空母「ミッドウェイ」博物館、巨大な右舷側のアキュムレーターを見ながら
艦首に向かって進んでいくとこんなコーナーに出ました。
アキュムレーターほどではありませんが、ここにも大きなタンクがあります。
「リクィッド・ナイトロジェン」とあり、ニトログリセリンのタンクです。
ニトロのタンクはO2N2タンクを構成する一部で、酸素とニトロは
空母艦載機や地上サービスなどに使用されるためにあります。
ニトロは空母艦載機のタイヤを膨らませるためや、例えば非常時に
キャノピーを吹き飛ばす時などに使用されます。
液体酸素は何に使うかというと、高高度飛行中のコクピットへの酸素供給です。
写真のグリーンシャツは別名「トラブルシューター」とも呼ばれており、
艦載機部隊の整備員です。
フライトオペレーションになるとそれぞれの部隊から一人ずつ
フライトデッキに待機していて、機体にトラブルが発生するとすぐに対応するのです。
足元の緑色のタンクは液体酸素の貯蔵ボトルで、航空機に注入され、
代わりに溜まった呼気ガス(汚れた空気)と交換するのです。
さて、今日は「ミッドウェイ」がその艦歴上見舞われた最悪の衝突事故で、
この液体酸素のタンクが破壊され、乗員の命が犠牲になったという話をします。
前にも少しだけ触れたことがありますが、「ミッドウェイ」は
軍艦の割には比較的平穏だったその人生で、一度だけ衝突事故を起こしています。
1980年7月29日、フィリピンのパラワン島とボルネオ北部の海岸の間を
「ミッドウェイ」は、いつも通りの訓練を終えて航行していました。
そのとき、EMCONアルファと呼ばれるレーダーも無線も切った状態の
商船が「ミッドウェイ」に近づいてきていました。
前方の船はパナマ船籍の貨物線「カクタス」で、そのデッキには束ねた木材が
搭載されていました。
そして、ミッドウェイのEMCONが一連の誤った解釈をしたため、
そのため2隻の船はどちらもが回避行動を取らなければならないほど接近したのです。
2000少し過ぎ、「カクタス」の船首が「ミッドウェイ」のフライトデッキの
大きくせり出したところに滑り込んでいきました。
この際「カクタス」の上部構造物の高いところは完璧に破壊され、
フライトデッキにあったファントムII3機と、プラットホームにあった
フレネルレンズが破壊されて落下しました。
最悪だったのは、LOXプラント(液体酸素プラント)でした。
それは「ミッドウェイ」のサイドから張り出しているようにあったため、
衝撃によって完璧に破壊され重いプラントの基礎部分が裂けて、
液体酸素とニトロが噴き出してしまったのです。
運悪くちょうどここにいた機関兵のダニエル・マーシーとクリスチャン・ベルガンは、
この時に液体酸素を被って死亡、三名が負傷しました。
二隻の衝突した船を引き剥がすとき、「ミッドウェイ」の乗員は、
漏れたジェット燃料を確保し、液体ガスを回収するために迅速に働きました。
もしこの二つが混じることがあったら、大爆発によって何百人もの命が失われ、
そしておそらくは「ミッドウェイ」を破壊したでしょう。
引き剥がした後の「カクタス」。
「ミッドウェイ」は修復のためにスービック湾に着岸し、
そしてその修理は何日かで完成したということです。
この事故の時、17歳で「ミッドウェイ」乗員だった人がこんな回想を残しています。
私が鮮やかに覚えているのは、明らかにミッドウェイで経験した最も暗い日だった。
1980年7月29日。なんてひどい夜であったことか。
その日の早い頃、私たちはスービック湾を出て、ゴンゾー・ステーションを航行していた。
(ゴンゾーはセサミストリートのキャラ。ミッドウェイの俗語で北アラビア海のこと)
夕方の2200年頃までに、私たちはマラッカ海峡を通過していた。
聞いたところ、船のレーダーもまたオフだったということだった。
私はVA-115下の停泊区画の乗組員のラウンジにいたことを覚えている。
故郷への手紙を書いているところだった。
その時艦体の真下でまるで地震が発生し、艦体のあちこちが震えているような感覚があった。
突然、艦内に衝突警報が激しく響き渡り、それに続いて
一般警報とそれに続く指示が続いたが、それはいつもとは全く違っていた。
"GENERAL QUARTERS! GENERAL QUARTERS!
ALL HANDS MAN YOUR BATTLE STATIONS!
- THIS IS NO DRILL!"
皆が固定するものをボルトで固定し、自分の持ち場に駆けていくのが見えた。
ハンガーデッキに到着したとき、金属同士がこすり合わされるような音が聞こえた。
私は音がどこから来ているのかを注意深く探ってみた。
それは航空機エレベーター3の近くの左舷側の後部エリアからだった。
その時のことだ。
私は実際にミッドウェイの下を通り過ぎる別の船を見た。
当時、私のGQマスターステーションは、船の前部のフライトデッキの真下の
VA-115パイロットの士官室と同じところにあった。
私と他の何人かがそこに着くとすぐに、士官が私達に
「ハンガーデッキに戻って皆と一緒にいるように」
といい、また、総員退艦命令の可能性もまだあると告げた。
ハンガーデッキレベルに到着したとき、私は恐ろしい光景に凍りついた。
死んだ二人の男のうちの一人の体が灰色の海軍毛布で覆われていたのだった。
私を怖がらせ、そして私の脳にその瞬間から今日まで植えつけられた恐怖の理由は、
そのストレッチャーに乗せられた毛布の形だった。
毛布に包まれているのが通常の人間なら、デッキの上のそれは
頭から脚に向かって傾斜を描いているはずだが、それはただ真っ直ぐだった。
今に至るまでなぜそんなことになっていたのか確かめる術はないが、少なくとも
このかわいそうな男の頭が通常の形をしていなかったから、としか思えないのだ。
遺体を見て凍り付いていた私の後ろにいた仲間が、
「レオナルド、見るな!止まらずに歩け!」
と叫んでいたことも、今でもはっきり覚えている。
その後ハンガーデッキに着くと、そこにいた全てのものがカポックを着ていた。
開いている航空機のエレベーターのドアから、いつ来たのか護衛艦が四方を囲んでいて、
ミッドウェイは觀照燈で明るく照らされているのが見えた。
そこでわたしたちは、被害者がもう一人いたが、死んだということを聞かされた。
ミッドウェイが受けた被害はあまりに大きなものだったのだ。
事故は、ミッドウェイと同じ方向に向かっていたパナマの貨物船、
「カクタス」に艦体の左舷側後方エリアに衝突され田というものであったが、
そのとき、その衝撃で航空機エレベーター3機が軌道から外れ、
文字通りそのケーブルだけででぶら下がっているのを私は目撃した。
「カクタス」のの船体はミッドウェイによって完全にスライスされており、
ウォーターラインの下の左舷側に50フィートの亀裂が生じていた。
貨物船の船首が激突した左舷のキャットウォーク、LSOプラットフォーム、
そして左舷のフレネルレンズも損傷していた。
フライトデッキのコルセアとファントム(VF-161のほぼ全ての航空機)
のいくつかは完璧に破壊され、何機かは単に姿をーフライトデッキから海にー消した。
しかし、これだけならまだミッドウェイの被害はましだっただろう。
最悪の被害は、ほぼ中央部、左舷側のハンガーデッキで発生した。
ミッドウェイの 5000ガロンの液体酸素(LOX)プラントが破裂し、
内容物が外に漏れてしまったのだ。
さらに、左舷側を走っていたディーゼル燃料ラインも切断され、
そこから燃料も漏れていた。
LOXは、熱、他の化学薬品、またはディーゼル燃料など、
その他の石油剤と接触すると、非常に揮発性が高くかつ可燃性の薬剤であり、
この時にもこれらは大惨事を引き起こしていた。
ダメージコントロールチームは、すぐさま動いた。
2つの装備の間に、通常は構造火災に使用される軽量フォームのバリアを張り
作業域を確保して両者が混じらないようにした。
考えられる最悪のシナリオは、5000ガロン液体酸素が爆発を引き起こし、
水密区画をも破壊して艦体に回復不能なダメージを与えることだった。
もしそうなれば、文字通りミッドウェイは真っ二つに破壊され、
それは「ミッドウェイ」の死を意味しただろう。
私は今でもあの時のミッドウェイのダメージコントロールチームに感謝している。
彼らがその夜、彼女達に乗っている私達全員を救い、伝説を築いたのだ。
その後、艦長が
「現在ミッドウェイは周りの駆逐艦によって牽引されている。
我々はこの後スービック湾に戻って、少なくとも1ヵ月の間海軍艦船修理施設に入る」
と発表を行い、歓声が艦内のいたるところで沸き起こった。
艦長はまた、悲劇的な死を遂げた二人の乗員に対しお悔やみを述べた。
乗員たちの噂によると、そのうち一人はやはり頭部を失っていたそうだ。
私は自分が見た毛布の形を思い出し、やはりそうだったかと思った。
しかし、ああ、もう一人の運命については、噂が真実でないことを願いたい。
プラントが破裂したとき、彼はたまたま液体酸素タンクのすぐ近くにいたため、
彼は液体酸素をもろに被ってしまったと言われていた。
液体酸素は温度がマイナス300度。
それを被った彼の体がどうなったか、考えるのも恐ろしいが、
本当ならば彼の体は瞬間で結晶化してしまったと思われる。
ミッドウェイが着岸したあと、乗組員の多くは損害を見るために上に上った。
まるで戦争映画の直後のシーンのような惨状だった。
左舷のキャットウォークはもうそこには存在しなかった。
アングルデッキの左舷から伸びる着陸灯は、LSOステーションと共に消え、
三番エレベーターはハンガーデッキレベルから下に落ち、その巨大な、
油っぽい吊り上げケーブルによってのみ、かろうじて艦体にぶら下がっていた。
フライトデッキと格納庫デッキで撮影することは厳しく禁じられた。
実際、被害を撮影しようとした人は皆カメラを没収というペナルティを課せられた。
私たちがスービック湾に戻るまでの数日間、記憶がないわけではないが、
これが実際にミッドウェイに起こったと信じるのは困難なことだった。
乗組員全員とミッドウェイ自身がショックを受けているかのようだった。
そんな彼らが、誰いうともなく、この悲劇的事件の数週間前、
乗組員の間でしきりにささやかれていた予言の的中を再び口にしだした。
それは全米でも有名な霊能者、ジーン・ディクソンの予言で、
「1980年代にアメリカ海軍の艦番号41の軍艦が
海上で悲劇的な事故を起こす」
というものだった。
もちろんUSS ミッドウェイのサイドナンバーは、41である。
我々の身に現実に我々に起こったこの悲劇と、ディクソン女史の予言が
偶然の一言済ませることは誰にもできなかった。
ただし、彼女の予言には最後に続きがあって、それは
「この時事故によって失われた軍艦は同じ名前でもう一度建造される」
というものだったが、こちらははずれ、これからも実現しないだろう。
私は心から神に感謝せずにはいられない。
数日後、私たちは海軍の修理施設で入港期間に修理を完全に済ませるため
にスービック湾に戻った。
約5週間後、船は完全に修理され、すべての破壊された航空機は交換された。
そしてミッドウェイはゴンゾー・ステーションでの長い3ヶ月の滞在を終え、
WESTPACに向かうための航海に出発したのだった。
続く。