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橘花と燕(メッサーシュミットMe262)〜スミソニアン航空宇宙博物館

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 世界の航空博物館数あれど、旧日本軍の軍用機をこれほど数多く、
しかも完璧な状態にそのほとんどを修復して後世に残してくれている
博物館は、ここスミソニアン航空宇宙博物館の別館、正式名
スティーブン・F・ウドヴァーヘイジーセンターをおいてないでしょう。

ただし、完全な姿で見つからなかったものについては、
修復をあえてせずそのままの形で展示されていたりします。

この写真の中心になっているのは海軍の水上攻撃機「晴嵐」M6A1 、
その右側が川崎の「紫電改」ですが、「晴嵐」の翼の下にあるのは
キ45改「屠龍」の胴体で、取得されたそのままの状態。

「晴嵐」の尻尾の下に見えているのが今日取り上げる「橘花」です。

この「橘花」の置き場所がものすごく微妙で、どこに立っても
必ず何かの陰になってしまうので、写真を撮るのに苦労しました。
この写真では「紫電改」の向こう側にひっそりと見えています。

ちなみに、右側に黄色い台の上に見えている車輪はB-29、
スーパーフォートレス「エノラ・ゲイ」のものです。

「晴嵐」のフロート越しに見る「橘花」。

「橘花」を現地の説明では「オレンジブロッサム」と翻訳していました。
柑橘、の「橘」であり、日本ではみかんなどの木の総称としても「橘」が使われます。

正確には「ヤマトタチバナ」「ニッポンタチバナ」という
日本固有の種目で、みかんのような実が成ります。
日常的に生垣などから生い茂って実をつけているのを見ますが、
人に盗られたりカラスがついばんだりしないのは、実は酸っぱく、
とても生食には向いていないからなんだそうです。

というわけで「橘花」は正確には「オレンジの花」ではないのですが、
わざわざこういう翻訳をして紹介する意図はなんだったのでしょうか。


英語圏の戦闘機の名前は一般的に猛禽類や猛獣、剣の別名などがよく使われます。
そのものの「ラプター(猛禽類)」の他には「ヘルキャット」、
「コルセア」(私掠海賊)「カットラス」(海賊の刀)「バッファロー」
イギリスの「デーモン」、アメリカには「ファントム」など、
そのものに力があり、相手を威嚇するような強い動物や想像上の存在など、
何れにしても花の名前を選ぶのは少数派ということができるでしょう。

しつこいようですが、紹介の説明板の前に立っても、肝心の本体が
どこにあるのかすぐにわかる人はあまりいないでしょう。
ここからも、しゃがんで姿勢を低くし、「晴嵐」越しに見るしかないのです。

おそらくわたしのように日本機に特別な興味を持って来る見学者以外は、
「橘花」の存在を確かめることなく通り過ぎてしまうでしょう。

「橘花」の全体像がちゃんと見えるのは、逆側のこの角度だけです。
(しかしそこでは機体が何か確かめるすべがないという・・・・)

「橘花」の現地の説明を読むと、まずこうあります。

中島 「橘花」(オレンジブロッサム)

中島「橘花」は、第二次世界大戦における唯一自力発進が可能だったジェット機です。

capable of taking off under its own power. 
とあるのでこのように翻訳してみたものの、ジェット推進の「秋水」も、
一応自力でテイクオフできていたはずなので、この書き方にはちょっと疑問です。

ドイツがジェット推進のメッサーシュミットMe262戦闘機の試験を始めた頃、
日本は空軍の武官をドイツに派遣し、いくつかの航空実験を目撃しました。

正確には日本海軍、空技廠の武官ですが、当時は空軍のなかったアメリカでも、
航空に関わる軍事のことを「空軍」というので別に間違いではありません。

がしかし、

彼の作成した熱狂的なレポートに着想を得て、日本海軍の関係者は
Me262をベースにした双発ジェットエンジンで単座の攻撃機を
1944年に開発しました。

「熱狂的にレポートを作成した空技廠の武官」というのが誰なのか、
こうなるとぜひ知りたいところですが、日本側の記述によると
これは少し違っていて、本当のところはこのようなものです。

燃料事情が悪くなった日本では、低質燃料、潤滑油でも稼働する
高性能なジェットエンジンの開発が喫緊の課題となっていました。

そのとき同盟国ドイツに駐在していた陸海軍の将校と技術者が、
メッサーシュミット Me262の技術資料を、日本側の
哨戒艇用のディーゼルエンジンの技術と交換することを決めたのです。

ここに、ドイツの技術が欲しい日本と、日本の植民地などで入手できる
車両や航空機制作に必要な原材料が欲しいドイツの利害関係が一致し、
シンガポールなどの中継地からドイツとの間に潜水艦を往復させる

「遣独潜水艦作戦」

が5次にわたり実施されることになりました。

しかし、その4回目の遣独作戦でMe262の資料を搭載した潜水艦は、
パシー海峡でアメリカ海軍の潜水艦に撃沈されてしまったのです。



この時、シンガポールで潜水艦を降りて輸送機に乗り換え命拾いをした
巌谷英一技術中佐は辛うじて資料を日本に持ち帰っています。

ただし、巌谷中佐が持ち帰った資料は本当にごく一部に過ぎず、
肝心のエンジンの心臓部分、そして機体のほとんどの情報は失われたため、
結局ほとんどが日本独自の開発になりました。

機体の形がうっすらとMe262に似ているのは、おそらく
記憶スケッチで設計したからだと思います。


しかしスミソニアンではそこまで情報を精査していないらしく、
ただ、「橘花」はドイツの技術を取り入れて作った、という前提で、
さらに、こんなことまで・・・。

スペックは幾分ドイツの戦闘機よりも厳密さに欠けます。
レンジは500kgの爆弾を搭載した時で205km 、250kg爆弾搭載時で278km。
最高速度はたった696kph、着陸時速度は148kph、
ロケット補助システムによって離陸時には最大速度時速350mでした。

躯体はメッサーシュミットの設計より少し短いものでした。

だから機体もエンジンもドイツの技術じゃないと何度言ったら(略)

スミソニアンが橘花を「オレンジブロッサム」とわざわざ英訳し、
機体の紹介に付け加えたのには、ある印象が込められていたとわたしは考えます。

散りゆく花を日本人が航空機の名前に選ぶとき、そこには
最初から特攻兵器として生産された「桜花」がそうであったように、
機体を特攻に投入するつもりがあったに違いないという先入観です。

果たしてそれは正しかったでしょうか。

「橘花」は終戦の詔勅の8日前の8月7日、松の根油を含む低質油を積んで
12分間だけ空を飛ぶことに成功しました。
これが日本でジェット機が初めて空を飛んだ瞬間です。

2回目の実験で離陸中に滑走路をオーバーランして擱座し、
破損した機体を修理中、終戦を迎えてしまいました。

終戦の知らせを受けた工場作業員によって即座に操縦席が破壊されましたが、
研究用に接収しようとした進駐軍の命令によって、彼らは
自分で壊した部分を修理させられることになりました。

ここにある「橘花」の由来については詳しくはわかっていませんが、
何れにしてもその時接収されたものに違いありません。


さて、「橘花」が特攻兵器になった可能性についてです。

「橘花」のエンジンを艤装した技術者は「これは特攻兵器ではない」
としていましたが、もし終戦がもう少し遅く、計画通り数十機が量産されていたら、
熟練パイロットがほとんど残っていなかったあの頃、やはり
ジェット機「橘花」は体当たりをするしかなかったのではないでしょうか。

スミソニアンもおそらくそう考えていたのでしょう。

さて、結果的にそうはなりませんでしたが、日本海軍が設計図を手に入れ、
同じものを作ろうとしたメッサーシュミットのMe 262は、スミソニアンの
本館の方で見ることができます。

Messerschmtt Me 262 A-1A SCHWALBE

ニックネームは「シュワルベ」=燕。
メッサーシュミットMe 262は第二次世界大戦の世界の全ての戦闘機を
はるかに凌駕する性能を持っていました。

時速190キロメートルでアメリカ軍のP-51マスタングより速く、
戦争の初期に落ち込んでいたルフトヴァッフェの優位性を
わずかな期間とはいえ取り戻す役割を果たしたとまでいわれています。

Me 262は第二次世界大戦の終結の年に1442機生産され、
そのうち戦闘に上ったのはわずか約300機だけ、その他のほとんどは
訓練事故や連合軍の爆撃によって破壊されました。

Me 262がいかに性能において優位性に立っていたとしても、
すでにその頃には連合軍が絶対的な航空力において制空権を取っており、
パワーバランスはその優位性を相殺してもお釣りがくるほどだったのです。

つまりこのことは、いかに革命的な戦闘機をもってしても、それだけでは
不利な戦局を挽回するほどの力はないことを証明することになりました。

ミュージアムに展示されているMe262A-1aのコクピット。

メッサーシュミットの工場が爆撃された後、技術者と工員は
Me262の機体を森を切り開いたところで組み立て、
アウトバーンをタキシングして輸送し、部隊に配達したそうです。

最初にメッサーシュミット社に栄誉をもたらしたのは、
メッサーシュミットBf109という飛行機でした。

1936年から1945年にかけて、メッサーシュミット社は
7種類、合計3万3千機の航空機を生産しています。

テストパイロットフリッツ・ヴェンデルに話しかける
ヴィルヘルム・”ウィリー”・メッサーシュミット教授。

彼は第二次世界大戦期で最も有名なドイツの航空機設計者でした。
彼の会社はルフトヴァッフェにとって最高の航空機を生み出しましたが、
それがこのMe262とメッサーシュミットBf109です。

1898年生まれの彼は、航空の世界の初期に彗星のように現れ、
56年の生涯を通じて航空機に携わり、仕事を愛し続けました。

優れたエンジニアであったのみならず、指導者としても傑出しており、
部下の能力を最大限に引き出して最高の結果を得ることができた彼ですが、
バトル・オブ・ブリテンでBf109が爆撃機の護衛に失敗してからは
ナチの指導者たちは露骨に彼を批判するようになったということです。

尾翼に鉤十字、胴体に鉄十字をつけて離陸するMe262。
ランディングギアに三輪をつけるというアイデアは今ではよくありますが、
実際に採用されたのはこの機体が初めてでした。

世界中の博物館に現存しているMe 262は9機だけです。

ここにある機体はJagdgeschwader(ヤークシュワーダー)7、
有名な第7戦闘飛行隊が使ったものです。

記録によるとこのシュワルベのパイロット、ハインツ・アルノルドは
ソ連軍のピストンエンジン戦闘機を42機、アメリカの爆撃機と戦闘機を
7機撃墜したということです。

「注意! 鼻車輪を引きずらないでください」

とあります。鼻車輪ってなんだ?

第二次世界大戦中、アメリカ陸軍航空諜報部隊はヨーロッパにチームを派遣し、
敵の航空機、技術的および科学的な報告書、研究施設、そして
米国で研究するための武器を入手していました。

ドイツが降伏すると、「オペレーション・ラスティ」(元気作戦?)
としてドイツの科学文書、研究施設、および航空機を接収して研究を行う
チームが派遣されますが、その一つのチームは「ワトソンの魔法使いたち」といい、
元テストパイロットだったハロルド・E・ワトソン大佐の指導の下、
アメリカでのさらなる調査のために敵の航空機と武器を集めまくりました。

パイロット、エンジニア、整備士からなるワトソンのチームは
 "ブラックリスト"を使って航空機を集めました。
強制収用所との二択でルフトヴァッフェのテストパイロットを脅し、
米軍に雇い入れる、というようなあくどいこともやっています。

Me 262も彼の部下によって集められた飛行機の一つで、これに
「Marge」と命名し、パイロットは後に "Lady Jess IV"と改名したそうです。

マージからレディに昇格させたい何かをパイロットは感じたのでしょうか。

 右下の写真では「マージ」が高速低空飛行で「飛ばされて」いるところ。

機体は当時と同じ迷彩に塗装され、第7航空団のマーク
(犬かな)が鮮やかに書き込まれています。

「橘花」とMe262。

ドイツの名機と、同じものを作り出そうとして、諸事情から
劣化コピーのようになってしまった日本のジェット戦闘機は、
そのあだ名を合わせると「橘花と燕」です。


5月から6月にかけて咲く橘の白い花に燕。
まるで日本画の題材になりそうな光景が浮かんでくるではありませんか。

 

 

続く。


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