ザルツブルグ空港近くにある、レッドブルオーナーの航空機、レースカー、
バイクなどを展示するハンガー7で見たものをご紹介しています。
水上機仕様のセスナの上部を見ていただくと、面白いイラストがあります。
ここはアートの発表の場としても注目されているのです。
ビーチT3「メンター」
その名前とトレーニングのTからも、練習機であることがわかります。
レッドブルの「フリート」(航空隊)、「フライング・ブルズ」に加わった
最新の航空機が、この「メンター」です。
航空自衛隊の戦技研究班「ブルー・インパルス」の使用機体が、
T-4という練習機であることからもわかるように、一般的に練習機は
大変操縦性が良く、特にこのメンターは練習機のヒット作品で
二十カ国以上の国の空軍で使用されてきたというレジェンドですから、
フライング・ブルズでもパイロットたちはメンターを使って曲技を行います。
アメリカ空軍がメンターの運用を停止し、フライング・ブルズが取得したとき、
ここで要求される高い操作性を満たすため、エンジンとプロペラを交換し、
さらに細心の注意を払って修復が行われています。
練習機だった時代にはおそらくなかったであろうセクシーなノーズペイント。
アメリカ各地の航空博物館であらゆるノーズペイントを見てきたわたしに言わせると、
このレベルのペイントは現場ではありえないので、おそらく、レッドブルが獲得してから
ザルツブルグのアーティストによってアメリカ風に描かれたものだと思われます。
どの機体もペイントは基本元の所属に敬意を払い、変更は行なっていません。
HPに解説がなかったので検索してみると、時計会社のハミルトンと
レッドブルの航空機がカンヌのエアレースに出場し、
「次は日本の千葉県で会いましょう!」
と投稿しているインスタが見つかりました。
さらに調べてみると、2003年に始まり、以後毎年行われてきた
は、その他のレッドブルの催しほど注目を集めることができなかった、
という理由で、千葉大会を最後にもう行われないことがわかりました。
ちなみに、開催日は9月7、8日。
会場は幕張で、砂浜での立ち見席なら8,000円、リクライニングチェア付きなら
二日通しで三万円というお値段でチケットが絶賛発売中でございます。
フェアチャイルドPT-19
米陸軍航空隊の主要練習機として開発されました。
1939年の提案入札で17社の競合他社に勝ったフェアチャイルドの練習機は
当時主に木材と布地から構成されていました。
木製の翼が鋼管のフレームで構築された胴体に取り付けられており、
着陸が容易になる工夫がなされていて、訓練パイロットにとって
キャリアの習得がし易く、操縦者から高い評価を受けています。
PT-19は、1943年にデビューし、6.141ドルで米軍に売却されました。
1952年、軍から買い取った個人がスポーツ用に所有していましたが、
その後イギリスに渡り、 2007年、フライングブルズが買い取りました。
この写真を撮ったとき、誰かがコクピットに座っていましたが、この人が
関係者なのか、特別に座らせてもらった見学客なのかはわかりません。
とにかくこれを見てもお分かりのように、キャノピーがないため、
現在でもPT-19は「コンバーチブル」として空を飛んでいます。
こんな古い飛行機でも飛ばしてしまうあたりがものすごい執念ですが、
この時代の航空機のスペアパーツは現存していないので、
保存し続けるのには並大抵でない苦労があります。
AS 350 B3 + "ÉCUREUIL"(エキュルイユ)
エキュルイユというのは英語でスクウィレル、リスのことです。
余談ですが、今ピッツバーグで住んでいる街はスクウィレル・ヒルといって、
日本語風にいうと「リスヶ丘」ということになろうかと思います。
街の入り口の看板にはリスの絵が描いてあって大変和みます。
それはともかく、これはエアバスヘリコプターという種類のもので、
期待に描かれた等高線のような模様はハンガー7を取り巻く
オーストリアのシュタイネスメーア山脈に似ているのだそうです。
レッドブルは自分たちのテレビ局を所有していますが、このヘリは
そのカメラクルーが撮影飛行を行うのにこれまで使われてきました。
ユーロコプターEC-135
このヘリのフライングブルでの役目はレースの中継カメラを載せることです。
カメラはヘリコプターの機首にあり、低空で、カーチェイスを撮影します。
2006年のワールドカップで、王者フランツ・ベッケンバウアーが1つのステージから
別のステージへ移動する姿を捉えたのはこのユーロコプターでした。
ユーロコプターEC135は、最先端の多目的機です。
2つの異なるエンジンを搭載しており、そのうち1つは、カナダの製造業者である
プラット&ホイットニーが製造したターボエンジンです。
EC135のようなテールローターをシュラウド式と言いますが、この
シュラウドの1つの利点は、事故のリスクが低いことです。
最先端の航空電子機器も最先端のものを搭載し、さらに、すべてのフライト、
エンジン、ナビゲーション、およびラジオの情報が最新の多目的画面に表示されます。
ユーロコプターの1,000以上のモデルがEADS(欧州防衛宇宙会社)を始め。
58か国に出荷されました。
ADAC Air Rescue、ドイツ国境警察、ドイツ軍、
オーストリアのÖAMTCAir Rescue、フランスのSAMU Air Rescue、
および米国の多くの企業で使用されています。
常に改良され、新しい分野で新しい目的に使用される最先端のヘリだといえましょう。
ブリストル BRISTOL 171 SYCAMORE(シカモア)
シカモアの名前は、かえでの一種に由来しています。
なぜでしょうか?
このヘリコプターがゆっくりと回転しながら舞い降りる様子が
落ちるセイヨウカジカエデの種子の動きに似ていたからです。
第二次世界大戦の終わりごろ、イギリスのブリストル社は
革新的なタイプのヘリコプターの開発を始めました。
Mk 1プロトタイプは1947年に初飛行で離陸しました。
これはイギリスにとって最初のヘリコプターとなりました。
メインローターは、ブレードを片側、つまりリアブームに向かって
折りたたむことができるように設計されていますが、これは、
海軍艦艇に搭載するにおいて貴重なスペースを節約するための工夫です。
この機体は1957年に建造され、1969年までドイツ空軍が運用していました。
しかし、フライング・ブルズの前のオーナーとなったワイン畑の所有者が
かつてロイヤルエアフォースのパイロットだったことで、機体には
いまだに敬意を評してRAFのエンブレムが描かれています。
ワイン畑のオーナーの切なる願いは、シカモアがその滞空性を維持することでした。
彼は、フライングブルズにシカモアを移譲する際、自分が集めた
膨大なシカモアのスペアパーツを、機体と一緒に渡したと言います。
ブルの専属パイロット、ブラッキー・ブラックは、この尊敬すべき機体に
我が身が乗ることに有頂天になっていましたが、それにしても
木製のローターを持つヘリの信頼性というのはどんなものだったのでしょうか。
グラーツ工大で行われた興味深い飛行試験の結果は驚くべきものでした。
残されている部分全てが「新品同様!」だったのです。
パイロットはこのヘリに乗る気満々だそうですが、何かと難しいヘリなので、
今の所、計画があるという時点に止まっているのだそうです。
ベル コブラ BELL COBRA TAH-1F
日本人のわたしには馴染み深いヘリです。
サクッと分けると、ヘリコプターには商用モデルと軍用がありますが、
AH-1コブラは史上初の
Full Bladed (生粋の・血気盛んな)
戦闘ヘリコプターとして設計されました。
「コブラ」という愛称は、その攻撃的な外観にぴったりです。
この名前はパイロットやエンジニアの間で人気で、すぐに公式名称になりました。
ラテン語の「Nomen est Omen」=「名前は象徴」は、
まさにコブラのためにあるようなことわざですね。
コブラのタンデムコクピットもまた、完全に前例のない機能です。
パイロットと銃撃手が互いの仕事を引き継ぐことができるように、
パイロットの座席はわずかに高くなっています。
現在、後発のヘリの多くは、コブラの特徴であるエッジの効いた
薄いデザインの影響を受けています。
しかしデビュー当初、誰もコブラがどれほど成功するかを予測できませんでした。
1962年、ベル社は米軍にモックアップモデルを導入しましたが、
当初それは関係者を納得させることはできませんでした。
しかしベル社は自作のヘリを完成させるべく粛々と開発を続け、
3年後の1965年、初飛行の準備にこぎつけたのです。
しかし、コブラの成功はその技術的な卓越性のみならず、偶然にも、
ロッキードによって開始されたAH-56(シャイアン)と競合することになり、
その結果シャイアンの問題点が明らかになることでこれに打ち勝ち、
採用されるという「運」にも恵まれていたようです。
コブラの評価は、ベトナム戦争でトラックの空中護衛として使用された
1960年代後半と70年代前半にピークに達しました。
かさばるだけでなく火力が弱かった、ロシアのMi-28NおよびKa-52とは
対照的に、コブラはより高速で機敏です。
フライングブルズ所有のコブラはもちろん非武装化されており、
GEのタービンエンジンにより通常300km / h、最高350km / h以上の速度がでます。
ただし、Power is moneyという英語のことわざ通りで、コブラのエンジンは
1時間あたり400リットルの燃料を飲み込む「金食い虫」。
本物の女王様は決して慎ましくなどあらせられないのです。
このレーシングカー、なんだか変わった模様だなあと思ったら・・・。
写真がいっぱい貼り付けてありました。
サイドカー付きのバイクというとついナチスを思い出しますが、これは違う?
セバスチャン・ベッテルがこれでグランプリに優勝したというアストンマーチン。
さりげにホンダのマークも見えますね。
巨大なプレデターをかたどったオブジェ。
向こうに見えているのはイカロスというレストランです。
いろんなメカのパーツで作った「レッドブル」。
売店もあって、子供用のレーシングスーツやパーカーが売っていました。
ドーム内があまりに暑く、わたしも写真を撮るのが精一杯、
TOなどはカフェから売店に行っただけで全く見学せず、
ハンガー7を後にしました。
ところが、車に乗って柵越しにわたしは信じられないものを見たのです。
「これ・・コルセアじゃない!」
二人はぼーっとしていましたが、わたしは大興奮。
なんと、ハンガー7ではコルセアを所有し、今でもこれを飛行させているのです。
CHANCE VOUGHT F4U-4 "CORSAIR"
なんどもここで書いていますが、コルセアはチャンス・ヴォート社の傑作です。
コレクターアイテムとしては非常に珍しく、当然高価です。
しかも、この機体の完全性を再現するには、メカニックの精度が重要で、
材料には惜しげも無く投資するしかありません。
優れた軍用機の歴史はコルセア無くしては語れません。
現在、チャンス・ヴォート社によって製造された4機だけが
ヨーロッパの空を舞い、世界中合わせて15機現存しています。
コルセアは最小限の空気抵抗で最高速度に達するように開発されました。
すべてのスタッドは面一に取り付けられ、トランジションは空力的に完璧であり、
すべての脚とハンドルはボディのアルミニウムスキンに溶け込みます。
プロトタイプは1938年に開発されました。
このモデルはPratt&Whitneyの18気筒ダブルラジアルエンジンから
約2000 HPを供給することを目的としていました。
プロペラの直径を4mと大きくしたため、翼をガルウィングにして、
比較的短い軽量の脚を取り付けることができる設計です。
最初のモデルは670 km / hに達することができましたが、
1952年までに最高速度は700 km / hに達しました。
コルセアの信じられないほどのパフォーマンスは、プロペラと
エンジンの内部冷却を担当する水噴射装置の改善から生まれました。
コルセアは、空母の限られたスペース用に設計されました。
しかし高トルクとプロペラの大きさから、空母への着陸と離陸は非常に困難で、
パイロットはコルセアの離陸速度を慎重に決定する必要がありました。
速度が速すぎると、プロペラに機体が振り回され、遅いと離陸できません。
米海兵隊と米海軍は、主に第二次世界対戦中太平洋でF4Uを使用しましたが、
爆撃のためにはコンパートメントを新たに追加しました。
爆弾を投下した後も、戦闘機そのものが重かったわけですが、
特に速度があったため、コルセアを負かすことは大変困難と言われました。
これが、コルセアが機動性のある日本の三菱戦闘機「零式」に挑むことができた理由です。
そして50年代初頭の朝鮮戦争でもこのモデルはまだ使用されていました。
今日、シングルシートのこの歴史的傑作機は、フライングブルズのチームによって
ヨーロッパ中のさまざまな航空ショーで曲技飛行を行なっています。
さて、超近代的なハンガー7を後にし、ホテルのある旧市街に戻っていくと、
岩を掘られたトンネルが現れます。
このトンネル、穴を掘るついでに石門風の彫刻もしているという。
手前のオベリスクも岩から切り出したものでしょうか。
「なんかこれすごくない?」
「彫刻も岩から掘り出したんだろうか?」
これは帰りに撮ったもので、つまり旧市街に入って行くときに
通り抜ける「ジークムントスター」というトンネルです。
18世紀に建てられ、オーストリアに現存する最も古いトンネルだそうです。
昔は路面電車が中を通過していたそうですが、今もトロリーバスが通ります。
交通の便を良くするため、ザルツブルグでは崖に穴を開けて
通路を作る計画が持ち上がり、1765年工事が始まりました。
トンネルの高さは135m、幅5.5m、高さ7m。
彫刻を施したのはヴォルフガングとヨハン・アゲナウアー。
聖ジギスムント像の下部にアゲナウアーの名前が刻まれていて、
この一連の謎の暗号を解読すると、
「Johann(Baptist)Hagenauerが(石から) 作り出し 、完成した」
となるそうです。
このトンネルは、わたしにとって、中世の世界と、最新の設備と考えうる限りの
近代的なセンスをほこるハンガー7をつなぐタイムトンネルのようでした。