教育参考館の展示であと一つだけお話ししたいことがありますが、
その前に、この度の見学で見た賜餐館の写真をご紹介しておきます。
賜参館は、あくまでわたしが調べたところによるとですが、
昭和11年のご行幸(前回ご行啓と書いてしまいましたが、天皇陛下お一人だったようです)
の際の兵学校ご訪問の際、ご休憩を賜るために建てられました。
入り口に置かれた自衛隊の錨のマーク入りマット・・・欲しい。
国会図書館まで行ったとき見つけてきた資料を再掲します。
現在の写真と比べていただくと、昔は奥の壁の向こうに部屋があったらしく、
(もしかしたら控え室、あるいはちょっとしたキッチンがあったのかも)
扉があり、床は絨毯引きになっています。
天井はおそらく昔はシャンデリアの類が下がっていたらしいブラケットの
取り付け場所がありますが、自衛隊に所有が移ってから全部取り外し
無粋な蛍光灯に取り替えてしまったのだと思われます。
現在は元の雰囲気に戻されているようですが、蛍光灯は残されています。
おそらくこれはできた時のままだと思われます。
木製の窓に腰板。
ご行幸の際には前面に天鵞絨のカーテンが掛けられていたのではないでしょうか。
現在の賜餐館の状態と比べていただきたいのがここです。
陛下をお迎えするために造られたことを表すのがこの部分。
大講堂にも見られる、菊の紋を逆に彫り込んだ「玉座仕様」です。
陛下はこの前に設えられた椅子にお座りになり、
休憩、もしかしたら午餐を召し上がられたのかもしれません。
さて、教育参考館で一つだけ、皆があまり注目しない展示について
今日はお話ししたいと思います。
💮 堀内豊秋大佐の肖像画
教育参考館の第二展示室、主に昭和の軍人についての資料が並んでいるコーナーに、
メナド攻撃を行った海軍落下傘部隊の司令官であり、
デンマーク体操かをアレンジした海軍体操の生みの親だった堀内豊秋が、
落下傘を背負い、ヘルメットをかぶってこちらを見ている絵があります。
大きさは縦1.2メートル、横70センチくらい。
メナド降下作戦でカラビラン飛行場に降り立った堀内隊長の姿です。
ネットには一切上がってこないこの大きな油絵に描かれた堀内大佐は、
この写真にもうかがえる実に飄々とした表情で、軍人の肖像にしては
あまりに生き生きとした闊達な印象なのがいつも目を引きます。
前にも書いたのですが、この絵の作者はバリ在住だった画家で、
オーストラリアはウィーン生まれの
であったことがわかっています。
ストラッセルはわかっているところによると1885年生まれ。
第一次世界大戦中は戦争画家として地位を確立しています。
このハフポストの自画像には、堀内大佐の表情に通じるものがあります。
ストラッセルは絵のためにアジアなどを旅行し作品を残している画家で、
検索すれば日本で描いた歌舞伎や着物の女性の絵も見つかります。
ところで!
この記事によると確かにメナド攻撃のあった1942年、彼はバリにいたようですが、
わたしたちにとってはちょっと看過できない内容なので翻訳しておきます。
彼の代表作のほとんどはバリで製作されたものであり、
それは彼にとって魅力的な場所だったのだろうと思われる。
彼と妻は1942年初頭から1945年末までは
日本軍の占領から逃げるため、
ずっとバリの住居に隔離されていた。
およそ4年間の間彼らは他の白人を見たことがなかったが、
1945年になって日本が降伏し、AP通信の特派員に発見された。
日本軍から逃れるために終戦までの4年間、隠れ家生活をしていた?
バリで?
お断りしておきますが、メナド(現在はマナドとなっている)とバリは
別の島であり、現在でも飛行機で2時間20分の距離なのです。
しかも、堀内大佐がインドネシアにいた時期はたった3ヶ月。
それではここにある堀内大佐の絵はいつどこで描かれたものなのでしょうか。
そのことについて検証する前に、堀内大佐について書いておきます。
オランダ軍が、自分たちをインドネシアから追い出した日本軍に恨みを持ち、
報復のためにほとんど形だけの裁判で「残虐行為の責任」を堀内に負わせ、
処刑にしようとしたとき、住民は堀内司令の助命嘆願をしたといわれます。
それは占領下で堀内大佐、しいては日本軍がいかに善政を布いていたかの証明であり、
かつてここを支配していたオランダ人への住民の強い反発の表れだったと言えましょう。
日本軍が侵攻しこの地を統治して司令として任に当たった堀内大佐は、
まずオランダ軍に徴兵されていたインドネシア兵を解放し、故郷に戻らせました。
その後彼らは、あらためて日本軍に仕えるために戻ってきたのでした。
各々が故郷からの土産を携えて。
インドネシアで日本軍が歓迎されたのは堀内一人の人徳によるものではありませんが、
彼が指揮官として、そして人間としていかに公明正大に振る舞い、
戦争下の現地人にも慕われたかを表すエピソードです。
しかもそれはインドネシアだけではなく、日中戦争の間、全く同じことが
中国でも起こりました。
盧溝橋事件を発端に昭和12年7月に始まった日中戦争は、
局地紛争にとどめようとした日本政府の思惑と裏腹に中国全土に飛び火し、
抗日運動を活発化させました。
あの南京攻略から5ヶ月後、福建省厦門を占領した海軍第五艦隊の
陸戦隊司令だった堀内少佐(当時)が当地に赴任して行ったのは
荒廃した地域の復興、公正な裁判の実地、治安回復でした。
すっかり堀内に信頼を寄せた住民は、任期がきて彼が転勤することを知ると、
現地最高司令官に
「堀内少佐を留任させてほしい」
という嘆願書を提出するという異例の事態が起こりました。
その嘆願書の実物が、この堀内の肖像画の近くに展示されています。
筆跡も麗しい中国語のその嘆願書にはこんなことが書かれていました。
(本文を一部省略して掲載します)
かつてこの地は蒋介石政権による、明確な理念もなく、
ただ日本軍に抵抗するために民衆を扇動するだけの政策の影響を受け、
一家の働き手を強制的に徴兵され、献金を強要されるなど、
住民は痛ましい不幸に遭い、住処を失って郷里を離れていきました。
豊かだったこの地は廃墟と化し、とりわけ満州事変が勃発した頃は田園は荒れ果て、
家々は傾き崩れ、どこもかしこも見るに忍びない、それは酷い有様でした。
幸いなことに皇軍がこの地に上陸し、宣撫に全力を尽くしてくださったおかげで、
我々住民は産業を起こして利益を得ると同時に、初めて
それまでの弊害や住民の苦しみを取り除くことができるようになり、
日を追うごとに地方の復興も目に見えて明らかなものになり、
かつてこの地を離れていた住民も戻ってくるようになりました。
昭和14年夏に堀内部隊が本島に駐防するようになってからというもの、
産業を興して利益を得て弊害を取り除き、賞罰も分け隔てなく公正なものであり、
教育を普及し、農業を振興し、橋を改修し、道路を造り、衛生設備を整え、
すっかり荒廃しきったこの地も、ここに挙げた事柄全てにより、
ほんのわずかな期間のうちに、より豊かな地区へと変貌を遂げました。
海外在住の華僑も、家族からの近況を手紙で知る度に、故郷のこの状態は
賢明な長官の全盛のおかげなのだということを知らされております。
おかげさまをもちまして、昨年中に南洋の貿易で得た収益額、および
帰郷してきた住民の統計数は、過去10年間で最高を記録するものになりました。
しかしこのような善政良績の数々は、堀内部隊長、村松中隊長、
その他上下の士官のご一同様が住民の人心を安定させることに努力された、
その恩恵とご意向によるものであり、ご一同様が我々住民との共存共栄にご理解を示され、
我々がこんなご親切な提携や援助を頼ることができなければ、どうしてこの地が
荒廃しきった状況から復興し、日を経るにつれて豊かになっていく今日があったでしょうか。
これは文治武功(法律・制度や教育の充実により占領地域を統治する優れた武勲)
の模範というべきものであります。
「軍人頑固なること石の如し」などと申しますが、
堀内部隊長、村松中隊長、その他上下士官のご一同様が、
実によく我々住民の声に耳を傾けてくださることに感謝しております。
皆が口々に堀内部隊の労苦を厭わぬ仁政を褒め称えているのを耳にします。
これほど素晴らしい功績を挙げられた堀内大隊長ですが、
一つの部隊に長く止まることはできず、近く転勤なさるらしいと聞いております。
もしも堀内部隊長および中隊長、上下士官ご一同様に、これからも末長く
この島に駐在していただけるようにお取り計らいくだされば島民は幸福であり、
皆進んでご指導に従い、この地の様々な業務も復興することでしょう。
このような経緯から、我々は自身の良心に従って黙っていることなどできず、
物の道理も弁えぬ愚かな行いと知りつつも、あえて連盟にてこの陳情書をしたため、
ここに謹んで我々の誠の思いを述べた上、真摯に司令官閣下にお願い申し上げる次第であります。
住民一同の願いを何卒お察しいただき、今後も堀内部隊長ご一同様が本島に駐留し、
島内の治安を維持し、外敵から脅威から我々を守り、地方を防備してくださるならば、
島民全てを挙げてその指揮に従い(かつて周の召公が、甘棠ーかんとうーの木下で
民衆の声に耳を傾け、公正な善政を行ったことに感動した民衆が、
その甘棠をも大切に慈しんだという故事にあるように)心からお慕い申し上げ、
心安らかに生活し、労働を楽しみながら、東亜和平の人民となるべく努力致す所存であります。
この書をしたためるにあたり、丁寧にお願いいたしますよう心がけましたものの、
陳腐な言葉で失礼を申し上げたかもしれませんが、
ただ切に仰せをお待ち申し上げているだけではいられず、
僭越ながらこのような陳情書をお送りすることとなりました。
民国二十九年(昭和十五年)五月一日
厦門根拠地隊司令部 牧田司令官ご高覧
禾山区倉裡社誘導員 黄季通 (押印)
以下103人の連名、押印。
必死で健気な思いがあふれていて、読んでいて胸が痛くなるほどです。
念の為書いておくと、署名はもちろんのこと全員が中国人の名前です。
彼らが堀内を慕い、転勤してほしくないと一生懸命の思いでこの陳情書を出した、
その5ヶ月前に、現在の中国が糾弾するところの南京大虐殺が行われたことになりますが、
本当に南京で何十万の無辜の中国人を日本軍が殺戮したのなら、同じ中国人が
堀内と日本軍をこれだけ慕うというのは、あまりにも筋が通らなさすぎませんか。
さて、ストラッセルが描いた堀内の絵に戻りましょう。
彼が描いたのは、メナド降下作戦で地上に降り立った時の堀内の姿です。
もちろん彼はその場にいたわけではなく、その時の様子を聞き及び、
本人をモデルに想像で描き上げたのであろうことが想像されます。
おそらく画家は、日本が統治を始めてから隊長である堀内と知り合い、
大作戦を成功させた指揮官の姿を描いてみたいと思ったのでしょう。
ドイツ語のwikiがいうように、彼らが日本軍を恐れてバリに隠れていたのなら、
バリから遠いメナドにいた堀内の絵を描くということは不可能です。
それでは、悪辣な日本軍が画家を拉致でもしてきて無理やり彼に描かせたのでしょうか。
これはわたしの個人的な考えですが、ストラッセルの目を通して見た堀内には
天性の善が滲み出るような朗らかな、何にも恥じぬ明るさが見えます。
もし強制されて描いたならば、彼ほどの画家はこんな風に「敵」を描かないでしょう。
今回、日本語、英語、ドイツ語、どこを探しても、
ストラッセルと堀内の関係については探し出せませんでしたが、
おそらく彼は、堀内を描いたとき、インドネシアの古くからの伝説による
「白い布と共に天から降りてきて我々を苦しみから解放してくれた」
日本軍の司令官が、現地民に敬愛されていたことを知っていたはずです。
その後、彼は堀内大佐が占領軍によって処刑されたことを聞きおよび、
沈黙しつつも深い哀悼の誠を捧げたに違いありません。
ところで、大変気になったのですが、「堀内部隊を転勤させないでくれ」
という中国人たちの必死のお願いは結局聞き入れられたのでしょうか。
そのことを調べるため、
上原光晴著「落下傘隊長堀内海軍大佐の生涯」
を読んでみたところ、ただこのようにありました。
「住民は堀内の軍政を讃えて、昭和15年10月、「去思碑」を建てた。
この記念碑建立には、百八人の中国人が寄付金を出している。
『おれは原住民にもてるんだよ』
うれしそうに言って、堀内は持ち帰った碑文の掛け軸を妻に見せた」
つまり、嘆願書は聞き入れられず、堀内の転勤が決まったので、住民は
せめてもと彼の徳を讃える碑を建てた、と言うことになります。
戦後、兵学校出身の作家が現地にこの碑を探しにいったそうですが、
もちろんのこと新体制となった中国では、日本軍人の功を讃える碑など、
早々に処分されたと見え、見つけることはできなかったということです。