Quantcast
Channel: ネイビーブルーに恋をして
Viewing all articles
Browse latest Browse all 2816

「モラルはスカイハイ」戦後からペルシャ湾までの掃海〜海上自衛隊呉史料館展示より

$
0
0

幹部候補生学校卒業式に伴う研修行事で、掃海母艦「ぶんご」見学の後、
バスに乗り込んだら、行き先は「てつのくじら館」でした。

「てつのくじら館」、正式名称海上自衛隊呉史料館、もちろんわたしは
ここに数え切れないほど来ているのですが、こういう研修で
案内がフルで付くタイプの見学は考えたら初めてのことです。

案内役は史料館常駐らしい制服自衛官が一人だけでしたが、
わたしたちには海幕から総務課の一個連隊が護衛に付いており、
しかも海将補、一佐、二佐、海曹長いう陣容なので、
ある程度のことであれば、近くにいる誰に聞いても答えが得られる、
という至れり尽くせりな見学となりました。

最初に案内の自衛官が挨拶のあと、このように始めました。

「ここ海上自衛隊呉史料館は全国で五箇所ある自衛隊史料館の一つです」

ほー、自衛隊史料館って5つもあったのか。

「他に行かれた方、おられますか?・・・おられませんか?
海上自衛隊はここと佐世保のセイルタワー、鹿屋にもあります」

そういえばどちらも行ったことあったわね。

「陸自は朝霞に『りっくんランド』という名称のもの、
空自はエアーパークといい浜松に航空博物館を持っています」

これ、どちらも行ったことが・・・
うおっ、ということは、いつの間にか全史料館踏破していたのかわたし。
軽く驚きながら、見学開始です。

呉資料館一階には海上自衛隊の歩みについての展示があります。

右から順番に、

戦前:海上防衛の根拠地となった呉

1948年:戦後、すぐに旧海軍軍人による掃海が始まる

1954年:掃海作業の延長上に生まれた海上警備隊が海上自衛隊へと

1976年:数次の防衛力整備を経て世界有数の海軍となる

201X年:あらゆる事態に即応できる防衛力の構築

というタイムゾーンで分けられていますが、1976年と201X年
何があったのか、調べてもわかりませんでした。

二階に上がっていくと、掃海の歴史から始まります。

終戦、日本が復興を遂げるには、とにかく日本列島の周りに
敵味方で敷設しまくった機雷を除去し、航路啓開することが必須でした。

1947年までの掃海は、生き残った海軍の木造船を流用して行われました。
掃海用の設備も何もない船で、全ての作業を人力で行なっていたといいます。

日本軍の敷設した機雷は構造もわかっているし、簡単な仕組みでしたが、
米軍がB-29から撒いた機雷は処分が難しく、(複合機雷まであった)
掃海隊は有効な対処法を持ちませんでした。

これは、昭和20年9月19日の日付、海軍の名前で出された通達です。
宛先は呉鎮守府長官となっており、目を引くのは

「81部隊 第8特攻部隊」

への下命であると書かれていることです。
呉鎮守府長官から所属掃海部隊に「エリソン」号に乗ってどこからどこまで
掃海をさせるように、と下命する通達のようです。

戦後掃海に投入された掃海艇「桑栄丸」(そうえいまる)は、
米軍の機雷の有無を確認するために、危険海域を航走、すなわち

「特攻掃海」

を実施しました。
総会に参加した他の4隻とともに、彼女らは

「モルモット船」(米軍は”guinea pig ship")

と呼ばれていたそうです。

4隻の「試航船」は、乗員を保護するための緩衝材をつけるなど、
改装を施して、このような航路を航行しました。
機雷があれば爆発し、自らが巻き込まれることになるのですが、
命じる方も命じられる方も、そのことについてどう認識していたのでしょうか。

 

掃海は元山(韓国)沖でも行われています。

日本近海の掃海に当たっていた隊員たちが、朝鮮戦争勃発後、
マッカーサーの命を受けて

「日本特別掃海隊」

という名称で朝鮮半島の掃海に派遣されることになったのです。

水交会が発行した

「海上自衛隊 苦心の足跡 掃海」

には、大東亜戦争を幾多の危険からくぐり抜けて生還し、
日本の再興に邁進している元軍人たちに今になって招集をかけ、
戦地に、しかも海外の戦争に部下を投入させねばならない指揮官の苦悩、
隊員たちの遣る瀬無さを証言する記録が掲載されています。

そんな彼らが自らを奮い立たせるために口々に言い合ったのは、

「我が国は講和条約前であり、無条件降伏したこの日本の将来を
少しでも明るくするには、連合国の心証を良くすることが必要だ」

というどこからともなく出てきたこんな言葉だったそうです。

これは、「桑栄丸」船長に渡された給与支払いについての通達です。

「桑栄丸」は、同時に任務に当たった4隻の中で最も長期間、
海上自衛隊が誕生した時にも唯一の掃海艇として活動していました。

海上自衛隊への改編当時、掃海艇の艦種は「GP」でした。
モルモットを意味する「ギニー・ピッグ」の頭文字です。

召集された掃海隊員たちは、昭和25年10月のある日、船団を組み、
行き先も知らされないまま米軍の駆逐艦に護衛されて出航しました。

対馬沖航行中、彼らは自分の行き先が朝鮮半島であることを聞かされます。

元山での掃海任務を終えて下関・唐戸に寄稿してきた特別掃海隊の船です。

この掃海活動では、先発隊が拡大掃海中の10月17日午後3時21分、
MS14号艇が触角機雷に触雷、瞬時にして沈没し、死者1名、
負傷者18名の被害を出しており、また米軍の掃海艇も2隻触雷轟沈しています。

特別掃海隊が、中国軍が南下してきたという報を受けて元山を撤退したのは12月初旬。
写真に見える艦体のどす黒い汚れが、彼らが脱してきたばかりの
戦地での極限状況を物語っています。

旧海軍軍人たちが朝鮮戦争にこのような形で参加したことは、
当時も政治問題になる動きを見せましたが、占領命令第二号の

「忠実なる履行義務のため日本側は(米軍に)責任を追及できない」

から、結局問題は提起されず、そのまま歴史の影に埋もれていきました。

そして、掃海隊員たちは、サイレントネイビーとして、
殉職した隊員の遺族たちもまた戦後沈黙を守り通したのです。

 

掃海母艦内でのレクチャーが済んだ後の質問タイムで、同行した人が
全く掃海隊に関係のない質問を始めたので、空気読んだわたしは、

「一番最近の機雷処理はいつでしたか」

とお節介ながら掃海活動に話題を軌道修正させていただきました。

なぜ一介の参加者に過ぎないわたしが気を遣わなければいけないかって話ですが、
それはともかく、答えは、この表の一番下、

「平成26年度の関門海峡での機雷処理が一番最近の事例」

ということでした。

まだ297個の機雷が日本近海に埋まっているということになります。

 

その後、アメリカ軍の輸送艇をもらい受け改装を施した
自衛隊初の掃海母艦「なさみ」「みほ」が就役しました。

この後運用した掃海母艦「はやとも」も米陸軍の揚陸艦です。

国産初の掃海母艦となったのは、現在、金刀比羅神宮におわす
掃海隊殉職者碑の同じ敷地にその錨が置かれている「はやせ」です。

戦後掃海の歴史コーナーを抜けると、近年の機雷が展示されています。
我が海上自衛隊にとっては、ペルシャ湾で死闘を繰り広げた「敵」でもあります。


先日映画「ハンターキラー」を観て、潜水艦映画には機雷が切っても切れない、
ということを再確認したばかりですが、この呉資料館の展示が
掃海と潜水艦をフィーチャーしているのも理由あってのことだと思いました。

海中に浮遊する触角を持つ機雷が仕掛けられている状態を表しています。

これら発火方式による機雷は、大きく直接船殻に触れて爆発するタイプと、
艦船の磁気や振動を感知するタイプの二つに分けられます。

中でも触角の衝撃で化学反応を起こし発火するタイプは寿命も長いのだとか。
近年、センサーの省電力化によって機雷の寿命は伸びつつあります。

ペルシャ湾掃海で我が掃海部隊が掃討したという機雷。
この安定の良さは鎮定機雷でしょうか。

これらもペルシャ湾の機雷。
左はイタリア製の「マンタ機雷」、右はロシア製「udm機雷」です。
色は・・・後から塗ったんだと思います(困惑)

Botom mine(沈底機雷)はいわば海底の地雷。(ground mine)

60mより浅い海底に、対潜の場合は約20d0m以下の水深に使用されます。
探知するのが難しく、係維機雷よりも大きな弾頭を使用できるので
掃海部隊にとっては厄介な相手です。

掃海艇を見学すると黄色い掃討具を見ることができますが、
それらはS-10や PAP−104などの水中航走式掃討具です。

そういえば、この見学の時に、TOが急に

「掃海と掃討の違いって何?」

と初心者にしては結構核心をついた質問をしてきたのですが、
掃海は海中の機雷をお掃除して海を啓開することであり、掃討とは
掃海の一方法であり、機雷そのものを爆破させて処理する方法、
と答えたのにもかかわらず、満足せずに自衛官に同じことを聞いていました。

何が不満なのじゃー!

という話はともかく、これは現行のS-10に至るまでのS-4です。

このSが「そうかい」の頭文字であることを、案外自衛官は知らなかったりします。
(個人の体験に基づく情報です)

先ほど掃海母艦「ぶんご」艦上で見てきたのと同じ巨大なリールがここにも。

ここには、掃海艇「ははじま」一隻をほぼまるまる分解して、その構造物、
掃海具、キールをスライスしたものまでが展示されています。

はいこちらキールのスライス一丁。

呉史料館は潜水艦「あきしお」まるまる全部が展示されていることで有名ですが、
その「あきしお」に当たるのが「ははじま」です。

掃海艇外いた部分の断面構造模型(本物?)。

触雷の原因になる磁気を帯びないように、全ての素材が木材です。
最近はこれが全てFRP素材に置き換えられています。

リールに巻かれた掃海用の係維の構造を見ることができる貴重な展示。
「フジクラ」って、もしかしてパラシュートの藤倉航装と関係あります?

と思って調べたら、まさにそのものズバリ関連会社でした。
フジクラそのものはワイヤーなどを専門に製造するメーカーで、
住友・古河電工とともに電線御三家(そんな御三家があったのね)の一つです。

こちらも「ははじま」で係維掃海に用いられたカッターなど。
カッターを掃海艇から引っ張り、機雷の係維を切り、機雷を浮かせて掃討します。

「ははじま」の後甲板にあった、係維掃海具の巻上げ機操作スタンド。
この一面全体が、ほぼ掃海艇と同じ大きさのスペースになっていて、そこに
元あった姿にほぼ忠実な配列でこれらのもの展示されているのです。

こちらは水中航走掃討具に繋がっている電線を巻き上げるリールを操作するスタンド。

今でも掃海艇の上に装備されているバルカン銃が台座とともに。
この銃は敵ではなく(そのように使われることも想定しているでしょうが)
係維機雷をカッターで切り離し、浮いてきたものを撃って掃討するためのものです。

 

掃海コーナーの一面には、ペルシャ湾掃海の時の写真などが展示されています。

左の写真は貴重ですね。掃討具S-4mに爆雷を搭載しているところです。

この掃海は、海上自衛隊発足後初めての「作戦準備」、帝国海軍で言うところの
「出師準備」が実施されたという意味で歴史的な意味を持っています。

何もかもが戦後初めてだったため、派遣準備の段階で海上自衛隊関係者は
試行錯誤の困難を一つ一つ解決しながらことを運んでいったとされます。


その余波は隊員の家族にも及びました。
実際に出航日が決まると、部隊の出航に合わせて、呉では初めて

「自隊警備第1配備」

が下令され、呉地方隊の全ての部隊、そして官舎までが深夜含め24時間体制で
警戒体制下に置かれて、自衛官の夫人たちは交代で当直に当たったということです。

そして平成3年4月26日、出国行事に続き、掃海母艦「はやせ」と「ゆりしま」が出航。

ペルシャ湾で処分された機雷の破片。

ペルシャ湾における海上自衛隊の掃海活動ををレンズにとらえ続けたニコンのカメラ。

この派遣については様々なところで語られていますし、
当ブログも何度かお話ししているのでここでは省略しますが、
「苦心の足跡 掃海」の記録から、この二つだけ書いておきます。
まず、掃海隊がペルシャ湾に到着したとき、各国海軍が   「よくこんな小さな船でここまでやってきたな!」   と驚愕したこと。
二つ目は、中央軍海軍司令官であるアメリカ海軍少将が

「海上自衛隊掃海部隊のモラルは”スカイハイ”(天井知らず)だ」   と賞賛したことです。   ペルシャ湾派遣部隊が、世界の海軍の中での海上自衛隊の技術の高さだけでなく、
日本そのものの評価を高めてくれたことに感謝するしかありません。       続く。        

Viewing all articles
Browse latest Browse all 2816

Trending Articles



<script src="https://jsc.adskeeper.com/r/s/rssing.com.1596347.js" async> </script>