なので、俺たち、隊長を信じてついていくZE!
という体育会的ノリで全員が同意の上、悪天候の夜間飛行が強行されることに・・。
しかしこれはクレージーシリーズ+若大将シリーズの古澤節に加え、あの須崎脚本。
こういう無茶な方向に突き進むのはある意味自然のことわりというものかもしれません。
そして案の定本人たちが苦労するのはもちろん、受け入れる方の千歳基地では
このためてんやわんやの大騒動になるのでした。
このシーケンス、画像が真っ暗で非常に見にくいので状況の推移を書き出すと、
離陸(ここの音楽は全体の中でも比較的マシ)
それを見送る隊長の妻と娘(どこから見ていたのかは謎)
千歳基地管制「瞬間最大風速15ノット、暴風雨圏内にあり」
部隊「第二進路変換点金華山へ向かう」
ブレイクした編隊、集合するも案の定風間が来なかったりする
全機で暴風圏に突っ込み散り散りに!なんとか集合することに成功
千歳着、アプローチをなんどもやり直している間に燃料がなくなってくる
「佐々、53引く28は?」
「えーとえーと」
「25!お前は父親が25の時に生まれたんだろう」
「小村、奥さんの顔を思い出せ」
「それどころじゃありません!」
「おまえの機の翼灯を由紀ちゃんだと思え!」(はい?)
「はい!」(納得してんじゃねー)
千歳上空着
地上では救急車を出し、雨の中全員が走り回る騒然とした状態
全員を着陸させているうちに案の定隊長機の燃料切れる
「燃料が切れた。滑空で着陸する」
「隊長があぶなーい!」
着陸
浜松基地で部下の報告を受ける司令
「タイガー部隊無事到着しました」
「これで連中もわかってくれただろう。山崎という男を。
そしてパイロットの根性を。よかったよかった」
よくねーよ!
着陸した飛行機を土砂降りの中誘導するために走っていく人たち、
神経をすり減らして管制指示を行う人たち・・。
そういういらん心配と勤務時間外労働を強いられる大勢の地上勤務隊員のことを
少しでも自衛隊の組織の上に立つ長ならまず考えるべきではなかったのか。
「あーえらい目にあった」( -_-)旦~ ( -_-)旦~ フゥ...
そこに辞令を持ってやって来る教官の平田昭彦(様)と田崎潤千歳基地司令。
「航空史上誰もやったことがない壮挙をやってくれてありがとう」
嫌味か。それは嫌味なのか司令。
そこで山崎隊長、おもむろに、
「実は・・」
自分がこの任務を最後に飛行機を降りることを皆に告知します。
「わたしですか!わたしのせいで飛行機を降りるんですか!」
まあ間接的にはそうかな。
君のトラウマ克服のために飛行機から飛び降りて、腰を痛めたのが理由だからね。
もちろん隊長が勝手にやったことで君には責任はありませんけどね。
「それよりみんなF104を立派に乗りこなして欲しい」
「隊長!」×4
「みんなよくやった。自信を持っていいぞ!」
明けて次の日、爽やかに晴れ渡った千歳基地。
一日待ってこの日に出発すれば、あんな苦労しなくてすんだと思うんですけどね。
山崎隊長は浜松基地に戻って地上勤務に就くため、千歳を出発します。
これから自分たちが挑戦するF-104の機上から隊長を見送るタイガーたち。
「隊長!体に気をつけてください!」
「たいちょおおおおお!」
当銀長太郎はこの後怪獣映画や時代劇のバイプレイヤーとして活動を続け、
アクション俳優として息長く、現在も後進の指導に当たっているそうです。
間接的には自分のせいで隊長のパイロット人生を終わらせた風間。
この俳優さん、結構なイケメンで、デビュー当時は加山雄三の後継者、
みたいなキャッチフレーズだったそうですが、何か深い事情がおありだったのか
5年間ほど活動したあと、映画界からは姿を消してしまいました。
この最後のシーンで、大変なことに気がつきました。
最初の回で、映画公開された1962年はまだF-104は配備されていなかった、
と書いたのですが、千歳基地にはご覧のように少なくとも10機が並んでいます。
その訳は、DVDに添えられていた解説によって判明しました。
本作の本当の撮影時期は1963年秋、公開は1964年2月29日。
つまり映画のwikiの公開年が間違っていたのです。
この画像には533番という機体番号が見えます。
最初の3機はアメリカで生産して運ばれてきたもの、そのあとの17機がノックダウン生産、
20機目以降は国内ライセンス生産ということですので、すでに三菱が
ライセンス生産した機体が千歳に配備されていたという証拠となります。
撮影時期の1963年には配備が完了し、映画に登場していた千歳基地では
第201戦闘機隊が編成され、
「F-104機種転換操縦過程(操縦者教育」
の任務を請け負っていたのでした。
平田昭彦(様)はこの教官だったという設定ですね。
ちなみに第201飛行隊は現在では戦闘機F-15J/DJの部隊であり、
愛称は「ファイティングベアーズ」、部隊マークはヒグマの横顔だそうです。
司令とともに基地を去る山崎の最後のフライトに手を振る千歳基地のみなさん。
わたし、田崎潤の左側の人が本物の千歳基地司令だと思う(笑)
これを見て思ったのですが、空自では「帽振れ」は正式な慣習ではないようですね。
パイロットとして最後の離陸を行う山崎二佐。
爆音を残して単機離陸した山崎は管制に
「限度いっぱいまで登ってみたいんですが」
と最後のささやかなわがままを。
ところが、彼のF86を、F-104の6機編隊が軽々と飛び越えていくではありませんか。
まるでミサイルのような「最後の有人戦闘機」の姿を誇示するかのように。
その未来そのものの機体、性能を目の当たりにし、
山崎は自分の時代が終わった、という寂寥と、後進を育てるという役目を
果たすことができたことに対する安堵感を感じました(たぶんね)
「ありがとう。所定の高度に降下します」
色々と突っ込ませていただきましたが、本作において、一人の飛行機乗りが機を降りる、
切ない気持ちが端的に表されているこのシーンは秀逸です。
老兵は死なず、ただ消えゆくのみ。
彼らに手を振ると、新しい任務が待っている浜松基地に向けて
山崎二佐は、F-86によるラストフライトを行うのでした。
・・年次飛行があるのでまだ本当に最後ってわけじゃないですけど。
監督こだわりの「日の丸の赤」に染められた「終」の文字が
最後に現れて映画は終わり。
歴史的な戦闘機が実際に飛ぶ姿だけでなく、当時の自衛隊の基地内の様子、
映像を見ることができるこの映画、自衛隊に関心のある方は必見です。
なんでも、最近この映画を勧めてくれた方によると、今の空自広報室では
この作品について「誰も知らなかった」ということでしたが、そう言わず、
現役の自衛官も、機会があればぜひ見ておいていただきたいと思います。
それから余談ですが、これも今回聞いたところ、この映画制作に対する
防衛庁・航空自衛隊の献身とも言える協力ぶりに、当時、
社会党が国会で噛み付いて大騒ぎしたそうです。
のみならず、当時左に傾いていた映画界は、自衛隊に協力させた映像を
「反戦」をアピールするシーンで逆説的に使ったりして防衛庁を怒らせ、
以前ここで扱った陸自のレンジャー課程を扱った映画「激闘の地平線」の時のように
武器兵器の撮影を拒否され、映画で自衛隊を扱えなくなりました。
(ゴジラ映画のぞく)
爾来何十年。
国家観はないがミリオタな当時の防衛庁長官、石破茂のほぼ唯一の功績となった
海上自衛隊協力による映画「亡国のイージス」制作まで、映画界は
防衛省の全面協力を得ることはなかったに等しく、それまでの間、本作は
最後の有人戦闘機ならぬ「最後の有戦闘機」映画
(誰が上手いこと言えと)の座にあったと言えるのかもしれません。
しかしみなさん、ご存知ですよね?
今年5月に公開の「空母いぶき」は、
海上自衛隊協力の下に撮影された久々の自衛隊もの。
すでに試写会を観てきたメディア関係の方のご報告によると、
「完全な自衛隊賛美映画」
だということです。
原作では主人公の艦長は空自出身ですし、テーマが空母なので、
おそらく「空母いぶき」が「今日もわれ大空にあり」の
「最後の有戦闘機映画」のタイトルを塗り替えることになるでしょう。
テレビ分野における「空飛ぶ広報室」の成功もあったように、
自衛隊を主人公に描くことがタブーでなくなりつつあるのは喜ばしいことです。
それから最後に。
本作が公開された1964年の10月10日、アジア圏初のオリンピックが東京で開かれ、
開会式では航空自衛隊の「ブルーインパルス」が会場上空に五輪を描きました。
この時機体に施されていた塗装は、この映画への空自の全面協力に対するお礼として、
東宝映画美術部の沼田和幸が、浜松基地を拠点としていた航空自衛隊戦技研究班
「ブルーインパルス」のためにデザインしたものです。
東宝のプレゼントしたデザインは、オリンピックイヤーの1964年より
使用機F86Fセイバーの塗装として制式採用されることになりました。
( ;∀;)イイハナシダナー
終わり。