赤煉瓦の生徒館を見学し終わった後、マイクロバスで
グラウンドをぐるっと周り、陸奥の砲台横で降りました。
これまでの何度かの経験から、このグラウンドを車で走る際には
必ず時計回りであるらしいとわかりました。
グラウンドの時計でいうと7時のところに来たとき、
「ここからの眺めが昔から有名です」
赤煉瓦の幹部候補生学校、第一術科学校校舎は、昔は
赤煉瓦の生徒館、西生徒館。
「後ろにそびえる特に突き出したような山が古鷹山です」
「こうして見るとずいぶん高いですね」
実際に見ると、20分くらいで頂上まで駆け上がるという古鷹山は
信じられないほど高く聳え立って見えますが、江田島の候補生や職員にとって、
ここへの登山は「日常」で、例えば術科学校長なども必ず週一回は登るそうです。
江田島の古鷹山からの展望 (広島2017.1.28) 登山
古鷹山登山をバーチャル体験したい方のためのビデオ。
上りはいいけど、帰りはぬかるんでたりすると怖くないですかね。
訓練として登る古鷹山登山は、一気に上まで駆け上り、
頂上で隊歌(という名の実は軍歌)を朗々と合唱するそうです。
気になるその曲とは「同期の桜」。
兵学校時代からの寒冷なので歌う曲は変わっていませんが、
「同じ兵学校の庭に咲く」の部分は
「同じ幹候補校の庭に咲く」
と変えて歌うそうです。
あまりに近くて画面に収まらなかったぜ。
さて、わたしたちがここに連れてきてもらった理由は、これ。
戦艦「陸奥」の砲塔を見学することです。
見学に備えて、砲塔にマグネットで(笑)説明が貼ってありました。
こうして見ると「陸奥」の艦体って、特に上から見ると独特ですね。
昔、大正時代の海軍兵学校の遠洋練習航海について書いたとき、
シアトル訪問の時に練習艦隊を迎えてくれたのが、
「コロラド」「メリーランド」「ウェストバージニア」
の三姉妹艦だった、ということをアルバムの記述から知りました。
実は、彼女ら三姉妹は、日本が軍縮条約後も、この「陸奥」を日本が
保有することを主張したため、対抗的に保有を主張した巨艦だったんですね。
というわけでわたしは、この練習艦体歓迎行事にアメリカがこの三姉妹を
わざわざ出してきたのは、
「絶対にこれは日本への威嚇と当てつけだ」
と推測してみたものです。(正解はわかりませんが状況証拠で)
まあとにかく「陸奥」というのは当時のビッグ7の一つだったのです。
(あとは『長門』、そして英海軍の『ネルソン』『ロドニー』)
こうして見ると、「陸奥」がもっとも活躍したのは
関東大震災の時の災害救助活動だったということになりますか。
ただ、「ビッグ7」のうちの一隻を持っているということの
抑止力という意味にはなっていたと言えるかもしれませんが。
赤字で書かれた部分は、大改装の時に砲を換装したので、
取り外された砲塔が兵学校に教材用に設置されたという記述で、
これは1934(昭和9)年のことになります。
ネットに出回っているレベルの「江田島の怪談」の一つに、
「陸奥の砲塔から暗くなると水兵がのぞいている」
とかいうのがあり、これはこの砲塔が爆沈事故から引き揚げられた
という前提だったので、微力ながら昔当ブログで
その矛盾を喝破したことがありました。
昭和9年からここにあるのだから、もし出るとすればそれは
水兵ではなく兵学校の生徒などである「はず」です。
ちなみに余談ですが、わたしがここで江田島で何の霊的な気配も感じなかった、
と書いたところ、後日知人の元自衛官が
「他のところはともかく八芳園は絶対に出る」
と確信を持って言い切っておられました。
今回の訪問では八芳園に行くことはできなかったわけですが、
同じような話を全く別の方から聞いたことがあるので、おそらく
江田島出身者でこの話に賛同する方は多いのかと思われます。
外から説明を受けていると、何とここでこんなものが出てきました。
なになに〜?もしかしてこれはっ・・・・・
「宜しければ砲塔の内部を見学していただけます」
な、なんてこった!
中に入るのにはヘルメットを被らなければならない、ってことで
わざわざ二つ用意してくれています。
わたしはこの時学校訪問なので黒のペンシルスカートスーツを着ていましたが、
歩き回ることを考え、この時にはパンプスではなく、平底の
エナメルブーツ(出るとき東京は土砂降りだったので)だったので、
何のためらいもなく砲塔の中に入らせていただきました。
わたしのことだから、たとえパンプスだったとしてもためらいなく入ったと思いますが。
砲塔の内部は非常に限られたスペースなので、一般には公開していませんが、
某社という、この砲塔を昔作った会社の社員は、ここに研修に来て
内部を見学していくのだそうです。
で、砲塔にはどうやって入るかと言いますと・・・。
垂直のラッタルを登っていって、この狭い狭いハッチから体を滑り込ませるのです。
多分、アメリカ人の半分くらいはここを潜ることすらできないでしょう。
説明してくれた方が見本として上って見せてくれています。
「手が汚れますのでこれをどうぞ」
わたしがもらったのは何も書いていないまっさらでしたが、
後からTOはこんなのを貰っていたと知りました。
わたしたちが内部に入り込む支度をしていると、学校長が
「わたしはここで待っています」
そりゃこんなところに入ったら制服のどこかに必ず白い汚れが付くだろうし。
常日頃候補生が服装容儀点検で
「埃、不備!」
とかやられているのに、偉い人が制服に汚れつけてちゃいかんわね。
目の下にずり下がりグラグラするヘルメットと軍手、という
あまりイケテナイ格好で、わたしは果敢にも砲塔内に入って行きました。
これが砲塔の内部である。
昭和9年からここにあり、海軍軍人であれば必ずこの内部で
砲術についての教育を受けたという、「陸奥」の砲塔。
昔から何の改修の手も加えていない、しかし堅牢な内部は、
錆びついた砲とその周辺機器がそのままに姿をとどめていました。
同じ砲塔のかつての姿だと思われます。
もしかしたら兵学校の教材で使われた写真でしょうか。
1、弾薬筺を上下に運ぶワイヤー
2、断薬筺のガイドレール
3、砲塔長(兵曹長または特務少尉クラス)からの伝声管
4、換装室との伝声管
5、火管灯(この白金線が切れているときは発砲しない)
6、予備弾薬筺把手
7、揚弾薬筺「あげ」「下げ」時の把手
8、装填発動機(水圧式)
9、圧搾空気圧力計
10、水圧駐退機(発射時砲身が交代するとピストンが引っ張られ砲身が後退する)
11、噴気用導管
12、噴気用圧力計
13、尾栓開閉シャフト
14、砲室内の排気ファン
15、砲側方位盤
16、砲側射手の腰掛け
17、尾栓人力開閉ハンドル
18、尾栓 19、尾栓環
20、安全柵
最後の柵は、砲員が底に落ちないためのもので、
一番砲手は砲尾に取り付けられた台座に乗り、
砲尾後方に位置し、この安全策に身を託しています。
砲の照準、発射中は砲身の上下動と共に動き、
仰角が大きいと砲室底部5メートル付近まで達することもあります。
柵などは跡形もなくなってしまっています。
もしここから撃つと、砲弾は岩国まで届くということでした。
ちなみに、弾火薬の装填動作にもっとも必要なのが経験で、これが
一番砲手(2等兵曹クラス)の腕の見せ所となります。
弾薬筺は二弾落下式で、まず砲弾を「ランマー」で装填し、そのランマーを
引き抜くとともに、自動的に四個の装薬が同時に薬室前に落下してきます。
陸奥の主砲はどの仰角でも装填が可能ですが、
不完全装填の可能性があるため、通常は7度で装填していました。
また、砲側車種は砲術学校高等科出身の上等兵曹です。
艦橋トップの方位盤射手が目標を捕捉追尾し、
その角度が砲側の受信器に送られると、基針(赤針)が動きます。
砲側射手はこれを見ながら俯仰ハンドルを操作し、砲身の不仰角を示す
追針(白針)を赤針に合致させ、しかるのち発射します。
かつて何回もこの中に見学者を招き入れたことはあるらしく、
室内に残され、すっかり古くなった説明板なども残っています。
下を覗き込むと、いわゆる「砲底」はこのようになっています。
右側のレールが弾薬筺のガイドレール。
よく見ると、鉄製のレールの内側は木でできています。
これは落下事故防止のための仕掛けで、具体的には
弾薬筺下部に鉄の爪がついていて、万が一ワイヤーが切れても
爪がバネの力で木部に食い込んで落下を防止する仕組みでした。
砲塔の後部壁と木製の周辺機器など。
もしかしたら右側の木箱が弾薬筺ではないかという気がしますが、
弾薬を上げ下ろしするのに木箱なのという疑問も。
しかし、肝心の部分以外は割と木製でできている部分が多く、
その部分は今日失われてしまったのかもしれません。
レールのような部分には墨で「砲室◯」という文字が読めます。
砲塔の壁には経年劣化でぐにゃりと歪んだラックが。
「ここに砲の中を掃除する棒が掛けてありました」
金管楽器の中を掃除する道具をクリーニングロッドと言いますが
(なぜか木管楽器の掃除をするものはスワブという)
英語ではこれもクリーニングロッドといいます。
終戦後、内部は誰かの手で内部を爆破されています。
というわけで螺旋階段を降りてきました。
ちなみにカメラは、先に上った自衛官が中から受け取って、
わたしが上り切ってから渡してくれました。
砲塔の内部を見学している時、わたしのバッグは
外にいるどなたかがずっと持っていてくれました。<(_ _)>
あ、それから内部で使っていた軍手は
「よろしければ記念にお持ち帰りください」
ということで、ありがたく頂いてまいりました。
我が家の甲板清掃に活用したいと思います。
右側の建物は妙に新しいですが、向こう側の古い砲術なんとか、
という建物は長らく何にも使われず、放置されたままです。
しかし、なぜかものすごく躯体がしっかりしていて、
倒壊の危険は全くないのでそのまま置いてあるそうです。
赤煉瓦の後ろにある古い建物も、歴史的な価値はないということで
将来取り壊すことが決定しているということでした。
兵学校時代から「表門」「正門」とされてきた桟橋。
本日江田島で行われる幹部候補生学校のA幹部卒業式でも、
卒業生たちはここから練習艦隊に乗り組み、まずは一ヶ月の
国内巡航を行うために旅立って行くでしょう。
見学の時に最後の総短艇に向けて訓練が行われていたダビッドは
あの喧騒が嘘のように静謐さをたたえています。
整然と並ぶカッター、全く同じラインを描く舫。
実に機能的で美しい光景だと思わず見とれました。
江田内に望むこの岸壁も、経年劣化によりいたるところに
崩落の危険も出てきたため、少しずつ護岸工事が行われているそうです。
手前の部分だけは最近工事がされたらしく、綺麗です。
候補生や術科学校の学生が訓練を行う練習艦が見えます。
今日の卒業式では、きっとこの練習艦の上からも卒業生に向けて
「帽振れ」が行われるのでしょう。
続く。