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できる子フォッケウルフと偵察機アラドの無念〜スミソニアン博物館

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ワシントン・ダレス空港近くにあるスミソニアン博物館別館、
スティーブン・F・ウドヴァーヘイジーセンターの航空機展示で、
おそらく多くのアメリカ人は、第二次世界大戦中の帝国日本軍と、
ナチスドイツの軍用機に大いに興味を持つことと思われます。

ドイツ軍機は、通路を挟んで日本軍機と並べて展示されています。

スミソニアンを訪れる日本人は、誰しも大なり小なり、ここに来て
自国には現存していない自分の国のかつての軍機を生まれて初めて見ることに
非常に複雑な思いを抱くものだと思うのですが、ドイツ人はどうなのでしょう。

そんなことを考えながら、ここからはドイツ軍の航空機を紹介していきます。

フォッケウルフ190Focke-Wulf Fw 190 F-8/R1

テストパイロットでもあった設計者クルト・タンクによってデザインされた、
ビュルガーWürger(百舌)と呼ばれるFw 190は1941年に就役し、
第二次世界大戦中はスピットファイアや米軍機を実戦で圧倒する名機でした。

 

ラジアルエンジンを搭載したドイツで唯一のシングルシート戦闘機で、
電動ランディングギアとフラップを装備していたことでも唯一です。
低高度で高性能を発揮することができ、さらには機体が頑丈だったため、
爆撃任務に向かうとき同機の掩護につけられたF型、G型フォッケウルフの搭乗員は

「あっちのが性能いいし掩護の意味なくね?」

とぼやいていたとかなんとか。

連合国側の戦後の調査による評価も、

「第二次世界大戦時におけるドイツ最良の戦闘機」

とべた褒めというようなものでした。
イギリス空軍では、このとてつもなく強い戦闘機の秘密解明のため、
「オペレーション・エアシーフ(空の泥棒作戦)」を計画、なんとかして
190を盗みだしたる!とまで思いつめていたのですが、なんたる棚ボタ、
飛んで火に入る夏の虫。

ある日、ルフトバッフェのファーベル大尉という、ドイツ人にしては緊張感のない
パイロットが(個人の印象です)間違えて英空軍基地に降りてしまいました。
ご丁寧に、ピカピカの出来立てほやほや工場直送の機体で。

喜び勇んで鹵獲した190を操縦したロイヤルエアフォース、驚いたね。

内部が広く、コクピットの配列はドイツ人らしく機能的で完璧、
上昇性能、効果性能、速度、横転速度、全てにおいてスピットファイアに勝り、
特に速度と上昇性能は連合国の戦闘機で勝てるものなし。

当時においてすでに、パイロット脱出の際にキャノピーを火薬で爆発させ
脱落させるという仕組みを搭載していたと言いますから凄い。

クルト・タンクがもし「トップガン」を観ていたら、グースの死に方に
激しくツッコミを入れていたことだろうと思われます。

「1940年代ですでに我がドイツ軍ではこんな事故は起こり得なかった!」

ってね。

さて、盗んででもフォッケウルフFw190が欲しい!と思いつめた英空軍に対し、
日本では、同盟国のよしみで普通にこの機体を輸入して、
あの黒江保彦少佐がテスト飛行を行なっています。

ただし、旋回性能はあまり良くなかったため、「飛燕」「疾風」と
旋回戦を行なったところ、その点だけでは「勝負にならなかった」とか。

現地の説明によると、Fw 190は連合国の日中爆撃に対する防御で
最もよく知られている、とあります。

B-17やB-24を迎え撃つために設立されたのが、Fw190の

突撃飛行隊(Sturmgruppen・シュトルムグルッペン)

でした。
彼らは可能な限り敵編隊に肉薄し、必要とあらば体当たり攻撃も辞さずに
敵重爆撃機を撃墜することを宣誓させられていましたが、強制ではなく、
多分に士気高揚のための儀式的な面もあったようです。

体当たりも、日本のような自死を伴うものではなく、
大きな爆撃機の主翼に軟着陸して翼を切断したり、尾翼にプロペラやエンジンを
衝突させるというもので、丈夫なFw190でこれを行なった場合、
搭乗員はパラシュートで脱出することは十分可能でした。

技量的に優れた搭乗員も多く、「大空のサムライ」ではありませんが、
一航過で12機を屠った部隊もあったと報告されています。

このFw 190 F-8はもともとFw 190 A-7戦闘機として製造されました。

ドイツの降伏後、インディアナ州フリーマンフィールドに出荷され、
その後1949年にスミソニアンに移送されました。 。
1944年にSG 2で部隊で任務を行っていたときと全く同じ仕様です。

アラド ARADO Ar 234B2 Blitz(ブリッツ・雷)

アラドなどという名前は生まれて初めて知りました。

ジェット推進戦闘機の開発は他でもありましたが、こちらは
世界初のジェット推進爆撃機です。
本当にこのころのドイツというのは技術立国だったんですね。
もちろん今でもそうですが。

搭載していたのは2基のユンカースJumo004ターボジェットエンジン。
最高速度は時速780km、そのスピードのおかげで、ブリッツは
同盟国の戦闘機の攻撃から容易に逃れることができました。

同時代のメッサーシュミットの名声のせいで目立ちませんでしたが、
ブリッツは特に偵察機として優れた働きを提供したということです。

ちょっと奇妙な写真ですが、360度パノラマで撮ったコクピットです。

1 爆撃照準器 2床の銃 3酸素システム 

4 角度コントロール 5爆弾投下ボタン 

6 自動操縦設定ノブ 7非常消火ポンプ 8爆撃スコープ

アラド・ブリッツは偵察機として大変高い能力を備えていました。
敵地上空に難なく入り込み写真偵察を行い、敵戦闘機からは悠々と逃れて生還し、
ドイツ軍に貴重な情報を幾度かもたらしたのですが、ここで皆さんに
大変残念なお知らせがあります。

ブリッツがいくら頑張って敵をやっつけることができる情報を取ってきても、
その頃のドイツには、それを活用するだけの戦力は残されていなかったのです。

こういうのをなんていうのかしら。絵に描いた餅?猫に小判?違うな。
骨折り損のくたびれもうけ?

タイトルの「残念兵器」というのは、アラド・ブリッツの名誉のためにいうと、
機体そのものが残念だったのではなく、せっかく優秀だったのに残念だったね、
という意味です。念の為。

ここにあるブリッツは、世界で現存する同型機の唯一の機体です。

ノルウェーでイギリス軍が鹵獲したもので、戦後はアメリカに運ばれ、
オハイオのライトフィールドで試験飛行を行っています。

機体の修復はスミソニアンに到着した1984年に始まり、1989年2月に完了。

スミソニアンへの航空機の移送の前にドイツ軍仕様の塗装は全て取り除かれたので、
修復の専門家は8./KG 76の典型的な航空機のマーキングを再現しました。

KG76とはブリッツが所属していた最初の爆撃機ユニットです。 
1993年にダウンタウンのスミソニアン博物館で、

「Wonder Weapon?The Arado Ar 234」

という展示が行われた時にはそちらにありましたが、 現在は、
ウドバーヘイジーセンターで展示されています。

 

 

続く。

 

 


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