ウィーン軍事史博物館の展示、ハプスブルグ家の次のホールは
「NAPOLEONIC WAR」
と名付けられています。
この「ナポレオニック」という英語はもちろん「ナポレオンの」
という意味であり、ナポレオン戦争を意味するのですが、同時に
「ナポレオン1世のような野心満々の」
という形容詞にもなっています。
というわけでこのホールに現れた堂々の巨大な像、わたしはてっきり
帽子の形から、ナポレオンだと思い込んで写真を撮りました。
しかし、帰ってきてからあらためて写真を見て、
これナポレオンに全く似てなくね?と思ったわけです。
そこで今更のようにハッと気がついたのですが、ここはオーストリア。
ナポレオンはオーストリアにとって英雄ではなく「敵」でした><
「ナポレオン戦争」(1796-1815)とは、ナポレオンによって起こされ、
展開された一連の戦争をいいます。
革命後のフランスは混乱に乗じてイギリスとオーストリアが干渉してきたので、
総裁政府はこれを迎え討ち各地で戦争が始まりました。
この段階ではフランスの戦争は防衛戦争であったことは間違いありません。
ナポレオンはこの戦争に最初から加わり、指揮官として頭角を現していきます。
この戦争の一環、イタリア遠征で真っ先に彼が叩いたのがオーストリアでした。
その後、ナポレオンがフランスで最高権力者となり、戦争による領土拡大に
野心を燃やすことで、次第に侵略戦争の様相を呈してきたのは歴史の語る通り。
つまりナポレオン1世はフランスにとっては英雄ですが、オーストリアにとっては
侵略者であり憎き敵側だったわけです。
当然こんなどでかいナポレオン像を大事に飾っているわけありませんよね。
それではこの像は誰のものなのでしょうか。
そこで同博物館所蔵のこの絵をご覧ください。
描かれた人物、ブロンズ像にそっくりじゃありませんか?
彼の名は、ナポレオン戦争時に活躍したオーストリアの軍人であり皇族、
カール・フォン・エステンライヒ= テシェン(1771-1847)
カール大公
として有名な軍人です。
(説明はありませんでしたが、状況証拠からこの人だということにします)
カール大公は早いうちから軍事に興味を示し、軍人の道を選びました。
そして20歳でフランスとの戦いに従軍し際立った働きを見せました。
25歳で神聖ローマ帝国陸軍元帥となり、ライン方面軍司令官として
フランス軍相手にドイツでは連戦連勝の戦果をあげます。
一方、イタリアではナポレオンのフランス軍が連戦連勝でした。
これを食い止めるためにカール大公の部隊が派遣されると、ナポレオンは
こう述べたといわれています。
「これまで私は指揮官のいない軍隊と戦ってきたが、
これからは軍隊のいない指揮官と戦わねばならない」
そう、ナポレオンにもこれだけ実力を認められていたカール大公こそは、
ナポレオンの同世代における最大の敵であり、そしてライバルでもあったんですね。
1800年から9年間、二人は敵国同士で対峙し、お互いの国を相手に
勝ったり負けたりしたわけですが、ガチンコの直接対決は1809年。
結果は初戦こそカール大帝の勝利でしたが、最終的にはナポレオン軍が
ワグラムの戦いで勝利をおさめ、シェーンブルンの和約によって終戦に至ります。
このナポレオン戦争の期間、カール大公はその働きに付随して
神聖ローマ帝国宮廷顧問会議の軍事首席拝命
帝国会議が「ドイツの救世主」の称号を授けようとしたが辞退
1805年
全オーストリア軍総帥ならびに陸軍大臣を拝命
1808年
スペインと西インドの王座に招請されるが、辞退
軍人として最高の栄誉とされる地位に上り詰めましたが、
赤字で示したように、単に肩書きが立派になるとか、王位に就くとか、
そういったことは軍人としての美学が許さなかったのか、
きっぱり断っているあたりが実に男前です。
しかしカール大公は、宿敵ナポレオンとの戦いで敗北したのみならず
撤退する際負傷したことを武人として自分で許せなかったのでしょう。
軍隊の指揮とすべての役職を辞してウィーンに帰還してしまいました。
確かに歴史的知名度はナポレオンに霞んでしまった感はあるものの、
指揮官としては多少運に恵まれなかったとはいえ超優秀で、
軍事思想家としてもその著書は高く評価されています。
ちなみに、軍事を語る人が必ず一度は口にするあのクラウゼヴィッツ、
(中にはクラウゼヴィッツ言いたいだけ違うんかいという使い方をする例も)
彼と同時代並び称される軍事思想家でもありました。
その軍事思想は、
「古い戦略思想と新しい戦略思想の架け橋的な存在」wiki
アメリカのアルフレッド・マハンの海軍戦略思想は、むしろ
クラウゼヴィッツよりカール大公の影響を受けているといわれます。
ナポレオンから野心と功名心を取ったらカール大帝になる、というのは
わたしの個人的な感想ですが、そう外れていないと思います。
ところでこの騎馬姿のカール大公の絵の構図、どこかで見覚えがありませんか?
言わずと知れた、このナポレオンの肖像に似ていません?
もちろんこちらを描いたのはあのダヴィッドですし、ドラマチックさで
圧倒的に(本人と同じく)こちらの方が有名なのですが、実はこの構図、
カール大公の騎馬像に影響を受けたといわれているそうです。
「カール大公のアレをもう少しカッコよくアレンジしてくれないか」
とナポレオンがダヴィッドに頼んだかどうかは定かではありません。
このホールにあった特大の肖像画、もちろんこれもナポレオンではなく、
カール大公とその家族の肖像でした。(後で知りました)
所得wikiにもこれが「カール大公とその家族」としか書かれていないのですが、
注意深く見てみると、この絵には彼の妻はいません。
最初、カール大公が肩に手をかけている女性を妻だと思い込んで、
「おお、さすがは高名な将軍、若い美人の奥さんをもらったんだな」
しかしそれにしても子供が大きい割に奥さんが若すぎます。
そこでさらに探してみると、奥さんらしいのが後ろの彫像となって
ちゃんと家族の肖像に参加しているではありませんか。
そこで調べてみたところ、妻ヘンリエッテは、末の男の子(左端)を生んで
2年後に亡くなっていたことがわかりました。
この肖像画はもしかしたら、ヘンリエッテが亡くなったあと、彼女を偲ぶ
彫像が完成したので、その記念に描かせたものなのではないでしょうか。
そう思ってあらためてみると、カール大帝の表情には心なしか憂いが見られ、
周りの子供たちは失意の父をいたわるように彼を見つめています。(末っ子除く)
というわけで、ここからはカール大帝の子供たちについてお話ししていきましょう。
美形の長女、
マリア・テレジア(1816年 - 1867年) - シチリア王フェルディナンド2世妃
は、母が亡くなってから、5人の兄弟の母親がわりになって面倒を見ました。
黒コートの少年、
アルブレヒト(1817年 - 1895年) - テシェン(チェシン)公
のちにオーストリアおよびドイツ帝国の陸軍元帥になりました。
画面右端でひざまづいている、
カール・フェルディナント(1818年 - 1874年)
左は兄アルブレヒト
も、兄と同じく軍人に。
ちなみに息子のフリードリヒは第一次世界大戦時の陸軍最高司令官です。
そして、皆様、お待たせいたしました。
本日冒頭画像のイケメンはだれ?とお思いになった方、
この少年、カール大公の三男である
フリードリヒ・フェルディナンド・レオポルド(1821年 - 1847年)
の海軍士官姿なのです。
彼の父カール大公は、オーストリア陸軍の最高指揮官の大権をもってして、
帝国軍の再組織と予備軍ならびに国民軍の強化に取り組みました。
つまり、オーストリア帝国陸軍の基礎を作ったといってもいいかもしれません。
そしてこの若者は、オーストリア海軍軍人になりました。
二人の兄が陸軍に行ったので、ちょっと違う道を選んでみたのかもしれません。
16歳で海軍に入り、すぐに指揮官となって、19歳の時には
ムハンマド・アリ・パシャの「エジプト-トルコ戦争」における
イギリス軍共同作戦に参加し、その指揮ぶりは際立っており、
その功績に対しマリアテレジア勲章を授けられました。
この画像の制服にはたくさん勲章が下がっていますが、
マリアテレジア勲章は右上から二番目に見えます。
月並みですが、蛙の子は蛙ということなんでしょうか。
男前なのでついサービスで次から次へと画像を上げてしまいたくなります(笑)
この、短いメスジャケットに白いズボン、というのは
のちの世界の海軍の制服にも見られるパターンですね。
この凛々しい海軍士官姿を、父カール大公は目を細めて見たのではないでしょうか。
1844年には、フリードリヒ、
23歳で海軍最高司令官・海軍中将に
昇進します。
カール大公の息子だからということももちろんあったでしょうが、
本人が優れていないとこの年齢でこの地位はまずありえないでしょう。
オーストリアには18世紀の終わりまで、正式の海軍はなかったのですが、
彼は最高司令官になるや数多くの改革と、当時のヴェネツィア志向だった
オーストリア海軍を変革し、その基礎を築きました。
これなど、父がかつて陸軍で行ったことそのままです。
1845年、24歳の彼はマルタ主権勲章を授けられました。
しかしながら、ここまで彗星のように人生を駆け抜けた彼は、
わずか26歳で結婚もしないまま病死してしまう運命にありました。
若くしてこれだけの才覚があり、地位もあり生まれも良く、
ついでに美青年のフリードリッヒ、もし長生きしていたら、
父のような軍事指導者になったことは間違いなく、
その後のオーストリア海軍の形は変わっていたかもしれません。
死因は黄疸だったということですが、黄疸は徴候の一つなので、
すい臓がんとか劇症肝炎とかいう病気だったのでしょうか。
何れにしても惜しい若者を失くしたものです。
さて、絵に戻りましょう。
この肖像画には描かれていない子供もいます。
ルドルフ
1822年に生まれ、夭折しました。
マリア・カロリーネ(1825年 - 1915年)
彼女はわずか4歳で母を亡くしました。
彼女はのちにいとこのレイナー大公と結婚しますが、二人の間には
子供が生まれなかったこともあって慈善事業など社会活動に一生を費やし、
国民からは夫妻ともに大変人気があったということです。
レイナー大公夫妻
最後にこの末っ子君です。
ヴィルヘルム・フランツ・カール(1827年 - 1894年)
彼は父と長兄二人に同じく、陸軍軍人になりました。
そして、このウィーン軍事史博物館の熱心な後援者でもありました。
当博物館は1856年からアーセナルの建物として存在し、
1869年に初めて一般公開されましたが、1880年代には、
皇室コレクションの再分類に博物館は混乱します。
その後博物館の新しい内容を担当する委員会が構成され、
彼はその副議長として尽力しました。
ヴィルヘルムは皇帝を始め、彼の家族、貴族、ブルジョアジー、
そして戦争省の支援をバックに博物館のためのコレクションを行い、
その熱心さのおかげで、蒐集物がたくさん集められました。
1891年、新しく陸軍博物館が開設されましたが、これは、
彼の仕事なしでは不可能だったと言われています。
つまり、当博物館の生みの親といっても過言ではない人物だったのです。
つくづくカール大帝の一族超有能。
続く。